2014年5月31日土曜日

黒石美人



 最近はずっと今東光の著書を読んでいる。小説なので、そのまま信じるわけにはいかないが、東光は若いころは相当に女遊びをした。色々な場所で多くの女を抱いた。その結論として、「総別、上方の女は皮膚が悪い。それに比べると関東の女は色こそ浅黒いが肌理がこまやかで、しっとり潤っている。それが更に東北に行くに従って雪国の女の肌ときたら、餅肌といわれるほど潤滑で、その抱き寝の心持ちというのは得も言われないのだ。」(「青春画譜」、今東光、昭和36年)と語っている。さらに東北人の特徴として米子の彫刻家、戸田海笛という人物の言として、「秋田泥棒、南部火つけ、津軽人殺しと言うじゃないか。その津軽人が君なんだから、うっかりすると今夜あたりお陀仏になってたかもしれない」としている。これは福士幸次郎によれば、「南部の火つけ、津軽の手長、秋田のほいド」、「日本東北部のこれ等三地方人の質を明した言葉として用ひられてゐる。南部人は何かといふと他人の家に火をつける。性質暴。津人は手が長い。敏捷で がならぬ。秋田人は享的で物欲しがりだといふ。ホイドとは乞食の事である。一に南部の人殺し、津の手長、秋田の火つけといふことも言はれる。地方人にする斯ういふ口は多いものである。」となっており、こちらの方が一般的である。手長とはどろぼうのことで、戸田の勘違いであろう。

 話を戻そう。今東光の「青春放浪」(光文社、昭和51年)を読むと、今和尚は津軽女のうち、とりわけ黒石美人をお気に入りのようである。昔から弘前男に黒石女という言葉があり、黒石には美人が多い。本の中の従兄との会話を取り出すと、「「どんだば。あの黒石女は」、「とても素晴らしかったな」、「そんだべ。昔から津軽男に」、「黒石女って言うんだろう。色が白くて、肌がよくて、そして情が深いって」、「そんだ。そんだ。黒石女を抱げば東京の女などかさかさした乾物みたいで、とうていまいねな」と従兄はうまい表現をする。」別の箇所では「少し赤毛の髪を束髪に結い、地味な単衣に帯だけ派手なのをしめていた。津軽女に似げない瓜実顔は津軽氏の始祖が都から美女を輸入した末裔の血ではあるまいか。大体、津軽女は円顔が多いからだ。黒目勝ちの大きな眼が印象的で色は抜けるように白い」と従兄の恋人を評している。

 もともと津軽の地は、縄文人、蝦夷の人々が住んでいたところであり、17世紀まで竜飛岬近くには蝦夷の部落があった。そこに主として秋田県側から大館を経由して弥生人、倭人が移動してきたのであろう。松木先生の血液型の研究からも弘前、黒石地区の人々と秋田県北部の人々の関係性は高く、秋田美人と津軽美人は同系統なのである。今東光は津軽に美人が多い原因を初代殿様、津軽為信が都から多くの女をつれてきたとしているが、そんなに美人が京都からこんな僻地には来ない。むしろ、混血化の結果であろう。まず倭人と蝦夷の混血、さらに渤海人との混血があったのではないかと思う。渤海(698-926年)は北朝鮮北部、昔の満州に相当する地域にあったツングース族の国だが、詳細はわかっていない。日本との交流が多く、渤海使として727年から927年まで都合35回の使節派遣があった。ルートとして、直接九州に向かう筑紫路と呼ばれるものは危険なため、塩州から一気に日本海を横切り日本に向かうルートが安全であった。現在の北朝鮮とロシア人の国境近くのポシエトから秋田、能代、などに海流に乗って多くの渤海人が渡海した。

