2023年8月20日日曜日

 弘前の日本料理店

 



弘前観光で一番の問題点は、自慢料理がない点であった。札幌と言えば、味噌ラーメン、ジンギスカン、海鮮料理、福岡と言えば、博多ラーメン、モツ煮、水炊き、屋台という風に観光客にとっては、名所、旧跡、自然とともに食べることも旅行の大きな魅力の一つである。折角、弘前に観光に来るなら、地元の美味しい料理を食べたいというのはもっともな話で、ましてや海外から来る観光客、とりわけお金持ちの観光客からすれば、最高の食事をしたいと思うだろう。

 

ところが弘前では、観光客に紹介したいレストラン、食事店が本当に少ない。以前、アメリカからお客さんが来て、弘前駅まで迎えに行った。ちょうど昼前だったので、昼食ということで駅前の高級中華料理店を選んだ。理由としては、その外国の方が中国系アメリカ人で、馴染みのある料理と駅から近いということでここを選んだが、喜んでもらった。夜は、弘前城近くの翠明荘、ここは旧高谷家別宅で、部屋の雰囲気が素晴らしい。ただ料理に関しては、豪華ではあるが、それほど感動するほどのものではなく、今は閉店している。その二年後もアメリカの友達と弘前にきたが、この時は自宅に招いて、家内が料理を作った。

 

お客さんが弘前に来た時にどこで食事をするか、これは本当に難しい。特に招待するお客さんがグルメで東京、大阪、京都の名店によく行っている人の場合は悩む。イタリア料理であれば、弘前大学医学部病院近くの「オステリア エノテカ ダ サシーノ」があるので、ここに連れて行けばまず間違いないが、外国の方となると日本料理をチョイスしたい。弘前にも美味しく、人気のある日本料理の店も多いが、例えば、本社の社長が弘前に来たとしよう。弘前支店長が最高のおもてなし料理を味わっていただくとして、果たしでどの店でいいだろうかと考える。日本中の名店で食してきた人を迎えるとなると悩む。私自身も、友人の台湾の先生がいて、台北では散々お世話になり、いずれ青森にも行きたいと言っていた。ただ招待したいと思う店がなく、困っていたところに、ようやく弘前にもミシュラン星レベルの日本料理店を見つけた。

 

成田陽平という期待の若手料理人が、オーナシェフを務める「陽」という店である。元々はフランス料理の人で、フランスのミシェラン2星の「ル・ジャルダン・デ・サンス」、3星の「アラン・デュカス・オ・プラザ・アテネ」で修行し、その後、和食に転じ、有名な京都の3星日本料理店「菊乃井本店」で九年修行して、開業という経歴で、「RED U-35」という若手料理人のコンテストで20162019年に準グランプリを受賞している。先日、家内と二人で食べに行ったが、噂に違わぬ、すごい店だと思った。全ての料理が計算され尽くし、一品で何度も違う味、香り、食感が楽しめる料理となっており、どの料理も感動するほど美味しかった。全体で10品ほどのコース料理で、同じ時刻に同時にスタートする方法で、すべてオープンキッチンで料理自体を見て楽しめる。よく割烹旅館などで出される日本料理とは根本的に違うもので、例えば、肉料理なども、開始から1時間後に肉料理の順番になるのを見計らって内部の熱が入るように計算し、配膳直前に表面に火を入れて仕上げるようにしている。全て計算された料理の真髄を味わえる。

 

青森県は三方を海に囲まれ、魚の種類も豊富で、きのこなどの山の幸、川の幸、野菜、肉にも恵まれている。ただ流通経路に問題があり、京都であれば、信頼のおける八百屋、魚屋、肉屋に料理材料を持って来させることができるが、弘前では例えば岩崎漁港でいいズワイガニが取れても、それを弘前まで通年的に運ぶルートがない。また滅多にはない巨大な天然ホタテ、日本最高のカレイ、八戸のトラフグ養殖、幻のキノコ、松露、赤石川の金アユやイトウ、小田原湖の天然うなぎ(アユ、うなぎはこの日のメニューにありました)あるいは深浦港でとれるマグロは大間にも負けない。また深浦の須藤豆腐店の油揚げや世界最高級品の陸奥湾の干しなまこ、青森シャムロックなどの地鶏、ずぎ芋、長谷川自然豚、アブラツノザメ、トゲクリガニ、メバル、沖サバなど、青森県は素材的には本当に恵まれた環境にある。ただ、こうした材料を集め、提供する中間業者がないため、美味しい料理を提供するのに材料集めに恐ろしく時間がかかる。

 

