2023年9月28日木曜日

最近は野球を見ません

 


阪神タイガースが18年ぶりに優勝し、地元の尼崎は大いに盛り上がっている。今では阪神ファンでなければ、尼崎市民でないと言われるほど、熱狂的なファンが多いところである。ところが私の子供の頃、昭和30年後半から40年代について言えば、大人は今と同じで、阪神ファンが多かったが、子供は巨人ファンが多く、巨人の野球帽が人気があった。「巨人、大鵬、卵焼き」というのは、昔の子供が好きだったもので、大鵬は大相撲の大横綱のことで、あとは甘い卵焼きである。弁当のおかずとして、ウインナーソーセージと卵焼きが定番であった。私の場合は、特別で、このおかずメニューが中学、高校の6年間の弁当おかずで流石に食べ飽きた。巨人の試合は全て、夜の7時からのゴールデンタイムで放送され、夕ご飯を食べながら、家族で野球を見るというのはごくありふれた日常的な風景であった。特に子供、ちょうどジャイアンツのV9の時代にぴったり合う時代だったので、強い巨人に憧れた。おう(王選手)、金田(金田選手)、拾うか(広岡選手)、やっぱりよした(吉田選手)」というダジャレフレーズがあった。

 

当時の巨人のメンバーというと、一番は足の速い柴田、二番はコツコツ当てる土井、三番はボームラン王の王、そして四番は長島、五番は色々と変わったがキャチャーの森、六番は國松、七番は黒江、八番は柳田、なんかいたようだが、記憶は薄い。それでも皆、個性的な選手ばかりで、見ていて楽しかった。ついでに1966年当時の阪神タイガースのメンバーを調べると、一番は並木、二番は本屋敷、三番は藤井、四番は遠井、五番は山内、六番は安藤、七番は辻、八番は朝井というメンバーであった。遠井と山内くらいしか覚えておらず、流石にこのメンバーでは子供受けはよくなかった。主力の遠井選手は足は遅い、守備はできない、ホームランは打てないが、四番打者であったし、さらにエースの村山というといつも悲壮感ばかりが目立っていた。サンテレビというUHFの地元テレビが開設されるまで、巨人:阪神戦以外はテレビで放送されなかったのも原因で、阪神ファンは球場に行くか、ラジオを聴くしかなかった。阪神ファンにとっては、いつも阪神戦が見られるサンテレビの開局に狂喜した。

 

小学校4年生くらいの頃だったか、少年マガジンに長嶋茂雄の住所が載っていた。当時は今と違い、有名人の個人情報はダダ漏れで、誌面の横に細長い空欄に平気で描かれていた。そこでオバQのハンカチを買ってきて、送付用封筒を入れて「サインしてください」と書いて送ったところ、二週間くらいして、サイン入りのハンカチが送られてきた。狂喜したのはいうまでもない。早速、学校に持って行き、友達みんなに自慢した。この時からずっと長嶋茂雄ファンである。おそらく同じような子供が全国にいっぱいいて、サインは本人がしたかもしれないが、手紙の送付はお付きの人がしたのだろう。調子に乗って、王貞治にも同じことをしたが、返信はなかった。それ以来、王貞治選手は嫌いである。

 

サインというと、甲子園球場で多分、オープン戦であろう、西鉄の尾崎行雄選手が球場から出る時を見計らって、サインをねだると、心地よくサインしてくれ、大変嬉しかった。尾崎選手は当時、豪速球で子供に人気があった。また1971年、中学3年生の時に、親父が友達から一塁側の券をもらってきて、オールスター戦を西宮球場に見に行ったことがある。ブルペン上の江夏豊選手の球の速さに驚いたが、そのまま9連続三振という偉業を達成し、痺れた。

 

もはや野球を見ることもほとんどなく、大リークをたまに見るくらいである。あれだけ話題になったWBCの日本代表、大谷以外の選手、ほとんど知らなかったのには、我ながら驚いた。そういえば、テレビのコマーシャルでも野球選手を見ることはほとんどなくなった。イチロー、大谷、など皆、大リーグあるいは元大リーグ選手ばかりである。昔は、テレビで放送されるスポーツは、野球、ボクシング、プロレス、相撲くらいしなかったが、今はありとあらゆるスポーツがテレビで放送され、逆にワールドカップのサッカーの試合の一部が、地上波放送で見られない状況となっている。他国では暴動になるだろう。代表戦が見られないスポーツは、次第に関心がなくなるだろう。


2023年9月23日土曜日

なぞの芳園 5  ついにわかった


歴史研究の面白さは、資料をつなぎ合わせて、新たな事実を見出すことであり、それは推理小説を読み、犯人を当てるのによく似ている。美術史についても、同じようなことがあり、長年、研究してきた「なぞの芳園」について、ほぼ解明したので報告したい。

 

