2025年3月29日土曜日

2回目の海外旅行

 

広州のサッカー場


昆明 バスを降りると


北京の天壇公園 今は派手


大学5年生の時にインド、ネパールに行ったが、2回目の海外旅行は中国であった。確か1980年(昭和55年)である。日中国交正常化は1972年、当時ようやく一部の地域で外国人観光客の受け入れを認めた。当時は、自由な個人旅行は全く認められず、中国政府の正式な許可を得て、日中友好団という形式での団体旅行のみ許可された。それまでずっと外国人が入れなかった国に行くことができるようになった。

 

高校の時には、毛沢東の思想に共鳴したものの、大学に入ると、大躍進、文化大革命の悲劇を知るようになり、実際に中国に行って文化大革命後の中国の姿を見たいと思うようになった。ちょうど旅行会社で、新たに改革開放で外国人が訪れることができるようになった昆明が含まれるツアーがあったので、これに参加することにした。日本から香港、そこからは鉄道で、国境を越えて広州、そして飛行機で石林、昆明に行き、そして北京に行くという一週間くらいのコースであった。初めて成田空港を使った記憶がある。前夜、友人の中林くんと飲み、見送りを受けて後、上野から成田に行く、夜の便で香港に行った。最初は日本人の団体旅行だと思っていたが、インターナショナルスクールの高校生20人くらいを交えた団体であった。日本人は若者、年配の方がそれぞれ五名ずつの10人くらいであった。

 

広州では、動物園で初めてパンダを見て、特別な計らいで広州対北京のサッカーの試合の一部を見せてもらった。すり鉢の競技場で、歓声の地鳴りに驚いた。通過は外国人用の兌換券がちょうど発行された頃で、確か通常の人民の持つ赤色のお札と、外国人の持つ青色のお札があり、普通の店ではこの青色のお札は使えず、外国人用の店だけで使用できた。ここは物資が豊富であり、中国人からすれば、この兌換券は人気があった。

 

広州では、博物館にあちこちに文化大革命の影響があり、掛け軸などはだいぶ破れた状態で公開されていた。その後、石林から崑明に行ったが、ここは初めて外国人に解放されたところなのか、観光バスから降りるたびに多くの人々に囲まれ、まるでスターになった気分であった。宿泊していたホテルにも押しかけ、日本語を習っているなど昆明の人が訪ねてくるが、同乗する公安の人が追い返していた。食事は朝から豪華な中華料理であったが、意外なほど淡白な味で、いわゆる家庭的な料理であった。まだ外国人に対する感覚がなく、あくまで解放前の高級役人向けの味なので、その前に食べた香港の料理に比べて洗練されていない。

 

その後、北京では万里の長城、明の十三陵、紫禁城を観光したが、ほとんど中国人の観光客がおらず、空いていた。天檀公園や頤和園近くの北京ダッグなどを食べたりした。当時の中国は、ようやく文化大革命が終了したものの、国としては貧乏で、多くの中国人は人民服を着ていた。今は全く想像できないが、繁華街の王府井も平屋の店もあったりして、昔ながらの店が多かった。

 

その後、中国に行くことはないが、テレビやYou-tubeで見る限り、これほど短期間で大きく変貌した国もなかろう。

 





2025年3月19日水曜日

初めての海外旅行


 


タージ・レイクパレスホテル










ジャイマハールホテル(ジャイプール)













私が初めて海外旅行をしたのは大学1年生の夏休みであった。1975年、昭和50年である。高校2、3年生のころ、家庭教師をしていた松谷徳八先生(以前のブログでも紹介した)がインドに旅行するので、一緒に行かないかと誘われた。インドは汚い、怖いというイメージがあったので、最初はあまり乗り気でなかったが、今回の旅行は豪華旅行で、各地の最高級ホテルを泊まるという。インドの物価は日本の1/3くらいなので、日本では泊まれないような高級ホテルに泊まれる。また松谷さんは何度もインド旅行しており、今回は友人と私も入れて三人で旅行するというので、思い切ってインド旅行することになった。

 

