2007年2月28日水曜日

寺山修司 1



寺山修司(1935-1983)が弘前で生まれたのを知ったのは、こちらに来てからだ。当初は父親が警察官で、紺屋町生まれてということで、左の写真の紺屋町派出所(現紺屋町集会所、下図2)が生誕地とされ、三沢にある寺山修司記念館のHPでもそのようになっていた。近年、阿部誠也さんの調査により、寺山の生誕地は弘前市紺屋町35番地ということがわかった。弘前市史の付録にちょうど寺山の生まれた昭和10年の地図がある。付近の地理は当時と変わらず、現在の住宅地図をみれば35番地に相当するところは1に該当する。田澤拓也著「虚人寺山修司伝」のあとがきに「(海老川)夫婦が八郎氏(寺山の父)から隣が開いたから引っ越してこないかとさそわれ、弘前市紺屋町の二軒長屋に壁ひとつへだてて一緒に暮らすことになった。それぞれ六畳二間に台所などがついていた。それは秩父宮がまだ弘前の歩兵第31連隊に勤務していた1936年のことだったという。修司がまだ満一歳になる前のことである」と修司の従姉にあたる海老川スミさんの話を載せている。寺山の父は当時、秩父宮の警護に当たる警官で、その事務所は川村酒造店敷地内(3)にあった。
この記述によればかなり小さな長屋に住んでおり、先の1の土地ではやや広すぎる(敷地後ろが庭の場合は別だが)。阿部さんの著書では、小さな地図でわかりにくいが、1の下のクリーニング屋の下あたりを生誕地としている。大きさは合致するが、3軒長屋で、私はやはり1が生誕地ではないかと思う。ただ当時と今では番地が変わることがあり、はっきりしない。
2の派出所は残念ながら寺山の生誕地ではないようだが、昭和初期の派出所としては非常にユニークで、またお城に近接しており、ロケーションもよく、何とか保存してもらいたい。できれば当時の派出所を再現し一般開放して、ミニ寺山修司記念館のようにならないであろうか。

2007年2月27日火曜日

珍田捨己4



弘前市立図書館に先日久しぶりに行きました。郷土出身者のコーナーには、寄贈による古い本が入っていました。専門家ではない私が知識を得るはインターネットや本屋からで、古い本を古本屋で探すほどの気力がないため、こうして篤志家が寄贈してくれることは非常にありがたいことで感謝します。その中に昭和13年発行の「伯爵珍田捨己伝」(菊池武徳編)という本がありました。ざっと見ただけですが、面白いのは捨巳が捨己となっていることです。どちらが正しいかわかりませんが、この人の生き方を見る限りが、捨己の名の方があっている気がします。その中に「珍田伯の日本語と英語」という文章があります。
「珍田伯の東北弁、すなわちズウズウ弁は有名なものであった。宴会の時や座談の時に、あのズウズウ弁を咄々(とっとつ)として物語られた状況を見ると、よくあれで、外交の檜舞台で働かれたものだと思われる。然し座談におけるあの温か味のある顔に似合わぬ警句、皮肉、時には洒落までも語られたものである。これも西園寺公に随伴して来られた加藤恒忠前大使は人も知る如く諧謔と警句とに於いて有名な人であったが、この加藤氏が日本全権国の座談の際に、珍田全権が珍しくも洒落混じりで話して居られる最中に、突如として「珍田さん、あなたは案外日本語がお上手でございますね。洒落までおっしゃるのですから」とまるで外国人でもあるかのように諧謔を述べたので、西園寺公始め一座の人々はどっと哄笑したことがあった。然るに、この珍田伯が英語で演説し、又は外交談判をやられる時には、1つもズウズウ弁が出ない立派な英語の発音で、日本語の訥重が似合わな雄弁である。そして警句まで混へて英米人をヤンヤと云われたものである。」
ここで大きな間違いは津軽弁はいわゆるズウズウ弁ではありません。このころは東北弁=ズウズウ弁と解釈したようですが、福島や山形の言葉と津軽弁は全く違い、秋田弁に近い感じがします。言葉の最後が不明瞭、鼻音や短縮が多くて、私自身未だに年配の方の津軽弁はわかりません。実際、弘前出身の家内も郡部の方言はわからないと言っています。
一度、羽田空港で前に座っている年配の夫婦の会話を聞いていて、どこの言葉か全くわからず、15分ほど韓国語ではないし、北京語でもないし、広東あるいは福建語かなあと悩んでいると、娘が帰ってきて、親子の会話を聞いて初めて津軽弁とわかりました。弘前に住んで10年以上立つのに、恐るべしディープ津軽弁。

2007年2月26日月曜日

ブラケット4(セルフライゲーションブラケット)



active型のSpeedブラケットの構造を示す(写真上)。最新型も大体同じ構造ですが、日本の会社(トミー)が最近、ばねの部分以外は透明な素材で作ったブラケットを販売しました。かなり見た目がよくなっていますが、大きさはツイン幅になっています。せっかくactiveタイプにしているのに、なぜツイン幅にするのかわかりません。矯正歯科医はツインブラケットになじんでいるため、できるだけ違和感を少なくしようとの考えか、あるいは強度的な問題があるのでしょうか。メーカーは結紮線もつかえますと言いますが、この種のブラケットは基本的には窓を開けたまま、結紮することはありません。私のところでも、この最新型のブラケットを購入しましたので、試してみたいと思います。
Passive型のブラケットの最新型はデーモン3(オームコ 写真下)と呼ばれるのもです。edgelokの発展型とも言えます。edgelokは開発されて35年もたち、15年ほど前からEdgelok2の開発が噂され、実際に開発されたようです。一方、あまり普及が低いので、従来のツインブラケットに近い形態のものを出しました。これがデーモンブラケットで、基本的にはEdgelokと同じ考えからでたものです。デーモン3では半分が透明になり審美性が改善されました。さらに今月デーモン3MXが発売されましたが、再びメタルに戻り、丸っぽいデザインになりました。
もともとアメリカでは矯正患者数が日本と違い、一日に100人以上もいて、いかに診察時間を短くするかが、求められました。さらにエイズの問題もあり、結紮線の断端による針刺し、これは手袋をしても防ぐことができないため、セルフライゲーションブラケットによる結紮時間の劇的な減少、針刺しの防止が歓迎されましたし、開発の目的になっていました。ところが15年ほど前からブラケットとワイヤーのすべりの問題が言われるようになり、セルフライゲーションブラケットを使った方が治療期間の短縮につながるという考えがでてきました。結紮時間の短縮や針刺し防止はあくまでドクター側の利点で、患者にとっては利点ではありません。むしろ審美性の点ではメタルのものは劣るため、いくら診療時間が短い、歯磨きがしやすいといっても、やはり審美性ブラケットを患者は選択します。そのため、最近ではこのブラケットを使えば治療期間が短縮されますという患者側の利点を全面に出して、メーカーもドクターも勧めているようです。デーモンブラケットは久々のヒット商品になっています。メーカーの商品戦略がうまくいったのでしょう。はたして治療期間はどれくらい短くなるか、後で話してみたいと思います。

