2023年12月21日木曜日

セファロ分析をしないところでの矯正治療はやめた方がよい

 


不正咬合の矯正治療には、口腔内写真、顔面写真、平行模型、オルソパントモ、セファロ写真が基本的な検査項目であることは、歯学部の学生にも散々教育してきたし、国家試験にもこうした分析結果の問題が出る。ところがマウスピース矯正をする先生の中には、この検査のうち、セファロ分析をしない先生が意外に多い。学生の頃に学んだことを忘れたらしい。

 

大学を卒業し、矯正科に入局すると、まずセファロのトレースと分析、そして分析結果からの治療計画の立てるトレーニングが行われる。大学によって期間は違うが、少なくとも50時間以上のトレーニングが必要だし、正確なトレースをするためには1年以上はかかる。レントゲン上の架空の点、線を見つけてそれをトレースするのであるが、最近では自動描記ができるソフトもあるが、基本的には手書きでトレースする。これまで一般歯科医に、研修医も含めて何十人もセファロの基本概念とトレース、分析を教えてきたが、誰一人マスターした人はいない。短期間でマスターできるものではない。退屈な作業だし、かなり地味なトレーニングである。ただ矯正治療をするなら、これは最低マスターしなくてはいけない知識である。

 

確かにある程度経験を重ねると、初診時の口腔内や顔貌をみただけで、ある程度の治療方針を立てられるが、それは何千枚ものセファロ分析をした経験に基づくものであり、それでも絶対にセファロ分析なしでの矯正治療はない。そのため、以前、兵庫県の歯科医師会の苦情相談室の報告を聞いたことがあるが、矯正治療におけるクレームで、もし歯科医院側でセファロ分析がされていなければ、絶対に裁判に負けるので、即示談にするように勧告するとしていた。セファロなしでの矯正治療は、世界的にみても決してありえない。

 

矯正治療で最も重要な診断は、まず横側のレントゲン、側方頭部X線規格写真(セファロ)で、上下のあごの関係を見る。上下の顎の大きさのバランスの取れたClass I、上あごに比べて下あごが小さいClass II、 上あごに比べて下あごが大きい、Class IIIに分類される。上下の顎のずれが大きい症例は手術を併用した治療も検討する。また下あごの回転方向により、後方回転(ドリコ),前方回転(ブラキー)、中間(メジオ)の3つのパターンがあり、これも治療計画を立てる上で重要である。上下切歯の傾きと軟組織(鼻、口唇)の関係は抜歯、非抜歯をきめるのに大切な計測値である。正面からのレントゲンでは、上下のあごの側方のずれを調べ、これも大きい場合は外科的矯正を検討する。

 

私のような矯正治療歴30年以上の臨床医でも、模型、あるいは見たままの印象だけでセファロ分析結果を推測するのは難しく、ましてや矯正治療歴の少ない先生がセファロなしで正確な診断ができるはずがない。もちろんセファロ分析をして、その結果に対する治療計画は先生によって違いはあるが、ただその違いを理論的に説明できなくてはいけない。矯正歯科専門医試験でも先生に問われるのはこうした点であるが、矯正歯科の専門医であれば、それほど治療計画に大きな違いがない。5軒の歯科を受診し、4軒の矯正歯科が抜歯治療、残りの一軒の一般歯科医が非抜歯治療を提案したとしよう。この場合、普通は非抜歯を唱える一般歯科医が間違っている可能性が高いが、患者はこの歯科医で治療した結果、口元の突出感が治らないことになった。こうして再度、矯正歯科医にセカンドオピニオンで見てもらうと非抜歯では治療できない、治療費の返却のため、この歯科医に連絡をすると、患者には非抜歯では口元の突出感は治らないといったが、どうしても抜歯を拒否したと嘘をいう。これまでこうした症例は何件かあった。また矯正歯科医で多いのは、明らかに外科的矯正の適用症例で歯だけで治しているケースである。先生に聞くと外科的矯正のことを話したが、患者は希望しなかったと答える。この嘘も多い。

 

インビザインのトラブルで多いのは、デコボコは治ったが、口元の突出感は変化しない、あるいは悪くなったケースである。この場合、セファロを撮っていなければ、患者から訴訟されると厳しく、多くの歯科医院では面倒な訴訟に巻き込まれるのを嫌がる。口元の突出感が当初の主訴に入っているなら、セファロ分析は必須で、これなしで治療計画は絶対に立てられない。他に多いトラブルは、奥歯が噛んでいないというもので、これに関しては、インビザラインのせいというより歯科医師の技量の問題であり、これは裁判でも争うことはできない。技量に関しては、よほどのミスでなければ、患者が裁判で歯科医に勝てない。

 

さらに不思議なのは、インビザラインに関するYouTubeあるいは講演会で、情報を発信している先生の経歴を見ると、何名かの矯正歯科専門医を除き、ほとんど矯正歯科の正式な教育を受けていない。間違いなく、こうした先生は、セファロ分析はできないし、正確な診断はできない。それなのにこうした先生は全く臆せず、講演会をしている。また患者の方にも問題があり、矯正治療を受けるなら少なくとも歯科医の経歴を見て欲しい。〜大学歯学部矯正歯科の履歴がないのに先生の言葉だけで治療を行うのは、これは失敗しても自業自得である。


2023年12月18日月曜日

指揮官の実戦経験

 



山本五十六大将が亡くなったのは59歳、真珠湾攻撃を指揮した南雲忠一中将がサイパンで玉砕したのが57歳、インパール作戦を主導した牟田口廉也中将が第15軍司令官としてインパール作戦を立案、指揮したのが56歳、この時の南方軍総司令官の寺内寿一元帥が最高齢で65歳であった。終戦時、参謀総長、第一総軍司令官であった杉山元元帥が自決したのが65歳、旧軍の退官年齢(停限年齢)は、陸軍では少将で58歳、中将で62歳、大将で65歳、海軍では少将が56歳、中将が60歳、大将が65歳となっている。

 

本来戦争は多くの兵士の生死が関わるもので、その指揮官は、アレクサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオンなどの世界史の残るような人物から日本の戦国時代、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のような人物まで、数々の戦争を経験した戦上手な人によって戦われた。近代になると専門学校、士官学校が世界中にできて、プロの指導者を育成したが、実際の戦争指導となると、日露戦争の立見尚文大将のような戦場の嗅覚に優れた人が戦上手の名将と呼ばれた。問題は、戦争という非常時に、実戦経験豊かな優れた指導者をどれだけ揃えられるかということになる。ビルマ戦線では、牟田口廉也中将が第15軍司令官としてインパール作戦を立案、指揮した。この人物に10万人もの兵士の生死を任せた。結果は大失敗し、3万人の犠牲者が出たが、牟田口中将は1966年まで生きた。軍の規模で言うと、アレクサンダー大王、織田信長、徳川家康の軍と同等であり、かわいそうな言い方だが、牟田口廉也中将にアレクサンダー大王や織田信長に匹敵する能力があったのか。もちろん彼にはそんな軍事的な才能はなく、普通のおじさんである。彼の作戦に許可した上司、具体的に言えば、寺内寿一元帥の責任でもある。この元帥も親が首相、寺内正毅で、いわばボンボンである。育ちが良いだけで、ほとんど戦歴はない。さらに酷いのはノモンハン、ガダルカナルなど散々な作戦計画を提唱した辻政信大佐は、作戦の神様と称せられたが、ほとんど実戦経験はない。こうした普通のおじさん、金持ちのボンボン、頭でっかちの見栄っ張り、などが戦争を指導したのが、太平洋戦争で、怖い話である。

 

まず日露戦争で日本がロシアに勝利したのは、戊辰戦争での戦争経験が大きい。この戦争で作戦に従事し、その戦歴から上の地位に昇進し、日露戦争では指導者として活躍した。実際の戦いの経験が数万の兵士を指揮するのに役立つ。例えば、立見尚文中将は桑名藩の雷神隊の隊長としてゲリラ戦に従事し、西南戦争では大隊を指揮、そして日清戦争では旅団長、日露戦争では師団長として黒溝台会戦で活躍した。常に実戦の中にいた将軍である。同じく野津道貫大将も鳥羽伏見の戦いから、会津戦争、箱館戦争と参戦し、西南戦争では旅団参謀として、日清、日露戦争に参戦している。実際に立見も野津も自ら実戦に参加して、戦っており、その戦功により出世していった。これが戦国時代からの戦争のプロのあり方であった。ところが太平洋戦争では、士官学校、大学校を優秀な成績で卒業した軍人が階級を上げて、参戦した。戦功ではなく、成績で昇進した。太平洋戦争に参戦した日本軍の指揮官(大将)で実戦経験のあるのは、海軍では山本五十六大将、及川古志郎大将、塩沢幸一大将、吉田善吾大将、陸軍では岡本寧次大将、多田駿大将、板垣征四郎大将、杉山元元帥くらいである。

 

それに引き換えアメリカ陸軍の将官について調べると、パットン大将は米墨戦争を皮切りに、第一次世界大戦の戦歴を経て、第二次世界大戦に参戦した。同様にマッカサー元帥は、メキシコ革命におけるベラクルス占領に参加し、その後、第一次世界大戦では二回負傷し、15の勲章をもらった。イギリス軍の名将、モンゴメリー元帥も、第一次世界大戦に参戦し、肺と膝を撃ち抜かれる怪我をし、勲章をもらったし、インパール作戦の寺内元帥に対応するインド駐留軍司令官、ウェーヴェル元帥も第一次世界大戦では片目を失い、アラブ人反乱の鎮圧に参戦し、第二次世界大戦に入った。いずれも第二次世界大戦が初めての参戦ではなかった。

 

欧米では第一世界大戦(1914-1918)を経験した将校がそのまま第二次世界大戦に将軍として参戦したが、日本では日露戦争(1904-1905)を経験した将校の多くは太平洋戦争ではすでに退役しており、実戦経験のない多くの将軍が参戦した。日本軍で唯一、第一次世界大戦に参加したのはマルタ島での連合国艦艇の護衛任務で、日本海軍からは山口多聞中将や田中頼三中将が参加し、いずれも優れた指揮官となる。この10年の差が結局、太平洋戦争の勝敗の差になったのかもしれない。

 

おそらくの話ではあるが、今、行われているウクライナ戦争においても、各国は秘密裏に有能な士官を送り込み、実際の戦争を体験させていると思う。武器供与には、それを指導する兵士も必要で、各国はそれを口実に優秀な士官をウクライナに派遣し、実際の戦争を経験していると思う。平和主義者からすれば、ひどい話であるが、軍隊というのは経験値が必要である。太平洋戦争以来、全く実戦経験のない自衛隊に日本の防衛を任せるのであれば、将来的に自衛隊の指揮官になる人物には、是非ともウクライナ戦争を経験してほしい。

2023年12月14日木曜日

最近の矯正歯科医

 