例えば、五能線の一部列車にクーラーボックスをおけるようなスペースを作り、朝の早い便に漁港でとれた魚を積み込み、弘前駅で下ろす、こうしたルートはできないものだろうか。岩崎漁港近くの陸奥岩崎駅、深浦港近くの深浦駅での停車時間を1、2分延長できれば、食材の搬出は可能であろう。例えば、陸奥岩崎駅6:49、深浦7:26分の電車に、魚の入ったクーラボックスを積み込むと弘前には10:12には到着して、そこからは車で店まで運べる。こうしたサービスもJRには検討してほしいし、県や市でも実現可能かを考えて欲しいところである。冬場、毎日、仕入れに深浦漁港まで車に行くのは危険だし、大変である。注文は今やスマホで簡単にできるので、その日にとれた魚をスマホで見て注文すれば良い。他にも出荷量がごく僅かで、鮮度の短いものについても、流通が何とかなれば、レストランなどで食材と使えるので、注文、配達の仕組みができないであろうか。将来的には、深浦―弘前間は直線距離で50kmくらいなので輸送用のドローンであれば1時間もかからない。

 

若くて優秀な世代もどんどん増えており、弘前も将来楽しみである。我々のような年配者は、商工会議所、各種団体や弘前市、青森県の関係所庁を通じて、そのお手伝いができればと考える。





2023年8月17日木曜日

弘前市が空襲を免れた理由は

 



今朝の東奥日報の明鏡欄に、「なぜ弘前市は空襲を受けなかったのか。戦前、弘前に住んだことがある米軍中枢部の将校の一声で、弘前は空襲の標的からはずされた」というような内容の投書があった。この疑問は、これまでも何度も繰り返しされ、その度の否定されてきた。弘前市には、戦前、アメリカから多くの宣教師がきて、彼らは帰国後、空襲する都市のリストから弘前を外すように尽力し、その結果、弘前には空襲されなかったという説も同じようなものである。結論としては、なぜ弘前が空襲されなかったかははっきりとはわからないが、たまたまそうなっただけである。

 

以前、このことについて少し調査したことがあるが、弘前にいた将校、宣教師が空襲阻止に動いたという記録はなく、アメリカ軍の戦前の調査でも、爆撃候補地として、地形、人口、産業など詳しく調べられたレポートがあった。このレポートでは日本の多くの都市について細かく調べられ、これを元に実際に空襲する場所を決めていったのである。

 

昭和19年以降の米軍の主な侵攻ルートは、サイパンにB29の基地を作り、そこを起点に日本を空襲するというものであった。それでも護衛の戦闘機の航続距離あるいは攻撃された飛行機の避難場所を考えるとサイパンと日本の途中、硫黄島に基地を作る必要ができ、昭和203月に陥落後、ようやくサイパンー硫黄島―日本の爆撃コースが確定でき、本格的な日本本土の爆撃が活発化した。それでも航続距離の関係からB29の行動圏は、爆弾を積んで、3334km(basic)2650km(max bombs)の行動半径である。サイパンを中心にすれば、福島くらいがギリギリで、青森はかなり遠い。後継機であるB-36であれば、戦闘行動半径は6220kmなので余裕である。サイパンと東京間の距離は2350kmなのに対して、サイパンと青森間が2900kmで、上空の集合、待機あるいは余裕時間を含めると、B-29ではかなり厳しい距離となる。ちなみに随伴する戦闘機P-51の例で言えば、航続距離は3000km、硫黄島から発進しても青森まで片道1780kmで随伴は無理である。どうしても随伴するとなると空母を日本本土にかなり近づけて、そこから随伴する戦闘機を発進することになる。

 

実際、昭和20727日の青森空襲では、サイパンからのB-29の発進は航続距離の点で難しかったので、狭い硫黄島(距離1783km)から発進し、おそらく随伴する戦闘機もなかった状態であったのだろう。米軍としては戦略爆撃という点では航続距離の点でギリギリの都市であった。さらに遠方の北海道にはついにB-29などの戦略爆撃はなく、空母艦載機のみの爆撃があっただけである。青森市の爆撃については、その目的ははっきりしないが、おそらく北海道と本州の連絡を断つという以外にも単純に無差別爆撃による戦意をなくす意味が強く、815日に終戦にならなければ、弘前や函館なども空襲されたであろう。

 

アメリカではロバート委員会(「戦争地域における美術的歴史的遺跡の保護、救済に関するアメリカ委員会」)が発足し、そこでは日本の文化財リストを「ウォーナー・リスト」として1944年の7月にまとめられ、京都や奈良などの寺、神社や城が記載されている。このリストにっは弘前城も入っていた。ただ実際の空爆については、こうしたリストは一切、無視され、終戦前日も京都への原爆投下の訓練を行なっていたという。名古屋城天守閣、沖縄首里城、岡山城、青葉城などリストに載っていた文化財も平気に爆撃され、結局は「米軍の空襲目標の180都市を人口順に選んで、その順に爆撃していたが、奈良、鎌倉については本格攻撃に順番が来る前に終戦となっただけだった」(「ボストン美術館 富田幸次郎の五十年」橘しずゑ著を参照)。

 

1940年(昭和15年)の国勢調査によれば、青森県の都市別人口は、青森市が14800人、ついで弘前市が109000人、八戸市が99800人となる、人口順に爆撃されるなら、青森市の次は弘前市となったはずで、戦争が早く終わったので、空爆されなかっただけである。

 

