2024年11月20日水曜日

マイシューズ

 


今でこそ、冬用のブーツだけで5足以上、普通の靴で10足以上あり、家の大きな靴箱もいっぱいになっている。

 

子供の頃を考えると、高校卒業する1970年代後半まで、常に靴は一足であった。破れて履けなくなると、母親にそれを示して、新しい靴を買ってもらった。その際もすぐに足が大きくなるので、大きめの靴を買うように言われた。私の場合は、三和商店街の一番奥にある靴屋さんまで母親と一緒に買いに出かけた。汚れないようにビニールに包まれた靴見本から好きな靴を探し、奥からサイズに合う靴を試着した。買ってしばらくはうれして、家の中で履いて怒られた。

 

こういう状況は、中学になっても同じで、普通の紐のズック靴を履いていた。高校になると、サッカー部だったので、黒のサッカーシューズ以外にトレーニングシューズが必要でオニツカタイガーのリンバーを買ったのを思い出す。毎日に通学、運動、場合によってはクラブの練習にもこの靴を履いていたので、大体一年くらいで破れてきて、その都度、母親から小言を言われた。今は歳をとって激しい運動もできないのか、靴の寿命も伸びて二十年前の靴もまだ現役である。

 

同世代の友人に聞いても子供時代の靴は一足であったという。ただ青森県でいうと、冬用の靴として長靴があった。ゴム製の黒い長靴で、薄くて、厚い靴下を履いても冬場は寒かったという。さらに雪が長靴の中に入るのか、いつも足先が霜焼けで、家に帰り、靴を脱ぐと、痒かったという。うちの家内は家に帰ると、母親が暖かいお湯で足を洗ってくれたという。そういうことで北国では冬用の長靴とそれ以外の靴の2足が標準であった。

 

こうしたことは子供だけでなく、大人、女の人が別だが、うちの父親の場合も、下駄と革靴2足しかなかった。下駄は何種類かあって、近所に散策用と飲み屋に行く時用は別であった。滅多に靴を履くことはなかったが、会合などに出かけるときは黒の革靴を履いた。昔の人は物持ちがよく、1、2足の革靴を何度も修理して履いていた。そういうこともあり、尼崎にいたときは五人家族であったが、各自の所有する靴の数は知れているので、小さな靴箱で十分であった。今ではこの大きさの靴箱で一人分である。

 

当時、靴はそんなに高かったのか、よくわからないが、それでも子供用の普通の運動靴はせいぜい1000から2000円くらいで(もっと安かった?)、物価を考慮しても今の1万円には決していかない。むしろ靴は一足、破れたら買い替えるというルールがあったのではなかろうか。実際、運動会の徒競走用のゴム足袋は運動会のわずか1日しか持たない代物であったし、200-300円はしたように思えるが、皆買った。家内に聞いても足袋を買ったというが、うちの医院の衛生士、60歳に聞くと普通の運動靴で運動会を走ったという。おそらく昭和昭和40年代後半までのことであろう。

 

思い起こせば、昭和30年、40年代は日本もまだまだ貧しく、また戦争を体験した世代も多かったことから、何でももったいないという人が多かった。今と違って既製服が少なかったことから、自分で洋服を縫っていた人も多かった。当時の婦人雑誌には必ず、本で紹介した洋服の型紙があり、生地を買って、この型紙で服を作るとというのが普通であった。流石にスーツやブレザーなどは自分で作れないので、子供服でも近所の洋装店で誂えることが多かった。私の子供心に近所に洋装店でサイズを測って注文服を作った記憶がある。

 

こうしたこともあり、当時は服も靴も高く、少数のものを使い回して使用していた。子供であれば、尼崎であれば、年に一足、青森では冬用の長靴も合わせて2足、尼崎であればほぼ年中短パンであったような気がするし、多分数種類の上着とズボンだけであったと思う。小学校の6年生の時にLeeかリーバイスのジーパンを買ってもらったが、それこそ大きくなってサイズが合わなくなるまで、夏も冬も毎日履いていた。多分、洗濯も滅多にしなかった。個人的に一足以上の靴を持つようになったのは、大学に入り、雑誌ポパイなどを読み始め、ファッションに目覚めた頃からだ。

