大学5年生の時にインド、ネパールに行ったが、2回目の海外旅行は中国であった。確か1980年(昭和55年)である。日中国交正常化は1972年、当時ようやく一部の地域で外国人観光客の受け入れを認めた。当時は、自由な個人旅行は全く認められず、中国政府の正式な許可を得て、日中友好団という形式での団体旅行のみ許可された。それまでずっと外国人が入れなかった国に行くことができるようになった。
高校の時には、毛沢東の思想に共鳴したものの、大学に入ると、大躍進、文化大革命の悲劇を知るようになり、実際に中国に行って文化大革命後の中国の姿を見たいと思うようになった。ちょうど旅行会社で、新たに改革開放で外国人が訪れることができるようになった昆明が含まれるツアーがあったので、これに参加することにした。日本から香港、そこからは鉄道で、国境を越えて広州、そして飛行機で石林、昆明に行き、そして北京に行くという一週間くらいのコースであった。初めて成田空港を使った記憶がある。前夜、友人の中林くんと飲み、見送りを受けて後、上野から成田に行く、夜の便で香港に行った。最初は日本人の団体旅行だと思っていたが、インターナショナルスクールの高校生20人くらいを交えた団体であった。日本人は若者、年配の方がそれぞれ五名ずつの10人くらいであった。
広州では、動物園で初めてパンダを見て、特別な計らいで広州対北京のサッカーの試合の一部を見せてもらった。すり鉢の競技場で、歓声の地鳴りに驚いた。通過は外国人用の兌換券がちょうど発行された頃で、確か通常の人民の持つ赤色のお札と、外国人の持つ青色のお札があり、普通の店ではこの青色のお札は使えず、外国人用の店だけで使用できた。ここは物資が豊富であり、中国人からすれば、この兌換券は人気があった。
広州では、博物館にあちこちに文化大革命の影響があり、掛け軸などはだいぶ破れた状態で公開されていた。その後、石林から崑明に行ったが、ここは初めて外国人に解放されたところなのか、観光バスから降りるたびに多くの人々に囲まれ、まるでスターになった気分であった。宿泊していたホテルにも押しかけ、日本語を習っているなど昆明の人が訪ねてくるが、同乗する公安の人が追い返していた。食事は朝から豪華な中華料理であったが、意外なほど淡白な味で、いわゆる家庭的な料理であった。まだ外国人に対する感覚がなく、あくまで解放前の高級役人向けの味なので、その前に食べた香港の料理に比べて洗練されていない。
その後、北京では万里の長城、明の十三陵、紫禁城を観光したが、ほとんど中国人の観光客がおらず、空いていた。天檀公園や頤和園近くの北京ダッグなどを食べたりした。当時の中国は、ようやく文化大革命が終了したものの、国としては貧乏で、多くの中国人は人民服を着ていた。今は全く想像できないが、繁華街の王府井も平屋の店もあったりして、昔ながらの店が多かった。
その後、中国に行くことはないが、テレビやYou-tubeで見る限り、これほど短期間で大きく変貌した国もなかろう。