当時は団体割引で航空券は半額になったので、20人くらいの学生のグループがアリタリア航空に乗り、1ヶ月後のそこに集合してまた団体で帰るというツアーであった。1ヶ月間の全くフリー旅行であった。飛行機の隣の席には早稲田の学生がいて、すぐに仲良くなった。しばらくすると「あのスチュアーデス、昔俺が騙された人に似ている」という、何度がチェックして、向こうも見ないふりをしていたが、ついに「◯◯さんですか」というと2年前に彼が何かの詐欺で騙された人だったのが判明した。そのため、お詫びの印とてエコノミ席なので、飲みものやお菓子、飛行機会社のグッズなどいろんなものを持ってきてくれて助かった。

 

デリーに着くと、次の日にはアグラに電車で行き、タジマハールを見学したが、ちょうどホーリ祭りで、人力車に乗っている我々観光客に容赦なく、色付きの液体や粉を投げらレ、かなり腹がたった。タージマハールを見学後に、その向かいにある茶色の古い宮殿があり、あまりに暑いのと疲れで、三人して日陰で1時間ほど寝ていると、起きると多くのインド人に囲まれて笑われていた。ここでは古い細密画、ミニアチュール画を売る商人と親しくなり、その小さな店に行き、100枚ほどの細密画を見せられた。いずれも100年以上前のものと言っていたが、これは新しい、これは古いと選別していくと次第にそうだ、これは新しい、これは古いと言い出し、何度が初めから見ていくと、ほとんどが新しいものとバレてしまった。最後に残ったのは2枚で、これを買おうと思ったが高いのでやめた。

 

アグラの後はその西にあるジャイプールに行った。ここはマハラジャのホテルというジャイマハールホテルに泊まった。インド像に乗ったりもした。今は本当のマハラジャが住んでいたランバーグホテルというところが最高級ホテルだが、当時はまだ一部しかホテルをしていなかったように思える。さらに電車でウダイプールのタージ・レイクパレスホテルに行った。ここは湖に浮かぶホテルで、007のロケに使われたり、エリザベス女王が訪れたホテルとして有名である。ホテルまでは船でいく。ここは旅行のハイライトとしてかなり広いスイーツの部屋に泊まった。便所は全部大理石でできた6畳ほどの広さの部屋にポツンと便器が置かれていた。やたらに広い部屋で、ブランコもあって、そこでゆらゆら揺れながら湖面を見ることができる。どの部屋に泊まったかは忘れたが、調べるとブランコのある部屋はグランドロイヤルスイーツのようだ。今は一泊50万円くらいするようだが、1975年の頃は三人、百ドル(3万円)くらいで、その安さにびっくりした記憶がある。

 

その後、飛行機だったと思うが南部のエローラ石窟を見た後、南部のバラナシに行き、そこでガンジス河の沐浴、火葬、寺院などを見学した。そこからネパールのカトマンズに飛び、数日滞在してから飛行機でルクラへ、そしてトレッキングでナムチャバザール、そして世界で最も高いところにあるホテル、エベレストビューホテルに泊まった。そこからは再び、デリーに戻り、当初はカシミール地方の避暑地、スリナガルーの船上ホテルに泊まる予定だったが、交通手段がなく、フランスの建築家、コルビジェの建物で有名なチャンディガールにいき、またデリーに戻って、日本に帰国した。ほぼ30日の旅行であったが、内容の濃い旅であった。最初の海外旅行にしてはハードなものであった。当時、デリーで最高のホテル、アショカホテルで2日連続、フランス料理を食べたが、一人三千円くらいで、それ以降、日本のどんな高級レストランもそれほどビビることもなくなった。次の年には外国人に解禁されたばかりの中国(香港、広州、昆明、北京)に旅行したが、若い頃の旅行は、良い経験として今でもはっきり覚えている。






 
インド土産のパシュミナ



2025年3月16日日曜日

老化と物欲

 