2024年11月17日日曜日

和日庵 鳴海要吉  (上林暁)

 




私自身、私小説というものはあまり好きでない。高校の時も、文章がうまくて学校誌にエッセイや読書感想を書いていた友人がいたが、私にはそんな才能はひとかけらもないと思っていた。大学に入ってからはかなり本を読むようにはなったが、それでも純文学の本についてはいまだに苦手であり、唯一好きな作家は宮本輝さんで、彼の小説は出版されればすぐに買って読むし、楽しみである。そうしたこともあり、本屋で買う本というと、郷土史、評伝もの、戦記、ノンフィクションなど、純文学以外のジャンルのものが主体となる。

 

ところが2、3年前に弘前の昔の繁華街、土手町の横道にあるかくみ小路に「まわりみち文庫」という今風の古書店ができてから、純文学の本、エッセイ集を買うことが多くなった。10坪もない小さな店内なので、置かれる本のジャンルも絞られ、私の好きなジャンルはあまりなく、若い方が好むような本が多い。昔は土手町に紀伊国屋書店弘前店があり、その後、中三デパートにジュンク堂ができたので、こと本に関しては全く不自由しなかったが、いずれもなくなると本格的な本屋はなくなり、好きなジャンルの本を大型店でぶらぶらして買うことができなくなった。

 

今回、紹介する「星を撒いた街」(上林暁傑作小説集、夏葉社)も、このまわりみち文庫で買った本である。この本屋がなければ一生巡り会わなかった本である。

 

まず文体が素晴らしい。綺麗な、上品なというはこうした文体なのだろう。戦前の文体のせいか、現代の我々からするとわかりにくい表現もあり、文の途中で考えてしまう。この本の中でも最も好きなのは、津軽が産んだ詩人、変人、鳴海要吉の飄々とした生き方を描く「和日庵」で、この中にも“掌を口蓋に当てながら附け足した”との文がある。“附け足した”は数秒考え、ああ“つけたした”と分かったが、はて“掌を口蓋に当てながら”とは。掌は「しょう」としか読めないが、意味は手のひら、あるいは「掌を返す」を“たなごころをかえす”というのだから“たなごごろをこうがいに”あるいは“てのひらをこうがいに”と読むのか。それでも手のひらを口蓋に当てるとはどんな格好だが、最後までわからない。美しい文で、これだけでも買った甲斐がある。

 

鳴海要吉については拙書「津軽人物グラフィティー」の中の“今東光と津軽の人たち”の中でも取り上げたが、奇人の多い津軽でも、楽しい奇人として群を抜いており、さまざまな小説家が彼を取り上げた。田山花袋は「トコヨゴヨミ」という要吉の発明した万年暦のことを、秋田有情は「緑の町」、岩間泡鳴は「1日の労働」で、今東光は「うらぶれた詩集」と「東光金蘭帖」で彼を取り上げている。とりわけおもしろいエピソードは「東光金蘭帖」にある。

 

「僕の知人鳴海うらはるという詩人は津軽の産で、短躯矮小、色が黒かったが美男に属した。しかしながら、鳴海の貧乏といえば名代のもので、田山花袋は「怖るべき貧乏」の代名詞に「恐るべきうらはる」と名付けたほどで、僕の家などに遊びに来るにも履き物を見ただけで、この恐るべき理由がわかった」、片方が草履で、片方が下駄で、よく歩けるものだと感心し、「こんなのを履いて訪問されるとどうしたって新しいのが、古くても満足な自分のを提供せざるにはいられない。田山花袋さんならずとも、僕は心ひそかに懼れをなしていたのは当然だった」としている。貧乏でも全く気にしておらず、超然としている。

 

