2013年5月30日木曜日

近所の不発弾騒ぎ



 今週の火曜日、帰宅すると家内が「ビッグニュースよ」と叫ぶ。何のことかと聞くと、二軒隣の家の解体工事中に不発弾が発見され、大騒ぎになったという。

5月29日の東奥日報によれば、 
 28日午前1040分ごろ、ごみ回収業者が砲弾のようなものを発見。従業員の通報が弘前署に通報し、連絡を受けた青森市の陸上自衛隊第9師団の弾薬処理隊員が午後1時58分に回収した。旧日本軍の砲弾と見られ、内部は火薬のない状態で爆発の危険はないという。砲弾のようなものは先のとがった円筒状の金属製で、長さ30cm、直径7.5cm、灰色でところどころ赤くさびている。同師団広報によると、旧日本軍の75mm砲弾の可能性が高い。1936(昭和11年)年製の刻印があり、発射された痕跡が見られるという。鉄くずと同様に廃棄処分する予定。同署は28日正午から約2時間、現場付近を通行止めとして、近隣住民には自主非難を呼びかけた。

 新聞には発見された砲弾の写真も掲載されていたので、ちょっと調べてみた。手元に「大砲入門」(佐山二郎著 光人社NF文庫)があるので、これをもとに解説したい。
明治初期の日本陸軍の野砲は7cm8cm7.5cmが主力であった。これは野砲、砲弾とも馬あるは人力で運んだため、重量に限界があったからであろう。ちなみに明治六年に採用された克式(クリップ式)七センチ半野砲の重量は800キロ、最大射程距離は五千メートル、発射速度は六、七発(分)、三頭の馬で運んだという。その後、日清戦争で活躍した七センチ野砲(口径75mm)では、重量も690キロと軽くなった。日露戦争になるとより威力の大きな口径の大きな砲が用いられるようになるが、三十一年式速射野砲(75mm)は重量908キロ、発射速度は七発、最大射程距離は6200メートルとなっている。製造はドイツのクルップとシュナーダー社である。太平洋戦争でも使われた。明治40年には、砲身長後座式、すなわち砲弾発射の反動を吸収する装置がついた三十八年式野砲を採用することになった。重量は947キロと重いが、発射速度が二十発と飛躍的に伸びた。これもクルップ社製である。これを見ると、どうやら日本陸軍はこと大砲に関しては、ドイツ、主としてクリップ社に頼ってようである。

 昭和になると、威力に重点が置かれるようになり、九十式野砲(75mm)になると重量は1400キロ、射程距離は13890メートルとなった。この重さになると馬では牽引できる重さでなく、本来は各種の牽引車で運ばれることになるが、日本軍では最後まで馬での牽引しかできなかった。そして射程を犠牲にしても重量を軽くしたのが、九十五式野砲(75mm)で重量は1108キロ、射程距離は10700メートルである。それでも馬6頭による牽引であった。砲弾の担送、また砲の操作も、すべて人力で、体格の劣る日本人には野砲隊は大変であったろう。日本陸軍の主力野砲は、最後まで改良三十八式野砲と九十式野砲であった。

 話は戻るが、この近所の不発弾、信管がないので形状からは同定しにくいが、先端がとがっておらず、どうも90式榴霰弾と思われる。榴霰弾は内部に散弾が詰まり、対人殺傷をねらったものである。こういった信管、火薬のない砲弾を集めているミリタリーコレクターもいるようで、こういったコレクターも亡くなり、家の隅にでも置き、忘れ去られると、将来、このような騒動がおこるかもしれない。コレクターの方は気をつけていただきたい。

2013年5月27日月曜日

第29回東北矯正歯科学会大会


 先日、ようやく大会長をしている第29回東北矯正歯科学会が終了した。この学会は、東北地域の矯正歯科医が集まる学会で、東北にある3大学と青森、盛岡、宮城、福島、山形、秋田の各県が持ち回りに開催する。青森県では過去に青森、弘前、八戸で行い、今回は私が大会長ということで、無理を言って弘前文化センターで行うことにした。弘前では18年ぶりの開催である。