まずおさらいとして、イギリスの大英博物館、ビクトリア・アルバート美術館、アイルランドのチェスター・ビティー・ライブラリーに「芳園輝」の署名のある四条派の名品がある。これまで江戸後期の有名な画家、西山芳園の作品となっていたが、近年、アメリカ、シンシナティー美術館のHou-mei Sung博士により、「芳園平吉輝」(ほうえん たいら よしてる)という作家の作品ということになり、大英博物館はじめ、表記をすべて変更した。この研究に協力した私は、平という姓は日本ではむしろ氏族名として使うため、平 吉輝 という名前はないと訴えたが、結局、却下された。それでは平 吉輝という画家が実際に存在するかというと、調べる限り、こうした名前の画家は存在しない。

 

一方、東大名誉教授の河野元昭は、「秘蔵美術大観」(1996年)の中で、英国にある「芳園輝」の落款のある絵を、同時期に活躍した香川芳園ではないかとしている。そこで、まず香川芳園の署名のある作品を調べると、大英博物館に154図が収められたスケッチ帳、オーストラリア、NSW州立美術館に「京都府画学校出仕 香川芳園」と署名のある作品が一つ、イタリアのヴェネチア美術館に3つ、私が所有するのが1つある。署名自体がイギリスにある「芳園平吉輝」と似ているが、印章が異なり、作風も違うことから、芳園平吉輝=香川芳園とは判断できなかった。

 

香川芳園の号は、蟾麿という変わったもので、同時代に滋野芳園という画家がいるが、こうした変わった号の画家が同時代に二人はいないと考えられ、香川芳園=滋野芳園であることは間違いない。そこで滋野、香川を合わせて検索しいくと面白い事実が浮かび上がってきた。

 

大阪を代表する画家、菊池芳文は最初、滋野芳園の弟子だったが、この師匠が急に西国に行くと言って行方不明になったため、仕方なく大阪より京都まで通って幸野楳嶺の弟子となった。芳園がいなくなったのは、おそらく明治13年頃のことである。それでは滋野はどこに行ったのであろうか。池田市史をみると、池田の豪商で絵画収集、画家のパトロンをしていた稲束家の日記の明治14722日の項に、「神戸下山手通り7丁目番外60号 滋野芳園方ニ而宇野信太郎、原保太郎、山口県県令」の記載がある。香川芳園の父は宇野助順、明治17年の京都府京都市画学校出仕に記録には、香川芳園の住所は京都、宇野信太郎方となっており、宇野信太郎は芳園の親類であることは間違いない。神戸市下山手というと現在の元町駅の山側で、ここで宇野と一緒に暮らして絵を描いていたのであろう。

 

最初に述べたイギリスのある多くの作品には「應濵田氏需写」の文字があり、濵田という人の依頼によって描かれたことを意味する。この濵田氏というのは、当時、神戸でイギリス向けの美術品を輸出していた濵田篤三郎のことで、欧米人の好みに合わせて美術工芸を日本で製作し、輸出していた。この濵田が芳園を呼び寄せて、欧米人に合わせた絵を注文して製作したとも考えられる。さらに調べると、濵田の店、丸越組の海外貿易店は元町4丁目49にあり、これは元町駅の海側であり、下山手7丁目とは300mくらいしか離れていない。丸越組は明治14年から17年までの活動だったことから、明治17年に香川芳園が京都に戻り、京都府画学校に出仕したことも時期が一致する。

 

つまり濵田篤三郎が、大阪にいた香川芳園を誘い、神戸の自分の会社近くに住まわせて、主としてイギリス向けの作品を描かせたが、濵田の店が閉鎖されると神戸を離れて京都に行ったことになる。

 

香川(滋野)芳園の絵をみると、1。幕末、明治初期の絵、2。明治14年から17年の海外向けの「芳園輝」の署名のある絵、3、明治17年から明治21年まで京都府画学校に出仕していた時期の絵、4 明治21年から死ぬまで(明治40年)の絵の4期に分かれると思われる。このうち4期の絵が最も画力が劣っていること、博覧会や共進会などに作品を出品しなかったこともあり、次第に人々から忘れられ、どこかで西川芳園に混同されていったのだろう。

 

今回の研究で、香川芳園=滋野芳園=方園平吉輝ということはある程度証明されたのではないかと考えている。






 

2023年9月21日木曜日

医療費は70%引き

 


 


日本の医療制度では、健康保険に入っていると、窓口での支払いは診療料金の30%で済むようになっています。つまり正規の料金の70%引きということです。歯科では初診料は261点で、これは医院に行って話をするだけで、2610円かかることになります。例え5分間の診察でもこれだけかかります。もちろんこれに検査や処置を入れるともっと費用がかかることになります。昔は本人0割負担でしたので、この場合は、外来での医療費は無料ということでしたが、その後、1割、2割となり、今は3割となっています。さらに入院などでもっと高額の費用がかかり、例えば1か月の手術、入院費が100万円かかったとしましょう。これの3割、30万円も大金ですが、日本では高額医療制度という大変嬉しい制度があり、収入にもよりますが、実際の負担額87000円を超える分については請求すれば戻ってきます。民間の生命保険に入っていれば、ほぼ費用がかからず、手術、入院ができるようになっています。この日本の医療制度は、海外、特にアメリカ人にとっては、天国のような制度で、わざわざ日本で手術、入院するために英語教師などの仕事で来日する人がいるくらいです。