こうしたエピソードを聞くと、同じく津軽出身の福士幸次郎や版画家の棟方志功を思い出す。また私小説の葛西善蔵や佐藤弥六―佐藤紅緑―イチローの佐藤一族にも当てはまる。それでは近年の津軽の奇人と言われて、思いつくのは、奇跡のリンゴで有名な木村秋則さんで、一度お会いしたことがあるが、不思議な魅力を持つ人物だった。弘前ロータリークラブのパーティに招待され、確か弘前市長もきていたが、作業服で出席され前歯が欠けていた。どんな話をしたか忘れたが、ボソボソ喋り、津軽弁もあってあまりわからなかった。確か映画の話をしたような記憶がある。それで思い出したのは、考現学で有名な今和次郎もいつもジャンバー姿で、宮中に招かれた際もジャンバーで行こうとした逸話がある。

 

今和次郎、木村秋則さんの動画をあげるが、津軽のある種の人物の雰囲気が二人にはある。

 

 




2024年11月13日水曜日

矯正治療中の患者の要望

 



当院ではマルチブラケット装置による治療終了後、保定に入ってから、1ヶ月後にレントゲン検査(セファロ、パントモ)を行い、その後、2ヶ月後、さらにそれから3ヶ月後に保定装置の着用は夜間だけとなり、今度は6ヶ月ごとにみていく。保定2年で、最終検査をして模型、レントゲン(セファロ、パントモ)、口腔内、顔面写真を撮って、問題がなければ終了とし、何かあれば連絡してもらうようにしている。

 

最近は2年検査を終わって時点で、患者に矯正治療をして良かったかと聞くとほぼ100%はしてよかった、みんなから歯並びがきれいと言われる、人生が変わったなどの感想を聞く。もちろん多少不満があっても聞かれるとこう答えると思うが、それでも治療者としてはこうした声はうれしい。

 

矯正治療の目的は、教科書的には咀嚼機能の改善、発音の改善などの機能的改善も書かれているが、ほぼ90%は見た目の改善が大きい。とくに成人患者の場合は、ほぼ100%は見た目の改善を希望して来院する。そのため最終的に患者が治療結果に満足したかが最重要となる。残念ながら、不満足のまま終わることもあるが、術者としては常に最善の治療結果を求めている。とくに治療後期になってくると、かなり細かい要望が増え、それに対応することが多いが、中には勘違いもあるので、ここのまとめてみる。

1.上の前歯の段差

上の真ん中の一番大きな前歯、中切歯と隣の側切歯との段差が気になる患者は多い。これは中切歯と側切歯では幅が違い、コンタクトポイントをきれいな曲線にするためには必ず段差ができる。以前のスタンダードエッジワイズ法ではここにファーストベンドを入れたくらいである。どうも真ん中の前歯に比べて隣の前歯が引っ込んでいるという患者にはこうした説明をしている。また切縁部も本来は中切歯に比べて測切歯は少し低くなるが、これも不満に思う患者さんがいる。バイオプログレッシブの流派ではここを揃えることもあるので、患者が希望すればベンドをいれて修正する。

2.ブラックスペース

上下の前歯の歯肉に三角形のスペースができることがある。これをブラックスペースというが、前歯の形態が三角に近いほど、あるいは歯の長さが長いほど、こうしたブラックスペースが出来やすい。この場合は、隣接面を細いバーでディスキングして隙間を閉じれば、かなりブラックスペースが減少するので、上顎切歯では多用している。一方下顎切歯ではもともと歯が小さいので、できればディスキングしたくないので、そのままの場合も多い。

3.歯と歯の隙間

歯と歯の間の隙間、問題になるのは第一小臼歯抜歯ケースでは第二小臼歯と犬歯の隙間を気にする方も多い。もちろんこの隙間は原則的には閉じるのが基本であるが、前歯部、臼歯部の咬合関係が緊密な場合、なかなか閉じない、閉じてもまた開くことがある。保定中に開いた場合は、犬歯の遠心にレジン充填で形態修正をすることもある。