まあこじつけていうと、このロバート委員会のメンバーのひとりに弘前に関係する人物がいる。白戸一郎1911-1997)である。父親の白戸八郎は、武術と馬術で弘前藩に仕えた白戸久蔵の次男で、東奥義塾を卒業後、青山学院、早稲田大学で学び、その後、アメリカでメソジスト系の神学校で学び、牧師となった。主としてコロラド、デンバーで活動し、教会を建てた。大正15年に体を壊して帰国し、札幌、東京などの教会活動をした。八郎の長男の一郎はデンバーで生まれて、アメリカの大学で学び、コロンビア大学教授となり、40年間に渡り、アメリカの日本語教育に大きな功績を上げた。有名なロバート・キーン教授も彼の生徒である。また同じくロバート委員会のメンバー(日本人は全部で三人)の一人に、白戸一郎の妻、まさ(青山士の長女)がいる。ウォーナ・リストは読んでいないが、白戸一郎にとっては自分のルーツ、弘前には、少し思い入れがあったかもしれない。


2023年8月15日火曜日

安全な国、日本

 




面白いデータがある。大麻、覚醒剤、ヘロインなどの薬物生涯経験率の世界的な比較である。まず生涯経験率のトップは、アメリカで42.6%、ほぼ人口の半分が薬物経験をしている。次に多いのはカナダで47.9%、フランスは45.9%、ドイツ、イタリア、英国、オーストラリアも30%を超えるのに比べて、日本は2.3%と圧倒的に低い。また過去一年経験率で言うと、やはりアメリカが19.4%と高く、他の欧米諸国も10%以上なのに対して、日本は0.14%と2桁低い数値となっている。日本が低いと言っても、1000人に1.4名が非合法の薬物を使用しているのは驚くが、アメリカでは5人に一人という数値は、もはややばい状況である。薬物依存、それに関わる犯罪は、相当数あるのは間違いない。

 

アメリカを中心として欧米のこうした薬物汚染は深刻な問題であり、薬物中毒による死者は2020年度の1年間で93331人であった。交通事故死が43000人、自殺者数が49449人(2021)、殺人件数は21500人(2021)なので、病気による死以外では死因のトップであろう。そしてベトナム戦争のアメリカ兵の戦死者は47434人だから、毎年、その2倍以上が薬物の過剰摂取でなくなり、さらに増えている。ちなみに日本の場合、薬物中毒による死者数はカウントされていないほど少なく、交通事故死数は2636人(2021)、自殺者数は21881人(2022,殺人件数は946人(2020)であった。アメリカの人口は3.3億人、日本が1.2億人で、約1/3と考えると、日本の交通事故死はアメリカの1/4、自殺者数はほぼ同じが少し多く、殺人件数に至っては1/7くらいとなる。

 

それではヨーロッパはどうかというと、薬物死亡者数は、スウェーデンが100万人あたりの死亡者数が81人、次がイギリスの76人、フィンランドの72人、ノルウエイの66名、デンマークの52名と北欧諸国の薬物汚染がひどい。ちなみにアメリカは100万人あたり283名となる。ただ自殺死亡率をみると、日本は100万人当たり19.5人、フランスは15.1人、アメリカは13.4人、英国は7.5人、イタリアは7.2人とかなり少ない。自殺が禁止されているイスラム教、キリスト教国では自殺者も少なく、宗教的な影響によると思われる。交通事故死は、人口10万人当たりの死者数(2016)でみると、アメリカはダントツに多いが、それ以外のヨーロッパ各国の死亡者数は日本と変わらない。人口10万人当たりの殺人件数は、ヨーロッパではイギリスが一番多く、それでも1.5件、デンマーク、イタリア、ドイツなどは0.8件くらい、日本はその半分の0.4件くらいである。上位には南米、アフリカ諸国が並ぶが、アジアではフィリッピンが12.4件と日本の30倍、タイが5.5件で14倍、ベトナムで4.0件、韓国でも2,0件と日本の5倍となる。日本は安全な国と言われているが、これは本当で殺人件数は世界でも最も少なく、同様に薬物汚染も小さい。

 

それでも芸能界では、覚醒剤や大麻など薬物所有によって逮捕される役者が後をたたないが、これは一種の見せしめで、欧米からすれば、考えられないことであろう。それでもアメリカの薬物汚染の深刻度を見ると、かなり厳重に取り締まり、薬物の侵入を食い止めなくてはいけない。今、ネットフリックスで「死にいたる薬」というドラマがやっていて、これは面白い。鎮痛剤「オキシコチン」による悲劇を描いた作品で、実話であることが恐ろしい。このオキシコチンという薬は、ヘロインが主成分で、常習性はあるのをわかっていたのに、製薬社のパーヂュー・ファーマ社が、常習性が少ないと大体的に売り出し、過剰摂取により数万人が亡くなった事件である。この事件の怖さは、患者の生命を預かる医師が盛んにこの薬を慢性的な疼痛患者に処方したことによる。人の命を露ほどにも思わない資本主義の化け物を描いているが。結局、連邦政府によるパヂュー社は訴訟され、6.3億ドルの賠償金を支払う判決を受けたが、この問題がその後も後をひき、過去20年間にこうした薬による死者数は50万人以上といわれるほど薬物汚染に広がっている。

 

