2022年3月20日日曜日

弘前のトリセツ


百石町北側
百石町北側

上土手町?


「弘前歴史街歩き」の売れ行きが気になっていて、本屋を訪ねるが、売れているかどうか全くわからない。”honto"というネット書店の国内旅行ガイド/東北地方の1週間のランキングでは一位、るるぷ仙台松島宮城'23、二位、さくらふくしまに続き、三位に弘前歴史街歩きが入り、そこそこ売れているように思えるし、かくみ小路の”まわりみち文庫”でも13冊ほど売れて、先日10冊の追加納入をしてきた。またYahooショッピングの歴史の本その他ランキングでは7位に入っている。ところが、これまで出版した4冊の本、全て最初の頃は必ず弘前の本屋(紀伊国屋書店、ジュンク堂弘前店)の販売本ランキングに載ったが、今回は全くかすりもしていない。1週間で5、6冊売れれば10位くらいに入るので、ランキングに入らないのは、実店舗ではほとんど売れていないことになる。中古本の転売を狙って業者がネットで買っているのだろう。増刷はしない、400冊売り切りで終了なので、欲しい人は、青森図書、北方新社、hontoなどで購入して欲しい。どうもamazonではなかなか取り扱ってもらえない。

今回は、「弘前歴史街歩き」の内容にも少し重複するが以前、メモした弘前、津軽のトリセツを書いておこう。


1.     幕末の頃の人口(1850)

 江戸時代末期の日本の都市人口は今とはだいぶ違います。ランキングでは

 

 1.江戸115万人、2. 大阪33万人、3. 京都29万人、4. 名古屋12万人、5. 金沢12万人、6. 広島7万人(1873, 8. 和歌山6万人(1873)、9. 仙台 4.8万人、10. 徳島 4.9万人(1873, 11. 萩 4.5万人、12. 首里 4.5万人、13. 熊本4.1万人、14. 堺 4.1万人、15. 福井 3.9万人、16. 弘前3.7万人、17. 松江3.6万人、18. 富山 3.3万人、19.  高知 2.8万人、20. 秋田2.7万人となっています。

 弘前の人口は、1850年で37000人、全国では16位、東北地方では仙台に続く大都市でした。明治6年の調査でも32886 人で全国22位でした。ところが2018年で177411人、全国では151位となっています。ちなみに青森市は1852年では7779人で、今は287648名と40倍近く増加しました。

 江戸時代の弘前の人口の内訳は、家中(士族、卒族)23431名、町方14086名、合計37517名(1853 年)で、家中が人口の62.5%、町方が37.5%となります。金沢で家中の割合が42.8%、松江で43.2%、高松で17.5%、鹿児島で34.6%、他藩に比べても家中の割合が高いことがわかります。

 

2。 弘前大学

 県庁所在地以外に国立大学があるのは、滋賀大学(彦根市)、信州大学(松本市)、弘前大学(弘前市)の3つだけです。滋賀大学は教育学部と滋賀医科大学は県庁所在地の大津市にあり、信州大学も工学部は長野市にあります。

 戦前、弘前市には旧制弘前高校がありましたが、青森師範学校や青森医学専門学校は青森市にあり、空襲で校舎が焼失したため、弘前市に誘致しました。国立大学(総合大学)名は、多くは県名(岩手大学、愛媛大学)や広域名(東北大学、九州大学)、あるいは県庁所在地(神戸大学、金沢大学)からつけられますが、それ以外の市名がつくのは弘前大学だけでしょう(筑波大学はつくば市よりは広域名から)。

 

3。 青森県の特徴

1)陸海空軍

 陸上自衛隊としては青森県には第9師団が配置され、約7000名の兵力を有します。さらに海上自衛隊は大湊基地やミサイル防衛のための釜臥山のガメラレーダーや車力分屯基地にはパトリオットミサイルを配備するほか、大湊航空基地もあります。また航空自衛隊は三沢基地があり、最新鋭のF35戦闘機が配備されています。青森県は本州最北部の地形から自衛隊の陸海空の大規模な基地が配置されています。

2)自給率

 食料自給率はカロリーベースによる食料自給率は118% で、全国4位、米は319(全国97)、野菜は247(75)、果実は579(33)、魚介類は289(64)とかなり高く、牛肉、豚肉、鶏肉も全国平均自給率の2から4倍となっている。ほぼすべての食料が自給できます。

