2019年1月27日日曜日

ねぽりんぱほりん



 NHKEテレで毎週水曜日の11時から放送される“ねほりんぱほりん”という番組がある(新作は毎月1週目と2週目)。この番組は放送限界と思えるほど内容が過激で、かっての週刊実話をはるかに凌ぐやばいものである。見たことがない人に説明すると、主として対談を中心とした人形劇で、山里亮太による“ねほりん”と、Youによる“ぱほりん”が、その日のテーマとなる人形、ブタ人形と対談する。ただ対談内容がやばく、HPから取り上げると、「元薬物中毒者」、「マッチングアプリにハマる人」、「買い物依存症の女」、「ネトゲ廃人」などで、前回は「あるコスプレイヤー 自分は捨てた!衝撃の闇深きコスプレ人生」というものだった。母子家庭で、幼稚園に行く頃から自分にはなぜ父親がいないと母を恨み、ほぼ小学校から不登校となり家でゲームとネットで過ごすようになり、その中からコスプレプレーヤーに目覚めるとまっしぐら、母親の首を絞めて殺そうとする。通常ならドキュメンタリタッチで、深刻な話であるが、この番組ではお下げ髪のロングヘアーのブタ人形と、メガネをかけた母親役のブタ人形で登場して話しているので、全くあっけらかんと番組中でケンカしている。最後は、ヤンマディーゼルの天気予報をパクったエンディング曲でお終いとなる。

 この番組の制作は、大古滋久氏。障害者が主体となった「バリバラ」もそうだが、教育テレビが過激である。どちらもさすがNHKだけに予算、制作費も民放より贅沢なのであろう、内容も濃い。以前は、本多勝一のNHK“受信料拒否の論理”という毒に侵され、少しNHKを批判的に見ていたが、むしろ本多勝一氏から批判されるのは勲章になるだろう。ちなみに大学生の頃、本多氏の本を片っ端から読んだが、今となっては本当に腹立たしい。そうした意味では、彼がNHKの報道の偏向性を批判するのは、自分のジャーナリズムのさらにひどい偏向とその影響(南京事件など)を考えると、甚だおかしい。

 話は逸れたが、「ねほりんぱほりん」の内容は、いずれもテーマにしても、各界の知識人で討論させると深刻な話になろう。昨日放送してしていたのは再放送の「少年院の入っていた人」というテーマで、夫婦で少年院に入っていたカップルが登場した。内容はこれも深刻なものであるが、それでも結構笑わせるエピソードがあって、気持ちよく見られる。これが教育評論家の誰それさん、少年犯罪を専門にする誰それさん、弁護士の誰それさんといった対談では、全く面白くはないし、実際、綺麗ごとの話ばかりで中身のない陳腐な番組になっていただろう。かなり実際に少年院に入っていた人の本音を人形劇という匿名の形で聞くことができたし、それが番組の面白さに繋がっている。よく本人の話にモザイクを入れて、音声を変えて放送しているが、まるで犯罪者のようで、それならブタ人形に喋らせた方がよほど良い。またブタの人形がよくできていて、その動きもさすがにチロリン村からのNHKの十八番、人形劇の技術を継承していて、本物の人間が喋っているような感じがする。キャラやその人の経歴によって人形や着せる衣装も変えていて、かなり長期の制作日数がかかっていると思う。
 
 昔は、小学校生徒は午前11時に視覚教室に行き、そこで決められた教育番組を見た。むしろこの“ねほりんぱほりん”は高校生くらいの生徒に見させて、こうした生き方について議論するのも良いであろう。

2019年1月22日火曜日

ヒキコモリ 山田ルイ53世


 以前から気になっていた本、「ヒキコモリ」(山田ルイ53世、角川文庫)を読んだ。面白く一気に読めた。著者とは、六甲学院、サッカー部という共通の繋がりがあるため、妙に親近感があり、本で取り上げられた場面、ことに六甲学院の場面は具体的に辿れる。よく知られた山田さんの逸話だが、学校に行く途中で、急に便意をもよおし、我慢できなくなり、通学途中でしてしまう。そのくだりは通学途中の道のどのあたりのところで便意をもよおし、運動グランドのどの便所に行ったかもわかるため、妙に生々しく、まるで映画の映像のように目に浮かぶ。その後、それをきっかけに6年間に及ぶ引きこもりを送ることになる。