皆、歳をとるにつれて欲がなくなるという。もちろん性欲など真っ先になくなるし、金銭欲、さらに何か欲しいという物欲や美味しいものを食べたいという食欲もなくなってしまう。若い時は、おしゃれに興味があって、貯金をしてまで高い服を買ったが、今は下手をすると一年を通じてほとんど服を買わないと話す知人もいる。またある友人は、奥さんがイトーヨーカ堂などで適当にセーター、シャツ、ズボンを買って、それをいつも着ている。こうした人が意外に多い。食事についても、高級フランス料理よりは吉野家の牛丼の方が良いという人もいて、例えば京都に観光に行っても、別に京都ならではの料理を食べようとせず、駅前のマクドナルドでいいという。他の人から見るとケチと思われるかもしれないが、本人は美味しいものを食べたいと思わないだけである。

 

歳をとると欲求は自然に少なくなるもので、逆に無くさないようにするのは努力を要する。比較的簡単な方法は、継続することで、例えば、昔からある作家の初版本を集める趣味があったとしよう。全国のあちこちの古書店を周り、20年目にようやく探し当てたということもあろう。また子供の頃から天体観測が好きで、最高級の望遠鏡を買うということもあろう。逆にそうした趣味もなく、歳をとってから、新たな趣味、あるいはそれに伴う購買欲が出るだろうか。

 

購買欲については、男女とも若い頃に買えなかったものを買うということはありそうだが、これも50歳頃までに実現しているはずで、老齢になってからではなさそうである。子供の頃に欲しかったおもちゃがあったとしよう。もし本当に欲しかったなら、70歳になるまでに、とっくに買っていただろう。オーディオ、楽器、自転車、バッグ、服、時計など、こうした物でも、若い時に興味がなく、70歳になってから急にハマって欲しくなるようなことは少ない。食欲についても、同じことで、老人になって急にグルメになることはなく、昔からグルメの人が継続しているだけである。

 

そう考えると、物欲の多くは、老人になって、減少していくが、若い頃に物欲が強かった人がかろうじて継続している場合が多く、若い頃から物欲が少ない人が老人になって急に物欲が増加することはない。私の場合は、若い頃から愛読書がポパイという物欲が強い人で、最近もスティーブ・ジョブスも履いた991も買ってしまった。高価なスニーカーである。5000円の靴に比べてどれほど優れているかというと、はっきりいって値段差ほどの違いはなく、単に雑誌やyoutubeですごいという評判を信じているだけである。高価な服、高価な靴、あるいは高価な料理は、本来の価値以上の何らかのこだわりが価格を決めているようで、そこに思い入れがないと買わない。例えばミシェランの三つ星レストランでも、吉野家の牛丼が好きという人からすれば、それほどうまいとは思わないし、合理的に考えれば、吉野家の牛丼普通盛り468VS フランス料理のジェエルロブション60000円のディナー、120倍以上の価値があるかということになる。合理的な考え、栄養があり、お腹がいっぱいになり、さらにおいしければいいという人類の共通の考えからすれば、60000円のディナーは話にならない。同様にシャネルの50万円のブラウスとユニクロの1500円のブラウス、弘前の町を歩いていても誰も価格差には気づかない。このロブションの料理、シャネルのブラウスを食べる、買う心理がむしろ異常なのかもしれない。

 

老人になって増加する唯一の欲といえば、それは健康欲と言っても良いものかもしれない。全てのお宝を保有する始皇帝が最後に望んだのが不老不死の薬であり、老人は健康になるためのものには金を惜しまない。定期的に老人を集めて健康食品を売っている一種の催眠商法があるが、会場はいつも老人で盛況である。以前、業者は高額な布団などを売っていたが、今は1-2万円の健康食品などを継続的に売っていて、人気がある。また80歳になって綺麗になったという化粧品の宣伝もテレビでよく見るが、老化防止を謳うものも人気が高い。老人になっても、歳をとりたくない、健康でいたいというのが、最後の欲なのかもしれないが、老いるのは自然の摂理であり、あまりに寂しい。若い頃から何でもいいので物欲を貯め、老人になっても継続していきたいものである。この場合の欲というのは好奇心というものに近い。新しいもの、便利なものが出たら買おうというのは好奇心そのものである。