クリッピーC(トミー) これを使っている先生は意外に多い。 韓国でも人気


先月、久しぶりの大学矯正歯科の同門会が新潟で行われたので、参加してきた。若手の矯正歯科専門医と診療システムについて話す機会があった。私が開業したのが1995年なので約30年前であるが、開業する前に何軒かの矯正歯科専門医院に見学に行った。当時は多くの先生が装置の装着、ワイヤー交換からベンディング、あるいは技工までしていたので、私も開業した際には、全て1人でしようと思った。検査の時は、レントゲン、印象、口腔内写真を撮り、石膏を注いで、さらに固まったなら平行模型(ソーピング)製作までし、さらに機能的矯正装置、リンガルアーチも診療終了後に技工した。患者管理システムもファイルメーカープロで自作し、打ち込み、スライドの整理、保険のレセプト書きもした。家内と2人でしていたせいである。その後、衛生士、受付を雇い、かなり楽にはなっているし、平行模型などは技工所に発注して作ってもらっている。それでも現在もほとんどは自分でしていて、ワイヤー交換、ベンディング、技工物(多いのは保定装置)から、写真の整理、印刷、保険レセプト、紹介状、情報提供用紙打ち出しなどほとんど自分でしている。現在は、子供の患者を見ていないので、マルチブラケット装置の患者がほとんどで、1人の患者については15分をとっている。ワイヤーを外して、新たなワイヤーを曲げて、結紮するとこれくらいかかる。最近は外科的矯正の患者にはクリッピーというセルフライゲーションブラケットを使っているの、10分以内と速くなった。撤去の場合も全て自分でブラケットを外して、タービン、エンジンで綺麗にし、衛生士に印象をとってもらう。そして模型ができると、急いで上顎はベッグタイプ、下顎はホーレータイプの保定装置を作る。上顎は第二大臼歯の0.9mmサンプラ線の単純鉤、唇側は0,8mmの唇側線を曲げて、両者を銀ロウで引っ付け、研磨してレジンを盛り、お湯につける。ここまでその日のうちにして、次の朝に研磨して完成し、患者に装着する。リンガルアーチや、機能的矯正装置、パラタルバーなどの技工物も全て診療の合間か時間外に作る。保険診療のレセプトあるいは請求は、月に一回、日曜日か休診日の木曜日に3時間くらいかけて打ち込み、打ち出しをする。最近はレセプト枚数も80枚くらいあり疲れる。

 

長々と書いたが、私も含めて昔の先生は大体こんな感じであったが、最近の若い先生の場合、上記の作業のほとんどを衛生士、助手にさせるようである。まずワイヤーの交換はほとんど衛生士がする。018サイズの場合は先生がたまにベンディグをするが、022になるとほぼ口頭による指示だけとなる。もちろん検査、技工も先生はしないし、撤去あるいはレセプト打ち込み、打ち出しも従業員にさせる。先生がやる仕事となると、新患相談、診断、患者への治療計画の説明、紹介状、治療経過の把握くらいのものとなる。先生によってはセファロのトレースも衛生士にさせているところがある。衛生士、助手が5人ほどいれば、一日、60名から100名の患者を見ることは可能だという。私のところは、ほとんど全て1人でするので、一日、どう頑張っても40名、平日は大体20名くらいの患者を見ているが、逆に驚かれた。昔、アメリカの一般歯科の先生に日本では一日100名くらい見る先生がいるというと驚き、クレージーと言っていたが、アメリカの一般歯科の患者数は20名以下である。ところがこれは一般歯科の話で、矯正歯科の先生に聞くと、一日の患者数は200名という。一般歯科の場合は、麻酔、抜歯、形成など先生がしないといけない仕事が多いが、矯正歯科はやろうと思うとほとんどの仕事を衛生士、助手にさせられるからだ。この流れが日本でも最近は主流となってきている。県外から紹介されてくる患者さんの中には、ほとんど先生に見てもらったことがないという人もいる。

 

そのため、YouTubeなどで、例えばワイヤーベンディング、ロウ着などの動画を見ていても、遅いし、おぼつかない。さらに金属線の結紮に至っては、専用のプライヤーを使わないとできないようである。バードビークプライヤーのみで全てのベンディングができるし、ホープライヤーで結紮をしている。私のところでは、マルチブラケット装置の場合の基本セットはホープライヤー、バードピークプライヤー、ピンカッター、エンドカッターの4種類で、患者数だけセットを組んで、全て滅菌消毒して使っている。一方、衛生士、助手に調整をさせているところは、こうした感染予防システムはとっていないところが多く、たくさんのプライヤーをラックに置いていて、それを使い回しにしている。時代に逆行している。

 

矯正治療も患者が増えれば、アメリカ式の効率的な治療法がもとめられるであろう。ただアメリカのような一日に百名以上の患者が来るようなクリニックは少なく、一日の患者数が30名以下なら、スタッフに治療をさせてばかりだと先生は結構暇なのではと思ってしまう。若い先生は元気なのでもっと働いてほしい。


2023年12月11日月曜日

未来は今とそう変わらない

 


まず上に挙げた懐かしいJR東海のコマーシャルを見てほしい。最初の深津絵里のCM1988年、次の牧瀬里穂のCM1889、高橋理奈のCM1990年、以下、だいたい30-35年前のCMである。山下達郎の名曲「クリスマスイブ」を使ったCMは今でも全く色褪せず、もはやクリスマスソングの定番になっている。動画をよく見ると東京駅もほとんど変わっていないし、駅に集まる乗客の服装も今とそんなに違わない。もちろん恋人を待つ女性の服装や髪型などはやや古臭いと思うが、それでもこのままの格好で、2023年の東京駅にいても違和感はなく、誰も振り向かないだろう。曲、風景、人物、空気感、そして恋人を待つ切なさも今とあまり違わない。私の娘や、さらに年齢の低い高校生が、このCMを見てもそれほど違和感はなく、いい映像と思うだろう。

 

よく考えてほしい、この35年という歳月を。私が20歳のとき、すなわち1976年の35年前は、なんと1941年、ちょうど太平洋戦争が始まった頃となる。1941年というともちろんテレビCMもないし、東京駅で恋人との別れのフィルムがあっとしても、まず列車は蒸気機関車、曲はどんな曲をつけようか。1941年のヒット曲を調べると、水原美也子の「心の日の丸」、高山美枝子の「別離傷心」があるが、さすがに古い。すべてが1976年当時と比べても違っており、何一つ一致点が見出せないくらいである。

 

それでは1988年と2023年の違いと言うと、まずコンピューターの進歩が大きい。インターネットは一般的ではなかったが、それでも私もNECのパソコンは持っていたし、すでにファミコンは1983年から、ゲームボーイは1988年から販売されていた。この分野も格段の進歩があったが、それでもその原型は1988年には存在した。一番の違いは、スマホであろう。アップルがI -phoneを開発したのが2007年、16年前である。その後の普及はご存じの通り、もはやこれなしの生活は考えられない時代となった。スマートフォーンはと呼ばれる商品で、世の中を一変させた。発明者のスティーブ・ジョブズの功績は大きい。

 

ではスマホのない2023年を想像してみて、1988年と比較してみよう。新幹線は少し速くなったが、ほぼ同じ、それは飛行機や船でもそうである。家の中を見回すと、まずテレビは、1988年はブラウン管テレビであったが、今は薄型テレビとなっている。洗濯機、冷蔵庫、エアコン、掃除機、炊飯器などの家電はほぼ同じであまり変化はない。車もガソリン車ということでは、性能的にも変わらない。会社に行く、電車、バスも同じである。週休2日制はすでに1988年当時でも大学病院ではあった。服装はどうであろうか。スタートレックで描かれる未来は、一枚の薄い布で、あらゆる環境でも適合する衣類が発明された設定になっているが、ヒートテックのような下着ができたものの、基本的にはほとんど変わらない。細かい変化はあるにしても1941年と1975年ほどの大きな変化はない。何しろ1941年にはほとんどの家電はなかった。

 

こうした変化のなさを一言でいうなら、文明の発達が停滞あるいは平坦化しているといえよう。戦後、家電の代表されるように、テレビができ、冷蔵庫ができ、洗濯機ができたように次々と新しいものができた、文明カーブというものがあったとすると急激な増加時期であった。その後、開発の限界が現れ、その時点で大きな進歩はなく、平坦化していく。110年前のタイタニック号と今の豪華客船との差は少ないし、1958年の就航したボーイング707と最新の708を比べると航続距離や最高速度などの基本的性能はほとんど同じである。どちらも技術的にはプラトーになっていくのだろう。

 

おそらく今後考えられる一番大きなブレークスルーは、核融合発電の実用化で、これができれば、電気量は格段に安くなり、全ての交通機関は電動となり、また家庭内の冷暖房も格安になろう。海水の淡水化も安くなり、世界中で米などの食料自給ができるようになる。今のところ核融合発電のコストは石油発電の1/6、石炭の1/3で、これだけ安くなれば、ほとんどのエネルギーが電気になろう。2050年になっても核融合発電が実用化されなければ、おそらく30年後の未来、つまり2053年の未来になっても、2023年現在とはそれほど違わない未来のように思える。できればスティーブ・ジョブズのようなブレークスルーを起こす人物が日本から現れてほしい。下のコカコーラのCMもほぼ35年前のもので、今の若者からすれば、むしろこの時代に行きたいという人もいよう。









 


2023年12月10日日曜日

子供の矯正治療



今は子供の矯正治療をしていないので、全く何の束縛もなく、現時点での子供の矯正治療についての見解について考えてみたい。

 

多くの親にとって、歯科医から子供のうちから矯正治療をした方が、それも早くからした方が良いと言われ、治療を始める。ただ現時点の研究では、早期治療の効果はかなり限定的だといえよう。不正咬合別に考えてみる

 

1.反対咬合

反対咬合については、すでに日本矯正歯科学会のガイドラインが出されている。上下のアゴのずれがある骨格性反対咬合の代表的な治療法の一つに上顎骨前方牽引装置(MPA)と呼ばれる装置がある。リンガルアーチあるいは急速拡大装置などの固定式矯正装置を上の歯列につけ、ファイスマスクと呼ばれるお面のようなものを顔につけて、ゴムで上の歯列そのものを前に出してかみ合わせを治す治療法である。最近では上顎骨自体に矯正用アンカースクリューを打ち込み、上アゴ自体を前に出す治療法もある。ガイドラインによれば、初期の治療効果はあるものの、最終的には改善効果は少なくなる、つまり未治療の結果に近づくとしている(エビデンスレベル 中(B))。結論としては、患者に過度の負担をさせない範囲であれば、否定されるべき治療法でないとしている(弱い推奨)。下アゴの成長を抑えるチンキャップについてはもう少し厳しく、推奨なしに、また機能的矯正装置についてはエビデンスの質は低く(c)、弱い推奨としている。