 参加者数は200名前後が想定され、各種の委員会にも部屋が必要なため、弘前で学会が開催できるのは、ここくらいしかない。そのため、医科系の多くの学会がここで行われる。弘前城の側にあり、ロケーションもよく、風格のある私の好きな建物である。古くなるとすぐに新しい建物を立てたがる自治体も多いが、そんな必要は全くなく、古い建物を現状に合わせて改善して使えばよい。そういった意味では弘前文化センターを新築する必要はなく、むしろむかし藤田さんが寄贈した弘前公会堂が今あったらなあと思うぐらいである。

 ただ学会を行ってみて、驚き、失望したのは、学会運営の最も大事な機器、プロジェクターが使えなかったことである。何度、機種を替えても画面の左に黒い線がでる。ウインドウ、マック関係なしである。結論としてこのプロジェクターはあまりに旧式で現行のコンピューターと同期していないということになった。急遽、友人から借りたサブのプロジェクターを用いて学会運営を行った。係に聞くと、こういったことは度々あり、なんせホール備え付けのプロジェクターは20年前に航空電子という企業から寄付してもらったものだという。30万円程度のプロジェクターでも十分にきれいに映るのだが、未だに予算がなく、更新されないようだ。

 弘前市は、文化、観光都市として、県外から人が集まる学会、集会を熱心に誘致している。それにも関わらず、施設の基本中の機器がこうなのでは全くおそまつとしか言えない。改善を期待したい。

 今回の学会のテーマは「Artとしての矯正歯科技の視点からー」とした。これは本来学術大会、つまり学(Science)と術(Art)の大会であるはずが次第に大学主導のScienceに力点が置かれるようになったためで、たまにはArtを主体とした学会もあってもよいかと考えた。

 基調講演には弘前大学名誉教授の松木明知先生にお願いした。大変、感銘深い講演で本当に感動した。アメリカ医学教育の基礎を作り、現代医学でも大きな尊敬を得ているウィリアム・オスラーの言葉に「Medicine is a science of uncertainty and art of probability(1950) 」がある。日本語の訳では「医学は不確定性の科学であり、確率の学問である」とされているが、これは誤訳に近い。松木先生は、これは私の理解した例えでいえば、ピロリ菌と胃潰瘍の関係がはっきりしてから、胃潰瘍の原因、治療法は全く変わった。それまでの胃潰瘍に関する数多くの論文、つまり科学があったが、これが一瞬にして間違いとなったのである。これが医学における科学のuncertaintyである。科学の進歩により、診断、治療法がどんどん変わっていくのである。こういった不確定なもの、さらに日々膨大な科学研究、論文に中から真実を探しだし、それを患者に応用して病気をなおす、これがArtなのである。さらに患者ひとりひとりに人格があるように同じ薬を使っても、その効果はあくまで平均値の結果であり、それを個々の患者にどのように使うかは医師、歯科医のこれまでの臨床経験や技術などのArtの部分が重要となる。

 若い人達にどのようにしてこういったArtの部分を教えるのかは非常に難しく、松木先生の言うように、医学部6年教育、それも1年次から専門教育をするやり方はどうも間違っているかもしれない。アメリカのように一般大学4年を卒業し、教養をつけた上に専門教育4年を受けた方がより幅広いArtをもった医師、歯科医ができるのかもしれない。

 何とか、学会会期中は晴天で、多くの参加者もきていただき、大成功に終わってほっとしている。

2013年5月26日日曜日

韓国の悲劇3

 原爆投下を神が下した懲罰だとする記事が、先日、韓国の中央日報に掲載された。この中央日報という新聞社は韓国では朝鮮日報に次ぐ、二番目に発行数の大きな大新聞社だが、発行部数は130万部くらいで、日本の読売新聞990万部、朝日新聞790万部と比べられないくらい小さな新聞社である。しんぶん赤旗より少ない。

 この中央日報は、これまでにも日本に対してトンデモない記事を掲載する新聞社として有名であり、東日本大震災では「日本沈没」と一面に掲載した事件がよく知られている。

 そういった流れの中で、今回の記事であり、社は「社の意見ではない」としているが、掲載するかどうかを決めるのが社であり、今回の記事は中央日報の意見として考えるべきである。10年前から2ちゃんねるの東アジアニュースを見て来た私からすれば、別に取り立てて騒ぐほどのものではなく、こういった日本批判の記事は数限りなくある。