 この本では山田さんの生まれたところは記載していないが、HPで調べると兵庫県の三木市ということである。三木市と言えば神戸市の隣町なので、ベッドタウンと言えそうだが、感覚としては、どちらかとういうと姫路に近く、ギリギリ明石が神戸圏であっても、三木市は加古川市や高砂市に近く、また三田市の匂いもある。はっきり行って六甲学院の通学範囲は超えている。私の学年で言えば、西は大阪、東は須磨くらいが限度で、多くは神戸から西宮にかけての生徒が大半であった。

 当時とは時刻表は違うと思うが、ちなみに乗り換え案内で三木から六甲学院への道筋を調べると、三木6時発、神戸電鉄栗生線新開地行き、新開地到着75分、神戸高速線梅田行き713分発、阪急六甲駅到着729分となる。ここから学校までは長い坂となり15分はかかるため、学校到着は745分頃となる。彼は他の生徒より早く学校に行っていたようなので、この時間くらいであろう。本によれば駅まで自宅から20分かかるようなので、上記のような通学でも家を5時半には出ないといけず、通学時間に2時間15分かかることになる。往復で4時間半、流石に私の同級生でもこれほど通学時間がかかった生徒はいない。

 山田さんは六甲学院の51期生とのことで、私が32期生なので19年の差がある。51期と言えば、サッカー部も栄光の時代は去り、兵庫県でも弱いチームではなかったものの、全国大会や近畿大会には出ることはない。彼は小学校の頃からサッカーをしていたというが、それでも中学二年生でレギュラーになるのは才能があったのだろう。高校は受験のために三年生の5月頃には引退していたので、テレビでやっている正月の高校選手権には高校一年生と二年生のチームで出るが、逆に中高一貫だったので高校受験がなく、中学は3年間、目一杯試合に出られた。さらにサッカーは人気があったので一学年20名以上は部員がいて、中学だけでも50名はいたため、2年生でレギュラーであったのはすごい。成績も学年で十番以内だったとようで、このままひきこまないで、高校卒業まで行けば、京都大学、あるいはどこかの国立大学の医学部に入っていただろう。あれだけ口が上手ければ、医者になっても繁盛したであろう。両親も含めて今とは全く違った人生であったのは間違いない。

 山田さんは、記者から「引きこもりの6年間があったから、いまの山田さんがあるんですね」という質問が一番嫌いで、その答えとして「いやあの6年間は完全に無駄ですね」と答えている。といって特に他人の引きこもり生活を否定している訳でもない。ただの便の失敗というある意味、些細なことが人生を完全に変えることもあるし、山田さんの例で言えば、成人式のニュースがひきこもり人生をストップした。偶然による。私の場合は、高校一年生の頃、大学に行かないとダダをこねる時期があり、その時、兄の家庭教師をしていた先生から一人旅に行けと言われた。ちょうど夏休みの終わる頃で、今からですかと聞くと、そうだ学校なんか休んでしまえと言われたものの、それまで学校に行くのが義務みたいに感じていたので、抵抗感は強く、勉強が遅れる、休学の理由がないなど色々と理屈を並べたものの、すべて論理的に否定された。親に話すと何も聞かずに旅費をくれ、次の日に神戸港から沖之永良部島行き船に乗った。もちろん初めての一人旅で、大学生と一緒に遊んだり、地元の女子高校生と仲良くなったり、奄美大島では旅館の人に自殺客と勘違いされた。登校日から2日ほど遅れて帰ってきたが、先生からも同級生からも欠席の理由は聞かれなかった。何か心の重しから解放された気分になった。六甲学院はカトリックの学校で規則にやかましいところであったが、そうした規則をきっちりと守る自分に嫌気がさしたのであろう。ちょっとくらい羽目を外してもいいと思うと楽になった。山田さんの場合は、往復で4時間以上の通学をきつかったのだろう。どこか息抜きができればよかったのだが。

2019年1月18日金曜日

弘前新美術館

弘前犬もできれば外での展示を願います

旧タケウチ自転車店

 弘前市の市政で、個人的に最も期待しているのは、弘前市吉野町のレンガ倉庫にできる弘前市芸術文化施設(弘前アートセンター)である。設計は現代日本人建築家で最も注目されている田根剛さんで、国内では少ない彼の作品となる。弘前では名建築家、前川國男さんの設計した建物が5軒ほどあるが、それに田根さんの建築がつけ加わることになる。2020年の春ころに開館となる予定であるが、建物については具体的な予想図があり、実際にレンガ倉庫でも工事が始まっている。ところが内容については市、博物館の人に聞いてもあまり知らない。というのも、建築と運営に関しては、「弘前芸術創造」という集団が行うことになっており、弘前市はこの事業体にほぼ丸投げに近い。