2007年2月25日日曜日

ブラケット3(セルフライゲーションブラケット)



ブラケットが歯に直接接着することができるようになると次々と新しいブラケットが出てきました。セルフライゲーションブラケット、リンガルブラケット、審美ブラケットなどがそうです。ここでは順を追って説明したいと思います。
アングル先生によりブラケットの基本的な形態が開発されましたが、ワイヤーとブラケットを結ぶのは、もっぱら細い金属のワイヤーでしばっていました。合成ゴムの発明に伴い、細い輪ゴムのようなものも使われますが、基本的には現在もリガチャーワイヤーという細い針金で縛っています。これは取ったり、つけたりするのは時間がかかり、また切った先が口の中を傷つけたり、ドクターの指にささったりします。そのため早くから縛らないで、ふたをするようなブラケットが考案されました。これをセルフライゲーションブラケットと呼びます。一番最初の製品はRussell Lockと呼ばれるもので早くも1935年に発表されています。現物は知りません。その後、Edgelok(オームコ 写真上)が1972年に発売されました。このブラケットは丸い型をしたもので、特殊な器具を用いて上半分が開くようになっています。私がいた鹿児島大学でも早くからこのブラケットを使っていたようで、私がいた頃はすべてこのブラケットで治療していました。取り外しが非常に簡単で、いいブラケットですが、出現が早すぎたのでしょうか、日本でも鹿児島大学以外は全く使用していなかったと思います。丸くてちょっとかっこ悪く、またメタルのため患者からはあまり評判はよくなかったと思います。その後、Mobil-Lock(Forestadent 1980),これはねじで開閉をするものや、Activa(A-Company 1996)、最近ではDamon2(オームコ 2000)などが発売されました。いずれもドアあるいは窓のような構造で溝に入ったワイヤーを閉めるものでした。
一方、これとは少し異なるセルフライゲションブラケットがカナダのメーカーから発売されました。Speed ブラケット(1980 写真下)は単に窓のようなもので閉めるだけでなく、この窓自体が力を発揮するような仕組みになっています。前に述べたように幅の狭いシングルブラケットは歯の捻転をとるのが非常に難しいのですが、このブラケットはブラケット自体の力で捻転を取ることができるため非常に小さいものになっています。写真のものは旧型ですが、最新のものはバネが超弾性のものを使用しており、サイズもさらに小さくなっています。メーカーは小さな機械が入ったブラケットと宣伝していますが、画期的なものと思います。おそらく世界最小のもので、ブラケット周囲の歯磨きも大変しやすくなっています。現在、日本で取り扱い業者がないこと、従来と異なる治療概念、価格が高いこと、審美ブラケットには見た目は劣ること、開発者のハンソン先生が飛行機嫌いで講演がアメリカ、カナダに限られることなどから日本での普及度は低いようです。十和田のタカヒロ矯正歯科の佐々木先生は直接、ハンソンのところに教えをこいに出かけ、このブラケットを積極的に使っています。症例数は日本でも屈指と思います。
セルフライゲーションブラケットは、前者(Edgelok,Damon)のようなふたを閉めただけで力のかからないpassive (静的)タイプと後者(Speed)のようなactive(動的)タイプに分かれます。

2007年2月24日土曜日

笹森儀助 3


笹森儀助は、弘前市在府町54番地で生まれた。現在の木村産業研究所のはす向かいにあたる。先に紹介した陸羯南の生家も近く、在府町3に生まれた明治日本キリスト教界の指導者であり、青山学院の実質的な創設者の本多庸一の生家も非常に近い。底辺の人々の視点からルポを書くという儀助の精神は、反骨のジャーナリスト陸羯南に引き継がれ、さらには弘前市出身のルポライター鎌田彗さんにもその系譜はつながっていく。
木村産業研究所(1932)は、日本近代建築の礎を築いた前田国男がル・コルビュジェのアトリエから帰国後、最初に建てた建物である。今みると別にどうってことない建物だが、これが70年前の建築と知ると驚く。1935(昭和10年)に弘前を訪れたブルーノ.タウトがどうしてこんな辺境の地に、コルビュジェ風の白亜の建物があるのかと驚いたそうである。他にも、弘前には前川の初期から晩期の建物が多くある。弘前市中央高校行動(1954)、弘前市庁舎(1958)、弘前市民会館(1964)、弘前市立病院(1971)、弘前市市立博物館(1976)、弘前市緑の相談所(1980)、弘前市斎場(1983)などである。なぜ、こんなに多くの前川の作品があるかというと、前川の母親菊枝さんの実家が弘前で、菊枝さんの兄は有名な外交官佐藤尚武で、前川もフランスに行く折、このおじを頼ったことに端を発する。同じく津軽藩士で、広島電力の社長を努めた木村静幽が、郷里弘前に地場産業の研究機関を設立しよう考えていたが、ちょうど佐藤尚武と通じて前川と親交を結び、木村産業研究所の設計をすることになった。その後、その縁から弘前の公共建築にたずさわった。
ちなみに珍田捨巳の妻いはは、一緒にアメリカに留学した外交官佐藤愛麿の妹で、佐藤愛麿の養子になったのが、いとこの田中坤六の次男の尚武ということになる(愛麿の三女文子と結婚した)。
アーハウス 前川國男と弘前(アーハウス編集部)を参考にした。

