2023年7月7日金曜日

昭和30年代の尼崎 2

 
 

             難波幼稚園  田中花子園長


当時の子供の世界に、大人が入るのはタブーとされていた。友達同士の喧嘩でもどちらかの親が入ろうものなら、子供社会から除け者にされるため、仲間が両者の話を聞いて解決し、再びみんなで遊ぶ。べったん、ビー玉などはかなりギャンブル性があり、例えば、べったんではお互い数枚から十数枚のべったんをかけて勝負し、勝った方は総取りする仕組みであり、ビー玉も同じような仕組みであった。こうしたギャンブル性があるため、ルールは厳格で、ズルは御法度となっていた。大人のギャンブルと基本的には変わらない。ただ遊びでも、イタズラがすぎて、相手に怪我をさせるようなことがあると、怪我させた方の親が相手の家のお菓子やフルーツを持っていき、詫びに行った。お互いさまのことで、双方ともそれでお終いであった。今なら訴訟されかねない。そのため、相手の傷つけるようなことは絶対にしてはいけないと学び、石を投げるにしても小さな石を足に向かって投げる。一人のクラスメートは、限度を知らないのか、かなり大きな石を頭めがけて投げてきて、これにはみんな呆れて、この子とは遊ばなくなった。

 

学校から帰ると、ランドセルを玄関に置いて、親の財布から、ひどい時は家にある神棚の賽銭箱から、10円を出してきた。そのまま何軒かの友人の家に「誰それちゃん 遊びましょ」と誘いに行き、まず近所の駄菓子屋を回る。当時の駄菓子屋とタバコ家は年寄りのやる仕事で、子供たちはそうした婆さんをからかったり、逆に叱られたりして、大人との付き合いを学んだ。また尼崎の環境によるのか、ある友人の家に行くと、お母さんはホステスさんをしているので、夕方はちょうど出勤時間で、白粉の奇妙な匂いはいまだに思い出す。子供の夕食用に昼間働いている焼き鳥屋の残りの焼き鳥10本くらいを置いていってくれて、それを友人と一緒によく食べた。また違う家に行くと、お父さんが昼間から一升瓶を抱えて酒を飲んでいる。その頃、流行っていたプロレスの技を家に中で友人と試していると、横からこの酒呑みの父親からもっとやれ、もっとやれと声援され、かなり部屋をめちゃくちゃにしたこともある。小学4年生の頃だったが、小学校にも番長的な子供がいて、小学6年生の番長に小さなボロいアパートに連れて行かれ、しばらく算数の宿題をさせられたこともある(小学4年生に入った塾では1年間で6年生までの算数を全て終了したので)。

 

逆に好きだった女の子の誕生会に無理やり押しかけ、他は女の子ばかりの誕生会で唯一の男子、そしてプレゼントは消しゴム付きの鉛筆2本という寂しく、ちょっと恥ずかしい思いもした。その子の家は工務店をしており、いつも木を削る音がしていたし、気の削りかすがあたりに散らかっていた。お金持ちの家に行くと部屋に通され、カルピスやケーキなどを出されると緊張したし、家によっては子供たちみんなに10円ずつくれるところもあり、嬉しかったが、子供心にあまり何度も行って催促してはいけないという思いもあり、その後はほとんど行ったことはない。逆に葬式があると子供にキャラメルを振る舞うところが多く、近所に葬式があるとみんなで家の前を何度も通り、キャラメルを催促した。野球をしているとボールはよくよその家に入ることがある。こうした場合は、黙って庭に忍び込みボールをとってくるが、塀がある家では玄関に回って住んでいる人に事情を話してボールをとってきてもらう。かなり怒られることもあったが、それほど子供は気にしていなかった。というのは親からも先生からも、近所の人からも始終怒られているので免疫ができていたのであろう。

 

当時は家に内湯があるところは少なく、皆近くの銭湯に行っていた。冬場は3日おき、夏場が2日おきくらいで、今のように毎日お風呂に入ることはなかった。風呂上がりの、コーヒ牛乳とフルーツ牛乳が楽しみであった。ある日、風呂に入っていると、自宅の前の菓子屋の同級生の女の子が男湯に入ってきた。小学校3、4年生くらいのことだったが、本当にびっくりして、しばらくその裸体が目に焼き付いた思い出がある。女子や男湯、男子が女湯に入るのはさすが何でも小学一年生くらいまでだろう。映画館、散髪屋もそうだが、当時はどこに行っても人、人で、今より人口が多かったわけではないが、どこも人が多かった。多分、老人の割合が少なく、子供、成人が多く、こうした年齢層は、外に出かけることが多かったせいであろう。映画館など、いつもいっぱいで、通路にもぎっしりと客がいたし、散髪屋もいつも十人くらいは順番待ちしていた。

 

当時は街にも下水管がなかったのだろう。便所は汲み取り式で、1ヶ月に一回くらい、バキュームカーが来て、汲み取って行った。その臭いこと、いつも鼻をつまんでいた。生活排水は、30cmくらいの排水溝が家の前にあり、そこの直接流していた。食器を洗った水や洗濯水もそこに流していたので、町中がいつも変な匂いがしたいたし、その排水溝が流れていた庄下川はドブ川で、メタンガスがブクブクと湧くような川であった。

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