 この事業体は平出和也という人が代表で、スターツコーポレーション、大林組、NTTファシリティーズ、エヌ・アンド・エーなど8社の共同出資となっている。このうち大林組は美術館本体の建築を担当することは理解できるし、NTTファシリティーズが省エネ、エコの美術館に関係することはわかる。またスターツコーポレーションについては、知られた会社ではないが、インターネットで調べると不動産、管理、セキュリティーで実績のある会社であり、弘前芸術創造の代表の平出和也氏はこのスターツコーポレーションの役員である。エヌ・アンド・エー(N&ANanjo Associates)という会社は、HPで見ると、芸術文化施設の企画、運営、マネージメントをしている会社で、十和田市現代美術館の創設、運営に関わっていて、特に現代美術では多くの企画に関わっている。代表取締役は南條史生氏であり、同時に弘前市芸術文化施設の総合アドバイサーでもある。つまり「弘前芸術創造」の中でも実際の展覧会や作品集めなどの運営の主体となるのはN&Aである。
 現在の美術館運営は非常に難しく、多くの入場者を集めるためには高度なノウハウが必要であり、ましてや台湾や中国からの観光客の誘致にも関与するとなると、ユニークな企画が必要となる。なかなか市町村程度の職員ではそうしたノウハウはなく、N&Aのような専門集団に任せるのはわかる。ただ総合アドバイサー=運営主体となると、全く南條氏の個人的なものとなり、弘前市の独自性をどこまで追求できるか疑問である。特に契約主体の弘前市に芸術に関する専門家がいないと南條氏の専門集団、会社のいいなりとなる。例えば、現代作家の作品購入において、最終的には弘前市の承認が必要としても、作品の選択、価格は南條氏が決めることになり、弘前市に専門家がいないとそのまま通すしかない。弘前市芸術文化施設のメイン展示物は、弘前市出身の奈良美智さんの作品であり、彼の大型展示物が常設の中心になるだろう。これは過去にレンガ倉庫で行われた伝説的な“A to Z”などの個展の再現であり、誰がこの個展を作ったかというと、奈良美智さんであり、grafであり、そして弘前市民であった。であるなら、新しい美術館もこの制作集団を活用したらどうだろう。現代絵画はおそろしく高騰しており、今では世界中の金持ちの投資対象となっていて、そうした意味では弘前市芸術文化施設では、限られた作品収集の予算ではたいしたものは買えないし、その必要もない。もちろん評価の定まらない若手の作品を買う冒険も必要ない。むしろ転売が難しく投機商品になりにくいあおもり犬のような大型展示作品を中心にすべきであり、そうなると20204月に開館となると、すでに遅いかもしれないが、奈良美智さんとの話し合いも必要であろう。

 アメリカの多くの美術館は、市民の寄付によって成り立ち、図書館とともに市の文化的な象徴となっており、美術館の理事となることは名士となる証である。おらが町の美術館ということである。弘前市芸術文化施設もその運営を全て東京の会社に任せるのはどうかと思う。少なくとも地元愛を持つ芸術の専門家を弘前市としては任命すべきであり、佐野ぬいさんやA to Zの主催者、あるいは奈良美智さんもいる。残された時間は少ないが、今のままでは地元の美術館としての市民の支持は少ないように思える。せっかく弘前に美術館ができるのであれば、市民に愛されるべきものであるべきで、そのためには開館の前段階から市民の参加が求められる。また弘前博物館との連携は今のところ全くない。おそらく南條氏は博物館とは関係ない独立した美術館を作るつもりで、そうであれば話し合い価値もないと考えているのだろう。ただ弘前博物館には、地元出身画家の作品所蔵しており、限られた予算の中で有効な活用が必要であろう。さらに言うなら、近年、日本美術は欧米では現代美術として再脚光を浴びており、博物館の古い作品も新美術館で活用できる。