 エネルギー自給率は、太陽、風力などの再生可能エネルギーによる自給率は10.64%、全国5位で、風力発電の導入量は日本一です。かって東通原子力発電所(110KW)が稼働し.東京電力1号機(138.5kW大間原子力発電所(138.8kW)が建設中、同規模の原発が他に2基計画中で、実現すれば電力輸出県となっていました。

3)三方が海

 青森県は日本海、津軽海峡、太平洋の3つの海に囲まれた県であり、同様な県は北海道を除くと山口県と鹿児島県、沖縄県くらいしかありません。日本海でのカニ、ハタハタ、太平洋のカツオ、サバ、サンマなど多くの種類の魚がとれます。

4)弘前市、青森市、八戸市

この3市はいまでも仲がよくありません。八戸市は、もともと八戸藩があり、盛岡藩のあった岩手県の方が文化、言葉、料理も近いところです。ところが明治になり、盛岡藩が反政府であったこと、下北に移住してきた斗南藩が困窮のため、弘前藩との合併を願ったことなどから、盛岡藩北部1/3、八戸藩と弘前藩の所領が一緒になって青森県が成立しました。これにより県庁所在地は、青森県の中心で将来的に発展の見込まれる青森市となりました。青森市は商業都市として発展したので、士族町として傲慢な弘前市とは反目します。



本町に唯一残る明治時代の商家、旧千葉酒造店です。何とか保存してほしい(3/21)


 






 

2022年3月17日木曜日

成人矯正の難しさ

 



現在、子供の治療をしていないので、患者のほとんどは成人患者となる。ズバリ成人患者の矯正治療の難しさは、患者のこだわりが強い点である。自分の意思で、自分の金で矯正治療をする、それも高い費用、長い期間がかかるため、かなり治療結果への思い込みが強い。

 

矯正治療も医療である限りは、必ず不確実性がある。ここで言う不確実性とは、いろいろな医療活動をして予測できない結果に終わり、患者の不利益になることである。具体的に矯正治療についていえば、最初に説明を受けた予想期間より延長した、結果に不満足である、歯根の吸収があった、顎が痛くなったなどで、これらの可能性については最初の治療計画の説明の段階で話しているが、それでもこうした医療リスクをあまり強く言うと治療自体を尻込みさせることになる。

 

期間の延長については、調整料がその分かかるだけなので、それほど大きなトラブルにはならないが、これに治らないという治療結果の不満足が入ると大きな問題となる。当院でも歯の移動自体が遅い患者さんもいるし、一番多いのは舌の機能に問題があり、全く思いがけない歯の移動をする場合である。具体的に言えば、上の前歯を後ろに下げようと、ゴムやワイヤーの力をかけても、そうした動きはせず、逆に前歯が前に出ることもある。これは患者の舌を前に当てる力であり、前歯が矯正力で少し動くと、それを舌で前に動かそうとする癖が発生する。こうしたことが起こると、治療が思うように終わらないことになり、治療期間もかかる。

 

あと多いのは、細かな問題に固執する患者である。1/10mm単位のずれ、肉眼ではほとんどわからないようなズレを気にする患者さんも多く、ワイヤーを曲げて修正すると、今度は違う箇所のわずかに問題点が気になる。一番、困るのは、治療を終了して装置を外してから、ズレが気になる、治してほしいと言われることである。外す前に言ってくれれば、ワイヤーを調整して直せるが、治療後に言われると、もう一度装置を装着することになる。もちろん装置を外す前には何度も次回外すが、気になるかと尋ねる。大丈夫ですと言われても装置を外すが、1ヶ月後にやはりここが気になるとすぐに再治療を要求されたことがある。また矯正治療は、命に関わるようなものではなく、しないという選択肢もある。そのために初診時の段階で、あまり神経質でストレスがかかりそうな人には、よく検討してもらっている。矯正治療自体、ストレスになるし、治療が終了しても、満足感がない場合が多い。そのため、上下の前歯のわずかなデコボコを主訴とする患者は、治すのは簡単だが、それをキープするのは難しいと基本的には断っている。

 

