2012年5月31日木曜日

シグマDP2とフジフイルムX10 その2





 今日は休診日なので、家内と一緒に大鰐の鰐カムに行ってきました。「さっパス」という弘南電鉄の鰐カムきっぷを中央弘前駅で購入。1000円で往復の運賃と入浴料、さらに200円のお買い物券がついていて、お得です。

 ちょうど大鰐のつつじ祭りが開催していましたので、入浴前に茶臼山公園に登りました。頂上の展望台まで行くのは結構大変で、登った時にはへとへとになりました。多くのお年寄りが登っていて、皆さん元気で、私がこの年齢になった時には、こういった所は登れないかもと思ったりしました。天気はよかったのですが、残念ながら岩木山はあまり見えませんでしたし、つつじもだいぶ散っていました。眼下に広がる大鰐の町を一望に見渡せることができ、山に囲まれたきれいな風景でした。

 鰐カムはお湯もよく、きれいな温泉で、今日は外も暖かかったため露天温泉に裸でいても気持ちよく、一気に疲れが取れました。また休憩室も広く、入浴後はここで少し横になることもでき、ごろごろ好きの私としてはうれしい場所です。

 食堂で生ビールを飲み、おみやげ屋で200円の買い物券でナンバン昆布を買って、弘南電鉄で帰りました。帰宅してすぐに昼寝、全くの極楽、極楽です。車で行くと、お酒も飲めませんから、一度電車旅行もどうでしょうか。弘前大鰐往復運賃が840円、鰐カム入浴料が500円ですから、この「さっパス」は非常にお得ですから、一度ご利用ください。

 今回は、買ったばかりのフジフィルムのX10を持っていきました。まだ操作がよくわかっていませんので、すべてオートで撮影しました。私は人物を撮影する時にスローシンクロでフラッシュを使うのが好きですが、うまく操作できず苦労しました。家に帰って早速RAWで撮影したものを現像しましたが、正直がっかりしました。当たり前といえば当たり前ですが、撮影した光景しか、現像できず、シグマDP2のような現像して始めてどんな写真がでてくるかといった驚きはありません。撮影し、液晶画面で確認したそのままの写真が出てきます。見たままの光景と言われれば、そうですが、DP2に慣れたものにとっては現像作業での興奮は全くありません。

 慣れてくると、DP2の場合、現像するとこんな写真がでるだろうと想像して、目で見ても何の変哲もない被写体を撮影します。これを現像すると、全く思いがけない像が出てきます。特に水に濡れたもの、ガラスなどの描写は優れています。弘前昇天教会を撮影しました。上がX10、下がDP2です。X10の撮影は逆光で、操作もわからない状態でしたので、比較は難しいのですが、X10に比べてDP2の写真は細部がはっきり主張し、色彩にも立体感があります。同様にX10で撮った菖蒲はそれなりにきれいには撮れてはいますが、それだけで、それに比べてDP2は葉の葉脈まで鮮やかに再現され、ちょっとプロぽい画像となっています。両方とも画素数は1200万程度とそれほど違いませんが、この違いはFoveonという独特のセンサーと現像ソフトによるものでしょう。この現像ソフトは実際撮影した像とは全く違った画像を出してきますので、元の被写体にこだわるひとはとても到底がまんできないでしょう。ニコン、キャノンなど普通のメーカーはある意味、元の被写体に出来るだけ正確に再現するようになっていますし、それが当然です。X10も同様で、元の被写体の色、光景をきちんと再現できる点では、優秀なカメラなのでしょう。ただこれで人に見せるような写真を撮るのは難しいでしょうし、記録としてのカメラとして活用した方がよさそうです。RAWデータも撮っておいた方がよいでしょうが、あくまで露出補正などサブ的な使い方で、通常はJpegでどんどんI-Photoに入れていってよさそうです。

 シグマDP2Sは最安値33000円くらいで売っていますが、写真を撮る、現像する喜びを与えるという点では安いカメラと思います。是非、一度お小遣いを貯めて買ってください。お勧めします。