日本政府に対して批判的な人もいると思うが、こと薬物汚染に対する政策は優れており、どうかアメリカの二の舞にならないように注意してほしい。一つは、多くの外国人の流入に伴う薬物の流入で、これは外国人に対しても強制送還も含めて厳しい罰則をすべきであり、またオピオイド系薬品など麻薬薬剤の管理の徹底であろう。必要ないのに無闇に処方したり、外部に持ち出す医師については、現行でも行政処分が行われているが、医師免許剥奪などもっと厳しい処分が必要かもしれない。さらに麻薬販売については現行法でも厳しく、ほぼほぼ懲役刑がつき、覚醒剤では一年以上の懲役刑、ヘロインでは10年以下の懲役刑と傷害致死罪並の重い犯罪となる。これなどあまり知らない人も多いので、もっとテレビやネットで普及された方が良いかもしれない。

 

欧米では、と何でもかんでも礼賛する人がいるが、最近の欧米の政策、移民問題、エネルギー問題、ウクライナ問題など全てろくでもない政策で、白人を中心として資本主義もそろそろ終焉期になっているのかもしれない。労働生産性ランキングで、日本は23位、アメリカの6割と言われているが、ヘロインを売って生産性を高める国を真似る必要はないし、1日当たりの薬価350万ドル(5億円)の血友病の治療薬を承認するFDAもどうかしている。国として一番大事なことは、安全な国で、もちろん戦争のないことは大事だが、アメリカを反面教師に、まず薬物中毒をなくすこと(ほぼできている)、殺人事件を減らすこと(ほぼ達成)、交通事故死を減らすこと(衝突被害防止ブレーキで、さらに半分以上減少する)、自殺者については世界的に見て日本の若年者(2030歳代)の自殺死亡率が高く、これを低下させれば、より完璧である。

 


 


2023年8月12日土曜日

アーティストの真骨頂

 


今朝の朝日新聞の書評欄を見ていると、最近、発刊された「未完の天才 南方熊楠」(志村真幸、講談社現代新書)の書評欄自体が逆さまに印刷されていた。あの天下の朝日新聞でも、こんな大きなミスをするのかと驚き、新聞を逆さまにして書評を読むと、なんと書評を書いたのはアーティストの横尾忠則であった。ここで、ああこれも彼流の芸術作品で、新聞ごと彼の作品にしたのだとわかった。その証拠に、書評自体に大きく、“Wanted"のように、デカデカと“未完”の文字が、さらに黒塗りの文字のところは逆に白くしているので、明らかに意図的にこうした趣向にしている。さすがに横尾忠則だと思った。

 

アーティストの一つの役割に世間を騒がせる、話題を作るというものがあり、独創的で、ユーニークなものほど、世間は注目する。爆発のアーティストと呼ばれる中国の蔡國強などもその一人である。横尾自体も最初は寺山修司のポスターなど、1970年代はそのイラストに多くの若者が衝撃を受けた。その後、画家に転向後も、次々と話題作を提供し、現在、87歳になるが、朝日新聞の書評のように、まだまだ創作意欲は活発である。

 

画家は、絵を売ることで生活している。よほどの大家でない限り、展覧会に出すような大型な作品は売れることはなく、家庭に飾られるような作品が主要な生活の糧となる。つまり、展覧会用の絵と生活のための絵の2種類が存在することになる。現在、ヤフーオークションの“掛け軸”と検索すると、数万点の作品が見つかる。大部分は、画家が生活にために描きまくった作品である。例えば、私の集めている播磨地域で活躍した日本画家、土屋嶺雪の場合、画壇とは無関係で、帝展などの主要な展覧会にも一切作品を出していないので、その作品の多くは、生活のために描かれたものである。活躍した大正から昭和時代、絵を売る方法としては、美術商あるいは伝手を頼りに注文を聞いて、買い手の希望に沿った絵を描いたと想像できる。嶺雪の子孫によれば、下絵なしに一気に描いたと言われ、一つの作品を描くのも早かったに違いない。それでも同じような絵を描くことは画家としてしたくないのか、彼の作品を23点ほど見てみると、幅広いテーマに挑戦しているのがわかる。

 

弘前出身の洋画家、奈良岡正夫さんは101歳まで長生きしたが、死ぬ間際まで絵がいくらで売れるか心配していた。若い頃、売れなくて苦労したのか、最後まで売れる絵として羊のばかり描いていた。新しいことにもチャレンジしたかったかもしれないが、人気があり売れる作品、つまり羊の絵をもっぱら描いた。横尾忠則さんからすれば、こうした画家の姿勢はもっとチャレンジしろと叱るかもしれないが、横尾のような売れっ子は数点売れれば、十分に生活でき、それほどあくせくしなくてもいい環境にあったのだろう。

 

