2012年11月28日水曜日

台湾映画「言えない秘密」




 誰かが言ったが、面白くない本、映画は途中でやめる。時間の浪費だからと。

 ツタヤのレンタルビデオで毎月4本ビデオを借りていますが、おもしろい映画はめったにありません。いつも期限ぎりぎりで見るため、早送り、あるいは途中でみるのをやめてしまいますが、今回のレンタルは久しぶりにおもしろかった。

 今回は、台湾映画、「父の初七日と「言えない秘密」のふたつを借りました。家内は韓国ものが好きですが、私はどちらかというと台湾映画が好きです。「非情城市」という名作にはまったのがきっかけですが、話題作がなくなると、たいてい台湾映画を借りています。今回の「父の初七日」は台湾のお葬式を描いていて主題自体がおもしろいものだし、台湾の風土が感じられ、まあまあいい映画でした。

 今回、ブログで紹介したいのは、もうひとつの映画、「言えない秘密」、これは是非お勧めの映画で、この手の映画では「ある日どこかで」、「ジェニーの肖像」以下、「時をかける少女」以上の評価です。というとネタばらしになりますが、タイムトラベラーものですが、新機軸でよくできています。
 
 前半は、高校生の淡い恋を描いた青春もので、それはそれで楽しめますが、典型的、古典的な恋愛もので、ここらで、早送り、ストップ体勢となりますが、ピアノの旋律が美しく、まあもう少し見ようかと見ていました。主演の女優のグイ・ルンメイというひとは、私のタイプで、笑顔のきれいなひとです。撮影当時、24歳でやや高校生という設定には無理があるようです。一方、主演男優がもうひとつパットせず、ここらは女性が見るには厳しいかもしれません。それと高校の制服が、何だか、漫画の「花よりダンゴ」ぽくて、しらけてしまいます。

 こういった点を差し引いても、なかなかよくできた映画で、全編に織り込まれたピアノ曲が美しい余韻をひきますし、脚本もよくできていますし、エンディングもうまくいっています。こういった映画があるので、話題作以外もねちこく見る必要があります。ただめったにいい映画には当たらないので、時間の無駄にはなると思いますが。

 ネタばらしになるので、あまり書けませんが、途中で止めないで最後までみてください。50-70歳は医学的には熟年と呼ばれるそうですが、たまには高校生のころに気持ちを思いだすのもいいでしょう。

2012年11月25日日曜日

須藤かく13


 図書館で、「青森県海外移住史」(青森県発行 昭和46年)に須藤かくのことが載っていたので、転写する。おそらく本邦で最初に須藤かくについて記述されたもので、但し書きに「本稿はアメリカで活躍した笹森順造氏の提供によるもので二、三本文と重複する方もあるが、そのまま集録して紹介した」とある。笹森順造はアメリカ留学後に東奥義塾の再興に尽力した人物で、後に青山学院院長、国務大臣となった。須藤かくの叔父、須藤勝五郎とは若党町の実家が近いこと、同じキリスト教徒として須藤かくがアメリカに移った後も交流があったのであろう。須藤かくの父親が早く、東京に行ったことについては、佐藤幸一氏の著書「船将須藤勝五郎の生涯」でも、須藤新吉郎の消息が、明治6、7年以降、記録がぷっつりと無くなることから東京に移住したと推測している。須藤かくが13歳で東京に行ったとなると、明治6年ころとなる。東京女学校が開学したのが、明治5年であることから、確かに当時、東京でも女子の高等教育機関はほとんどなく、男に交じって学んでいた可能性はある。
 その後の記載は、例えばLaura memorial collegeをローラン・メモリアル、Yosokichi Naritaを吉田源五郎、フロリダで医業に従事していた(再渡米後はケルシー女史の故郷のオネイダにいた後、老後をフロリダで過ごした)など間違いもあるが、ほとんどは正しい。