新聞記事をみる限り、韓国ほどおもしろい国はなく、毎日笑わせる記事がでていて、2ちゃんねるを見るのもやめられない。先日のスレッドでは韓国政府は7月までに日本側から日韓通貨スワップ延長を申し出ると思っている」というものがある。天皇陛下侮辱問題で700億ドル分におよぶ日韓通過スワップが中止となったが、韓国政府はまた通貨危機になったら日本が助けてくれると考えているようだというスレッドである。この国は本当にお気楽な国で前回の2008年の通貨危機でも日本は300億ドルの最大のスワップを結んだにもかかわらず、「スワップを申し出た国で日本は一番遅かった。出し惜しみをする国である」と感謝するどころか、逆に批判している。

 

 まったく懲りない国で、おもしろい。世界で最も出生率の低い国、最も自殺の多い国で、いまだに7割以上の国民が海外に移住したいという国である。若者の多くは大学を出ても正規職にはつけず、会社に勤めてもノルマがきびしく、50歳前にはやめさせられる。そして不十分な福祉政策、貧富の差、そして北朝鮮との戦争の不安、隣の日本は同じ顔をしているのに、自分たちに比べて何もかもよく、うらやましい。これが韓国の現状である。

 

 中国、韓国の反日教育は、確かに大きな影響力を国民に与えているが、ああいった教育は年月に伴い薄れるもので、中国においても冷静に日中関係を見つめる識者もいて、それに同意する国民もまた多い。それに対して、韓国では親日的な発言はもはやタブー視され、とても冷静な日韓関係を築ける状況ではない。こういった状況は、戦前の日本を思い浮かべればわかるが、親米的な発言が封鎖された時期と似ている。


やっかいな隣国だが、北朝鮮が早く自由経済化し、韓国との連邦制あるいは統一を図り、もう一度、一から始めた方がいいのかもしれない。


2013年5月20日月曜日

本の増刷

 お陰さまで、今回の本は出版してほぼ1ヶ月で売り切れとなりました。知人からは、ほしいので何とかならないかと頼まれますが、私個人で持っているものも少数ですので、お渡しできません。いずれかの時期に増刷する予定です。

 現在の印刷方法は、昔、工場見学したときの説明では、ほとんどコンピュータで編集し、それをアルミの薄い板にレーザで写して版下を作り、それを機械にかけて印刷していきます。使った版下は捨てられます。

増刷する場合も、もう一度、版下を作って印刷するため、編集費用は多少安くなりますが、印刷費用は変わりません。そのためもう一度、増刷する場合、何部刷るか、頭を悩ますところです。

 付録の地図は、1000部刷しましたが、500部は本に使われ、残りのうち100部は弘前コンベンション協会に寄付しましたので、後400部となります。地図の方も100部ほどは手元に置いときたいので、すでに印刷した地図を使うとなると、増刷分は300部となります。この場合、地図製作分は浮くのですが、印刷部数が減り、一冊あたりの印刷費は高くなります。結局は300部増刷してもほぼ印刷費は最初と同じになります。

 通常、自主出版の本の印刷数は300-500冊くらいと言われました。それでも長年売れなく、倉庫にしまわれたままの本も多いのが現状です。前回は300部印刷しましたが、今回は思い切って500部印刷しました。これでもかなりの決断です。1000部というのは自主出版では非常に多い出版数です。再び、500冊印刷するか思案しているところです。

 ただ今回は、北方新社から青森図書を通して売ってくれているので、インターネットで検索すると、紀伊国屋書店だけでなく、アマゾンや楽天のオンラインで全国どこからでも買えることができます。弘前圏だけでは、もう限界かもしれませんが、青森県人会などに広告して、もっと全国各地に散らばった青森県出身者に買ってもらえれば、後1000部刷っても何とか売れるかもしれません。

