2018年3月19日月曜日

孫文と藤田謙一の記念写真



 孫文は日本滞在中、中国革命を支援する日本人と多くの記念写真をとっている。この写真は比較的有名な写真であるが、その詳細についてははっきりしない。今回、種々の資料によって詳細が判明したので、説明したい。

1.撮影人物
 この集合写真の最も、確かな説明文は、「藤田謙一」(弘前商工会議所編、小野印刷、昭和63)にあるので、引用する。
 「孫文らと一緒に大正五年自宅で写した写真である。この写真に収まった人物は十六人で、もっとも若いのは満六歳の廖承志(日中友好の功労者)である。孫文が藤田に贈った額は「見義勇為 謙一先生 孫文」とあり、前列に、田中貞子(昴氏長女、田中有影夫人)、萱野長知夫人、廖仲夫人(何香凝女史)、孫文、孫文に抱かれているのが廖承志、孫文秘書(のちの孫文夫人宋慶齢女史)、田中とよ(昴氏夫人)、田中節子(昴氏二女、宇治慧吉夫人)、廖夢醒(注:田中節子と夢醒の順序が逆、夢醒は12歳の子供)、後列は五庄堂の田中昴(証券印刷業)、戴天仇、藤田謙一(藤田の前に孫文が座っている)、橋爪捨三郎、胡漢民廖仲、朝倉菊衛である。写真の背景に、「帝政取消一全會」の大文字の旗が立てられている。袁世凱打倒の旗印である。」
 この写真について次のようにコメントしている。『大正三年—所謂第二支那革命失敗後、孫文氏は日本へ亡命、わが同士とともに専ら再起の機を狙っていた。中華革命党が組織されたのも、孫文氏が当時の女秘書宋慶齢と結婚したのも、その頃の出来事だったと思う。ともあれ、孫文氏の支那革命に対する熱誠さはすばらしく、この藤田謙一の如きも、微力ながら後援の側に立った一人である。親日に終始せし後、日支共存共栄を説く彼、蒋介石にして彼の意志を継いだなら今次の日支事変は発生しなかったかも知れない。しかし汪兆銘氏、孫文の正流に棹して新支那を建設するという。豈に感慨無量たらざるを得んや』」となっている(p107-108)。さらに写真の説明では、「大正四年、日本亡命中の孫文を囲んで(於巣鴨、松柏軒)」
となっている。
 「中華民国革命秘話」(萱野長知)によれば、東京日本橋区五庄堂主人田中昴は孫文の求めに応じて中華民国中央銀行券紙幣三百万元(軍票)の印刷を行ったが、海防の税関で没収された。革命成功後に中央銀行券を美術印刷の技術では最高の巣鴨駒込町の田中印刷工場(田中昴)に頼み、大蔵省の図案技師村山某に製作を依頼して完成した。印刷した紙幣を日本橋室町の五庄堂に運搬中に一束を道に落とし、それを拾った富士警察署がその処理に困ったとの記述がある。集合写真でも廖夢醒が田中の娘、節子の手を握っていることからも、家族ぐるみの付き合いがあったことを現している。

2.日時
 神戸市の孫文記念館の蒋海波主任研究員からの回答から、撮影日時は大正五年(1916)四月九日午後五時十五分、場所は巣鴨町字駒込222となる。これだけはっきりしているのは、外務省の監視係によって記録されているからである。その詳細はアジア歴史資料センターのウェーブサイトで閲覧できる。レファーレンス番号はB03050083100-3
 写真の右側にあった旗に書かれた文字は「帝制取消一笑會」で、手書きなので、「笑」の字は「全」や「美」などにも見えるが、「笑」である。1916年元旦、中国の政権を握った袁世凱は、自ら皇帝の座に就いたが、内外の反対に遭い、ついに322日に、「帝制を取消」した。内外の笑いものにされ、日本に亡命してきて、袁世凱の打倒を目指した孫文たちは、この「帝制取消」の情報を聞き、日頃支援してくださった日本の友人と共に祝杯を挙げた。その貴重な瞬間を記録したのはこの写真である。
 これらの情報はすべて孫文記念館からのメール情報による。

3.場所
 女子栄養大学の副学長の香川靖雄先生からのメールによれば、写真の撮影場所は、印刷業、田中昴邸(松柏軒)である。この屋敷は昭和204月の東京大空襲で焼失した。現在、女子栄養大学の敷地となり、写真に写っている石灯籠は女子栄養大学駒込キャンパス入り口付近にある。

