2020年2月19日水曜日

北欧陶器5

BLA STER と  Pius

TEA ROD

 上の写真の右、コーヒーカップは、スウェーデンのGefle社のEugen Trost という作家のBLA ASTER というものである。1960年代のもので、手書きの単純なデザインである。実物のカップはかなり大きく、コーヒもかなり入るが、カップ&ソーサーと見ると、バランスは悪い。Yahooオークションで6800円くらいであった。コンデションは良好だが、青色は少し薄くなっている。赤色の色違いもあるようだが、どうもバランスが悪く、洗練されていない。

 左のカップはグスタフスベリのPia Ronndahlという作家のPlusというシリーズで1990年代のものでほぼミントの状態である。このカラフルなデザインのセットは、カップは緑、黄色、ピンク、青などの種類があり、皿も同様な種類はあるので、お互いを交換していろんなパターンを試すことができる。今回のものはカップが青で、ソーサーが緑で、楽しい。手書きではなく、シールであろう。これはSweden Motherというスウェーデンの通販サイトから買ったが、日本語でも注文できる。送料も安く(2000円くらい)、税金もかからないので、かなり安く北欧陶器を買える。今回はこのカップ&ソーサーと下の写真のカリン・ビョールクイストのTea Rodのモーニングセット(二客)を買った。Tea Rodがパン皿もついて二客で11000円、Plusのカップ&ソーサーが7000円と送料が2500円であった。それぞれオークション価格の2/3くらいの値段であり、北欧陶器を扱うショップの半額くらいである。送料を入れてもかなり安く、ほぼ現地価格なのだろう。H Pや注文方法も全て日本語でわかりやく書いているため、このサイトは日本にある北欧陶器のお店からすれば脅威になろう。種類も多く、こうしたHPができたせいか、北欧陶器を扱っているお店でも、現地での買い出しを少し控えざるを得ないようだ。というのは日本からスウェーデンに買い出しにいき、コンデションの良いものを安く買ったとしても、それを日本に持っていき、売るとすれば、買った値段の2、3倍はつけないと儲からない。それをスウェーデンの会社がネットで安い値段で売り出せば、非常に商売しにくい。EUから、あるいは日本からの輸出入については2019年からかなり多くの分野で関税が見直され、おそらく今回の陶器の輸入にも衣類同様に関税がかからないのであろうし、輸送費も国際郵便で、小型ダンボール2個、2500円であった。

 以前、スペインからパタゴニアのR2を買ったが、これも関税がなく、もはや通販で、外国のものを買うなら、何も日本のネットで買う必要がなくなったのではないだろうか。Amazon USAなどは全く日本のアマゾンと同じ内容になっており、注文、決済も同じである。今回も注文をして9日でスウェーデンから品物が到着したが、別に急ぐものでもなければ問題ない。

 以前、東京海上火災の人と話していた時、会社の保険業務の主体は徐々に国際化し、タイ、ベトナム、ミャンマーなど東南アジアでも物量が恐ろしいほど活発となり、それに伴う運輸保険も増えているという。おそらくかって日本の個人がスウェーデンに品物を注文することなどほとんどなかったと思うが、青森の田舎の私のようなものでも注文するということは、単純にスウェーデンと青森の運輸も増えているのだろう。こうした世界中があたかも一つの市場になるような時代がすぐそばまで来ている実感がある。昔の輸入業者は海外から安く品物を買って、それを日本国内で高く売って儲けていたが、もはやそうした商売ができなくなる可能性があるのだ。もちろんSweden Motherのような日本語のサイトまで作るところは少ないだろうが、今後、こうした動きはますます活発化するだろう。これと逆の場合もあり、日本人がデパートで買うようなものは中国の片田舎に住む人も今や簡単にネットで同じような値段で買えるようになっているのだろう。

2020年2月15日土曜日

ミリタリー好き



 子供の頃からミリタリー物が好きで、少年マガジンの“紫電改のタカ”や“ゼロ戦はやと”に夢中になった。さらに家が歯科医院で、手先が器用になる物であれば買ってくれる環境だったため、100円くらいの飛行機のプラモデルを小学3年生頃から作った。筆や塗装も買ってきて、さらに航空フアンやその別冊、世界の傑作機シリーズも購入して、それで機体の情報を得て、制作、塗装した記憶がある。タミヤの1/1001/72を中心に、たまには、モノグラム、エアフィックス、レベルのものも作った。特に飛行機モデルが好きで、それ以外の艦船、戦車などはあまり作った記憶がない。特に記憶に残っているのはタミヤから出された1/50の日本海軍偵察機、彩雲の半分透明のキットで、これには驚いた。さらにハセガワが1/32キットを出すようになり、零戦などの出来の精巧さには感激したが、大きくて置き場所がなく、2、3機作ったところでまた1/72に戻った。

