日系アメリカ人を見ると、一世は英語より日本語、生活習慣もすべて日本人であるが、二世になると親の日本語はわかるが、生活習慣はアメリカ人に近くなり、そして三世となると日本語より英語、顔かたちは日本人だが、アメリカ人といってもよかろう。同様に弘前出身者といっても、県外に出て3代目になると、津軽弁はわからず、必ずしも弘前出身者とは言えない。
この伝によれば、日本近代演劇の父、小山内薫は、父小山内建の代に弘前を離れることになったため、二代目で、かろうじて弘前出身者といってよかろう。小山内薫の父、建(元洋)(1846-1886)は、弘化3年に弘前藩士で書家の小山内暉山(寛蔵)(1810-1894)の二男として弘前で生まれた。兄小山内梓(1832-1902)とは16歳違いの弟で、幼少より勉学に熱心で、家庭内不和によるのか、蘭学者の佐々木元俊宅に寄宿し、その後、上京し、杉田玄端のところで蘭方医学を学ぶ。戊辰戦争、函館戦争では負傷者の治療にあたり、維新後は大学東門(東京大学医学部)でさらに外科学と眼科学を学び、その後は明治十年の西南戦争では旅団医長として従軍した。明治12年には広島陸軍病院、18年には東京陸軍病院の治療課長になる直前、惜しまれつつ、明治18年2月に38歳の若さで亡くなる。以上、弘前大学名誉教授松木明知先生の「青森県の医史」から大筋、引用した。
小山内梓の家は、明治二年絵図より蔵主町にその名があり、父暉山も書の大家として有名で、いくら二男とはいえ、通常医者になることはなかった。当時は今と違い、医師は武士よりは一段低い存在であり、医師の娘が士族に嫁ぐことはあったが、士族の子弟が医師になることは少ない。医師の家は代々その家業を子が継いだ。まして小山内家は名家であり、兄の小山内梓は、側役、郡奉行、勘定奉行を兼ね、幕末期に非常に活躍した人物である。それなりに地位と学識のあった人物で、儒学者、兼松石居とは親しく、後に上京して兼松石居と一緒に津軽家の系譜を校訂した。
こういった人物の弟で、優秀であれば、そこそこの養子先もあったろうし、わざわざ佐々木元俊の宅に寄宿することもなかったろう。おそらく松木先生も推測するように何らかのお家の事情があったと推測される。小山内薫があれほど有名になっても、その父、建までは語られるが、その祖父については、松木先生の研究まではっきりとされていなかったのは、こういった事情もあろう。ただ小山内建が上京し、学んだ杉田玄端は、有名は「解体新書」で有名な杉田玄白の曾孫にあたり、その父ともども、兼松石居とは親しく、師の佐々木元俊だけでなく、その係累も留学に関係したのであろう。
ここにきて、昨日、AMAZONから取り寄せた「小山内薫 近代演劇を拓く」(小山内富子著、慶応義塾大学出版会、2005)が届いた。それを見ると、小山内梓の戸籍には小山内元洋の名はなく、陸軍への履歴報告では、小山内建の父は、小山内建成(1818-?) 文政元年5月13日生まれ、母は中村直隆長女、伊佐(1831-?)、天保3年生まれとなっている。小山内富子さんは小山内薫の二男宏の妻で、親類となる。小山内家に伝わる書類を元にしてこういった結論に達しているので、間違いはないと思う。つまり小山内暉山の子供ではなく、梓の兄弟でもない。私の考えでは、小山内暉山の弟が、建成で、その子が何らかの事情、建成の早世で兄の家で育てられたのであろう。建の産所が弘前市笹森町となっており、小山内梓の家、おそらくは暉山の家で生まれたことも、それと関係している。 それであれば、小山内元洋にとって、小山内暉山は叔父、その妻園子は叔母にあたり、実子の二男七女の間で、肩身が狭く、蘭学、医者を志したのもうなずける。
母方、中村直隆について調べたが、明治二年絵図では中村姓は11件あり、それに近い中村直吉という名が田茂木町にある。「弘前藩記事三」より息子の名は、直太郎で、函館戦争では桔梗野で重傷を負っている。明治後に名前を変えることが多く、ここから先の追跡は難しい。
弘前は全国的にみても、演劇の盛んなところであり、弘前劇場(実際には浪岡など多くの劇団があるが、そのルーツ、近代演劇の父、小山内薫が弘前出身であったことはもっと知られてよい事実である。
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