一方、成人患者では、矯正治療の動機がはっきりしているので、歯磨きやゴムの使用など、きちんとする症例がほとんどなので、治療結果についてはドクターの責任となることが多い。そのため、うまくいかない場合も、その原因をきちんと説明し、他の方法による治療、あるいは妥協した結果で満足してもらうことになる。大金を出しているので、こうした説明を受けても患者さんはなかなか満足してもらえず、自分の診断、臨床能力のなさを痛感する。こうした患者さんは全体の2割くらいはいる。これが通常の歯の外側につけたブラケットによるワイヤー矯正治療での話であり、歯の裏側にブラケットをつけた舌側矯正はもっと難しいであろうし、個人的にはマウスピース矯正、アライナー矯正ではこうしたうまくいかない患者さんの割合は、おそらく半分以上になるだろうと思っている。それゆえ、成人矯正の難しさを知る多くの矯正歯科医は、自分の得意とする唇側矯正しかしないのはこうした理由である。逆にマウスピース矯正だけで成人矯正を行う先生の勇気には驚く。患者さんからいろんな不満を言われてどう対処するのか、ワイヤー矯正に比べて対処法が少なく、とても解決できるとは思えない。


2022年3月15日火曜日

矯正歯科におけるセカンドオピニオン



今後の治療方針やこれまでの経過について第三者の医師、歯科医に意見を聞く、セコンドオピニオンは、患者の権利としてリスボン宣言でも認められており、多くの医学系学会の倫理規定でも、患者からセカンドオピニオンの申し出があれば、それに応じるようになっている。具体的にいえば、セカンドオピニオンをしたい患者は主治医にこれまでの検査結果、経過、レントゲンなどの資料を要求し、それをセコンドオピニオンの先生に渡して診断をしてもらう。先生は自分の意見を患者に説明し、主治医には返書を送る。これが一般的なセカンドオピニオンの流れであり、転医を目的にしたものではない。

 

ところが矯正歯科にセカンドオピニオンにくる患者のほとんどは、前医の治療に不満があり、いくら先生に言っても聞いてくれないというものである。具体的にいえば、インビザランによる治療を4年間しているが、未だ治らず、奥歯が噛んでいない、奥歯が開いているから、咬むようにしてほしいと言ってもこれ以上の治療はできないと断られる。そこで一度、診てほしいという電話が私のところに来る。もちろん、こちらでは患者から相談があれば、セカンドオピニオンをするのはやぶさかではないが、それでも資料は全くなければ、ある程度とはいえ、診断はできない。そこで患者に主治医に連絡して、資料をもらってほしいというと、できないと言われる。最初にいうようにセカンドオピニオンは患者の権利であり、基本的には医院側は断れないので、こうした場合は、患者にそうした旨を伝える。それでもダメな場合は、私の方から、学会の倫理委員会に申し立てるといえば、資格剥奪につながりかねないので、資料を送られる。ただあくまでこれは矯正歯科専門医でのことで、セカンドオピニオンを求められるのは圧倒的に一般歯科での矯正治療の場合が多い。

 

この場合は、患者あるいはこちらから資料を請求しても、そもそもまともな資料、セファロをとっていないところもあり、この時点で治療自体はアウトとなる。相談にくる患者の治療結果は多くの場合、矯正歯科における標準治療とはかけ離れたもので、中立的に見ても患者の言い分が正しく、どうするものか非常に悩む。一般的なセカンドオピニオンの感覚からすれば、標準の治療法の中にも色々な治療法があり、そのメリット、デメリットを説明、今の治療法は間違っていないから、主治医を信頼して治療を続けるようにとアドバイスできれば、患者、主治医にとっても一番望ましいし、それがセカンドオピニオンの目的である。

 

ところが矯正歯科の場合は、セカンドオピニオンにくる患者の多くは、転医目的で、こちらとしても、そのまま患者の意向に合わせて転医すれば、今までの先生から患者を奪ったことになり、それも同業者の倫理観に背く。結局、主治医とよく相談し、こちらに転医希望があれば、主治医から紹介状を書いてもらうことにしている。治療の中断、中止、あるいは転医も患者の権利であり、法律上でも認められ、全体の治療費を前払いしている場合は、治療の進行度合いで料金の清算をしなくてはいけない。これも歯科医側の認識不足で、患者が一方的にやめる場合は清算する必要がないと思っているが、これは法律上間違っている。この場合は、面倒であるが、消費者センターあるいは弁護士に相談すべきであるが、額が少ない場合、弁護士に頼ると着手金と成功報酬によりほとんど返金は消える。

