2015年6月30日火曜日

わらぢ校長 池田健三 3

 池田先生は、終戦前後には、学校を視察して、問題を挙げる県視学官に押されるも、すぐに辞め、戦後は再び、田代国民学校に戻り、その後、昭和37年に退職するまで、岩屋小、野牛小、川内第一小などの僻地勤務を続けた。さらに退職後も、奥さんが石倉分校の主任をしていたので、そこに自宅を建て、解放して塾をしていた。

 原子昭三先生が、ラドン温泉に入院していた池田先生にしたインタビューが残っている。「先生が戦時中やられた教育をどうのうに思っていますか」、「お互いに悩んできたと思いますが、戦いに勝っても、負けても、師の道に変わりはないと確信しておりましたから、終戦直後県内の郡視学が集まったとき、みんなをこう励ました。“いくさに負けたんだから、教師はこんどこそ教壇で死ぬ覚悟でやらなくちゃいけないよ。前よりも、もっと強い覚悟でやろうじゃないか”」、「先生はいまの教育界に対して一番訴えたいのはどんなことですか」、「それは私の平常からのものの考え方なんだが、“生活(くらし)は低く、理想は高く”ということです」

 池田先生の自由な時間は、日曜日の午後だけで、その時間だけは好きな吉田松陰の研究をし、カントの哲学書を読み、ベートーベンを聞いていたという。それ以外の時間はすべて生徒に捧げた。また金への執着は全くなく、

 「わらぢ校長」という本は、昭和17年に2円という定価で、3000部発行された。結構多い部数であり、戦時下の理想的な教師像をして、全国的に知らされた。当時においても、こうした教師は極めて稀な存在であり、おそらく驚きの目で見られたであろうし、模範にもなったのであろう。それでも池田先生の日常生活は変わらず、退職するまで、管理職とはならず、常に教師として生徒に接してきた。若いときの一時の熱病で、こうした理想的な教師像に憧れることもあろうが、結婚し、子供もできるようになると、次第に楽な生活、安易な流れに従うようになり、理想は薄れていくものだ。ところが、池田先生においては、その精神規範は全くぶれずに、一生を全うした。これがなかなかできないことである。現在でも、テレビに教育評論家、あるいは本が売れると舞い上がり、講演会を開く教師がいるが、こうした生き方とは無縁である。

 昭和17年当時でも、池田先生の生き方は稀有のものであり、今の時代にこうした生き方を求めることはできない。それでも、京都帝国大学を卒業したほとんどの同窓は、後に大学の教授など高い地位についたことを思うと、名を求まない精神的なバックボーンは何かと考えざるを得ない。以前のブログでも紹介した拓殖大学の佐藤慎一郎先生にも通じるもので、津軽独特の何かがあるようにも思える。結局は、池田先生は子どもに教えるのが何より好きで、僻地の少人数の教育こそ、ある意味、自分の好きな授業ができ、それが楽しかったのだろう。好きなことをするためには、地位も名誉もいらないということか。


2015年6月26日金曜日

わらぢ校長 池田健三 2


 当時、青森県では農村地方の国民学校の教師が不足していた。教員の数も少なかったが、僻地勤務を避ける教員が多く、無理矢理勤務した教員もまともな授業はせず、児童に自習ばかりさせている始末であった。こういった状況を聞くと、池田は俄然と「そうだ。 私はやはり国民学校の先生になろう。児童の教育こそは寸時もゆるがせにしてはならないのだ」、「人の好まぬところ、人に望まぬ学校へ行くことは、教育者の本懐である」と、知人の市立高女校長の柿崎守忠を訪ねて斡旋を依頼し、赴任が決まったのが下北郡田代の国民学校である。

 田代とは青森県下北郡東通村田代のことで、今では東通原発があり、青森県でも最も財政的に豊かなところであり、すばらしく整備された国道があり、三沢、八戸などのアクセスもよいが、池田が赴任した頃は、田名部からは距離的に近いものの、徒歩以外に入る手段がなく、6時間かかる。この田代部落は戸数30戸で、無医村、さらに電灯もなく、ランプを使っていた。ここにある田代国民学校は二教室しかない掘建て小屋で、校長といっても、先生は一人、ここに一年から高等科の児童53人、そして幼稚園、男女青年学校、村の書記、さらに医者代わりをした。