土屋嶺雪の場合は、おそらく注文製作で描いていたので、作品の多くは家の新築などで喜ばれる吉兆の絵柄が多いが、一部は、歌舞伎の演目に関係するものがある。当時、流行っている歌舞伎俳優を描いて欲しいという要望があったのだろう。その中に鼓をもつ商人風の男と大きな簪を何本も髪に刺した花魁を恋文で繋いだ絵柄の作品がある。「歌舞伎 演目 鼓」で検索してみると、「義経千本桜 初音の鼓」、「堀川波の鼓」、「綾鼓」、大正二年の新作歌舞伎「鼓の里」などがある。ただどれも絵の内容とは一致せず、近いものとしては、昭和31年に有吉佐和子さんが書いた「綾の鼓」がある。ただ女性がお姫様、白拍子というよりは花魁であり、一致しない。誰か歌舞伎に詳しい人がいれば、教えて欲しい。





 


2023年8月9日水曜日

インターネットが始まったころ

 
アップル LC630


私が大学を卒業し、東北大学歯学部の小児歯科教室に入局した1982年頃、まだインターネットは普及しておらず、パソコン自体もなかった。そのため研究でコンピューターを使う場合は、東北大学本体にある大型コンピューターに電話回線でバッジ処置をしてデーターを送り、解析した。二つの集団間の有意差検定、T-検定に使われることが多かったが、今思うと、一番初歩的な計算である。電話、コンピュータ使用料も含めてかなり高額で、使用に当たっては、教授の許可が必要であった。

 

その後、鹿児島大学歯学部に移動した1985年頃になると、まだインターネットは普及してはいなかったが、パソコンはかなり普及し、一人一台の時代となってきた。私が購入したのはNEC 9800で、当時でも給料1ヶ月では足りなかった記憶がある。統計処理、ワープロ機能はこれでできるようになったので、一太郎などを使って論文作成などを行なっていた。さらにノートパソコンも出回るようになり、医局員の中では東芝のダイナブックよりエプソンのノートパソコンの方が人気があった。その後、一人の医局員がアップルのクラシックを使うようになると、一気にアップル派が増えていった。非常に高かったがApple Macintosh IILCなどを購入する先生もいたが、私は結局、高くて買えなかった。

 

ようやくappleを買えたのは、開業した年、1995年で、最初のappleLC630というもので、プリンターなど周辺を含めると70万円近くかかった。この頃になるとようやくインターネットも普及し始めたが、まだまだ電話回線で、googleなどのサービスもなく、これまで通り、主としてパソコンとして使うことが多く、開業当初の2年間はもっぱらパソコンゲーム、「提督の艦隊」をしていた。おかげでアメリカは10回以上、占領した。その後、数年間はこの機種を使い、その後は初代i-mac、続いて半球体のボディーガかわいいi-mac G4、そしてi-macG5、さらにインテルのi-macをほぼ数年ごとに買っているので、LC630からノートパソコンも含めると、8台のアップル社製コンピュータを買っている。

 

今でこそ、スマートフォーンも含めてインターネットは空気のようななくてはならない存在となっており、生活全てに大きなウエイトを占めており、それがない状況は考えられないが、今から40年前はそんなものはなかった。私の世代は、こうしたパソコン、インターネットの創始期からの変遷を知る世代で、上の世代75歳以上の人はパソコン、インターネットの導入時期が30歳以上のため、全くコンピューターが苦手という人も多い。

 

こうした歴史を振り返ると、大型コンピュータの利用からパソコン、さらにその発展までの30年間くらいは、ものすごい勢いで機械、性能そのものが進んできた。ただここ10年を見ると、それほど大きな進歩はなく、新しいアップル製品を買ってもそれほど大きな驚きはなく、テレビや洗濯機と同じような家電化している。これはカメラについてはもっとはっきりしていて、ニコンやキャノンなどのカメラメーカーもそもそも新製品の開発をやる気がないようである。

 

コンピューター自体は、40年前から使っているが、どういうわけが、携帯電話、スマホのデビューは遅いし、実際、今でもあまり使っていない。若い人にいうとびっくりされるが、1ヶ月のスマホの使用時間は1時間以内で、もっぱら写真、LINEと月に数回の電話だけである。もちろん旅行に行くとスマホの利用時間は増えるが、普段はほとんど使うことはない。スマホの一番の問題点は、画面が小さくて検索、ニュースがよく読めない、映画やyoutubeも見られないことである。そんなこともあり、最近は旅行にもI-padを持っていくので、ますますスマホを使うことは少なくなった、また昔からクレジットは使うのが苦手なため、スマホ決済はしていない

2023年8月6日日曜日

菱川やす 5

 





以前、このブログで取り上げた“菱川やす”に関する新しい情報を、多岐亡羊さんという方からコメントいただいた。アメリカの女子医科大学に留学して、女医となった菱川やすについては、何度かブログで取り上げたことがあるが、その背景がわからなかった。お教えいただいた情報から少しわかったので、報告したい。

 

鐵城記寿録(村居鐵次郎、昭和17年)という本の中に、「維新後最初の女ドクトル菱川安子」という章がある。これによると

 