2007年2月23日金曜日

笹森儀助 2



青森という中央からみれば辺境に生まれた儀助には、はなやかな明治という時代に隠れた人々の負の側面を、実検した沖縄諸島やさらには朝鮮、台湾で暮らす人々の中に見いだした。貧窮した人々の暮らしをどうしても座視することができなかったのであろう。
農牧社をやめた儀助は、乏しい金を工面した近畿、中国、九州などの各地を巡った。その後、北海道に行く予定であったが、たまたま千島に探検隊を派遣する話を聞くと、便乗し、「千島探検」を発行した。北に比べて南境の開拓が遅れていることを憂い、琉球探検に出かける。儀助が訪れたトカラ列島は現在、十島村と呼ばれ、私も17年ほど前に1年間の歯科巡回診療で何度か訪れた。その当時でさえ、鹿児島からのフェリーは週2回ほどしかなく、台風でもくれば1,2週間の船が来ないこともある。まして明治26年当時といえば、それこそ今でいうならアフリカの奥地にいくようなものであっただろう。その旅行記「南東探検」は単に旅行記にとどまらず、そこに住む人々の悲惨な状況を伝える媒体ともなった。普通のひとであれば、本を書き上げることで事足りたのであろうが、儀助はそれでは満足できなかった。奄美大島の島司になって島民の生活向上に努めた。ここでもさとうきび事業など色々な試みを真摯に行ったが、薩摩の商人や中央の役人にやり方にことごとく対立して、結局は辞任してしまう。その後、台湾、朝鮮、シベリアを訪れ、ここでも大量の日本人女性が棄民として売春宿で働いているのに絶句する。その後、明治35年には推されて青森市第二代市長に就任した。青森商業補習学校に設立などに尽力するが、明治41年には辞任したあとは、一家の生活費を稼ぐために娘の勤務していた大阪の病院の会計監査になった。娘の死とともに、弘前に戻った。普通、市長を6年もしていれば、その当時そこそこの金は残せたと思うが、儀助には財産はなく、大正4年に弘前市鍛冶町の銭湯で倒れ、そのまま息を引き取った。現在の鍛冶町は飲屋街であるが、当時は貧困層の多く住むところで、最後まで儀助らしいとも言える。2003年発行の平凡社 日本の探検家たち の表紙に儀助の誇らしげな姿が飾った。また1年前から地元の東奥日報でも儀助の生涯を追う連載があり、ちかじか本になると思うが、ようやく儀助にもスポットが当たるようになった。儀助の設立した青森商業高校でも、数年前まで儀助の服が打ち捨てられていたが、ようやく校長室に飾られるようになった。
中学生のための弘前人物志(弘前市教育委員会 非常にいい本です)、青森20世紀の群像(東奥日報社)、日本の探検家たち(平凡社 別冊太陽)を参考にした。

2007年2月22日木曜日

笹森儀助 1


着物にこうもり傘、うちわにワラジ、この有名な写真は沖縄諸島探検に行く前の格好である。笹森儀助(1845-1915)は弘前市在府町54で生まれた。以前紹介した人物に比べて一回り古い世代である。この人ほど熱情という言葉がふさわしい人物はいない。父、重吉は家禄100石の御目付役であったが、早く亡くなったため、儀助は13歳で家督を継ぎ、小姓組として出仕した。15歳から22歳まで藩校で学んだが、とくに師山田登からの影響が強く、「みずから反して正しからば、千万人といえども我ゆかん」という師の精神に感化された。この反骨な考えは友人の陸羯南にも引き継がれていく。22歳のころには早くも国政改革の意見書を提出して、藩主の怒りを買い、家督を1/3に減らされた上、4年間も蟄居されていた。後日の儀助の生き方を暗示させる。維新後は有能な若手官僚となったが、やはり血がさわぐのか、山で暮らす人々のため山林の国有化に反対し、明治14年には官僚生活をあっさり捨てる。
武士の生活の貧窮をみると、今度は牛乳販売を思いつき、給料ももらわず、さんざん苦労して、農牧社を興したが、ここでも軌道に乗り出した明治25年には辞職した。このように儀助は常に貧しい農民や維新により立場が失墜した旧武士たちの救済に全力を尽くした。一方、これは欠点になるかもしれないが、あまり我慢がきかない性格で、一カ所に長く残ることは生涯できなかった。政府などの大きな勢力があると強い怒りをもって歯向かうが、陸のように何度も立ち向かうことはせず、やめてしまう。非常にピュアーな性格がわざわいしているのだろう。

2007年2月20日火曜日

ブラケット2




1940,50年ころからば、貴金属合金のワイヤーはあまりの高価なので、次第にステンレスやニッケルコバルト合金のワイヤーが使われるようになりました。アングルが発明した幅に狭いシングルブラケットは歯のねじれをとるのが非常に難しく、その頃から幅の広いツインブラケットが多くなりました。ブラケットの幅が広いと中心からの距離が長くなり、それだけ弱い、持続した力をかけることができます。一方、ツインブラケットはブラケットとブラケットの間の距離が長くなり、今度は歯と歯のずれをとるのが難しくなります。ステンレスやニッケルコバルトのワイヤーは自由に曲げることができるため、各種のループを曲げて、より弱い力が持続的にかかるように工夫されました。最新のワイヤーは弱い、持続した力を出すことができますが、ループを用いた方法はこれら最新のワイヤーより歯を容易に動かせるため結構今でも多用します。最新のツインブラケットもほぼ1950年ころのものと基本は同じです。
一番違うのは、それまで歯に金属のバンドを巻いていたのが、現在では歯に直接ブラケットをつけれるようになったことです。ダイレクトボンディング法というのは歯の表面に弱い酸ででこぼこを作り、それを支持としてブラケットを接着剤にて直接つける方法です。この方法によって一本一本バンドをまくという大変な手間と技術が軽減されただけでなく、虫歯の発生も減少しました。何より見た目が大幅に改善されました。透明あるい歯と同じ色の審美的ブラケットや舌側ブラケットなどもこの技術がなければ出現しなかったと思われます。実はこの矯正歯科における画期的な方法を発明したのは、日本人で、東京医科歯科大学の三浦不二夫教授です。1971年?のセントルイスでの全米矯正歯科学会で実演講演が行われました。非常な衝撃を与えたようです。さらにすごいのは、プラスティックでできた世界で初めての透明な審美ブラケットを同時に作り、この実演に用いたようです。その後、この方法は急速に普及し、現在、バンドを巻くのは奥歯くらいになっています。私が大学にいた80年代にはバンドを使うことはなく、当時、九州歯科大学が新人教育の一環としてバンドを使うと聞いてびっくりした記憶があります。さらに2、3年前の矯正専門誌の症例発表でバンドが使われている症例をみたことがあり、まだこんな方法をしているところがあるのかとあらためて驚きました。

