2013年2月24日日曜日

上田槐堂、工藤儀郎


 「明治二年弘前絵図」、旧版について少数在庫があり、何人かの方から問い合わせがあったが、こういった本の需要はまだあるようである。ありがたいことである。「新編明治二年弘前絵図」の内容は、半分くらいは旧版と重複しているが、大幅な文章の追加を行ったので、期待していただきたい。4月ころには発刊できそうであるが、歯科医師会、矯正歯科の各種の仕事があり、さらに今年の5月に弘前で東北矯正歯科学会大会が開催されるが、その大会長を仰せつかっているため、忙しい。一部、新たな情報を掲示したい。

 鍛冶町川端丁に上田与五郎の名がある(右から3番目)。書家、儒学者の上田槐堂(1788-1866)のことである。名は昌栄、通称与五郎、字槐堂、幼名栄次郎、左門、惣蔵と名乗る。書道上田流の開祖、上田素鏡の曾孫に当たる。素鏡は信州上田の出身で、享保20年(1735)、六代藩主津軽信著の時に右筆として召し抱えられ、二代惣蔵の代には勘定奉行、用人を勤め、禄も200石となった。四代目の槐堂は、小姓頭、大組足軽頭などを歴任し、林大学頭に詩文、経学を学んだ優秀な学者、書家であった。主君にもかわいがられたが、順承の世子問題で、大道寺玄蕃、笠原近江に妬まれ、永の暇、相澤村(青森市浪岡相沢)への牢居流罪となった。引き離された家族5人は、わずか二人扶持が与えられ、この鍛冶町川端丁でひっそり暮らした。天保10年に恩赦により牢居は許されが、隠居となり、黒石で私塾“上田塾”を開いた。倅の賢之助が100石、後に50石加増され、家督を継いだ。槐堂は、12代藩主承昭からその知識を請われ、文久二年(1862)に稽古館小司となり、若者たちの育成に力を注いだ。慶応2年に亡くなっているので、戸主は倅の賢之助(昌一)の名になっていなければいけないが、そのままにしていたのか、倅も通名の与五郎の名を名乗ったかもしれない。本来なら下級士族町の鍛冶町から他の所に移るべきだが、そのまま住んだのであろう。

 工藤儀郎の名が上瓦ヶ町にある(図左側一番端)。工藤儀郎(1832-1891)はここで私塾を開き、主として幼少の子供たちに漢学の初歩を教えた。当時の授業は素読と呼ばれるもので、中国の古典を意味もわからず、暗記させ、読ませた。この方法が良かったかどうかは別として、当時の士族は皆、この修練を受けた。そのため、漢文に対する免疫があり、おそらく普通の人でも現代の中国文学の専門家並みの漢文読みであったろう。工藤儀郎の私塾には。菊池九郎、本多庸一、珍田捨巳などが習った。本多庸一はその後英語を学び、アメリカに留学して、日本のキリスト教の指導者となるが、その根本思想は漢文であり、工藤儀郎塾でも本多は抜群にできのよい子供であった。対照的に菊池九郎は塾に行くのがいやで、ついさぼろうとするのを何とか本多の誘いで通っていた。士族はその後、藩校稽古館に通うようになるが、その前段階の塾として、この工藤塾は有名であったのであろう。場所的にはちょうど今の松野整形外科前当たりとなる。瓦ヶ町も下級士族の町ではあるが、絵図上には一戸兵衛陸軍大将、新撰組隊千田兵衛、慶応義塾で学んだ寺井純司、漢学者の工藤行幹、菊池元衛の実家がある。菊池元衛の長男、菊池武徳(1867-1946)は、東奥義塾卒業後に東京専門学校、慶応義塾に学ぶ。その後、時事新報記者を経て、朝野新聞を経営した(1891-1893)。政界に転じ、衆議議員となったが、晩年は多くの著作を著した。