2025年3月13日木曜日

幸せな家族

 



最近、幸せな家族とはなんだろうかとふと思う。両親が仲良く、子供も素直で、親孝行で、側からみても典型的な幸せな家庭がある。子供達は親の愛情に恵まれ、何一つ不自由なことはない。ところがこうした家庭では、あまりにも環境がよすぎて、その変化を求めない。子供が大学に入る場合も、家から通学できるところを親も子も希望するし、結婚して家をでることも望まないために、なかなか結婚できない。赤の他人と一緒に生活しても、親との今までの生活以上の幸せがないように思える。親も子供のいない日常生活はありえないと考え、結婚せずにいつまでも家にいてほしいと願う。そして両親と子供は、そのまま老いる。

 

昭和50年ころまでは、子供はいずれ結婚するという前提があり、女性であれば、23、4歳ころになれば、結婚するとされていた。そのため、親は何とか子供を結婚させようと躍起になり、あちこちの知人や親類に頼み、結婚相手を探した。親子関係が非常に緊密で、お互いずっと家にいてほしい、いたいと思う親子もいただろうが、それ以上に結婚せずに家にいることが許されない社会であった。結婚当初は親子ともさびしく思うが、家庭を持ち、子供ができると、そうした関係に次第に慣れていった。小津安二郎の映画の世界である。

 

ところが平成になると、結婚しない人が多くなり、結婚しないことに対する世間の批判も少なくなってきた。韓国映画やドラマでは美男美女が大恋愛の末に結婚する。ところがこれはあくまで映画であり、ドラマであり、実際の社会では、そんなに大恋愛はないし、できない若者も多い。現実に起こらないことを映画やドラマの中で夢見ているのだ。それではそうした若者はどうなるかというと、結婚もしないまま楽な実家にいることになる。周りを見渡しても結婚しないで、実家に親と一緒にいるところが本当に多い。それほど珍しい事象ではなく、もはや普通になってきている。

 

そこそこの給料をもらい、実家では部屋もあるし、料理は親が作ってくれる。休みには独身の友達と飲みに行ったり、旅行に行ったり、推しの歌手のコンサートに行く。知らない間に30歳をすぎ、40歳をすぎ、そして50歳、親も高齢となり、少しずつ世話が掛かるようになる。こうした家は多い。昔は、男女とも30歳までに結婚しろといったことが義務のようであった。結婚しない子供がいれば、親は近所、親類にみっともないので、何とか見合いでくっつけようとした。場合によっては結婚相手の顔も知らないまま結婚することもあった。少なくとも江戸時代から昭和50年頃まではこうした状況であった。そこには暴力的な夫に苦しむ妻の悲劇もあったろう。ただ江戸時代で言えば、今でいう離婚は普通であり、子供ができないと実家に追い返されることがある一方、旦那が嫌だと理由で実家に帰る妻もいた。単純に男尊女卑のものではなく、実家に帰ってきた女の人もまた良縁を求めて結婚した。別れ、結婚するというはそれほど恥ずかしいことでなかった。

 

日本でも、出生率の低下が大きな問題となっていて、それに対する予算、給食無料、保育園、高校授業料無償化などを含める莫大な費用がかかっている。ただ出生率を議論する前提として、婚姻率(事実婚も含む)を高めなくてはいけない。そのためには親子関係の見直し、高校卒業したら、一人で暮らす、親に頼らない生き方を選ぶ雰囲気作りも必要かもしれない。少なくとも就職するなら、実家を出ていくのが普通になり、彼女、彼氏と一緒に生活するのも自由な風潮が必要であろう。結婚制度、さらにいうと男女がカップルになるのは、単に生殖という観点だけでなく、太古の歴史から、合理的な仕組みであり、あくまで結婚、カップルになるのはいいという風潮を強くプロパガンダすべきである。そのためには、同棲、あるいは離婚、再婚に寛容な社会を目指すべきであろう。

 


2025年3月12日水曜日

今年の雪は異常である 3

 