        須藤かく  日本人女医の草分けー

文久2年弘前生まれ、明治維新廃藩置県後に父は青森県庁に出仕したので、かく女史も13歳の時、父に伴われて青森に移ったが、ほどなく家族とともに東京に転居した。
向学心の盛んな女史は学校にはいりたいと思っても東京に女子の学校がなかったので、男装して中学校に入学したが、それがある所で、性別がばれて退校させられた。
それから横浜にあるアメリカのミッションスクールにはいり、ケルシー女宣教師について普通学のほか医学を学んだ。明治24年にケルシー宣教師に伴われ、かく女史はサンフランシスコに上陸し、ニューヨーク州フェアポートで勉強し、次いでフィラデルフィアの電気治療学校に学び、またシンシナティー市のローラン・メモリアル女子医科大学に入り、明治29年優等で卒業、翌年ケルシー宣教師とともに帰朝し、内務省から医術開業免許状を受け横浜で開業5年に及んだ。
明治35年ケルシー宣教師とともに再渡米し、フロリダ州セントクラウド市に居を構え、医業に従事し、後年に姪の夫吉田源五郎と同居し静かに百歳の長寿を楽しみにしている。けだし本県出身の米国移住者の女性先駆者として異色の功労者である。

写真は笹森順造

2012年11月22日木曜日

中国の空母とステルス機


 中国海軍初の空母「遼寧」が就航した。日米軍事専門家の意見では、ほとんど空母として基本的な性能がなく、全く脅威ではないという点で一致している。理由としてはエンジンが一般船舶用のディーゼルエンジンを使っているため、最大速度で19ノットと低速で、これでは航空機の離陸に必要な揚力が得られない。あくまで練習用空母で、仮に何とか航空機の離陸ができても、燃料は多く積めず、また武装もできない。できるだけ軽い状態でないと離陸できないわけだ。

 また最近、2種類のステルス戦闘機の試験飛行にも成功したが、肝心の航空機エンジンの国産化にめどがたっていないし、ステルス性能にも疑問符がついている。さらにこういったステルス型戦闘機は、通常の航空力学と反した構造となっているため、その操作にはコンピューター制御が絶対に必要で、現時点では高い空戦能力を有する技術はない。試験飛行から実用化まではまだまだ時間はかかるであろう。通常、旧ソ連のようにこういった最新兵器は隠蔽するものを、こうも早く公開すること自体が、航空機会社と政府の思惑、こんな性能の兵器を作ってますよ、アメリカには負けませんという強がりのように思える。

 中国軍では、船舶用エンジン、航空機用エンジンがいずれもネックになっている。軍艦の船舶用エンジンは、ダッシュ力が求められるため、燃費は悪いが、ガスタービンのものが使われている。実は、このガスタービンエンジンは用途がほぼ軍艦に限られているので、生産メーカーは英国のロースロイス社とアメリカのGE社にしぼられている。ロシアもガスタービンには強い。これは航空機用エンジンでも全く同じで、GEとロールスロイスが強い。日本でも、自衛隊の軍艦、航空機のエンジンは、ほぼGE、ロールスロイスのエンジンを使っている。そのライセンス製作を通じて、日本のエンジン技術はそこそこ高く、近年は一部の兵器には国産のものが使われている。一方、中国においては、ずっとエンジン開発をロシアのコピーですましてきたので、近年になって中国の軍事力を脅威と感じ、ロシアが技術提供を拒否すると、途端に軍艦、戦闘機の開発が頓挫する。
 太平洋戦争においても、日本は軍艦の蒸気エンジンは何とか、欧米に近い性能のものができたが、結局、最後まで航空機用、戦車用のエンジンは欧米に匹敵するものができなかった。工業力の差である。戦後はその反省に立って、日本は基礎工学のレベルを上げていき、自動車エンジンでは世界最高の性能を達成できた。ただ民需用とは違い軍需用エンジンについては予算も少なく、戦車用エンジンまでは何とかなったが、航空機、船舶用エンジンはそのレベルに達していない。一国の工業力のレベルが反映される。思うに日本が太平洋戦争中に自動式拳銃の開発が遅れた理由のひとつに、ついにスウェーデン鋼使ったバネができなかったことによる。小さな部品、ひとつひとつが重要となる。
 こういった観点からすれば、中国の軍事力は、現時点ではかなり信頼性の低いものと考えられ、空母保有、ステルス機開発でも、これだけマスコミが騒ぐのは、むしろ自衛隊、軍需産業の思惑もからんでいるのであろう。ただ中国の兵器開発は旧ソビエトのやり方を完全に踏襲しており、その発想は西洋諸国のものと違い、人命、安全軽視、経験に基づくもので、航空機用エンジンにしても耐久性はあまり考慮されず、壊れたら取り替えという発想である。以前、宇宙服開発の歴史をテレビでみたが、ソビエトでは宇宙服の気密性を得るのに、ワンピースの服をパイロットに着せ、その端をぐるぐる巻き、ゴムで縛るのである。あまりに原始的な方法に唖然としたが、これで事故は一度もなく、現在の宇宙服もこの方法である。中国の二隻目の空母は、ガスタービンの開発を諦め、一挙に原子力推進エンジンを選択するかもしれないが、そこには安全設計はなかろう。ネジ一本の精度で、壊れる可能性があり、これはこれで非常に怖い。


