2018年8月30日木曜日

高い矯正治療料金=いい治療?


 このブログでも何度も矯正料金を取り上げてきた。私も23年前に青森で開業した時、苦慮したのは矯正料金設定である。矯正料金は一度、決めるとなかなか値上げができないため、最初の設定をどうするかが非常に重要となる。すべての費用を含めた一括料金と基本治療+毎回の治療費の二つの方法が多い。例えば最初から最後まで(再治療費を含む)の治療を63万円とし、来院ごとには治療費はとらず、一括料金を2年、24回に分けて徴収する。この場合は、総額が前持って決まっているため、途中で治療を止める場合も少なくし、患者側からすれば、これ以上費用はかからないという安心感がある。もう一つの方法は基本治療費、私の診療所で言えば40万円と毎回の調整料、さらに保定装置料4万円といったもので、来院回数が増えると総額の費用は多くなる。上の例で言えば、基本治療費+(調整料3000円×30=9万円)、保定装置料4万円で計53万円となる。最初の費用は安いが、総額がいくらになるかは不安である。

 こうした矯正料金については、全く根拠はなく、実際の装置そのもの、例えばブラケットの費用は一個、数百円〜2000円くらいであり、すべての歯にブラケットをつけても材料費はせいぜい数万円くらいである。ただブラケットを唇側やリンガルブラケットをインダイレクトでつける場合やインビザライの技工料は1030万円と高いが、それでも一般的な矯正治療費のほとんどは技術料と考えて良い。この技術料というのは、きちんとした仕上がりを達成するだけでなく、後戻りに対する再治療費も含む。例えば治療が終了して保定に入って、数年たち、後戻りが起こればその再治療(調整料は除く)の費用はかからない。

 一般的には技術料というのは、その先生のキャリアに依存する。世界的に有名な美容師であれば、その人にカットしてもらおうと思えば高額な費用がかかる。同様に欧米では医療分野であっても、その世界の権威であれば、莫大な治療費がかかる。ところが矯正歯科で言えば、全く矯正のキャリアがない先生でも200万円ということもあるし、本当に素晴らしいテクニックを持つ先生でも80万円ということが普通にある。日本矯正歯科医会には日本を代表する矯正歯科医が加入しているが、そのアンケート結果をみても、それほど高額な矯正費であるところは少なく、通常の唇側矯正で100万円を越えるところは少ない。

 普通に考えれば、値段が高くて、技術が下手なところにいく患者はないだろうと思うが、それが実に多い。勉強不足でそうなるのはわかるが、インターネットでさんざん調べた結果、なんでこんなところに行くのかというところに行く。インターネットは、便利な反面、HPではいくらでも細工はできるし、同様に口コミもSEO対策で何とでもなる。インターネットで調べると、HPがきれいで、最新の治療法が載り、患者の評判もよければ、ついそちらに来院するであろう。ただこうした歯科医院をよく調べると、矯正の専門教育を受けていない先生や若手の矯正認定医であることが多い。ここで最初の矯正治療費は技術料ということに戻ろう。こうした若手の先生のところでの治療が安ければわかるが、その師匠に当たる先生のところより治療費が高いことが多々ある。以前、私の医院に東京の歯科医院で矯正治療中の患者がトラブルのため来院した。メタルブラケットがでたらめにつけられ、ひどい治療である。何でもワイヤーが飛び出て痛いので応急処置をしてほしいということで、すぐに処置は終了した、患者は青森県内に住む人で、奥さんも東京で治療を受け、自分も先月から治療を受けに青森から東京に通っているという。費用はというと一人200万円、二人で400万円となる。矯正治療の評価は、模型とレントゲン写真で完全に評価できるが、この先生はおそらく、この費用に見合う技術があるとはとても思えない。日本最高峰の先生でもこうした費用設定はなく、まさに怖いものしらずの価格設定である。まともな矯正歯科医であれば、青森から東京まで通わせる時点でアウトであり、通常、近くの矯正歯科医を紹介する。