結論としては反対咬合の早期治療については、MPAや機能的矯正装置で治療をしてもいいが、個人により治療効果は異なり、結局は成長終了後にマルチブラケット装置によるカモフラージュ治療あるいは外科手術を併用して外科的矯正の可能性がある。

 

2.上顎前突

上顎前突には、アゴの問題のある症例、上アゴに比べて下アゴが小さい、と上の前歯が飛び出ている症例がある。早期治療が必要なのは前者で、下あごが大きくなれば自然と前歯が出ているのが軽減できるので、マルチブラケット装置が必要なくなる。二つの方法がある、まず機能的矯正装置により下アゴの成長促進を狙う方法と、ヘッドギアーを併用し、上アゴを成長抑制させ、結果として下アゴを成長させる。ガイドラインによれば、機能的矯正装置については、グレードB(科学的根拠があり、行うように勧められる)となっているが、骨格系の改善への効果について科学的根拠はなく、否定的としている。ヘッドギアーによる治療でも同様である。

3.叢生

アゴの大きさに比べて歯が大きいとデコボコになるが、これを叢生(そうせい)という。これについてはまだ日本矯正歯科学会のガイドラインはないが、早期治療としては拡大治療がある。上下のアゴを横に広げて歯が並ぶスペースを作る。床矯正治療や上アゴの急速拡大装置を使ったものがある。結論は出ていて、犬歯間の拡大は後戻りして最初の幅になる。前歯部の2,mmのわずかなデコボコについては、拡大治療による治療は可能であるが、それ以上のデコボコについては安定しないとしている。さらに日本人に多い、上下の前歯が前に出ている上下顎前突を含めると非抜歯で治療可能なそうせいのケースはおそらく半分あるいは1/4以下であろう。

 

ちょっと難しい話になったが、子供の矯正治療については、早期治療(一期治療)をしたところで永久歯列完成後の仕上げの治療(二期治療、マルチブラケット装置)が必要な場合が多いということである。そのため、二期治療ができない歯科医で、早期治療をするのはやめた方が良い。通常矯正治療費は、例えば一期治療費が20万円、二期治療が20万円としよう。一期治療だけで終われば20万円だが、二期治療が必要な場合はさらに20万円、トータルで40万円となる。もし一般歯科で早期治療だけしかしておらず、その費用が20万円とする。二期治療が必要になっても治療できないので、他院で治療することになるが、その場合は、全くの新患扱いとなり、さらに40万円かかる。それを考えると最初から二期治療までしているところ、矯正歯科専門医で治療を受けた方が良い。ましてや一期治療だけで済まない場合が多いのでは。唯一、一般歯科での早期治療が推奨されるのは、料金が極めて安い場合のみである。

 

こうした一般歯科での矯正治療を否定すると、多くの一般歯科の先生から非難されるが、よく考えてほしい、早期治療の大きな目的が骨格性の反対咬合や上顎前突を治すことであり、これが治らなければ、骨格性反対咬合や上顎前突をマルチブラケット装置で治さないといけない。手術を併用した治療法や、抜歯、矯正用アンカースクリュなど多様なマルチブラケットテクニックが必要で、少なくとも日本矯正歯科学会の認定医のレベルでないと治療は無理である。一般歯科医では治せない症例である。

 

2023年12月5日火曜日

「テロルの昭和史」 保阪正康

 



保阪正康さんは好きな作家の1人である。近著の「テロルの昭和史」は考えさせられる本であった。同書では、昭和6年の三月事件から昭和11年の二・二六事件までのテロの暴走時代を総括し、その細部を検証し、最近あった安倍首相の暗殺事件を含めて日本人の持つある種の怖さを抽出している。昭和6年から三月事件、十月事件、血盟団事件、五・一五事件、神兵団事件、永山鉄山刺殺事件、死のう団事件など、この5年間には日本史上でもこれほど社会不安の増した時代はなく、常に右翼、あるいは軍部によるクーデターが惹起されていた。一方、民間による事件について司法は比較的厳しい処分を科したものの、将校が提起した事件については陸軍裁判では軽い処分を科し、さらに新聞、マスコミも軍部の片棒を担ぐような決行者を英雄扱いした。

 

この本では触れられていないが、明治11年に東京、武橋の近衛砲兵隊の兵士260名による反乱事件を竹橋事件と対比すると、それはより鮮明となる。この事件は給与、行賞、退職金などの些細な兵士の不満を背景にしたものであったが、蜂起を説得しようとした少佐、大尉を殺害し、さらに大隈重信邸を銃撃した。事件自体は政府軍と反乱軍との銃撃戦があったものの、蜂起後、わずか2時間半で収束した。事件の翌日には陸軍裁判所で尋問が始まり、2ヶ月後には判決が下されたが、この処置が厳しい。まず首謀者を含む55名が判決日に銃殺刑、残りの118名も準流刑、15名が懲役刑など、394名が処罰を受けた。一審、二審もなく、判決後、ただ上官に命令でついていった兵士も即刻に銃殺刑となった。軍内のクーデターに対する見せしめの要素を持つ。伊藤博文や山縣有朋など政府指導者は、こんな事件があると国の崩壊につながると激怒して、過酷な処罰を与えたものと思われる。

 

翻って、本書で真っ先に取り上げられた昭和6年に起こった三月事件。橋本欣五郎中佐ら陸軍中堅幹部による政府転覆計画は未遂に終わるが、首謀者の橋本中佐は左遷されたにとどまる。この年の10月に起こった十月事件では、さらに大規模は反乱計画で、首相官邸、警視庁、陸軍省、参謀本部を襲撃し、若月首相はじめ閣僚を惨殺、捕縛し、軍事政権を作ろうとするものであった。これも発覚し、未遂に終わったが、処分は謹慎10日、20日という軽いものであった。

 

明治11年の竹橋事件と比較しよう。三月、十月事件ともに未遂に終わったものの、こちらは完全に政府転覆、軍によるクーデターであり、罪はよほど大きい。明治の指導者の感覚からすれば、もっと厳しい処分になるべきである。問題は、兵士による政府転覆、あるいはクーデターを軍法会議で裁けるかという点であり、規模が多くなれば、将官を含む上位指導者にも罪が及ぶ可能性があり、同じ仲間同士ではどうしても甘い処分になりやすい。その点、明治時代では、軍のトップの指導者は、政府の指導者を兼ねていることから、より高次の視点から事件の深刻さを見つめ、竹橋事件のような厳しい処分を科したが、昭和6年の時代では、軍部は軍人の集まりとなり、日本そのものより、組織、例えば陸軍第一となっている。日本、日本民衆より陸軍という人の集団を重視するようになった。はっきり言って、レベルの低い人たちの集まりで、三月事件、十月事件、五一五事件でも好き放題している。二二六事件においても、もし昭和天皇の怒りがなければ、他の事件同様にまあまあなものになっていたであろう。

 

ついでにいうと、日露戦争の英雄、乃木希典と東郷平八郎、乃木は明治天皇の崩御とともに自死したが、東郷は昭和9年前で生き、老害を曝け出した。長生きしすぎて、軍部に利用された。日本の内閣制度は、イタリアのよく似ており、なかなか首相の長期政権化がなされず、こうしたテロの拡大と軍部の台頭の時代においても政党争いに明け暮れ、この昭和6年から昭和11年までについても、濱口、若槻、犬養、斉藤、岡田、廣田首相と次々と変わっており、戦前の内閣で、一番長いのは東條内閣の2年9ヶ月、次が斉藤実内閣の2年2ヶ月、他はほとんど1年くらいで、こうした政府転覆の大事件を起こしても、陸軍を咎める力を持つ政治家はいなかった。昭和天皇だけであった。

 

首相制度をとる国は、イギリスを除くと、ドイツもイタリアも日本も1、2年で次々と首相が変わった。政党が変わったわけではなく、同じ政党内の派閥争いで首相が変わった。これがファシズムの台頭を許した理由かも知れず、戦後はこの反省からドイツも一度首相になると数年続けるようになり、ようやくここ20年で日本、イタリアも少し首相の在任期間が伸びた。特に安倍首相は9年近い長期政権で、ようやく日本も安定した民主主義国家になったと思ったところ、安倍首相はテロに倒れた。マスコミ、国民、政党も、首相になったら少なくとも数年は在任するような慣習を作ってほしい。政府の安定こそがテロを防ぐ。


2023年12月4日月曜日

日本は骨董のいい作品が残っている国である

 

      今度、アメリカのシンシナティ美術館で展示されることになりました。寄贈品




大阪商業大学の明尾圭造教授は、室町、江戸の書画が驚くほど安く買えるの世界でも日本だけと言っていた。流石に、画については平安、鎌倉時代のものは少ないし、高価であるが、書、写経であれば、天平、平安、鎌倉など700年以上前のものがヤフーオークションなどで安く手に入る。画についても江戸時代中期以降、すなわち300 年前くらいになると、今でも残っている画が多く、それほど高くない。さらに江戸後期から明治になると、掛け軸が豊富に残っている。300年前となるとフランスはロココ芸術が盛んな時期で、当時の油画などは今でもかなり高く、数千円で買えるようなものはない。それでも欧米にはまだ古いものが残っているが、東洋となると、まず中国は、多くの戦乱、近代で言えば、清朝の滅亡した、辛亥革命、支那事変、さらに文化大革命などで多くの文化財が消失した。もともと中国は帝王を中心とする絶対性であり、優れた文化物は中央に集まる仕組みであり、大商人が趣味で文物を集めても、まず商売が上手くいかないと散逸するし、また戦乱によっても消失することが多い。同様なことは朝鮮にも当てはまり、李朝朝鮮の崩壊、朝鮮戦争などでよりあらかた古い文物はなくなってしまった。アジアでは日本だけが、江戸以降平和な時期がずっと続き、唯一、太平洋戦争以外に大きな戦乱がなかった

 

もともと古いものを残すには、高い知性が必要となる。火事や戦乱にあっても真っ先に文物を持って逃げなくてはいけないし、掛け軸で言うなら、湿気の多いところに置いておくとカビだらけになるし、雨漏りによって掛け軸にシミがつくこともある。さらに表装自体が、少なくとも数十年ごとには新たな表装が必要となる。桐の箱に入れて、風通しの良い、日の当たらないところで保存していかなくてはいけないし、たまには虫干しも必要となる。紙あるいは絹を主体とする画材に描かれた絵をずっと保存するのは美術館でも難しい。ヨーロッパで言えば、もともと貴族を中心とした上流階級で絵をコレクションする流れがあり、そうしたコレクコションの一部が美術館に寄贈されて、現在に残っている。一方、日本では、絵の購入者は、まず大名、寺院、そして有力な商人であり、これらがパトロンとなって画家を育てた。そして家宝として代々、受け継がれて今に至る。ごく普通の家でも代々受け継がれるものがあり、例えば私の実家にある仏壇の位牌も少なくとも300年以上経つ。

