2007年11月30日金曜日

珍田捨巳 5


珍田捨巳、牧野伸顕、西園寺公望、この3人は、摂政時代、即位後の昭和天皇をよく支えた。大正というと、大正デモクラシーと呼ばれるような自由な時代と思われがちだが、資本主義の台頭と、それに伴う資本家に支配された社会秩序の不平等が現れ、さらにそれに呼応するかのような各地の小作争議や戦闘的な労働運動が発生し、社会主義的な考えも広がっていた。また軍部では日露戦争の勝利による権利意識が顕著になった時代でもあった。このような時代にあって国体の中心であった大正天皇が病弱なため、非常に不安定な状況であった。
珍田、牧野、西園寺など、後に宮中グループと呼ばれる人々は、その頃欧米各国を取り巻く国際協調主義を天皇に教え、あくまで中立的な立憲君主像を求めた。その総決算として行われたのが天皇のヨーロッパへの外遊であった。珍田は供奉長として天皇とともにイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアなどの各国を訪れた。随行した山本信治郎によれば「皇太子殿下は、恐れ多くもほとんど慈父に対するような態度で珍田に接せられ、私どもはそばで拝見いたしておりまして、ただ感激した次第です」と語っている。一方、珍田は帰国後、牧野にヨーロッパ外遊中の皇太子の行動について「御性質中御落着きの足らざる事、御研究心の薄きことなどは御欠点なるがごとし」ときびしい評価を出している。これは将来の天皇に課せられた巨大な任務を慮ってのことであろう。その後も、珍田は自分の外交チャンネルを利用して、欧米の社会状況を折にふれ、天皇に進言した。昭和3年の天皇即位の大礼が京都で行われたが、高齢の珍田はひとつの儀式も欠かさず出席し、侍従長としての責務を全うし、その翌年亡くなった。天皇に対して忠臣であった。
珍田亡き後も牧野はひとり、天皇を輔弼したが、軍部、外務省に影響が少なく、次第に孤立化していく。
珍田は、子供の頃の名前は辰太郎であったが、その後捨己(すてき)と言った。在外勤務中にステッキ(杖)と発音が似ているため、捨巳(すてみ)と改めたという。それ故、珍田捨巳、珍田捨己のどちらも正しいことになる。
近年、「相手を信頼して、反省する」珍田の外交方式が日本のその後の外交基調になり、その結果「相手国を信じる」珍田外交が日本を滅ぼしたという論がある。外交のプロである、珍田にすれば外交の駆け引きのルールには精通しており、単純に相手国を信じた訳ではあるまい。ただキリスト教徒として、武士の末裔として人間相手の話し合いでは信義が最も重要と認識していたのであろう。

2007年11月24日土曜日

第一回東北矯正歯科学会秋期セミナー


昨日、仙台で行われた東北矯正歯科学会秋期セミナーに参加してきました。宮城県歯科医師会館で行われましたが、なかなか盛況で多数の先生方に参加していただきました。準備をしていただいた仙台の先生方には感謝です。どうもありがとうございました。
4人の演者が「成長期の咬合管理」というテーマで講演しました。私も30分ほど、当院での流れ、治療方針などの説明をさせていただきました。講演後、親しい先生からは矯正専門医の本音を聞けておもしろかったというお褒め?の言葉をいただき、やや安心したところです。
せっかく講演するので、開業当初の3年間の患者のその後の経過を調べてみました。95から97年までの3年間に当院にて検査を受けた患者のうち、乳歯列、混合歯列期から長期咬合管理を受けた173名について、その後の経過を追いました。反対咬合85名のうち卒業、終了までいったものは21名(24.7%),管理継続中が17名(20.2%)、中断47名(55.3%)となりました。中断患者のうち一期治療中のものが44名(93.6%)でした。 叢生(でこぼこ)では35名のうち、卒業、終了は18名(51.4%)、中断は18名(45.7%),そのうち一期治療中のものは11名(68.8%)となりました。主訴が改善すれば、よいと考える患者は多く、反対咬合患者では噛み合わせが改善し、ある程度その状態で落ち着いたなら、多少でこぼこがあっても来なくなる傾向があるようです。叢生の場合は基本的には二期治療終了まで主訴は改善しないため、保定中に来なくなる傾向があるようです。
成長期の反対咬合の患者さんでは、中学あるいは高校生ころからあごが急に大きくなり、噛み合わせがくずれることがあります。そのため噛み合わせが治ったからといって通院しないことはないようにしてほしいと思います。一度、来院しなくなると、あとで悪くなっても、なかなか来院しにくくなるものです。ですから、とくに男子の場合は終了は完全に終了するまでは見ていかなくてはいけません。
二期治療を受けるとまた費用がかかるため、これくらいでよいと思い、来なくなるケースもあると思います。本人、親と十分に相談して二期治療を開始しますので、したくなければそれでよいと思います。半年、一年ごとの定期検査で虫歯のチェックや歯磨指導、レントゲン写真によるチェックなどを行います。
写真はカナダのアニメ「BraceFace」の主人公Sharon Spitです。Wikepediaで見る限り、あまりおもしろそうではありません。
ホームページはこちらです。http://www.bracefacetv.com/index.asp