 飛行機関係の映画も多くみたが、日本のものは、こちらもなまじ知識があったため、特殊撮影のアラばかり目立った好きになれなかった。一方、欧米の戦争映画は、残存機体を使っているために迫力があった。テレビでの放送も含め、記憶に残る映画は、“頭上の敵機”、これは爆撃機B-17をリアルに実感できる、“トラトラトラ”、零戦はテキサンの改良だったが、空母赤城や戦艦長門の実物大模型を使った映像は迫力がある、“モスキート爆撃隊”、これは実物のモスキート爆撃機を使っている。“空軍大戦略”、これは飛行機ファンにはたまらない作品で、Bf109はスペイン製のものでE型ではないが、それでもほとんど機体は実物で、今ではこのような贅沢な映画が作れない。同様に第一次世界大戦の複葉機を扱った“レッドバロン”も、今では無理だろう。“暁の出撃”も渋い機体、ランカスター爆撃機が見られて嬉しい。最近の作品ではメンフィスベル“がリアルである。日本映画では飛行機オタクの宮崎駿の”紅の豚“と”風立ちぬ“はアニメオタクからは評判が悪いが、飛行機好きにはたまらない。

 こうなると飛行機ミリタリーオタクが欲しがるものといえば、革ジャケットとなる。有名なフライト革ジャケットといえば、A-2G-1B-3がある。A-2はアメリカ陸軍航空隊が着用していたもので、現在はアメリカ空軍採用となっている。G-1はアメリカ海軍航空隊のものだが、襟にはムートンがついており、適温気温がA-210度から30度に対して、G-1-10度から10度となっている。さらにアメリカ陸軍航空隊の爆撃搭乗員向けのB-3があり、この適温気温は-30度から-10度とさらに低くなっている。実際に着るとなるとやはりA-2で、私ももう30年前になるが、ソニー通販で、アメリカ空軍採用のクーパー社製のA-2がカタログ雑誌に出ていたので、すぐに購入した。A-2がアメリカ陸軍飛行隊に採用されたのは1931年でその後、1944年まで多く生産されたが、費用面で布製に置き換えられた。ただパイロットの中では復活の希望が強く、1988年に再びアメリカ空軍で供給されることになった。それがクーパー社のもので、タグにはSaddleryの名があり、左胸には名前、右胸には所属部隊のワッペンが貼れるようになっている。山羊皮を使っており、今でも人気があるようで100-200ドルくらいする。クーパー社は1996年に仕様を変更するが、アメリカではそれ以前の物の人気がある。

 個人的には戦争なんて大嫌いであるが、それでもミリタリー物が好きなのは不思議である。まあサバイバルゲームにはまらないだけでもまだマシかと思っている。

2020年2月13日木曜日

臨床重視の歯科教育



 美容学校で、カットやパーマ〜などの実習がほとんどなく、国家試験も筆記試験だけだと、どうだろうか。役立たずの美容師ができるだけで全く意味のない学校であろう。もちろん卒業してすぐにお客さんのカットができるわけではなく、勤務する美容院で、鍛えられて初めて一人前の美容師となる、それでも知識だけでなく、実習を通して基礎的な美容を知ることは、大事なことであり、当然、その習得レベルを試験で問うために国家試験でも規定の実技試験がある。

 歯科は医科の中でも内科ではなく、手を動かす外科に近く、いくら知識があっても手が動かなければ、優秀な歯科医とならない。そのため、昔、受けた松本歯科大学や東京歯科大学では大学の入試としては珍しく、音大や美大のような実技試験があった。松本歯科大学では彫刻刀で石膏棒から規定の形を掘り出す試験があった。これは手先の器用さを見る試験で、細かな作業をする歯科医師は、手先が器用なことは大変重要なことであり、あまりに不器用な人は大学に入っても、あるいは開業しても苦労するので、入学試験でそれを調べるのは理にかなっている。