2007年2月19日月曜日

ブラケット1




最新の矯正治療を理解するためには、装置についてある程度知っておく必要があります。今回は歯の表面につける矯正装置、ブラケットについて説明したいと思います。10年ほど前に開業医の先生向けの行った講演会の資料に基づいていますので、やや内容は難しいかもしれません。できるだけやさしく説明します。
 エドワード・アングル先生の名前を知らない矯正歯科医はいません。アングル先生は現在の矯正治療のほとんどの基礎を作ったひとで、現在の装置の多くは、その発展型と言ってもよいと思います。彼は歯1本ごとに動かすさまざまな装置を研究しました。最初作ったPin and Tube 装置は、貴金属合金のワイヤーに垂直のワイヤーを鑞着し(バーナーで熱して金属同士を引っ付ける)、それを歯につけたチューブに差し込み、歯を動かすものでした。0.1mm単位の高度な鑞着技術が必要で、実際アングル先生以外は数多くの弟子、誰もできなかったようです。その後、リボンアーチ装置を作りましたが、これは後にオーストラリアのベッグ先生により発展しました。現在は主流となっていません。1920年代半ばには最終的なエッジワイズ装置を発表しました。これが現在の矯正装置の主流になっています。この装置の特色は長方形の溝をもつことで、これにワイヤーを入れることで歯の位置はそのままで歯根を動かすトルクを入れられることです。矯正治療ではこのトルクが非常に重要です。まず金属のバンドを歯にまき、それにこの装置を鑞着しました。貴金属合金、金、白金、パナジウム合金でできたワイヤーをこの溝に差し込み、結紮します。欠点としてはブラケットの幅が狭く(シングルブラケット)のため歯のねじれをとるのは難しいと思います。後日、この装置に羽根を延ばしたようなものを作り、その欠点を直そうとしています。
 当時はワイヤーはほとんど弾性がないものでしたから、歯の少しのぐらつきを利用して、こまめにワイヤーや結紮で調整したようです。そのため患者さんには1週間に1回くらい調整にきてもらいました。それでもアングル先生はよほど器用な臨床医だったのでしょう、仕上がりは現在の目でみてもりっぱなものですし、治療期間も今と変わらない1年半から2年です。
名女優グレタガルボがスウェーデンからアメリカにきた時にまず矯正治療を受けて、それからハリウッドに進出したようです。彼女もこんな矯正装置をつけていたのでしょう。

2007年2月18日日曜日

斉藤正午


弘前の生んだもうひとりの名パイロットを紹介する。斉藤正午(さいとう まさおき 1918-1944)は弘前城西堀沿いの家で生まれ、朝陽小学校を卒業し、1935年に少年飛行兵第二期として所沢飛行学校に入校した。1939年に起こったノモンハン事件では飛行第24戦隊の一員として9月の終戦までに25機を撃墜して、戦隊のトップエースになっていた。体当たり撃墜王の異名をもち、6月22日に起こった100機余りのソ連戦闘機による大規模空戦では、第24戦隊の97戦闘機18機だけで戦い、弾薬も撃ち尽くしながら、8機のI-16戦闘機に包囲され、右翼で敵の垂直尾翼上部を切断させ、撃墜させている。高度な飛行技術である。
斉藤は子供のころから正義感が強く、近所の子供たちのリーダーになっていたと、当時斉藤にかわいがられた知人の歯科医が言っていた。またノモンハン事件後に故郷弘前中学校でも講演があり、生徒として聞いていた彼は先輩のことが非常に誇らしく、うれしかったとも語ってくれた。
士官学校卒業後は、少尉として飛行第78戦隊の一員としてニューギニアに派遣され、20mmマウザー砲を搭載した新式の三式戦一型丙に搭乗し、B-24重爆撃機を含む数機を撃墜、最終撃墜数は26機で日本陸軍航空隊のエース18位である。1944年7月2日のホランジアでの米軍の対する地上戦で戦死した。第78戦隊は最も悲劇的な戦隊として知られている。米軍のニューギニア進出に、日本海軍はマリアナの防衛を優先するためニューギニア陸軍を完全に見捨てた。第78戦隊も稼働飛行機0の状態で、飛行士もずべて歩兵部隊として戦闘に参加した。ウエワク付近の戦闘で飛行第78戦隊は戦隊長以下将校全員戦死、戦隊員の92%が戦死した。
優秀な飛行士には天賦の才能と長い訓練期間が必要で、膨大な費用がかかっている。まして斉藤のようなベテランのエースを歩兵として死なせたことは、日本軍の愚かさを端的に表している。
日本陸軍航空隊のエース1937-1945(ヘンリー・サカイダ著 Osprey Aircraft of The Aces)および世界の傑作機陸軍97式戦闘機、陸軍3式戦闘機「飛燕」(文林堂)を参考にした。

2007年2月17日土曜日

藤田雄蔵




藤田雄蔵少佐(1898-1939)は周回航続距離世界記録を樹立した航研機のパイロットとして知られる。日本郵船社員の藤田未類二を父に、清美を母として、弘前市小人町12で生まれた。まもなく父の勤務の関係で横浜に移ったが、横浜では、今東光、日出海の両親も父が日本郵船の社員、母が幼なじみということで親しくしていた。横浜一中(17期)から陸軍士官学校(33期)に進み,昭和9年から陸軍航空本部技術部付のテストパイロットになった。
陸軍の最も優れたテストパイロットとして航研機の主任パイロットに選ばれ、昭和13年5月 15日に長距離世界記録(11651km)を樹立した。ちなみに設計には戦後YS-11の設計で有名な木村秀政、機体製作には工藤富治らの青森出身者がかかわっている。副操縦士は高橋福次郎曹長で、昭和14年2月にイタリアから輸入したイ式重爆撃機で漢口に行く途中で不時着し、中国軍と交戦中に戦士した。

写真でみるとわかるように身長176cm、体重71kgの巨漢で、当時の飛行士は狭いコクピットのに入らなければいけないので、小柄の人が多く、このような大柄なテストパイロットはめずらしい。さらにびっくりするのは、眼鏡をかけていることだ。現在でも、パイロットで目の悪いひとはいないのに、この当時、目が悪いことはパイロットとしては致命的であったろう。それにも関わらず、陸軍の威信をかけた事業に選ばたことは、いかに優秀なパイロットであったかを示す。写真をみると温和で責任感の強い性格が見て取れるが、漢口の戦士の際には機密保持のため不時着機に火をはなち、割腹自殺したと言われている。

副操縦士の高橋曹長については、その功績を讃えた石碑が地元富岡にある。研究機開発物語(秋元実著、光人社NF文庫)とヒコーキグラフィティ 青森県航空史(II)(大柳繁造著)を参考にした。

