2016年7月25日月曜日

武宮隼人 3

武宮隼人校長の兄、武宮雷吾神父


 “武宮隼人校長”のデーターについて、インターネット上ではこれ以上ないと判断し、六甲学院の図書館に問い合わせてみました。すると誠に丁寧な返事をいただき、さらに「追悼 武宮隼人先生を偲びて」(六甲学院、昭和56年)という貴重な本を送っていただきました。大変、感謝すると同時に恐縮いたします。

 昭和56年というと、私は25歳で、東北大学にいた頃で、当時は六甲学院のことについては全く関心がなく、この本も同窓会のメンバーには通知があったと思われますが、記憶にありません。いずれにしても武宮先生について書かれた本では最も重要な資料と思われます。

 在職、OBの先生方、卒業生の思い出が中心となった本ですが、K・ライフ先生が書かれた「六甲中学校創立のころ」に武宮先生の履歴がくわしく書かれています。ライツ先生は、武宮先生とはイエズス会の3年後輩ですが、ドイツの神学校、上智大学、六甲学院でずっと一緒、昭和二年から五十六年までの五十四年間におよぶ親友で、武宮先生のことを最もよく知る人物です。ライフ先生は六甲学院の創立時、副校長格、武宮先生の補佐役のような存在で、戦後20年後半に上智大学に戻られ、神学部教授、神学院院長などを勤めました。

巻末に載る履歴にライフ先生の記述を追加してみました。

1900年 二月十九日、東京市麻布に父武宮一(はじめ)、母えまの九男として生まれ、霊名フェリックス
  「武宮師の武士道精神は、父親の遺産であった。鳥取の鉄砲隊長であり、明治維新後は、東京築地に移り庶民階級のしっかりした若妻をむかえ、警察署で剣道の指南をつとめた。旧制六甲中学校で剣道がどれほど重んじられていたかは、終戦後六甲中学校に入学した卒業生はよく覚えている.略 「キリシタン」として隼人師は二代目の信者にすぎなかったが、明白な証明がなくても自分の先祖が大分から鳥取に来たので、(そこには武宮という町もある)彼らがキリシタン時代にそこに居てキリシタンであったことを彼は確信していた。とにかく東京の下町に住んだ時代に全家族のキリスト信仰への道を開いたのは武宮師の父ではなく、その母であった。求道者となった彼女は洗礼準備が済むと二、三人、その時までに生まれた子供と共に、主人にはだまって洗礼を受けた。彼は最初の怒りがおさまった後、妻の祈禱書を好奇心にかられて読み、十字架の道行きの祈りに不思議に感激してしばらく後、妻には何も云わず求道者と成り洗礼を受けた。係りの神父に妻からキリスト者として紹介されたのである。当時の彼の生活は、きわめて貧しかった。十人の子供達、その年長者たちは、小学校を卒業して社会に出たが、勤勉な働きによって、たくわえた財産によって下の子供達に高等教育の道を開いた。末っ子の隼人は、三男にあたる兄を自分の真の恩人として尊敬していた」

 ここで父親の名が、武宮一(はじめ)であることがわかります。この武宮一が武宮貞幹(丹治、甚之進)と同一人物かを判断するのは難しいです。前に述べたように鳥取藩藩政資料によれば、武宮権之丞(雅楽允)が引退し、丹治に譲ったのは慶応二年一月(1866)でした。また近代砲術を学びに水戸藩に留学したのは安政二年(1855)で、さらに戊辰戦争の頃は多くの部下を持つ鳥取藩の砲術部隊長でした。これらのことから、武宮丹治は遅くとも1840-1835年の生まれと推定されます。もし丹治=一あれば、丹治60歳から65歳の時の子供となります。九男、一女を生むには、普通15年から20年はかかるので、母えまが20歳で結婚しても40歳ころの子供となります。つまり丹治=一として小説風に考えると、“明治維新後、士族としての禄のなくなった丹治は知人を頼り、軍人になろうと上京するがうまくいかず、警察で剣道を教えながらほそぼそと生活をしていた。最初の妻に先立たれて丹治は一と改名したが、縁があり商人のエマと結婚した。丹治40歳、エマ20歳の年の離れた夫婦であった。”(維新後に“一”といった漢字一文字に改名する例は多い、はやりか)。