上田槐堂も黒石藩主にその学を見込まれ黒石に上田塾を開設したが、こういった漢学を主体とした私塾は江戸期多くあり、その師匠により生徒は大きな影響を受けたのであろう。


2013年2月20日水曜日

診療所のリフォーム2




 診療所の待合室を広げて、北欧風にリフォームしましたが、患者さんの評判も上々でホッとしました。ただ受付が広くなり、使いやすくなったのですが、中が丸見え状態となり、カウンターの高さを挙げてもらい、廊下側から中が見えないように目隠しをする予定です。また患者さんが落ち着くようにダウンライトの電燈色にしましたが、受付が暗く、テーブルランプを置くことにしました。

 壁掛け時計をアンネ・ヤコブセンのCity Hallというものにしたので、ランプもヤコブセンのAJスタンドにしたいところですが、ルイスポールセン社のものは10万円近くするので、これは手が出ません。そこでお恥ずかしいのですが、コピー商品、一応、リプロダクト製品を探しました。するとR&Mインテリアストアという会社で、何と11000円で売っていました。ほぼオリジナルの1/8の値段で、当然中国製です。15000円以上、送料無料ですので、ついでにこれもデンマークのHans Bolling によるOscarというかわいい犬の木製玩具も買いました。これもコピーものですが、価格が本物の1/2くらいですので、家でコレクションする場合は、アーキテクトメード社の本物の方が造りはいいでしょう。

 届いたAJスタンド、これは重量もそこそこあり、もともとシンプルなデザインですので、塗装はオリジナルより劣っているかもしれませんが、十分だと思います。あまりに価格差は大きく、リプロダクト製品でソファのような機能を求めるものなければ、コストパーフォーマンスは高いと思います。気に入りました。AJスタンドはテーブルタイプとフロアタイプがありますが、フロアタイプはあまり使い勝手がよくないように思えます。自宅では、イタリアのArtemide社のトロメロシリーズの3つ折のものを使っていますが、これは非常によくできたもので、寝ながら本を読むのには最高です。この種の折り曲げ式のものは、電灯部分の固定が甘くなりがちですが、トロメロシリーズは、ゆるくなるとねじを締めることで位置を固定ができます。すでに15年以上使っていますが、全く問題ありません。ほぼ一生ものでしょう。

 前から壁に小さな棚を作りたかったので、赤、黄、白色の3つの小さな棚を作ってもらいました。間違って白が青になってしまいましたが。ここに当初は、集めた北欧陶器を飾ろうと考えたのです、が、家内は地震がおきて、落ちて患者さんに怪我をしたら大変だと指摘されました。小さな木製、プラスティック製の置物しか置けないようです。そこで木製の玩具を調べてみました。ちょっと気になるのは、ドイツのライナーフラートの木製の消防車のミニカーです。これはよくできています。かなり小さなものですが、色々な種類があって楽しめそうです。早速、注文して、本日、到着しました。非常に小さなものですが、よくできていて、ホースを巻いた部品も可動します。ただ棚に飾るには小さすぎて、ちょっと失敗した気がします。棚に飾るのであればもう少し大きなものの方が良かったようです。ただこういったミニチュアものの木製はめずらしく、趣味で作れそうな気がしました。朴の木などを使い、昔のソリッドモデル、といっても若い人はわからないと思いますが、プラモデルのない時代、木を削り、着色して飛行機や船などを作っていました。この方法も用いれば、ライナーフラートのような木製の車は作れそうです。構造をもう少し、検討してみます。


2013年2月15日金曜日

中国海軍の挑発行為

 個人的に戦争物には昔から興味があり、多くの書籍を読んできた。それでもわからないのが、どうして日本はアメリカと戦ったのか、という点である。山本五十六を例に出すまでも日米間の国力の差は大きく、冷静に考えれば当時でも戦争をして勝てる可能性はほとんどなかった。これは先の日露戦争でもそうであったが、国力差があるロシアに勝ったという僥倖が、アメリカとの戦いに何とかなるという淡い期待を抱かせたのはまちがいない。