4.前歯のねじれ

前歯のねじれを気にする方も多い。一見してもほとんどねじれがわからないほどのものでも、ねじれていると主張する。基本的には患者が満足するまで修正する。


5.口唇の突出感

非抜歯で治療した場合、最初にいくら説明しても、口元の突出感を気にする人が多い。多くの場合は4本の小臼歯を抜歯することになるが、治療方針の変更のために治療期間が延びる。個人的な意見では、日本人などアジア人は白人の横顔、口元が入った顔貌を好むため、70%の症例は抜歯症例となる。そのため、抜歯症例が不得意なアライナー矯正では患者も不満がでるだろう。

以上、治療における患者の要望を列挙したが、装置撤去前であれば要望にそえることもできるが、撤去前に何度も次回はずすが気になる点はないかと確認してから外しても、あとでここが気になると言い出す患者がいる。これは術者としては再装着の材料代や時間を考えると避けたい。


2024年11月8日金曜日

子供の頃思い出3

 





尼崎の父の診療所に住んでいた頃、昭和37年から43年頃の近所の様子を述べよう。診療所の左隣にはクリーニング店があり、その横には牧病院があった。この病院は、軍医だった牧先生が治療していたが、怖い先生だった。玄関で靴を脱ぐと前に受付があり、廊下を挟んで右手のドアの中が診療所で10畳くらいの広い部屋が診療室で、大きな机、上には顕微鏡、机の横にはベッドがあった。かぜが何かで熱が出ると病院に行くとベッドに寝かせられ、お尻に注射をした。そして帰りにはガラス瓶に入った茶色のシロップ液を渡され、それを飲んだ。甘いが変な味がした。病院の2階は入院室となっていた。小学校5、6年生の時の同級生のKさんが、中学生三年生の時に腎臓ネフローゼで、この病院で亡くなった。後でこのことを聞いてショックを受けた。私は近所の三角公園のバス停から阪急塚口までバスに乗っていたが、中学生になったKさんのことを二度ほど見た記憶がある。昔はこの病気で亡くなる子供が多かった。Kさんは勉強ができ、いつも学級委員長か副委員長を私と交代にした。

 

歯科医院の前には、菓子を作るHというお菓子屋があり、ここの娘が同級生だったので、何度か店の中にも入ったが、おじさんはいつもお菓子を作っていて、できたお菓子をよくもらった。中学生頃になるとこのお菓子屋もなくなり、その隣が今度は小売のお菓子屋となり、パン、ジュースや当時登場したインスタント麺もここで売っていたし、関東炊き(おでん)のコーナーもあった。歯科医院の右横のかどの家はサラリーマンの家だったが、その向こうは牛乳屋で、毎朝、牛乳瓶を木製のケースを詰めて、自転車で各家に配達していた。朝早くから牛乳瓶が擦れる音がしてうるさかった。牛乳の紙の蓋を使った遊びが流行り、空瓶にまれにある蓋を集めたこともある。牛乳屋の前には酒屋があり、ここでは角打ちもあったため、夕方頃になると大勢の労働者が一杯やっていた。道を挟んで向こうには木製の塀に囲まれた土地があり、朝鮮人の家族が小屋に住んでいた。時々、門が開いていて中が見えたからである。西部劇に出てくる砦のような構造であった。

 

診療所の前の道は、労働者が通るコースで、自動車も少なかったのか、大勢の労働者がこの道を歩いていた。そのため、牧病院の向こうには、味噌醤油屋、薬局、朝日新聞配達所、お好み焼き屋、少年マガジンなどを売っていた駄菓子屋、タバコ屋、ホープという散髪屋などがあって、賑やかであった。三和商店街に行くこの道は、今はラブホテル街になっているが、昭和40年頃までは小さな工場がいっぱいあり、朝から工場で何かを作る音が聞こえていた。国道沿いには天崎柔道道場があり、その向こうには近藤病院があった。さらに行くと今はモータープールになっているところは、芝居小屋の三和会館、その後、ストリップショーをしていた三和ミュージックになった。立ちんぼもいて夜は怖いエリアであった。