 ただ因伯人名録(昭和九年)をみると“武宮貞幹 砲術家、通称丹治 水戸福地某に砲術神発流を学ぶ。享年60余(観音院)”とあり、また鳥取県郷土史(1932)には「武宮貞幹の砲術 後戊辰役の際、自ら大砲隊を率い。大阪から海路江戸に至らんとし、暴風に遭ひ遂に機に後れ、戦役に画すこと能わずして帰国した。実に其の精錬卓絶の砲術を、(石篇に駮)雷銃雨の戦場に発揮することが出来なかったのは遺憾のことであった。年六十余で鳥取で歿した。墓は上町観音院にあって、門弟奮恩に感じ、碑を建て遺徳を記念して居る。」となっています。前記のライフ先生の文によれば、父親の亡くなったのは武宮隼人先生がオランダに留学する(1923)の前だったようで、そうであれば80歳以上は長生きしたことになります。

 武宮雅楽允—武宮丹治—武宮一(はじめ)—武宮隼人のラインと武宮雅楽允—武宮丹治(一、はじめ)—武宮隼人のラインがありますが、祖父ではなく、父のことをはっきりと鉄砲隊長と友人に話していることからも、後者と考えてもいいのではないでしょうか、

2016年7月19日火曜日

歯科大学(国立)大学院を専門職大学院へ 2


 歯科大学では、毎年多くの研究がなされ、その成果は専門誌に投稿されている。矯正歯科においても、大学での研究成果が活用され、東京医科歯科大学の三浦不二夫先生の接着性レジンを用いた矯正治療に関する研究は、矯正治療のエポックメーキングな研究であり、ドクターのみならず、患者にも多大な恩恵を与えた。それまでブラケットと呼ばれる矯正器具はバンドを介して歯に装着していたが、三浦先生の研究により直接歯にくっつけることができるようになり、装着時の痛みの軽減にも繋がり、さらに舌側矯正も可能となった。他にも基礎的な分野では、骨細胞の動態の優れた研究もある。

  歯学部にも、こうした優れた研究はあるとは十分に理解しているが、世間からすれば、歯の根っこにある穴(根管)だけを主体とした講座があり、その分野の研究をしていると言ってもなかなか信じてもらえないのが実情だし、はて歯科の研究は何かと言われてもぱっと思いつかない。当然、歯科の研究でノーベル賞を取ったことはないし、歯学部卒業生の受賞者もいない。

 研究の社会への貢献度をみる一つの指標として学士院賞の受賞者、研究を調べてみた。一応、戦後(1945年)から博士号制度が変わる2004年までを調べると

 一番、受賞者の多いのは、理学博士で135名の受賞者がいる。多くのノーベル賞受賞者もこれに入る。続いて多いのは、文学博士で74名いるが、他の受賞者の中には文学博士をとっていないものも多く、実数は100名を越える。三番目に多いのは医学博士で64名、四番目は工学博士で62名、五番目はその他、博士号をもっていない人で57名、多くは文学系の先生である。六番目は農学博士で50名、七番目は薬学博士と経済学博士でそれぞれ18名、九番目は法学博士で11名、十番目は神学博士で2名、そして社会学博士と歯学博士が1名である。(獣医学博士は2016年まで見ると2名)

 歯学博士がいつごろから出来たのかははっきりしないが、少なくとも1970年代ではあったと思われるので、すでに50年近い歴史をもつ。その中で学士院賞に輝いたのは昭和大学の須田立雄歯学博士ただ一人であるが、東北大学の山本肇先生は医学博士であるが、歯学部の卒業生であり、カウントしてよかろう。東京医科歯科大の岡田正弘先生は、博士号をもたず、その他に入る。受賞テーマは「硬組織の生理・薬理」という歯学部のテーマであるが、もともとは薬学部出身者であるので、カウントしない。