菱川安子は、出身地は名古屋で、菱川篤三の次女。明治4年にできた横浜女子共立学校に入学し、学業の成績はよく、明治11年に卒業すると同時に、母校の教師となった。明治1415年の頃、東京の大倉という人のところへ嫁したが、呑兵衛で家庭的に恵まれず、本郷の教会などに牧師として働いたことなどあり、不幸、二、三年にして横浜に戻ることになった。明治18年中、芝愛宕町の慈恵医院に、看護婦養成問題が台頭して、同院の院長、高木兼覚を初め、上流夫人側では、伊藤、山縣、大山などの奥様連が世話役になって、馬力をかけたので、義金(6478)が立所に集まり、米国から、ミス・リードという女博士を招聘したが、博士さっぱり日本語が通じない。そこで見出されたのが、菱川安子さんで、慈恵医院へ頼まれてきたのが、その年の8月であった。準備万端整えて、その十月に開所式が挙げられ、爾来多くの看護婦が養成されるようになった。通詞になった安子さんは、開所と共に慈恵医院に在勤一年ばかりした時、石川県金沢の医学校へ、ミセス・ポートルという医学博士が教師として招聘されて来た。やはりリードさんと同様、日本語が少しもできないところから、またも安子さんが通詞として招かれ、赴任して一年ばかり、その博士に日本語を教え、同時に安子さんは、その博士に医学を習った。その結果、ポートル博士及びリード博士から、アメリカ行きを勧められ、ついに決心して、明治20年の歳末両者の推薦状を持って、シカゴ市の医学専門校へ留学し、西暦1889年(明治22年)ドクトル・オブ・メジチーネの学位を得て、さらに請われて一年を看護婦校に学んで、帰朝した。時に明治2210月のことである。当時の写真おおび卒業証書が残されている。帰朝後、名古屋、京都を物色し、それぞれ準備をして、病院開始を計画し、経済上にもかなり苦労をしたのである。幸いに準備がなったので、位置を京都と定め、24年の半ばに上京区新町通り上立売に病院を開き、多くの人を置いた。排外主義一点張りの当時としては独特の女医として、新貴重の新式治療として盛況をみ、四十有余の室では足らないくらいの患者があって、付近の病院から羨まれるほどであったが、天、女医に恵み薄きと、元来浦柳の性質とに禍いされ四年ほどの歳月を消費して、停院の止むをえざるに至った。是非なく、明治29年に横浜に戻り、父母のもとで静養に努めた。しかもただ単に籠居するのも、健康上如何にと、攝養旁旁32年の中頃、山手一般病院に行って手伝っていたが、図らず卒倒してので、母校でも非常に心配し、学園の校長室へ引き取り、優遇静養に努めること年余、不幸にも、明治33810日享年41歳で、敢えなく世を去った。明治16年まで女医なく、17年頃届出での旧式女医は二、三人あったでルである。

 

さらに父親の菱川篤三のことを国会図書館デジタルコレクションで調べると、

 

菱川篤三

明治37612日に卒去、墓所:横浜市神奈川新町長延寺、行年:73歳、名古屋の出、明治の初め、横浜に遊び、育英事業に従事し、元街、石川両小学校の訓導兼会計幹事たり。

「明治大正実話稿」 村居鐵城、昭和13

 

横浜の寺子屋

青雲堂

期間:万延元年―明治6年 所在地:元町 生徒数:男 87名、女 38名、調査年:菱川篤三(文久三年)

 

菱川しま(篤三五女、明治9年生まれ)

愛知県士族牧野元春の次男、牧野商店主、牧野鉄治郎に嫁ぐ。フェリス女学校卒業

 

菱川源六

菱川安の祖父(「鐵城記寿録」から)

その横浜の先生の御親父は、大層裕福な方で、家屋なども石川辺に百戸から持っていられてが、小学校をしくじった私は、今度はこの先生の親御さん菱川源六翁の家に雇われることになり、家賃の日掛集めから、家屋に関する諸の世話掛を承った。

 

 

これらのことから、菱川やす(安)の実家は、横浜共立女学校近く、石川にあり、裕福な家庭の出であった。女子教育にも熱心で、他の娘はフェリス女学校に行かせている。父親、篤三は没年から生年は1832年(天保年間)、祖父、源六は文化、享和年間と思われる。横浜開港は安政年間で、菱川家が横浜に来たのはそれ以降であり、祖父の代に石川に百戸の貸家を持つ資金はどうしたのであろうか。父親、篤三は万延元年(1860年)には青雲堂を開校しているので、それ以前に名古屋から横浜に来たことになる。菱川姓は名古屋に多いが、士族であれば、幕末に横浜に来ることはあまりなく、名古屋で商人をしていて、発展しつつある横浜に移住したのであろう。菱川源六、北方村平民の記載もある。元町の歴史は、万延元年に横浜村の居住民90戸が隣接する本町に強制移転されたのが始まりと言われ、元町のほぼ初期の住民の一人であったのだろう。






2023年8月3日木曜日

弘前の若者 がんばれ


 