2012年5月29日火曜日

シグマDP2とフジフイルムX10































 フジフィルムのX10買っちゃいました。1年間かけて貯めたへそくりを持って、近くのケーズデンキに行くと、価格は62000円、高い。次にキタムラカメラに行き、ここで買おうと思いましたが、価格は56800円、手持ちが今晩の焼き肉代も入れて58000円、厳しい。何とかもう少し安くならないか粘ったが、どうも売れ筋でこれ以上は安くならないようでした。まあ消費税をのせれば、まったく足りないので、しぶしぶ夕食用のちょっと高級焼き肉を買って帰宅しました。

 帰宅後、そうだ、価格COMで調べてみようと思い、最安値で検索するとEC POWERというところで46800円で売っていました。10000円も安く、これは買いだと、すぐに注文をしてしまいました。消費税、送料は無料で、代引き手数料の630円を足しただけなので、ずいぶん安く手に入りました。

 ずっと昔、大学生の頃からミノルタのCLEというカメラを使っていましたので、その感触が忘れず、2年前にシグマのDP2というカメラを買いました。ただどうもこのカメラはあまりに趣味性が高く、汎用カメラとしては全く使い物にはなりません。暗い室内ではピントがいっこうに合わないし、しょっちゅうフリーズします。さらに単焦点レンズなので、パーティーなどに持って行くと、かなり至近距離で撮影しなくてはいけません。ただその描写性は感動するくらい高く、センサーが一眼レフ並に大きいので、かなり拡大しても大丈夫です。添付した写真を見てもらえば、画面左下の川岸で遊ぶ子供の姿もある程度見えるでしょう。顔の写真をとれば、小さなしわまでもはっきり写し出せ、女の人には憎まれます。今日は風景のいい写真を撮ろうと思うときはこのカメラが登場します。ただ学会など、ちょっとした旅行にはソニーのサイバショットを持って行きますが、どうもDP2と比較してしまい、画像が気にくいません。そこで何かズームもついて、マクロで接写もできる、コンパクトでかっこいいカメラを探していたところ引っかかってきたのが、このフジX10です。ファインダーで撮影できるのも、うれしいところですし、何より、メタルでできたボディーは適度に重く、高級感があります。大きさはほぼDP2と同じ、CLEよりはずっと小さく、軽い。液晶画面は今のカメラからすれば普通なのですが、DP2の画面があまりにひどいので、これでも随分きれいだと思いましたし、ピントにいたっては話にならないくらい早く、まだ撮影はしていませんが、操作性、大きさでは合格点です。

 ニコン、キャノンなどの大手メーカは最近パットしませんが、リコー、オリンパス、さらにシグマやフジフィルムも個性のあるカメラを出していますし、昔のカメラに比べれば安いのが、うれしいことです。X10を買って間もないのに、今最も欲しいカメラはシグマDP1、2 Merrillで、何とあの70万円もしたSD1と同じ4600万画素のFoveonセンサーを採用するという化け物カメラです。この描写は、DP2を使っているものからすれば、考えただけでうきうきするスペックですし、操作性も大幅に改善されているようで期待できます。このFoveonセンサーと現像ソフトSIGMA PHOTO PROのコンビは本当に写真でないような、絵のような美しい画面を産むため、その進化系のMerrillには相当期待されます。いくらぐらいになるでしょうか。またへそくりを貯めなくてはいけません。

2012年5月27日日曜日

歯科卒後教育



 以前から日本の大学の歯科教育の効率の悪さを指摘してきた。矯正歯科について言えば、一人前の矯正医になるには、日本では歯科大学の6年間、研修医の1年間、そして大学院の4年間、その後、医局での2、3年間の計1314年かかることになる。アメリカの場合、一般大学に4年、その後歯科大学の4年、矯正歯科の大学院の3年の計11年である。ただアメリカの場合、一般大学を出て、歯科以外の職につくことも当然可能であるから、実質的な歯科の教育期間は歯科大学の4年、大学院の3年の計7年ということになる。実に日本の半分の期間である。

 それではアメリカの大学院卒業生と日本の大学院卒業生を比べると、どちらの方が知識も含めて臨床能力があるかと言えば、私の感覚からすれば、アメリカの学生の方が臨床能力は高い。ちょっと頭でっかちな面があるにしても実によく勉強しているし、治療に対する理解も深い。