 寒い地帯に暮らすツングース族からすれば、北日本の寒さなどを問題なく、商売などで日本に来ているツングース族の一部が定着したと思われる。

 写真中は「くぐる鳥居は鬼ばかり」というブログで引用している黒石の東公園での大正末年の芸者さんの写真である。ちょうど今東光がよく弘前にきていた時期である。左右一番端に写っている女の人はタイプである。写真下は「空白つれづれ草」というブログに載っている大正中期の鯵ヶ沢遊郭の女将の写真である。歳はいっているが、鄙には稀な美人である。

2014年5月19日月曜日

西沙諸島問題とアメリカ


 中国による西沙諸島(パラセル)への挑発活動が活発化し、ベトナムと交戦寸前の状態となっている。中国の戦略は、まず漁船、商船などの民間船による侵入、その後、軍隊でない巡視艇による威嚇、そして海軍、空軍の進出の順番となる。現在、永輿島(ウッディー島)には島をはみ出す2400mの滑走路をもつ基地が建設されている。ただこの基地は島自体があまりに小さく、かつ攻撃に対して非常に弱いため、中継基地の性格を持ち、基本的には海南島が中国空軍、海軍の主要基地であろう。

 戦力的には中国軍がベトナム軍を圧倒しており、海上での交戦、海軍と空軍の戦いでは、ベトナムには勝ち目はない。第二次世界大戦後、大国同士の戦争はなく、小国に対する弱い者いじめ戦争のルールに合致する。アメリカ、ロシアもそうである。必ず自分より弱い相手ででないと戦わない。現実の国家ルールとしては当然なのであろう。今回の場合も、ベトナム側から先に手を出し、中国軍が反撃し、ベトナム海軍、空軍を壊滅させるシナリオが中国にとっても望ましい。

 民主党政権になった折、中国、ロシアとも日本周辺領域に航空機を出して、活発に活動し、新しい政権を試すような行動をとった。今回も、本来なら中国戦力が南に移動している隙をみて、日本も日本海での偵察、訓練などの活発な軍事活動をとり、牽制すべきだ。アメリカは民主党政権だからか、あまり表立った活動はない。本来なら第七艦隊の動きがあってよさそうだが。本日、原子力空母ジョージ・ワシントンが横須賀を出港したが(15:22)、行き先に興味が持たれる。

 中国海軍は近年、大幅な増強を行い、数年後には本格的な空母が登場しそうである。ただもともと中国は陸軍を主体とした大陸国家であり。外洋海軍を作り出したのはここ10年ほどで歴史は浅い。日清戦争以来、海戦経験はない。果たして実戦で、どの程度の実力があるか未知数である。

 一方、ロシアもしたたかで、最新型の戦闘機Su-34と対艦、対空ミサイルをベトナムに供給することになったが、中国には一世代前のJ-11あるいは Su-30を供給しているだけで、さらにそれは本国のそれより性能が劣る劣化コピーである。同様に潜水艦も最新型のディーゼル潜水艦キロ型をベトナムに供給しているが、中国にはそれより劣化コピーであり、あと数年すれば、ベトナムの方が数は少ないが、戦闘機、潜水艦性能は中国より高くなる。あれだけ中国の石油基地がベトナム近くだと、軍事力に差があっても防衛は難しい。

 ここまでは現状であるが、中国の医療費、社会保障費の国家負担は世界でも最低に近く、一人っ子政策による今後の高齢化を考えると、国内の不満を解消するのは非常に厳しい。軍事費、保安費(治安費)の国家予算に対する比率は、公称で11%くらい、実体は20%を越えるが、教育、医療費、社会保障費の増大を考えると、これ以上の支出が難しい。今後、空母を持つ場合、西太平洋で覇権を築くには、最低3セット、できれば4セットの空母機動部隊を作らなければいけないが、3つの空母、それを防衛するイージス艦、攻撃用原潜、航空機などを考えると、膨大な費用がかかる。ソビエト崩壊の直接の原因は軍備費の膨大であり、中華帝国化を目指す現状の政策は中国国民の不満、それに続く崩壊を招きかねない。