2012年11月18日日曜日

現代セミナーひろさき —耳で聴く新・弘前人物志—、「兼松石居」


 今日は、弘前中央公民館主催の平成24年度、第3回 現代セミナーひろさき 耳で聴く新・弘前人物志、「兼松石居」で講演を行った。2ヶ月ほど前に依頼を受け、例によって簡単に引き受けたものの、こちらは歯科医が本職で、歴史はあくまで趣味。色々と資料を漁ったが、結局は昭和6年に発刊された森林助著「兼松石居伝」の本以外には、まともなものはなく、話もこれに準拠した。ただこれではあまりに面白くないため、得意の明治二年明治絵図の内容を挟んで、話をすることにした。

 会場には熱心な聴講者、20人程度が集まり、やや緊張したが、無事終了してほっとしている。ただ個人的にはいささか、肩に力が入り過ぎ、内容が難しくなった。反省している。もっと焦点をしぼって話すべきで、講演に用意した60枚程度のスライドの半分以上は飛ばして説明することになった。1時間の講演時間では少なすぎた。どういった聴衆なのかをもう少し検討して、講演内容を検討すべきであった。

以下、講演のレジメを貼っておく。

        兼松石居
  津軽の近代化の礎を築いた教育者
                             広瀬寿秀

 兼松石居は文化7年5月3日に生まれ、明治101212日に亡くなった。西暦でいうと1810年生まれ、1877年に亡くなったことになる。同時代の人物として、藤田東湖(1806年)、佐久間象山(1811年)、緒方洪庵(1810年)、横井小楠(1809年)が挙げられるが、明治維新のハイライトを浴びた人物をいうより、プレ幕末、プレ明治の人物を捉えた方がよい。福沢諭吉が1835年、橋本左内が1834年、吉田松陰が1830年、勝海舟が1823年、西郷隆盛が1828年生まれと考えると、それより一昔前の人物である。兼松石居が昌平坂学問所に入る時の江戸将軍は11代徳川家斉で(1787-1837)、つまり幕末期の15代将軍徳川慶喜(1837-1913)の4代前となり、幕末というより江戸後期と言ってよかろう。さらに幕末期、兼松石居は世子問題で蟄居されていたため、幕末から明治維新の間は完全に沈黙していた。こういった背景を考えて、兼松石居の業績を考える必要がある。
 兼松石居は、若い時は当時の正式な学問、朱子学を学び、昌平坂学問所でも舍長に選ばれるが、尊王思想、陽明学、蘭学などについても興味を示し、柔軟な思考の持ち主であった。さらに藩主とも親しく、そういった考えを積極的に弘前藩の教育方針にする立場であったし、実際に多くの有能な門人を生んだ。
 幕末期、弘前藩には工藤他山(1818-1889)、櫛引錯斎(1820-1879)などの塾があり、次第に稽古館、東奥義塾に収斂していくが、彼らの先輩にあたる人物が石居であり、本多庸一(1849-1912)、珍田捨巳(1857-1929)、菊池九郎(1847-1926)など明治の偉人を生み出した。彼らにとっては、父親の世代にあたり、実際に本多庸一の父、本多東作や珍田捨巳の父珍田有孚とは同僚であり、親しい。学識、人徳とも高く、さらに津軽順承(ゆきつぐ)の世子問題でみせた気概は、同時代のほとんどの弘前藩士からは、一目置かれる存在で、ある意味、弘前藩の教育、知的な分野でのリーダーであった。あの頑固で、変わり者の佐藤弥六でさえ、大変尊敬していたことからもわかる。
 さらに在府の時期が長く、津軽人には珍しく社交的な人物で、多くの藩外の知己がいて、例えば杉田成卿、江川太郎左衛門、佐久間象山、藤田東湖ら、当時の一流の人物と深い交流があった。その関係から、勝海舟、福沢諭吉、山岡鉄舟らとも面識があり、佐々木元俊を杉田塾に、木村繁四郎、釜萢庄左衛門を江川塾、勝塾に、篠崎進を下曽根塾に、吉崎豊作、佐藤弥六を慶応義塾に送った。幕末から明治にかけて、弘前藩では優秀な若者を江戸に留学させているが、慶応義塾への留学者27名、海軍、兵学研究のために留学したもの35名にのぼり、これらのコネクションを作ったのが、石居の人脈であったことは間違いない。
 こういったことを考えると、もし兼松石居がいなければ、思想的にも東奥義塾ができたかどうか疑わしいし、うがって考えれば、幕末期において弘前藩の佐幕派から勤王派に鞍替えはなかった可能性もある。
 今回の講演では、こういった観点から、忘れられた人物、兼松石居の功績について検討してみたい。