 本人の希望では、4、5年くらいで完売し、その頃には内容も大分変えれるくらいの資料が揃いますので、「新編明治二年弘前絵図 改訂版」といったような型で全く新しいものを出せます。もう少し、人物の説明を増やしたり、安済丸のことを書いたりできそうです。人物の所在地もさらに判明することでしょう。ただ図書館の資料はほぼ使用しましたので、ここからの資料集めは、子孫がもつ資料などこまめで、時間のかかる研究が必要になるでしょう。

 すでにお買い求めいただいた方で間違いを見つけた人は是非、メールください。増刷する折には修正します。禅林街および新寺町の記述にはかなり間違いがあり、修正予定です。あとできれば、うちの母の自叙伝?も印刷しようかと思っています。

 皆さんから本が売れて、ウハウハですねと言われますが、実際は赤字になります。こういった自費出版はもうけがないことが大事なことと思っていますので、本人としては非常に満足しています。


2013年5月11日土曜日

白戸八郎


 白戸八郎(明治15昭和37年 1882-1962)という人物がいる。武術と馬術をもって仕えた弘前藩士白戸久蔵の二男として生まれた。父白戸久蔵については、もう少しくわしく調べないとわからないが、若党町に名が見られる白戸幸作あるいは、北瓦ヶ町の白戸得弥のことと思われる。

 明治34年に東奥義塾を卒業後、上京して本多庸一の書生として住み込みながら、青山学院から早稲田大学に移り、卒業後は一時、函館商船学校の教官を勤めた。その後、発心して、弘前に戻り、無資格ながら弘前教会の副牧師として目の見えない藤田匡牧師を助け、教会活動を行った。

 やがてアメリカ留学の機会を得て、メソジスト系の神学校で学び、日本人移住者の多いコロラド州を移り住み、ピアプロ市、デンバー市で教会を建立し、移住者の指導に当たった。デンバー市のコールファックス街には大教会堂を建設し、格州日本人美以教会として、数百の信徒がいた。また多数の学生、生徒、児童を集め、精神的な大きな感化を与えた。現在のシンプソンメソジスト教会で、日系アメリカ人の処点となっている。

 健康を害して、大正5年(1917)に帰国し、札幌教会に勤めた。その後、東京郊外の中野など中心に打超教会など設立し、積極的な教会活動を行っていたが、日本メソジスト教派の任命制などの構造的矛盾点に楯突く格好となり、首脳部と対立し、そして脱退して中野にいかなる教派にも所属しない単位教会の先駆けとなる「新生教会」を設立した。この教会は白戸八郎の二男、二郎が跡を継いだ。一方、長男の白戸一郎(Ichiro Shirato 1911-1997) は、八郎が過ごしたデンバーで生まれ、アメリカの大学に学び、コロンビア大学教授となり、40年間に渡り、アメリカでの日本語教育で大きな功績を挙げた。1941年に、日本人で唯一、パナマ運河に建設に関わった土木技術者である青山士(Akira Aoyama)の長女、青山まさ(1916年生まれ)と結婚した。またコロンビア大学のドナルドキーン教授とは親しく、現在、コロンビア大学日本学科では白戸一郎の業績を記念して白戸一郎日本語学習基金が設けられている。

 父白戸八郎は、祖国日本では、アメリカのメソジスト教団本部に対抗して、日本独自、天皇制の下でのキリスト教を提唱し、中国大陸、東南アジアの占領国への積極的な普及を行ったのに対して、長男の一郎はアメリカの大学において、アメリカ諜報機関に対する日本語教育に従事した。双方とも非常に矛盾した生き方とは思われるが、時代を後から評価するのはおかしく、どうも弘前の武士出身の牧師は、勤王の志が強く、海外留学しても容易に洋化しない傾向があるように思える。一方、アメリカではキリスト教への強い信仰心が人種の壁を越えて、愛され、場所が違うせいか、西部のように収容所には入れられずに、アメリカ人の中で活躍した。

2013年5月8日水曜日

新編明治二年弘前絵図 出荷終了

 5月5日の東奥日報の朝刊、社会欄に私の本が紹介されてから、大混乱です。あっという間に本が売れだし、500部印刷した分、個人用のものを除いた分、すべて出荷しました。店頭の並んでいる分でおしまいです。