 こういった理性的に考えると、負ける可能性の高い戦いに望むというのは、ある意味男らしい行為であり、かっこいいと言われるものかもしれない。日露戦争、大東亜戦争でも、政府、軍部以上に真っ先に開戦を望んだのは、マスコミであり、国民であった。国民はその情報のほとんどをマスコミから得るため、国民の意思を形成させるのは、戦前では主として新聞の影響が大きかった。本来なら最も知性的な媒体であるはずのマスコミが最も好戦的であった。これは日露、日米戦争の時もそうであり、冷静に分析を行った新聞社はほとんどなかった。政府首脳、軍部の方がむしろ冷静な分析をしているが、マスコミ、新聞は盛んに政府の弱腰を批判するというパターンである。でかい声の方が威勢がいいのである。確かに好戦的な論調の方が新聞が売れるであろうし、政府の覚えもよい。何より、こういった好戦的な論調は勇ましく、気持ちが高ぶる。極論すれば、先の大東亜戦争を起こした主犯は、朝日、毎日新聞などのマスコミだと言えよう。これに懲りてか、戦後、朝日新聞は180度方針を変え、平和主義を貫くが、どちらかと言うと親中、親ソ(ソビエト)など社会主義国に同調的な社風となった。最もひどいのが、今に始まる従軍慰安婦のでっち上げ記事、あるいは悪名高い中国文化大革命の讃美記事、これはひどかったし、その後の反省もない。アメリカの原爆実験には反対するが、中国、ソビエトの核実験をスルーするという態度である。今でも沖縄の新聞は、その傾向が強い。

 今回の日中の尖閣諸島問題についても、中国の報道機関の扱いは戦前の日本のそれに近似し、かなり好戦的記事が多いようだし、日本の雑誌でもそういった風潮のものが売れている。私も「日中もし戦えば」といった架空物語は好きで、関連書をよく読むが、現実の戦争を望むものは日中の首脳とも、ほとんどいないであろう。あまりにリスクが双方とも大きすぎるからで、そういう意味から第二次世界大戦後、大国同士の戦争はない。世界大戦後の戦争は、すべて弱い物いじめ、あるいは代理戦争である。勝てる戦争、被害の少ない戦争しかしないということである。イラク戦争のアメリカ軍の戦死者数は約4500名、アフガニスタン戦争の戦死者数は約2000名、硫黄島の戦いの戦死者数6800名に比べると、圧倒的に少ない戦死者数である。一方、イラクの戦死者数は10万人以上、アグガニスタンでは2万人以上と言われ、弱いものいじめといわれてもしょうがない。

 中国軍は昔から、兵隊になるのはどうしようもない連中で、一人っ子政策が浸透した現状では、馬鹿な息子を親が幹部に金をやって入隊させたり、配属を変えてもらったり、さらに軍幹部は会社を経営して私腹を肥やしている。こういった現状では、末端の兵士、あるいは将校のレベルも非常に低いものと思われる。先の自衛隊艦船に対する非常識なレザー波照射も完全に、中国海軍フリゲート艦の艦長、あるいは砲術長レベルのミス、あるいは子供じみた行為であろう。ヘリコプターの威嚇接近など、こういった中国軍の練度の低さによる事件は多い。2001年の海南島事件では、中国空軍のパイロットの常軌を逸した挑発行動が大きな事件となった。同様の偶発的事故はコソボでの米軍による中国大使館の誤爆、イラク戦争での民間機イラン航空機の撃墜などがあるが、アメリカでは報道の自由があり、ミスを認め、責任者の処罰を行ったが、官僚国家、社会主義国家では、基本的には罪は認めないし、正確な報道も望めない。そのため対中国においては、多くのパイプを持ち、相手側の正確な意図を把握する必要があろう。中国政府、軍部とも巨大な官僚組織であり、日本でも官僚内のミスはひたすら隠蔽する体質と同様、官僚組織は自己保存の性格を内蔵するものである。最大の官僚組織の中国軍をうまく扱うのは中国政府首脳にとっても難しい。早期の日中首脳会議の必要性が高まっているし、本音でしゃべれる日中間の人的交流が重要であろう。