 矯正治療は高額な治療であるので、まず実際の治療を行う先生のキャリアをみてほしい。日本矯正歯科学会の認定医が最低条件である。さらにかかりつけの歯科医か紹介してもらうのがよい。これまでの紹介した患者からの評判や結果を充分に知っているからである。そして少なくとも二軒以上の、場合によっては数軒の歯科医院で話を聞くのもよいが、かえって混乱することもある。一番いいのは、矯正専門医から紹介してもらうのがよい。東京の大学に進学し、そこで矯正治療を受けたいなら、まず地元の矯正歯科医院を訪れ、そこから紹介してもらうのがよい。あるいは周りの友人で矯正治療をしてきれいな歯並びの人がいれば、その歯科医院を聞くのもいいかもしれない。少なくとも高い治療費=いい治療とは考えないでほしい。

2018年8月19日日曜日

これからどうする韓国、中国メーカー



 韓国のサムソン電子は、携帯電話をはじめ、今では世界最大の家電メーカーとなっている。日本ではそれほど、家電量販店にサムソンの製品が並ぶことは少ないが、売り上げでみるとサムソン電子が24兆円に対して、日本最大のパナソニックは75500億円と1/3くらいしかなく、また経常利益もサムソンが57000億円に対して、パナソニックは4100億円と1/10以下である。圧倒的な差である。

 ところが30年前までは、サムソンは日本企業の模倣に終始し、スパイを送ったり、東芝やソニーを退社した人を高額で雇い、その技術を盗んだ。あるいは日本企業が開発し、販売した状況をみてから、その技術を短時間でマスターし、豊富な資金量により大量に低価格で販売した。日本の除く海外では、同じ性能であれば、メーカー名よりは価格を重視するため、必然的にサムソンの製品が売れた。典型的なケースはシャープで、この会社は液晶テレビの主要部品であるパネルに強い技術力あったが、容易に模倣され、あっという間にシャープは崩壊して、現在は台湾企業の傘下となった。このシャープの一件までは日本と韓国の企業は比較的仲良くやってきたが、これ以降、日本と韓国企業に協力はなくなった。むしろ日本企業はサムソン電子のまねをするようになった。

 すなわち、ある新製品が出しても、それが売れるか確認してから二番手として売り出す。最初に製品を出すところは大きなリスクが求められるが、売れるとわかった二番目の製品にはリスクは少ない。ひとつの例でいれば、かって3Dメガネでみる3D液晶テレビがサムソンで最初に売り出された。BSでも一時、3D番組もあったが、その後、2、3年でブームは去り、現在では3Dテレビなど一台もない。日本企業も一部売り出したが、損失はサムソン電子が一番大きい。現在では、有機ELテレビで同様なことが起こっている。ソニーなどのメーカーは自社で有機ELテレビが作れるが、その売れ行きが判明しない。そこで 韓国メーカーのLGからパネルを供給してもらっている。自社でのパネルの生産を含める一貫製造はやめて、サムソン流に徹している。他には、最近のカメラではやっているミラーレスカメラは、最初、サムソンカメラで始められた。非常に優秀なカメラであったが、ニコン、キャノンなど日本メーカーがあまりに強く、結局はあまり売れず、サムソンカメラ自体、なくなってしまった。この早い決断は韓国式であるが、その後、サムソンカメラがなくなったのを確認してから、日本メーカーもミラーレスカメラを販売しだした。

 こうして日本メーカーもサムソン流、つまりパイオニアはやめて、失敗作を少なくする方法をとったところ何が起こったのか。それは全く革新的で新しいものが出なくなった。実をいうと、世界最大の電気メーカー、サムソン電子が、発明した革命的な製品は一つもない。デジタルカメラ、DVD、リチウムイオン電池、ウォークマン、トランジスターラジオ、電卓、電子レンジ、イメージセンサー、カーナビ、フラッシュメモリーなど、生活そのものを変える革新的な製品は、すべて日本企業を作ったもので、これに匹敵するような製品をサムソン電子は一つも作っていない。