 

古いものを尊び、保存するのは、最近は注目されているが、日本では昔からこうした国民性があったように思える。もったいないというだけでなく、先祖伝来のものを次に世代に残すという風潮があるように思える。こうした風潮は、世界的に見てもそれほど一般的なものではなく、むしろ古くなったら捨てるというのが普通である。それも大事にして綺麗に保存している。スマホにしても日本人の多くは、ケースに入れて、画面も保護フィルムをつけているので、中古でも本体は新品そのものであるが、外国ではそうした綺麗に使う習慣はなく、日本の中古のスマホはコンデションが良いとわざわざ買いにくる外国の方も多い。

 

「開運 なんでも鑑定団」がスタートしたのは1994年からなので、すでに30年近くなるが、この番組も日本のお宝を救うキッカケになっている。日本の骨董というと、書画、茶器が中心であったが、この番組のおかげで、玩具、アニメ、漫画、スポーツグッズなどの新たな骨董分野ができた。

 

こうした古いものが今でも保存状態の良い状態で残っているのは、日本は貴重な存在であり、外国の方からすれば、そうした点でも魅力ある国なのであろう。明治時代の浮世絵画家の1人に揚州周延という人がいる。明治時代の西洋風の新しい文物を浮世絵の中に扱っており、面白い版画となっている。アメリカでも人気のある浮世絵画家であるが、ヤフーオークションで5千円から1万円くらいで、コンデションの良い作品が手に入る。アメリカ、台湾の友人、数名にこれを贈ったが、大変喜ばれた。花鳥画などのいいお土産になると思うので、海外の友人の多い人はヤフーオークションで、江戸、明治時代の掛け軸、版画を見てほしい。結構素晴らしい作品が見つかるはずで、こうした作品をプレゼントにすれば、大変喜ばれるので、試してほしい。

2023年12月1日金曜日

長沢蘆雪展 大阪

 



大阪で六甲学院サッカー部の同級会があったので、先日出席してきた。久しぶりの全員が集まり、時間が経つのを忘れて楽しかった。老人ホームにいる母親を訪ねることと、尼崎、大物の墓所に行くのも目的だったが、日曜日の午後と月曜日の午前中がまるます空いたので、まず大阪の中之島にある中之島美術館に行ってきた。美術館の前は何度も通ったが、入るのは初めてで、ちょうど「長沢蘆雪展」が開催されていた。結構渋い展覧会で、おそらく中年以降の人が見に来るのだろうと思っていたが、すごい人気で、当日券を買うだけで20分くらい列を並ばなくてはいけないし、会場も三列で進む、超満員の状況であった。さらに驚いたのは、観客の半分以上が若い人で、それもメモを取ったり、解説を聞いたり、熱心に鑑賞している。江戸時代の画家はつい最近まで悲惨な扱いを受けていただけにこれは驚いた。

 

もちろんの応挙や伊藤若冲の人気があるのはわかるが、それでも観客の多くは年配の方であった。曾我蕭白の展覧会も凄かったが、それでも若者はまあまあいるかという感覚であった。ここ数年、可愛いをキイワードに、中村芳中などの画家も注目されてきたが、それでもこれほど若者に江戸時代の絵画が人気があるとはつゆほども思わなかった。

 

長沢蘆雪は応挙の弟子として有名であるが、それでも応挙風の精緻な作品を高い評価を得ていたが、幼児が描いたような拙い、奔放な絵については、これまで低い評価しかされなかった。明治から昭和にかけて、長沢蘆雪の後半期の自由奔放な作品は粗雑、乱作と感じた人も多く、作品もあまり高い値段がつかなかった。今回の展覧会でも、多くの展示品は個人蔵で、美術館や著名な絵画コレクターには高く評価されていなかったのだろう。

 

絵を見て、普通の人々が最もすごいと思うのは、画家の技量、どれだけ精緻な絵を描けるであり、伊藤若冲の鶏の細かな表現を見て驚くであろう。こうした精緻な画家の筆力は、絵そのものとはあまり関係ないものであるが、特に円山応挙の門人、四条派では、自然の描写力に優れており、あたかも掛け軸の中に自然そのものが表現されている、より写実的な表現が必要となる。そのため、草花、鳥などを何度も繰り返し、いろんな角度から描写することを求められ、絵自体のモチーフが規格化してしまっている。日本画家の渡辺省亭が、明治時代にパリに行ったときのことだ。ドガはじめ印象派の画家の前で、省亭は小鳥を描き始める。まずクチビルを描き、そして目を描き、次第に小さな鳥が紙の上に現れるのを、フランスの画家を驚嘆した。省亭からすれば、これまで何千回も描いたモチーフで、それこそ小鳥にあらゆる姿を瞬時に描けたであろう。手と指が覚えている。

 

こうした繰り返し、繰り返し描く方法は日本画家、それも江戸時代の画家の特徴である。そのため画家の描く主題がほぼ決まってしまい、明治期以降、西洋絵画の多様な主題に触れると、人々は古臭いと感じるようになった。薩長の役人は、豪壮で、士族の絵とされる南画を好んだせいもあり、女流画家、野口小蘋などは人気があり、高い価格で取引されたが、四条派の絵は評価は低かった。特に長沢蘆雪のように、画題や描写に振幅がある画家、つまり応挙ばりの精密に描写された絵と、一筆書きのような一気に描いた絵が混在するために、評価が定まらなかった。円山応挙、谷文晁、池大雅以外の江戸時代の画家は、古臭い絵描きとして忘れられてきた。最初に評価されたのが、戦後すぐに仙崖や白隠和尚のコミカルな絵が人気が出た。割合作品数も多いために、流通もあって、値段の急激に上昇した。2006年に伊藤若冲の展覧会が東京国立博物館で開催され、それ以降、若冲の人気は不動のものとなった。同様に曾我蕭白の絵もキモチ悪いと毛嫌いされ、多くの作品が海外に流出している。これもブームになったのは2005年の京都国立博物館の「曾我蕭白 無類という愉悦」以降なので、新しい。さらに中村芳中展があったのが2019年、渡辺省亭展があったのは2021年、そして長沢蘆雪展が今年、と最近はこれまで取り上げられなかった画家の展覧会が多い。

 

個人的には、掛け軸を中心として日本画が若者に興味を持って貰えば嬉しい。さらにいうと、世界でも200-300年前の古い絵を1万円くらいで買えるのは日本だけで、あまり知られていない画家であれば、江戸中期から後期の作品が、ヤフーオークションを中心に安く売買されている。近年、落札するのは中国を中心に海外の方で、評価が1000以上の落札者は、海外、中国のオークションサイトで、ヤフーオークションへの代行サイトである。彼らからすれば、200年以上の絵がこんなに安いのかということであろう。中国や韓国では、これまで戦乱や天災が多く、古い芸術品はほとんどなくなる運命となる。日本人の場合は、例えば寺や商家が焼けると、僧侶や雇人が、蔵からお宝を救出して守っていくが、中国や朝鮮では、むしろそうした場合は、逆に盗まれてしまう。日本ほど昔のものが、普通の家に残っているところは世界中でも少なく。家宝として代々受け継がれる伝統があるからであろう。


2023年11月23日木曜日

矯正歯科医の引退

 



この11月から新規の患者さんはお断りしている。というのは2年後、70歳になる頃には引退したいと考えているからだ。弘前市内の歯科医も最近では、70歳くらいで引退する先生が多くなっている。私の父親は85歳くらいまで現役で歯科医をしていたが、次第に患者が少なくなり、歯科医院を開けているだけで赤字になってきたので、閉院し、引退した。その後、3年ほどで亡くなった。こうした姿を見ていると、死ぬまで仕事をするのはどうかなあと思い、また多くの知人の海外の矯正歯科医も早く引退して、リタイヤライフを堪能しているため、70歳くらいでの引退を考えていた。

 

アメリカの矯正歯科医の多くは、60歳くらいになると、もう一踏ん張り頑張り、患者数を増やして、若い矯正歯科医にできるだけ高額で売ろうとする。若い矯正歯科医も、早く収入を得たいので、全く新規に開業するよりは、古い矯正歯科医院を継承した方が、経費がかからないので、医院を買い取って開業する。患者数が増えれば、近くに新しい医院を開業する。日本の場合は、こうした継承制度もないので、子弟が継承しない場合は、そのまま閉院になる場合が多い。ただ東京、神奈川、名古屋、大阪、福岡などの都市部では、若い矯正歯科医が継承することがあるが、青森県のようなところに来る先生はいない。

 

閉院する場合、一般歯科医院であれば2ヶ月の準備期間があれば十分だが、矯正歯科医院では一人の患者の治療に平均して2年間はかかるので、少なくとも閉院するためには2年前から準備期間を要する。この期間は、新規の患者を取らずに、治療中の患者をなんとか終了させる。本来なら2年間の保定も含めると4年間の準備期間がいるが、実際、私の知る事例では2年間の場合がほとんどである。すでに4年前から治療期間がかかる子供の矯正治療は原則的に断っていて、ほとんどの患者は中学生以上で、特にここ2年間は高校生以上の患者、すなわちすぐにマルチブラケット装置での治療を開始する患者しか受け入れていない。

 

開業して28年間になるが、この24年ほどは子供の患者が多く、70%くらいを占めていて、成人の患者は少なかった。そのため、子供の患者を断れば、かなり患者数の減少が見込まれたが、コロナバルブでマスクをしているうちに矯正治療をしようと思う成人患者が増え、かえってここ2年間は患者が多かったが、今年になるとようやく例年並みになった。今いる患者にできるだけの治療をして何とか全ての症例を終了したいと考えている。保定に関してはできれば2年間は見ていきたいが、無理な場合は、知人の矯正歯科医にお願いすることになろう。これは継承がない矯正歯科医院の宿命で、子供が矯正科に残っても、閉院する場合もある。知人の矯正医は子供二人を矯正歯科医に育てがが、後は継がないようだし、もう一人の矯正歯科医の子供さんも矯正歯科医になったが、他県で開業した。アメリカのような継承制度があればいいのだが、どうも日本人は中古住宅よりは新築住宅を好むように、開業についても、そこそこ新しい歯科医院をただであげると言っても断る先生が多い。私の場合も近所で勤務している矯正歯科の先生にタダであげると言ったが、軽く断られた。あまり前医の手あかのついた医院は嫌がられるのであろう。

 