 2年ほど前のことだが、韓国海軍が横須賀に表敬訪問したことがある。この時、韓国の軍艦はメインマストに何と、自国旗を掲げた。世界的なルールでは表敬訪問する場合は、相手国旗を掲げるのが常識で、自国旗を掲げるのは戦闘行動を意味する。世界中の海軍から大笑いされた事件であるが、外洋海軍の歴史の浅い中国海軍の艦長クラスはもっと国際的な常識に疎い可能性があり、今後もこういった挑発行動は続くであろう。

2013年2月14日木曜日

大学受験

 受験シーズンである。うちの衛生士のところも高校3年生の娘がいて、先日センター試験があったばかりである。私の娘は、長女が5年前、次女は一昨年、大学受験で、その際、私も大学受験については久しぶりに勉強したが、昔に比べて受験機会が多く、ほぼ実力通りのところに行けるような受験システムになっていること、AO入試の枠が非常に多くなったことが随分違う。といっても受験の大変さは昔も今も変わらない。

 私の場合、現役の時は、サッカーで龍谷大学から誘われたが、ここは却下した。当初、将来ジャーナリストになりたいと出来たばかりの大阪大学の人間科学部にも興味があったが、結局はなじみのある歯科大を選び、大阪歯科大学、東北大学歯学部、東京医科歯科大学歯学部の3校を受けた。高校3年生の時はサッカーばかりしていたので、勉強しようという気がどうも最後までしないため、全滅した。大阪歯科大学は模擬試験でも常にA判定であったので、いまだにどうして落ちたかはわからないが、他の二校は実力通りの結果であった。英語、国語、世界史など文系の科目はまあ得意であったが、いかんせん数学、物理が全然ダメで足を引っぱっていた。浪人が決まってもそうは落ち込まなかったが、一番ショックだったのは、当時、六甲高校の浪人生徒のほとんどが行っていた大道学園という予備校の入試に失敗したことだ。当時は予備校にも試験があり、成績が足りない場合は落とされた。さあ大変、大阪の予備校を片っ端から受験し、何とか、YMCA予備校難波校に入学した。豊中校は落ちた。

 この予備校は、さすがYMCAで、予備校内に体育館があり、そこでよくバスケットボールをした記憶がある。苦手科目の数学を中心に勉強したが、やはり先天的に苦手なのであろう。数IIIが何とか、点数をとれるようになったが、数IIIは最後までできなかった。それでも現役時代よりは多少はましになったのであろう。

 浪人して、受けたのが、大阪医科大学、東京歯科大学、松本歯科大学、東北大学歯学部、東京医科歯科大学歯学部の5校である。国立大学受験までの3校のうち、大阪医科大学は補欠、東京歯科大学、松本歯科大学は合格した。親の知人は大阪医科大を勧めたが、松本歯科大学が寄付金なしということで、この時点では松本歯科大学に入学することにしていた。入学生代表というとことで挨拶文まで一応用意していた。この年、東北大学歯学部の定員は40名から80名になり、それも出願後に国会で定員の倍増が決まったため、自動的に競争率も半分になった。ラッキーであった。前回、大学からの斡旋に従って泊まった旅館が5人部屋で、いびきがうるさく、寝られなかった苦い記憶があるため、浪人の時は奮発した二人部屋の旅館に泊まった。同室の学生は文学部を受験するひとで、最後にじたばたしてもしようがないということで、夜はテレビで「ベンハー」を見たり、考古学の話などをしていた。すると次の日の世界史の問題にベンハーの時代のことが出題され、二人で昨日勉強しないで映画見ていたのは正解だったと喜んだ。肝心の数学は、この年は不思議なことに数III中心に出題されていたため、5問中、驚異の4問半解けて、自分ながら今回はうまくいったと思った。もちろん合格し、こうなったら全校合格と、医科歯科大学を受けたが、当時の二期校の中でも医科歯科大学の競争率は13倍ほどで、ああこの列の中から一人だけが合格するのかと思うと、無理だと思ったし、数学は結局できなくて、落ちた。

