2023年7月27日木曜日

弘前人気

 



弘前市出身の王林さんがテレビで活躍し、そのせいもありバラエティー番組などで弘前市が取り上げられることも多い。最近も、弘前市を舞台にした2本の映画が立て続けに制作された。

 

一つは、91日から公開される『バカ塗りの娘』で、津軽塗りの職人になる若い女性を描いた作品で、監督は黒沢清門下の鶴岡慧子さんで、原作は高森美由紀さんの『ジャパン/ディグニティ』、ディグニティーとは威厳、尊厳、品位の意味である。高森さんは八戸出身で、それほど津軽塗りとは関係がなく、かなり取材をしてこの本を執筆したのだろう。この映画は全編、弘前市でロケしたようで、おそらく映画にも見知った場所が出てくるだろう。もう一つは熊切和嘉監督、菊地凛子主演の『658km,洋子の旅』で、弘前に住む父親の危篤の知らせを受けて不仲であった娘がヒッチハイクで弘前に旅する映画である。上海国際映画祭で、」最優秀作品賞、最優秀女優賞、最優秀脚本賞を受賞した。熊切監督は北海道の帯広市出身で、今朝の東奥日報でも、弘前ロケでは、最後のシーンで奇跡的なタイミングで雪が降ったことや、重要なシーンで弘南電鉄の信号機がうまいタイミングで鳴り出す、など幸運なことが重なったと熊切監督はインタビューに答えている。

 

アニメでは、弘前市出身の石塚千尋さんの『ふらいんぐうぃっち』は弘前を舞台で、2012年から別冊マガジンで、2016年にはアニメ化した。現在12巻、今年の6月にも最新刊が発行され、アマゾン評価も1093人から4.9の高い評価を得ている。アニメの聖地巡礼で弘前に来るファンも多い。また羅川真里茂さんは八戸市出身だが、津軽三味線奏者が主人公の『ましろのおと』を書いて人気がある。また青森県出身で弘前大学の学生、新桃限さんは『爺さんばあさん若返る』を書いている。題名の通り、津軽に住むじいさんとばあさんが突如、若返る物語で、すでに百万部を売れた。こうした津軽、弘前を舞台にした漫画、アニメも多い。

 

お笑いの分野は、津軽人は弱いと思っていたが、2014年にキングオブコントで優勝したシソンヌじろうも最近はよくテレビに出るし、青森では“青天の霹靂”のコマーシャルポスターが町中に貼られている。また2023年のG-1グランプリで優勝したお笑いコンビ、モダンタイムズも二人とも弘前市出身である。また女優さんでは、仮面ライダーシリーズで活躍している浅倉唯さんや、これはお隣の平川市出身の駒井蓮さんはテレビ、映画でよく出ている。

 

ロックではGLAYのギタリストのHISASHIさんは弘前市出身だし、最近は世界的にも人気のある人間椅子の和嶋慎治と鈴木研一は弘前市出身で、和嶋のチョンマゲ姿は街でよく見る。YouTubeでの視聴も1300万回を超えている。

 

また最近発表された、レストランガイド、ゴ・エ・ミヨは、フランスではミシュランに匹敵し、より味の評価が厳しいガイドブックである。今年度のゴエミエはミシュランと違い、地方での名店も評価されている。青森県からは3トックに弘前市のイタリア料理店、オステリア・エノテカ・サスィーノが選ばれ、2トックには青森市のKashu(創作料理)、アルチェントク(イタリア料理)、八戸市のカーサ・デル・チーボ(イタリア料理)が選ばれている。ゴエミヨの掲載店は501店舗で、最高の5トックは全て東京のお店で、4トックは42軒で、5あるいは4トックは、ほぼミシュランの3か2星なので、3トックはミシュランの1星くらいに相当する。近くの虹のマートの中にできたラーメン屋、麺屋コルトンもサッシーノの笹森シェフが監修?しているお店で、手頃に行ける。

 

アーティストでは、現代絵画では世界的に人気のある奈良美智は、文京小学校、弘前三中、弘前高校と純潔の弘前人である。またアウトサイダーアーティストのGOMAさんも弘前市出身で、地元では引っ張りだこで、多くの作品が弘前の至る所にある。その独特の画風は、一種の個性とみなせ、アウトサイダーという枠組みを外しても、素晴らしい。ただ奈良さんもGOMAも、その作品には青森、あるいは津軽らしさが全くないのは面白い。郷土の風土は、重層部に沈殿し、作品にはその面影は全く出ていないのは共通している。青森といえば、版画家の棟方志功がいて、その作品には津軽の風土が強く匂いが、一方、抽象画の佐野ぬいさんや版画家の天野邦弘の作品には、そうした要素は全くない。

 

こうしてみると人口17万人しかいない地方都市にしては、弘前は頑張っている。毎日、どこかのテレビに出ている王林ちゃんの夢は青森県知事になることのようだが、今でも県会議員くらいは当選するだろうし、比例代表の参議院議員もタレント候補で可能かもしれない。

2023年7月21日金曜日

ゴ・エ・ミヨ 2023 青森県

 