2019年1月13日日曜日

漢字を廃止した国 韓国

現在の韓国の新聞

戦前の朝鮮の新聞



 日本でも漢字は覚えるのが難しく、廃止しろという声は明治の昔から盛んに唱えられてきた。太平洋戦争後も占領軍により、識字率向上のために漢字を廃止してローマ字にしろという計画もあったが、実際に日本人の漢字識字率を調べると非常に高く、そのまま計画はうやむやになった。それでも森鴎外など江戸時代を知る明治の文筆家は、現代人に比べて驚くほど漢文の素養があり、かなり達筆で書かれた書物なども読みこなせた。そうした点では今の日本人は昔の人に比べて漢字、漢文の読解力は低下したと言ってもいいだろう。ただこれは何も日本人だけではなく、漢字圏である中国人や台湾人にも当てはまり、彼らとて古代の書は読めないし、草書や隷書で書かれた掛け軸などを読むことはできない。それでも中国人留学生に聞くと、日本の大学などで使われる教科書も、平仮名がわからなくても、2/3は漢字で意味はわかるし、街の標識からレストランのメニューは何となくわかるようだ。そうした点では、中国人、台湾人からすれば日本は海外であっても、ある程度漢字で理解できるため、気安く旅行にいける国であるようだ。現在では、ワープロ、コンピュターの普及により簡単に漢字変換ができるために、廃止論の声もなくなってきている。

 ところが隣国に、漢字を廃止した国がある。韓国である。この国は議論、理論先行で、一旦その方向に行くと躊躇なく進む国であり、日本、中国で何度もあった漢字廃止を一気に進めてしまった。もともと李朝朝鮮時代は、ハングル表記もあったが、基本的には漢文が主体であり、日本統治期にようやくハングルの普及が進められ。日本の平仮名、片仮名、漢字の混合表記と同じく、ハングル、漢字の混合表記が一般的となった。ところが独立後に、ナショナリズムの台頭により漢字廃止の機運が一気に盛り上がった。それでも新聞、本などでは表現が便利なためハングル、漢字混合であったが、1972年に漢字廃止宣言があったのち、急速に漢字が廃止されるようになった。その後、漢字をほとんど知らない世代が中心になるようになると、新聞や本などからすべての漢字がなくなった。最近では漢字復活との声も上がっているが、もはや手遅れでベトナム同様にハングルのみの国家となった。

 ベトナムの漢字廃止は韓国より早く、19世紀後半にフランスのカトリック宣教師が作った“クオック・グー”と呼ばれる表記法が一般的となり、1945年以降は漢字教育も廃止された。そのため、ベトナムでは19世紀以前の古文書はもはや専門家以外には全く読めない言語であるが、これは歴史書の分野となり、現在のベトナム人からをそれほど問題はない。一方、韓国は1980年頃までまだ漢字を使っており、新聞、書物、手紙なども漢字混ざりとなっており、今の韓国人はこうした文書を一切理解できない。日本に置き換えると、ベトナムの例で言えば、一般の日本人が江戸時代の文書を理解できなくても全く問題はないであろうが、韓国の例で言えば、1980年以前の文がほとんど読めないことなる。家の物置にあった古い平凡パンチも一切読めないことになる。これはある意味、すごいことで、文化的な断絶と言って良い。最近の調査では韓国民の30%は自分の子供の名前を漢字で一文字も書けなかった。さらに大学生でも“大韓民国”と漢字で書けるのは25%しかいないという。

 文在寅大統領、外務大臣やそのブレーン、さらに裁判官も漢字が読めず、もちろん日韓請求権協定の文書も読めず、慰安婦、徴用工関係の古い文書も読めない。盛んに歴史問題を取り上げる隣国であるが、その国こそが自国の歴史を全く理解できない国となっている。最近では、韓国の歴史学者すら漢字を十分に理解できないため、自国の近代史資料を十分に理解できず、日韓史の歴史学者による共同研究は日中以上に難航している。全くもってわけのわからない国である。

2019年1月8日火曜日

もし日本という国がなかったら


 もし日本という国が世界になかったら、存在しなかったら、世界はどうなっていただろう。大胆な仮説であるが、興味深い。

 世界の中の日本をみると、明治維新前に、世界史に日本の名が出ることは少なく、最初に現れるのは日露戦争、その後の太平洋戦争であろう。日露戦争は有色人が白人に勝ったら戦争として世界史に残るものであり、太平洋戦争もその規模において歴史に残るものである。それ以外に世界に影響を与えたメイドインジャパンはほとんど文化面にものとなろう。