 

結局、どこで治療するかが一番重要であり、私のところに来る患者さんにも、一軒で決めるのではなく、矯正歯科をしている数件の歯科医院で相談してから、検査を受けるように言っている。確かに相談料として3000円くらいかかるが、それでもいろんな歯科医院で、大まかな治療法や期間、あるいは転医システム、さらにはセカンドオピニオンなどもできるか、などを聞くことは、治療の動機がはっきりするし、治療方法についても理解が深まる。

2022年3月13日日曜日

津軽人の悪い癖、悪口

 



津軽人の特徴の一つに、悪口好きということがある。津軽人が三人集まれば、必ず誰かの悪口を言う。例えば、マイクロバスで弘前市からむつ市に行くとしよう。車で2時間くらいの距離である。このドライブ中の車内の会話の80%はその車内にいない誰かの悪口となる。逆にあの人は素晴らしいと言った賞賛の話はほとんどない。私のような関西人も話好きで、人の悪口も好きだが、それでも50%は悪口であっても、残りの50%はあの人はすごいといったいい話も多い。津軽人の場合、悪口の頻度が高いと言うことになる。

 

昔、25年以上前に、地元のロータリークラブに入った時、クラブの宴会があった。隣に、ある会社の会長さんがいて、新入会員だから他の会員を紹介してあげようと、あちらのメガネをかけている人がお茶屋、隣の人がせんべ屋、あそこにいるのがりんご屋と次々に説明する。もちろんお茶屋といっても何軒も支店をもつ大きな店だし、せんべ屋といっても青森県で一番大きな津軽せんべいの会社、りんご屋はりんご加工をする大きな会社の社長である。この会長、見た目は温厚で、紳士的な風貌であるが、悪口好きである。普段は仲良く雑談しているが、本人がいないと、“あのせんべや”はと悪口となる。

 

私も長年、こちらにいるうちに、津軽の風土に染まり、ずいぶんと悪口好きになった。一方、人を褒めることはあまり聞かない。実際の会話となると、まず“Aさんは子供の教育にも熱心だし、PTA活動も全力でしてくれて大変尊敬するよ”と発言すると、これに賛同する声はなく、必ず「そうはいっても、———のようなことがあった」から始まる。そして他の人からも次々と悪口となる。

 

弘前の慈善家、佐々木五三郎は、凶作による津軽の孤児の悲惨さに胸を打たれた。個人で何とかしようと、最初は何人かの孤児を自宅に引きとり、さらに孤児が増えると、とうとう孤児院まで開設する。個人による経営は大変で、孤児にも物を売りに行かせたりしたが、他からの支援がない状態で、独力で孤児院を継続した。すごい人であるが、当時の津軽人からは尊敬されず、単なる変わり者とされ、影ではバカにされていた。慈善家の多いキリスト教徒や弘前市からの支援もなく、苦肉の策、慈善館と言う映画館を経営してようやく孤児院の経営を軌道に乗せた。岡山の石井十次は児童福祉の父と尊敬されているが、彼の場合は、孤児院経営のバックに大原財閥の大原孫三郎の支援があった。同じような孤児のために慈善活動をしても岡山でも郷土の偉人、そして津軽では変人となる。尊敬されることはなく、悪口も言われていたのだろう。

 

こうした津軽人の悪口言いは、別の言葉で言うと「津軽のひっぱり」と同じで、誰かが何かをしようとすると必ず誰かが足を引っ張る。会議などで最後に議論を閉めようとすると、いつも誰かが議論を最初に戻すような発言をする。それは最初に決めたでしょうといっても、また最初からの話に蒸し返す。まとまるということがなかなかできない人がいる。そのため、私の診療所のある町内でも、道路拡張のために店をセットバックすることになっているが、道ギリギリに店を作る人がいルため何十年経っても道を広くできない。

 

そうかといって人に悪口を言われるのが好きなわけではなく、悪口がバレて絶交になった人を何人も知っているが、それでも悪口の誘惑には勝てない。困ったものである。雪深い土地で、娯楽も少なく、人の悪口が炉端の楽しみであったのかもしれない。


2022年3月8日火曜日

邦楽のおける不思議なところ、津軽


 