ゴ・エ・ミヨというミシュランと並び評せられるフランスのグルメガイドがあります。ミシュランがお店自体の評価にたいして、ゴエミヨがどちらかというとシェフの焦点を合わせた評価と言われています。評価は厳しく、2023年版では全国の501店舗が掲載されていますが、最高ランクの5トックの店はわずか3つしかなく、いずれも東京の日本料理で、ミシュランでも3星をとっています。さらに次のランク、4トックのお店は、全国で42軒、その多くがミシェランでも3あるいは2星となっています。

 

ミシュランガイドではまだ宮城県以外のお店は掲載されていませんが、2023のゴエミヨでは東北地方のお店も掲載され、青森県では3トックの店が1軒、2トックの店が3軒、掲載されています。3トックは弘前市のイタリア料理店、弘前大学医学部病院近くの「オステリア・エノテカ・サスィーノ」が、2トックでは、八戸市の「カーサ・デル・チーボ」(イタリア料理)、青森市の「Kashu」(創作料理)、「アルチェントロ」が選ばれました。個人的に何度かいったことのあるサスィーノが選ばれたことはうれしく思います。

 

ミシェランガイドブック、あるいはこのゴエミヨでもそうですが、東京、大阪などの都市部にお店の評価が高く、数が多いと思います。地方では、高価な手の込んだ料理を食べるお客も少ないことも原因かもしれません。ただ地方で驚くのは富山県で、このゴエミヨで掲載されたのが9軒で、4トックが2軒、3トックが7軒で、4トックの「レヴォ」(フランス料理)は南栃市、「ふじ居」(日本料理)は富山市、3トックの7軒のうち、6軒が富山市のお店です。寿司もいれると5軒が日本料理店です。もちろんミシェランガイドでも評価は高く、「レヴォ」、「ふじ居」は2星、他に2星は2軒、1星は16軒あります。ゴエミヨで重複しているお店もありますので、ミシェラン、ゴエミヨで掲載されているお店は富山県に22軒あります。このうちさらに16軒が富山市のお店です。富山県の人口は105万人、富山市41.9万人に対して、青森県の人口は125万人、青森市29万人と県庁所在地の人口は富山市の多いものの、県の人口でいえば、青森県の方が20万人多いことになります。青森県はまだミシュランで掲載されていないとはいえ、富山県に多くのグルメ名店があるのは確実でしょう。

 

富山県は日本海に面し、青森県は太平洋、津軽海峡、日本海に面しており、いずれも魚の漁獲量の多いところです。それでも実際の漁獲量を調べると、青森県が11.6万トンに比べて富山県は5万トンと半分以下です。また野菜産出額でみても青森県が821億円、富山県は54億円と15分の1以下です。つまり料理の素材となる魚、野菜などは青森県の方が富山県より取れるようです。料理の友、日本酒についてみると、日本酒の生産量は青森県が19位、富山県は22位とこれは拮抗していまし、米の生産量でいえば、青森県は26万トン、富山県は20万トンと、これも拮抗しています。いずれにしても青森県、富山県ともに、美味しい米、野菜、魚、酒に囲まれた自然豊かな県であることは同じです。ただミシェラン、ゴエミヨの掲載店を見てみますと、青森県の場合、日本料理店、寿司屋が一軒もないことが違うようです。富山県ではゴエミヨでは日本料理では3軒が、寿司では2軒が、ミシェランでは日本料理店が7軒、寿司屋が5軒掲載されています。

 

細かくみていくと、富山県のお店も老舗のところは少なく、比較的若いシェフや板前の店で、最初からこうした評価を狙ったしつらえ、サービスをしていて、値段も地方にしては高く、だいたいディナーで2万円くらいするところが多いようです。それに比べて青森県のお店は、サスィーノは、今はディナーが18700円ですが、以前はもっと安いコースもあり、10000から15000円くらいのところが多いようです。東京に比べてディナーにそんなに高いお金をかけたくないということでしょう。実際、サスィーノでも県外のお客が多いようです。

 

東京、大阪のお店を太刀打ちするような味、サービス、しつらえをするとなると、地方でもかなり高い料金となります。富山でも県外からの客も多いとはいえ、基本的には地元の人に支えられたお店であり、こうした客層の多寡により地方の料理店の質も関係するのかもしれません。東北地方でいうと、ゴエミヨの掲載店は岩手県が5軒、宮城県が4軒、山形県が6軒、秋田県が5軒、青森県の3軒は少ないし、宮城県の4軒も少ないと思う。こうしたガイドブックの掲載店になるのは無意味なことかもしれないが、本当の小さな地方の町でも、若く、開業して10年くらいでも載ることができるので、青森の若い人のどんどん挑戦してほしいものです。


2023年7月20日木曜日

患者さんはなぜマウスピース矯正を受けるのか

 




インビザラインに代表されるマウスピース矯正については、日本矯正歯科学会でも何度も注意喚起がされ、適用症例が限られている旨が発信されている。40年以上、学会の会員であるが、こうした注意喚起は初めてで、マウスピース矯正による患者被害が多いことを物語っている。もちろんマウスピース矯正自体は、日々進歩しており、その適用も広がっているが、現状では骨格性の問題がある症例、抜歯症例などでは適しておらず、比較的軽度の不正咬合に向いているとされている。インビザラインでも、かなりレベルの高い治療をしている先生がいるが、大学や学会から完全に認められるところまではいっていない。

 

それなのに、なぜ多くの患者はマウスピース矯正を希望するのか。その理由を考えてみたい。

 