2007年2月16日金曜日

歯磨きコーナー




歯磨きの練習をしてもらうコーナーです。衛生士がここで赤い染め出し液で歯の汚れているところを染め出して、指導します。できれば中学生になるころにはきちんとした歯磨きの仕方をマスターしてもらいたいと思います。私も含めて歯医者は実はあまり虫歯になりません。この原因は歯磨きのこつをマスターしているからで、別に甘いものをそれほど控えているわけではありません(ダイエットは別ですが)。それほど難しいものではありません。またフッ素の併用も効果的です。
私が大学5年生の時、1年間基礎の講座に行って実験するというカリキュラムがありました。私は生化学を選び、そこで虫歯を抑制する物質を探すという実験のまねごとをしていました。卒業後は小児歯科に残りましたが、そこでは微小PHメータを上の奥歯につけ、砂糖水を掛けてPHがどのように変化するかを調べるお手伝いをしました。結論から言うと、虫歯がそれほど簡単にはなるものではありません。特に、唾液の緩衝能(PHが酸性、アルカリ性に行くのを食い止める能力)が重要です。虫歯は夜作られるというように、唾液の流出が少ない、夜寝る前に甘いものを食べない、その前に磨き残しのないようにすることが重要です。歯磨き後にフッ素ジェルを使ったり、歯磨き剤を使ってもあまりブクブクをしないのもいい方法です。
写真、手前の機械はあごの運動をコンピュータで解析するシロナソというものです。あごのずれが大きく、手術が必要な患者さんで使っています。
奥歯の形をしたランプ、これはTooth Lampと言いますが、この上に載っている怪獣はFredyという名前をもっています。アメリカの歯科教育用の会社で作られているもので、歯が実にリアルに作られています。主として歯磨きやフロス(歯と歯との間を磨く糸ようじ)の仕方を教える教材です。パペット人形になっていて裏から手をつっこんで、口をあけたり、手を動かしたりできます。中に水を入れる容器があり、舌のところから水が出るようになっていますが、どういう風に使うか不明です。

2007年2月15日木曜日

ハッピースマイルボード



待合室の後ろの壁には、最近矯正治療を終了した患者さんの写真を飾っています。大阪の井上先生のところで治療終了患者の写真を壁に貼っているのを見て、数年前から始めました。最近のデジカメでなく、ポロライド写真というのがみそで、写真の下に感想を書けるようになっています。大変だったが、やってよかった、きれいになった、色々なコメントがあります。毎月1回通院するのは大変だったでしょうし、治療のためにゴムをかけたり、日々の歯みがきも大変だったと思います。こちらも何とか治療を終了できてほっとしています。写真のうれしそうな笑顔を見ていると、本当にこの仕事をしてよかったと思います。欧米では装置を外した患者がいる日にはスタッフでおめでとうの歌を歌ったり、花束をあげたり、シャンパンで祝ったりするとこともあるようです。気持ちはわかります。長い矯正治療本当にお疲れさまでした。

ガチャポンは昨年から入れました。幼稚園、小学校のお子様で治療や歯磨きにがんばった時に、以前は野菜やケーキの形をしたけしごむを渡していました。ところがかごから選ばせていたため、人気のあるものはすぐになくなりますが、ねぎやピーマンなどのけしごむはいつまでも残ります。ガチャポンはどんなのが出るかが、楽しみなようで、人気があります。中身もちょくちょく変えていますが、男女共用のものは割と少なく困っています。子供たちにはどんなものが人気があるかわかりませんので、希望のものがあれば是非教えてください。

2007年2月14日水曜日

山田兄弟 3



5、6年ほど前から弘前の偉人の生誕地を探してきた。山田兄弟の生家も昔、撮った気がしたが、長い間わからなかった。古いカメラの中に3年間もフィルムを入れっぱなしにしていたことに最近気づき、現像した。左の写真はおそらく茂森町から在府町を撮ったところだと思う(春になったらもう一度撮ってきます)。奥に入ったところの右が陸羯南の生家(中田謙斎)で、その前が山田兄弟の生家である。明治時代は今より1mは道幅は狭かっただろうが、ほぼ変化はない。この在府町というところは数多くの傑出した人物の生まれたところである。1.陸羯南、2.山田兄弟、3.笹森儀助、4.本多庸一、5.珍田捨巳の生誕地である。番地でいうと陸羯南は在府町22、山田兄弟は在府町23、笹森儀助は在府町54、本多庸一は在府町3である。これらの人物の共通点はいずれも自分の栄達を求めず、無私な人物であったことである。分野は異なるが、何かしら似通った性格を持ち、あたかも何かに感染したように極めて限定した地区に多くの人物を輩出した。同様なことは、文学の世界でもあり、佐藤紅緑は親方町で生まれ、その後元大工町に引っ越した。このすぐ近くの本町71で詩人の一戸謙三、本町59で福士幸次郎が生まれた。さらに今東光の母親の生家は佐藤紅緑の隣で、また作家の石坂洋次郎は学生時代過ごした塩分町も近い。いずれも半径100mに入る近さである。
以前、勤務していた鹿児島でも西郷と大久保の生家のあまりの近さと、その近辺に多くの明治の人物を輩出したことにびっくりした。田舎のことで近所との関係というのは想像以上に深く、山田兄弟も上記の人たちの何らかの世話になったのであろう。

2007年2月13日火曜日

山田兄弟 2


良政の弟、純三郎は南京同文書院を卒業後、満鉄に入ったが、兄の志を受け継ぎ、孫文の革命を支援していた。自分を誇大に語ることを好まず、自らを厳しく律したため、中国革命の同士の信頼は厚かった。上海で袁世凱の刺客により陳其美が殺されたが、その際女中が抱いていた純三郎の娘民子(妹は国子、中華民国にちなむ)がコンクリートの上に落ち、聴覚と脳に障害をもった。また蒋介石の次男(緯国)をしばらく預かったりもした。孫文の臨終に際しては、立ち会ったとされているが、純三郎の性格から現場にはいても枕頭には立ち会わなかっただろう。日中戦争の時は、日語専修学校や上海雑誌社の社長などをしていたが、日中戦争には常に反対していた。蒋介石が「恨みに報いるに徳をもって行う」と全中国に号令し、在支邦人を帰還させたが、後に「わたしに感謝は必要ない。感謝すべきはあなたがたの先輩です」と語っている。蒋介石とは宋慶齢との結婚のことで仲違いしていたが、この時、蒋介石は純三郎のことが脳裏をかすめたにちがいない。
おそらく孫文、蒋介石と最も親しい日本人と思えるが、戦後はその功を誇らず、ひっそりと暮らした。晩年、蒋介石から国賓として招かれた際のエピソード、純三郎は蒋介石を蒋さんと呼んでいたが、用件を伝えにきた一人の青年をみて「蒋さん。あの青年は」「息子の経国です」「ベンコか」といって大笑いしたとのことである。ベンコとは一発でという意味である。
山田兄弟については寶田時雄のHP(http://www.thinkjapan.gr.jp/~sunwen/sun08.htm)にくわしく書かれており、このブログもこれを参考にした。また山田兄弟の資料は良政が教え、純三郎の学んだ東亜同文書院の後を継いだ愛知大学に保管されているが、地元弘前では蒋介石の碑文があるだけである。その他、陳舜臣「孫文」と保坂正康「昭和陸軍の研究」も参考にした。