 校舎は二つの教室があり、ひとつは三間に四間ほどで、ここでは1、2年生と5、6年生、高等科の児童、もう一つはさらに小さく、3、4年生が入る四坪ほどの教室があった。職員室は軒下にある二坪くらいのもので、さらに先生夫妻の寝起きする六畳間と台所、風呂場があるだけで、校庭もない。学校の前の道路が校庭がわりで、生徒たちはそこで体操などをした。弘前高校の同級生の松木明医学博士が視察で訪れた時の感想に「私はあの建物を見た時、学校の附属物ではないかと思いました。これは物置か何かであって、校舎は別にあるのだろうと思ったくらいです。しかしそれが田代国民学校だと聞いて、唖然たらざるを得ませんでした。私は県下の国民学校は一通り見ていますが、あんな貧弱な学校は、おそらく二つとありますまい」、「教室は勿論のこと、私たちが談笑している台所の、炉辺にまで雨の雫が落ちるのです。けれども池田君は少しも意に介する様子はありません。奥さんも同様です。雨漏りなどは苦にならないといって、平気で話しつづけるのです。ご承知の通り田代では、まだランプを使っていますが、石油の切れた時はローソク、それもなければ燈火なしで過ごすのだそうです。しかも不足らしいことは一言も、漏らさないのには全く尼が下がりました」と言っている。

 こうした校舎のこと以上に田代国民学校の問題は、児童の学力が低く、六年生になっても足し算ができないのである。その理由は、これまで赴任してきた教師のやる気のなさもあるが、家庭の理解がなく、欠席児童が多いと2/3に及ぶことがあった。これはいかんと「無届欠席厳禁」として学校の再建に乗り出し、児童の家を一軒一軒、雪の中、素足に草履で訪ねて行き、親に「国民学校は義務教育です。少しぐらいのことでは欠席させるのはよろしくありません。一生のうちで子供の時代が一番大切なのです。」と熱心に説き、これには村人も驚いて欠席児童はなくなった。さらに児童らの家庭も貧しく、昼飯は大方握り飯ももってくるだけだった。これでは栄養にならないと、日本女子大出の奥さんが、肉や魚などを使ったおかずを自費で作り、それを生徒に与えていた。給料の多くをこれに費やした。

 こういった僻地のため、子供たちも風呂に入る習慣がなく、これでは学校衛生の見地からは捨てておけないと始めたのが、生徒を自宅の風呂にいれるのである。「垢といっても町の子供のようなものじゃありませんからね。二分も三分も厚くたまってついていて、なかなか落ちないですよ」。自分で水を汲み、薪でで焚いてから、生徒の体を洗うのである。

 さらに生徒をなぐる時は、池田はまず自分の頭をなぐるのである。「先生のいいつけを守らないお前は悪い。けれどもお前がいいつけを守るようにすることが出来ない先生も悪いのだ」、普段家庭で、父兄にいつもやられている農家の子供たちだから、鉄拳の体罰くらいびくともしないが、池田さんのこの真剣な態度には、さすがに肝をつぶし、驚く。そして二度と同じ過ちを繰り返さない。
「脇野沢にいた頃でした。ある日、主人が私に向かって突然、僕の頭を見てごらんというのです。不思議に思いながらよく見ますと、頭一面に瘤だらけなんですの。びっくりしてその訳を尋ねましたら、今日は掃除当番の者が十五人、みんないけないことをしたので鉄拳の罰を加えたのさ。おかげで僕もこんなひどい目に遭ったよといって、苦笑していましたの。そのうち一箇所なんか、よほどひどく打ったとみえて傷になり、しばらく毛が生えませんでしたよ」


 母親や妻が病気でも、絶対に欠勤することはなく、母親が亡くなっても、葬式を行う間際まで教壇に立っていたというほど、すべての生活を児童の教育に捧げた。

2015年6月25日木曜日

わらぢ校長 池田健三 1



 津軽には強烈な個性の人物がいる。ここで紹介する青森県下北地区の僻地教育に一生を捧げた池田健三(明治35-昭和61年、1902-1986)も、その一人で、「自分は田代(赴任地、下北郡)の教育に命を賭している」という“狂”とも呼べる生涯は、常人では考えられない。

 その生涯については、「わらじ校長」(松田武四郎、昭和17年、牧書房、昭和52年再出版)、「津軽奇人伝」(原子昭三、青森県教育振興会、昭和59年)、「青森20世紀の群像」(東奥日報社、平成12年)に記載されているので、その一部と追加情報を何回かに分けて紹介する。