 以上のことから、孫文と藤田謙一が写った記念写真について、日時、場所、人物についてほぼ同定できたと思う。旧藤田家別邸には日本人だけでなく、多くの中国人が訪れる。国父である孫文と写った写真は、中国人にとって大変関心を引くものであり、そうした意味では十分に展示すべき写真と考えられる。旧藤田家別邸には藤田謙一コーナがあるが、是非、ここに展示してほしい。

2018年3月17日土曜日

パタゴニア カプリーン サーマルウエイト




 以前、テレビ朝日の「マツコ&有吉かりそめ天国」という番組を見ていると、南極観測隊が着ている防寒具が紹介されていた。何しろ南極は世界でも最も寒いところで、そこで使われる防寒着は長年の経験から吟味して選択されたものと言えよう。それによると靴下はSmart wool社のマウンテニアリング、Smart wool は1994年に創設されたアメリカの登山、アウトドアメーカーで、ウールの靴下、下着で有名である。手袋はモンペルのメリノウールインナーグローブタッチ、モンペルは日本の有名な登山、アウトドアメーカーである。さらに上半身インナーはパタゴニアのCapline TW クルー、長袖シャツもパタゴニアのR1 Hoodyである。パタゴニアは他にも下半身インナーが上と同じCapline TW ボトムとなっている。そしてフリースジャケットはノースフェイスのSuper Versa Loft jacketとかなり厚いフリースを選んでいて、外用のアウターはモンペル最強のポーラーダウンパーカーとズボンも同じくポーラダウンである。ここまではどちらかというと無難な選択だが、靴はBaffinのインパクトという防寒靴が使われている。このメーカーはカナダのメーカーであるが、ほとんど日本に入っていない。カナダの防寒靴というとソレルやカミックが有名であるが、極限地の靴となると、こうしたメーカーを差し置いてBaffinになるのだろう。

 昔から、エベレスト登頂隊御愛用とか、南極観測隊の装備といった言葉に弱い私は早速、気になりだす。特に気になったのが、上下の下着に使われているパタゴニアのCaplineTWというものである。調べるとパタゴニアの下着には、メリノウールを使ったものと化学繊維を使ったものがあり、Caplineは後者であり、用途により、デイリー、ライトウェイト、ミッドウェイト、サーマルウェイトの四種類あり、もちろん南極観測隊が使っているのはサーマルウェイト(TW)の上下である。さらにサーマルウェイトはフードなしとありと、ジップありとなしになっている。ただ一番の問題点は値段があきれるほど高い。上下とも定価で12000円以上する。ユニクロのヒートテックが1000円で買えるのだから、その12倍もすることになる。国産モンペルのジオライン、これの厚手、エクスペディションで5500円なので、この2倍以上する。さすがにこの値段では買えない。そうこうするうちにパタゴニアからセールの案内がきた。そこにはサーマルウェイトのジッパタイプが40%オフで出ていた。40%オフといっても7000円。まだまだ高く、悩んでいたが、ブログで紹介しようと思い、購入した。

 2月からの着用で、まだ1か月くらいしか使っていないが、それでも毎日のようにかなり使っている。その感想を述べると、1。あまり暖かくない 内面はR1あるいはR2の側面と同じ、特殊な凹凸がついた生地であるが、厚いウールの下着ほどの暖かさはない、2。軽い 確かにむちゃくちゃ軽く、荷物の重さが生死を分ける登山では、この軽さは重要であるが、日常使いには全く関係ない、3。すぐに乾く これも登山で雨、雪、汗で濡れた場合、すぐに乾くのは重要であるが、日常では洗濯してすぐに着れるくらいしかメリットはない、4。 汗を吸収、発散する これも3と同じことであるが、雪国では雪かきなどで汗をかく時があり、そのままにしておくと体が冷えきってしまう。その点、このサーマルウェイトは驚く程、早く乾燥し、体温の低下を防いでくれる。