 

ホープ理髪店とたばこ屋の間から難波小学校に行く道は怖いところで、殺人事件もあった。青線地帯で、訳のわからない飲み屋が何軒もあり、昼間から酒か薬で暴れている人がいた。ここだけは避けるようにしていたが、友人がここに住んでいて、幅2mくらいの小路が迷路のようになっていて、途中にはお婆さんが店番をしている駄菓子屋があった。この友人の家というのは、ここらに多くあった安っぽいアパートで、8畳くらいの一室で家族五人くらいが暮らしていた。炊事は共同であったので、多くの家族はこの狭い小路に七輪を並べて、サンマなどを焼いていた。お父さんがいると、大抵は昼間から酔っ払っていて、機嫌がいいと子供達に10円玉をくれ、大喜びした。昔は、今と違い子供に金をやるというのは、それほど抵抗なく、子供もそれを期待して大人の機嫌を取ったりした。当時の10円は今の100円くらいの価値があり、何軒か友人の家を回ると2030円になることもあったし、父親の言いつけでタバコを買いに行くとお釣りは小遣いとなった。正月でなくても小遣いをくれる親類がいて、人気があった。今でこそ、教育のためと言って子供にあまりお金をあげないが、昔は子供が一番喜ぶものとしてお金を与える大人が多かった。

 

こうした小遣いを持って子供が行くのが、近所の駄菓子屋で、私の場合は、家の3軒隣の駄菓子屋がメインで、小路のばあさんの店やセンター市場近くの駄菓子屋もよく行った。子供縄張ごとに駄菓子屋があったので、尼崎市全域では相当数の駄菓子屋があったのだろう。お年玉や太っ腹の親類から五百円、一千円札をもらうと行くのは、難波小学校正門前に西村文房具店で、ここにはプラモデルや竹ひご飛行機などが売っていた。もう少し大きくなると、三和商店街から出屋敷方向に行ったコンドル模型店に行った。また少年マガジンは歯科医院にも置いていたので、そのお金は出してくれたが、月刊少年などは西村文具店から三和商店街に行く途中の本屋でよく買った。ここは多くの雑誌がスタンドではなく、平な台に平積みに置かれていた。少年のような付録の多い雑誌は嵩張るので、かなりの高さになっていた。

 

自転車に乗るようになると、かなり遠くまで行くようになったが、それでも普段の遊び場は自宅から半径500mくらいに集中していたように思える。




2024年11月6日水曜日

尼崎市立難波小学校 運動会閉会の歌

 







「 夕日 西に落ち 運動会は終わります

  先生 みなさん ありがとう

  最後にお口をそろえ 

  難波の学校のバンザイを 声の限りに歌いましょ」

 

これは難波小学校の運動会終了の歌である。もちろん難波小学校でも校歌があるが、校歌以外の歌としてはこれだけしか記憶にない。卒業して56年も経つがなぜか覚えている。運動会の最後に歌った曲で、年に一回しか歌わない曲であるが、なぜか悲しい感じがしてリフレインする。最後のフレーズだけ変えて、他の学校でも歌っていたのかもしれない。

 

この曲のフレーズを聞くと、「たんたんたぬきのーーー」を思い出す人もいるかもしれないが、原曲はバプテスト教会の讃美歌の「Shall we gather at the river」という曲である、日本では「タバコヤの娘」として替え歌が昭和12年頃に流行ったようだが、讃美歌から童謡、あるいは唱歌になった曲は多い。難波小学校の運動会の閉会の歌も最後の「難波の学校のバンザイをーー」のフレーズなどは戦前の匂いを感じる。

 