 同級生の中にも手先があまり器用でないので、臨床歯科医をやめて、基礎の研究家になったものもいるし、県庁に勤務した人もいる。あまり学力がなくても、手先が器用で、細かい仕事ができる方が歯科医には向いているのかもしれない。私自身、それほど器用ではないが、それでもプラモデルを作ったり、絵を描くのは好きな方で、そうしたことは多少とも今の仕事につながっている。それでも本当に手先が器用で、綺麗な仕事をする先生を見ると、歯科医に向いているなあと思う先生がいるのは事実である。

 こうした歯科医は、手を動かしてなんぼという感覚は世界的な常識であり、どこの国でも座学だけでなく、実技を重んじている。とりわけ、アメリカの歯科大学では、実技の時間が多く、最終学年になると朝から晩まで患者の治療をしていて忙しい。卒業するにも症例数が必要だし、実技の試験もある。さらに州で開業するためには試験があるが、これは試験官が受験者の患者への治療を実際に見て採点して、合否を決める。これは昭和30年頃まで日本でも歯科医師国家試験で行われた方法で、実際の患者の治療を行い、それを採点した。その後、試験のための患者を集めるのが難しく、義歯の製作、抜去歯を用いた補綴、保存処置の実技などの実習試験になった。これも抜去歯がなかなか集まらない理由で、私が卒業した翌年くらいに中止となり、その後、ペーパー試験だけになった。すでに歯科医師国家試験から実習試験がなくなって40年以上たち、何度も実習試験の復活が議論されたが、その度に大学サイドの反対の声が強く、結局はペーパー試験で臨床能力を見るというややこしい方法で、こうした問題を回避した。そのため逆にペーパー試験の難度が上がり、準備のために歯科大学の最終学年が予備校化している。これは全く本末転倒である。

 開業歯科医師からすれば、こうした歯科大学の実習軽視のあり方、実技のない国家試験について、本来なら反対すべきであるが、内心、臨床のできない歯科医が生まれるのは自分たちのライバルが減るという理由で歓迎する側面もあった。歯科大学側が、世界でも珍しい臨床を軽視したこうした歯科教育、国家試験に反対しないのはわかるが、日本歯科医師会から、未だ、この現状、すなわち世界の歯科教育、国家試験、そして卒業した時点の学生の臨床能力などを調べた調査がないにはどういうことだろう。調査費は十分にあるはずなのに、歯科医師会にはこうした危機感はないようだ。そもそも東京高等歯科医学校(現:東京医科歯科大学)の創立者、島峰徹先生がわざわざ官立の歯科大学を作ったのは、歯科医は医者と違い、手を動かす教育がいるためであった。

 現行の歯科教育システムでは、歯科国家試験に合格し、その後、初めて研修医として十分な臨床経験を積むようになっている。ところがこの研修医制度というのも、ほとんど中身がないもので、最終的には研修機関で個々のドクターが評価されるが、ほとんど落ちることはない。研修医の1年間、患者には触らず、実際の治療をせず、見学だけでも、この研修は修了できる。私のクリニックも研修機関になって20年くらいになるが、はっきり言ってこの研修医制度は、なかった頃に比べてメリットが少ない。端的に言えば、私らの時代の6年間の臨床経験>今の6年間の学部教育+研修医の臨床経験ということになり、より良い医療システムという点ではあまり意味は持たない。こうした歯科研修医に近い制度は、イギリスのVocational Trainingというシステムで、卒業後1年間、公立の地方のセンターで働き、一般歯科の臨床技術向上を図る。ただこの場合も大学の間に100名以上の患者を見た上での研修という点で日本と違う。学生用の患者は集めにくいというのは日本だけの問題ではないが、世界中のどの歯科大学も学生の臨床実習を重要視し、その教育方針を未だに続けている。日本が世界最先端の歯科医療を目指すなら、こうした日本の歯科教育の異様さを気づいてほしいものである。そして歯科大学での学生による患者治療を重視し、規定の症例数に達しない場合は、大学においては文科省による指導あるいは補助金の削減を、学生に対しては留年させるべきで、一方、国家試験の筆記科目は三年生頃の基礎科目の試験と最終学年の臨床科目の試験の2回として、もっと簡単なものにすべきであろう。そして合格率も医師国家試験並みの90%くらいにしてほしい。