 結論としては、登山のように、寒いが、体を動かし、汗をかくような過酷な状況では、こうした高い下着も十分に価値があるが、日常の使用においては、そのメリットはほとんど関係なく、あまり勧めたくはない。せめて5000円以下であればいいのだが。後は耐久性で、どれだけ長く着れるか。着心地はいいので、これを10年以上使えるなら、それほど高いものではい。最初に買ったパタゴニアR2がすでに6年経つが、全く問題がなく、耐久性は高く、満足している。こうした高機能衣料は、その価値を見出すような状況では(登山など)、高価格であってもいいのだが、日常使いであれば、もったいない。一方、歳を取って日常の運動、動作に支障がくるようになると、こうした高機能衣料が価値を持つことがあり、パタゴニアの製品ももっと老人にも勧めてみたい。パタゴニアのR2については、94歳の母と85歳の伯母に送ったが、軽くて、暖かく、動きやすいと大変好評である。また消臭性もあり、なんど洗濯しても、毛並が損なわれないことも良い。老人と言っても、今ではリュックやダウンジャケットは当たり前となっており、楽でいい物は、若者以上にすぐに取り入れる。パタゴニアのRシリーズや、ニューバランスの990スニーカーなどは、老人にも勧められる。

2018年3月15日木曜日

多田駿伝 「日中和平」を模索し続けた陸軍大将の無念



 昭和史は、以前から興味をもつジャンルで、若い頃からなぜ日本が無謀な戦争に突入していったのか、不思議でならなかった。日清、日露戦争まではわかるし、満州事変まではぎりぎり理解できる。ところが支那事変後、太平洋戦争への過程が全くわからない。普通に考えれば、戦争というものは作戦目的があるはずで、日露戦争でもある程度、戦った後にロシアと和睦する計画であった。ところが支那事変では、参謀本部が反対しているにも関わらず、現地軍が戦争の拡大を主張し、結果的に泥沼の長期の戦争に突入していき、そして支那事変が太平戦争に繋がっていく。中国全土を占領しようと考えたのか。結局、戦略上、もっともしてはいけないこと、中国軍と米軍の二方面作戦となり、この時点でゲームは投了である。そう考えると、支那事変は、盧溝橋事件を契機としたものの、その後の戦闘の拡大の方が決定的であり、もしここで停戦し、日本が満州経営のみに専念していたなら(石原莞爾の考え)、アメリカとの戦争はなく、国民党が共産党を壊滅させ、満州以南の中国を統一したであろうし、日本も本州、朝鮮、満州を衛星国にしたままだったかもしれない。

 それ故、支那事変の端緒は、その後の日本の歴史を決めたと言っても過言でなく、重要な分岐点となる。従来の私の理解では、上海、南京侵攻となる支那事変の拡大は、現地軍の暴走であり、それを陸軍本部、政府も当初は拡大を禁止したが、ずるずると戦果の拡大に伴い事後了承していき、増兵したと考えていた。ところが「多田駿伝」(岩井秀一郎著、小学館、 2018)によれば、この構図は違う。確かに支那事変の初期は、現地軍の暴発であり、天皇、政府、軍部ともに戦闘の拡大に反対していた。そして中国との停戦を模索していて、かなりのところまで話がまとまっていた。ところが戦果が拡大し、上海、さらに中華民国の首都、南京を占領すると、マスコミ、国民ともに熱狂し、この時点ではもはや停戦を言い出せなくなった。政府、近衛首相、広田外相、米内海相、杉山陸相も停戦に反対するようになり、この時点になっても多田駿参謀次長(参謀総長は皇族なので、実質的には参謀部のトップ)のみが徹底的に反対した。和平派のように思われる米内光政海相も、「統師部が外務大臣を信用せねば同時に政府不信任なり。政府は辞職の外なし」と多田があくまで反対を主張するなら、政府は解散すると脅している。陸相を出さないと政府を脅したと同じ手法をここでは米内が使っている。近衛首相、広田外相も同様に腰砕けになり、最後は積極的に戦争の拡大を支持している。結局、中国との和平工作は多田以外すべて交渉打ち切りを主張し、多田は「明治大帝は朕に辞職ないと宣えり。国家重大の時期に政府の辞職云々は何とぞ」と涙ながら訴えたが、最後は参謀次長が反対するなら政府は解散すると脅され、政局の混乱を恐れて、「あえて反対を唱えない」となった。その後、参謀次長の座を追われ、第三軍司令官、陸軍大臣に押されるも反対され、そのまま昭和十六年に予備役となる。

 本というのは、作家の視点により書かれるため、城山三郎の「落日燃ゆ」を読めば広田弘毅の和平への強い思いを感じるが、「多田駿伝」を読めば、この日本の重要局面で、敢て反対しなかった近衛、広田の責任は免れなく、戦犯として裁かれるのはある意味、当然だったかもしれない。