 日本人は韓国人より創造的とは言わないが、多くの失敗を中から生まれた革新的な製品を、模倣して稼ぐサムソン電子がトップに立った瞬間、模倣するものがなく、開発したものはすべて失敗している。ある人が言っていたが、“もしアジアに日本がなかったら、今でもアジアの経済状態はアフリカ同様であったろう。まして韓国、中国は日本の隣にあり、繁栄しないわけはない”と。確かにアジア諸国では日本に隣接する韓国、台湾、中国の経済的発展が大きく、それは隣に日本があり、その模倣をするだけで、国が成長したからである。日本は遠い西洋を模倣しようと懸命に努力してきたが、隣国ははるかに簡単に日本を模倣できた。


 さあこれから韓国、中国はどうする。電化製品だけではなく、すべて日本を模倣し続けてきた国が、新たなものを生み出す力があるか期待したいところである。高くても欲しいと思う中国、韓国のブランドはほとんどなく、唯一、韓国のアウトドアメーカのHelinox(折りたたみ チェアーが有名)くらいしかないが、このメーカーも故意に韓国メーカーを隠している。分野によっては、すでに日本を凌駕する韓国、中国企業もでてきて、そのトップになっているが、果たしてトップの責任である革命的な新製品の開発を模倣なしでできるか。蚊取り線香は日本人の発明だが、マラリア患者の減少に繋がっている。日本人には“商品により人々を幸福にしたい”という強い思いがあるように思え、これが新製品開発の一つのスタートになっている。こうした想いが、韓国や中国でも出てくるかが決め手となろう。

2018年8月12日日曜日

明治の女子力 アメリカに渡り女医となった四人の明治女性

岡見京

阿部ハナと須藤カク



テレビ番組の企画案 
1.概要
<シーン1> 医学部で学ぶ現代の女性、萩野吟子写真、医籍登録原本写真

 現在、日本の医師のうち、女性医師の占める割合は約20%、さらにその数は増えています。パイオニアは、荻野吟子(嘉永四年大正二年、1851-1893)で、幾多の苦難を克服して、明治十八年(1885)に医術開業試験に合格しました。今年で133年になります。医籍登録者の第二号は明治二十年三月に登録した生澤クノ、第三号は高橋瑞、第四号は本多センと、すべて済生学舎などの医術予備校で男性にまじって学び、その後、医術開業試験に合格して医者となりました。
 ところがその後の医籍登録者をみていくと、第五号の岡見京はペンシルベニア女子医科大学、第八号の菱川ヤスは外国医学校(シカゴ女子医科大学)、さらに調べると明治三十一年四月に医師登録した須藤カク、阿部ハナもまた外国医学校卒業(ローラメモリアル女子医科大学)とあります。これだけ女性医師が増えた現在でも、わざわざ外国に留学し、そこの医科大学を卒業する学生はかなり少ないと思いますし、困難だったでしょう。彼女らはどうして外国に行ったのでしょうか。四人の明治の女性の物語です。

<シーン2> 岡見京のこと
岡見写真(クラス写真)、岡見写真(3人の留学生)、アメリカ、フィラデルフィア ドレクセル大学医学部

 1888年のクラス写真には、その中心に横を向いた端正な東洋人女性がいます。岡見京(安政六年昭和十六年、1859-1941)です。青森県下北郡大畑出身で、横浜で貿易商をしていた西田耕平の長女として生まれました。父は幕末、日本と上海の貿易を行うなど先駆的な考えをもつ人物で、娘には西洋的な教育をさせようと明治六年に横浜共立女学校に入学させました。卒業後、英語教師などをしていましたが、明治十七年(1884)に岡見千吉郎と結婚します。夫が渡米する機会があり、かねてから念願であった医師になるために岡見京は単身、ペンシルベニア女子医科大学に入学します。ここで三年、苦学し、優秀な成績で卒業します。帰国後、海外の医科大学を卒業すると医術開業試験は免除されるので、医籍登録を行い、明治二十二年からは高木兼寛の慈恵病院の婦人科主任として働きます。

