今でこそ、冬用のブーツだけで5足以上、普通の靴で10足以上あり、家の大きな靴箱もいっぱいになっている。
子供の頃を考えると、高校卒業する1970年代後半まで、常に靴は一足であった。破れて履けなくなると、母親にそれを示して、新しい靴を買ってもらった。その際もすぐに足が大きくなるので、大きめの靴を買うように言われた。私の場合は、三和商店街の一番奥にある靴屋さんまで母親と一緒に買いに出かけた。汚れないようにビニールに包まれた靴見本から好きな靴を探し、奥からサイズに合う靴を試着した。買ってしばらくはうれして、家の中で履いて怒られた。
こういう状況は、中学になっても同じで、普通の紐のズック靴を履いていた。高校になると、サッカー部だったので、黒のサッカーシューズ以外にトレーニングシューズが必要でオニツカタイガーのリンバーを買ったのを思い出す。毎日に通学、運動、場合によってはクラブの練習にもこの靴を履いていたので、大体一年くらいで破れてきて、その都度、母親から小言を言われた。今は歳をとって激しい運動もできないのか、靴の寿命も伸びて二十年前の靴もまだ現役である。
同世代の友人に聞いても子供時代の靴は一足であったという。ただ青森県でいうと、冬用の靴として長靴があった。ゴム製の黒い長靴で、薄くて、厚い靴下を履いても冬場は寒かったという。さらに雪が長靴の中に入るのか、いつも足先が霜焼けで、家に帰り、靴を脱ぐと、痒かったという。うちの家内は家に帰ると、母親が暖かいお湯で足を洗ってくれたという。そういうことで北国では冬用の長靴とそれ以外の靴の2足が標準であった。
こうしたことは子供だけでなく、大人、女の人が別だが、うちの父親の場合も、下駄と革靴2足しかなかった。下駄は何種類かあって、近所に散策用と飲み屋に行く時用は別であった。滅多に靴を履くことはなかったが、会合などに出かけるときは黒の革靴を履いた。昔の人は物持ちがよく、1、2足の革靴を何度も修理して履いていた。そういうこともあり、尼崎にいたときは五人家族であったが、各自の所有する靴の数は知れているので、小さな靴箱で十分であった。今ではこの大きさの靴箱で一人分である。
当時、靴はそんなに高かったのか、よくわからないが、それでも子供用の普通の運動靴はせいぜい1000から2000円くらいで(もっと安かった?)、物価を考慮しても今の1万円には決していかない。むしろ靴は一足、破れたら買い替えるというルールがあったのではなかろうか。実際、運動会の徒競走用のゴム足袋は運動会のわずか1日しか持たない代物であったし、200-300円はしたように思えるが、皆買った。家内に聞いても足袋を買ったというが、うちの医院の衛生士、60歳に聞くと普通の運動靴で運動会を走ったという。おそらく昭和昭和40年代後半までのことであろう。
思い起こせば、昭和30年、40年代は日本もまだまだ貧しく、また戦争を体験した世代も多かったことから、何でももったいないという人が多かった。今と違って既製服が少なかったことから、自分で洋服を縫っていた人も多かった。当時の婦人雑誌には必ず、本で紹介した洋服の型紙があり、生地を買って、この型紙で服を作るとというのが普通であった。流石にスーツやブレザーなどは自分で作れないので、子供服でも近所の洋装店で誂えることが多かった。私の子供心に近所に洋装店でサイズを測って注文服を作った記憶がある。
こうしたこともあり、当時は服も靴も高く、少数のものを使い回して使用していた。子供であれば、尼崎であれば、年に一足、青森では冬用の長靴も合わせて2足、尼崎であればほぼ年中短パンであったような気がするし、多分数種類の上着とズボンだけであったと思う。小学校の6年生の時にLeeかリーバイスのジーパンを買ってもらったが、それこそ大きくなってサイズが合わなくなるまで、夏も冬も毎日履いていた。多分、洗濯も滅多にしなかった。個人的に一足以上の靴を持つようになったのは、大学に入り、雑誌ポパイなどを読み始め、ファッションに目覚めた頃からだ。