2007年2月12日月曜日

山田兄弟 1




山田良政(1868-1900)、純三郎(1877-1960)兄弟は、弘前市在府町23で生まれた。生家の真ん前が明治の不屈のジャーナリスト陸羯南の生家である。父、晧蔵(1838-1918)は弘前藩の中級藩士であったが、維新後は没落した武士を助けるため授産事業として漆器樹産合資会社をおこし、現在の津軽塗の発展に寄与した。
兄、良政はもの静かで、思慮深い性格で、陸羯南にも大変かわいがられた。青森師範を出たあと東京の水産講習所を卒業した。その後、北海道昆布会社の駐在員として中国に赴任し、中国語の習得に努め、日清戦争では通訳官として参戦した。その時に中国革命の父、孫文と知り合い、革命に参加していく。孫文の最初の蜂起、恵州蜂起では武器の援助のため台湾総督児玉源太郎と孫文の交渉を斡旋した。おそらく郷土の先輩、一戸大将の仲介があったのであろう。伊藤内閣の支持が得られず、結局この蜂起は失敗する。仲介した責任をとり良政はその説明のため直接現地をおもむき、清軍に捕らえられ処刑される。日本人と言えば処刑はされなかったであろうが、革命のために殉難した。革命成功後、日本に来日した孫文は良政の死を嘆き、自らの墓碑銘を書いた。孫文の書の中では最高というひともいる。

孫文の革命を助けた日本人として、宮崎滔天や頭山満、梅屋庄吉、南方熊楠などが取り上げられるが、実際に革命の同士、一員として参加した日本人は山田兄弟しかいないのでなかろうか。弘前大学にも多くの中国人留学生がいるが、その地元ですら山田兄弟を知るひとは少なく、唯一山田家の菩提寺の貞昌寺に墓碑があるのみである。

2007年2月11日日曜日

受付



クリスマスの時の受付です。ここで次の予約をとっていただきますが、歯磨きのグッズをたくさん用意しています。矯正装置が入ると歯磨きが難しくなるため、かなり一生懸命に磨いてもらわないと虫歯になる可能性があります。とくにブラケットと呼ばれる装置、これは歯一本ずつにつけるものですが、装置の周囲を細かくみがく必要があります。そのため歯ブラシも特殊なものを使ってもらいます。先が三角形になったブラシや筆のようなブラシで磨いてもらいます。装置をつけて1,2週間後には矯正用歯ブラシ、電動歯ブラシ、フッ素ジェルなどが入った口腔衛生キットをお渡しして、45分くらいかけて歯磨きの練習をしてもらっています。ただ本人が習ったことをお家でがんばってくれないといけませんが。

昔に比べて学童の虫歯は減ってきたように思えます。この原因として挙げられるのはフッ素の普及と思われます。以前はフッ素はにがい味がしたため、小児用の歯磨き剤にはあまり含まれていませんでしたが、ここ10年ほどほぼすべての歯磨き剤にフッ素が含まれるようになってきました。歯磨きをした後、何回もうがいをするひとがいますが、できれば歯磨き後は少量の水を口に含め、10-30秒間、ブクブクした方がよいでしょう。フッ素が歯にしみ込むためです。また幼児で寝かせ磨きする場合は、歯磨き剤を使いません。その場合は母親が仕上げ磨きした後に、上のようなフッ素ジェルを歯に塗りつけることは予防の点からは非常に効果的です。

2007年2月10日土曜日

滅菌・消毒


当院では患者さんの口に入る器材については基本的には滅菌・消毒したものを用いています。アメリカのDentronixの乾熱滅菌装置を使っています。医科・歯科ではオートクレーブという高圧蒸気を用いた滅菌装置が一般的ですが、刃物についてはさびたり、刃先が切れにくくなったりします。歯科矯正に使われる器具(プライヤ−)は本当に高く、一本1.5-2万円もします。できるだけ寿命も延ばそうとこの装置を使っています。もともとはプライヤーのメーカーで欧米では非常によく使われています。数年前、三沢の米軍基地内の歯科病院を見学に行った時も、滅菌室にこの装置が2台置かれていました。米軍の病院の設置器具の基準は非常に厳しく、各種の歯科器材も評価されてレポートされています。この装置のいいのは写真上の見られるラックにプライヤーをセットすれば30分くらいで滅菌できます。滅菌されたプライヤーは治療内容によって患者ごとに用意されて、使用しています。
ワイヤーを曲げるプライヤーは本当に多くの種類がありますが、できるだけ簡素化して十分な数をそろえるようにしています。エイズや肝炎などの重篤な感染症は唾液感染はしませんし、矯正治療は観血的な処置はほとんどありませんので、それほど感染の心配をする必要はないと思います。
患者さんにはできるだけ、ゴーグルをかけていただくようにしています。以前、ワイヤーを切った断片が目の近くに飛び、本当にびっくりしたことがありました。それ以来、安全のためにゴーグルーをかけてもらっています。違和感があると思いますが、ご協力ください。

2007年2月9日金曜日

一戸兵衛 2


一戸兵衛は弘前市田代町8で生まれた。弘前市にある中三デパートの裏の駐車場から田代町に入ったところである。現在、生誕地には碑が立っている。弘前の偉人の生誕地で、碑が建っているのはここだけである。ここに住んでいる現在のお宅が自費で建てたようだ。一戸の生まれたところから西南100m、弘前の繁華街土手町の赤石呉服店隣(弘前市土手町66)で生まれたのは、中村良三海軍大将(1876-1945)である。弘前市第一大成小学校、弘前中学校、海軍兵学校、海軍大学すべてを首席で卒業したという秀才である。米軍が日本に上陸して海軍関係者として一番最初に探し求めたのは中村大将だったようだ。太平洋戦争前に予備役になったため評価は難しいが、非常に頭がよいひとで常に戦況に対しては的確な判断を下していたようだ。中村大将はあまり秀才すぎて個人的には好きにならないが、海軍と陸軍の大将の生誕地がこんなに近いことはおもしろい。