 今回の西沙諸島問題についても、中国自身強引なやり方はわかっているが、一番の関心はアメリカの動きである。アメリカ経済、マスコミへの親中派の浸透がどの程度なのか、それを探るための紛争であり、アメリカの介入がなければ、次はフィリピンか日本、とりわけ尖閣列島への手出しに対するアメリカの反応が一番見たい。口だけで、軍事介入がなければ、アジアでの中国の優勢は一気に高まる。ただ本気で軍事介入されると、さすがの中国軍も惨憺たる結果を招きかねないので躊躇している。そこで昔、アメリカと戦い軍事介入しにくいベトナムなのである。介入意志がないことがわかっただけでも大きな収穫である。

 朝貢外交とは、かつて中国周辺の国々が 定期的に中国へ使節を送り、貢物を納める代わりに中国から安全を保障され、貿易を行ってきた古代の国際関係を指す。アジアのアメリカ支配から中華帝国化(朝貢外交)、大アジア主義が中国の最終目標である。すでに韓国は、その馬鹿げた反日政策をうまく利用され、朝貢国家になり、アメリカも手を引きつつある。アジア諸国の中でも唯一、朝貢国家とならなかった日本が最後の目標である。


2014年5月15日木曜日

今東光の描く弘前ねぷた


 最近は本業の歯科以外の頼まれ事が多い。東奥義塾経済同友会の講演が来月、弘前大学のシニアカレッジの講演が9月、また今東光の弘前関係のちょっとした論文も書かなくてはいけない。義塾については集中的に勉強して何とか構想はまとまったし、弘前大学の方は古地図の解説を考えているので、これも問題ない。問題は今東光関係の論文である。今東光の父、武平、母、綾はいずれも弘前出身で、今東光の知人も弘前出身者が多い。そのあたりをまとめようと考えているが、ふと考えると今東光の著書はひとつも読んでいない。早速、本屋で、探してみると、現在唯一、書店で取り扱っているのは「毒舌日本史」(文春文庫)のみである。これが面白い。失礼ながら今東光和尚がこれほど博学とは思わなかった。古墳時代から明治まで、それこそ日本史全体について、すごい知識である。それもインタビューであるので、ここでの対談はすべて今東光の頭にある知識で、その記憶量とその背景にある膨大な読書量には圧倒される。中国、ソビエトに対する時事問題についての考えは、今からみると実に鋭く、是非ともお読みいただきたい。

 これ以外の本は、すべて古書となるので、近くの古本屋で求めたのが「十二階崩壊」(中央公論社)である。内容は恩師、谷崎潤一郎の回想であるが、ここでも驚くべき記憶力を発揮して、谷崎の普段の生活を詳しく描写している。この人は僕らの世代の人から見ると助平坊主というイメージであるが、実際に若き日の今東光の遊びぶりもすごい。この本の中で弘前ねぷたのことが書かれているので、少し紹介したい。リアリティがある(無断で引用して中央公論社の方にはお詫びします)。