 本日、紀伊国屋弘前店を訪ねましたが、先ほど最後の一冊が売れて、ここでの販売は終了となりました。ただ今回は青森県内の多くの書店に出荷しているので、一部の書店では在庫あるかもしれませんが、問屋である青森図書には在庫はなく、現在書店にある分が最後となります。

 発刊した最初の週は、紀伊国屋週間ランキングの三位、「海賊と呼ばれた男」に勝ちましたが、次の週は四位となり、このままランク外となり、ほそぼそと売れ、1、2年で完売することを狙っていました。前回の「明治二年弘前絵図」は300部印刷しましたが、未だに売っていないかとの問い合わせがあったので、今回は500部印刷にして、準備したつもりでした。

 5月2日に陸奥新報の文芸欄で取り下げていただき、小田桐好信さんによるすばらしい書評をいただき、感謝しています。多少は売れ行きを期待していましたが、紀伊国屋を見てもそれほど在庫の減少はなく、がっかりしていました。ところが5月5日に東奥日報で取り上げられた瞬間に、あっという間に売れだしました。翌日の5月6日には紀伊国屋の在庫はなく、その日に90冊、出荷し、それでも足りず、今日さらに残りの40冊を出荷して、診療所にある本は自家分を除き、すべて無くなりました。

文芸欄での紹介では、本の好きな人が対象となりますが、社会欄に掲載されると、その範囲が広く、あまり本に興味もない人も買っていったのでしょう。

早めに、増刷しようかと思っていますが、早速、読者の方から間違いの指摘があり、もう少しすればさらに多くの間違いが見つかると思います。原稿はできているのですが、いざ印刷するとなると再び、版下を作らなくてはいけず、印刷費が安くなる訳ではありません。逆に新しく版下を作るのであれば、少し修正して出したいと思います。

 禅林街については、その付近に住む人物については詳しく調べたつもりでしたが、個々の寺院については、明治二年絵図と現在の寺の配置の違いを述べるにとどめました。ところがここに長年住む住職の方よりメールがあり、寺の配置は創建時から大きな変化はなく、明治二年および三年絵図は間違っているとの指摘でした。古い絵図を見ても、仰る通りで、禅林街の寺の配置は基本的は創立時からほとんど変化していません。明治四年絵図では修正されています。おそらく明治二年絵図自体の記載間違いなのでしょう。

 ただ明治二年という時期を考えると、廃仏毀釈の時期と重なり、最勝院が大円寺の場所に移転する、慈雲院や大行院もなくなる、最勝院、薬王院の沢山の塔頭もなくなる。さらに禅林街でも長勝寺門前町といった地名もなくなる。要するに、これまで弘前藩で庇護されていた寺そのものが、壊滅状態となった時期です。実際に禅林街でも全昌寺が跡継ぎがおらず、隣の海蔵寺に合併しました。こういった混乱期、寺そのものが廃止される可能性があった時期、ほんの一時期でも住職が変わり、寺の名前も変えた可能性はないわけではありません。江戸時代は、今と違い、坊さんは妻帯できず、世襲ではなく、弟子の中から後継者を選びました。比較的、檀家がしっかりした大きな寺であれば、こういった危機的な状況でも乗り越えたでしょうが、檀家の少ない小さな寺では、先行きの全く見えない時だったでしょう。隣同士の寺の順序が反対になるといった初歩的な間違いではなく、永泉寺、嶺松院、川竜院の三つの寺の配置はあまりにひどく異なり、場所が今とは全く異なります。この地区を調査した係の者の聞き違いと思うが、何か理由があったのかもしれません。

 もう少し、検討してみよう。他にも間違いがあると思うので、今度はねぷたの頃に加筆訂正して再販しようと考えているので、今回買えなかった方はその時にお買い求めください。