1.治療予測が動画で見られる

デジタル印象を行い、マウスピース会社にデーターを送ると、治療終了までの予想動画が送られてくる。患者はそれを見ると自分の歯並びもこのように綺麗になると思うのは当然であり、従来のワイヤー矯正にはないサービスのために飛びつくのは無理もない。結果が見えるというのは大きな魅力である。

 

2.目立たず、受けやすい治療法 

目立たない矯正治療としては、従来から歯の裏側に装置をつける舌側矯正治療があり、ほぼすべての症例にも適用され、熟練した矯正医が治療すれば結果も良い。また費用の点でもマウスピース矯正とそれほど違わないが、マウスピース矯正ほど患者はいなかった。舌側矯正装置は、違和感があること、しゃべりにくいこと、月に一度は来院しなくてはいけないこと、歯磨きが大変など、が嫌がられたのかもしれない。手軽さの点でマウスピース矯正の方が受け入れやすいのだろう。

 

3.インビザライン社独自の称号

インビザライン社では、自分のところの注文数の多さによりプラチナプロバイザーなどの称号を与えている。患者からすれば、多くの患者をみた先生は上手だと思うし、その先生に診てもらいたいと思うのは当然である。外科の手術もそうであるが、数も治療レベルを知る一つの指標となるので、1000症例も診たと言えば、名ドクターと信じる。たくさんの患者を診ている先生に治療してもらえば、失敗はなく、希望通りの治療をしてもらえると思うだろう。

 

4.宣伝が目立つ

今の世の中、患者はYouTubeやツイッターあるいはホームページを見て、病院を決める。そのため、厚労省としては、ネットでの医療広告は患者への影響が大きいと、医療法を何度も改定して誇大広告などを禁じている。学会でも認定医、専門医の更新に際して委員会がその歯科医院のホームページをチェックし、違反していれば、更新を認めない。ただ現状では、違反していても厚労省や消費者センターなどのよる罰則、注意はさほど行われていないことと、ホームページ制作会社がグレーゾーンの解釈をかなり広げているので、一般歯科では派手なマウスピース矯正の広告をしているところが多く、逆に矯正歯科医院では認定医の更新ができないので広告できない。

 

5.強引な勧誘

4と関連するが、一部の歯科医院では、初診相談に行った時点で、デジタル印象を行い、即日に完成予想図を示して、契約を強引に勧めるところがある。矯正治療は全く緊急性がないため、十分に検討してから治療を受ければいいのだが、一部の審美歯科ではコーディネーターと呼ばれる人を配置して、歩合制で患者の治療開始を促すところがある。多く治療契約させると、その分歩合で収入が増えるやり方である。モニター制度と称して、料金の割引で釣るところもある。

 

6.歯科医の良し悪しが判断しにくい

YouTube5ちゃんねるなどをみていると、これは小臼歯を抜歯しないと治らないだろうと思われる症例が多い。そこの病院を選んだ経緯なども語っているが、例えば、3軒の矯正歯科医院で小臼歯抜歯とワイヤー矯正の必要性を指摘され、1軒は一般歯科でここでは非抜歯とワイヤー矯正を、そして最後の一軒の一般歯科のところでは非抜歯とマウスピース矯正を勧められたとしよう。通常なら専門医がすべて抜歯治療を勧めるのであれば、それが正しいはずであるが、どうも多くの患者は最後の歯科医を選ぶ。歯を抜かなくても口元が引っ込むかと先生に質問しても、引っ込むと答えるのでそこでの治療を選択する。歯科医であれば、どこでも矯正治療ができると思っているからである。

 

こうして見ると、マウスピース矯正は従来のワイヤーを用いた治療法に抵抗があった患者にアピールした。このことはより多くの人が矯正治療を受けるためには、マウスピース矯正が受け入れられた利点について知っておくべきである。ワイヤー矯正でも、治療前後の噛み合わせや顔貌の変化は動画で示せるだろうし、患者さんにわかりやすい専門医制度を早く作るべきであり、一方、同様の問題があったホワイトニングが特定商法取引法の対象になってように、マウスピース矯正についても、クーリングオフなどができる特定商法取引法の対象に入れてもよかろう。これにより強引な勧誘を減らし、中途解約も容易にできるようになる。

 

2023年7月16日日曜日

死ぬまでにしてみたいこと

 



東京に同窓会があったので、先日の土曜日に行ってきた。5年ぶりの開催で、懐かしい顔が揃い楽しい集まりであった。皆66から67歳で、ほぼリタイヤしており、それまでの会社の役職も関係なく、ある意味、完全に高校生の状態に戻った感覚である。会社員というのは、まだ現役であれば、高校の友人であっても仕事の繋がりをもとうとするが、そうしたしがらみがなくなると、会社のことはどうでもよくなる。幸い私のような自営業は定年を自分で選ぶことができるが、それでもそんなに先のことではない。

 

この歳になると、すでに先は見えているので、友人の多くも、暇はできたが、さあ何をしようか、若い時にできなかったことをやろうかということになる。映画「死ぬまでにしたいこと10」でないが、何かしらやりたいことはないかとジタバタする。

 

若い時からずっとやりたいと思っていても、体力がなくなったり、所詮不可能なことも多いが、そうかといって若い時に買えなかったバーバリーのコートを着たいという思いなどは、高いが今でも簡単に買えるので、これは「死ぬまでにしたいこと」に入れるわけにはいかない。また最近、思いついたようなものではいけない。