 つまり、戦後の日本学士院賞の受賞者を博士号からみると、理科系学部では、理学博士は135名、医学博士は64名、工学博士が62名、農学博士が50名、薬学博士が18名いるのに対して、歯学部は純粋な歯学博士が1名、広げて考えても2名と、話にならないくらい少ない。確かに学部によって人数が違うとはいえ、この差はあまりに歴然としており、こうした結果は、理科系学部の中で歯学部は研究機関として肩身の狭い存在とも言える。

 こうした差は、かならずしも人材に起因したものではなく、歯学部の研究者の中にも優れた人材はいたし、今後もいるだろう。問題は、歯科学という分野そのもので、これは医学の一分野で、それもかなり成熟して研究余地の少ない学問である。がん、免疫、再生医療など、新規の研究が生まれ、そうした分野での研究が活発に行われており、単に歯学という枠を設けると最新の研究がしにくくなる。それ故、近年の歯学部の、特に基礎研究は歯学という枠を離れて行っているし、それは当然の帰結である。こうしたことを考えると、歯学を医学、理学と切り離した研究分野と考えるのはナンセンスなことであり、かって東京高等歯科医学校を作った島峰先生の無理がここに来て表出したと考えられるし、戦後も総合大学の中の歯学部としての存在を誇示しようとしたことが失敗したと考えてもよかろう。

 繰り替えし言うが、日本の歯科大学は臨床および臨床研究を主体とした世界的標準の専門職大学、大学院になるべきで、あくまで大学院はDoctor of Dental Science(DDS)、専門医を目指すものであり、もし将来研究者や教授を目指すなら理学部あるいは医学部で研究して、そこで最新の分野の研究をしてPh.Dを取るべきである。東北大学歯学部でも、大学院の再編化が行われ、口腔生物学講座(口腔生化学、歯科薬理、口腔微生物、歯内歯周治療学、口腔分子制御)、口腔機能形態学講座(口腔器官構造学、歯科法医情報学、口腔生理学、口腔システム補綴学、加齢歯科学、総合歯科診療部)、口腔修復学講座(歯科生体材料学、歯科保存学、分子・再生歯科補綴学)、口腔保健発育学講座(予防歯科学、小児発達歯科学、顎口腔矯正学、口腔障害科学、国際歯科保健学)、口腔病態外科学(口腔病理学、口腔診断学、顎顔面・口腔外科学、歯科口腔麻酔学)、顎口腔創建学講座(顎口腔形態創建学、顎口腔機能創建学)、地域医療支援部門(地域口腔健康科学)、口腔腫瘍病態学講座(口腔腫瘍制御学、口腔分子腫瘍学)、新生体素材学分野(生体融合素材学、生体機能素材学)、難治疾患・口腔免疫顎講座、生体再生歯工学講座、その他寄付・連携講座がある。世界中にこうした細分化した歯科大学、歯学部はない。“口腔”とつけただけの全くばかげたものである。

2016年7月14日木曜日

歯科大学(国立)大学院を専門職大学院へ


 日本では矯正歯科専門医になるための、一般的なコースとして6年間の歯科大学を卒業し、1年間の研修医を経て、大学の歯科矯正学講座に入局する。私立は研究生という制度があるが、国立大学歯学部では、4年間の大学院に入学することを求められる。研究はしたくない、臨床だけ学びたいといっても、矯正学教室では大学院以外の入局者は受け付けない。そのため、大学、研修医、大学院の計11年間が最低必要単位となる。実際には少なくとも矯正認定医の資格も取ろうとするので、大学院卒業しても2年以上は医員、うまくいけば助手として研鑽を積み、ようやく矯正専門医となる。

 翻ってアメリカでは、4年間の一般大学卒業後に、4年間の歯学部で学び、卒業後に3年間の矯正歯科大学院に進む。これを卒業すれば取りあえず、矯正歯科専門医となる。計11年となり、期間的には日本とは同じになる。