 

ただこの優れた制度も年月が経るにつれ、不満が出てきます。歯科医側からは医療単価が安すぎる、逆に患者からは3割負担でも高いという声があります。例えば、乳歯が抜けなくて歯科医院に行って抜いてもらうことにします。初診料、パントモ写真、抜歯という流れになり、261点、402点に131点、794点となります。患者負担は2400円くらいになります。実際はこれ以外の検査、管理料を取る場合もありますが。この場合でもおとなしい子で、グラグラした乳歯であれば、抜歯するのに5分もかからないでしょうが、泣き叫び、暴れる子供ではもっと時間がかかるかもしれませんし、歯根がほとんど吸収していない乳歯を抜くのは難しい場合もあります。ここで問題は、歯科医師からすれば8000円近い料金は、多くの歯科医は安いと感じています。欧米ではその数倍の料金です。一方、患者からすれば、70%引きになっている価格、2400円でも高いと感じます。2400円あればフランス料理屋で美味しいランチが食べられると思うわけです。私のところでは、初めての患者さんに対しては相談料として3000円をもらっています。ほぼ健康保険の初診料に近い料金です。そしてざっと見て、大まかな治療法、費用、期間などの説明を30分くらいします。それでもネットの書き込みでは「相談料も自費で高額取られた」と怒られます。歯科医は、他国との比較から日本の医療費は安いとしますが、患者側はそうしたことは気にかけず、スーパーの特売品の値段と比べます。

 

一昔前でしたら、北欧は福祉大国で医療費はいらないということでしたが、最近では、患者負担も上がってきており、それも歯科など緊急性の低い領域の負担率は高くなっています。また子供の歯科治療は無料だが、大人の治療は保険がきかないという風になっているところもあります。社会主義の中国では1970年頃までは医療費は基本的には無料でしたが、今は自費治療が普通になっています。歯科についてみると、近年、欧米でも歯科治療は自費治療になる傾向が強く、ある意味、日本の歯科治療費は世界の先進国、欧米に比べて最も安いのかもしれません。

 

東京の一部の歯科医院では当初は保険診療で治療をしますが、根の治療は保険が効きません、被せもの(補綴物)は保険がききませんというところがあります。もちろん、こうした行為は保険医療機関では禁止されていますし、通報があれば、やばいことになります。それでもこうした治療システムが常態化しているところがあり、いっそ保険治療をやめればいいと思うのですが、それでは患者が来ないので、こうした方法をとっています。保険医療機関であれば、保険にある診療項目の保険治療を拒否することはできません。

 

一般的には、衣料などで70%引というはバーゲン品を意味しますが、医療の場合はこれと違います。患者負担は30%ですが、残りの70%が保険料、税金などでカバーされているのです。つまり実態は70%引ですが、各自はその分を回り回って負担していることなります。私の矯正歯科医院では、自費患者が70%、顎変形症、口蓋裂患者など保険診療が30%です。自費、保険患者も総額の矯正治療費はそれほど変わりませんが、保険患者ではほぼすべての患者が治療を受けます。一方、自費患者はそもそも費用がかかることもあり、受診率も低く、さらに治療を行う人も少ない傾向になります。これは矯正治療費が高いが、保険がきいて30%の負担で治療できるからだと思います。さらに自費患者では仕上げやサービスに対する要求は多いのに比べて、同じ矯正治療を受けている保険患者ではそうした要求は少ないようです。矯正治療費は高いという前提が、患者、歯科医にもあり、保険診療についてはお互い過度の要求をしないのでしょう。

 

世界各国に比べて日本に住む利点として、治安の良さが挙げられますが、医療費の安さについてはあまり言われませんが、間違いなく、低い負担で高度な治療を受けられ最高な国だと思います。この制度を支えるために、こうした理解もすべての国民がもってほしいと思います。一方、現行の保険制度に不満な先生は、是非、自費専門になってほしいと思います。いかに70%引きの制度が経営的に安定でき、ストレスも少ないか実感できます。


2023年9月14日木曜日

矯正治療を受けている人はどれだけいる

 



歯並びの悪い人は、種々の研究によっても違いますが、およそ半分、厳しく評価して20%くらいの人が治療をした方が良いという結果になっています。ただこれについては軽度の不正咬合、特にでこぼこや、口元の突出(上下顎前突)を含めると80%以上が不正咬合となります。普通の人が見て凸凹もなく、口元もキリッとしていて、理想的な咬合となると、1%もいないくらいで、多くは矯正治療をした人です。

 