 

私自身の「したいこと」を挙げてみる。

 

1.犬を飼いたい

子供の頃は尼崎の診療所の2階に住んでいたが、小学校4、5年の頃に診療所から10m

離れてところに自宅を建てた。その時に親父の昔からの夢、犬を飼いたいと突然言い出した。犬の雑誌なども買ってきたが、結局、家の敷地は20坪もなく、そんな狭い空間に親父の希望する犬、シェパードなどはとても買えない。今の家は、大型犬も十分に買える庭があるものの、65歳以上の人が犬を購入するのは、犬の寿命まで飼えないこともあるため難しくなっている。また家内も犬、猫など動物が苦手なので、この夢は叶いそうにない。

 

2.阪急塚口駅にいた少女のことを知りたい

このブログで何度か紹介した、高校1年生から2年生の頃に阪急塚口駅でいつも一緒であった甲南女子中学校の背の高い少女が今はどうなっているか、知りたい。昭和35年か36年生まれなので、昭和53年、54年の甲南女子高校の卒業名簿を手に入れ、塚口駅付近に住む人を見つければわかるであろう。ただこうした理由で学校に問い合わせをしても完全な個人情報なので開示は難しい。高校の名簿のコピー、閲覧ができる会社が東京にあるが、この本に掲載されている結婚後の住まいからは特定できない。小学校はわざわざ神戸大学教育学部附属住吉小学校に行っていたことをみると、実家はかなり教育熱心な医者関係かと想像している。このブログを通じてわかることを期待したい。

 

3.ヒマラヤで星を見たい

 大学生の頃にネパールのルクラからナムチェバザールに行ったことがある。このトレッキング中に泊まった小屋から夜中に外に出てみると、空はそれこそ降り注ぐほど星で覆い尽くされ、そのボリュームに圧倒された記憶がある。こんなすごい光景はこの時以外に経験していない。さすがにこの年齢でヒマラヤはきついが、3000m以上の高度で、光もなく、快晴の条件のところであれば、エベレスト近くでなくとも同じような景色が日本でも見られるかもしれない。もう一度見たい。

 

4.外国に住んで暮らしたい

日本では、尼崎、仙台、鹿児島、宮崎、弘前に暮らしたが、ついに海外に住むことはなかった。また外国の方とお付き合いすることもない。今とは全く違う生活という点では、外国に住み、暮らすのは、もう一度人生をやり直すという感覚を味わえる。鹿児島大学にいたときに、スウェーデンのイエテポリ大学に留学の話もあったので、開業を数年のばせば、叶えられた夢かもしれない。

 

 

5.エベレストのロードバイクに乗りたい

大学生の頃、ロードバイクに乗っていて、当時出ていた「サイクルマガジン」に土屋製作所のエベレストというクロモリの自転車フレームを作っている会社があった。確かコロンンバス、レイノルズ製のスティールを使ったもので、特に黄金色のフレームはかっこよかった。今でもたまにヤフオクに出てくるが、黄金色のフレームはあまり出ないし、サイズも大きい。カンパやシマノ、ディエラエースで組み立てた自転車は欲しい。

 

6.楽器を弾きたい

ホーナーのクロマティックハープ(ハーモニカ)は2台、鍵盤ハーモニカはスズキのproを、ローランドの電子サクスホーン、Aerophoneをすでに購入し、さらにそれぞれの楽器の練習本も持っているが、ほとんど練習していない。集中的に時間をとって、せめてジャズのスタンダード曲を弾きたいものである。ただ20年も楽器だけ買って練習しないのは、向いていないということか。

 

7.映画に出てみたい

テレビには、何度か出たことがあるが、映画には通行人Aでも出たことはない。鹿児島大学にいた時に矯正治療の特集で地元のテレビや離島歯科診療でNHKに、弘前でも歯科医師会関係で矯正治療を紹介するテレビに、また貞唱寺にある山田兄弟の碑について弘前市の観光紹介のテレビに出演したことがある。また中学生の時は、サッカーの試合で神戸市選抜として広島に遠征したが、その試合の様子は地元テレビで中継された。解説の日本代表の八重樫さんからプレーを褒められた。

  - 高校生の頃に空手映画のエキストラで殴られ役で3秒だけでたが、最近YouTubeにアップロードしたので、これで夢が叶ったことにする。


 

2023年7月13日木曜日

世界に誇る日本の奇人

 




NHKの朝ドラ「らんまん」では植物学者の牧野富三郎の半生が取り上げられている。小学校中退という学歴に関わらず、日本の植物学に大きな貢献をし、1957年には日本では最高の賞、文化勲章をもらっている。その人生を見ると、全てが植物学の研究であり、妻子、家族のことは二の次で、一種のオタクと考えても良い。

 