 なぜこの差がでるかと言えば、教育スケジュールの差が圧倒的にアメリカの方が濃いからであろう。日本でも各大学の新人教育がなされてはいるが、はてアメリカ並みのカリキュラムかというと、とてもではないが、話にならない。今は少し変っているかもしれないが、月曜から金曜日までぎっしりとカリキュラムが組まれ、その間に患者の治療が入る。帰るのは深夜で、朝も早くから授業が組まれている。配当患者数も多く、講義と治療で非常に過密なスケジュールとなっている。それに比べると、日本での大学院は、新人教育係の教官がプロフィットなの教科書を使い、解剖、セファロの分析や矯正装置の製作などを教える。配当患者は少なく、一日に見る患者数は1,2名といったところか。それ以外の時間は、研究が主体となる。午後から基礎講座に行き、指導教官のもと大学院研究や、論文作成を行う。最近は論文投稿も英文であるため、基礎の研究室にいる時間も長い。
 
 弁護士の養成のために、日本でも法科大学院ができ、より実践的な教育がなされている。かって日本でも医科あるいは歯科、ともに専門学校であり、医者にあるいは、歯医者になるための教育を学校でしてきた。それがいつの間にか、理学部や工学部、他学部と同じ土俵の研究面で評価されるようになった。鹿児島大学でも助手以上の教官については、理学部、文学部など全学部の教官の業績、論文が載った本が出版され、論文を書かない、研究しない教官は必要ないとまでされた。また教授選考においては論文数、それもインパクトファクターという論文の質を重んじるようになり、いきおいインパクトファクターの高く、論文が量産でできる基礎研究が教室の研究主体となってきた。
 大学院の研究は、組織培養、遺伝子工学など最新のミクロの研究がメインになっているが、大学院生の多くは、学位取得後はこういった研究を捨てさるか、趣味で続ける。というのはこういった科学の先端的な研究は、その道の専門家がおり、すべての時間を割いて必死に研究しており、臨床をやりながらの研究は中途半端でしかない。歯科に関係する非常に狭い範囲を対象にしており、臨床に還元されることもなく、また世間との接点は少ない。ノーベル賞をとれるような研究はない。

 アメリカの歯科大学を卒業した時点でもらえる称号はDDS(Doctor of Dental Surgery)あるいはDMD(Doctor of Dental Medicine)であり、臨床教授でもPh.Dをもっていないひとは多く、Ph.Dをもつ歯科医は基礎の勉強もした学者と見なされるため、大学に残り教授を目指す場合、Ph.Dをとるようだ。このあたりがそもそも日米の大学院の違いで、アメリカでは臨床大学院といった存在で、一般歯科のさらに上の専門教育といった感じであるが、日本の大学院は純粋科学の大学院ということになろう。多くの歯学部の学生は、そもそも臨床を学びたいのであり、医局に入局するのに大学院に入らなくてはいけないというのは、こうした点でも矛盾している。

 変に他学部に対抗する必要もなく、医学部、歯学部とも、良質の医者を作るとういう専門学校としての性格を忘れてはいけない。ただ医学部においては、ここ10年急速に臨床を重視した卒後教育制度に移行しているが、歯学部は旧態依然としているのが残念である。

2012年5月24日木曜日

仙台































 東北矯正歯科学会大会に参加するため、先週の土曜日と日曜日、仙台に行ってきました。開催場所は東北大学病院前の艮陵会館で、ここに行くのは15年ほど前に咬合誘導学会に参加して以来でした。

 地下鉄で北四番丁まで乗り、そこから歩いて会場まで行こうとしましたが、北四番町あたりは昔の面影が一切なく、本当に驚きました。アパートが上杉でしたので、この道を学部4年間と小児歯科3年間の計7年間通ったので忘れようもありません。それが地下鉄の駅を出てさあ行こうかと思っても、どちらに行ってよいか迷い、通行人に道を聞く始末です。あたりの景色が一変しています。学生時代、といっても30年前ですが、その頃の建物は一軒もない状態で、道に沿ってずらっとビルが建てられています。おそらく大震災後の建物ではなさそうです。