三和本通りの入り口をまっすぐに出屋敷の出口付近で、靴屋があった。普段は運動靴などがビニールで包まれ、飾られていたが、運動会シーズンになると地下足袋が大量に売り出される。後ろの金具を差し込んでしめる足袋であるが、底の部分がゴムでできている。本当の脆いもので、ほぼ一日、運動会で使うと潰れてしまう。運動会専用の靴ということになる。確かに足袋なので運動靴に比べると軽いとは思うが、それほど差はないが、それでも生徒たちには絶大な人気があり、この足袋を履けば早くなると信じていた。親に駄々をこねて運動会の前の日に三和商店街に行って買ってきた。

 

運動会のメインイベントは徒歩競争で、6、7人並んで、ピストルの号砲を待って一斉にスタートする。私はあまり走りには自信がなく、いつも真ん中くらいで、いつも待っている間はドキドキした。一度、前を走っている二人がこけて、漁夫に利で一等賞になったことがあったが、嬉しかった。徒歩競走は、勉強はできないが、足の早い子にとっては年に一回の楽しみで、その日だけは英雄になれた。今と違って、一位になると鉛筆などの商品をもらえた。足の速い子供はクラス対抗のリレー選手にも選ばれるので、滅多に学校に来ない親も、この日ばかりは大きなゴザを引いて親戚一同で応援している。昔は子供の数も多かったせいか、運動会の陣取りも大変で、朝早く起きて、陣取りに行った。家族、あるいは親戚も集まり、いっぱいご馳走を作り、運動会は数少ない娯楽の一つであった。集まった家族の中には昼間から酒を飲みやからもいて、ワアワアと賑やかなイベントであった。

 

おそらく運動会は世界でも、日本くらいしかしていない行事であろうが、今、考えると結構楽しいものだった。昔、鹿児島の南、十島村というところに巡回診療に行ったことがある。一度、中之島の運動会に遭遇したことがあったが、全校生でも20人程度でるが、運動会には村中の住民が集まって騒いでいた。小学校の行事を超えて村の行事になっていた。そういえば、昔は会社の運動会というものも割合あった。職場の親睦を図るものとされたが、今はさずがに会社の運動会はないだろう。

 

高校では、3年生が主導となって体育祭をするが、総合得点で必ず高校3年生が優勝しなくてはいけなかった。そこでクラスの宇都宮くんが応援団長となり、佐伯孝夫作曲の「若い力」の替え歌

「 若い力と感激に  燃えよ高三 胸を張れ 歓喜あふれるユニフォームーー0」とほぼ原曲に近いがこれも運動会1ヶ月前に覚えたが、いまだに大体覚えている。

 

 






2024年11月2日土曜日

土手町 大鰐線

 




土手町にあった中三デパートがなくなったこともあり、家から歩いて5分くらいであるが、土手町に行くことが少なくなった。たまに行くのは大学イモを買いに行く時か、古書店「まわりみち文庫」に行く時くらいである。こちらに来たのが1994年で、かれこれ30年になるが、30年前も人通りは少なかったが、今はさらに少なくなり、ほとんどいない状態となっている。こんな土手町も、人が増えるのは10月に行われるカルチャーロード、これは土手町も道を歩行者天国にして多くの店が出店するお祭りである。あるいはよさこい、弘前ネブタの時も多くの人が集まるが、それ以外の時はほとんど人はおらず、車もどこに寄るではなく、単純な道として速度を出して走っていく。

 

同様に土手町から50m離れた弘南鉄道、大鰐線の弘前中央駅、この駅はノスタルジーがあって本当に好きな駅であるが、朝夕を除くとほとんど人はおらず、たまに大鰐温泉にいく時もひどい時には一車両に私しかいないことがあった。最近では、赤字幅も拡大し、弘前市議会からは廃止との声も相次いでいる。土手町、弘南電鉄ともに、もはやきびしいというよりは、やばい状況となっている。もちろんこれまでもそれこそ何度も地元有志が熱心に再建しようと動いたのだが、効果はない。もはや打つ手はなく、このまま消えていく感じである。

 