これに対して、実際に矯正治療を受けた人の割合というと20%くらいで、さらにマルチブラケット装置による本格的な矯正治療を受けた人はさらに少ないと思います。ただこの数値もどうやら地方によってかなり違うように思えます。そこでどの程度の人が実際に矯正治療を受けているか、矯正歯科専門医、あるいは認定医の数から推測してみます。

 

まず東京の人口は約1400万人、矯正歯科認定医に数は751名、18600人に一人となります。一人の矯正歯科認定医の歯科医院で、1年間で治療を開始する患者数を80名、一般歯科で矯正治療を受ける人が同数いるとすると合計160名、人口の0.86%が矯正治療を開始することになります。累積するとおそらく矯正治療経験数は20-30%くらいになるのでしょう。

 

これに対して、例えば青森県の人口は125万人、歯科矯正認定医数は9名なので、139000人に一人となります。東京の約7.5倍になります。東京と同数の人が矯正治療を始めるとなると、一軒あたり600人ということになりますが、もちろんそんなに患者さんは多くなく、一軒当たりの新患数は80-120名くらいと思います。弘前市が最も矯正歯科認定医が多く、18万人の人口に対して4名いて、45000人に一人、東京の2.6倍くらいとなります。少ないのは青森市で、人口28.8万人に対して1名、288000人に一人、さらに八戸市は23.1万人に対して隣の三沢市を入れても2名しかなく、これも116000人に一人と、かなり少ない状況です。さらに人口の多いところでは、十和田市(6万人)、五所川原市(5.1万人)には矯正歯科医はおらず、むつ市(5.4万人)には一人います。総じて矯正認定医の数は少ないと思います。

 

お隣の秋田で見ると、人口は96.6万人で、認定数は9名で青森県と同じですが、人口の多い秋田市(30.7万人)に5人いて、60000人に一人くらいとなっています。また二番目に人口の多い横手市(8.6万人)に一人、由利本荘市(7.5万人)に一人、大館市(6.9万人)に一人いますが、大仙市(7.7万人)にはいません。ただ秋田市で開業している友人の矯正歯科医院には年間600人以上の新患が来るようで、これは全国でもトップクラスと思いますが、青森よりは秋田県の方が矯正治療を受ける人が多いように思えます。県民所得の最下位の沖縄県(145.7万人)でも17名の矯正歯科認定医がいるところも見ると、沖縄も青森より矯正治療を受ける人は多いのでしょう。同じく、青森県の隣県の岩手県でも認定数は38名と多く、大学にいる先生を除いても25名の認定医がいることから、青森県が認定医の数も少ないし、治療を始めようとする患者も少ないように思えます。

 

 

当院の2022年度に顎変形症の患者数は18名、そのうちに4名が他院からの紹介患者でした。実はこの18名のうち、子供の頃に矯正治療を受けた、あるいは経過を見ていた患者は4名でしたが、これは全て他院からの紹介、すなわち県外の患者さんでした。残りの14名は県内の患者さんで、かなり重度の不正咬合(4名は上顎前突、10名は反対咬合、下顎前突、顔面非対称)でしたが、子供の頃に治療は受けていませんでしたし、そもそも歯科医院に相談に行ったこともなかったようです。反対咬合の場合、上の切歯が萌出する8歳頃にはすでに反対咬合になっており。学校歯科検診でも指摘されていると思いますが、それでも歯科医院を受診することはないようです。このことは、青森県の場合、矯正歯科専門医も少ないが、治療を受ける患者も少ないことを意味し、今のところそれほど患者が多くて困るという状況ではないのかもしれません。

 

例えば県庁所在地の青森市の場合、矯正歯科認定医は1名で、この矯正歯科専門医院も週に3日の診療で対応している、できています。人口29万人の都市で一軒の矯正歯科医院、それも週の半分、すなわち0.5人で対応できているのが現状で、この人口で言えば東京では15人の専門医がいることになります。もちろん一般歯科医院で矯正治療を受ける患者も多いのですが、単純に考えれば、矯正治療を受ける患者数は東京の1/30と言えるのかもしれません。この理由として、若者の都会への流出が多く、地元で治療しないでそちらで治療を受ける、給与が安くて治療できないなどもありますが、同様なことは全国の地方にも当てはまります。おそらく一番関連するのは子供の教育費で、一人あたりの教育費は、一位の東京が455000円に対して、最下位の青森県は104667円でほぼ1/5しかありません。子供の矯正治療まで手がまわらないのでしょう。また女性の洋服購入額も青森県は全国最下位、年間29700円で、一位の徳島県71890円のほぼ半分以下で、化粧品購入額も46位、22000円、一位の広島県が38000円ですので、あまり見た目に気にしない、結果、歯並びが悪くても治療しようと思わないでしょう。

 


2023年9月12日火曜日

掛け軸をコレクションする

 