2013年5月4日土曜日

母の徳島、脇町の思い出 阿波踊り


 母の文をワープロに打ち直している。最初すぐにできるかと思ったが、割合、書き込んでいる。ここ3日くらいで、16000字打ち込んだが、後40000字くらいあり、原稿用紙で150枚、イラストもそこそこあるので、100ページ以上の本になろう。大正から昭和初期の徳島県脇町の風情がわかり面白い。一部、盆踊り(阿波踊り)の部分を載せる。地元の人でも80歳以上の方でないとわからないと思う。多少、プライバシーに関係する文もあるが、すべて故人であり、供養と思い、勘弁してほしい。



 八月盆踊りは、本来は七月七日。七夕から始まるのが元である。祖先が家に帰ってくる準備期間らしい。夫を妻を、子を亡くした人が一年一回、相見る日である。踊りのルーツは徳島沖ノ洲、漁に出て帰らぬ人を海に向かって帰ってこい、帰ってこいと迎える。老女が島田のカツラをつけ、背には人形を背負い、帰ってくる人を迎え、一夜を踊りあかす。それが盆である。

 盆の日、日中の暑い最中に美しい着物に菅笠で顔を隠し、三味線を四、五人で弾きながら町を行くことを「ながし」という。この日は、日頃あまり外に出ない夫人達もながしをする。脇町は芸所で、たいていの人が三味線、琴、琵琶、尺八、笛をたしなむ人が大勢いた。

 昼下がりの暑さも忘れて、きれいな声色に癒される。夏の日、三味線の音色が、よくとけ合って静かで華やかである。清元、義大夫などいろいろなお師匠さんがいた。町のお医者さんで、お妾さんといつも一緒にいた先生は、義大夫が得意で祭りがくると、空き地で義大夫を語り、文楽人形の舞台を作り、町の人に披露した。弁護士さんや先生がお妾さんを囲うことなど誰も何とも言わなかったおおらかな時代であった。

 踊りは三日三晩続きます。山から里から大勢の人が出てきます。本通りの家は門に床机を出して用意する。門には提灯にローソクを立てる。町内に何人か名人がおり、男の人は浴衣を尻まくり、白足袋、頭には豆しぼりの手拭。女の人は赤や水色の長襦袢、子供は甚平さん。魚屋の宗さんは踊りの名手だった(戦死した)。

 家の斜め前に魚屋で料理店をしていた店があった。じいさん、ばあさんの出番である。じいさんは元やくざでなかなか恰幅のよいハンサム、ばあさんはとても粋な人だった。じいさんは太鼓、ばあさんは三味線。よく響く音色だった。床机に腰掛け、片肌脱いで弾く三味線は評判の弾き手だった。多くの人が家の前で踊った。最後の十六日、お盆も踊りも最後、十二時近くになると人通りもなく、家の前だけ、五、六人残る。ばあさんの「つまびき」の音色で四、五人がこれで終わりと踊る。澄み切った夜空に月が中天のかかり、踊り子を照らす。だんだん悲しくなる。なんで踊りが悲しいのか分からない。虫の声がケロリン、ケロリンと聞こえ、無口に踊り、涙が出そうになる。

 ああこれは先祖様が空に帰っていく本当の宴だと思った。別れを惜しんで、また一年、さようなら、さようならであろう。誰もいなくなり、ただ月だけが冴えわたり、遠くに虫の声がする。今は踊りの名手、宗ヤンも清さんも北支で戦死してあの踊りの姿だけが目に残る。



2013年5月1日水曜日

母の徳島、脇町の思い出


 昨年、実家に帰った時に、誰でも一冊は本を書ける。それは自分史だと調子に乗ってしゃべっていると、その後、うちの母が少しずつ、子供の頃の故郷、徳島県脇町の思い出をノートに書き出した。ある程度、枚数がたまったら送ってくれ、一度ワープロに打ち直し、イラストも含めて本の体裁を考えると答えた。

 昨日、自分の書いた絵と一緒に自叙伝らしきもの、というか子供時代の脇町の思い出を書いたノートを一緒に送ってきた。親の文書を読むのは、子供としては初めてである。手紙は学生の頃、何度かもらったが、こういったまとまった文章を見るのは初めてである。

 早速、昨日からコンピュータで、ワードで打ち込んでいる。昨日と今日、二日間で全体の約1/10で、400字原稿用紙で100枚以上はある。さすがに画家が本職なので、イラストや絵は面白いし、文章の戦前の雰囲気がよく書かれていて面白い。