こうしたこともあり、当院での矯正治療を希望している患者さんにはご迷惑をお掛けすることになるが、弘前市内はまだ恵まれていて、日本矯正歯科学会の認定医が3名いるので、一般矯正患者さんについては特に問題はなかろう。ただ年間15-20名くらいいる顎変形症患者、弘前大学医学部病院形成外科より紹介される数名の唇顎口蓋裂患者さんについては、他院ではあまり治療していないので、青森市、盛岡市、仙台市に行くことになり、大変恐縮している。28年前に開業した時は、患者は一週間で数名であったが、今度閉院するためには、逆にこの状態に戻すことを意味し、診療日や診療時間も徐々に減らして行くのだろう。患者さんが減って行くというのは収入も減るわけで、といって従業員の給与などの固定費は変わらず、確実に赤字状態となるのは覚悟しているが、その期間や赤字額については皆目分からないので不安である。

 

11月からは医院のホームページも閉鎖した。すると“弘前 矯正歯科”で検索しても、グーグルはじめ全ての検索エンジンで表示がなくなった。そうすると、それまで月に20件くらいの新規患者の予約電話があったが、すぐに電話が掛からなくなった。そのあまりに早い反応に驚き、今時の患者はネットで医院を検索することがよくわかった。


2023年11月19日日曜日

お勧めしない矯正歯科医院

 


今年の1月には、マウスピースモニター商法による矯正歯科治療のトラブルをめぐり集団訴訟が起こり、「デンタルオフィースX」が倒産し、今年の9月には「キレイライン」によるアライナー矯正をしていた東京プラス歯科矯正歯科が倒産し、さらに同じく9月末には「あーすマウスピース矯正Lab新宿本院」が倒産し、歯科医のいないマウスピース医療として関心を集めたアメリカ大手のスマイルダイレクト社も10月には倒産した。今後もマウスピース矯正専門にしている歯科医院にとっては厳しい状況となっている。矯正治療は2年以上の長期の治療期間が必要なために、治療途中で医院が倒産してしまうと、その後の治療ができず、患者さんにとって費用は払ったのに治療できない困った状況となる。一部のアライナー矯正歯科医院ではこうした患者の治療の継続をすると言っているが、患者さんにとっては再度治療費用がかかるので安心することができない

 

こうした行ってはいけない矯正歯科医院を知るいい方法はないのか。ズバリ医院のホームページを見れはわかる。

 

1.インビザラインプロバイザーを書いているところはやめる

インビザライン社は年間の利用患者数の多いドクターをステータスランクで表彰している。症例数により、ブロンズ、シルバー、ゴールド、プラチナ、ダイヤモンドプロバイダーの6つのランクに分けているが、これは全く歯科医の技量を評価するものでなく、注文数の多さ、インビザライン社からすればお得意様を表彰しているだけである。こうした企業によるランクをホームページ上で表記することは医療広告法では固く禁じられており、違法である。こうした違法表記を平気で、それも広告として大きく掲げている歯科医院は、問題である。一つはこうした医療広告法を知らないのであれば、それは知識不足であり、知っているのに出すのはもっとタチが悪い。

 

2.症例数、最高、日本一などの誇大広告、比較優良広告、体験談

何の根拠もなく、症例数を書くことも医療広告法では禁止されている。敢えて書く場合は、客観的に実証できる数値でなくてはいけないし、第三者が情報の開示を求められれば、それに応える必要がある。比較優良の制限としては、最高、日本一、県内唯一、日本有数のなどの言葉は使えない。誇大広告の範囲も広く、マウスピース矯正センターという名称も誇大広告、安全な治療ですという表現も誇大広告となる。またインビザラインは、未承認医薬品であり、薬機法としては医療機器と認められてはおらず、その旨、入手経路などを記載していなくてはいけない。さらに日本の矯正歯科の学術的な中心である日本矯正歯科学会では2度、異例のコメントを出しており、適用症例には軽度の凸凹、空隙など歯の移動量が少ないケースに限られ、精密な移動はできないとしている。もちろん反論もあるであろうが、学会としての正式なコメントであり、もし治療結果について訴訟などで意見を求められれば、学会、大学、専門医としてはアライナー矯正についての否定的な意見を言うだろう。現状の多くのインビザラインをしている歯科医院は、患者に訴えられれば訴訟に負ける。

 

3.品位を損なう内容の広告

これは主として値引き広告である。今ならーー特別価格で、期間限定で00%引などの表現は全て品位を損なう広告として禁止されている。私のところでも兄弟割引、二人目は10%3人目は20%引きとした記載が品位を損なうと削除を求められた。金策に追われ自転車操業をしている歯科医院は、急いで現金確保を狙うため、一括払いの方が安いと勧める。矯正歯科治療は期間がかかるために、途中での転居などもあるために分割での支払いが望ましい。

 

要するに医療広告ガイドラインに違反しているHPを平気で出している歯科医院での矯正治療はやめた方が良いのである。まず日本矯正歯科学会の認定医では、学会の委員会は全てのHPをチェックし、修正されないと認定医をもらえないため、概ね認定医の医院ではガイドラインに違反することはない。歯科、医院が、野放しで宣伝をするようになると、病気、命が商売になってしまう。これを想像してほしい。「あなたのかかっているガンは1日で治る。ただし治療費は一千万円」、「この薬を飲めばコロナには絶対かかりません」、「この機械を使えば近視が治ります」、究極は「この治療を受ければ不老不死です」。こうした広告が常時、テレビ、新聞、雑誌で掲載されれば、どうであろうか。いくら経営とはいえ、これほど社会混乱することはない。そのため欧米では「医療は商業として実施されてはいけない」という原則の元に、厳しい広告規制が取られている。

 

ある歯科医に聞くと、宣伝に金をかければ、実際に患者が来るそうで、患者の方も安易な広告に乗りやすい点があるのだろう。そうした点では、日本でももっと厳しい医療広告規制を行うべきで、違反者には医師、歯科医資格剥奪も含めて厳しい処分を求めたい。特に治療前後の写真などは本体禁止事項であるが、限定解除というザル要件があるので、なし崩しとなっている、早急に限定解除要件は廃止すべきである。

 

なお医療広告違反については、厚生労働省の「医療機関ネットパトロール」という監視体制があり、違反件数は医科に比べて歯科がほぼ2-3倍も占める(2018)。多くは矯正治療も含めた審美歯科関係で、インビザラインのケースもここに含まれる。ただ評価委員会から改善、中止を求められるだけで、一旦中止して、また少し変えて再開するのだろう。


 


2023年11月17日金曜日

ゴジラ -1.0

 




子供の頃、尼崎東宝で、若大将シリーズと抱き合わせで、「ゴジラ対キングコング」、「モスラ」などの怪獣映画を夢中になって観た。流石に小学校も高学年になる頃、ゴジラの息子が出てくる頃には、ふざけるなという気持ちになり、もう見に行くこともなくなった。ゴジラに息子がいて、その息子を可愛がるゴジラ、とんでもない映画である。その後、ハリウッドによるリメイク版もあったが、あえて映画館で見る気持ちもなく、DVDでは見てみたが、それほど面白いとは思えなかった。ところが2016年公開の「シンゴジラ」は面白いと評判で、久しぶりにゴジラ映画を映画館でみたが、これはよかった。最後の新幹線を使ったシーンは馬鹿げたことを大真面目に撮影し、スカッとした。

 

今回の「ゴジラ-1.0」は「シンゴジラ」よりはるかに映画としてはよくできた作品であった。従来のゴジラ映画は、ゴジラの破壊とそれへの攻撃が主眼であったが、今回の「ゴジラ-1.0」は人間ドラマがもう一本の流れとなっていて、映画としてははるかによくできていた。特にミリタリー好きの私にとっては「震電」の登場には痺れた。

 

ネタバレになるが、爆弾を機体前方に詰める機種は、日本には震電しかない。機種前方に250kg爆弾を積むのだが、前方部の片方の機銃を片付ければ、なんとかなりそうで、それほど大きな矛盾はない。最初のシーンで零戦52型が250kg爆弾をつけたまま着陸するが、これも特攻機では爆弾を投下できない構造のためにこうした危険な直陸が行われた。大戸島というのは架空の島であるが、特攻機の不時着機用の基地として喜界島や徳之島があった。一番気になったのは座席射出装置で、これは大戦中の日本機には装着していない。ただ大戦末期のドイツ機には射出装置が装着されていて、アメリカ軍の協力があれば、震電にも簡単な射出装置はつけられたかもしれない。確か、震電は前脚が長く、試験飛行中に折れたようだが、前方部へ250kg爆弾を積むと、帰還時には前脚は確実に折れていたと思われる。一方通行の出撃である。映画には旧日本の艦船として、巡洋艦高砂や、駆逐艦雪風などが出るが、これも戦後に残っていた艦船でこうしたシーンで登場しても違和感はない。駆逐艦隊の指揮官として少し太った人が映画に出るが、おそらく史実で考えれば、駆逐艦雪風の名艦長、寺内正道中佐が似ている。ざっと観たかぎりミリタリーオタクにも納得する内容になっている。最後のゴジラへの震電による攻撃は完全に「永遠の0」の再現であるが、結果は嬉しい、どんでん返しで、これは観客も納得する。

 

監督の山崎貴は、「永遠の0」、「Always3丁目夕日シリーズ」、「海賊と呼ばれた男」、「アルキメデスの大戦」など、昭和をCGで再現するのが得意な監督であるが、このゴジラ映画でも遺憾無く発揮され、ゴジラが銀座を襲う場面はこれまでのゴジラ映画の中でも秀悦である。ただ主人公の名前は敷島というが、すぐに関行男中佐の初めての特攻隊、敷島隊を思い出し、ちょっと安直なネーミングのような気がしたし、神木隆之介も悪くはないが、朝ドラ「らんまん」のイメージが残り、もう少し、影のある俳優の方が良かったかもしない。また厳しい言い方だが、子供役、明子の子供、二歳くらいだが、顔は可愛いのだが、発音が不明瞭で、芦田愛菜であれば、二歳でももっと演技できたのかと思ってしまう。

 

それでも、「ゴジラ マイナスワン」は過去多くのゴジラ映画の中でもベスト3に入る映画で、かなりヒットになるのは間違いない。ただ内容がかなり日本的なので、ハリウッド映画に慣れたアメリカでどこまでヒットするか。例えばいきなり主人公の家に典子が子供を連れて上がり込んでくるが、相当期間が経っても男女の仲にならないのは理解しにくいだろう。12/1よりアメリカ公開するが、観客動員数が注目される。日本ではレーティングはGだが、アメリカではPG-13なのは残念であった。この映画がアメリカで受け入れられれば、今後、アニメ以外の日本映画ももっと海外進出を目指してもいいかもしれない。おそらく続編はあると思うが、次は娘の明子が中心となる物語となろう。大人になる昭和40年から50年頃、バブルの前後が舞台か。掃海艇の話であれば、1950年の朝鮮戦争への出動した特別掃海隊か、その次は1991年の湾岸戦争派遣があるが、これは年齢的には無理であろう。ただ日本周囲の海での掃海活動はずっと行われていたので、監督が得意とする昭和30年頃を舞台にしても構わない。典子の首元にあるゴジラ模様の黒い火傷痕、気になる。


2023年11月16日木曜日

ユーミンは天才!