2012年11月17日土曜日

郡場寛の祖父、白戸浪江


 現在、「新明治二年弘前絵図」の執筆を進めている。前回の本に比べて文章は約2倍、図も2倍程度となり、評判の悪かった絵図のデジタルデーター(CD)を止め、ポスターサイズの印刷した絵図を付録として載せることにした。原稿はほぼ完成し、印刷所の選定を開始している。

 前の本、「明治二年弘前絵図」は、150部ほどをインターネット、これは私個人宛に注文が来たものと、弘前市の紀伊国屋書店に直接卸して、売った。20部ずつ無くなったら、連絡してもらい、その都度、歩いて紀伊国屋まで行って、納入した。半年ほどでなんとか売り切れたが、弘前以外に住む方々から、どうしてもっと多くの本屋で売らないのか、宣伝もないので、本の存在を知った時点で、売り切れていたという声があった。そこで次回は、どこか出版社に業務委託して売る予定である。部数は少し、増やして、300部ほどを売る予定である。

 それに関して、もう一度、内容を吟味し、新たに見つかったものも付け加えた。例えば、弘前大学学長で、シンガポール植物園を救った郡場寛のことを調べようと考えた。郡場寛の父、白戸直世については函館戦争で負傷し、その後遺症を治すために、八甲田山、八甲田温泉を開拓したことは知られている。弘前藩記事を丹念に調べると、白戸直世、御留守居組、白戸東太郎倅の記述がある。直世の父は本太郎ということになる。明治二年弘前絵図のデーターベースを調べても、そういった名前はない。さらに調べると、手塚群平隊、二等銃隊、本太郎弟、白戸直世の記述がある。兄の名前は白戸本太郎となる。ただこれもデーターベースには載っていない。可能性を色々と探すと、どうも徳田町の白戸浪江という人物が、あやしい。

 半年ほど探していたが、先日、弘前図書館でようやく見つかった。「津軽藩明治一統誌 人名録」(内藤官八郎著)に白戸浪江子、白戸直世との記載があった。白戸浪江とは白戸東太郎のことで、その二男?が白戸直世ということになる。つまり実家は徳田町となる。これは新しい本に追加できる。

 もう一人、佐々木五三郎の父親で、幕末、紙漉町で製紙業を行っていた佐々木新蔵という人物がいる。蘭学者佐々木玄俊の弟となる。安政6年(1859)、弘前藩は製紙業に藩として製造に乗り出す。紙漉座御用掛として用人楠美荘司、勘定奉行、浅利七郎、紙漉座取扱に町人佐々木新蔵を任じる。松木明知著「津軽文化誌 V」では、佐々木新蔵、旧名今井屋俊蔵とある。町医佐々木秀庵の長男は元俊、二男覚玄は僧侶に、三男健三郎は工藤家に養子、そして四男が新蔵となる。当初、四男も町人今井家に養子に行き、そこでは今井屋俊蔵と称していたのであろう。

 そこで佐々木という姓をデータベースで調べると、若党町北側に佐々木俊蔵という名前がある。これが佐々木新蔵かどうかはわからない。万延元年に佐々木新蔵は二人扶持の侍になったが、明治二年に中流藩士の住む若党町に住むことができたかは疑問である。ただ幕末期、二男、三男でも優秀な人材は分家していたので、可能性はゼロでもない。若党町でも開いている家があれば、住まわしたのである。佐々木新蔵の家が若党町にあって、仕事場が紙漉町の紙漉座であって別に問題はない。新しい本に入れるか、微妙なところである。