 東北大病院は、15年前は一部完成していましたが、今回行くと大きなビルが何棟も建ち、これも昔の面影は一切ありません。ただ歯学部の方は、一部新たな建物が建っていましたが、あまり変化がなく、唯一ほっとしました。昔、東北大学医学部附属病院前には学生向けの食堂があり、毎日にように利用していました。一軒はめしの半田屋、もう一軒は山田屋、両方とも安くて量が多く、多くの学生が利用していました。半田屋のラーメンはすり鉢に入っているというビッグなものでしたし、山田屋、ここは野菜炒めと生姜焼きはうまかった。ごはんも多いが、おかずも多く、さらに食べ残すとおばちゃんに怒られるため、懸命に食べたものでした。週に4回は行ったものです。女の子が来ると、おそらく食べ残すのを見越したのか、「今日は終わりました」と言って断っていました。一度、ここのおばさんが子供を連れて小児歯科に来たことがありますが、医局員の中にも受連が多く、随分歓待されました。おそらく医学部のどの診療科に行っても同様だったのでしょう。えらくおめかししていたのが笑えました。

 歯学部の前には「カンカン」という喫茶店があり、歯学部の連中のたまり場でした。金もなかったのですが、ほぼ毎日のようにここに行ってコーヒをのみ、雑談して、漫画を読んでいました。バイトに来ていた東北学院大の娘を目当てに行っていたという側面もありましたが。一学年、40名、私の学年は80名に増員されたのですが、クラブ関係もあり、上下の学年の人とは仲がよく、カンカンでも先輩、後輩と色々話し合ったものでした。

 このバイトの娘が、一番町にできたばかりの「モーツアルト」に移ったので、私もそれ目当ての土曜日、日曜日にはよくここに行きました。階段を登って3階にあり、ひげを生やしたかっこいいマスターがカウンター向こうでだまってコーヒを入れてくれます。ここはその後もデートに、仙台に行く度に今でもたまに行きますが、内装は随分変りましたし、マスターもほとんど見かけませんが、落ち着く喫茶店です。ちなみに今回、宮城県県立美術館にも行きましたが、ここにもモーツアルトの分店がありました。

 仙台も急速に東京化というか、古いもの、汚いものが一掃され、それはそれで綺麗でいいのですが、ちょっと面白みに欠けた町になったようです。極めつけは懇親会が勝山館で行われたのですが、ここは前のアパートから50mくらいのところですが、家に帰って調べるまでわかりませんでした。道が広くなり車の通行には便利になりますが、道の沿った両側の家がすべて建て替えることになり、町の景観は一変することになります。ヨーロッパでは、市内への車の侵入を禁止し、道は逆に狭くするところもあるようですが、道を一本作る、あるいは道幅を広げるだけで、古い建物が壊されることは非常に影響が大きいことです。もう道を作る必要はないのではないでしょうか。ヨーロッパでは、鉄道と自動車の「イコールフィッティング」という考えがあります。道路を作るのに金をかけるのであれば、鉄道のインフラも同様に金をかけろというものです。環境問題を受けて、鉄道のインフラ部分、線路、駅などは国、地方が引き受け、鉄道の運行は民間に任せるやり方です(上下分離、オープンアクセス)。さらに増発し、運賃も低く抑え、検札を行わない「信用乗車方式」を取り入れ、ドイツのフライブルグでは環境キップと呼ばれる年間485ユーロで3000キロに及ぶ鉄道、バス、路面電車を自由に乗れるパスを発行しています。他人に渡すことも可能で、日祝日は大人一人と子供四人まで無料です。当然、赤字経営ですが、それは公共事業として捉えています。弘前でも弘南鉄道と弘前駅と中央弘前駅を結び、今はやりのLRTという路面電車を走らせたら、黒石、弘前、大鰐間のアクセスは車に頼る必要もなく、景観的にもよほど楽しめます。

2012年5月16日水曜日

旧笹森家



 弘前城の北には、武家屋敷の面影を色濃く残す若党町と小人町があり、この地区は弘前市仲町伝統的建造物群保存地区になっています。サワラ塀に囲まれた家が並び、ここを歩くとあたかも江戸時代にタイムスリップしたような感じになり、多くの観光客が訪れています。

 この地区には、現在旧岩田家、旧伊東家、旧梅田家の3棟の武家住宅が江戸時代をしのぶ建物として、保存され公開されています。この3軒はよく遊びに行って、常駐しているボランティアの方とお話をしたりしますが、昔の台所はこんなに暗かったのか、夏はいいだろうが、冬は寒かっただろうなあ、といった色々な感慨にふけったりします。歩くだけでなく、こういった建造物があるのは、観光コースとしては非常にいいことだと思います。