2020年2月11日火曜日

懐かしい尼崎

尼崎市東難波町4丁目付近

難波幼稚園

 生まれてから高校卒業までの18年間、尼崎で暮らしたので、故郷といえば尼崎といってもよかろう。中学から神戸の学校にいったために、小学校の知人とは卒業以来、ほとんど会っていない。生活圏として尼崎を知っていても、地元で買い物したり、食べたり、飲んだりしたことは少ない。

 私の実家は、尼崎市東難波町というところで、実家の道隔てたところには、神戸山口組の古川組があり、警察が警備することも多い。昔、この事務所の看板が銃撃されたこともあり、道が閉鎖され、終日、警察官が見張っていた。子供のころ、この場所はクリーニング屋で、その前には幅1mくらいのドブがあり、よくおしっこの飛ばし合いをした。今は総合老人福祉センターになっているところは、昭和30年代まで、旭硝子の課長以上の一戸建ての家が並んでいた、今思えば贅沢だが、30坪くらいの玄関、小庭のついた平家の家が20軒くらいあり、課長以上の社宅となっていた。家の前の道は舗装されていない土の道で、車が通らなかったので、東京ケンパ、ママゴト、ビー玉やベッタンなどの遊びもここでした。子供達の遊び場が住む地域ごとに決まっていて、他のところで遊ぶには、そこに住む友人の許可がいった。車は少なかったし、土の道も多く、子供達の絶好な遊びであった。難波小学校の隣にある難波公園も子どもたちの遊び場で、ここでは銀玉鉄砲や2Bによる爆竹遊び、缶蹴り、コマ回しなどで遊んだ。また子供相手の紙芝居や粘土カタヤなどもこの公園で来て、子供たちが大勢集まっていた。家の裏には朝鮮人部落があり、高い木製の塀に囲まれた砦のようなところがあり、朝鮮人の数家族がここで暮らしていた。さらに十間道路には大きな尼崎天主堂があり、その裏には尼崎のシンボルであったガスタンクがあった。

 昔の中央大通りは百万ドルなどのキャバレーが立ち並び、夜になると多くの男性客で賑わい、ちょっとしたミニ難波のような雰囲気であった。昭和40年代が最も華やで、キャバレーに続き、立ち飲み酒屋やパチンコ店があった。近くには映画館やストリップ小屋などもあり、風俗店も多かった。三和商店街は、ラッシュアワー並みに多くの買い物客で賑わい、活気があった。ここではそれこそ何でもあり、肉屋、魚屋、電気屋、洋服屋、本屋からレストラン、喫茶店、食品店に至っては、乾物専門店、卵専門店、鶏肉専門など、食材により専門が分かれ、大阪の黒門市場に近かった。最初の変化は、阪神尼崎に尼センデパートができたことで、ここに少し大きなスーパマーケットや当時としてはしゃれた店が入った。それでも三和商店街の活気はビクともせず、以前とは変わらず、活気があった。その後、本通り入り口近くにダイエーができ、中央通りには長崎屋ができた。ダイエーは尼崎で最初の大型スーパーで、開業当初は人気があったが、その後、ディスカウントストアになり潰れた。長崎屋も衣料専門の大型店であったが、多くの犠牲者が出た火事により閉店した。その後は新しい店もできずに、次第に商店街そのもの客足が減ってきて、昔のような人混みはなくなってきた。平成の頃である。

 商店街が廃れる前、昭和50年頃までに、たくさんあった映画館が次々となくなり、中央大通りの百万$などの大型キャバレーも消え、夜の歓楽街が勢いを失っていった。代わってピンクキャバレーなどのいかがわしい店が乱立し、ちょっと歩くのが怖い通りとなった。近所でも、活気のあった尼崎センター市場が次第に廃れ、その挙句、火事になり全焼し、今は全く面影もない。尼崎の実家周辺は古くから住む人の多く、東京や大阪に比べて街の変化は少ないとはいえ、昭和30年代の面影は難波公園以外、ほとんどなくなった。

 上の写真は尼崎にあった診療所から前の道を撮った写真である。昭和30年代で、道も舗装されおらず、車もほとんど通らない。下の写真はこれも昭和30年代の難波幼稚園で、園長の田中花子先生が写っている。

2020年2月7日金曜日

ベルンド・フリーベリの大型ボウル

 