 「今でこそ東北三大祭などと称せられる練武多は、青森が主体となって盛大華麗をきわめるが、城下町弘前では青森の練武多を鼻でせせら笑って馬鹿にしているのだ。青森という港町は旧藩時代はしがない松前との貿易を扱った漁村で、明治になってから次第に港町の体裁を整えてきたが、畢竟、町人の町なのだ。従って毎年の練武多もいたずらに華やかで、その代わり如何にも港町の祭らしい気分を横溢した光景が見られた。「あれだきゃ女子供の遊びぜ」と弘前の人々は軽蔑していたのだった。」と青森のねぶたには厳しい。そして弘前ねぷたを「宵から八九時頃までは賑やかで女子供等の多い祭も、十二時前後、森閑とひそまり返った真暗な道路に、まるで闇を掻き分けるように一団の若い者がひたひたと草履の跫音(きょうおん)を立てて通り過ぎるのだ。それはたった一つの小型の燈籠をささげ、太鼓もわずか一つ、笛も一本くらいで、その喧嘩練武多というのは女の不気味な生首など血みどろに描いた扇燈籠のことだ。この喧嘩練武多を取り巻いている若い衆は、竹刀や木刀の他に仕込み杖などという物騒な得物を持ち、荒い息を吐きながら、喧嘩相手求めて暗い細い道までも厭わずに歩き廻るのだ」、ここで上町と下町との因縁を説明し、「中学までは夏ごとに弘前に帰郷した僕は、学校を退校させられてからは、時季を択ばず弘前に戻って従兄と悪遊びに耽ったが、練武多の絵を頼まれ淫らな裸婦を描いたら皆な、「これだばまいねじゃ。この裸コの姐(あね)さ担いでだば喧嘩できね。喧嘩より抱く方が好(え)かべし」という訳で、女の血のしたたるような生首を描いてくれと注文だ。仕方がないから夏狂言のお岩の首を描いてやると、これは大喜びで迎えられた。実は僕も仕込み杖の刀身を磨きあげてひっそり携えて行ったのだ」この人は、かなり津軽弁ができる。従兄は伊東五一郎のことか。「昔の武士は合戦の場に臨むと武者震いが出たと聞いて、その時は大した感情も懐かなかったが、実際の真夜中の大喧嘩に巻き込まれると、僕は身体震えて立っていられないくらいの経験をした。全く鼻を摘まれてもわからないくらい真暗な闇の中で、砂塵を巻き立てて一団の黒い影法師がぶつかり合うと、どちらも両側の小店に取りついて屋根に上り、屋上の板茸の屋根の押えをしている人間の頭ほどの石をぶうんぶうんと投げて来る。誰にむかって投げるのではなく、盲滅法に投げてくるので、味方の石で頭を削れられるかもしれないのだ。そのために、林檎を容れる竹の目無し籠をかぶって頭部の防ぎをしているので、その格好はまことに異様な風態なのだ。そして闇の中できらりきらり白刃が閃くと、わっと人々の群れが飛び散る。するとその白刃を目懸けて石がぱらぱらと集中するのだ。時折の魂消るほどの叫び声が聞え、壮絶な格闘が随所で起こるのだ。」実になまなましい描写で、喧嘩ねぷたの状況を的確に現している。平尾魯仙の弘前ネプタの文久年間の絵だが、今東光の描く喧嘩ネプタに近い。こういった喧嘩ネプタが最後に行われたのが昭和8年である。今東光の参加した喧嘩ネプタは大正のころで、日本刀で本当の切り合いがあった明治期のねぷたよりはこれでもややおとなしくなっている。

 写真上は平尾魯仙の絵、下は今東光が弘前帰省の折に泊まった、伊東家の二階部屋である。

2014年5月11日日曜日

弘前市民会館の管理棟



 今日は天気が良かったので、散歩の途中、弘前市立博物館に寄ってきました。ここの後援会に入っているので、カードを見せれば無料です(年間会費は安いので何度の行く人にはお得です)。リニューアルされ、展示ガラスもよく見えるようになりました。また湿度、温度管理もきちんとできるようになったので国宝の展示もできるようになりました。逆に今まで、国宝展示ができないような環境だったとは驚きです。

 帰りは、これもリニューアルされた弘前市民会館の管理棟に行ってきました。以前の雰囲気を残しながら、きれいにリニューアルされ、いい感じです。受付でパンフレットをもらいましたが、大会議室(定員108名)の利用料金は午前で4470円、全日でも19370円、中会議室(43名)は2310円、10010円、第一小会議室(39名)は1880円、8140円、 第二会議室(20名)は1200円、5200円、和室(20名)は1970円、8550円とかなり安いと思いました。近所にある藤田庭園の洋館にある会議室もおしゃれですが、この管理棟の会議室もちょっとした会議や講演会、小さな学会でも活用できそうです。また館内にはおしゃれな喫茶室、batonもあり40名くらいまで昼食もできるようです。コーヒーもなかなか本格的でおいしかったです。全体的には便所も含めてかなりきれいになりましたし、おしゃれなので、皆様も活用されたらどうでしょう。ただ駐車場がやや狭いのが欠点かもしれません。