 明治35年、青森市の大きな雑貨屋で生まれたが、父の死とともに、家は傾いた。旧制青森中学校を卒業後は、上級学校に進みたかったが、学費のかからない青森師範学校二部に進んだ(大正7年、1918)。この二部というのは中学校を卒業した生徒を集めたもので、ちょうど第一次世界大戦が終了して、経済界、上級学校(高校)に進むものが多く、池田のクラスはわずか8名であった。青森中学校在学時は平凡な生徒であったが、家が貧しく、早熟な内面的な葛藤を宗教に求めたのか、この頃からキリスト教会に通うようになり、信徒となった。

 「実地明細絵図から読み解く明治の青森」(安田道、青森県立郷土館研究紀要、2009)では、明治25年発行の「青森実地明細絵図」に載る主立った商家についての説明があり、米町に和洋小間物紙書籍洋酒卸商、池田吉助の名がある。山マークに千の屋号で、殺生釘付鬼瓦を有する大きな商家である。おそらく、ここが池田健三の実家であろう。資産家であり、明治30年代の本には商家名は記載されているが、「青森商業会議所年報、明治43年中」の納税者リストに、この名は記載されておらず、その原因を明治43年の青森大火によるものと思われる。この大火では市内安方町から出火し、池田吉助の店のあった米町もすべての家が焼け落ちた。現在の青森市橋本一丁目の渡辺病院付近である。全財産をすべて灰燼にきしたため、池田吉助はその後、立ち直れず、失意のうちに亡くなったのかもしれない。

 資産家の家に不自由なく育った池田健三は、突如の貧困にめげず、何とか中学校、そして青森師範学校第二部を大正9年に卒業し、19歳で三戸郡上名久井小学校に赴任した。しかし上級学校への進学やみがたく、ちょうど弘前に高等学校ができるのを知ると、翌年、旧制弘前高校を受験した。そして合格し、弘前高校の一期生となった。貧しさは続き、弘前市の親類に寄寓して学校に通ったが、革靴が買えず、藁靴で通学し、服装も質素なもので、その一風変わった風采は同級生でも有名であった。夏期休暇中も北海道で労働に出かけ、学費を稼いだ。

 「京都帝国大学一覧 大正15年至昭和2年」には大正14年、文学部哲学科入学者の中に池田健三の名がある。他に青森県出身者には大屋静一、斎藤勝次郎がいる。当時の京都帝国大学哲学科には西田幾多郎がいて、彼を憧れる学生が多く、志望者も多かった。さらに「京都帝国大学一覧 昭和4年」には昭和3年3月卒業者として、宗教学専攻として、片山正直(愛媛、後、関西学院大学文学部長)、竹村菊太郎(奈良、天理中学校校長)、篠田一人(山口、同志社大学人文科学研究所教授)とともに池田の名がある。当時の京都大学文学部宗教学教授は波多野精一教授で、西田幾多郎と並ぶ京都学派の立役者である。池田が在学していた当時の京都大学哲学科は京都学派の最盛期で、哲学科教授に西田幾多太郎、その後任の田辺元教授、倫理学には和辻哲郎助教授など蒼々たるメンバーがいた。日本哲学の黄金期であり、京都大学はそのメッカであった。

 大学に入っても、物質的には不遇で、他の学生のように学問一途の生活は許されず、三井寺の無住の釈迦堂に籠もり、味噌と粥ばかりで過ごし、時々は郷里に帰り、代用教員などをして学費を稼いだ。釈迦堂から学校のある吉田山まで毎日2時間かけて歩いた。1年生の時に卒業試験を受けて全科目及第するという好成績を得ながら、卒業まで5、6年かかったというが、上記に記すように4年で卒業している。卒業後は、倫理学の大学院に進んだとあるが、大学一覧にはその名はなく、西田天香氏の一燈園での活動に熱中したようで、畑の小屋に合宿して、浮浪者や刑余者を養うために、京都市中からゴミを集め、そこから紙くず、ぼろ布などを選んで金に替え、活動資金とした。ここでの教え、下座行が彼の人生を決めた。

 その後、郷里に帰り、望まれて母校の青森中学で教鞭をとることになったが、「中学は月給が多くて、仕事が楽すぎる」という理由で、半年で辞めてしまい、突然、缶詰工場の日雇夫や土工をした。「物欲を絶って精神に生きる」と、こうした生活を3年間続けた。昭和10年ころの話で、汚れた労働服を来て、毎朝裏長屋を出て行く後ろ姿に「それ変わり者が行く。変人が通る」と近所の住民から囃された。それでも本はよく読み、青森図書館の蔵書は、この時期、ほとんど読んでしまい、また休みで時間があると友人宅に出かけ、掃除や雪片付けをした。工場で魚介類が余ると日雇夫に与えるのだが、「働いた分に対する報酬は受けているのだから、それ以外は不労所得である」と絶対にもらわなかったという。