これはあくまで私の空想であり、こんなことは現実的には不可能であるが、夢のような話として読んでほしい。

1.土手町

土手町の道をいっそのこと、車の通行止めにしたらどうだろうか。全国のアーケード商店街をみていると、アーケードのためにもともと車は侵入禁止になっており、商店街を覆う屋根の老朽化のためにアーケードを撤廃したところがある。そして木や花を植えたり、彫刻を置いた遊歩道にようにしている。もちろん遊歩道にしたからお客が増えるわけでないが、それでも公園として利用する人もいて、喫茶店やレストランなどの新たな店もオープンしている。弘前でいえば、駅前から上土手町に続く、遊歩道を延長したようなものである。道全体を融雪にして、ベンチ、椅子や広場があるような土手町全体を公園のようにする計画である。欧米では街の中心部への車の侵入を禁止し、街自体を公園化、歩行者天国、遊歩道化しているところが多く、こうしたエリアとして土手町を存在づける。木が繁り、小鳥がやってくるような歩道は楽しい。

2.弘南鉄道大鰐線

先日、九州福岡県の秋月にいくために、甘木鉄道というローカル線に乗った。佐賀県の基山から福岡県の甘木までの全長13.7kmの小さな鉄道である。一両編成のディーゼル車で、後方から乗って、前方ドアのところで運賃を払うワンマン運転である。ほぼ30分おきに朝の5時半から夜の11時半まで、わずか28名の従業員で営業している。車両は古いものを使っているが、観光客も含めて行き帰りとも平日で20名くらいの乗客がいた。ウィキペディアで調べると経営状態も良好とのことである。最近では宇都宮LRTが登場し、人気を集めている。ここでは新型LRT「ライトライン」が使われており、近年、LRT(Light Rail Train)BRT(Bus Rapid Transit)などの交通機関が着目され、水素燃料も含めた種々の新型車両が開発されている。極端な話、弘南鉄道は路線が45kmと長いが、線路、電化をやめて、バス専用路線、それもバスぽくない新型BRT車両などどうであろうか。別に駅舎を新しくする必要はないが、運行回数を増やし、すべてSuicaなど使えるようにする。甘木鉄道は現金だけで不便であった。

 

土手町、大鰐線も再建するには、莫大な費用がかかる。それでも放っておけば、両者ともおそらくは消滅するだろう。市民の中には別になくなってもいいやと声も多かろう。ただ一度なくなってしまうと絶対に復活することはない。政治家は、こうした案件に真摯に向き合い、存続するように努力すべきである。市の予算がなければ県の予算、県の予算がなければ国の予算、こうした資金をとってくるのが政治家の大切な仕事であり、一部の市会議員は赤字なので廃止せよというが、あまりに芸がない。またバス便に転換しろという声もあるが、民間の弘南バスも経営はきびしく、できれば弘前―大鰐のバス便もなくしたいのだろう。




2024年10月27日日曜日

子供の頃の思い出2

 