1.     科学、工業
アジアのノーベル賞受賞者数(文学、平和賞を除く)は、日本が23人、中華民国が3名、中国が1名で、圧倒的に日本が多い。例えばアフリカの受賞者数は南アフリカが1名、エジプトが1名なので、日本からの受賞者がいなければ、アジアとアフリカの差は少ない。日本がアジアの科学を牽引し、それを模倣して台湾、中国、韓国などの東アジアが工業国として発展した。もし日本がなければ、今日のような東アジアの発展が見られただろうか。

2.浮世絵、北斎
19世紀の欧米でのジャポネスクの影響は非常に大きく、ゴヤ、ゴッホ、モネなどの印象派画家に浮世絵や北斎など日本美術は、決定的な影響を与えた。おそらくは印象派自体が起こらなかった可能性もあり、現代絵画史は今とは違ったものになった可能性がある。

3.アニメ、漫画、コンピュータゲーム
アニメ、漫画とも日本人の発明ではないものの、手塚治虫など日本の漫画家あるいは漫画文化、宮崎駿のアニメがなければ、随分今とは違ったものとなったであろう。さらにニンテンドーのファミコンやゲームボーイやソニーのプレイステーションもアニメ、漫画という文化の上に立ったもので、多分、日本がなくてもアメリカが同様なものを作ったと思うが、今とは全く違う状況になっていたに違いない。

4.陶磁器
古伊万里は17世紀に、ヨーロッパに輸出され、その出来栄えに驚き、その模倣としてドイツのマイセンやデンマークのロイヤルコペンハーゲンなどができた。もちろん日本がなくても中国の優秀な陶磁器があったので、その影響は限局的にはなるが、それでも余白の多い日本式の構図はなかったであろう。

5.靴を脱ぐ、日本食、柔道、空手、俳句、折り紙、生け花
欧米では日本を真似て家では靴を脱ぐ習慣が広まっている。中東などでも靴を脱ぐ習慣はあるものの、これとは関係ない。また日本食、柔道、空手、俳句、折り紙、生花など日本発祥の文化、スポーツは、今では世界的に広まっている。まあ、これらは別になかったとしても、特にどうってことはないかもしれないが、それでも悲しむ人は世界中にいる。

6.カメラ、ウオークマン、スマホ
戦前、カメラといえば、ライカ、コンタックスなどのドイツ製であったが、それの劣化コピーから日本のメーカーが発展した。そしてニコン、キャノンなど数社のカメラメーカーの切磋琢磨から、デジタルカメラが誕生、普及した。おそらく保守的なドイツメーカだけなら、ここまでのデジタルカメラの発展はなかった。さらに音楽を外で聞こうというソニーのウォークマンは、アップルのipodから、さらにI-phone、スマホに繋がったのは間違いない。

7.ソビエト、中国、韓国
日本のないアジアを考える場合、アフリカのことを見れば良い。イギリス、オランダ、フランスなどの植民地であったアジアは、太平洋戦争がなくても、おそらくは1950年代には独立したと思われる。この中には北朝鮮、韓国、中国も含まれ、近代化の遅れた清王朝や朝鮮王朝は、ロシア、イギリスなどの植民地になっていた可能性がある。またロシアもおそらくは日露戦争がなければ、革命は起こらず、ロマノフ王朝が続いていた可能性がある。日本に最も近い、韓国、台湾、中国がアジアの中でも最も近代化が進んだことから、日本がないアジアは、おそらく言い方は悪いが、日本から離れたアジア、フィリッピン、マレーシア、ミャンマーあたりの水準であったろう。孫文、日本のいない中国でも清王朝は崩壊し、外国植民地、あるいは軍閥による戦国時代のような分割国家となっていたろう。


2019年1月6日日曜日

太平洋戦争とマスメディア



 ここ20年以上、最も関心を持って調べているのは、なぜ日本が無謀な太平洋戦争に突入したのか。随分と多くの本を読んだが今だにモヤモヤしている。その要因として日清、日露戦争まで遡ることはできようが、多くの本によれば、満州事変あたりが直接の原因と考えられ、その後の日中戦争でさらに問題は拡大して、そして太平洋戦争に突入していったというのが一般的な考え方である。ただアメリカとの戦争は、その国力差から、戦前においても勝てると思う人はほとんどおらず、普通に考えれば、アメリカとの戦争はあり得ない。それがなぜ戦争となったのかという様々な見解の中で、私自身、最も納得がいくのはマスメディアの交戦熱によるものである。軍部、政府とも日中戦争の頃から、戦線の中国全土への拡大を恐れ、休戦の方向で一致していたが、マスメディアがそうした姿勢を軟弱と扇動し、それにつられた一部の軍人の意見が次第に主流になっていった。日中戦争前にも日中間でいろいろな事件があり、その都度、日本政府は中国との対話による解決という現実的な対応をしていたが、それも新聞社、マスコミが軟弱として、中国を懲らしめる政策、つまり軍事介入を求めた。政府、軍部ともマスメディアとそれに煽動された国民に逆らえず、結局、泥沼の日中戦争へと突入した。アメリカとの戦争においても、日本は絶対に負けるという人はいたが、そうしたことを喋れる状況ではなかった。つまりマスメディアが戦争を起こしたということだ。