 Berndt Friberg1889-1981)といえば北欧を代表する陶芸家で、その作品の優れた造形と色彩で多くのファンを持つ。特に10cm以下のミニチュアの作品群は、大きさの割には圧倒的な存在感があり、また収納にも場所を取らないために、その収集をするコレクターが多い。ただ値段も高く、小さな作品でも10万円以上する作品も多い。とても手が出る値段ではなく、これまで諦めていたが、先日、あるコレクターがヤフーオークションで数十のフリーベリの作品をかなり安く出品していた。数が多かったせいか、落札者も分散され、どれも市販価格の1/4程度の落札価格であった。今回落札したのは、フリーベリの作品にしては、珍しく大きさが18cmもあり、ちょっとしたラーメンどんぶりくらいある。茶色の流れるような釉薬がかけられ、美しい。ただこれだけ大きいと、フリーベリといえばミニチュアと考える人にとっては、興味はないだろうし、展示棚にも飾れない。要するに大きすぎるのである。当初、オークションで写真を見たときは、それほど大きいとは思わなかったが、実際に送られてきた実物を見ると驚くほど大きい。フリーベリのミニチュアはものすごく小さいのに写真では大きく見えるが、この作品は逆に写真では小さく見えるが、実物が大きい。フリーベリは作品の裏には、彼のサインと制作年度を示すマークがある。この作品には”A”に小さな丸が一つついており、これは1956年の作品で、私の生まれた年である。

 フリーベリは、曽祖父、祖父、叔父も陶工だったせいか、13歳から製陶工場で働き始めた。その後、あちこちの工場で働き、35歳のとき(1934年)にグスタフスベリ製陶所に入る。当時、ここではスウェーデンを代表するヴィルヘルム・コーゲがアートディレクターとして活躍しており、その轆轤をひく職人としてフルーベリは雇われた。同時期、スウェーデンの王室ご用達の製陶所、ロールストランド(Rorstrand)にはグンナル・ニールンド(Gunnar Nylund)がいた。彼は最初、ナタリー・クレブス(Nathalie Krebs)と一緒にサクスボー(Saxbo)を立ち上げたが、その後はロールストランドで活躍した。フリーベリのこうした同時期のスウェーデンの陶芸家に影響され、次第に職人から自分の作品を発表する陶芸家になっていった。そのため、フリーベリの作品には、コーゲよりはニールンドやサクスボー製陶所の影響が強く、噴霧器で器の表面に釉薬を薄く吹き付け、それが垂れてマットで表面に兎の毛のような細い筋が浮かぶ模様となっている。ただフリーベリは長らく轆轤職人として働いた経験があるため、大きな体で器用に轆轤を回し、わずか数センチの作品も見事なフォルムを作り出した。

 写真左の小さな徳利のようなベースは、RorstrandCarl-Harry Stalhane(
1920-1990)で、彼はニールンドとともにRorstrandの黄金時代を築いた。その横のベースはEva Staehr-Nielsen(1911-1978)Saxbo製陶社で作ったもので、モデル名67と記されている。その隣の明るい茶色の茶碗のようなボウルはGunnar Nylund(1904-1989)のもので、彼は直接、轆轤を廻すことはなく、全体のアレンジや色つけなどをしたが、彼にしては珍しい薄手のスタディオものに近い仕上がりになっている。4つの作品を見ると同じような釉薬で色彩は近いが、それでも器のファルムはフリーベリが抜きん出ており、また釉薬も器の中の釉薬が外より濃い茶色になっており、縁取りが薄い色となっているのとマッチして、重厚な仕上がりとなっている。この大きさでは流石に茶道具として使えないが、せめてNylundの器並みの大きさであれば、本当に良い茶器になったであろう。それでもフリーベリは高くてなかなか手に入らなかったが、安く手に入り喜んでいる。全体的にはフリーベリの作品も含めて北欧陶器の値崩れが少し起こっているようである。以前より安くなっている。


2020年2月6日木曜日

三菱国産旅客機、スペースジェットは飛ぶのか


 三菱、国産旅客機スペースジェットは、2003年頃から計画され、2008年に具体化され、当初は2013年頃に航空会社に納入とされていた。ところが三菱重工の混乱はひどいもので、どんどん納期は延期されていき、いまだにめどが立っていない。当初は三菱重工の日本人スタッフで開発が進められていたものの、アメリカの形式証明取得のためには、経験のなさが露呈され、開発経験のあるボンバルディアなどに勤めていた外国人のスタッフを集めだした。これでようやく軌道に乗り、何とか2015年の初飛行を行うことができた。このまま順調に飛行時間を増やせば、アメリカの形式証明も取得されると考え、天候の良いアメリカに機体を持っていき、そこで各種のテストを行ってきた。機数も4台の完成機を導入して、大きな欠陥もなく順調に飛行時間を増やしていた。