 昔の入試は、センター試験も何もなく、合否は一発勝負だったので、そういった意味ではかなり運も作用した。受験の際に、うちの娘にも言ったのは、受けない限りは受からない。数打ちゃ当たる。運を信じて、受験生もがんばってほしいものであるし、人生、1、2、3年の回り道は、81歳と84歳は何ら変わりのないように、気にする必要はない。。


2013年2月11日月曜日

日本臨床矯正歯科医会東京大会



 今週の火曜日から木曜日まで、東京の学術総合センターで行われた日本臨床矯正歯科医会東京大会に出席してきました。場所は、東京の神保町で、東京駅からは近いと思っていましたが、案外地下鉄のアクセスが悪く、東京駅から大手町、そこで乗り換え神保町いうことになり、もっぱらタクシーの利用となります。

 日本臨床矯正歯科医会というのは、日本の矯正専門医の会で、現在500名ほどの会員がいます。皆さん、ベテランの先生方ばかりで、平均20年近い開業歴を持っています。やや年配の先生が多いようです。今回の大きなテーマは、抜歯、非抜歯について何らかの会としてのコンセンサスを出すというものです。会員にアンケートを出し、その結果を報告していました。

 以前、朝日新聞社のムックに載っていた専門医の抜歯率から平均で60%前後との数値を得ていましたが、今回の結果もほぼ同じ、57%くらいだったと思います。ただバラツキは10%-90%と大きく、ベテラン、若手に関係なく、先生により抜歯、非抜歯の判断がだいぶ違うようです。この原因として、矯正用アンカースクリュー、大臼歯の遠心移動法、側方拡大、機能的矯正治療法、ディスキングなどにより以前に比べて抜歯する比率は低くなったものと思われます。また分析法によっても違ってきますが、一番大きな理由は、先生により歯列をどこまで拡大できるかという点でしょう。一般的には下顎犬歯部の側方拡大は後戻りすることは多くの研究で実証されています。となると拡大方法は臼歯部あるいは前方への拡大となります。欧米では1960年代、抜歯率が90%近かったのですが、最近では20.-30%に低下しています。おそらくは前方への拡大に許容範囲は大きくなったことによるでしょう。白人では鼻が高く、オトガイも前に出ているため、あまり歯を中に入れると、口元が引っ込みすぎることになります。また最近のエスパニック系、黒人系に俳優の影響で、やや口元が出ている方がエロチックと見られるせいかもしれません。さらに歯列が長いため、大臼歯の遠心移動のスペースも大きいようです。日本人は短顔のため奥行きは浅く、大臼歯の遠心移動や前歯の前方拡大に無理がありますが、横への拡大はある程度できるでしょう。

 私はどちらかというと、東洋人は口元が突出しているため、できれば口元を引っ込める治療、お口がしっかり閉じられるようにしたいので、抜歯率は高いと思います。ただ今回の学会で、東京の尊敬するベテランの先生とお話する機会があり、あまり口元を引っ込めると若い時はきれいだが、歳をとると、口元がさびしくなると言っていました。以前から気になっていたのは、紀子さんの口元です。確かに若い時は、口元がしまって理知的な美人でしたが、46歳になるとやや口元がさびしい気がしますし、さらにお年を召されるともっとさびしくなるかなあと思ってしまいます。

 私自身、これまで患者さんが6070歳になった時のことまで想像していませんでした。口の周りの口輪筋は年齢とともにしまりはなくなりなり、弛緩してきます。そのため、入れ歯では、やや口元を膨らませた方が、口周りのシワが伸びて若返ります。こういった見方をするともう少し前方への拡大の許容範囲を広げてもよいかもしれません。側方への拡大、前方への拡大、大臼歯の直立など少しトライしてみたいと思いますが、それでも抜歯率が30%以下なるのは難しいと思います。「矯正歯科治療に際しては永久歯の抜去が必要な症例はある」というコンセンサスは妥当ですが、あまりに当たり前すぎて、大きな意味はコンセンサスとしてないように思えます。写真はモデルの大原里恵さんですが、矯正医からみればやや口元がでていますが、この程度は今後のエージングを考えればいいのかもしれません。一般的には鼻と下の部分と上唇の角度は90度から110度と言われていますが、大原さんの場合は、90度より少し小さいでしょう。