ヤフオクで掛け軸を集めだしたのが、2006年頃だから、17年目になる。母親が日本画をしていたこともきっかけの一つだが、家を新築したときに和室と床間を作った。床間というと掛け軸ということになり、実家にあった掛け軸を何本か持ってきた。その一つに近藤翠石のものがあった。翠石というと虎で有名な大橋翠石が浮かび、近藤翠石のことはほとんどわかっていない。少しずつ、ネットで調べていくと、森琴石の弟子の中に近藤翠石という人物がいることがわかり、安かったこともあり、4本くらいの掛け軸を集めた。今では翠石といっても、動物画の大橋翠石と南画の近藤翠石に分けられるようになった。ただ、この作家は頑固な人なのか、ひたすら南画しか描かずだんだん飽きてきた。ヤフオクで見ていると「唐美人とオウム」という作品を見つけ、落札価格も安かったので購入した。実物を見ると、なかなか魅力のある画家であるが、調べてもほとんど情報は出てこない。土屋嶺雪という大正から昭和にかけての日本画家であるが、東京生まれで、明石を中心に活躍した画家ということがわかった。ただ文展などの団体に全く入らない独立派の画家のために、全く情報が入らない。それでもヤフーオークションには時々出品され、ほとんど落札を競う人もいなかったので、数千円程度で、購入できた。少しずつ購入し、現在23点の作品を集めることができた。

 

あくまで生活のため、依頼者からの注文に沿って描いた絵なので、よそゆきの絵ではない。画家のほとんどは、展覧会などの出す大型の絵には全力を出して、かなり時間をかけて屏風などの絵を描く。普段、こうした大型の絵の注文は少なく、普通の掛け軸の売買が主体となる、展覧会で名を売り、掛け軸を売って生活していた。嶺雪の場合は、展覧会などにはほとんど出さなかったので、あくまで口コミで絵の依頼が入り、描いて生活費を稼いでいたのだろう。それでも彼の若い時から晩年を作品を見ると、作品の変遷を見ることができ、一人の日本画家の一生を顧みることができる。

 

これまで土屋嶺雪のまとまった展覧会は、2016年に加古川市立松風ギャラリーで行なわれた「播州ゆかりの日本画家3人展 福田眉仙、森月城、土屋嶺雪」くらいしかなく、ここでは屏風3点、掛け軸9点、額装2点の14点が展示された。そこで私が集めた作品も一度、展覧会の型で、それも弘前レンガ倉庫美術館の市民ギャラリーでの展示を思い立った。ただレンガ倉庫美術館というとどうも現代美術のイメージが強く、掛け軸のそれも個人コレクションの展示はいいものかと思い、8月の中頃に同館を訪れ、係の方に相談したところ、取り敢えず、企画書を出してくださいということになり、“掛け軸の楽しみ”というタイトルにして簡単にまとめて提出したところ、許可が出たので、12月の初め頃に個人的な展覧会をしようと思っている。

 

普通、展覧会というとお金持ちが財力に物を言わせて購入した作品を展示するものだが、今回の私の展示会はいずれの作品も1万円以下のそれほど高額でない作品ばかりである。お小遣いで購入できる額である。現在、昔の掛け軸は非常に安く、一部の有名な日本画家を除く、多くの作品は非常に安い。おそらく仲介業者はほとんどただの同然の価格で買った掛け軸をヤフオクに出しているようで、1万円以下で購入できる掛け軸が多い。こうしたこともあり、あまり知られていないが、日本の江戸、明治、大正、昭和時代の古い掛け軸が多く、中国、欧米の人にずいぶんと買われている。以前はヤフオクも日本での購入だけであったが、最近は海外からも購入できるようになり、海外からオークションに参加する人も多い。彼らからすれば、100年、200年前の優れた技法の絵が100ドル以下で購入でき、安いと思うようだ。もちろん日本人で骨董絵画が好きな人も多いが、どうしても名の知れた画家、円山応挙などを作品に惹かれるようで、私のような土屋嶺雪に興味がある人はほとんどいない。もし絵の好きな人であれば、それほどお金もかけずに自分のコレクションができることこの展覧会で知って欲しい。

 

今回の展覧会では、日本ではおそらく唯一の香川芳園の作品と最近、集めている山元春汀、田中蘭谷の作品も一緒に展示しようと思う。モダンな美術館の一角に25点の掛け軸が並ぶのは、また面白そうだと個人的には期待している。全く個人でしようと思っているので、一人で会場まで掛け軸をタクシーで持っていって飾り、一週間の会期が終われば撤退する予定である。美術館に来館する人の1/350歳以上だとされており、見るだけではなく、コレクターになるということも今であれば、費用的にも時間的にも難しくないことがわかってもらえればと思っている。

2023年9月7日木曜日

歯科医は職人?