 壁には古いシチズンの壁掛け時計がありました。インターネットで調べても同形のものはなく、いつ頃のものかわかりません。シンプルでいいデザインです。こういった角型の掛け時計はわりと少なく。シチズンさんも電波時計にして復刻されたらどうでしょうか(デザインをそのままパクッタものが無印良品にありました。http://www.muji.net/store/cmdty/detail/4548718643844)

 弘前市民会館および管理棟は、コルビジェの弟子、前川國男の作品です。1964年に落成されましたので、今年で50年になります。今回のリニューアルでも随所に昔の雰囲気を残しながら、トイレなど必要な改修がされており、好感が持てます。古い施設を残しながら活用するのが、今風のように思えます。年配の人には古い記憶を思い出しますし、若い人にはおしゃれに思うでしょう。古いものを壊して新しいものを作ることは悪いことではないでしょうが、弘前ではできればそういったことはしないでほしいものです。新しいものは東京や大阪にはいっぱいあるのですから。

 現在、弘前博物館は美術館を兼ねているため、できれば吉井酒造の煉瓦倉庫を美術館にしてもらい、今の博物館は純粋な博物館になった方がよいと思います。つい最近も北海道の方からお電話があり、昔、博物館に先祖伝来のものを寄贈したのだが、見せてもらおうと思っても、長男しかだめだ、最初展示会があったが、それ以降全く展示されないといった不満を聞きました。まだ家には家宝があると話されていましたが、寄贈するより個人的に持っていた方がいいですよとお答えしました。こういったことは他の方からも聞き、弘前出身の方でも東京などの博物館に寄贈する方も多いようです。また古絵図などは図書館と博物館双方にありますが、常設展示では、両者の垣根を取っ払い、もっと多くの絵図や写真を展示してほしいところです。

 青森県立郷土館は県立博物館に該当するところですが、いかんせん収蔵物が少なく、文書や地図など歴史的な展示の多くが、弘前市立博物館、図書館のコピーとなっています。それでも展示方法には工夫を凝らしており、前回の「平尾魯仙青森のダビンチー」などはいい企画でした。一方、弘前博物館、図書館には多くの方の寄贈品がありながら、収蔵室にしまったまま十分に活用されておらず、もったいないことです。

2014年5月9日金曜日

慶応義塾と東奥義塾


 慶応義塾は、そのハイカラなイメージからか、田舎者の津軽人にはどうも敷居が高い。そのため弘前高校から早稲田に進学する者がいても慶応に進学する学生は少ないが、幕末から考えると、弘前藩から福沢塾で学んだ者は多く、全部で135名を数える。それでも福沢の門下生12063名から見ると、四十八都道府県では三十二番目で決して多い方ではない。


 数は多くはないが、福沢塾に学んだ吉崎豊作、佐藤弥六、田中小源太、三浦才助、成田五十穂、菊池九郎などの有力者がいて、とりわけ佐藤弥六は福沢から信頼が厚かった。福沢の手紙では「此人は佐藤弥六と申、旧津軽藩士、本塾へは多年寄宿、人物は極慥(たしか)にして、少し商売の考も有之、失敗は致候得共、丸屋にも大に関係して、早矢仕君もよく知る所なり。過般出府の処、是れと申仕事も無之、就ては真利宝会社中として、弘前に居ながら相勤め、青森地方の事を引受候様の義出来申間布哉」と書いており(ここまで、「幕末・明治初期の弘前藩と慶応義塾—「江戸日記」を資料にしてー」 坂井達朗、近代日本研究から引用)、実際に福澤は佐藤弥六を塾の会計を担当させたり、後日、オランダ公使として推薦したりしている。


 維新後、早い時期に弘前でも近代的な学校を作ろうと、菊池九郎を中心として機運が盛り上がり、そのモデルとしてかって菊池が学んだ慶応義塾が頭にあった。弘前藩の藩学校であった稽古館、弘前漢英学校は廃藩置県に伴い廃止されることになったが、田舎だからこそ優秀な人材を作らねばという菊池の熱い思いは、まず慶応義塾から優秀な教師を派遣してもらい、福沢塾で学んだ弘前藩士を教師にして私立の学校を設立しようと考えた。