 こうしたことを考えると、今の韓国の現状が理解できる。韓国のマスマディアは、親北朝鮮、反日が主流となっており、基本的には社会主義、共産主義的な論調である。文在寅大統領は、ロウソク革命、市民あるいはマスメディアが作り出した大統領であり、マスメディアからの批判は非常に少なく、むしろ肯定的な論調が多い。その論調とは、アメリカ軍の撤退と日本との関係断絶である。韓国という国は、第二次世界大戦後、日本の敗北によって棚ぼた式にできた国であることは、まともな知識人であればわかることであり、ごく少数の独立派を除くと、ほとんどの朝鮮人は日本人として生活していた。ドイツとオーストラリアとの関係になぞらえる人もいて、旧日本軍には朝鮮出身の将軍が9名いる。西川中将と宇都宮少将を除く、7名の将軍は朝鮮名で従事している。このことからも、朝鮮は日本とともに戦った国であり、決して戦勝国ではない。さらに朝鮮戦争後の経済復興は日本の援助抜きにしては語れない。サムソン、ポスコ、ヒュンダイなどの世界的メーカも日本の会社の全面的な援助で大きくなった。逆に朝鮮戦争に置ける韓国人の犠牲者は、軍が99万人、民間人が143万人と、太平洋戦争における朝鮮人犠牲者35万人の数倍の犠牲者であり、中国および北朝鮮こそ仮想敵国となる。日本に感謝すべきであり、決してその歴史を見ると反日、親北挑戦になることは論理的にあり得ない。

 日露戦争では、主たる新聞はロシアを罰しろ、日中戦争では中国を懲らしめよとなり、それに反対する論は全て抹殺され、国民は戦争を欲した。全く同じことが、韓国のマスメディアでも行われ、日本を賛美する記事は親日の烙印を押され、北朝鮮を警戒する声もなりを潜める。結果、国民の多くは、それ以外の論に耳を傾けず、何を言っても全く無駄となる。健全な国家とは、あらゆる議論が禁止されるないことが基本であり、右がかったものから左のものまで、それぞれのマスコミがあって良い。世界的にみて間違った同じ考えのマスコミしかないのであれば、それは民主主義国としては非常に危険であり、今回の韓国海軍のレーダー照射事件においても、明らかな韓国側のミスであるにも関わらず、それを批判しないばかりか、嘘の国防省の発表をそのまま主張する韓国の新聞社は批判能力がないことを示した。全く太平洋戦争中の朝日、読売新聞などと同じ御用新聞となっており、国を滅ぼしかねない危険な存在である。ペンは剣より強しということわざが、今やペンが戦争という暴力を作り出す元となっている。戦前の日本と違い、これだけインターネットが発展していても、国民世論というのはテレビ、新聞などのマスコミの力が大きいのは、韓国の例からもわかる。終戦後、一夜にして軍国主義から民主主義に変わったことからも、教育はそれほど影響力を持たないのもまた事実である。

2019年1月4日金曜日

韓国海軍のレーダー照射


先日、韓国海軍の駆逐艦が海上自衛隊のP1哨戒機に火器管制レーダーを照射し、これが日韓で大きな問題となっている。日韓は朝鮮戦争以降、一応はアメリカと共に軍事同盟国であり、何らかの手違いでこうした事故があったとしても、謝ればお互い冗談で済んだ。ところが韓国政府が共同敵である北朝鮮との融和政策を進めているため、どうしたことか同盟国との長年にわたる関係を忘れた。明らかな嘘とばれる釈明をして、ますます事態を複雑なものし、今後は軍事同盟の見直しすら考えさせる。当然、アメリカとしては、日米韓の軍事同盟は北朝鮮だけでなく、対中国との関係で非常に重要であるため、日韓の離間は避けたいが、もはや東アジアの防衛線を韓国から沖縄、グアムまで下げることを検討している。その場合、北朝鮮と韓国の統一が北朝鮮主導となり、核兵器を持った国が中国だけでなく、統一朝鮮にもできることになり、対抗上、日本も核兵器の保有を検討することになろう。中国以上に理屈が通らない、日和見な厄介な国となる。