昔の人は、通名、幼名、字、諱と本当に色々な名前がある上に、維新後に名前を変えるケースも多く、困っている。


2012年11月14日水曜日

須藤かく12



 今週の月曜日に行われた弘前ロータリーでの内部卓話でしゃべったものです。昨年は会長をしていましたので、卓話をしゃべるのは1年ぶりです。



日系アメリカ人最初の女医 須藤かく
                            

 今日は、日系アメリカ人最初の女医、須藤かくについてお話したいと思います。須藤かくと言っても知っているひとは、おそらく一人もいないと思います。というのは、今回発表するまで、全く知られていない人物ですから。
 ちょうど1年前の10月に、ノンフィクションライターの川井龍介という方からメールをいただきました。東奥義塾と深浦高校のあの有名な野球の試合を題材とした「122対0の青春」(講談社文庫)を書かれた方です。アメリカの移民記録を見ていると、1861年に渡米して、1963年にフロリダで亡くなった須藤かくという女医がいて、東奥日報の依頼で調べている。父親の名前はTsuji、母親の名前はYeuriということしかわからないということでした。
 といってもこのような人物について全く聞いたことがないため、わからない、医師関係は弘前大学名誉教授の松木明知先生に聞いてくださいと答えました。ただ個人的に少し興味があったので、私のデータベースで“須藤”を検索しますと、20人の名前がでました。一人一人をインターネットで検索しましたが、佐藤幸一さんの「安済丸船将 須藤勝五郎の生涯」という本の中でほんのちょっとだけ、須藤かくのことが出ていました。早速、弘前図書館に行って、その本を見てみると、須藤かくの日本での履歴がしっかり調べられています。おそらく子孫の方からの情報と思います。というのは、須藤勝五郎は藤崎教会の熱心の教徒ですし、また著者の佐藤幸一さんも、信者さんで藤崎教会の歴史に詳しい方です。すでにお亡くなりになっています。
 それによると、須藤かくは1861年、文久元年生まれで、ちょうど明治維新の時には、6歳で、女性にとっては、教育の狭間期でかわいそうな年回りでした。父親、須藤新吉郎は、優秀な人物で、野辺地戦争、函館戦争に参加し、函館にいるときに近代土木法の知識を得て、維新後も青森県の役人となり、青森市の町づくりに参画します。娘の教育にも熱心なひとで、明治8年に出来たばかりの東奥義塾小学科女子部に娘を入れます。この時、須藤かく14歳、スタートからして遅れています。小さな子供に混じって洋学の初歩を学び、明治9年には横浜共立女学校に入学します。共立女学校は、明治4年にできたプロテスタン系の女子校では日本最古の学校で、宣教師バラが関係している学校ですので、本多庸一の協力があったのでしょう。ここでの生活は、弘前の生活とは正反対のもので、教師は外人、生活の寄宿舎に入って学ぶというものです。当初は、英語を学ぶ目的で入ったのですが、先生や先輩の姿をみて、次第にキリスト教に惹かれるようになります。明治14年ころに卒業しますが、すぐに横浜海岸教会で受洗します。その後、教会活動をしていますが、ちょうど、その時に中国からやってきたアメリカ人宣教医、アデリン・ケルシーという女医と知り合います。彼女自身、中国の医療活動を通じて、母国語がわかる医師を育てなくてはいけないと考えていましたので、優秀で熱心な須藤かくと阿部はなという日本人をアメリカの医学校に行かせようということになりました。
 1891年に渡米し、しばらくアメリカの文化と言葉を学び、1893年にオハイオ州、シンシナティーのシンシナティー女子医大に入学し、1896年に優秀な成績で卒業します。地元の新聞でも大きく取り上げられました。学費に2500ドルかかるため、20州以上の各地の長老教会で日本文化の講演をして寄付を募り、学費を工面しました。さらにケルシー女史が日本でもらった美術品も売ったりしました。1898年、再びケルシー女史と須藤かく、阿部はなは日本に来て、横浜にできた横浜婦人慈善病院で貧しい人々の治療を行います。非常に積極的な活動をしましたが、日本人院長との対立、アメリカWUMからの援助の削減から、失意のまま1902年にケルシー女史の故郷、ニューヨーク州、カムデンの農地に帰ります。そして須藤かくの妹の家、成田八十吉一家も渡米し、農業経営を手伝ってもらいます。
 1911年には長年の親友、阿部はなが結核にため、48歳の若さで亡くなります。おそらく横浜で感染したようで、渡米後はずっと療養していました。カムデンでの生活はケルシー女史、須藤かく、成田一家による静かで、信仰深いものでした。1930年ころ、高齢のケルシー女史のために、カムデンから暖かいフロリダのSt.Cloudに転居します。そして、1963年に亡くなるまで、ここにいました。
 30歳で渡米し、医学校卒業が35歳。明治期の感覚からすれば、今の40歳以上の女のひとが、弘前からはるばるアメリカに医学を学びにいく、こういったパイオニア精神は、すごいものだと思います。死後50年以上経って、こういった人物が発見できたことは、供養になったかと思っています。