白川軍八郎



神如道

三味線というと、今は津軽三味線が最も知られているが、三味線の本流でいえば長唄や浄瑠璃の三味線となる。津軽三味線は、三味線の傍流である盲者のよる瞽女などの巡業、門付の音楽と直接につながる。瞽女は盲目の女旅芸人であり、男子は平曲を演奏する琵琶法師として生計を立てた。おそらく男性が瞽女のように三味線で門付芸人となったのは、青森の金木生まれの仁太坊(にたぼう 1857-1928)が最初かもしれない。江戸時代、男性盲人は弘前藩では座頭として、按摩、鍼、琵琶法師、金融などが許され、保護されていたが、明治新政府となると、こうしたある意味、特権となる権利が全てなくなり、自力で生計を立てなくてはいけなくなった。仁太坊が生まれたのはまさに盲人にとっては最も厳しい時代であり、その中で、生活のために人の興味を引く、あるいは金になる音楽として生まれたのが、津軽三味線であり、そしてそれを発展させたのが弟子の白川軍八郎、さらに戦後のブームを作ったのが高橋竹山である。その後、若者たちにも津軽三味線の強いビートは受け入れられ、今は日本のみならず、世界的に人気がある。従来の長唄、浄瑠璃の三味線だけであれば、もはた絶滅寸前の楽器となった可能性が高い。

 

 同様に琵琶演奏の平曲も、盲人の座頭が生計を立てるために発展したもので、幕府でも職屋敷の音楽として検校が流派として音楽を継続した。ところが弘前藩では、どういう訳か、家老職などを務める高位の藩士、楠美家が平曲を家の音楽として引き継いた。どちらかと言うと低俗な音楽である平曲が弘前藩では目が見える藩士、士族の音楽として尊重された。こうした例は薩摩琵琶として士族音楽として広まった薩摩藩を除き、一般的には平曲は盲人の音楽で、晴眼者の士族の音楽ではなかった。明治以降、検校などの盲人保護政策が打ち切られると、その音楽である平曲も没落した。それを救ったのが、平曲を家の音楽として伝えた楠美家であり、弘前藩最後の家老、楠美太素、そしてその息子で館山家の養子に行った館山漸之進が平曲の伝承、普及に努めた。もしこの両人がいなければ、平曲もはや音楽としては消滅していたかもしれない。

 

 尺八についても、弘前藩と熊本藩以外では、普化宗の虚無僧あるいは乞食の楽器として定着した。明治になると普化宗は廃止され、その存亡が危惧されたが、わずかに弘前藩では士族の楽器として継承され、明治期には乳井月影、あるいは神如道が各派に伝わる尺八の曲を集大成し、今日の尺八の礎となった。彼らは尺八を士族の楽器として誇りを持って演奏した。

 

こうしてみると三味線、平曲、尺八など、今日の邦楽を代表する楽器の継承に弘前は大きく関わっていることがわかる。江戸時代、文化、ことに士族の文化は江戸の規範に則り、能を頂点とする士族の音楽と、歌舞伎音楽や盲人音楽とに、大きく二分され、後者を庶民の低俗な音楽とみなしてきたが、辺境の地にある青森では、後者のような音楽もそれほどタブー化されることなく、実際、歌舞伎俳優も弘前藩は扶持を与えて雇ったほどである。ただ今日となると、津軽三味線については津軽という冠名があるので津軽が発祥とわかるが、他の平曲、尺八などでは青森の貢献はそれほど知られていない。


他にも津軽では、手踊り、津軽笛、民謡なども盛んであり、寒くて暗い冬を過ごすためには音楽のような娯楽が皆必要だったのだろう。ただこうした江戸時代では低俗だった音楽も、弘前の人々により衰退を逃れ、盛んになるにつれ、東京、京都などで組織化され、その代表者が人間国宝となったが、津軽出身者で音楽の人間国宝になった人は確かいないはずである。残念なことである。

 

2022年3月5日土曜日

ロシアのウクライナ侵攻に思う

 



ロシアによる軍事的ウクライナ侵攻が起こった。21世紀も22年も経つのに未だにこうした古典的な戦争が起こるとは思ってもいなかった。ブーチン大統領という独裁者によるものである。

 

ただ第二次世界大戦と今が決定的に違っているのは、兵士一人一人の命の価値がかなり高くなったことで、昔は軍隊の指揮者が兵士の死を平気に要求できたが、今は一つの戦いで100名以上の戦死者が出ると大変なことになる。太平洋戦争では、硫黄島の戦いでアメリカ軍は7000名、日本軍は17000人の戦死者が出たが、現在の戦争では、一回の戦いでこんなに損害が出れば、即、戦争は継続できない。マスコミや政界で批判されよう。