 おそらくここで菊池は上京して直接に福沢諭吉に頼みこんだと思う。福沢に信頼の厚い佐藤弥六(1842-1923)も同行したのであろう。佐藤弥六は、福沢諭吉の片腕で慶応2年から4年まで塾長を務めた小幡篤次郎(1842-1905)とは生まれ年が同じであり、塾生の中でも仲がよかったのかもしれない。山鹿旗之進の回想によれば「義塾という名称は、福沢先生と小幡篤次郎先生とが、命名されたものであろうとは、私が嘗て菊池九郎先生より承ったことだ。」(東奥義塾再興十年史、東奥義塾学友会、1931)。菊池は嘘を言わない人なので、東奥義塾の命名は福沢諭吉と小幡篤次郎によるものと思える。さらに福沢らは義塾の逸材、永嶋貞次郎と吉川泰次郎を東奥義塾の教師として派遣し、佐藤弥六が東京から弘前まで随行した。


 義塾とは英語のパブリックスクールの和訳であり、明治になり全国で100を越える義塾と名のつく学校ができた。多くは福沢塾で学んだ人物が勝手に作ったもので、慶応義塾とは直接関係はない。唯一、分校として認められたのは明治7年にできた京都慶応義塾、明治6年にできた大阪慶応義塾と、その後継の徳島慶応義塾である。しかしなから京都、大阪、徳島慶応義塾はわずか1年足らずでいずれも閉校している。こういった中で、明治5年11月にできた東奥義塾は義塾と名のつく学校の中でも比較的早い創立であり、また今日まで存続している唯一の学校である。慶応義塾の直系とは言わないまでも傍流として慶応義塾とは密接に関係している。先に引用した慶応義塾大学の坂井先生の論文に中に『東奥義塾の独自の学風は「福澤流の実学精神にキリスト教が結合した」、「他の私学には見られない特徴であった」』(弘前市教育史)となっている。キリスト教の方は、本多庸一はじめ、東奥義塾と関係のある4名の院長を生んだ青山学院に繋がる。すなわち東奥義塾は、慶応義塾と青山学院の両者の学風に弘前藩校「稽古館」の伝統が混じった学校と言えよう。明治34年に財政難より弘前市立弘前中学校東奥義塾(その後、青森県立弘前中学校東奥義塾)となったが、その存続条件のまっ先に「東奥義塾の名称存続の事」を菊池を挙げた(菊池九郎小伝、昭和10年)。非常に思入れの深い学校名であったのであろう。

 惜しむらくはここ数年の東奥義塾の進学状況を見ると、青山学院、慶応義塾への進学が0から2名というのは残念である。写真は佐藤弥六。

2014年5月5日月曜日

東奥義塾の英語教育


 笹森順造の兄、浅田良逸は浅田信興陸軍大将の養子になり、後に陸軍中将となった。昭和十年代、軍人としての立場を利用して、キリスト教学校として存続の危機に見舞われていた青山学院を側面からサポートした。「東奥義塾再興十年史」に浅田良逸の回想が載っているので紹介する。
「教えられた事の特徴のある一例としては、代数や幾何をアメリカの原書でやっていた。他の中学校ではやっていない経済学や論理学をやっていれば、当然やるべき物理、化学は甚だおとっている。だから東京へ出て来て試験を受けたが、原書で知っていたが名称が分からぬので全然書けなかった。物その物が分からぬのでなく名称がわからぬのだった。それで成城学校へ来て落第した。義塾はその如く、当時の中学とかけ離れていた。であるが本当の力はあった。三月なり半年なり準備すると遜色無かった。」この話は明治20年代の東奥義塾のことである。北原かな子先生の「洋学受容と地方の近代 —津軽東奥義塾を中心にー」(岩田書院)を見ると、数学はロビンソン氏算術初歩、ロビンソン氏ハイカル、幾何学、三角法が挙げられている。そしてこれは宣教師イングが卒業したインディアナ・アズベリー大学(現デポー大学)の算術は予備科1年、代数は予備科2年、幾何は大学1年、三角法は大学2年に相当した。史学はパーレー氏万国史、マルカム氏英国史、ウオルソン氏万国史上古史、ギゾー史文明史、地学はコルネル氏地理初歩、ミッチェル氏ハイスクール地理史、ガヨー氏天然地理、経済はウエランド氏経済学、博物はアガシス氏動物書、ヒッチコック氏生理学、化学はウエル氏化学書となっている。また浅田の言っている物理はクエケンボス氏の物理学(Quackenbos,G.P , A natural philosophyか、https://archive.org/details/naturalphilosphy00quacrich)となっている。