アジアの中では、日本人は突出してこうしたオタクの人が多い。もちろん欧米、特に英米はこうしたオタクが多いが、意外なことにアジア人は少ない。隣国の韓国の歴史を見ても、小学校中退の人が国の最高峰の勲章をもらうことは歴史上でもなく、牧野に匹敵するようなオタクもあまり知らない。一方、日本では牧野に匹敵するようなオタクはそれほど珍しくなく、世界的な彗星ハンターの本田実、関勉なども気狂いじみたオタクであり、身近なところでもテレビで活躍中のさかなクンもそうだし、ムツゴロウさんもそうである。魚、動物オタクである。牧野富三郎に近い人としては、民俗学者の南方熊楠が挙げられる。彼も和歌山中学卒業が最終履歴で、地衣類の研究で、のちには、昭和天皇に進講する名誉を得た。産業界で言えば、ホンダの本田宗一郎は、最終学歴は高等小学校卒であり、パナソニックの松下幸之助に至っては尋常小学校中退であった。二人とも、バイク、クルマあるいは電気オタクで、金儲けよりは、自分の好きなことに熱中した。子供の頃からプラネタリウムを製作していた大平貴之も、プラネタリウムオタクで世界最高峰のプラネタリウム、メガスターを作ったし、恐竜研究の学者は、アマ、プロ問わず、多くは恐竜オタクで、その裾野は広い。漫画家、それも創設期の漫画家、手塚修、赤塚不二夫、水木しげるなども、マンガオタクといえよう。世界的建築家の安藤忠雄だって、最終学歴は工業高校だし、今読んでいる染色家で織物作家の志村ふくみも。完全な染色、織物オタクである。欧米では食器といえば、磁器をさすが、日本では磁器だけでなく、陶器の多くの作者がいる。これほど陶器作者の多い国はなく、全てはその仕事に全力を費やしている。オタクである。」

 

アフガニスタン復興に尽力した医師の中村哲さんも、アフガニスタンオタクと呼んでいいくらい、最後は命も差し出したし、地雷除去に尽力する雨宮清さんも地雷除去装置開発オタクで、何度か死にそうになっている。いずれも宗教とは全く無関係で、もちろん金儲けとは真逆の生き方である。

 

こうした何かに夢中になると、それこそ寝食を忘れて熱中するような人物が、日本人には多い。おそらくアマチュアの天文学者、昆虫学者、植物学者などの数は、アジアでは日本がダントツに多いと思う。隣国、韓国、中国では、こうした金にもならないことに熱中する人も少ないし、何より社会がこうした人に寛容でない。自分の旦那が、毎夜、朝まで天体観測をして新しい彗星を探しているなら、おそらく韓国、中国では妻や周囲の人に理解が得られず、離婚されてしまうだろう。これが許されるのが欧米、おそらくイギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、イタリアなど欧米諸国とアジアでは日本だけであろう。芸術家は、そもそも芸に対するオタクでなければいけないが、それをコレクションするのもまたオタクが要求され、日本にあるほとんどの民間の博物館、美術館はそうした芸術オタクが作ったものである。これについても日本以外のアジアでは個人美術館の数は圧倒的に少ない。

 

江戸時代にも、北斎のような自ら画狂人と名乗るフリークがいたし、伊能忠敬という地図オタク、アマチュアでありながら世界的に見ても高度な数学を研究した和算の関孝和、飛行機に挑戦した二宮忠八、105巻の百科事典、和漢三才図会を編集した医師、寺島良安、世界で始めて全身麻酔に成功した華岡青洲、解体新書を著した杉田玄白、本草学では小野蘭山、その弟子の木村兼カ堂などの業績はすごい。これらは皆アマチュアで、別に成功を望んだわけではなく、あくまで好きで研究していった。

 

こうして見ると、日本のオタクは江戸時代から連綿と続くものであり、ルネッサンスあるいは産業革命から始まる欧米のオタクと重なる。イギリスも多くのアマチュア研究家、蒐集家を生み出す国であるが、長く平和が続き、繁盛したビクトリア時代があったからだろう。一方、韓国では、李朝が長く続き、両班を中心とした階級社会なため、こうしたオタクが出る余地が少なく、それが今でも続いていて、あくまで金になるものにしか人々は興味を示さない。今後、日本も少子化で、ある意味、もはや昔のような繁栄した時代は過ぎてしまったかもしれない。しかしながら、日本のオタク文化は特に欧米人とは似通う面があり、今後とも数は少なくなるが、独創的な研究によるノーベル賞を日本人はとっていくだろうし、インスタントラーメン、カラオケ、コンピューターゲームに匹敵するような新しい概念のものを作り出すだろう。むしろ最近の若者を見ていると、私の時代よりさらに金や地位、名誉に無関心で、好きなことをする人が多く、和食、J-Pop、ゲーム、アニメに代表するソフトコンテンツが世界に広まり、日本はオタク文化の国になっていきそうである。りんごや野菜作りにも、すごい情熱を持ってオタク的に頑張っている人がいるが、これからは世界中から評価される時代が来るかもしれない。


 


2023年7月7日金曜日

昭和30年代の尼崎 2

 
 

             難波幼稚園  田中花子園長


当時の子供の世界に、大人が入るのはタブーとされていた。友達同士の喧嘩でもどちらかの親が入ろうものなら、子供社会から除け者にされるため、仲間が両者の話を聞いて解決し、再びみんなで遊ぶ。べったん、ビー玉などはかなりギャンブル性があり、例えば、べったんではお互い数枚から十数枚のべったんをかけて勝負し、勝った方は総取りする仕組みであり、ビー玉も同じような仕組みであった。こうしたギャンブル性があるため、ルールは厳格で、ズルは御法度となっていた。大人のギャンブルと基本的には変わらない。ただ遊びでも、イタズラがすぎて、相手に怪我をさせるようなことがあると、怪我させた方の親が相手の家のお菓子やフルーツを持っていき、詫びに行った。お互いさまのことで、双方ともそれでお終いであった。今なら訴訟されかねない。そのため、相手の傷つけるようなことは絶対にしてはいけないと学び、石を投げるにしても小さな石を足に向かって投げる。一人のクラスメートは、限度を知らないのか、かなり大きな石を頭めがけて投げてきて、これにはみんな呆れて、この子とは遊ばなくなった。