2007年2月8日木曜日

一戸兵衛 1


一戸大将(1855-1931)は弘前市田代町8の父の生家である船水邸にて生まれた。東奥義塾の一回生として入学(この学年には珍田捨巳、佐藤愛麿、陸羯南など日本の外交、言論、軍人を代表するすひとを輩出して、本当にすごい学校と思います)。その後貧乏な青年が名を上げるのは軍人になるしかないと、陸軍士官学校(戸山学校)に入った。軍人としての昇進は遅かったが、日露戦争当時、金沢第9師団の歩兵第6旅団長の少将として、乃木希典大将の第三軍に加わり、旅順攻撃に参加した。第一回、第二回の攻撃では、ほとんどの部隊が強力なロシア軍の防御に総崩れのなか唯一一戸は敵の堡塁の奪還に成功した。旅団長自身が最前線で、大隊、中隊を率いての戦いは、いかにこの指揮官が勇敢であったかを示すもので、乃木ら第三軍の指揮者とは対照的である。この旅順での一戸の優れた指揮ぶりは、ロシア軍にも「イチノヘ」の名を知らしめ、恐るべき敵将として高く評価された。

太宰の津軽の中で「帰郷の際には必ず和服にセルの袴であったと聞いている。将軍の軍装で帰郷するならば、郷里の者たちはすぐさま目をむき、肘を張って、彼なにほどの者ならん、ただ時の運つよくして、などと言うのがわかっていたから」と一戸大将のことを述べている。実際はこういった格好が普段から好きだったようだ。尾崎紅葉夫妻が列車に乗ると前に熱心に手帳に書き込みをしている古ぼけた洋服を着た老人がいた。商売の仕入れ計算などしていると思い、おやじさん、景気はどう。何とか計算は終わったのかいと話すと、その老人は何とか終わりましたと答えた。あとで副官が現れ、在郷軍人会会長として全国を回っていた一戸であったというエピソードがある。教育総監、学習院院長、明治神宮宮司、在郷軍人会会長などのその後の職歴をみても、人格者であったのであろう。

一戸は旅順攻撃の陣中でも、グローゼウッツ「大戦学理」という本を熱心に読んでいた。大島中将がからかうと「一戸はこういうところの方がより真剣に読めるのです。そして真髄にふれるものがあるのです。明日死ぬかもしれないこういう戦場での一か月の方が、平和時の一年より、はるかに勉強できる。部下を一人たりとも無駄に死なせないと思うと読まずにいられない」と答えている。

2007年2月7日水曜日

カウンセリングルーム



カウンセリングルームです。治療方針の説明などはこの部屋で行います。コンピューターはAppleのI-Macです。これでLC630、I-Mac(初代)、I-Mac(二代目)、 I-Book、I-Mac(三代目)となります。OSも8.6から10.3となりました。大学時代からマックを使っていましたが、OSがユニックスになってから本当に安定しました。以前はしょっちゅうフリーズしてコンセントを抜くようなこともしていましたが、最近はほとんどフリーズもなく、0Sの転換は一時は恨みましたが、やってよかったと思っています。アップルという会社はほんとうに変わった会社で、USBへの転換の時もこれまでのユーザーのことは全く考えず、OS9からOS10になる時もそうでした。自分たちがおもしろい、やりたいことがユーザーより優先されるようで、ある意味かわった彼女にほれてしまった状況で、腐れ縁です。来年にはI-phoneもでそうで期待しています。

壁に掛けている版画は弘前市和徳町出身の下澤木鉢郎さんのものです。この版画家は全国的にはあまり知られていませんが、私は雪を書かせたらこのひとの右にでる版画家はいないと思います。初冬の雪、厳寒期の雪、春の雪を版画でうまく表現しています。ただ面白いことに版画による表現は卓越しているのですが、直筆による表現はそれほど面白くありません。おそらく版画における省略が、かえって主題ははっきりさせているからだと思います。本当に味のある版画家のひとりと思います。

2007年2月6日火曜日

待合室


開業当初は完全予約制なので、待合室は小さくてもよいと思っていました。実際は家族で来る患者さんも多く、土曜日など患者さんの多い時は狭くて大変ご不便をおかけしています。小さなお子様をつれてくる方も多いことから、レゴ社のディプロを置いています。少しずつ足していってかなり多くなっていますが、人気があり、これ目当てで来るお子様もいます。最近の子でもはテレビゲームばかりするように思われますが、手先を使ったこのようなおもちゃも好きなようです。

床に座って遊ぶため、何か床に敷くものをと探していましたが、ふとキリムがいいのでは思い、4年ほど前からこの赤いキリムを敷いています。イラン、テヘラン北西部のザランドのもので、おそらく1950年代のものと思われます。この時代のキリムはオールド(約50年前になりますが)と分類されますが、イランのキリムは50年以前と以後とは染色法が違います。昔のものはほぼ天然染料ですが、50年代以降は合成染料が用いられます。このキリムもフィールドの赤はあかねの天然染料ですが、一部の色は合成染料が使われています。自然染料は時代がたつにつれアブラシュと呼ばれる染めむらがでて大変きれいなものになります。Susan Gomersall 「KILIM RUG Tribal Tales in Wool」(A Schiffer Book)にはZarand とBijarのキリムが多数載っています。あかねや藍のような天然染料は、そのもの自体に防虫、殺菌作用などがあるため、自然染料によるラグは体に大変やさしいもので、最近は病院などでも使われているようです。今は店舗はありませんが、兵庫県西宮のアートコアーで購入しました。アートコアー(http://www.artcore.co.jp/)では新作の天然素材を使ったラグを発売しています。ここの店主の竹原さんは日本でも屈指のオールド、アンティークラグの知識の持ち主で、白鶴美術館の展示品の監修もされています。私自身も大変勉強させていただきました。