 一方、漢文については、下等中学過程では、歴史として十八史略と日本外史、上等中学過程では、唐宋八大家文、正続文章規範がある。これらはすべて漢文であるが、明治20年代の子供にとっては、英語より漢文の方が簡単であったろう。いずれにしても、これ以外のほとんどの科目は原書にて授業が行われている。教師の多くはアメリカ留学生であったが、授業そのものは日本語で行われていたであろう。ただわざわざ日本語にすることはなく、原語を使って講義をしたと推測される。

 内容はほぼアメリカの大学に準じていたので、珍田捨巳や佐藤愛麿がデポー大学に留学してすぐに成績優秀であったのは当然である。

 昔、インドに旅行した折、オーストラリアのグループと一緒に旅行したことがあるが、日本人の大学生はどうして英語がうまくないのか、シンガポールやインドネシアの大学生は英語がかなりできるのにと言われた。その時思ったことは、アジアの諸外国では大学の教科書のほとんどが英語なのに対して、日本では教科書は日本語訳されたものを使っていると答えた。歯学部に入学しても、生理学や化学の教科書もアジア版の英語教科書があったが、当然、日本語訳も出ていた。専門の矯正学についても世界の多くの大学では「プロフィットの現代矯正学」が標準教科書となっている。韓国、中国、シンガポール、インドネシアもそうである。ただ日本では早い段階で日本語訳が出ており、版が変わる度に新たな日本語訳が出ている。日本は翻訳大国で、大学の高等教育のすべての教科書は母国語で、英語の原書を使わないので英語がうまくないのである。

 秋田の国際教養大学では授業の多くを英語で教えており、その学生の英語力の高さは定評があり、静岡の加藤学園バイリンガル部のようにほとんどの授業を英語で行う高校もある。熊本洋学校(明治4年)もすべての授業を英語で行っていたが、わずか5年で閉校。「東奥義塾は独立の私学校なれば文部省の課程に従ふを要せず、故に時流の教育に泥ます卓然として俗眼を驚かし、東京の慶応義塾、京都の同志社、熊本の々黌と共に日本教育界に一生面を開ける人の知る所なり。世の漸く洋学に倦きたる際も依然として同塾は英語学に重きを置き、明治二十年に至たり、更に一名の米国人を聘したりしも生徒の進歩著しきより二十二年に至たり更に一名を加え両名の西洋教師と数名の日本教師を増聘して益教育拡張を謀り年を逐うて隆栄に進み来たり」(「明治20年代における高等小学校英語科の実施状況と存続をめぐる論説動向」麻生千明から抜粋)と東奥義塾では、英語熱が醒めた明治中期になっても依然、建学の志をもって英語中心の特徴ある教育を行っていた。昭和6年でも外国人教師4名、外国大学卒業の日本人教師が4名いて、まだまだ充実している。ただ学生からすれば、相当大変であったろう。

 私の学校(六甲学院)では、生物は6年間、スペイン人の神父さんから日本語で習っていたくらい、外国人教師が多く、卒業アルバムで数えると7名いた(他にドイツ人の大工さん2名)。