 この地区にどうやら4棟目の武家屋敷ができそうです。文化庁のHPを見ていたところ
http://www.bunka.go.jp/publish/bunkachou_geppou/2011_12/series_08/series_08.html)、住宅の立て替えで取り壊しが予定されていた古い建物を平成7年に市が所有者から譲り受け、これまで主要構造物を保管していたようです。何でも現存する18世紀中頃まで遡れる唯一の武家住宅で,市内最古のものだそうです。この旧笹森家についてはHPでは、保存地区北東部にあったとしています。明治二年弘前絵図で調べると、笹森の家は同地区には笹森要蔵と笹森藤太の2軒があります。笹森要蔵の家は先日、別の用事でお邪魔しましたが、古い家でしたが、明治末から大正頃の住宅で、これはこれで同時期の建築としては価値があるでしょうし、庭も昔の風情を残しています。今回、新たに公開される予定になっている旧笹森家は、おそらく小人町の笹森藤太の家でしょう。ちなみに今の住宅地図で調べると前の市長のところでした。よく保存したと思いますし、英断だったと思います。仲町地区にも3040年前には多くの武家屋敷が残っていましたが、ほとんどが壊され残っていません。壊してしまえば、おしまいですが、解体し、保存しておけば、再建できるのです。こうした点では日本式家屋は分解、再建ができるのですが、西洋風家屋はこういうわけにはいけません。

 この旧笹森家をどこに復元するかをHPには記載されていませんが、四軒目の武家屋敷としては楽しみです。ただ展示方法についてはもう少し工夫がいるかもしれません。この仲町地区は多くの偉人がいますので、実家なども含めた説明があってもよいかもしれません。笹森順造、笹森卯一郎、高杉兄弟、岩田平吉、小館かつ子(中田重治妻)、須藤勝五郎、岩川茂右衞門(今東光祖母実家)、須郷元雄、藤田雄蔵(航空研)などが若党町、小人町の偉人としています。マイナーといえばマイナーですが、こういった人物は逆に弘前でなければ知り得ない人物です。また若党町とは直接関係ありませんが、旧伊東家については、今東光の実家としてエピソードなども説明してもいいかもしれません。さらにお茶くらいは出して、無料休憩所を兼ねれば、案外ああいった家で飲んだお茶の味は記憶に残るかもしれません。さらにねぶたの前日でもいいのですが、江戸時代のコース、確か紺屋町から若党町に抜けるコースだったと記憶していますが、小型のものを運行するのも風情があっていいかもしれません。

2012年5月14日月曜日

ブナコ 3




 先日、家庭画報を見ていると、Paper Woodという北海道のシラカバの間伐材と色紙を積層に重ねた合板を使った作品が載っていました。従来の合板のイメージを変えるもので、色紙の素材、色を変えることで椅子、ボックスなどのインテリアや建材など、色々な用途に使われています
http://www.drill-design.com/gohan/#article003)。そして、その作品性の高さとエコの観点から、この素材を使ったスツールがドイツの国際的デザイン賞である「red dot design award」を受賞しました。

 この作品を見て、私は弘前の誇るブナコを思い出しました。同じように用途の少ないブナ材、それも薄くテープ状にしたものを使っていて、やはり造形の面白さとエコの観点から高い評価を受けています。

 ブナコの昔の作品を見ていますと、今のように単一の色だけでなく、二種類の色を使い、Paper Woodと同じような木口を見せていたようなものがありました。私の持っている昔の皿には濃い茶と薄い茶の色が使われ、木目のような美しい模様が入っていますし、赤、黄色のような色付けした素材を使ったものも見た記憶があります。であれば、Paper Woodと同じようなカラフルなブナコもできるのではと思ってしまいます。テープに着色したのか、2種類のテープを使ったのか、技術的なやり方はわかりません。ただもしこれができれば、ブナコの可能性はさらに高くなります。大きめのダストボックスやランドリーボックスなど、赤や青のラインが入れば、かっこいいなあと思ってしまいます。

 さらにこのPaper Woodを作っている合板研究所とコラボすれば、直線はこのPaper Woodを、局面はブナコを使ったユニークな椅子もできそうです。地域の特産品から、ブナコは国際的なプロダクトに挑戦していますが、造形面での面白さだけでなく、視覚的な美しさ、カラーバリエーションもあっていいように思えます。