 



私がユーミンの曲を初めて知ったのは、TBSドラマ「家庭の秘密」の主題歌として使われた「あの日に帰りたい」です。昭和50年(1975)の放送ですので、48年前のことです。この歌を作曲、作詞したユーミンは、この時23歳、最初のアルバム「ひこうき雲」を発売したのが1973年、21歳の時です。このファーストアルバムの中には、今でもよく歌われる「ひこうき雲」、「きっと言える」、「ベルベット・イースター」、「雨の街を」などが収録されており、翌年の1994年の2枚目のアルバム「Misslim」では、「生まれた街で」、「瞳を閉じて」、「やさしあに包まれなたなら」、「海を見ていた午後」、「12月の雨」、「魔法の鏡」、「私のフランソワーズ」、「旅立つ秋」など収録作品のほとんどが素晴らしく、今でも全く古くありません。さらに1975年に発売された3枚目のアルバム「COBALT HOUR」の中も名曲揃いで、「Cobalt Hour」、「卒業写真」、「何もきかないで」、「ルージュの伝言」、「少しだけ片想い」、「雨のステーション」などがあります。普通の歌手のアルバムでは、残る曲はせいぜい2、3曲でしょう。そしてユーミンファンには申し訳ないが、1976年に発売された4枚目のアルバム、「14番目の月」は、素敵な曲が多いものの、いまだによく聞くのは、あの名曲「中央フリーウェイ」くらいで、ようやく普通の歌手並みになりました。そして1978年に販売された5枚目のアルバム、「紅雀」ではついによく知られた曲はなくなり、世間では松任谷由実になって終わったと言われていました。ユーミンファンはその後も、出されるアルバムを買っていったのでしょうが、私的には時折ヒットが出るが、1973年から1975年のこの3年間を上回る作品はないような気がします。

 

このユーミンの3年間は奇跡の期間と言えると思います。昔の歌が、40年近く、いまだに歌われること自体があり得ないことであり、先ほど説明したようにアルバムのほぼ全曲が40年持つ名曲となっています。これはすごいことで、通常、40年持つ、これは若い人にも好かれるという普遍性を持つ曲と解釈していいのですが、立て続けに作詞、作曲できたのは、まさに神がかりです。あり得ないことで、単に天才と呼ぶだけでは足りません。名曲の条件としては、時代が変わっても歌い続かれるという要素がありますが、いくら音楽の才能があっても、それが一般の人々に好かれるとは言えず、一般の人々に好かれ、そして時代が変わっても歌われる曲を、これだけ短期間に作れる才能はすごいものです。

 

 

同時代の今でも活躍している歌手としては、年齢はバラバラですが、サザンオールスターズ、矢沢永吉、小田和正が当てはまると思います。いずれも偉大な歌手で、今でも幅広いファンを持っています。とりわけ、サザンオールスターズの桑田佳祐は、ユーミンに匹敵するヒットメーカーですが、それでも1978年に販売された最初のアルバム「熱い胸さわぎ」の10曲中、今でも歌われているのは「勝手にシンドバット」くらいでしょうし、二番目のアルバム「10ナンバーズ・カラット」は、「思い過ごしも恋のうち」、「気分しだいで責めないで」、そして名作中の名作、「いとしのエリー」が入っていて充実したアルバムですが、それでもユーミンの1973から1975年には匹敵しません。山下達郎もユーミン同様に自分で多くの曲を作詞作曲のする人で、この人の天才と呼んでいい人ですが、もともと音楽には造形の深い人で、天才ではありますが、むしろ職人に近い感じがしますし、音楽的にも万人受けする人ではありません。

 

ユーミンの1973-1975年の曲、20歳から25歳くらいの時に作られた曲は、おそらく月に1曲あるいは2曲のペースで作られたものでしょう。作曲と作詞の両方ですので、次から次へと湧き出すようにできたのでしょう。以前、ユーミンにインタビューしたテレビ番組で、曲を作るのは、ピアノやギターで作るのではなく、ハミングしたメロディーを録音して、だんだんと曲にしていき、それをスコアーに書き起こす。そして完成した曲に歌詞をつけると言っていました。頭に浮かんだメロディーをラジカセに次々と吹き込んでいたのでしょう。実際に曲になるのは、何十、何百のメロディの中から生まれるのでしょうが、1970年当時はそれこそ天上から曲が降ってくるように新しいメロディが出たのでしょう。

 

どんな作曲、作詞家でも、10曲書いて、ほとんどの曲をヒットさせるのは不可能なことです。というには、ヒットというのは、曲の良し悪しより、多くの大衆に支持されるかであり、これは作曲、作詞家は読めないからです。その点、1970年代のユーミンはある意味、奇跡の歌手であり、作詞家、作曲家であったと思います。もう一つのユーミンの功績は、サザンなどにも言えるのですが、70歳近くになっても現役でバリバリ歌っていることで、これは日本の音楽史上でも初めてのことです。海外ではビートルズやローリングストーンズの連中がいまだに活躍していますが、日本では長い間、歌手、それも演歌以外の歌手は、若者と勝手に思われていました。私が20歳の頃に、当時の70歳近い歌手、例えば渡辺はま子、藤山一郎、東海林太郎の歌を聞くことはまずありませんが、今の20歳の若者がユーミンやサザンの曲を聴くのはごく普通のことです。日本音楽界の成熟の表れでしょう。


2023年11月9日木曜日

昭和50年代の仙台2


1980年に中国に行った時、万里の長城も空いている

広州市のサッカー場


昭和50年代の男女の恋愛事情というと、これは今とはかなり異なる。好きになった人がいても、今のようにスマホなどの連絡手段がなく、連絡方法は、1。直接話す、2。電話する、3。手紙を送る、しかなかった。直接話すは、大学に入って、例えば、文学部に好きな子がいたとしよう。いきなり「付き合ってください」はないが、まず少しくらい話をしたい。その場合、文学部の男子にそれとなく近づき、彼女の名前と学校を聞き出す。次にその学校出身者が歯学部にいないかを探す。偶然いたとすると、その同級生を介して、近づこうとする。私の場合は、文学部に好きな人がいて、たまたま同級生が同じ女子専用の下宿だったので、すぐに紹介してもらい、少し話した。次は映画にでも一緒に行こうかと思ったが、ある日、文学部の彼女は同級生と男の子とイチャイチャしているのを見て、これはダメと思って、そのまま諦めた。

 

歯学部の女子は10名しかおらす、必然的に他に恋を求めるとなると、外の世界に目を向ける必要がある。当時の一般的な方法としては、合コンというものがあった。だいたい5対5くらいが多かったは、夜の6時頃に集まって飲みに行く。関西の友人に聞くと合ハイというものがあって、これは飲みに行くのではなく、言葉そのものハイキングに行くという。ほとんど「青い山脈」の世界で、神戸でいうと六甲山に行ったりするそうで、面白かったという。仙台では芋煮会というものがあったが、合ハイというものはなかった。人気のあるのは、宮城学院女子大学で、学生課に行って、合コンの受付をして、連絡を待つ。歯学部は東北大学の中でも人気があったので、すぐに連絡がきて、合コンとなる。多い時は6時から一軒、8時から二件目と掛け持ちの合コンもしたし、一対一に合コンもした。おそらく6年間の歯学部生活で30回以上の合コンはしたであろう。あとは友人の彼女からの紹介で、これは今でも多いパターンだと思う。多くの場合は、友人のカップルと私と友人の友達の四人で飲む場合が多い。これは成功率が高く、次は電話をして、デートの約束をするのだが、これが緊張する。自宅に電話をすると、どういう訳か、父親が出る場合は多く、誰それさんをお願いしますと言うのは緊張する。電話は居間に置かれていたので、会話状況に家族皆が固唾を飲んで聞いている。電話の線を延ばすだけ延ばして会話するが、それでも「いつま電話していうのか」と叱られる。

 

当時のデートいうと、仙台では映画をみて、駅前のパルコに行って、食事をして、一番町のモーツアルトに寄ってコーヒーを飲む、こんな感じであった。モーツアルトは、ヒゲの店長がカウンター越しにコーヒーを入れてくれ、お客も少なく、居心地の良いところであった。喫茶店は歯学部前にあった「カンカン」という店とモーツアルト以外はほとんど行ったことはない。ほとんどアベックがこのコースなので、知り合いに会う確率が高いのが欠点であった。勾当台公園、八木山動物園、松島もデートのスポットであった。中高が男子校だったので、女性との付き合い方が全くわからず、もともとモテるタイプでもなかったので、デートと言っても、一、二度会うだけで終わり、結局、今の家内と知り合うまでまともな恋愛をしたことはない。モテない男の典型で、それを拾ってくれた家内には感謝する。

 

同級生同士のカップル以外は、他の同級生も意外に奥手で、彼女ができたのは学部3、4年生で、通常の学年で言うと大学5年、6年生の頃が多かった。年齢で言うと2324歳くらいで、女性からすると少し結婚も考える年齢だったせいかもしれない。多くの友人は、そのまま結婚した。当時は女性の場合、25歳までに結婚しなければ、クリスマス翌日のクリスマスケーキと呼ばれた時代で、逆算すると、2223歳頃から付き合った、25歳前に結婚したいと考えていた。今はこのリミットがかなり上昇し、おそらく3233歳くらいに上がっているのだろう。

 

仙台にも、東京でマハラジャのようなディスコが賑わっていた頃、国分町にグリーンハウスというディスコがあって、数度行ったことがあるが、今以上に東京都地方の格差が大きく、ディスコに来る女性は真面目な人が多かった。その後、マハラジャのような店もできたが、結局、行くことはなかった。大学の軽音楽部にも友人が多かったので、部活費稼ぎのダンスパーティーによく手伝いに行ったが、ダンスも踊れないので、もっぱら見学だけだった。また大学近くの喫茶店「カンカン」のオーナがライブハウスを開いたの、ジャズやフォークなどのライブもよく見に行った。金はなかったが、それでも安くて楽しめるところも多く、楽しかった。

 

2023年11月8日水曜日

矯正歯科治療の健康保険化

 

 



前のブログで、日本でも各界から子供の不正咬合(18歳以下)に対する矯正歯科治療についての健康保険化を求める声が強く、また政府でもそうした方向で承認されている。あとは厚労省が予算化し、歯科医師会でも承認されれば、実際に矯正歯科治療を健康保険でできることになる。

 

今のところ全ての不正咬合について健康保険の適用にするのではなく、一部の重度の不正咬合について保険適用しようという考えで、これは野党、与党とも賛成している。実際にどのくらいの患者がいるのか、予算は、誰が治療するのかなどの実務的な問題が残っており、日本矯正歯科学会や日本小児歯科学会でもこれから議論されていくであろう。

 