2012年11月5日月曜日

掛け軸の楽しみ


 先日、ヤフーオークションで近藤翠石の「雪の山水」を落札しました。落札価格は5250円でしたが、開始価格が1000円でしたので、ちょっと失敗かなあとも思ったりしました。これで、近藤翠石の作品は3点になりました。普段使いの掛け軸はこれくらいがちょうどいい気がします。あまり高価なものですと保存に気を使います。

 近藤翠石は明治3年生まれで、昭和25年に亡くなっています(1870-1950)。この作品は丁巳の年の作品ですから、1917年となり、翠石、47歳の時のものとなります。近藤翠石は香川県の出身で、大阪の南画家、森琴石の門下となります。昭和初期、関西においては中堅の画家だったのでしょう。

 作品自体は、あまり個性はなく、普通の南画ですが、ささっと描ける上手な画家です。この作品も冬の状況をうまく描いたもので、今の画家では、こういった描写はできないでしょう。昔の画家は、とくに掛け軸のサイズの構図は上手でしたが、最近の日本画家は洋式の横長の構図は得意ですが、縦長の構図はへたです。

 大正、昭和においては、おそらくそこそこの金持ちが購入した絵だと思いますし、値段も今でいうと2、3十万円はしたでしょう。小室翆雲や野口小蘋のような有名画家の作品は、当時それこそ数百万円したでしょう。ヤフーオークションでも時折、これらの作品が出品されますが、贋作くさいものが多いように思えます。当然、高価なものはだまそうとする人が現れ、贋作も作られます。一方、近藤翠石のような中堅な画家の贋作をするようなひとはいません。そのため、これまで買った3つの作品は完全に真筆です。落款も一致します。

 あまり絵には詳しくありませんので、他の中堅作家については、よくわかりませんが、近藤翠石だけは少し詳しくなりました。こういった作品は、一般の骨董屋では、作家の名前が知られていないため、なかなか売れませんし、そうかといって数万円をかけて表装しなおす気にはならないと思います。おそらくは、遺族からただ同然で入荷したものの、売る手だてがなく、オークションに流れているのでしょう。

 現在、日本書画の骨董は、人気がなく、不当に安い価格となっています。床の間がない家が増えたことにもよるでしょう。陶器はまだ茶道があり、趣味として集めるひとも多いのですが、書画については、古くさいイメージが先行し、価格が一部の有名画家を除いて安くなっています。野口小蘋という女流画家について述べると、大正期小蘋の掛け軸の価格は1000円以上し、同じ女流画家上村松園が500円くらいですから、それよりかなり高く、物価を考えると、現在の価値で200万円以上でしょう。それが今では真筆でも数十万円以下、作品によってはオークションでかなり安く買えるでしょう。

 以前、弘前に来ていただいたシンシナティー美術館のアメリカの方に何かお土産をと、色々と考えましたが、結局、下澤木鉢郎の版画を贈ることにしました。小さな白黒の作品ですが、津軽の冬をよく表現した作品です。フレームは邪魔になるので、版画のみをファイルに入れて贈りました。非常に喜んでもらい、美術館で展示するとまで言ってくれましたが、1万円もしないもので、恐縮しています。

 こういったことを考えると、近藤翠石のような、昔の上手の画家の作品を、外国人のお土産にするのもいいアイデアかと思います。コンデションのよい、花鳥画などきれいな作品でしたら、喜ばれるのではないでしょうか。また箱入りですと、持ち運びがかさばりますが、巻物そのものをプレゼント紙に包めば、スーツケースの底にでも放り込めば、スペースをとりません。もっと言うなら、1万円以内でオークションで落とした掛け軸を、外国人の多い京都や東京で、2,3万円くらいで売れば、そこそこ売れるような気がします。