冬用の下着といえば、まずユニクロのヒートテックを思い浮かぶ人が多いだろう。他にも各社で同じような機能的下着が販売され、暖かい下着として冬場は重宝している。ところが弘前のような雪の多いところでは、大雪の日は1日に何度も雪かきをすることになり、その度に大量の汗をかく。ところがヒートテックでは吸汗速乾を謳っているが、実際はそうではなく汗が下着に染み込んで、汗冷えする。場合によっては風邪になることもあり、雪かきが終わると下着を脱ぎ、タオルで体を拭いてから新しい下着を着るようにしている。

 

これが1日に3回ともなると、それだけ洗濯が増えることになるため、何とかいい方法はないかとここ数年試している。結論からすると、これは冬の山登りの衣服を参考にすればよく、冬の山登りは、シャベリングなどはかなりハードな作業で汗をかく一方、平地の歩行やテント内では汗はほとんどかかず、濡れた下着のままでは汗冷えして不快な状況となる、そのため、激しい運動をして汗をかく場合はすぐに乾く機能が強く求められる。

 

いろんな機能的な下着を試したが、汗冷えを確実に減らす下着としては、ミレーのドライミック メッシュ シャツが最も優れている。これは太い化繊でメッシュ状に編まれた下着で、厚みもあるためにそこに空気が入るため、汗はそのまま外に出る一方、体温の暖かい空気はその層にとどまるために、全く汗冷えはなく、冬場の下着としては最高である。ただ大きな欠点は、カッコが悪く、もしこの下着を着て救急車で運ばれると、それこそ女性用下着を着た時と同じくらい恥ずかしい。特に私のような太った人ではボンレスハム状態で本当にみっともない。

 

他の下着としては、パタゴニアの夏用の下着、キャプリーン・クール・ライトウエイトの速乾性がすごく、この上にもう一枚の下着、キャプリーン・サイマルウエイトのコンビは暖かくて、速乾性、吸汗性も高く、冬用の衣料としては優れている。雪かきとの時は、このコンビにパタゴニアのR2あるいはアークテリクスのカイヤナイトというフリースジャケットも良い。雪かきをするとすぐに暖かくなるので、アウタシェルはモンペルのゴアテックスのジャケットかアークテリックスのベータージャケットを着ている。

 

今年は弘前も観測史上最高の積雪量であったが、ハイガーの電動除雪機を買ったおかげでだいぶ助かった。ホンダやヤマハのガソリン除雪車は強力であるが、かなり大掛かりで、重くて、操作も複雑、さらに結構メンテナンス、修理も必要だと聞いた。そうかといって安い電動除雪機は非力で弘前の雪には通用しないと考えていた。そのためずっと雪かきといえば、スコップとシャベルを使った手作業であった。去年、妻が雪かきのしすぎで疲労骨折し、私も病気をして雪かきがきつくなったので、ダメもとで、ハイガー社の電動除雪機を購入した。確か8万円くらいで決して安いものではなく、ダメ元という値段ではない。

 

実際使ってみると、いろんな欠点がある。まず自動走行でないために、除雪機を前に押し出す力がいる。重い雪、積雪が多いと本当に力がいり、汗みどろになる。ただ別売りのソリを買うと、これはスーと滑り、力がかからない。40cm以上の雪になると除雪できず、上半分をまず飛ばしてから、下半分を飛ばす必要がある。そのため、大量の雪が降ると予想される場合は、例えば、夜の9時頃、20cmくらい雪の時にまず除雪し、朝の6時にまた20cmの雪を除雪するように2回にわけると問題ない。ただ電動除雪機で除雪できないほど夜中に雪が降ったのは1回で、今年のように異常な大雪でなければ、通常の年は問題ないと思う。

 

弘前のような雪の多いところでも、夜中に30cm以上降るときはあまりなく、ほとんど場合はこのハイガーの電動除雪機で何とかなった。これまで1時間かかっていた除雪作業が半分になったので、これですでに価値があったと思う。それに掃除機でゴミを吸い取るような快感があり、隣の家の駐車場の除雪もやってきた。ただ、やはり腹が立つのは、雪があまり積もっていないのに、除雪作業に家の前に大量に硬い雪の塊を置かれることである。この場合は、電動除雪機は全く使えず全て手作業となる。これが今年の冬で一番きつかった。