 テレビで欧米のセレブの間で、日本の工芸品が高い評価を受けており、輪島塗のある集団は海外のコレクターのためだけに手間のかけた作品を提供しているケースもあります。とくに日本の根付け、印籠など小さな作品はコレクター心をくすぐる要素、自分ひとりだけで楽しめるといった点から明治以降多くの名品が海外に流出しています。県内、国内だけに目を向けていると販路は限られてきますが、こと海外に目を向ければ、輪島塗や根付け、印籠など高価な品であっても、購入者はいます。生産者と海外の購入者との間を結ぶルートが鍵になるのでしょう。

 弘前の工芸品、名産品としては、ブナコ以外にも津軽塗、アケビ細工、こぎん刺し、津軽打刃物などがありますし、かっては藁細工、すだれ、筆や兼平石という大きな一枚岩も名産品だったようです。さらに弘前藩記事によれば明治元年に諸藩への贈答品として、弘前織白羽二重、畦織の他、弘前塗弁当などが見られます。弘前塗は今の津軽塗のことですが、弘前織あるいは畦織がどんなものかわかりません。畦織とは博多織のような平織りのもののようですが、どういったデザインかはわかりません。さらに弘前塗料紙文庫、硯箱などもあり、今は津軽塗と言えば、木製の椀などの木地に塗っていきますが、紙にも塗っていたことがわかります。現行品でも和紙に津軽塗を施したコースターなどがありますが、もっと着目してもよい素材かもしれません。

2012年5月11日金曜日

アメリカからの応援




 東北大震災から早くも1年以上経ち、まだまだ復興にはほど遠いのですが、少しずつ被災された人々も新たな出発を始めているようです。友人の歯科医も診療所がすべて流されましたが、何とか仮の診療所を開設しました。住民がまわりにおらず、元のような状態になるには相当な期間がいることでしょう。

 アメリカの友人からビデオが送られてきました。オハイオ州のシンシナティー近郊LoveLandという所のMcCormick Elementary Schoolの生徒が日本を応援しようと製作しました。日本に住まわれ、日本語も上手な方が音頭をとり、生徒が自主的に作ったものです。日本語ができるのですが、漢字には自信がないため、友人の奥さんが協力したようです。生徒達の暖かい気持ちが伝わります。

 英BBC放送による調査によると、日本が「世界に良い影響を与えている」という評価は58%で、22カ国中で日本が最も高く、ドイツ56%、カナダ53%、英国51%などが続いたとのことでした。自分たちが思う以上に日本は世界中から愛されていることがわかる調査だと思いますし、これは大震災後の世界中からの支援、応援にも言えることでしょう。自分たちは一人ではない、世界中から心配され、応援してくれているというのは、先の阪神大震災以上に今回はっきりとわかりました。今度、他の国で同じようなことがあれば、恩返しに私たちもできるだけの応援をしようと思ったひとも多いと思います。

 アメリカや南米の日系の人々の苦労と努力、海外青年協力隊あるいは中村医師のようなアフガニスタン復興への手助け、色々な日本人の海外での活躍が、こういった評価に繋がっているのでしょう。ことに台湾からの支援は本当に頭が下がる思いで、日本政府(交流協会)が台湾の人々に感謝の気持ちで作ったCMには感動します。交流協会の久々のヒット作品でしょう。これは日台友好にとって大きな意味をもち、他の国に感謝する愛国心、これが今度の震災を通して私たちが得たものではないかと思います。一方、お隣の韓国については、多くの援助をいただきながらも、一部の偏向した愛国的な人々の発言には、一気に嫌韓国になった人も多く、台湾とは対照的に外交、友好に関しては失敗だったと思います。

 先のアメリカからのビデオを見ていますと、確認されるだけで7名の子供が矯正装置をつけていました。これから治療をする子供も含めると、ほとんどの子供が矯正治療するんだと、こういったごく田舎の子供達の姿をみているだけでもわかります。アメリカでも矯正治療には費用がかかりますが、それでも一種の通過儀礼のように歯並びの治療を受けるのでしょう。同様にヨーロッパの人々も保険が適用されますので、アメリカ以上にみんな矯正治療を受けています。外国人から見た日本人は親切で、真面目、誠実などいい評価を受けているようですが、唯一わからないのが、なぜあんなに歯並びが悪いのかということです。グローバル化と言われていますが、一刻も早く日本も歯並びについて先進国並みになってほしいところです。