 飛行時間も、2019年の早い時期には一般に形式証明に必要とされる2500時間を超え、2019年度中には形式証明も取れて、納期となるはずであったが、飛行時間が3500時間を超えたのにいまだに形式証明が出ない。この理由としては、アメリカ連邦航空局の嫌がらせがある。もともとアメリカの形式証明であるので、アメリカの飛行機会社ボーイングのライバルとなる他国の機体の形式証明には厳しい。それでも伝統あるカナダのボンバルディア(カナダ)とエンブラエル(ブラジル)、エアバスは長年のノウハウがあるため、何とか新機種を開発してきたが、この4つの会社以外の新会社、それも東洋人の国の新規参入には、かなり警戒され、嫌がらせがあったと思われる。形式証明の申請から5年間は新規項目の適用が免除されるが200710月の申請から5年以上たつと、まず電子機器の配置に対するクレームがあり、さらに基準飛行時間が迫った20171月の段階で、900以上の設計変更を求めた。そのため大きなトラブルもなく、飛行時間が3500時間以上超えても、これら900以上の変更を行った新機種での試験飛行を求めた。2020年度の初めにようやく10号機と11号機が完成するが、それもまた変更点があれば、再度の形式証明取得の延期となり、全くラチがあかない。

 三菱のスペールジェットのライバル機、エンブラエルE-ジェットE2は、2010年に計画され、2016年に初飛行した。スペースジェットは、当初はエンブラエルの旧型飛行機に比べて燃費が低く、騒音も少なく、優位であったが、E-ジェットE2は同じエンジンを使い、ほとんど三菱の優位性はなくなった。むしろ形式証明取得は三菱より早いかもしれない。そうなると航空会社への納期も早まり、三菱スペースジェットの優位性は全くなくなる。さらにカナダのボンバルディアからの訴訟という嫌がらせがあったが、ボンバルディア自体を買収するという思い切った方法で解決した。アメリカ連邦航空局への食い込みが、まずかったのだろうし、さらにボーイング737Maxの最近の事故も連邦航空局への風当たりを厳しくし、より厳しい形式証明が求められるようになったのも痛い。

 ボーイングの新型機、787も含めて大体の初飛行から1,2年で形式証明が取れて、販売となり、スペースジェットのように初飛行から大きなトラブルがないのに関わらず初飛行から5年経っても形式証明が取得されないケースは少ない。ライバル社のエンブラエルEジェットE2もまだ取れていないことから、形式証明自体が厳しくなった可能性もあり、またボーイングとエアバスとの米国とヨーロッパの棲み分け、それに関連するアメリカ連邦航空局と欧州航空安全機構との形式証明の互換性が関与しているかもしれない。つまりボーイングが欧州の形式証明を取りやすくする代わりに、エアバスがアメリカ連邦航空局の形式証明を取れやすくする。それ以外のカナダ(ボンバルディア)、ブラジル(エンブラエル)、日本(三菱)に関しては、厳しくするということだ。ただ最近になってエンブラエルもボーイングに買収され、エンブラエルの新規開発機が人質に取られた可能性がある。そうだとするとロケット産業同様に、ボーイングとエアバスの寡占化を防ぐためにも、なんとかして三菱重工のスペースジェットは成功してほしい。さらにいうなら、こうした欧米人による企業の独占化を防ぐ意味からも、日本は中国、ロシアを含めた形式証明のカクテルを作り、アメリカ連邦航空局や欧州航空安全機構と対抗しなければ、航空機産業、ことに旅客機生産会社の寡占化がますます進むと思われる。少なくとも政府がこうした方向、例えば新しいアジア航空機安全機構を検討すると示すだけでも、両者に脅しをかけることができる。航空機産業というのはもはや一民間企業というものではなく、国家間の戦いを必要とされるもので、ここは日本政府も何らかの介入が必要と思われる。 