 

学校から帰ると、ランドセルを玄関に置いて、親の財布から、ひどい時は家にある神棚の賽銭箱から、10円を出してきた。そのまま何軒かの友人の家に「誰それちゃん 遊びましょ」と誘いに行き、まず近所の駄菓子屋を回る。当時の駄菓子屋とタバコ家は年寄りのやる仕事で、子供たちはそうした婆さんをからかったり、逆に叱られたりして、大人との付き合いを学んだ。また尼崎の環境によるのか、ある友人の家に行くと、お母さんはホステスさんをしているので、夕方はちょうど出勤時間で、白粉の奇妙な匂いはいまだに思い出す。子供の夕食用に昼間働いている焼き鳥屋の残りの焼き鳥10本くらいを置いていってくれて、それを友人と一緒によく食べた。また違う家に行くと、お父さんが昼間から一升瓶を抱えて酒を飲んでいる。その頃、流行っていたプロレスの技を家に中で友人と試していると、横からこの酒呑みの父親からもっとやれ、もっとやれと声援され、かなり部屋をめちゃくちゃにしたこともある。小学4年生の頃だったが、小学校にも番長的な子供がいて、小学6年生の番長に小さなボロいアパートに連れて行かれ、しばらく算数の宿題をさせられたこともある(小学4年生に入った塾では1年間で6年生までの算数を全て終了したので)。

 

逆に好きだった女の子の誕生会に無理やり押しかけ、他は女の子ばかりの誕生会で唯一の男子、そしてプレゼントは消しゴム付きの鉛筆2本という寂しく、ちょっと恥ずかしい思いもした。その子の家は工務店をしており、いつも木を削る音がしていたし、気の削りかすがあたりに散らかっていた。お金持ちの家に行くと部屋に通され、カルピスやケーキなどを出されると緊張したし、家によっては子供たちみんなに10円ずつくれるところもあり、嬉しかったが、子供心にあまり何度も行って催促してはいけないという思いもあり、その後はほとんど行ったことはない。逆に葬式があると子供にキャラメルを振る舞うところが多く、近所に葬式があるとみんなで家の前を何度も通り、キャラメルを催促した。野球をしているとボールはよくよその家に入ることがある。こうした場合は、黙って庭に忍び込みボールをとってくるが、塀がある家では玄関に回って住んでいる人に事情を話してボールをとってきてもらう。かなり怒られることもあったが、それほど子供は気にしていなかった。というのは親からも先生からも、近所の人からも始終怒られているので免疫ができていたのであろう。

 

当時は家に内湯があるところは少なく、皆近くの銭湯に行っていた。冬場は3日おき、夏場が2日おきくらいで、今のように毎日お風呂に入ることはなかった。風呂上がりの、コーヒ牛乳とフルーツ牛乳が楽しみであった。ある日、風呂に入っていると、自宅の前の菓子屋の同級生の女の子が男湯に入ってきた。小学校3、4年生くらいのことだったが、本当にびっくりして、しばらくその裸体が目に焼き付いた思い出がある。女子や男湯、男子が女湯に入るのはさすが何でも小学一年生くらいまでだろう。映画館、散髪屋もそうだが、当時はどこに行っても人、人で、今より人口が多かったわけではないが、どこも人が多かった。多分、老人の割合が少なく、子供、成人が多く、こうした年齢層は、外に出かけることが多かったせいであろう。映画館など、いつもいっぱいで、通路にもぎっしりと客がいたし、散髪屋もいつも十人くらいは順番待ちしていた。

 

当時は街にも下水管がなかったのだろう。便所は汲み取り式で、1ヶ月に一回くらい、バキュームカーが来て、汲み取って行った。その臭いこと、いつも鼻をつまんでいた。生活排水は、30cmくらいの排水溝が家の前にあり、そこの直接流していた。食器を洗った水や洗濯水もそこに流していたので、町中がいつも変な匂いがしたいたし、その排水溝が流れていた庄下川はドブ川で、メタンガスがブクブクと湧くような川であった。

昭和30年代の尼崎 1

 

             道は舗装されず、オート三輪、荷車がある


前回に続き、昭和30年代の尼崎について、書いてみよう。と言っても私の住んでいた尼崎市東難波町周辺のことであるが。

 

私の家は歯科医院をしていて、わずか18坪の家、それも借家であった。以前のブログでも書いたが、劇作家の中島らもさんのお父さんがJR立花駅近くで歯科医院を経営しており、その分院がここであり、父がここを借りた。一階は待合室と診療所(歯科用チェアー一台)で、その奥に小さな技工室と台所があった。2階は和室が二間あり、そこで両親と祖母、姉、兄、そして私の六人が住んでいた。朝の9時から夜の9時まで、休みなしで、働き、その後は技工をして、尼崎の繁華街に飲みに行く。毎日、そうした生活を父親はしていた。これだけ働いても稼ぎをそれほど多くなく、ご飯、味噌汁、お皿にキャベツとコロッケ、こんな夕飯であり、朝は前日のご飯と味噌汁、牛乳となり、昼はご飯とうどんという内容であった。いかに少量のおかずで大量の米を食べられるか子供心に工夫をしていた。ただ夏になると冷やご飯もやや腐りかけているのか、変な匂いがして、そうした場合は、お茶漬けで流し込んだ。