 

またミッドウエイの海戦では、日本の4空母と300機以上の飛行機を喪失したが、一つの海戦でこれだけの被害が出れば、これも即停戦となる。何となれば、現在のジェット戦闘機は一機、100億円以上するため、300機の損失は3兆円の損失、空母の建造費は約5000億円、4隻で2兆円となり、合わせて5兆円の損失となる。

 

このように現在の戦争は、第一次世界大戦、第二次世界大戦のように長期に戦うことは、人的および費用的にも不可能であり、今回のロシアのウクライナ侵攻においても、戦争が長期化し、ロシア軍の損失、特に人的損失が増えると、否応なく戦争の継続は困難となる。旧ソ連が侵攻したアフガニスタン紛争は約10年間続いたが、14000人以上の戦死者が出た挙句、撤退した。何らのメリットもなく、ソビエトの崩壊に関与した。ウクライナの場合、アフガニスタンより人口が多く、西側からの武器供与も滑沢にできるため、ウクライナ人の戦意が高いと、ロシア軍の被害は甚大なものとなる。いずれにしても現代の戦争は、長期化できない構造となっており、それを阻害する要因、侵略された側の強く、長い抵抗があれば、結局、敗戦となり、大きな損害となる。すなわち国民に強い愛国心とそれに伴う戦意があれば、まず現代の戦争では負けることはない。

 

まだウクライナ戦争が始まったばかりであるが、すでにロシア陸軍の脆弱性、恐るに足りないという認識と、旧来の侵略戦争には大きな経済的代償が伴うことがはっきりした。特に隣国、中国は、台湾侵攻のシミュレーションになった。もし中国が台湾に侵略すると、今回のロシアの例から、国際経済から締め出され、完全に孤立化する。こうした流れに中国国民が納得するか、それとも国内で革命が起こるか、今後のロシアの動向は台湾侵略の試金石となる。もしプーチン大統領がこの戦争により失脚すれば、中国による台湾侵略は遠のく。

 

日本では太平洋戦争における特攻隊員の犠牲により、よほど世界からは侵略しにくい、勇敢な兵士の国と思われている。昔、社会党の議員が、もし他国から侵略されたら、どうするのかと尋ねられ、その場合は、抵抗することなく、そのまま降伏すべきだと言っていた。同じようなことを今回のウクライナ戦争でもウクライナはロシアに降伏して抵抗するなと唱える識者がいる。こんな国では他国が侵略されても誰も助けてくれず、国民の強い愛国心こそが最大の抑止力となり、それは原爆も含めていかなる兵器よりも他国の侵略を防ぐ盾となる。

 

2022年3月4日金曜日

「弘前歴史街歩き」 発行しました 2

 



「弘前歴史街歩き」は228日、月曜日に出版され、そろそろ一般書店でも置いているだろうと、近くの大型書店を見てきた。本を出す人は全てそうだが、自分の本がどれくらい売れるかはいつも心配で、書店での本の置かれ方も気になる。まず月曜日に個人的に親しいかくみ小路の「まわりみち文庫」に直接5冊持って行って、売っていただくことになった。かなり小さい店だが、本好きの人が集まるだけに、ここでどれだけ売れるかが、今後の売れ行きの予想となる。

 

水曜日には、弘前イトーヨーカドーのくまざわ書店弘前店を、見に行くと郷土コーナーのところに2冊平積みで置かれていた。平積みでは最低4から5冊は置くと考え、2、3冊は売れたとした。次にヒロロのツタヤブックストアに行くと、ここではまだ置いていない。若者が多く来る店なので、それほど本好きでない人にどれだけ売れるか気になる。

 

木曜日は、中三のジュンク堂に行ってみた。カウンター横の郷土本コーナーと歴史本コーナーに置かれていた。郷土本コーナーには1冊しかなかったので、これも勝手に3、4冊売れたと考えた。置かれている2つの本屋でこの1、2日で5冊ほど売れたならまあ順調だろう。

 