2020年2月2日日曜日

矯正治療 契約について



 医療における医師と患者の関係は、「医療契約(準委任契約)」と呼ばれています。この言葉の説明は難しいのですが、ここでの契約と反対の「請負契約」というものがあります。お客さんから例えば家を建ててほしいと請負人、工務店は請負契約を結びます。お金をもらって家を建てる契約となり、家は建てなければ義務、「仕事の完成」を行っていないことになり、裁判でも負けます。

 一方、医師と患者でもこうした「請負契約」だったとしましょう。その場合、医師が投薬や手術をして治療を行いますが、病気を治すことが出来なければ、「仕事の完成」ができなかったとして損害賠償を請求されることになります。これではとても治療などできません。そのために医師と患者の関係は、こうした請負契約ではなく、「善良な管理者の注意を持ってその義務に当たること」、普通に要求される注意義務を守れば結果は問わない「医療契約(準委任契約)」となります。すなわちこの契約では、患者の義務は医師の治療行為に対して費用(医療費)を払い、医師の義務は、患者さんのために最善の治療を行うことで、病気の診察、治療をする義務があっても、必ずしも治癒することを含めていません。もう少し具体的に言えば、医療契約の内容は、現代医学水準からいって、通常の医師が取りうる最も適切と思われる診療を委託することをいい、医療機関により水準は異なります。それゆえ、最善の努力をしていれば、最悪の結果、患者さんが死ぬようになっても医師の責任を問えません。

 矯正歯科は治療が長いために、患者さんと矯正医の間の信頼関係がある場合はいいのですが、悪くなると大きなトラブルとなります。患者さんの不満の多くは、希望した結果になっていないというもので、中には0.1mm単位でクレームをつけ方もいます。ただこうしたクレームは費用がいくらかかろうか、医療契約自体が治療結果を保証したものでないのです。患者さんから見れば高い治療払ったのに、きちんと治せと思うかもしれませんが、医療契約というものは、結果を保証したものではありませんので、この点で大きな誤解があるようです。

 ただこれも難しいのですが、矯正歯科の場合は、美容整形などと同じく請負契約という考えもあります。例えば美容整形の場合、患者さんが結果を約束されたものでなければ、誰も施術を受けないことが挙げられ、そのため、患者さんが望む結果が得られなかった場合は、医師の注意義務違反が認められた判例があります(大腿部の脂肪吸引手術)。つまり医療契約は準委任契約であり、医師に患者の意に沿わない結果であったとしても、医師はその責任を負うものではありませんが、患者さんは美容医療(矯正治療含む)を求めるとき、一定の結果という明確な目的を有しているため、請負契約の側面も有するとされています。そのため美容医療契約には請負契約の側面を認めることは、医師に一定の結果の対する注意義務を認めることになります。もしきちんとした説明を受ければ治療を受けなかったというものです。さらに患者さんが求める結果というのは、初診時では“出っ歯をなおしてほしい”、“でこぼこを直して欲しい”と言った大まかなものであり、大臼歯関係をスパークラスIIIにオーバジェット、オーババイトは2mmにしてほしいと言った具体的な希望ではありません。こうした希望は治療途中から発生するもので、矯正装置撤去時に前歯のオーバジェットをもう少し下げてほしい、口元をあと3mm下げてほしいと求められます。実現できるものであればいいのですが、なかなか難しく理想的な咬合状態に達せない場合があります。患者さんは納得いかず、最初述べた注意義務を主張し、料金の払い戻しを主張される方がいますが、経験を積んだ矯正歯科医でも最終的な結果を確実に見通せることはできません。

 矯正歯科においては、初診時の大まかな主訴に対してはほぼ請負契約なりますが、100%完璧な治療結果となるとかなり準委任契約に近いものになり、最大の努力をして良い結果になるように努力しますが、できないこともあるという契約になります。一定の結果を保証するものであり、完全な結果を求めるものではありません。それゆえ、少なくとも矯正治療は、緊急性がないこと、治療しなくてもよいことは必ず患者さんに伝えるようにしています。歯科医の中には患者さんの不正咬合を指摘し、このままでは顎関節症になるとか、歯周病になりやすくなるとか、脅すようにして矯正治療を勧める先生がいます。これはとんでもないことで、美容整形や矯正治療は、まず患者さんが治療を望んで来院すること、治療のリスクははっきり説明して、リスクを承知の上で治療を希望するかを確認してから治療を始めるものと理解しています。