 

左隣はクリーニング屋、その隣は病院、右隣は普通の民家であったが、交差点の向こうは牛乳屋で、毎朝、牛乳を運搬用の木箱に入れるガチャガチャした音がした。民家の裏は酒屋で、最近はリバイバルしている角打ちをしていて、夕方になると労働者でいっぱいであった。家の前はお菓子屋で、餅、ケーキ、シュークリームなどを売っていた。同級生だったのでよく遊びに行ったが、店舗の奥で菓子を作っており、お菓子の製作工程が面白かった。今ではほとんど人が通らないが、当時はこの付近に多くの工場があり、その職人で賑やかであった。今はラブホテルになっているところは、ほとんど工場で、鉄を削る、叩く音など、今では考えられないくらいうるさかったが、誰も気にもしなかった。

 

この道沿いには、菓子屋、味噌醤油屋、一杯飲み屋、薬屋、病院、歯科医院、散髪屋、タバコ屋、クリーニング屋、牛乳配達、新聞配達、菓子屋兼本屋(マンガ)、工務店などがあった。尼崎駅前に行く道をまっすぐ進むと、ホープという散髪屋があるが、ここを右に折れる道は、子供の頃から絶対に近づくなと言われた道であった。それでも子供は、そう言われると行きたくなるもので、また友人もここに住んでいたので、よく遊びに行った。後からわかったことだが、ここは昭和30年代まで青線地帯と呼ばれるところで、素人の女の人が売春をしていたところで、ひどく汚い酒屋や、アパートがぎっしり並んでいた。幅2mくらいの路地が至る所にあり、さながら迷路のようにくねっていた。タバコ屋の前で殺人事件もあった。そうしたところでは、夏になると上半身に入れ墨を入れた人は竹の縁台で涼んでいたり、女の人はシーミーズでぶらぶらしていた。友人の家は6畳くらいに両親と子供二人で住んでおり、外の路地に七輪を置いて煮炊していた。

 

主婦は、たまには三和商店街に行くものの、普段は近所の難波センター市場に買い物に行っていた。この市場は2mくらいの通路が2本あり、その両側に多くの店が入っていた。真ん中で左右の通路が連結する。一番、思い出に残るのが玉子屋で、卵五個と注文すると、ワラに入った卵をいちいち電球にかざして中を見てから新聞紙に上手に包んでくれた。子供心にヒナが入っている卵があるのか、興味深かった。お菓子屋には、ガラスの平たい入れ物に煎餅、あられ、ゼリー、ガラス瓶にはキャンディーなどが入っており、注文をすると袋に入れて量り売りをしていた。肉屋もそうだが当時の店は、多くが量り売りで、さらにすごいのは電卓もなかったので、暗算で計算していた。魚屋、肉屋、乾物屋などほとんど商品はこの市場で買えたし、また近くには八百屋や豆腐屋もあり、魚は自転車に乗せて売りに来たので、今のようにスーパーはなかったが、それほど困らなかった。逆に店主と会話して物を買えるため、安心感があった。

 

学校から帰ると子供は10円をもらい、何人かの友人と行きつけの駄菓子屋に向かい、一回5円のクジや駄菓子を買って、楽しみ、その後、近所の路地や空き地、あるいは公園で遊んだ。幼稚園から小学校一年生くらいは、空き地でママゴト、サザエさん、東京ケンパ、ダルマさんが転んだなどの遊びを、もう少し大きくなると、コマ回し、ビー玉、ベッタン、2B弾、銀玉鉄砲などで遊んだ。さらには三角ベース、これは今の軟式テニスのボールを使い、バッドの代わりに手の平でボールをうつ遊びであった。また名前は忘れたが、このボールを屋根の上に名前を言って投げ、落ちてきたボールをキャッチすると、その人がまた屋根にボールを投げるが、ボールをキャッチできないと、みんな一斉に逃げ、鬼となった子供はボールを逃げた子供に当てないといけない。

 

小学校では、女の子にぶつかるようにクラスメートを押して、キスしたキスしたと騒ぐことは流行ったし、便所に行って誰かが大をしているのを知ると、「べべんじょ かんじょ 鍵しめた」と中指と人差し指をクロスすれば、汚いものから逃げられるという遊びもあった。このおまじないをする前に他の人にタッチすれば、汚いものがうつるのである。今考えるといじめのようなことをしていたためが、当時の通信簿を見ると小学三年生の時に、素行の欄にCをつけられたこともあった。

 

それでも、昭和41年、小学4年生頃からは素行も収まり、当時のクラス委員、副委員長、委員長は選挙で選ばれるが、成績が悪くても人気者が選らばれることがあり、初めて委員に選ばれた。少しはリーダーとしての意識に芽生えたのか、それ以降は成績も良くなく、卒業までずっと副委員長か委員長をしていた。と同時に、小学5年生になると進学塾にも行きだし、子供の頃に遊んだものとは訣別したが、こうした子供頃に遊びには、その後の人生の縮図があった。次回はそうしたエピソードを