祖父の葬儀 昭和5年


尼崎の家 2階から

帰還後は、東京歯科医学専門学校の先輩に頼って歯科の仕事をし、その先輩の一人、中島先生(作家、中島らもさんのお父さん)の尼崎市立花の診療所を手伝った。さらにその分院である東難波町の小さな診療室を委さられ、そこに住むようになった。おそらく私の生まれる前のことで昭和289年のことだと思う。一階が診療所で、奥の方に6畳くらいの台所、ダイニングとトイレがあった。そこから45度くらいの急な階段が2階に続き、2階は6畳の畳間が2つと4畳間くらいの板の間があった。ここに私が生まれた頃は、父、母、姉、兄、私の5人と、祖母、さらには母親の妹の計7人が住んでいた。おそらく川の字に布団が並べられ、下の台所にも2人くらいは寝ていたのだろう。祖母は私が2歳くらいの時に亡くなり、また叔母さんも大阪の裁縫学校を卒業すると結婚したが、その頃から菊ちゃんという家政婦さんが家にいた。当時は安い給料で、住み込みで田舎から都会に来るというのは普通で、菊ちゃんも徳島から来た。小学校に上がるころにお嫁にいったが、拵えはすべて母親がして、尼崎の家から嫁にいった。若い娘は都会に憧れるが、親としては心配して娘が外に出るのに反対する。ただ信頼のおける人が間に入り、住み込みでしっかりした家で勤めるというなら反対はしない。こうしたこともあり、母の故郷の徳島からは、その後も家政婦さんがきた。-菊ちゃんの後は、お兄さんが三木武夫の秘書をしていた三橋という人、和代ちゃんが小学校1年生のころにきた。どちらかというと家政婦というよりは歯科助手の仕事で主であり、その合間に家事を手伝っていた。昭和40年頃から国民皆保険制度が完成し、多くの患者が来るようになり、うちも急に金回りが良くなった。2階に4畳くらいの部屋を増築し、ここは兄と私の部屋に、板の間の部屋は姉の部屋となった。屋根の上には小さな物干場を作り、子供部屋の2段ベッドの上に潜水艦のハッチのような構造で、そこに鉄製の重い階段をつけて屋根の上の物干場に登った。買ってもらった天体望遠鏡で星を見ようとしたが、尼崎では月くらいしか見えず、すぐに飽きてしまった。隣の屋根を伝わって50mくらいは移動できた。また風呂がなかったので近所の銭湯に行っていたが、突然、風呂を作ろうと言い出し、便所横のドブのようなところにくらいの小さな一畳くらいの風呂を作った。狭くても何とか用は足せたが、便所の前が脱衣場となっているので、着替え中に便所に行く人もいて女の人は恥ずかしかったろう。そのうち小学4年生の時に診療所のそばに小さな売地が出たので、そこを買って、家を建てた。母親は西宮の仁川あたりに住みたかったようであるが、父親は毎夜、尼崎の飲み屋街に繰り出していたので、どうしても診療所近くに住みたかったようだ。今考えると、20坪くらいの小さな家であるが、図面上はよほど大きく見えたのか、将来的に車も必要だし、犬も飼いたいと言い出した。住んでみると、誰も車など買うこともなく、ただのガレージの空間だけだったので、数年後には潰してリビングを広げた。もちろん親父の夢であったシェパードなど飼う隙間などなく、すぐに却下された。どうやら子供の頃の徳島の家で大型犬を飼っていたようだ。私はどうも新しい家の洋式トイレに馴染めず、数年間、毎夜、診療所にある和式便所を使っていた。

 

新しい家は、診療所から20mも離れておらず、和枝ちゃんはそのまま診療所の二階に住んで診療を手伝っていたが、そのうち結婚し、その後は、二人のお針子さん(りっちゃんと?)が普通の賃貸部屋として住んでいた。デザイナーのデザイン画から実際の洋服に起こす専門家であった。この頃の不思議な話がある。新しい家の2階は6畳の部屋が2つと3畳くらいの部屋が2つあった。最初、6畳の部屋には2段ベッドがあり、そこが兄と私の部屋で、姉は3畳の部屋に、他の6畳の部屋は父と母が使っていた。中学三年生の頃だったが、二階の階段を登ったところの3畳の部屋が、その頃の私の部屋であった。ここで勉強し、夕食のために一階に降りて行き、食事をしてみんなとテレビを見ていると、ガタンと扉が閉まる音がした。誰か来たのかなあと思っていたが、何もなかったので、そのまま2時間くらいして部屋に戻り、机の上に置いた腕時計をみると、そこに時計はない。どこかに置き忘れたと思い、あちこち探したが、結局、その後も見つからず、あの扉を閉めたのは泥棒ということになった。一階に一家全員五人がいる状況で、階段を上り、部屋にあった腕時計を盗むとは大胆な行為である。なぜ未だにこんなことに覚えているかというと、盗まれたのは、母親の友人の息子さんからもらったスイス製の時計で、名前は忘れがが、42石ということだけ覚えていたからである。当時、最初に買ってもらったセイコーファイブが21石の倍の石を使った、倍くらい正確な時計と勝手に思っていた。