2012年5月4日金曜日

昭和史を陰で動かした動かした男


 「ポーツマスの旗」(吉村昭著、新潮文庫)を読む。ポーツマス会議に随行した弘前出身の佐藤愛麿のことを知りたいと思い、購入した。古い本ながら吉村さんの綿密な調査には舌が巻かれた。日露戦争時の日本とロシアの情報戦争というべき裏面の活動にも多くのページをさいており、日露戦争の裏のインテリジェント史としてもおもしろい。日露戦争当時、オランダ大使館から日本の暗号表が盗まれ、日本の外交電信のほとんどがすぐに解読されていて、情報は筒抜けであった。日露国交断絶の知らせを、駐露公使栗野慎一郎よりロシア皇帝ニコライ二世の方が先に知っていたという笑えない話もある。一方、日本でも、明治19年に長崎に入港した清国北洋艦隊の乗務員が騒擾事件をおこしたが、この機に乗じて清国の暗号表を入手し、電信課長を務めていた佐藤がそれを基礎に暗号研究を行い、日清戦争の折にはほぼ清国の暗号は解読していた。下関条約の際には、清国全権李鴻章の真意をすべて読み取り、交渉を成功裏に収めた。

 そのため、ポーツマス会議では会議用の特別な暗号を持参し、さらに暗号のエキスパートの佐藤愛麿を随員に選んだ。日本全権小村寿太郎はハーバード大学を、佐藤はデポー大学を卒業しており、いずれも英語が堪能な上にアメリカの国民感情にも精通していたし、この随員の中にはデニソンというアメリカ人がいたことはその後の交渉に大いに役立った。その他の随員の選択もベストで、状況は違うが、太平洋戦争前の日米交渉とは意気込みが違う。このポーツマス会議における日本の外交交渉は、世界各地に散らばった公使館、日本人から情報をすばやく集め、その情報に基づき、外交交渉を進めるという極めてオーソドックな手法を用いていた。外交交渉のクライマックスは、領土問題と賠償金交渉で、賠償金放棄がかぎとなっていた。明治の政治家、軍人の偉かったのは、冷静に現地軍の情勢を分析し、賠償金放棄しても講和を結ぶべきと全員一致で放棄を決議した。当然、こういった決断に国民は強い抵抗があることはわかっていただけに、苦渋の選択であった。こうして講和が成立した。この緊迫した会議の経過は読みごたえがある。

 「昭和史を陰で動かした男 忘れられたアジテーター・五百木飄亭」(松本健一著、新潮社)では、この講和に強い反対を唱え、アジテーターとして日比谷焼打ち事件を主導した五百木の生涯を描いている。正岡子規の初期の俳句の弟子として実直で、詩才に恵まれた人物が次第に国粋主義者に変貌していく過程は、そのまま日本国民の姿であり、それを誘導したのが、新聞であり、知識人であった。勝った、勝った日本は強いという威勢のいいナショナリズムは容易に国民に染み付いていくもので、そのまま日本をアジアの盟主とする帝国主義に移行していった。その移行を体現していたのが、五百木の生き方で、ある意味、彼の生き様は典型的な日本人のそれであったのだろう。国民の不満を聞き、それを増幅してアジる、こうしたことに朝日、読売など大手新聞社も同調し、あの太平洋戦争に突入していく。ポーツマス会議での政府の冷静な対応と、それに対する国民感情の乖離、そしてそれを増幅する人物、マスコミの姿をこれらの二つの本は表裏として伝えてくれる。個人的には、犬養毅、頭山満、五百木らのアジア主義が次第に日本を盟主とした帝国主義、大アジア主義となっていく変貌と中野正剛、山田純三郎、宮崎滔天らが支持する孫文のアジア主義との違いが、松本氏の本でよく理解できた。

 翻って、今の日本の政府にポーツマス会議に出席したような専門家、インテリジェンスがどれだけいるか、実に心もとない。少なくとも、アメリカ、ロシア、中国については、現地の大学を卒業した人材が必要だが、昨今の若者は海外留学しないため、ルーズベルト大統領との仲介をした金子堅太郎のような人物がいるであろうか。また最重要な会議にデニソンのようなお雇い外国人を連れて行き、重要な案件を任せるような度量があるであろうか。明治人の人を見る目は確かである。