今、叩き台として今回の日本矯正歯科学会でも発表されたのが、すでに保険適用されているイギリスの不正咬合の分類なので、これを提示する。

 

グレード1:問題なし

グレード2:マイナーな問題がある。少し歯並びを悪い、上顎前歯は少し前突しているなど

グレード3:不正咬合ではあるが、必ずしも矯正治療を必要としないもの。4mm以下のオープンバイト、4mm以下の前歯の前突、重なりが2mm以下の反対咬合など。

グレード4:よりシビアな状態、6mm以上の上顎前歯の前突、2mm以上の反対咬合、4mm以上のオープンバイト、機能的な問題を有する過蓋咬合、過剰歯を伴うケース

グレード5:とてもシビアなケース、シビアな叢生、数多くの欠損歯、9mm以上の上顎前突、-3.5mm以上の反対咬合、頭蓋顔面骨の形成異常を伴う症例、唇顎口蓋裂症例

 

このうちイギリスではグレード4と5が健康保険の対象となる。ただ実際の判定となると、重複しているものも多く、どの症例が保険適用となるかの区別が難しい。このためイギリスでは、矯正専門医がこの判定を多なっているが、保険による収入が低いため、多くの矯正歯科医は自費治療を重視している。

 

日本での実際の実施方法は、これまでの健康保険制度との整合性が重視される。まず保険点数については、これまでの口蓋裂、顎変形症のものがそのまま使えるので、問題はないが、おそらく小児に矯正治療の保険導入にあたってはかなりの点数が減点されるのは間違いない。矯正治療において、セファロ検査は必須であるので、セファロ、パントモは必須の検査機器となり、小児の矯正治療をするためには施設基準としてセファロが必要となろう。セファロがなければ、矯正治療ができないことになる。また実際のグレード4あるいは5の判定については、画像を送れば自動的に判定するようなシステムも構築できようが、これまでの厚労省のやり方では、歯科医の判断に任せることになろう。

 

一番の問題は、誰が治療するのかという点である。日本矯正歯科学会では矯正歯科医が治療すべきと考えているようだが、小児歯科医や一般歯科医から多くの反対が来るであろう。現在、口蓋裂の患者さんの矯正治療は、育成・更生医療を受けるためには日本矯正歯科学会の認定医でなくてはいけないが、3割負担であれば、施設基準を満たせばどの歯科医院でも治療を受けることができる。おそらくこれとの整合性からすれば、小児の矯正治療を矯正歯科医の独占にするのは難しく、一般歯科でも治療できる制度になるはずである。一部の矯正歯科医からは、小児の矯正治療が保険に導入され、一般歯科医で治療されるようになると、結果として治療レベルが低下すると危惧する声がある。確かにそうした危惧はわかるが、現実的にすでに多くの一般歯科医で矯正治療が行われており、さらに昔と違って矯正歯科医に患者を紹介するようなことも少なくなっている。保険適用といっても患者は病院を選ぶわけで、そうなると競争原理から結果として矯正専門医での治療を選択することになろう。さらにいうと、不正咬合の分類のグレード4、5のケースはかなり難しい症例で、最終的にはマルチブラケット装置と外科的矯正の知識と技術が必要となり、矯正歯科医でなくては治療できないことになる。

 

重度の不正咬合は、咀嚼機能などの機能障害を伴うだけでなく、社会心理的障害、簡単にいうと、歯並びが悪いために笑えない、積極的になれないなどの問題を有することがある。これまで高額な費用がかかり矯正治療を受けられなかった子供さんが、保険適用で治療が受けられようになれば本当に嬉しい。早期の実現を望んでいる。


2023年11月7日火曜日

昭和50年代の仙台

 



私が一浪の末に東北大学の歯学部に進んだのは1975年のことである。当時は1、2年生は川内の教養部のキャンパス、3年生からは学部教育となり歯学部に移った。教養部は、履修必須科目とそれ以外の科目に分かれており、履修必須科目は医学部、薬学部、歯学部が一緒になることが多いが、それ以外の科目はどの学部でも受講できた。その際に役立ったのは、鬼仏帳という、単位を取れやすい科目と取れにくい科目の一覧が載った冊子で、学生必需品で、それを参考に選択科目を選んだ。それでも間違って最も苦手な物理を履修してしまい、周りは理学部と工学部の学生ばかりで、これは厳しかった。一方、中国哲学を受講し、好きだった韓非子について数冊の本と図書館で論文を調べて20ページくらいのレポートを出したら、担当教授から誉られ、A+の評価を受けたのは嬉しかった。それでもまだまだ学園闘争の残火があり、教科によっては教授室が学生たちによりバリケートで固められ、いつも休講のまま単位をくれたりした。

 

当時の歯学部は80名いたが、女子は10名くらいで、今とは違い男子が多く、仙台第一と第二高校が多く、他は日本各地から集まった。それまで40名定員であったのが、入試募集が終了してから80名になる、倍率が半分に下がったクラスで、あまり優秀でない学年であった。この学年からは教授も出ていない。次の学年は、入試の最高得点者は医学部より上で、医学部の合格点数をクラスの1/3が超えていた優秀な学年で、多くの教授を輩出した。中学高校でサッカーをしていたので、歯学部でもサッカー部に入った。部員は1213名くらいでかろうじて試合ができる人数であったが、我々の学年から3名、それも中学高校でサッカー経験者であったので、大歓迎であった。それまで大学に入るまでサッカーをしたことはない部員ばかりで、試合をしても勝ったことがないチームであった。私は元々ゴールキーパであったが、6年生の先輩がすでにゴールキーパーをしているので、念願だったフィールドプレーヤとしてセンターバックをすることにした。同級生が国体代表選手で、次の年からはほぼ学年に一人くらいは国体代表選手が入部するようになり、3年生の頃は創部以来一回も勝てなかった医学部サッカー部の勝利し、5年生の時は全国の歯学部の大会で準優勝となった。その後の歯学部サッカー部の歴史でも最高結果であった。

 

グランドの賃貸の関係で、練習は週に3回ほどで、授業の終了する5時頃からなので、冬場は正味1時間くらいの練習であった。練習終了後は、歯学部の学生棟に戻り、その後は、決まって医学部前にあった山田屋という食堂で夕食をとった。ここのメニューは全て大盛りで、残すとひどく怒られ、量を食べられない女子はそもそも入店を断られた。アパートは上杉5丁目にあった上杉荘というところで、2階の8畳くらいの部屋に住んでいた。風呂なし、トイレは一階の共用で、家賃は2万五千円くらいであった。仕送りが10万円くらいだったので、バイトもしないで余裕で生活できた。テレビ、こたつ、ラジカセ、ベッド、炊飯器、ストーブと小型冷蔵庫くらいしかなく、8畳もあれば十分に広かった。週に三度、近くの銭湯に行き、歯学部に行くのは3万円で買った片倉のロードレーサーで通学した。ノースフェイスの60/40パーカーに、タウチェのデイパック、リーバイス501、アディダスのスタンスミスというのが定番のファッションであった。

 

教養部は比較的自由であったが、学部に進むと、ほぼ9時から16時まで授業がびっしりあり、高校生と同じで、そして厳しい試験がある。5年生、6年生になると授業以外にも実習や臨床も付け加わり、食べて寝る生活となる。それでもサッカーは息抜きもあって卒業するまで続けた。

 

携帯電話もネットもない時代の若者は何をしていたか。これは戦前、テレビもなかった時代の若者は何をしていたのかと同じで、結構忙しくしていたということになる。朝の8時に起きて、大学に行って、部活をして、夕食を食べ、銭湯に行くと、帰りは9時頃になり、テレビを見たり、本やマンガを読んで、12時頃に寝る。日曜日は、名画座に行って2本立ての映画を見て、お昼はナポリタンや吉野家の牛丼を食べ、一番町をぶらぶら、喫茶店モーツアルトでコーヒーを飲みながら買ってきた本を少し読み、帰る。暇な時はコインランドリーで洗濯し、アイロンしたり、自炊をしたりする。スマホやネットがなくても、これっぽっちも退屈ではなかった。

 

子供の頃から家にはテレビがあり、ステレオ、本やマンガもあったから、こうした生活はネットが家庭に入る頃まで続いた。携帯電話の存在はそれほど生活そのものを変える存在ではなく、ズバリIPhonの登場が生活を一変させた、登場したのは2007年、普及したのは2010年以降で、ようやく今の高校生くらいからIPhoneの世代となる。私が大学に入った1975年というと今から48年前、その48年前というと昭和2年。昭和2年と昭和50年のギャップを考えると、今と1975年のギャップは驚くほど小さい。時代の変化は少なくなってきているのか。


2023年11月5日日曜日

日本矯正歯科学会大会 新潟

                  月岡まんじゅう







今年の日本矯正歯科学会は、新潟市で行われた。新潟県で学会が行われるには20年ぶりくらいか。以前は、弘前からだと秋田市を介して、日本海側を新潟まで特急が走っていたが、今は秋田までかろうじて快速、特急があるが、弘前―新潟を結ぶ特急はなく、結局、新青森から大宮まで、そこから新潟まで新幹線で行った。かなり遠回りだし、費用も高い。時間は昔とあまり変わらず、6時間かかった。

 

久しぶりの新潟は、天気も良かったせいか、随分垢抜けた街になっていた。1970年代にサッカーの試合で新潟大学に行ったことがあり、そして20数年前に矯正学会があったが、どちらもどんよりした天気だったせいか、どうも新潟は暗い街という印象があった。

 

佐渡島を除くと、新潟市はあまり観光地がないため、今回の学会では一泊目は、市内のビジネスホテルに泊まったが、二泊目は、新潟近郊の月岡温泉に泊まった。あまりよく調べなかったのか、新潟駅から新発田駅までJRで行き、そこからタクシーで月岡温泉に行ったが、豊栄という駅からはシャトルバスも出ているようで、失敗した。旅館は「摩周」という高級旅館で、大変コスパの高い旅館であった。このブログでも以前、相当厳しく評価した軽井沢の星のやのホテルに比べると100倍、良かった。温泉は最高だし、部屋もいいし、従業員のサービスも完璧、料理は普通という塩梅だったが、料金に比べて非常にいい宿であった。周りには何もないところであるが、それでも楽しい。またこの月岡温泉のお土産として「月岡まんじゅう」があるが、これは郡山の薄皮饅頭に似ているが、それより皮はしっとりしていて、アンコもうまい。日持ちがしないためか、新潟市内では売っておらず、ここでしか買えない。

 