ブルータス、おとなの古着 全国の古着店57で取り上げられた弘前のSlowpoke




お客さんより建物の見学が多いと嘆くアンティーク家具、雑貨のPPP



少し前のことだが、旧キャッスルホテル裏にあるインテリアショップ「PPP」を訪れた。以前、椅子や雑貨など、数点、買い取ってもらったことがあり、その後、売れたがどうか確認したかったからだ。残念ながら、ブナコの菓子皿以外がまだ売れていないとのことで、悪いことをした。ちょうど東京銀座の無印ホテルで、“Modernism show”の一環として、全国各地のヴィンテージ家具屋さんが集まり、展示するため、その準備の最中であった。参加するお店は、東京が中心であるが、それ以外は大阪、京都、福岡などの大都市からで、北日本からはこのPPPだけが参加している。欧米の家具、雑貨、特に私の好きな北欧のものは根強いファンがいるが、いざ弘前でどれくらいいるかとなると、経営は大変そうである。オーナーは金沢大学の工学部出身という秀才で、エンジニアという仕事を辞めて好きな家具販売の道に入った。非常におしゃれな店で、明治時代に作られた建物とマッチして気持ちのいい空間で、特に二階からの眺めは素晴らしい。東京での催しが終了すると、オランダに仕入れに行くというが、オーナーの家具への想いは強い。ヒロロからの遊歩道にある自転車屋に3年ほど前に、保有していたイタリアのレニャーノの自転車を売ったが、全く売れずにバツが悪かったが、最近、東長町にできた眼鏡屋にその自転車を見つけ、安心したことを報告した。PPPのオーナーもこの自転車のことを知っていて、かっこいいと思っていたと言ってくれて嬉しかった。その足で、今度は土手町のかくみ小路の「まわりみち文庫」に行って同じように話をすると、この東長町の眼鏡屋のオーナーはこの古書店によく来るようで、その折に新しく買った自転車のことを大変気に入っていることを知った。つながっている。

 

この自転車屋も家具屋同様、専門知識が豊富な人で、古い自転車が好きでベルギーなどに自転車を買い付けに行くという。家具屋はオランダに、自転車屋はベルギーに買い付けに行くというインターナショナルな感覚である。まわりみち文庫もそうだが、東京にあっても良さそうな店が弘前にある。そういえば、旧中央市場の裏近くにある「slowpoke」という店が、最近の“ブルータス、おとなの古着”で全国の古着屋57に選ばれて載っていた。東北は全国的に有名な仙台の「True Vintage」とここだから、業界では有名なところなのだろう。そういえば、最近近所に「シーソー」という店が、同じ代官町にも「ザフィクション」という古着屋が、また土手町には「Button up clothing」という店ができた。東京の下北沢のようなおしゃれなお店が弘前市に次々とできていて、嬉しいことである。ただこうした古着屋はビンテージものを扱い、値段も決して安くない。お店のHPを覗くと、タイタニックのTシャツが4万円、ラルフローレンのセーターが10万円近くする。いずれも人気のあるビンテージで、値段としては妥当なものであるが、それでも弘前の若者で買える人は少ないだろう。東京では20歳代で一千万円以上の収入のある人がいるが、弘前ではTシャツに4万円出せる人は限られている。

 

三浦展はその著書「再考 ファスト風土化する日本 変貌する地方と郊外の未来」(光文社新書)で、良い街の条件とした、良い居酒屋、良い銭湯、と良い古本屋に加えて、良い古着屋、良い中古レコード屋、そして良い古道具屋か中古家具屋を加えたとし、これら6つが揃っているのが東京、西荻窪としている。そして中古品というのは、大量生産される既製品を売る店とは異なり、中古品を介して個人の自由で多様な活動が多発し、交流が促進される場所なのだとしている。弘前も東京都は規模が違うが、上記にように古着屋、古書店、中古家具屋、さらに車で30分もいけば本格的な温泉が数軒あり、居酒屋も多く、Joy Popという中古レコード店も再開した。こうしてみると弘前市は三浦さんが提唱する良い街の条件を全て備えている。

 

弘前の人は昔から新しいものが好きで、東京で流行るとすぐに弘前でお店を開きたくなるようだ。しかしながら敢えて苦言を呈すると、東京で流行っているものを直接、弘前に持ってきても、若者人口が2桁、3桁も少なく、そうした状況をよく考え、あまり尖った方法をとらないか、あるいは違って方法をとり、少なくとも経営的に長く続く体制を作って欲しい。東京で流行っているとすぐにそれを真似ても、結局はお客が来ないで、閉店してしまう。一つの方法は、近所にある宮本工芸で、ここではアケビ、ブドウ皮細工物を製作しているが、多くは県外で売れている。同様に医学部病院近くのイタリア料理サッシーノもお客の多くは県外の人である。これの変形として、二唐刃物は主たる収入は、鉄骨材料を製作しており、その傍らに刃物を作っており、これを県外、あるいは外国に売っている。市内、あるいは県内で稼ぐのではなく、県外、外国で稼ぐやり方である。

 