2023年7月2日日曜日

「尼人」 松田修

 


 



私が生まれたのは尼崎市東難波町、幼稚園は難波幼稚園、そして小学校は難波小学校と、尼崎のエリートコースを進み?、その後、神戸の六甲中学、高校と異端の道に進んだ。本来なら、校区である昭和中学(現在は尼崎中央中学)にそのまま進み、多分、高校はアホではなかったので、市立尼崎高校(市尼)くらいは行けたであろう。その後は、近畿大学が甲南大学あたりか。小学校の時の友人は、その後、ほとんど交流はなくなったが、おそらく多くは地元の尼崎周辺にいると思う。

 

尼崎は大きく分けて、阪急沿線、JR沿線、そして阪神沿線に分かれる。阪急沿線には園田、塚口、武庫之荘の3つの駅があり、西宮市に近い、武庫之荘、塚口、園田の順で、ガラが良くお金持ちが多いように思える。JRについては尼崎と立花、(猪名川 知らない)があるが、やや立花の方がJR尼崎よりガラはいい。阪神沿線には多くの駅がある。杭瀬、大物、尼崎、出屋敷、尼崎センタープール前、武庫川、このうちセンタープールはボートレース用の駅だし、武庫川の川に真ん中にある駅である。杭瀬、大物は微妙なところで、雑然としたところではあるが、昔からそれほどヤクザの組はなく、風俗店も少ない。その点、阪神尼崎駅が尼崎の最も代表的なところであり、風俗、パチンコ店、飲み屋、商店街など全て揃ったところであり、ヤクザの組もここに集中していたし、私の近所はラブホテルだらけであった。決して上品な街ではなかった。出屋敷については、尼崎の住民からすれば、三和商店街の奥の方という印象で、三和商店街を真っ直ぐに進み、右に折れると出屋敷という感じであった。かんなみ新地という風俗街があったが、ここは出屋敷というよりは、三和商店街の横丁というところであった。個人的な出屋敷に行くのは子供の頃は、「コンドル」という模型店があり、そこにはよくいった。大人になってからは、出屋敷駅の横にミドリ電気あったので、お袋の家の家電はここで買うことが多かった。

 

こんなことをつらつら書いたのは、松田修著、「尼人」(イーストプレス)を読んだからだ。現代芸術家の松田修は、おそらく本からの推測であるが、竹谷小学校学区で生まれ、小学校前の通りにお母さんのスナックがあったようだ。難波小学校からだと、西に向かい左の折れたところを進むと三和商店街の入り口となる。その入り口を右に進むと、昔はダイエーがあり、その先を左に折れたところが出屋敷に行く道となる。ここから先、阪神出屋敷駅までは小さな商店や、食べ物やスナックが並んでいた。ただ三和商店街に比べるといつも人通りは少ない。著者はここをスラム街と呼んでいるが、むしろ私の近所、東難波町のホープという理髪店から西に折れた区域に比べればそれほどではない。ここは青線地帯で、普通に刺青を入れたおじさんやシミーズだけの女性もそこらにたむろしていた。殺人もあった。小さなアパートも多く、一階に6畳くらいの部屋が6つほどあり、一家5人がここで暮らし、調理はアパート前の小路に七輪で煮炊きしていた。いつもドブのような匂いがしていた。幅2mくらいに小路が至るとことにあり、迷宮化していた。

 

松田修は、尼崎の貧困家庭に育ち、少年院に入ったりしたが、のちに東京芸術大学、大学院を卒業して、主として映像による現代美術作品を発表している。著書にも書いているように、こうしたディープ尼崎に住んでいたときは、全く違和感はなく、それが普通と考えていたに違いない、私もそうだった。ただ大人になって、東京などの上品に街に住むようになると、こうした尼崎の生活をおもしろ、おかしく思うようになり、かなり自虐的に語るようになる。

 

尼崎にはもう一人のグレートな現代美術家、白髪一男がいる。日本を代表する画家で、オークションでもかなり高い評価を得ている。この白髪の実家は、松田の生家からおそらく300mくらいしか離れていない中央商店街の呉服屋である。今の丸亀製麺の斜め前あたりで、松田がここらで遊んでいた頃、白髪はこの呉服店の二階でロープにぶら下がって絵が描いていた。厚塗りの、マグマのような白髪の絵は、アクションペインティングの先駆者としてジャクソン・ボロックと並び表される高い評価を得ている。昭和42年の電話帳で調べると、白髪一男の父、白髪信治郎の店は尼崎市神田中通3-49、自宅は尼崎市宮内3-181でここは出屋敷となり、晩年、白髪自身もここに住んだから、松田の生家とはさらに近い。松田の母親のスナックにも顔を出したかもしれない。


白髪の作品の評価、特に海外での評価が急速に高まったのは、せいぜい2000年以降であり、それまでは変わった画家として、それほど知名度も高くなかった。それでも尼崎を離れることなく、このディープな阪神尼崎、出屋敷に住み、黙々と自分の信じる作品を描き続けた。見事である。松田も自らスラム街の作家、尼人というなら、尼崎を拠点に活動して欲しいし、活躍して第二の白髪になってほしい。頑張れ松田修!