2020年2月1日土曜日

矯正専門医の特殊な見方



左側方口腔内写真(欠け)-1点、トレース図-2点、側方 X線規格写真(上向き)-1点

 矯正歯科医は、他の歯科医や医師と比べても特殊な点がある。それは治療結果を点数であらわすことができるのである。例えば、外科の先生が手術の良し悪しを点数にするのに、手術時間、出血量などは測れようが、手際の良さ、患者の満足度などを点数化するのはかなり難しい。同様に歯科でも、治療の良し悪しを具体的な数値で表すのは難しい。歯科では広告可能な専門医は口腔外科、小児歯科、歯周病、歯科麻酔、歯科放射線などがあり、その専門医試験では症例審査も行なっているが、それほど厳密に点数付けをしているわけではない。

 一方、矯正歯科専門医試験では、症例の指定、Skeletal Class I、抜歯症例などがまずあり、初診時、治療終了時、終了二年後のそれぞれのセファロ、パントモなどのレントゲン写真、口腔内写真、顔面写真、平行模型が必要となる。そしてこれらの資料の鮮明度やポジションニング(平行に写真が撮れているか)などにより、3.きれい、2.普通、3,よくないなどの点数が付けられる。レントゲンの現像が悪かったりすると、点数が低い。資料の評価がまず行われる。もちろんこうした資料がなければ、試験自体に参加できない。そのため矯正専門医では、綺麗な資料取りが必要となる。特に口腔内写真はかなり難しく、以前のフィルム写真では失敗が許されないので緊張した。大学の矯正科に入ると新人はまず、この資料取りを徹底的に教えられるが、一般歯科の先生はここで差がつく。何しろセファロと呼ばれる横からのレントゲン写真では眼と耳を結ぶ線に平行ということが基本で、頭の位置づけが悪いと、このレントゲンだけで減点される。模型も同様に平行模型を作るのが前提なので、齦頬移行部まで綺麗に印象採得ができないといけない。症例の資料をここまで点数するのは他科の専門医試験では知らない。

 次に必要なのは、症例の分析である。そのためには正確なセファロのトレースが必要で、これがまた難しい。頭蓋顔面を横から撮ったレントゲン写真の架空の点、線が基準点、基準線となるが、これを同定するのは修練がいる。何しろ架空の点、線であるので、正確な計測はそもそも無理であるが、それでもある程度の範囲に収まるので、それを超えた異常な数値は、間違いだと判定される。ここでは途切れない綺麗な線が求められ芸術的なセンスが必要となる。絵を描くのが下手で、ギザギザな線しか描けないようでは、点数が低くなる。パントモ写真でも歯根の吸収や歯の平行性に問題があれば減点される。

 次に模型による評価が行われるが、これもまた厳しい。上下の歯がしっかり噛んでいるか、ノギスのような棒を使って測り、その隙間によって点数をつける。もちろん太い棒が入るほど上下の歯の隙間があれば、点数は低い。また辺縁隆線やコンタクトポイントが一致しないと減点されるし、隙間も原点となる。こうした数十項目にわたる評価を点数で表し、総合点をつけ、基準点に達しないと不合格となる。

 こうした細かい点数付け、評価がいいのか別にしても、矯正歯科の特殊性を表す。ある意味、一般の歯科医の先生から見れば、非常におかしなものであり、また一般歯科の先生が仮にこうした専門医試験を受けてもまず100%は通らない。矯正歯科の専門医が、一般歯科の矯正治療を批判する基盤は症例の判定基準である。こうした特殊な判定基準から治療結果の良し悪しをみる。つまり口腔内写真やレントゲンがダメであれば、症例結果そのものがダメと判定する。確かに汚い検査資料でいい結果はあり得ないが、それでもこれだけでダメとは言えないであろう。昔、大学にいた時に、矯正治療を受けていた学生がいた。かなり細かな性格で、もう少しこの歯の捻転を取ってくれ、トルクを入れてくれと注文がうるさい。何名が担当医を変えたが、みんなついていけなかった。六年生になるとこの学生が矯正科への入局を希望してきた。ところが医局員の多くは、あんな細かい奴は入れさせないと言って反対して、結局、よその大学の矯正科に入局した、今では日本のみならず、ヨーロッパや舌側矯正の専門医資格を持つ優秀な矯正医になった。矯正科は私のような大まかな人間よりは、こうした細かい先生の方が向いているのではないかと思う。