<シーン3> 菱川ヤスのこと
未調査資料、横浜婦人慈恵会病院写真、横浜取材

 菱川ヤスについては名古屋出身、父は政府の官僚であったとされますが、はっきりしません。明治四年にできた横浜共立女学校の最初の入学者の一人です。宣教女性医師アデリン・ケルシーは日本人の女性医師を育てることは重要と考え、女学校の卒業生の中に相応しい人物を探します。そして選ばれたのが菱川ヤスで、明治十八年(1885)に渡米し、シカゴ女子医科大学に入学します。卒業後、さらにインターンとして勤務して帰国したため、医籍登録は岡見京より一年遅れました。その後、根岸にできた横浜婦人慈恵会病院に勤務し、貧しい人々の治療を行っていましたが、病を得て、若くして亡くなりました。

<シーン4> 須藤カク、阿部ハナ
須藤、阿部の写真、ローラメモリアル女子医科大学の現在の場所、弘前市の生誕地

 須藤カクは、弘前藩士、須藤新吉郎の娘として文久元年(1861)に弘前市で生まれた。父は幕末、函館で洋式土木を学び、維新後も政府の土木関係の仕事をしていた。好奇心旺盛のカクは、東京に英語を教える学校があると聞くと、上京する兄と一緒に明治四年に東京に向かいます。女子の学校がなく、男装して授業を受けたりしましたが、横浜に外国人の経営する女子の学校があると聞き、明治五年に横浜共立女学校に入学します。菱川ヤスの一級下、岡見京の一級上と思います。一方、阿部ハナについては、はっきりしませんが、明治五年に相模原の農家の娘として生まれます。二人とも卒業後、伝道活動をしていましたが、菱川同様にアメリカの医科大学に入学して医師になるべき、明治24(1891)にアデリン・ケルシーと一緒に渡米し、翌年、シンシナティーのローラメモリアル女子医科大学に入学し、卒業後、1898年に横浜の婦人慈恵会病院で働き始めます。

<シーン5> インタビュー
横浜共立学園関係者
岡見京の孫
須藤カクの妹の孫(ナッシュビル在)
日系アメリカ人女医

<シーン6> プロローグ
 岡見京、須藤カク、阿部ハナのその後を追います。
 岡見京は、衛生園などを経営しますが、医業はやめ、晩年は教会活動に従事します。須藤、阿部らは、経営方針の対立から慈恵病院をやめ、失意のまま恩師ケルシーの故郷、ニューヨーク州、カムデンに向かいます。農園をしながら、穏やかな信仰生活を送りました。阿部は42歳でここで亡くなりますが、須藤はフロリダ州、セントクラウドに移り住み、アメリカ国籍を得て、102歳まで長生きします。
 今でもアメリカの医科大学を卒業するのは、知識、語学の点でも非常に難しいものですが、100年以上前の日本女性がチャレンジして優秀な成績で卒業したことは、すごいことです。彼女らは日本で活躍するチャンスは少なかったため、ほとんどの日本人は知りませんが、明治百五十年を迎える今年、もう一度、明治の女性達の女子力を発見したいと思います。

2. 取り上げてほしい番組
NHKスペシャル
歴史秘話ヒストリア
ドキュランドへようこそ
歴史鑑定(BS-TBS
The 歴史列伝(BS-TBS
世界不思議発見(TBS

3. 参考文献
     「ディスカバー岡見京」(堀田国元著、2016
          「須藤かく−日系アメリカ人最初の女医」(広瀬寿秀、2017
     「明治女医の基礎資料(三﨑裕子著、2008