 写真はWikipeiaの写真だが、座っている右の人物が小村寿太郎、左が高平小五郎、後ろ右から佐藤愛麿、デニソン、竹下勇海軍中佐であろう。

2012年5月2日水曜日

Luukuu house




























 我が家は、長女が中学、次女が小学校に入学した時に建てたものだが、二人ともいなくなり、夫婦だけで生活するようになると、どうも勝手が悪い。将来的には夫婦とも歳をとるにつれ、益々使い勝手は悪くなるのであろう。といってこの歳で、新たな家を建てる費用もなく、何とか今の家で生活しなくてはいけないが、老後二人で暮らすならどんな家が理想的か、空想することは楽しい。

 二人であれば、最小限の部屋で、できるだけ動く距離が短く、何でもできるのがいい。さらに寝室は寝るだけであり、できれば寝室の横に風呂と便所があるのがよかろう。当然、二階への上り下りは大変なので、平屋で、できるだけワンルームの形態が望ましい。

 レマン湖のほとりにあるコルビジェが母のために建てた「母の家」(1925年)もなかなかよい。この家は18坪ながら、必要最小限の構成で、中にドアがほとんどない回遊性の設計のため、狭さは感じられないし、生活するには便利のように思える。何より細長い、建物の一辺がレマン湖に面しているため、そこからの眺めは格別である。レイアウト図を見ると、水回りは集中しているが、トイレの位置はベッドからはぐるっと廻ることになる。それとキッチンの位置はリビングダイニングから少し離れており、通常はキッチンの横で食べることになるだろう。老人が住む家のひとつの完成形がここにある。

 コルビジェの「母の家」の現在版が、アアルト大学建築学部の提唱するLuukku Houseである(2010)。最新のテクノロジーを結集させたエコ建築で、床面積でわずか42平方メートル、13坪足らずの家である。この家のことは現在、青森県立美術館の「フィンランドのくらしとデザイン」で紹介されていた。全部白木でできており、デザイン的にもすばらしい。また太陽パネル、最新の断熱材、窓ガラス、給湯システムなど、出来るだけ、エネルギー効率のよい家を目指しており、ほとんどプレハブ工法で、作るのも簡単そうであるし、量産化されれば費用も安いであろう。ただ雪国、青森では耐久性がちょっときびしいかもしれない。(“luukuu house”で検索、Energy Efficient Solutions in HousingPDFファイルに詳しく説明されています)

 家内の旧実家は、築120年以上経つもので、曾祖父が大工をしていたので、中が作業場を兼ねた建物であった。玄関から家の真ん中を土間が走り、途中に井戸がある。この土間に沿って6つくらいの部屋があり、それぞれの部屋には囲炉裏がある。二階への階段は二ヶ所あり、部屋と部屋をつなぐ廊下はまるで橋のような構造であった。怖くて二階には登ったことはないが、トイレと風呂は土間を挟んであり、寒い冬はこの土間を通って便所に行くため、その寒さは思わず目が覚めてしまう。もっと昔は、便所が庭にあったようで、夜間は寒いため尿瓶でしていたようだ。窓の部分はガラスではなく、障子で、ほとんど外気との遮断がなく、ビニールで完全に覆っていた。各部屋はストーブがあったものの、隙間風で寒く、おそらく囲炉裏を使っていた時は、火元のみ暖かく、背中は寒かったのだろう。こういった家は、京風の和風建築を範としたもので、全く青森の冬の寒さを考慮していなかった。20年ほど前から、高気密住宅が普及してきて、我が家も窓ガラスはすべて2重、3重窓、断熱材もたっぷり入り、パネルヒータで全室暖かい。随分進歩し、快適な冬を過ごすことができる。

 そういえば、アアルトが友人の作曲家コッコネンのために作ったVilla Kokkonen は私が最も好きな住宅のひとつで、家の写真を見ているだけで落ち着く。二つの棟が引っ付いており、ひとつは大きなピアノが置かれ、小さなコンサートができるようになっているが、もう一つの棟は住宅で、この部屋の配置が絶妙で、先に述べたLuukku houseにも通じる。冬が長く、寒いという点ではフィンランドと青森は似通っており、こういった生活に根ざした住み良い建築が青森からも発信してほしいものである。