 池田は後年、視察で旅館に泊まる際にも、必ず旅館の便所掃除をした。池田は、裕福な家庭から貧困の極みを経験し、その後、高校、大学で宗教学を極めようとしたが、その先にあったのは下座行であり、欲を捨て、ただ生徒の教育に命を賭ける、こういった強い信条が早い時期に形成された。貧乏に苦しめられ末、最高学府で学んだ者、常人であれば、出世して名誉、金銭を求めようとするが、池田はその長い精神葛藤の末、欲を絶ち、すべてを捨てて、誰も行かない僻地の子供たちの教育に、一兵卒として生涯をかけることになる。

2015年6月19日金曜日

アメリカに留学した明治の女医 相澤操


 以前のブログ(明治期の女医 外国医学校組 2015.5.27)で、医術開業試験を受けずに外国医学校卒業で医師になった女性について書いた。明治期、女性が医者になるには、済生学舎のような私立の予備校に通い、医術開業試験を受けるか、外国の医学校を卒業すれば、自動的に医師となることができた。男性の場合は、医学校を卒業すれば、医師になれただけに、女性で医師になるのは難しかった。特に外国の医学校、主としてアメリカの医学校を卒業するには、費用がかかるだけでなく、語学が堪能でなければ厳しい。日本の教育機関で語学を十分に修得してから、留学することになる。

 そうした外国医学校組の女医の一人に相澤操(みさお、ミサヲ)がいる。明治18523日、岩手県胆沢郡金ヶ崎町の牧師の娘として生まれ、尚絅女学校(仙台、一期生?)、明治38年に同志社女学校普通部を、翌年39年に高等学部を卒業した。明治37年に京都を旅行中のアメリカの富豪の息子が腸チフスに感染した。その時の日本で受けた医療、看護に感激して、看護学志望の日本人をアメリカに派遣して、勉強してもらうことになった。それにより園部まきが派遣され、優秀な成績であったことから、今度は医学志望の女性二人をアメリカに留学させることになり、そこで選ばれたのが、相澤操と中川モトであった。二人は明治398月の渡米し、9月にペンシルベニア女子医大に入学した。アメリカでも女子医大の設立は1850年ころから始まったばかりで、ペンシルベニア女子医大はその嚆矢でもあった。明治43年に卒業し、同年6 月には帰国して、医籍登録して同志社博愛病院に勤務した。

 相澤操は明治44年に東京千駄ヶ谷で開業したが、同年結婚し、姓が曽根に変わった。夫は牧師であり、その勤務の関係で、大正3年には青森県八戸、その後、福岡県に移り住み、大正9年には日赤福岡支部巡回診療班医師として僻地医療に従事した。昭和16年に夫が脳出血で倒れたので、久留米市で開業し、昭和4456日に84歳で他界した。熱心なキリスト教徒で、愛と奉仕の精神で医療にあたり、住民からは慕われた(福嶋正和、「岩手県金ヶ崎町(城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存地区)より輩出せる明治女医2名」、第110回日本医史学総会)。

「明治女医の基礎資料」(三﨑裕子、日本医史学雑誌、 2008)では、昭和5年は久留米市開業、昭和12年は東京府とあるが、同志社女学校学友会同窓会名簿では昭和3年、日本医籍録(昭和9年)には住所:久留米市荘島町となっているが、特に病院名はなく、夫が久留米で勤務しながら、巡回診療班で従事していたのであろう。
昭和7年の久留米市誌では、久留米聖公会(明治35年発足)が荘島町(現:庄島町)53-2、久留米伝道教会(大正9年)が荘島町114にあった。相澤操が卒業した尚絅女学校は北部バブテスト派、同志社は会衆派であり、夫は牧師とあるが、これらの教会にいたのかは、はっきりしていない。

 久留米大学医学部名誉教授、重森先生の調査によれば、昭和8年に設立された私立の夜間学校、皇道館の三代目校長に曽根三次という人物がいて、アメリカ帰りのクリスチャンで皇道精神旺盛で熱心に生徒に教育したようである。この人物が操の夫なのだろうか。もしそうなら、クリスチャンでありながら、皇道派であるという、かなり複雑な人物だったのであろう。
 上の写真は、ペンシルベニア女子医大在学当時の相澤操、下の写真は中川もとである。