2025年3月6日木曜日

私の恩師

 




私には、二人の恩師がいる。一人は鹿児島大学歯学部名誉教授の伊藤学而先生である。鹿児島大学歯学部矯正歯科講座で8年間お世話になった。私自身、多くの教授と知己があるが、中でも伊藤先生は飛び切りの教授であった。そのため日本矯正歯科学会長にも選ばれ、日本学士院会員にも選ばれた。地方の大学から学会長や学士院会員に選ばれることは少ない。

 

伊藤先生は、よく言われたことで今でも実践しているのは

1.仕事は早く終わらせ、次に回す

何か頼まれたりした場合、つい面倒で先送りすることがある。結局はしないといけない仕事なので、どんどん溜まっていく。さらに仕事が溜まっていくと忘れてしまう。そのため仕事があるとできるだけ早く終えて、次の人に回すようにしている。例えば、メールでの問いわせがあると、簡単でもいいのですぐに返事をする。大抵の場合はこれで終わるが、もう少し時間のかかる仕事でも、できるだけ急いで一週間以内に返事して終了するようにしている。一流企業の会社員はこうしたことに慣れているが、一番ひどいのは学者で、彼らは2、3週間くらいしてから返事をするのが普通と思っている人が多い。かなり長文の資料や著書を送っても、全く返事すらない学者が多い。

2.70%でいい

どんなことでも100%が良いということは少ない。伊藤先生によれば、多少問題があっても70%がよければやれという。実際に、医院経営をしていても、ごく少数者だが、お金を払わないままとんずらする患者がいる。ただこうした患者を基準に規則を作ってしまうと、ほとんどの患者には面倒なシステムとなる。100%を目指すのではなく、70%を目指す方が、楽だし、無理がない。生き方もそうである。

 

もう一人の恩師は、高校生の時に家庭教師をしてもらった、元龍谷大学准教授の松谷徳八先生である。

1.本を読め、映画を見ろ、そして旅行をしろ

勉強も大切であるが、学生時代にすべきことは、本をたくさん読み、映画もたくさん見て、そして一人で旅行しろ、その中でいろんな人物に出会い、また人生を経験する。確かに人生は一回きりであるが、本や映画の中で他人の人生を追体験することができるし、一人で旅行することで、その土地、海外の人々と交流できることは、社会人になった時の大きな財産となる。私の高校生の時に沖永良部島への旅行、大学生になってからにインド、中国の旅行は大きな影響を受けた。

2.とにかく行動せよ

昔、夏休み終わる頃に、突如、松谷先生から今から一人で旅行しろと言われた。もうすぐ学校が始まるというと、なぜ学校が始まるから旅行にいけないのだ、学校を2、3日休んでも何か問題があるのかと言われる。結局は面倒くさい、一人で旅行するのが怖いというのが実感で嫌がっていただけである。最後はお袋も行けというので、一人で神戸から船に乗って沖永良部、奄美に4、5日行ってきた。学校は2日休んだ。何かをやるときは結構勇気がいるが、実際に行動に移すとそんなにたいしたことがないことが多く、むしろ自分の中で行動に移さない心理的葛藤の方が強い。いまだに“とにかく行動せよ”というのは難しいことであるが、以前に比べると経験が多くなると行動する敷居は低くなる。そして“忙しいから”と答えることはできるだけしないようにしている。世の中、忙しいと言っても大統領や首相ほど忙しいことはないだろうし、忙しいという人で、本当に忙しい人はいない。本当に忙しい人こそ、必要なことであれば、何とか時間を作るものである。

 



2025年3月5日水曜日

トランプ政権と大アジア主義

 


アメリカのトランプ大統領は、やり放題である。グリーンランド、パナマ運河のアメリカ領、ウクライナの休戦、資源の譲渡、メキシコ、カナダ、中国への関税などなどである。

 