青森市のことを今東光の言葉を借りて少し冷やかしたので、おそらく青森市ではほとんど売れない。弘前市と弘前出身者に限定した本なので、販路は相当に狭い。周辺人口も含めて20万人、そのうち、本好き、歴史好きの人はおそらく2000-3000人程度と思われ、このうち、いざ税込で2000円の本を買うとなるとかなりの覚悟がいる。もう少し待って図書館で借りようと考えるかもしれない。1割の200-300人でも買ってくれると本当に嬉しい。

 

最初に出版した「明治二年弘前絵図」は絵図をCDに焼いて、それをおまけにして売った。直接、紀伊国屋弘前店に持ち込み、そこで売ってもらうことになった。毎日、仕事帰りに紀伊国屋書店により、残っている部数を数え、少なくなっていると20冊、また20冊と持っていき、最終的には400部くらい、紀伊国屋書店だけで売った。単一の本としては紀伊国屋書店弘前店の記録で、後にそうしたこともあり、30周年の講演に呼ばれた。次に出版した「新編明治弘前絵図」は、主として紀伊国屋書店で売ってもらったが、販売して1ヶ月で400部売れ、その後、500部印刷して半年くらいで計900部売れた。気を良くして、3冊目の「弘前人物グラフィティー」も売れるだろうとタカをくくっていたが、最終的には300部も売れず、結局、在庫を引き取って全て診療所の倉庫にある。その後、人にあげたりして、ようやく500部印刷して残り30冊くらいとなった。そして4冊目の「須藤かく」はさらにひどく、500部印刷して、1年間で結局、200部ほどしか売れず、その時点でギブアップし、全て回収して倉庫にある。横浜の図書館に寄贈したりしているが、いまだに倉庫に200冊くらいある。本の場合は、売れないと倉庫のゴミと化す。今回も500部印刷し、100冊は自己保有分として、残り400冊を書店で販売する。自己保有分のうちすでに40冊くらいはお世話になった方に寄贈した。

 

本を出したことのない人からすれば、本が売れると儲けているように思えるのかもしれないが、私のように自費出版している人にとっては、出版する本が全て売れても赤字となる。増版することでようやく少し黒字が出る。本の場合、印刷費以外にかなりの手数料がかかるため、500部といった少数印刷ではとても一般書店では売れない価格となる。そのため、勢い価格を下げて、赤字で売ることになる。それでも自費出版は趣味で行なっているので、多少の赤字が出ても気にしていない。

 

今日も近所の本を配った年配の方から、懐かしくて、面白かったとイチゴも持って挨拶に来られたし、電話での問い合わせもあった。こうした反応ほど著者にとって嬉しいことはなく、これがあるので本を出版する。ただ本の販売はそれこそ水物で、特に販売1ヶ月が重要で、その後、新聞などで取り上げられると一時的に売り上げが上がるものの、普段からこうした郷土本に興味がある人は早い段階で購入するので、半年を超えると、観光客や帰省客が弘前に来た時に購入するくらいで、ほとんど売れなくなる。何とか売れてほしいものである。

 

ほとんど全ての本屋で売っているし、青森図書でも通販で購入できるし、アマゾンでも近々購入できそうである。


2022年3月2日水曜日

「弘前歴史街歩き」 発行しました。

  

「弘前歴史街歩き」を発行しました。いつも目にする身近な場所、建物の歴史を知るにはいい本だと思います。近くの本屋で購入してください。定価1800円(1980円、消費税込み)





はしがき

昔から散歩が好きである。暇なときは特に目的もなく、今日は東、明日は南と方角を決めてあてどもなく歩いていく。あまりに遠くまで歩いて、さすがに帰りは疲れてタクシーに乗ることもある。ゆっくりと歩いていると、風や日差し、鳥の声、あるいは野に咲く花にも、季節の色合いや匂いを感じられ、飽きない。

 車の免許を取ったのは30歳で、当時、宮崎県、清里という小さな町に暮らしていた。バスの便も少ないため、免許を取り、兄から譲り受けた車を運転していた。その後、転居した鹿児島市でも6年間、どこにいくのも車を使ったが、開業するために青森に来てからは、車に乗っていない。すでに27年になり、もはや怖くて運転はできない。こうしたこともあり、弘前に来てからは、時折、タクシーやバスを利用することがあっても、弘前市内のほとんどの場所を歩いた。弘前のような地方都市では、車に乗らない人を探すのが難しく、ほとんどの人は100m先のコンビニにいくのも車をつかう。友人からすれば、どこに行くのも歩く私を驚きの目で見て、よくそんなところまで歩いていくなあとからかわれる。私にすれば、江戸時代、いやほんの数十年前まで、皆歩いていたと言いたいところであるが、ひたすらニヤついている。