2013年2月8日金曜日

診療所のリフォーム




 先週の土曜日の昼から、青森市で行われた県歯科医師会の委員会に出席、そのままタクシーで青森空港に行き、大阪に飛びました。尼崎の実家に、月曜日まで滞在し、火曜日からは新幹線で東京に向かい、日本臨床矯正歯科医会の東京大会に参加し、昨日夜に帰ってきました。

 6日間、診療所を閉めましたので、その間を利用して、狭かった待ち合い室のリフォームを行いました。スタッフルームの一部をつぶし、待ち合い室を広げました。コンセプトは北欧テイスト。まず床は当然フローリングとなりますが、きちんとしたフローリングは費用がかかるため、床面に貼るタイプのフェークを使います。色は北欧と言えば、やや明るめのピーチ系の色となります。壁、天井は当然、白、ダウンライトも電燈色で暗めという感じとなります。

 問題はチェアー、一脚ずつという手もありますが、今回は腕がよく、安い造作家具屋さんがいるため、全部特注で、収納付きのチェアーを作ってもらいました。色はブルー、これも北欧の青色があります。ポイントに赤と黄色を使うことにしました。

 あまり打ち合わせ時間もなく、大体のイメージを伝えておまかせしました。家内には適宜、報告してもらいましたが、今日初めて見ました。ほぼイメージ通りの仕上がりで満足しています。ただ受付は使い勝手が悪いため、一部変更してもらいますし、やや作業するには暗く、テーブルスタンドが必要でしょう。

 部屋のリフォームに合わせてインテリアも一部変えました。まずこういった商業スペースではファブリクパネルが簡単にイメージを変えられますので、北欧のファブリックからパネルを作ってもらいました。リンゴのデザインが青森らしいのでルネ・デューという会社からアルメダール アップル ファブリックパネルを買いました。12800円。さらに壁掛け時計が古いので、セイコーの音波時計にするか、北欧デザインのものにするか随分迷いましたが、結局、私のようなブランド好きはNORDIC Feelingという会社からヤコブセンデザインのCity Hallという壁掛け時計を選びました。39900円。これは高い。機械部分も安っぽく、軽くて、とてもこんなにするような物ではありません。ただこの時計のおかげで、何となく北欧テイストになります。おまけにイノベータのカレンダーを貼付けました。

 昔、1万円くらいで買ったタカノ綾さんの版画フォーリンマンマエアとカプリコンの2枚を持っていますが、飛行機の絵が好きでそちらをとりあえず、掛けることにしました。そしてこれも昔買ったPropagandaTOOTH LAMPを置きます。テレビは配線をすべて後ろの棚にしまい、そこにオーディオの機械もすべて収めましたのですっきりしましたし、スピーカは以前USENのものを使っていましたが、Boseのものに変えたので音質もよくなりました。

 

 後は、ブラインド、壁の棚に飾る小物、受付のテーブルランプなどを揃えていきます。棚には本当はリサ・ラーソンのお人形を置きたいところですが、地震で落ちると大変ですので、落ちても壊れない、患者さんにも怪我をさせないものがいいでしょう。Kay Bojesenの木製の動物もかわいいなあと思いますが、これも本物は高く、リプロダクトのものにしようかと思っています。

 

 もう少し、手を入れれば、もっと北欧ぽくなるでしょう。今春には歯科用チェアーを一台新しくしますが、その約半分の費用で、これだけきれいになるなら、機械を買うよりは、まずはリフォームということになるのでしょう。家でもそうですが、キッチン、バス以外のリフォームは割合安いものです。