学会自体については、個人的には昔、咀嚼能力の研究をしていたので、そういた機能と咬合との関わりに関するテーマに興味を持った。不正咬合者は、咀嚼機能が正常咬合者により劣っており、脳機能や消化、呼吸とも関連することが示されていた。不正咬合で、それも重度であれば、こうした機能的な問題も多くなるようだ。それに関連して、子供の不正咬合に矯正治療については健康保険の適用とすべきだという声がかなり大きくなっていることが報告されていた。各種団体からの要望で、ほぼ国会では適用すべきという採決が行われ、今は実務協議に入っているようだ。子供の不正咬合、それも重度のものについては保険適用すべしという声は以前から強い。ひどくなった重度の骨格性は反対咬合や、逆の上顎前突や開咬では、外科を併用した外科的矯正治療が保険に認められている。一方、将来的に外科矯正になるような患者の一期治療については、保険治療は認められていない。早く治療を開始すれば外科的矯正を回避できたかもしれないが、悪くなってから保険が認められるというのはおかしい。重度の不正咬合については小児についても保険適用にすべきであろう。

 

こうした問題については。30年ほど前にも東京医科歯科大学の三浦名誉教授がリーダーで調査されたことがあり、重度の不正咬合にかぎって保険診療にしても、確か医療費予算は数百億円程度であり、国民一人あたり数百円の出費で、万一、子供が重度の不正咬合であれば、保険適用できるというのはメリットが多い。矯正治療は高額な治療費がかかるため、こうした制度は国民皆保険の趣旨からも必要な制度である。ただ誰が治療するかという点が問題であり。おそらく重度の骨格性の問題にある不正咬合が対象であるなら、その治療は難しいし、また将来的に外科的矯正の対象になる可能性が高い。

 

例えば、下顎骨のかなりの劣成長を伴う上顎前突症例が保険適用になったとしよう。一期治療では機能的矯正装置や顎外固定装置も使われるかもしれないが、いずれにしても下顎骨の前方への成長を期待する治療法がとられる。うまくいって下顎骨の前方成長があり、正常咬合になることもあろう。また凸凹があり、小臼歯抜歯、マルチブラケット装置による二期治療が必要なケースもあろう。ただ重度のケースが保険適用になるなら、下顎骨の前方への成長が少なく、歯の移動による代償的な改善、あるいは外科的矯正を併用する症例では、高度な矯正治療の技術と経験が必要となり、まず一般歯科医では対処できない。

 

こうしたこともあり、重度の小児の不正咬合の治療を保険適用にするなら、治療を従来の顎変形症を扱う矯正歯科医院に限定した方が望ましい。学会ではイギリスの不正咬合の判定基準に沿ったグレードを発表していたが、オーバジェットが6mm以上、−4mm以下といった視診による判定でもよかろう。学校検診の不正咬合の項目で、“要専門医受診”を勧告されるような児童については、学校歯科との整合性もあり、早急に保険適用になってほしい。うまくいけばここ数年以内に一部の小児の不正咬合については健康保険の適用になるかもしれない。

 

2023年10月26日木曜日

多様化する社会

 





 友人の歯科医が、最近、アメリカ、アトランタに行ったので、「何か“風と共に去りぬ、Gone with the wind”の関連施設を見ましたか」と聞いたところ、「“風と共に去りぬ”は何ですか」と言われ、驚いた。あれほどの名作映画を見たとこがない人がいるのは信じられなかった。家に帰り、家内に報告すると、家内も名前は知っているが、映画自体は見たことはないという。別の友人にも聞いたが、見たことはないようだし、私の二人の娘も多分、見たことはないだろう。ついでに家内はオードリヘップバーンの「マイフェアレディ」や「サウンドオブミュージック」も見たことははない。翌日、診療所の二人のスタッフに聞くと、一人はどれも見たことがないという。あの名作「風と共に去りぬ」を見たことがない人が周囲にこんなに多いとは知らなかった。

 

たまにうちの診療所に来る患者の中にも、矯正治療に保険が効かないのを知らない人がいて驚くが、「風と共に去りぬ」を知らない人がこんなに多いなら、矯正治療に保険が効かないことを知らなかったとしてもそれほど驚くことではない。本好きの人からは、本を読まない人が30%近くいるのは信じられないだろうし、私のような漫画好きの人からすれば、60歳代で月に2冊以上読む割合が5%以下、すわわち私のように5冊以上読む人は異常なのだろう。逆に子供の頃はあんなに夢中であったプロ野球でも、最近のWBCの日本メンバーのうち、大谷しか知らない私は信じられない人の一人なのだろう。それでもアメリカ人の知名度調査によれば、タイガーウッズの知名度が81%NFLのトム・フレディが77%NBAのレブロン・ジェームスが75%に対して、大谷の知名度は17%しかない。流石に日本人でもタイガーウッズは知っていても、レブロン・ジェームスはバスケットファンだけ、ましてやトム・フレディなどはほとんど知らないだろう。

 

こうして考えると、自分では常識と思っても、他人からすればおかしなことであることは数多くあり、同じように家庭での常識、職場での常識、あるいはもっと広い意味でいうと日本での常識というものは、ないと考えた方が良いのかもしれない。人というのは、つい自分を中心に考える傾向があり、それとは違った考えはおかしいと思うが、実際はその人自身がおかしいこともありうる。患者さんの中には、毎回遅刻、キャンセルする人がいて、非常識と怒ることがあるが、ADHDの傾向があり、アスペルガー症候群の人からすれば、これが常識なのかも知れない。

 

人を理解するというのは、みんな一人一人違っていて、育ってきた環境も違うし、性格、年齢、男女などの違いを認める、すなわちダイバーシティー、多様性を知ることになる。昨今、こうしたダイバーシティーを重視する考えが広まっているが、最初に述べたように、映画「風と共に去りぬ」を見たこともない人が周囲にもたくさんいる前提で、生活しなくてはいけないのだろう。ただこうした多様性をあまりに強調しすぎると、おかしなことになる。以前、郵便局で、男女か確認されたこともあるし、妻は反社かと確認されたことがある。そうした決まりなのだろうが、全てのお客さんに、あんたは男か女か、反社の人が確認するのは流石にやりすぎであろう。

 

以前は、若者と老人の考え方の違い、いわゆる世代差というのが、話題になり、「団塊の世代」、「バブル世代」、「ゆとり世代」という言葉も流行り、若い人の考えは全くわからない、新人類という言葉もあった。ところが最近では、こうした世代差より同世代の違いの方が大きく、同じ世代でも趣味、好み、考えは大きく違い、共通の話題、あるいはみんなが歌える曲というものがなくなってきている。おそらくは昔の方が、周囲に合わせる雰囲気が強く、みんなが見ているテレビ番組は見ていないと仲間はずれになるといった感覚が強かったせいかもしれない。ところが今では、ラインやツイッターなどのSNSの発達により、自分の考えや趣味とある友人を見つけ、一緒にいればよく、クラスの皆と合わせる必要もなくなったのであろう。こうした流れは、ますます多様化を強く進める結果となり、将来的には性別、人種を超えた社会になりそうで、これはこれで、ややこしい時代に入ろうとしている。


2023年10月22日日曜日

タイムトラベルは可能か



タイムマシンで過去、未来に自由に行けたらと思う人は多いと思う。個人的な見解だが、未来に行くことは不可能であるが、過去に行くことは可能だと思う。バタフライエフェクトいう言葉があり、タイムマシンで過去に戻り、蝶々一匹を捕まえると、その後の未来が変わるという理論で、確かに誰かがタイムマシンで過去に戻り、ナチスのヒトラーを暗殺すれば、その後の世界は大幅に変わる。歴史には何本もの仮想空間があり、別の世界があるという意見もあるが、実際に過去に戻ることは歴史を変えるという点では不可能なことのように思える。あくまで幽霊のような存在で、過去に戻り、誰からも見られない、また何もできない状態でしか過去あるいは未来に行けない。幽霊のような存在でも、未来に行って新しいことを知り、それを現在に戻り、利用すると未来も変わるという点では、未来へのタイムトラベルは歴史を変える。一方、幽霊のような存在で過去に戻り、実際の歴史を見たとしても、歴史学の嘘がなくなるくらいのことで、未来に大きな影響は与えない。

 

過去に戻る一つの方法としては、ストリートビューとVR(Virtual Reality)がある。グーグルのストリートビューは日本にいながらスイスの街中を自由に散歩できるという奇跡のような経験ができるツールで、行ったこともない街を仮想的に散歩することで、あたかもそこのいるような感覚となる。これとVRが一緒になると、ゴーグルをかければ、その仮想空間で離れた土地のことを体験できる。これは現実的にも可能なことであるし、実際にストリートビューの機能の中にもタイムマシンという機能があり、画面上で昔の風景が見られる。だいたい1314年前のストリートビューが見られる。画面の右上の「最新の日付を見る」をクリックすると、画面下の過去のストリートビューが現れて、普通のストリートビューにように操作すると、14年前の街を体験できる。わずか14年前とはいえ、ある程度のタイムトラベルができ、無くなった昔の建物の姿を見ることができる。

 

こうした情報が年々、より詳細に集まる、そして保存することで、数百年後の人々は、数百年前の風景を見ることができる。さらに頭にGo-proのような携帯撮影機を終日つけて、1日の経験を撮影する。それを10年後にVRで見れば、過去に戻ったのと同じような体験ができるはずである。将来的に家の中の家庭生活、外での都市生活が完全にカメラで監視されるようになれば、こうした撮影機なしでも、個人の生活を完全に再現できるようになるかもしれない。そうなると100年前の弘前の街、人物を完全に再現することができ、その情報をVRなどで見ることで、タイムマシンに乗ったのと同じような体験ができる。また自分の先祖がどんな生活をしていたのかもリアルにわかってしまう。いずれストリートビューが完全に動画化して、音声の入るようになり、ルートを指定すれば、VRで音声付きの動画を見られるようになると、一層、リアル感は増すだろう。

 

映画「トータルリコール」では、脳に直接、夢のような記憶を入れることで、全く違う世界を体験できる近未来の話であるが、こうしたことも実際に可能になるかもしれない。情報の記録、保存、再生が重要となるが、近未来はますます精細な記録を、無制限に、そして短時間で再生できるようになる。つい最近も関東大震災発生直後のフィルムをカラー化して、NHKで放送していた。かなりリアルな内容で、白黒からカラーかだけでも、あたかもタイムマシンで当時に戻った気がしたが、これが高解像度で、音声付きでの360度カメラの撮影であれば、今の技術でもVRでかなりリアルな体験ができる。8K16K3Kとなり、ハイレゾ音源と進んでいき、動画のムービーマップが普及していく、さらにこの情報が100年、1000年と保存できれば、自由に過去にタイムトラベルできることになる。


個人的には中国深圳の会社、Shenzhen Arashi VisionInsta360360度アクションカメラが面白い。5.7Kの高解像度で、手取り棒が自動的に消える仕組みになっており、街の記録には現在のところ最も優れている。欲しい。載せている渋谷の街歩きの動画は、上の矢印を押せば、側方、後方、360度の動画が見られる。これで弘前中の街を歩いて、その映像を100年後の人々に見てほしいものである。