 もうすぐ学会なので、この連休中に少しでもワードに打ち込んでいきたいが、多分完成は6月以降となろう。昔の写真やイラストも含めると、それなりの本になろう。友人や子供、孫、親戚に送れば喜ばれるだろうし、実家の徳島県脇町の人々にも興味があろう。

 今回の「新編明治二年弘前絵図」でも、こういった昔の思い出を書いた本が案外、役立った。釜萢堰の風景などは明治、大正当時にそこに住んでいたひとの記述が一番、リアルであり、参考となる。お袋の文章の一部を抜粋したい。



 城下町の町家の四女として生まれ、女七人、男一人、父母は大変だったろう。大勢の子供たちは皆、病気一つせず、病気と言えば“はしか”だけ。真っ赤な顔をして、三、四日寝ると快方に向かう。“はしか”になると、お見舞いの人がバナナの大房か、リンゴを持ってくる。バナナやリンゴは最高のぜいたくで、病気にならないとなかなか食べられない。陰干しにして保管している「伊勢えびの殻」を煎じてのみ、おとなしくしていると、二、三日で熱は下がったが、バナナやリンゴがうれしく、また病気になりたいと思ったりした。

 店は創業130年。明治の時代に祖父が伊予川之江から商都といわれていた脇町にやって来た。祖父は川之江の米屋の三男坊で、仕分けして阿波の国に来た。川之江の本家は、元は漢学者の家で、古いご先祖の霊舎(みたまや)が八幡様の境内の小社に祭られている。母の従兄弟は戦前、戦後と川之江町の町長、後に県会議員として終生を県民のために尽くしてきた人望者だった。名誉市民となり、市民葬が行われた。

 祖父は最初、脇町の中心にある北橋近くに店を構えたが、大正元年の大洪水で、今の場所、坂の上に越してきて、小間物、化粧品店を開店した。その後、父の代に至り、卸業に転じた。大阪の問屋から商品を大量に仕入れ、郡部の小売業者に売る。だんだん規模も大きくなり、今のスーパー並みに何でもあった。小間物、化粧品、袋物、文具、高級品から一般並みのもの。高級品にはべっこうの櫛、金銀細工、サンゴのかんざし、また喫煙道具にはきれいな物があった。キセルは金銀の彫刻、金口、銀口、根付けは象牙といった、とてもきれいな模様の高価なものを売っていた。良家の主人などがよく来ていた。また女物は、土地の売れっ子芸者さんが、旦那をつれてよく来ていた
 店は間口七間くらい、土間に入ると畳敷き、大きな火鉢が置いて、店には天井までずっしり商品が積み上げられ、家の横の壁際は一間くらいの通路、両側には大きな棚があり、卸用の商品の石けん、髪油、洗濯石けんは大きな木箱に入っており、量り売りの髪油も一斗缶に入っており、店頭では一斗缶から杓で一杯、二杯と売る。

 父は店の奥の帳場に座り、大きな硯で墨をすり、いつも帳面を書いたり、注文書を発注したりしていた。父の役目は、店員、二、三人に地方へ運ぶ商品の仕切帳を書くことであった。店員は自転車の後ろに大きなリヤカーをつけ、商品を積んで、朝出かけ、夕方帰る。西は池田、東は塩江、だいたい西徳島地区を担当していた。店は母と番頭さん、見習いが店番をし、小僧さんは掃除、子守り、台所をする小母さんは朝早くから夜遅くまで通っていた。何時も七、八人のひとがいた。子供も含めて、合計で十五、六人いたことになる。

 当時のお嫁入りは、全部自前であった。日本髪一式、毛(たし毛)、かんざし、櫛、かんざしはビラビラといって、とてもきれいに細工していた。嫁入り前日に結う「桃割れ」という髪の道具一式、化粧品、刺繍入りの半衿、一世一代の買い物である。花嫁は、二、三年は何も買わなくていい程の物を持っていった。大荷物の買い物で、お金に糸目はつけなかった。母が細かく、これらの品々を揃えていた。店は終日、忙しかった。