軍隊というのは、非常な古い存在であり、各国の軍隊、特に欧米の軍隊は非常に長い歴史を持つ。もちろん陸海軍の中では陸軍が最も古い歴史を持ち、次が海軍、そして最も新しい軍隊が空軍である。今回、問題になっているのは海軍で、日本の海上自衛隊はもちろん、旧軍の日本海軍とは違った組織であるが、歴史としては明治5年の帝国海軍創立まで遡る。イギリス海軍は1700年頃、アメリカ海軍は1790年頃であり、これらの国からすれば海上自衛隊の歴史は浅い。それでも第二次世界大戦では、イギリス、アメリカと肩を並べる海軍大国であり、戦争に負けたとしても、その海軍精神は現在の海上自衛隊にも受け継がれており、世界でも海軍伝統国として認められている。アジアでは、中国海軍ができたのが、1949年であるが、もともと陸軍国であり、ある程度の海軍組織となったのは、1980年以降である。さらに大韓民国海軍は一応、1945年が創立となっているが、対北朝鮮戦略のみの海軍であれば、大型な艦船を持つ必要がなく、まともな艦船を建造したのは1980年以降である。つまり日本はすでに140年以上の歴史があるのに対して、中国、韓国とも海軍の歴史はたかだか3040年しかない。むしろ中華民国海軍は1913年、タイ王国海軍は1910年とともにアジアでも古い歴史を持つ。2012年には台湾海軍の艦船が間違って練習中に日本海域の与那国島付近に入った事件があったが、この時も艦隊長を処分し、スマートな対応をした。ただ中華民国、タイにしてもまともな海軍とは言いがたく、日本以外で世界に認められているアジアの海軍はオーストラリア海軍(1911年創設)で、海上自衛隊とも古くから最も親密で交流も多い。

海軍は広い大海を活動拠点としているだけに、ただ一艦の艦長の判断で、国際的な大きな問題に発展する可能性を持つ。それだけに伝統的な歴史のある海軍ではそうしたことが士官教育で厳しく教育される。国際法、国際的なルールが重要視され、その遵守が世界の海軍のエチケットとなっている。それを守らない海軍は、各国との合同訓練でも仲間はずれにされる。残念ながら、今年の大韓民国国際観艦式での旭日旗の掲揚禁止もそうだが、今回の事件でも大韓民国海軍の醜態が世界の海軍に知れたことになる。第二次朝鮮戦争が起これば、日本は最前線の補給基地としてなくてはならない存在であり、この関係を否定する韓国政府の対応は、もはや日米の軍事同盟あるいは助けを拒否しているとしか見えない。駐韓アメリカ大使は日系アメリカ人のハリー・ハリス、元海軍大将であり、若い時は哨戒機P-3Cのパイロットであった。彼ほど韓国の嘘を知る人物はおらず、正確にアメリカにレーダー照射事件の詳細は報告されているだろう。日米の韓国からの離間、ことに軍事面の離間は刻々と進んでいるが、本当に多くの韓国民はこれを歓迎しているのだろうか。朝鮮戦争前夜、韓国軍は北朝鮮は同胞として、攻撃しないと南に軍を移動した。さらに米軍も朝鮮半島はアメリカの守備範囲でないとの声明があったので、北朝鮮軍は攻撃した。現状では、仮に今、第二次朝鮮戦争が起こっても、日本政府は在日米軍基地の使用は了解しない。その場合、米軍はハワイ、グアムからの出撃となり、初動はかなり制限される。こうした過去の歴史を全くわかっていない。2014年に安倍首相は「朝鮮半島有事の際に在日米軍基地からの米海兵隊が出動するのは、日本政府の了解を得なければならない」との発言はそのまま生きている。

2019年1月1日火曜日

下澤木鉢郎3


お師匠さん(1957)

下北の女(1948)

津軽の農婦(1970)