2012年11月1日木曜日

小山内薫



 日系アメリカ人を見ると、一世は英語より日本語、生活習慣もすべて日本人であるが、二世になると親の日本語はわかるが、生活習慣はアメリカ人に近くなり、そして三世となると日本語より英語、顔かたちは日本人だが、アメリカ人といってもよかろう。同様に弘前出身者といっても、県外に出て3代目になると、津軽弁はわからず、必ずしも弘前出身者とは言えない。

 この伝によれば、日本近代演劇の父、小山内薫は、父小山内建の代に弘前を離れることになったため、二代目で、かろうじて弘前出身者といってよかろう。小山内薫の父、建(元洋)(1846-1886)は、弘化3年に弘前藩士で書家の小山内暉山(寛蔵)(1810-1894)の二男として弘前で生まれた。兄小山内梓(1832-1902)とは16歳違いの弟で、幼少より勉学に熱心で、家庭内不和によるのか、蘭学者の佐々木元俊宅に寄宿し、その後、上京し、杉田玄端のところで蘭方医学を学ぶ。戊辰戦争、函館戦争では負傷者の治療にあたり、維新後は大学東門(東京大学医学部)でさらに外科学と眼科学を学び、その後は明治十年の西南戦争では旅団医長として従軍した。明治12年には広島陸軍病院、18年には東京陸軍病院の治療課長になる直前、惜しまれつつ、明治18年2月に38歳の若さで亡くなる。以上、弘前大学名誉教授松木明知先生の「青森県の医史」から大筋、引用した。

 小山内梓の家は、明治二年絵図より蔵主町にその名があり、父暉山も書の大家として有名で、いくら二男とはいえ、通常医者になることはなかった。当時は今と違い、医師は武士よりは一段低い存在であり、医師の娘が士族に嫁ぐことはあったが、士族の子弟が医師になることは少ない。医師の家は代々その家業を子が継いだ。まして小山内家は名家であり、兄の小山内梓は、側役、郡奉行、勘定奉行を兼ね、幕末期に非常に活躍した人物である。それなりに地位と学識のあった人物で、儒学者、兼松石居とは親しく、後に上京して兼松石居と一緒に津軽家の系譜を校訂した。

 こういった人物の弟で、優秀であれば、そこそこの養子先もあったろうし、わざわざ佐々木元俊の宅に寄宿することもなかったろう。おそらく松木先生も推測するように何らかのお家の事情があったと推測される。小山内薫があれほど有名になっても、その父、建までは語られるが、その祖父については、松木先生の研究まではっきりとされていなかったのは、こういった事情もあろう。ただ小山内建が上京し、学んだ杉田玄端は、有名は「解体新書」で有名な杉田玄白の曾孫にあたり、その父ともども、兼松石居とは親しく、師の佐々木元俊だけでなく、その係累も留学に関係したのであろう。

 ここにきて、昨日、AMAZONから取り寄せた「小山内薫 近代演劇を拓く」(小山内富子著、慶応義塾大学出版会、2005)が届いた。それを見ると、小山内梓の戸籍には小山内元洋の名はなく、陸軍への履歴報告では、小山内建の父は、小山内建成(1818-?) 文政元年5月13日生まれ、母は中村直隆長女、伊佐(1831-?)、天保3年生まれとなっている。小山内富子さんは小山内薫の二男宏の妻で、親類となる。小山内家に伝わる書類を元にしてこういった結論に達しているので、間違いはないと思う。つまり小山内暉山の子供ではなく、梓の兄弟でもない。私の考えでは、小山内暉山の弟が、建成で、その子が何らかの事情、建成の早世で兄の家で育てられたのであろう。建の産所が弘前市笹森町となっており、小山内梓の家、おそらくは暉山の家で生まれたことも、それと関係している。 それであれば、小山内元洋にとって、小山内暉山は叔父、その妻園子は叔母にあたり、実子の二男七女の間で、肩身が狭く、蘭学、医者を志したのもうなずける。

 母方、中村直隆について調べたが、明治二年絵図では中村姓は11件あり、それに近い中村直吉という名が田茂木町にある。「弘前藩記事三」より息子の名は、直太郎で、函館戦争では桔梗野で重傷を負っている。明治後に名前を変えることが多く、ここから先の追跡は難しい。
 
 弘前は全国的にみても、演劇の盛んなところであり、弘前劇場(実際には浪岡など多くの劇団があるが、そのルーツ、近代演劇の父、小山内薫が弘前出身であったことはもっと知られてよい事実である。