2007年11月18日日曜日

近藤翠石の掛け軸 続き




前回の続きとしてもうひとつの近藤翠石の掛け軸を紹介します。うちの母親は趣味で水墨画を描いていますが、一度金屏風を画材として使いたいと思い、友人から古い金屏風をもらってきました。結局、屏風自体は破損が多く、捨てることになったのですが、その時屏風に貼られていたのがこの掛け軸です。私自身母の絵よりはよほどましと思い、何とか説得して表装してもらいました。
前回、紹介した能州の絵に比べてかなり丁寧に描いています。賛は「裏山帰樵」となっています。樵が山から帰るモティーフは、南画では比較的よく用いられます。山に柴を刈り、田畑で作物を作るといった素朴な生き方に共感がもたれたためです。右の絵では山の中腹から滝を見ながら茶をゆっくり飲む文人の姿が描かれています。よく描かれていますが、前回にもお話したように、南画の価値は今は非常に低く、オークションに出しても2,3万円くらい、競合者がいないと1000円くらいで落札されます。
掛け軸に描かれるのは、文人の理想の風景で、確か、1に見てみたい所、2に行ってみたい所、3に住んでみたい所、4にそこに一生住みたい所で評価するようです。この絵に描かれているような所に私は住みたいとは思いません。とても文人の境地には達していないようです。
今まで数多くの美術展を見ましたが、確か1985年ころ京都で行われた富岡鉄斎展に一番ショックを受けました。没後150年の大規模な展覧会で、鉄斎の全貌を余す事なく伝えるものでした。掛け軸のような小さく作品でも鉄斎にかかれば、そこに小宇宙を作り出します。世界に通用する画家だと感じました。その後も南画、水墨画に興味をもって見てきましたが、近年ますます凋落傾向にあり、現代の日本画家で軸物をかけるひとはもはやほとんどいないようです。多くの日本画は洋風の部屋に飾ることを前提にしているため、横長の額縁サイズになっています。この画家がいきなり縦長の軸物をかけといってもそれは難しい。岩手県立美術館にも萬鐵五郎のかいた軸物(ほぼ遊びでかいたものだが)があるが、あまりに稚拙で軸としてはバランスが悪い。
この極端な縦長の画材というのは西洋ではほとんどない形式で、このまま日本で廃れていくかと思うとさびしく、こういった制約した形式の中で、若手の日本画家が挑戦してほしいと思います。同時に欧米のインテリア雑誌などではリビングに実にうまく掛け軸が飾られており、そういった例も取り上げていってほしい気もします。