2013年2月1日金曜日

小学校時代の思いで 1


 今の検便というと、大腸がん検診を考えてしまうが、昔は主としてギョウ虫、がいるかどうかを調べるものであった。結構、多くの児童にこういった寄生虫がいた。昭和30年代、マッチ箱にウンチを入れて学校にもっていくのだが、マッチ箱といっても、厚みのあるやつに入れるのが一般的であった。ところが家には徳用マッチ箱はあっても、小型のものは父親が飲み屋でもらってくるような薄いものしかなく、検便のシーズンになるとわざわざタバコ屋にいってマッチ箱を買ってきてそれにウンチをつめていく。ところがどうしても厚い箱がない子供もいて、教室の前に並べられた各自の箱をみると、箱からウンチがはみ出ているものがいる。好きな女の子のものだったりすると、妙に変な気がしたものだ。友人の中には自分のウンチの代わりに犬のものを入れたりするものもいたが、毎年大騒ぎな行事であった。

 小学校1年くらいでは、授業中に小便を漏らす子供もいた。授業中にトイレに行きたいと言えないためであるが、ある時、席の前の中村くんのところから変な臭いがして、中村くんは真っ赤になっている。思わず、先生に「中村くんのところから変な臭いがします」というと、先生ははっと気づいてトイレに連れて行った。その後、中村くんは卒業まで、糞たれとあだ名された。当時、トイレに行くと、汚いと言われたが、他のひとにタッチして、「べべんじょかんじょ鍵閉めた」と唱えれば、汚いことはタッチされたものに移るという遊びがあったが、この中村くんの場合は無理だっただろう。

 小学5、6年生の時の担任の保田先生は、厳しい先生であった。宿題を忘れた生徒には給食時間、黒板の前で何か芸をさせた。大抵は歌を歌ったが、ひとりは一、十、百、千、万、十万、百万、一千万、一億まで、最後まで言えず、丸1年間、黒板の前で毎回、くりかえし、6年生になってようやく言えるようになった。もう一人は、九九を言うのだが、ついには卒業まで言えなかった。私はどうかというと、小学3年生までクラスのやっかいもので、授業を邪魔するということで、先生の横に机を並べられ、半年くらい、そこで授業を受けた。当時の担任の所見には「学習中多弁すぎて他人の迷惑をかける。自習中も自分だけができれば人に話しかけて困るのに注意をいくらしても自省しないのは理知的な子供としては少し変わった性格だと思う。よくよく考えてほしい」と厳しい。通知簿も図画を除いて3、4という成績であったが、どういう訳がクラスの人気があり、クラス委員になった。小学4年生になると兄について算数塾に行くようになると、半年くらいで6年生までの算数は終了した。学校の勉強も出来だし、今度は一転してクラス委員長になったが、「善良で級友には人気があります。よく意見を発表しますが、言語不明瞭ではきはきしません。調子に乗りやすく節度を欠きます」といまだに手厳しい。さらに小学5、6年生になると音楽は3、4であったが、それ以外はすべて5となり、評価も「成績はぐっと良くなり、努力心、注意力も出て来た。最後の仕上げよく努力しました。今の感激を忘れずに努め励むこと」と高いものとなった。昔の通知簿を見ていると、図画と体育だけは小学3年生からずっと5、さらに中学、高校に入っても美術と体育だけはどういう訳が成績は良かった。

 今、教師の早期退職の件が話題になっている。3月まで勤務するより早めに辞めた方が退職手当が多いらしい。無責任とか、いや制度に問題があるなど、さまざまな意見があるが、一番気になるのは、先生という仕事は、ただの公務員なのか。言いにくいが、少なくとも私の子供のころの教師は、こういったマネは恥ずかしくできなかった。学校の先生という存在は、子供の模範であり、教師が金のために仕事を途中で投げ出すようなことは、子供にもそういった行為を許す、したらよいということになりかねない。子供の方も昔のように先生の家に行ったり、ごはんをごちそうになったりすることが少なくなり、お互いが教える側と教わる側という単純な関係になっているのかもしれない。教師の方が金のことをいうなら、納税者として、生徒の親としては、小中高校生で一人当たりの教育費は年間90万円かかっている。これはすべて税負担であり、ある意味、これだけの授業料を年間払っていることになる。であれば、とくに高校教師は予備校と同じシステムをとり、生徒の選択制をとり、任期も2、3年で更新し、不人気の教師はクビにするという考えもある。こうは言いたくない。教師の公務員化がさびしい。