それに対して世界では、報復関税などの対抗手段をとっているが、ほとんど効果がなく、改めてアメリカの巨大さ、強さを思い知った。ウクライナ大統領への恫喝など見ると、かって日本がアメリカから通告されたハルノートを思い出す。太平洋戦争に至るまで、日米間は決してうまくいってはいなかったが、お互い何とか譲歩しながらやってきた。1941年もハルノートが出される前までは何とか交渉しようという意思があったが、日本にはとても飲み込めな条件を出して、日本は開戦を決意した。

 

こうした力で押し込めようとするのがアメリカのやり方であり、明治維新後、日本は中国(日清戦争)、ロシア(日露戦争)、アメリカ(太平洋戦争)など、大国と戦争してきたが、アメリカは太平洋戦争後、どこと戦争したかというと、北朝鮮(朝鮮戦争)、ベトナム戦争(ベトナム)、イラク(湾岸戦争)、アフガニスタン、他にはリビア、シリア、ソマリアなどいずれも圧倒的に軍事力が劣る国と戦争してきた。弱いものいじめである。太平洋戦争前も見ても、インディアン戦争、テキサス戦争(メキシコ)、米西戦争(スペイン)、米比戦争(フィリピン)、バナナ戦争(キューバ、ハイチ)など、弱小国に軍事的な介入をしており、まともな戦争といえば、第一世界大戦と第二次世界大戦くらいである。これも途中参戦である。つまり基本的には絶対に勝つ戦争しかしないし、何かで紛糾すれば武力で解決するのがアメリカの基本的な考えである。こうした前提で、トランプ政権のアメリカを見ると、アメリカの原点に帰ったと言ってよく、もし台湾問題が起こっても、中国との戦争は決してしないし、さらに日本への侵攻、流石に米軍基地への攻撃があれば、自動的に反撃するものの、最終的は見捨てるのははっきりしている。

 

あくまでブログ上の空想である。ならばアメリカに対抗する方法と言えば、まず日本が再軍備化することであろう。これまでのアメリカが決して許さない、空母、原子力潜水艦、核兵器の開発、所有である。そして反米国国が結集して、アメリカと軍事的に対抗できる力を持つ。おそらくは中国が主導し、これに日本がくわわることで、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、南アメリカ、中近東などイスラエルとロシアを除く国の結集ができよう。それだけアメリカは嫌われている。同時にアメリカ軍の日本からの撤退を要求する。日本を守るなら、駐日米軍基地も必要であるが、日本の防衛もしないなら、日本にある米軍基地は必要ない。日米安保条約の破棄である。トランプ大統領自身も、過去に安保条約の破棄を漏らしている。究極の大アジア主義としては、「キリスト教国は仏外の外道国の悪国指定」とし、東洋の王道VS西洋の覇道に勝利するという石原莞爾の最終戦争論に行き着く。さすがにこれは極端であるが、それでも空母「かが」のように、なし崩し式に輸送船から空母建造に向かったプロセスで、三菱重工が開発中のマイクロ原発を使った原子力潜水艦は建造できそうである。また核兵器については、すでに固形ロケット、イプシロンを持っており、1.2トンの核兵器を地球上のどこにも投下でき、広島型、長崎型の原爆重量でも全く問題ない。開発が難しい核兵器の小型化も必要ない。また小型化が完成すれば、現在開発中のブロック2B、極超音速ミサイルに搭載でき、射程3000kmを超える迎撃が困難な中距離ミサイルとなる。もちろん中国、北京も射程圏内である。

 

安保条約破棄に向かったこうした動きは誰かの意思が働いているのか、着々と進められており、安倍政権以降、平和憲法というくびきが外れたようである。トランプ政権は、アメリカ中心主義、モンロー主義に戻ろうとしているのか、世界の警察という役割を拒否している。結果として各国は警察に頼れないのであれば、自ら武装化することになり、各地での戦乱、あるいはアメリカ国内でもテロが多発していくだろう。全く困った人である。あと4年の辛抱であるが、プーチンのように憲法を変えて居座る可能性もある。