 ただ日本の歯科大学大学院は、誠に中途半端なもので、主軸は研究、片手間に臨床という形となっている。矯正科の場合でいえば、矯正の基礎的な臨床、知識を学びながら、研究テーマを決め、場合によっては基礎講座に出向して、そこで研究する。病院では配当患者を持たされ、先輩の先生から指導を受けるが、それも一日に一、二人の患者という案配で、それ以外の時間を研究に費やす。そうこうしている内に、データーがでた時点で、学会で発表して、論文にする。最近では英文投稿でないといけないようなので、かなり大変な仕事である。こうして4年間の大学院を終えるのである。一方、アメリカの矯正学大学院は1年目から患者を配当され、朝から晩まで臨床びたりで、OBの著名な臨床医の講義を受ける。最終学年になると臨床に関した研究と発表、論文作成で卒業となる。私の感覚でいえば、日本の大学院生の臨床レベルは、アメリカの大学院生のせいぜい1年レベルであろう。つまり日本の歯科大学、大学院は、こと臨床という点からすれば、非常に非効率で、中途半端である。世界中を見ても、矯正学大学院卒業直後の学生の臨床レベルは世界的にも低い。なぜなら矯正学大学院でみる患者数が非常に少ないからだ。中国、韓国、インドネシア、インド、欧米各国でも、多くの患者を実際にみて、臨床能力を付けさせる教育がなされている。

 また日本では歯学博士というばかな制度があるが、医療の一分野として考えるなら医学博士だけで十分であり、歯学部の大学院というナンセンスな存在は、問題が多い。一応歯学部は大学院大学となっているため、文科省の規定人数が定められている。実際は、歯学部の学生は臨床をするために大学に入ったのだが、大学はこの人数を集めるためだけに入局者の大学院進学を義務づけている。つまり他学部の大学院数と対抗するために、あまり大学院生の数が少ないと困るため、大学院に残らないと入局できない制度を作った。私の知る限り、こうして大学院に進学して基礎研究をしても、その後、研究を続けている先生は少ない。

 大学院生の研究費は科研費、つまり税金からでている。大学院生は授業料を払っているというが、こうした金額では全く研究はできない。将来の研究者になるための投資として研究費が払われているわけであるが、大学院学生が卒業後、研究、テーマにした基礎研究を続けて、社会に貢献するような研究結果が出ないのであれば、この費用は全くむだになる。さらにいうなら、理学部、工学部の代表されるような理科系大学院では、修士、博士課程とも終日研究しているのに対して、半分は臨床、半分は研究という医科系大学院は彼らにすれば、それじゃ4年は必要ない2年で十分ではないか、3年の博士課程ではなく、2年の修士課程で博士号をとるようなものだと言われだろう。理系学部では修士2年、博士3年の5年で博士号をとるのに、医科系では半分臨床をしながら4年で博士号をとるのかということになる。実際、40年くらい前までは、医科系の大学院では、4年間、微生物、生化学、生理学などの基礎講座に出向して、ほとんどの時間をそこで研究し、その片手間に臨床をする状況だった。それでも医学部の場合は、大病院に勤務するためには博士号がいったため、多少の遠廻りをしても大学院に進学し、卒業後に臨床に精を出すケース、あるいは数年、臨床研修を行ってから入学するケースが多かった。翻って歯科の場合は、まず専門臨床を学ぶために大学院に入ることが義務づけられ、臨床のみを学びたいという人はシャットアウトする。

 一刻も早く、日本の歯学部もアメリカ型の専門職大学院に移行すべきで、4年間の制度はそのままでもいいから、臨床を中心としたものにすべきである。そして大学に残り、将来、教員、研究者になる先生が大学院に行き、PhDをとるようなアメリカの制度に一刻も早くしてほしい。
1.      大学院大学から専門職大学院へ
2.      患者数に則った大学院学生数
3.      開業医の臨床実習への参加
4.      大学院卒業時に認定医の資格を
5.      教育用患者の治療費の軽減
6.      常勤教官の削減と兼業(開業)
7.      外国人留学生の受入