 



口腔外科の一部を除き、一般歯科の治療自体は、私が大学を卒業してからのこの40年間ほとんど進歩していない。医科では、がんによる死亡率も格段に下り、手術侵襲の少ない内視鏡手術も普及し、医療技術の進歩が次々とある。それに比べて、歯科では、歯科用CT、デジタル印象、インプラント、マウスピース矯正、CAD/CAM、電動麻酔などが開発されてきたといえ、一般歯科の治療内容を見ると、抜歯、歯根の治療、補綴物(入れ歯など)、充填、歯周病の治療(歯石除去など)、は40年前とほとんど変わらないし、治療成績が伸びたという研究結果もない。つまり患者、歯科医にとっても、この40年間、ほとんど実感できる進歩は少ないと言える。電動麻酔の普及に伴い細い針による歯根膜麻酔ができ、治療時の痛みが減ったというくらいか。

 

もちろん口腔外科領域に関しては、医学の進歩に伴い、口腔がんについては早期発見、早期治療による延命率が伸びたし、これまでの外科治療に代わった放射線治療と化学療法による治療が増えた結果、機能障害も少なくなった。それでも抜歯自体は40年前とはほとんど変わらず、むしろ一般開業医では抜歯をしなくなり、口腔外科医も埋伏歯の抜歯を全身麻酔でやるようになってきた。以前は一般歯科医でも平気で埋伏した第三大臼歯を抜いていたし、ベテランの口腔外科はさらにとんでもない速さで抜歯をしていた。つまり技術が後退したことを意味する。同様なことは、歯学という学問自体にも言えることで、この40年間、歯学からノーベル賞級の研究はない。極論すると、ほとんどの研究はどうでもいいようなことで、専門分野の矯正歯科学についても大した研究はないし、重箱をつっつくような研究はほとんどである。確かにアライナー矯正や矯正用アンカースクリューなどの新しい技術があるにしても、40年前の治療、もっというと80年前の治療と治療結果、期間などもさほど変わらない。1940-50年代に活躍したチャールズ・ツイードという矯正歯科医がいるが、今でも彼はそのまま通用する。

 

臨床応用の面でも、研究の面でも、ほとんど進歩していない領域、これは領域自体が停滞しているもので、これはほぼ職人の世界に似ている。大工、陶芸家、家具制作、包丁制作などと同じようなもので、たまたま人間の体を扱うため、医術という別のジャンルの職人技となっているだけである。近代医学はこの医術からの脱却であり、最後まで医術、職人の世界からの脱却にもがいたのが歯科である。ただ、明治以降の歯科医の養成機関を見ると、職人養成機関としての専門学校の要素が強く、腕の良い歯科医を作ることに主眼が置かれていた。もともと職人を作る専門学校からスタートしたため、国立の歯学部がようやくできたのが、東京高等歯科医学校である。創立者の島峰徹先生の強引な手法で、歯学としての学校を作り、初めて専門学校の名がとれた。医科の場合でも旧制高等学校を卒業してから入る大学医学部と医科大学と、旧制中学校卒業後に入れる医科専門学校があったが、歯科の場合は、官立の専門学校はなく、私立の専門学校があるだけで、職人養成機関としての色合いは医科以上に強かった。

 

ところが戦後、ほとんどの歯科専門学校が歯科大学に昇格し、さらに歯科医不足から国立大学の歯学部も乱立した。この頃から歯科医はもともと職人であるという意識が希薄となり、その最たるものが、国家試験から実技試験を廃止したことである。美容師、理容師国家試験で実技試験をなくすようなものである。さらに医科を真似て1年間の研修医制度が導入した。6年の専門教育の上に一年を足したものである。職人の専門学校というのは短時間で優秀な職人を育てることで、戦前の歯科医学専門学校が2年の基礎教育の上に2,3年の臨床実習をしていた時代から教育内容が多岐にわたっているとはいえ、3ないし4年増やす理由は少なく、また7年間いて戦前の歯科専門学校より実際の臨床技術の習得は劣っている。ひとえに歯科大学の関係者が、もともとの職人養成所からの脱却、大学を目指した結果であり、優れた歯科医を育てるという点では失敗している。アメリカの歯科大学は4年制で、後期の2年間はほとんど患者の治療にさいて実践的な教育をしている。この間、指導教官にチェックを受けながら多くのケースを消化して、職人としての基礎技術を学び、さらにライセンスを得るためにはペーパー試験と同時にマネキンを使った実技試験があり、これに合格しなくてはいけない。

 

大学関係者の多くは、歯科医は職人ではなく、口腔機能を維持することで、健康に寄与する医療であると唱える。確かにこうしたお題目は心地よいし、重要なことであろう。それでも歯科医院に来る多くの患者は歯が痛い、入れ歯が合わないといった患者でその質は40年前とは変わらず、逆に高齢者の低栄養、フレイルといった患者や胃瘻患者が来た場合、責任を持って医療的な助言、注意、治療ができるかというと疑問である。40年前に小児歯科にいた頃、どの歯科医院もあまりに患者が多くて、小児の治療はなおざりにされ、“鼻くそ充填”と呼ぶ、虫歯をとって、隣接面う蝕であっても連結してレジンを鼻くそを押し込むように充填するという治療が多かった。さらに防湿もお粗末なので、充填したレジンが中で固まってカタカタ動くというひどい治療であった。治療しない方がマシなくらいである。またサフォライドという進行抑制のフッ化物を塗るだけの治療も多かった。もちろん小児歯科では全て浸麻をしてラバーダム防湿をして、レジン、インレー、乳歯冠などを装着した。ところが当時からこうしたひどい治療は年配の先生がするもので、将来的にはなくなると思っていた。ところが実際は、40年経っても状況は変わらず、30歳代の先生も平気でこうした治療をする。しかも患者数は少ないにもかかわらす。歯科医は職人という感覚で仕事をすべきで、同業者から“いい仕事をしています”という評価を得たいものである。