 弘前の街は、過去に大きな火事はあったが、太平洋戦争では空襲を受けなかったこともあり、江戸時代の街並みがそのまま残っている。本書の中でも指摘するが、一区画のみ昔の街並みが保存しているというのではなく、町全体が江戸時代のままといってよく、町名や道もそのまま、残っており、また家の敷地も江戸時代そのままのところが多い。確かに古い武家屋敷そのものが残っていることは少ないが、昔の敷地のまま、新しい家を建てたため、その痕跡はじっくりと探せば見つかる。さらに都市計画により新たな道もできたが、それでも江戸時代の道はおおよそそのまま残っており、道幅も変化していない。こうしたところは全国でも少ない。 

 タモリさんの軽妙な会話と博学な知識で人気のあるNHKの「ブラタモリ」ではこれまで三度、青森県が取り上げられ、その中に201776日に放送された第78回「弘前—サムライが作った弘前の宝とは?—」がある。この番組では、弘前城、禅林街、りんご畑など弘前の街のあちこちの歩き、弘前の歴史を視聴者にわかりやすく伝えている。企画の段階から、番組ディレクターと色々と話し合ったが、時間と主題との関連から結局は弘前の紹介したいところのごくわずかしか取り上げてもらえなかった。番組構成の上では、面白いところがあっても、主題に沿った内容にするためには、そうした部分をカットしなくてはいけない。それでも現在の弘前にある江戸時代の名残をうまく、コンパクトに紹介しており、面白い番組となった。結果、視聴率も比較的よく、ディレクターとも喜んだ。

 番組の中では、絵図の点線がついた道として、家の近所の坂が取り上げられた。なぜ古い絵図に点をつけて示したか、その説明をディレクターから求められたが、わからなかった。その後、雪国の暮らしを調べていると、いかに馬橇、人力の橇で坂を進む、とくに坂を下り時に難儀するかを知った。弘前は坂も多いが、その高低差は異なる、遠回りしても坂のスロープの小さい道を行くことができる。こうしたことは自動車に乗っていたのでは全くわからず、歩いてみて、それも冬道を歩いて初めてわかる。新雪は歩きにくいが、それより怖いのは雪が一部溶けて、それが凍った路面、アイスバーンとなった時である。昔、12月頃に大阪に学会に行った際、家を出る時は雪がなかったので、普通靴で大阪に行ったが、帰ると弘前の街は雪が降り、路面も凍結していた。弘前駅から当時いた家内の実家までの500mの距離で、何十回も転んだ記憶がある。夏道と冬道は状況が全く異なり、それなりの対応をしないと大変なことになり、これは江戸時代も今も変わらない。

 こうしたことは、実際にこの町に住んでみて、歩いてみて、そして感じてみて初めてわかることである。車はA地点からB地点に行くには便利なものであり、時間の節約となる。ただからBまでの途中の景色はあまり記憶されず、ましてや街の匂いや雰囲気を味わうことはできない。江戸時代の街を味わうためには、その当時の人々と同じスピードで感じることが重要であり、すなわち歩いてこそ、弘前の街の魅力を味わうことができる。

 そこで、観光客、弘前に住む人々に、歩くこと、散歩の楽しみを知って欲しく、2013年に出版した「明治二年弘前絵図—人物と景色を探してー」と2007年から続けている「広瀬院長の弘前ブログ」を参考に、弘前のあちこちの散歩コースについて、絵図と写真、そして歴史ネタをつけ加えて説明しようと思う。各項目かなり饒舌な説明になっており、個人的な話も多いが、愛嬌を思っていただければ幸いである。この本をきっかけにたまには車を降りて、歩いていただき、その土地が有する歴史、逸話に触れてほしい。ただ関西出身者の私に、生まれ育った弘前のことをよくも知らずに語るのはやめてほしいという声もあろうし、また書物ではそう書いていても、実際はこうで、あなたの言っていることは間違っているという声もあろう。ただ誰かが身近な歴史をまとめるのは大事なことであり、もし間違っていることがあれば是非、お教えいただきたい。