2007年11月11日日曜日

近藤翠石の掛け軸



左の掛け軸は昨年、ヤフーオークションで8000円で買ったものです。落款は翠石となっており、Googleで検索すると、大橋翠石と近藤翠石の二人の画家が検索されます。大橋翠石は虎の翠石と呼ばれる動物画の名手ですが、どうも落款が違うようです。近藤翠石は大阪の南画家の森琴石の弟子だそうで、現在はほとんど無名ですが、戦前は少しは有名だったようです(明治3年ー昭和25年 http://www.morikinseki.com/monzin/kyusyu.htm)。実は家にはこれと落款が全く同じ二幅の掛け軸があり、どうもふたつの掛け軸とも近藤翠石のものと思われます。
さらに賛を見ると、「庚申」と読め、これは1920年をさします。近藤翠石、49歳の時の作品と推定できます。またこの後の「孟秋」とは7月のことを言います。「能州」は今の能登地方を指しますが、その後の文字がわかりません。電子くずし字辞典で調べると(http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller)、どうも自次あるいは白次のように見えます。構図から左に島が右上方に二層の寺らしきものが見えます。能登半島でこれに該当するのは東海岸の穴水町付近と思われ、その付近の神社、寺を調べると、明千寺の山号が白雉山(はくじさん)とあります。Google Mapで見てみると、石川県鳳珠郡穴水町明千寺あたりの海岸線から左に能登島、右に白雉山を見たところと推定できます。おそらく雉を次と間違えたのでしょう。Google earthで立体的にみても付近の山は低く、とてもこの絵のようには切り立ったものではありません。近藤翠石がこの地を旅したときに書いたものでしょう。無料で使わせてもらっているGoogleの宣伝にもなりますが、こういった調べごとがインターネットで1、2時間で調べることができ、本当に夢みたいな話です。

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近藤翠石という画家は今ではほとんど知られていない画家ですが、この絵をみても技量は確かなものです。ただ残念なことは、いくらオークションとはいえ、たった8000円で取引されているという事実です。今の家は和室、床の間はないため、掛け軸は人気がありません。とくに南画はじみなため、オークションをみても本当に安い価格で取引されているようです。掛け軸は巻いておくと実にコンパクトになりますし、季節のものをかけておくと、そこがあたかもドアを開けた世界になり、本当に楽しいものです。額縁に入った絵は固定した窓に例えることができますが、掛け軸はドラエもんの「どこでもドア」のように、新たな世界が目の前に浮かびます。もっと注目されてもよいと思いますし、今は買い得です。名画の値段ーもう一つの日本美術史ー(瀬木慎一著 新潮新書)というおもしろい本があります。明治、大正期に活躍した野口小蘋という女流画家がいますが、大正期の画家としてはトップに近い評価を受けており、当時でも数千円の価格で取引されていたとの記載があります。今でいう数千万円に相当します。南画の評価は現在では低く、金持ちの代表的な掛け軸とされる橋本雅邦とともに非常に安くなっており、その評価の落差に驚かされます。

2007年11月6日火曜日

山田兄弟7


山田良政をモデルにしたマンガがあります。安彦良和さんの「王道の狗」(白泉社、全4巻)の主人公で、加納周助という名前になっています。左の図は物語のラストに近い場面で主人公が恵州蜂起に向かう場面です。この後、実際には良政は戦死します。当然マンガですので、ほとんどフィクションで、良政の履歴とはほとんど違います。調べてみると作家の安彦さんは弘前大学に在籍し、学生運動で中退してマンガ家になったようです。弘前にいた時に山田良政のことを知ったのでしょう。
このマンガの中で加納の武術の師として武田惣角が登場します。武田惣角といえば、植草芝平とともに、合気道の創始者として有名です。この二人に師事し、惣角から免許皆伝をもらった久琢磨(ひさ たくま)という朝日新聞の記者がいました。うちの両親が大本教系統の宗教団体に入っており、神戸の大水害の時にこの道場に父と一緒に行ったことがありました。父が数人と一緒に道場の周りを見回りに行った時に、突如砂防ダムが決壊して、ドンという音とともに、押し流され、それを私が発見して助けたということがありました。その時に一緒にいたのが久さんでした。きゃしゃな感じの普通の老人で、ばたばたした状況の中で平然と座っていたのが記憶にあります。武術の達人といっても、その風貌を見ただけでは誰もわからないと思います。
同じようなことは太平洋戦争の勇者も、戦後はきわめて平凡で淡々とした生活をしていた人が多いようです。例えば勇猛を誇る駆逐艦艦長の春田均中佐は、戦後、小さな材木屋に勤めながら、もくもくと病弱な妻の介護を37年間も続けたという(最前線指揮官の太平洋戦争 岩崎剛二著 光人社NF文庫)。功を誇るわけでもなく、幼い子供たちを妻に代わって淡々と世話することは、なかなか軍人にはむずかしいことだと思います。
本当に勇敢で、強いひとというのは、案外見た目は平凡なのかもしれませんし、逆に平時で平凡なひとも戦時では余人のまねができないような勇敢な行動がとれるのかもしれません。