2023年9月5日火曜日

『弘前歴史街歩き』 完売しました。




7月に「弘前歴史街歩き」、ようやく完売しました。昨年の3月の発刊ですので、完売まで14ヶ月かかったことになります。発行部数は500部で、自分用の100部を除く400部を売りました。販売当初はよく売れて、中三にあるジュンク堂では二度ほどベストセラーになり、また週間ランキングにも5週くらいは出ていましたが、その後の売り上げは本当にゆっくりでした。

 

これは本を出版した人はよくわかると思うのですが、どれだけ売れたか気になるもので、本屋に行くたびに積まれている本の数をチェックします。今回の本は、タイトル通り弘前を中心とした内容ですので、確認した限り、弘前以外では青森の成田書店に数冊あるだけでした。弘前で言えば、中三のジュンク堂、さくら野弘前店の宮脇書店、イトーヨーカドーのくまざわ書店、ヒロロのツタヤ、高田のツタヤ、そして懇意にしているかくみ小路のまわりみち文庫にも置いてもらいました。おそらく最も売れたのはジュンク堂で、販売した半分以上はここで売れたと思います。またくまざわ書店もかなり売っていただき、30冊くらいは捌けたと思います。古書店のまわりみち文庫には個人的に卸したのですが、20-30冊は売れたと思います。アマゾンあるいは発行所への直接注文でどれだけ売れたか知りませんが、県外の書店の店頭には置かれていなかったと思います。新宿の紀伊國屋本店の店頭で売られるのは夢のような話ですが、地方の自費出版がこうしたところに並ぶことは難しいと思います。それでも昔、「明治に年弘前絵図」を発刊したとき、帰省で帰っていた時に神戸、三宮のジュンク堂にこの本があったのには驚きました。

 

最初に出版した「明治二年弘前絵図」は500部、発刊し、問屋を通さずに近くにあった紀伊国屋書店に自分で持っていって、半年くらいで完売しました。その次に出した「新編明治二年弘前絵図」はさすがに問屋に販売を任せましたが、最初の500部を2ヶ月くらいで完売し、すぐに2版500部を追加印刷し、これも半年くらいで全て完売しました。ところが次に出した「弘前人物グラフィティー」は自分用の100部を除く400部を販売してもらいましたが、5年経っても完売できず、書店にもあまり置かれなくなったので、回収しました。回収したのが50部くらいだったので、350部くらいが売れたことになります。さらにその次に出版した「須藤かく 日系アメリカ人最初の女医」も500部印刷し、400部を販売しましたが、半年くらいでどこの本屋にも置かれなくなり、3年経った頃にこれも回収しました。200部以上が返ってきたので、実際に売れたのは200部以下となります。

 

自費出版の場合、まず黒字になることはなく、いかに赤字幅を少なくすることに尽きます。例えば、出版費に50万円かかり、完売して40万円入ればいい方です。これが半分の20万円しか売れなければ赤字が30万円となります。本を売るというのはものすごく難しいことで、お金がかかるだけでなく、読者の時間を奪うことになります。どんな本でも読むのに時間がかかり、つまらない本であれば、全くの時間の無駄となります。何十万部も売る作家はそうした意味では天才であり、本の著作料で食べているプロの作家は本当にすごい人です。天賦の才能なのでしょう。私のように400部を売るのに苦労している人から見ると、その100倍、1000倍売るのは想像もできません。

 

ただ最近の読書離れで、本の売れ行きは以前に比べてかなり減っています。おそらく学術書であれば、1000冊以下の出版でしょうが、実際に完売するのは難しいようです。全国の図書館で買ってもらっての数量で、5000円以上の学術書を一般読者はあまり買わないでしょう。昔、多くのノンフィクション本を書いている作家とお話したことがあります。1800円の本が5000冊売れて、900万円、印税は20%として180万円、取材で世界各国を数年間まわっての報酬としてはかなり少なく、とても生活できないと言っていました。雑誌などの掲載文で収入を得ているようです。5000部といえば、ノンフィクションではまあまあの数値です。

 

今回の「弘前歴史街歩き」は、これまで出版した本に比べて年配の方からの反応は大きく、懐かしかった、知らなかったという声を聞くことが多かったと思います。これまであまりない読者の反応で、嬉しく、少し自己満足しています。おそらく買ってくれたのは弘前を中心とした地域で、せいぜい20万人の人口規模となります。20万人で400部売れたなら、日本全国では20万部となり、大ベストセーラとなります。というのは全くのこじつけですが。