逆に地元の若者を対象にするなら、値段が安くて買いやすい商品も扱うべきであるし、皆が集まり会話する場所とするなら、喫茶店など日銭を稼ぐ場所も併用すべきなのかもしれない。さらに県外、あるいは海外を対象にするなら、これは東京の真似を超えて、完全なオリジナルなものを探していかなくてはいけない。たとえば、ファッションでいえば、青森発祥のBOROと呼ばれる古布を用いた衣服が世界的に注目されているが、その分野のパイオニアとなり、オリジナルな作品を発表していけば、可能かもしれない。あるいは家具、雑貨で言えば、地元産業、ブナコや刺子などとのコラボ作品などもヒントになろう。県外、あるいは海外で売るためには、東京の同業者の真似ではなく、それを超えなければ、わざわざ地方に来ない。よほどの覚悟が必要であるが、若者のこうしたチャレンジする勇気は応援したい。



2023年8月2日水曜日

ゴールキーパーの悩み


 

長く日本代表であった横山謙三選手も身長が175cm今では、代表は無理であろう。



私は、中学一年生から高校三年生までサッカーのゴールキーパー(GK)をしていた。手を使えないサッカーで唯一、手を使えるゴールキーパーというのはかなり特殊なポジションである。大学、歯学部のサッカー部に入ってからは、一度フィールドプレーヤーをしたかったので、G Kをやめてセンターバックに転向した。結局、卒業するまで6年間、このポジションでプレーした。通常ならこんなことは許されないが、あくまで歯学部の同好会で、一期下に優秀なGKがいたので、こうしたことができた。フィールドとGKの両方を経験することはあまりないと思うが、経験してみて両者の差は大きいと実感した。これはGKの経験者だけがわかることだが、GKは孤独で、試合中のチームとしての一体感はない。味方が点数を入れれば、喜んだふりはするが、あまり実感はなく、むしろシュートを止めた方が嬉しい。

 

そういうこともあり、最近、YouTubeGKの練習を見ることが多い。小学校から中学、高校のGKの練習を見ていて、これは日本のサッカー全体のことと思うが、私が現役であった1970年に比べて、本当に進歩している。単純な例えで言えば、小学校のGKのレベルが、昔の中学生のレベル、昔の中学生のレベルは今の女子の中学生のGKレベルである。小学生くらいでも、横に飛んでボールを止めるセービングも普通にしている。私の場合、高校卒業まで、結局、華麗なセービングはできず、同級生からは「広瀬のセービングは遮断機のように左右に倒れるだけ」と言われた。流石に監督も見かねて、練習では下級生には悪いは、私の左右に下級生を寝させて、それを越えないと横に飛べないようにした。こうすれば、足が地面から離れて綺麗なセービングができると思ったのだろう。

 

また砂場でも相当、練習したが、結局、綺麗なセービングはできなかった。一番の理由は、土の堅いグランドで、飛ぶのが怖かったからである。土のグランドでセービングをすると、腰、肘、膝、を打つことが多く、何度も手の肘に水が溜まり、病院で水を抜いてもらった。もちろん、腰にも、肘にもサポーターをしていたが、セービングをして着地すると全体重がそこにかかる。結局、飛ばなくてもシュートの7割くらいは処理できるし、飛ぶようなコースにくるシュートは最初から止められないと勝手に決めていた。

 

こんな飛べないゴールキーパーでも、監督が神戸市、兵庫県でえらかったので、中学三年生の時には神戸市選抜で広島遠征に行ったし、近畿大会では優勝(4試合中3試合に出場)、国体候補にもなったが、それでも飛べない、左右にバタンと倒れるだけである。唯一、飛べたのは、近畿大会の行われた京都の西京極競技場で、ここは芝のグランドであった。どんなに飛んでも全く痛くなく、こんなところで練習できれば、うまくなると思ったが、実際、当時の学校で芝のグランドのある学校は皆無であった。GKの練習といっても、先輩、後輩の三人でコンビを組み、キャッチングや、グランドのセービングなど、ほとんど練習の情報がないため、適当に練習プログラムを作ってしていた。

 

昔の国体代表と言っても、現在ではほぼ女子サッカー部のGKレベルであり、中三で小学六年生、高校三年生で中学三年生レベルだろう。それほど50年前と現在では技術の進歩は著しい。これはGKに限ったことではなく、他のフィールドプレーヤでもそうで、私が六甲中学のサッカー部に入った時、確か20名くらいいたが、小学校でサッカーをしていたのは3人だけだった。今はおそらく80%以上は小学校でサッカー経験者である。中には小学校からGKをしていた生徒もいよう。当時は、トラップやキックなどの基本手技は中学に入った習ったものだが、今は中学に入学の段階でほとんどの生徒は基礎ができているのだろう。メキシコオリンピック当時の日本代表選手は10回もボールリフティングもできなかったという。多分、当時の日本代表の技術は今のU17歳以下であろう。

 

こうした日本のサッカーの広がりは、J-リーグとワールドカップの影響は大きい。子供達に最も人気のあるスポーツがサッカーで、それをサポートする指導者のレベルの高くなった。それでも芝のグランドのある学校は少ないだろうし、さらにいうと高校、中学で、ゴールキーパーコーチのいるとこなど、ほとんどないだろう。堅い砂のグランドでのGKの練習、試合ほど、痛いものはない。ついでにいうと、昔の全日本のGK、横山謙三は身長が175cm、川口能活選手は178cmで私とほとんど変わらないが、もはや身長180cm以下のゴールキーパーは現れないであろう。