 最近では、ヤフーオークションで、書画を買うことが多い。今のところ、集中的に集めているのが、播州出身の土屋嶺雪と香川出身の近藤翠石の作品で、それぞれ10点くらいは集まった。ある程度、集まると画風や落款、署名でほぼ真贋はわかるし、さらに作品制作の年代も絞れるようになる。何より、昭和初期ではある程度有名であった二人の画家も今では全く忘れられた画家なので、私以上の作品数を持っているコレクターはいないと思う。オタク的ではあるが、両画家の権威となったとも言えよう。まとめて展示すると画風の流れなどがわかりおもしろいが、出身地以外に展示会の開催はあり得ないので、将来的には寄贈を考えている。

 10年以上前になるが、弘前のダイエーで弘前博物館主催の下澤木鉢郎の版画展があり、どこかユーモラスな作品に惹かれ、何点か版画を買った。最初は青森市の画廊で、「しぐるる山湖」という冬の津軽を描いた作品を買い、その後、昭和8年のモノクロの小品を、さらにオークションで「碇ヶ関」など3点ほど買ったが、その後は、機会もなく購入していない。今回、オークションをのぞいてみると、「お師匠さん」というやや大型の版画が出ていた。あまり競合者もおらず、9000円くらいで落札できた。額縁代くらいの値段である。これは1957年に行われた東京国際版画ビエンナーレに出品された作品である(他には「唄う子」を出品)。もちろん実際に出品された作品そのものではないと思うが、他の作品でも数十部程度しか刷っておらず、この「お師匠さん」も刷った数は少ないと思う。下澤木鉢郎版画集(1980)を持っているが、この本にはビエンナーレに出品した二つの作品は載っていない。第一回東京国際版画ビエンナーレには世界29の国から500の作品が、日本からは200点の作品が集まり、長谷川潔や浜口陽三など新しい流れの版画家も出品している。下澤の弟子といってよい棟方志功は八曲一双の横幅746cmもある意欲作「群生の柵」を出品するが、国内の審査員から反対され入賞は叶わなかった。棟方志功がヴェネチア・ビエンナーレで国際版画大賞を取ったのが1956年で、大きな話題となり、戦後の日本の版画界の実力を見せようと開催したのが東京国際版画ビエンナーレである。多くの日本を代表する版画作家が自信作を応募した。その中での下澤の作品「お師匠さん」である。あまりやる気が見えないし、作品自体に現代的な雰囲気が少ない。こうした作品を国際版画ビエンナーレに応募すること自体、なんかなあという気がする。普通ならもう少し、賞をとってやる、世間をアッと言わせてやると言った気持ちが見られそうだが、この作品にはそうした欲はない。飄々とした下澤の性格がそのまま出ている。彼にとっては、おそらく後輩、弟子にあたる棟方から出品を依頼され、仕方なく、あるいはこれでも彼にとっては少しやる気を出したのかもしれないが、出品したのがこの作品である。見ていると、下澤の得意とする風景画にも共通する和モダンの雰囲気があり、しっとりし、伝統的な日本版画の単色の平面の組み合わせであるが、複雑で深い色合いを感じさせる。また太い輪郭線は厳しい師匠の性格を表している。それでも抽象画的な版画が多い国際版画ビエンナーレには似合わない。ただ大きさは縦63cmに横50cmと彼の作品の中では大きな方で、“下澤木鉢郎版画集”に載せられている、88の作品でもこれほど大型の版画はない。大きな会場に合わせて大型の作品を出品したのだろうか。また彼のほとんどの作品は小さな印章のみ捺されているが、この作品は印象の横に赤字の手書きのサインが入っている(通常は絵の余白にサインが入っている)。

 私は歯科医なのかもしれないが、この作品でも口元に目がいく。黒と白の画面で歯並びが表現されている。版画で女性の笑顔を表現することは少ないし、あっても歯自体を描くことはない。歯と歯の境界を線できちんと描くと、かなり下品な感じがするため、私は絵画で歯を描くことは禁忌と考えているが、この作品では平気で描いている。下澤の他の女性を描いた作品、昭和23年の「下北の女」、昭和45年の「津軽の農婦」でもそうした表現はない。ちょっとひねくれているが、下澤のビエンナーレに対する挑戦なのかもしれない。また通常、人物の後ろには縦の線、例えば柱などは避けるが、この作品では日本の柱が人物の後ろに描かれている。むしろこうした構図に無頓着な江戸時代の浮世絵を彷彿させる。

 下澤の版画を代表する作品の一つであろう。