 

おそらくこうした街の紹介本は、ムック形式の写真を中心をしたものの方が良いかもしれません。ただフルカラーの雑誌となると、個人の自費出版ではかなり難しく、どこかの出版社が企画してくれれば、全面的に協力したいと思います。50年もしたら、本書で紹介した建物もほとんどなくなっており、貴重な本になるかもしれません。

 


 

2023年9月2日土曜日

マスコミの打たれ弱さ





 

今ネット上で話題になっているのが、安芸高田市の石丸市長と市議会及び四国新聞との戦いで、理路整然と議論する市長と議員、新聞記者の対決が面白く、数十万回の再生となっている。個人的には、議会運営も含めて市長の手腕であり、こうも議員と対立していては、自分の政策を実行しようにもなかなか実現できないのではと危惧する。世の中、面と向かったお前はバカだと言われば、誰も腹が立ち、そうした人とは協力したくないと思う。市長、知事など地方自治体のトップの方が、参議院、衆議院議員よりは直接、政策策定、実施ができる利点があり、最近では優秀な人物がこうした地方自治体のトップになることも珍しくない。ただこれまで町村レベル、あるいは一部の市のトップあるいは議員の多くは大卒でなく、青森県の地方自治体議員の中には中卒の方も多くいる状況で、安芸高田市の議会と同じようなことは全国の自治体でも起こりえる。ただ市民、町民、村民にとっては、自分たちの暮らし、生活のプラスになってくれればいいわけで、こうした議会、新聞社の議論をYou-tubeに挙げられても、どうだろうか。

 

それはさておき、私自身が一番、面白く思うのは、市長と中国新聞の記者とのバトルである。このやりとりはYou-Tubeでじっくり楽しめるが、新聞記者がこれほど打たれ弱いかと驚いた。常日頃、この中国新聞の記者も含めて、新聞記者は権力と戦うことを使命に、自分が質問して、権力者、例えば、政治家がきちんと答弁しなければ、かさをかけて攻め立てるが、いざ自分が攻撃されれば、新聞社が日頃、唱える悪徳政治家、社長と同じ答弁を行う。例えば、はい、いいえ、どちらでもないの3つで答えろと言っても答えない、アンケートをしたならその資料全部を公開しろと言っても公開しない。これでは、政治資金の解明のために領収書を開示しろと政治家にマスコミで叩いても、その新聞社自体が同じように資料を隠すのであれば、責めることはできないだろう。

 

さらにひどいと思うのは、四国新聞と言っても、実際は安芸高田市を担当する一記者とのバトルであるが、視聴者の多くは、これを四国新聞と市長のバトルと認識しており、四国新聞自体の信頼失墜につながることを新聞社上層部があまり自覚していないことである。新聞社が嘘をつく、偏向しているというレッテルは、料理店で言えば、まずいに匹敵する最大の悪評であり、これを払拭しないのは危機感のなさを示している。普通に考えれば、市長との議論があれば、誠実に対応し、市長が例えばアンケート全体のデータを見たいと言えば、包み隠さず見せればいいし、その中の間違いを指摘されれば、詫びれば良い。また第三者委員会を開催し、明らかな偏向と認められる記事があれば社長更迭も含めて検討すべきである。これはもし政治家が同じようなことをした場合、記者は平気でこうした要求をしているからである。新聞記者あるいは上層部も含めてエリート化しており、その内容は銀行など大手企業と同じようなものであり、権力―反権力という構図で言えば、新聞社も権力側になってしまったようだ。

 

たまに地元青森県の新聞、東奥日報でも識者による誌面批評というコーナーがあり、新聞記事などについて指揮者のコメントが載せられているが、まあお茶を濁したような内容である。新聞、マスコミが権力側と同じような構造であるなら、それを批判する別の存在が必要であり、安芸高田、石丸市長の活躍がこれほど世間の注目を引くのも、こうした理由かもしれない。逆に言えば、全てのマスコミ、新聞社にも、厳しく追求するコメンテーターが必要かもしれない。ジャーニズの問題にしても、あんなことは数十年前からマスコミ関係者は拗ねて知っていた事実であるが、所属タレントとの関係から、ほとんどのマスコミ関係者が口を閉ざした。ようやく海外からの指摘を受けたが、いまだにマスコミの取り上げ方には後ろめたさが残っている。太平洋戦争中の新聞社の対応とそれほど違わず、マスコミ自体が正義という幻想ももともとなく、今回の安芸高田市の一件から、新聞社、あるいは新聞記者も政治家、社長など権力者と同じ穴のムジナということが白日の元に晒された。門田隆将さんや百田尚樹さんなどのテレビで出せば、視聴率の点でも面白いと思うが、そうしたことをしようとしないのもテレビ業界のエリート化によるのであろう。