2007年2月5日月曜日

珍田捨巳 3


珍田の生誕地は弘前市森町、時鐘堂前である。調べると大体左の写真当たりが生誕地と思われる。こういうのを調べるのに非常に役立つのが、弘前市史の付録に入っている「士族在籍引越際之地図」である。これは明治4年(1871年)に調べられた、今でいうところの住宅地図で誰がどこに住んでいるか、小さな字でみっしりと書き込まれている。時鐘堂は今の弘前消防署の隣あたりにあるのがわかり、それから類推した結果である。珍田はその後、弘前市蔵主町12番地に引っ越した。
この地図は大変おもしろく、現在の町がすべて丁となっている。町割りで最初、道が造られ、その道沿いに家が立ち、町になったため、丁(street)となったのであろう。現在では町の単位はひとつの区画、面の単位であったのに昔は、線の沿うものとして町ができたのであろう。今住んでいるところも道に面したところの幅は百メートルにわたり、みごとに同一(9歩、間口3間?)であるのに対して、後ろは無限大?、実際は後ろの道との半分が境になるため、極端に長細い家となる。京都の町屋もそうである。昔は前が家で、後ろが畑になっていたようだが、今の住宅としては誠に使いにくい。
弘前は戦災に合わなかったため、明治4年、おそらく江戸時代から、中心部の基本的な骨格は変化しておらず、萱町、瓦ヶ町、緑町、徳田町、南横町、北横町、坂本町、御徒町など町内住人が数十人しかいない小さな町がいっぱいある。まことにタクシー運転手泣かせの町で、自動車の普及で道幅などは広くなったりしているが、道そのものはほぼ江戸時代から変化はない。

2007年2月4日日曜日

珍田捨巳 2


珍田と昭和天皇との関係を話す。昭和天皇自ら最も楽しかった思い出として摂政時代のヨーロッパ訪問を挙げている。20歳の皇太子からすれば当時64歳の珍田とは親子以上の年齢差があったが、初めての外の世界に出た皇太子は、すでにイギリスにおいてその誠実な人柄により信頼を得ていた珍田は誠に頼りになる存在だった。その後、天皇即位後に侍従長として招いたは、よほどこの外遊を通して、その人柄に信をおいたからであろう。
ハーバート・ビックス著「昭和天皇」(講談社学術新書)に摂政時代から即位にいたる珍田と天皇の関係を触れている。大正末期から昭和初期にかけて、日本は左翼思想、国家主義など多様な思想が混ざり、非常に混乱した時代であった。その混乱から即位した昭和天皇を守る、あるいは教育する仕事は宮内大臣牧野伸顕と珍田ら宮中グループがになっていた。珍田の死後、牧野は孤軍奮闘、国家主義、軍部と戦ってきたが、外務省に強いこねをもつ珍田がいなくなったことは痛手であった。その後、日本は太平洋戦争に突入していく。
昭和2年の遠州灘の海軍大演習の折、軍令部長として天皇の身辺で説明に当たった鈴木貫太郎大将を自分の後任の侍従長に推挙した。鈴木が侍従長として使えたことが後年に天皇の聖断につながったとも考えられ、あれだけアメリカとの関係悪化を憂いていた珍田が推挙した鈴木によって戦争に終止符が打たれたのは皮肉なことである。ちなみに終戦時の侍従長は両親が弘前出身の藤田尚徳(ふじた ひさのり)である。大正7年に藤田少佐は日本大使館の海軍武官としてイギリスに赴任したが、その頃ちょうど珍田は英国大使だったため、同郷のものとして親しくなったようだ。

一度も大臣にはならなかったが、小村寿太郎、牧野伸顕らからの強い信頼を得て、黒子として明治、大正の日本に奉じた珍田はもっと評価されてもよい。

2007年2月3日土曜日

珍田捨巳 1


珍田捨巳(ちんだ すてみ 1858-1929)。変わった名前だが、いい名前である。弘前が生んだ日本を代表する外交官の一人である。1856年12月24日、弘前市森町時鐘堂前で下級津軽藩士の家で生まれる。藩学校(稽古館)を経て、東奥義塾(現東奥義塾高校)でジョン・イングから英語を学び、そのつてをたより、アメリカ、アズベリー大学(現インディアナ州デポー大学)に留学。その後、外務省に入省し、1890年にはサンフランシスコ領事として、その頃盛り上がっていた日本人移民の排日運動の解決に関与した。1901-1908年には外務次官(外務省総務長官)として桂首相、小村寿太郎外相とともに日英同盟、日露交渉、日韓議定、日仏、日露協定、日米紳士協定に尽力した(日露戦争 1904年)。1908-1911年にはドイツ、ブラジル大使、ロシア全権大使を勤め、1911-1914年にはアメリカ大使として赴任、ワシントンDCのポトマック河に桜を植える。1914-1920年には英国大使になり(第一次世界大戦 1914年)、パリ講和会議には全権委員として牧野伸顕らとともに人種差別撤廃条項を提出。国際連盟事務局次長に新渡戸稲造を後藤新平らとともに推挙。日露戦争およびパリ講和会議の功により伯爵に。その後、皇太子時代の昭和天皇のヨーロッパ外遊した際には供奉長として付き添う。1927-1929年には昭和天皇の侍従長となる。
一度も外務大臣などの華やかな役職はなく、地元でもあまり知られた存在でないが、上記の履歴からわかるように明治の重要な外交史にほとんどかかわってきた。後輩の松岡洋右によれば普段は津軽弁なまりの朴訥な人物であるが、仕事させると実に有能だったという。捨身、捨己と言ってもよいほど自分を捨てて国、天皇に誠実に使えた外交官で、誠実な人物であった。

2007年2月2日金曜日

診療室


診療直後の診療室です。かなり雑然としていますが、これでも以前よりだいぶ片付いた方です。
昨年暮に2Fがあいたので、矯正資料の倉庫として借りました。これまで診療室のあらゆる壁に棚があり、資料の置き場に本当に困っていました。一般歯科の先生からは古い資料は捨てればと言われますが、矯正医はどうしても資料は捨てられません。どこの矯正歯科も資料の置き場が最大の悩みになるようです。以前いた大学では半年ごとに模型などの資料をとるため置き場がいつも問題になっていました。これで後30年?はだいじょうぶと思います。手前の診療ユニットは開業当初のもので、矯正専用のユニットです。ライトもうがいするところもありません。奥のユニットは5年前に入れたものですが、最近はこういった一般歯科のユニットを使うようです。確かに患者も術者も楽なので、いずれは買い替える予定です。

2007年2月1日木曜日

ブログ始めました

兵庫県に生まれ、仙台、鹿児島、宮崎とあちこちをまわり、永住の地として青森県弘前市に来て、はや13年が立ちました。
今年は弘前も記録的とも言えるほど雪が少なく、大変助かっています。雪がなければ弘前ほどいい町はありません。
城下町のそのままの街並を残していて、家から見える岩木山も四季折々の姿を見ることができます。
春の桜もきれいですが、雪の夜の弘前、特にお城近くの若党町の小道に入ると本当に幻想的で江戸時代にタイムスリップした感覚になります。一度,冬の弘前も訪れてください。