 こうしたことで思い出すのが、イラク戦争における日系アメリカ人エリック・シンセキ大将の態度である。陸軍参謀総長である彼は、イラク戦争にあくまで反対し、ラムズフェルト国防長官から解任され、退役させられた。オバマ大統領は、その後、「シンセキ氏は権力に対して真実を述べることを、決して恐れなかった」と讃えた。多田とシンセキは立場も全く同じで、悪者扱いされる日本陸軍、ことに参謀部でも、多田の抵抗は唯一評価されるものである。多田の勇気ある行動は、小さいことだが、現在問題になっている森友問題でも、なぜ文書書き換えは絶対にできない、NOという公務員がいないかに通じることで、その功績は後世、十分評価しなくてはいけない。そうした点では「多田駿伝」は意義ある本である。


 「多田駿伝」には陸軍大将になった頃の多田の写真が表紙になっている。年齢はとみると、59歳当時の写真である。以前、調べた南雲忠一中将もサイパンで亡くなったのが59歳。当時の写真を見ても驚くほど老けている。確かに昔は60歳を過ぎると、老人になったとしても、軍人の老けようは早い。相撲取りもそうであるが、老けやすい職業というのがあるのではないか。若いころから責任ある地位になると、自然に貫禄がつき、老けてみえるのだろう。

2018年3月12日月曜日

映画「坂道のアポロン」 おしい





 土曜日から映画館で上映開始。早速、日曜日に見に行ってきた。女子高校生が20名くらい、大学生のカップルが3組、おじさんが私も含めて2名、おばさんが5名という感じである。内容についてはコミック、全九巻で知っているが、映画では九巻プラスボーナス版の内容を2時間の内容にしなくてはいけないので、登場人物の背景はあまり詳しく説明していない。それでもシーンによっては周りの女子高生の嗚咽が聞こえ、古い友情もの作品も、今の若者にうけるなあと少しうれしかった。

 最後の方の省略が多すぎて、観客には理解できないので、原作に沿って少し説明する。映画では律子が交通事故に遭うが、原作では千太郎の妹が交通事故で意識不明となる。この変更は映画の筋としては問題ない。ただ映画では律子が病院で意識を戻すと、千太郎がいなくなり、そのまま十年の時間が流れて、最後のシーンになっていく。おそらく観客の多くは律子と薫の恋がどうして切れたのか、説明がないので全くわからない。原作では、薫は東京の医科大学に進学し、そこでも東京の仲間とジャズをやっていて、薫とは文通を続けている。ただ遠距離のため次第に気持ちに溝ができ、ある日、律子に電話すると、そこには男の声で「律子にしつこく手紙を出してきよるとは、やめてもらえんですか。彼女も迷惑しとります」と切られる。さびしさに負け、少しつき合っていた男が勝手に電話にでたのである。だが、このまま二人の関係は終わる。この説明は、医師になった薫の回想シーンを入れて説明してほしい。

 映画の設定は1966年(昭和41年)とその十年後である。大分県高田市でロケが行われた。ここは昭和の町で有名で、こうしたロケにはうってつけである。高校生、男子の友情、三角関係、音楽、設定はいいし、原作の咀嚼もできている。だが、私の好きな台湾映画の青春もの「若葉のころ」、「あの頃、君を追いかけた」、「言えない秘密」などに比べるとノスタルジーの要素が弱く、時代の空気感が少ない。原作はマンガなので、登場人物、舞台、設定も現実離れしているはわかるが、もっと印象に残る美しいシーンがほしかった。監督としては、海水浴のシーン、文化祭のシーンなどをハイラトシーンにしているが、それほどシーンとしては魅力的ではない。さらに、この映画でも相当時代考証に力を入れて、昭和41年当時の佐世保の町を再現しているが、それでも映画「この世界の片隅に」の戦前の呉の再現ほどではないだろうし、同様に主人公の当時の考えまで時代考証したのか疑問である。とくに昭和41年というのは微妙な時期で、東京オリンピックがあったのが1964年(昭和39年)、ビートルズの日本公演が1966年(昭和41年)で、大阪万博の前で、ちょうどカラー放送が普及し始めたころである。わが家にもすでにテレビがあったが、「ジャングル大帝」のコマーシャルで“色がついた。そんなばかな”と白黒にテレビを見て悔しがったが、すぐに大枚をはたきカラーテレビを買った。戦争はすでに遠い過去。佐世保という軍港が舞台とはいえ、あまりに米兵のシーンが多すぎ、強調しすぎて、昭和41年感がない。こういったらなんだが、もう少し有能な監督で、時代の空気をきれいに描ききれたら、原作はいいだけに、もっといい作品になったと思われ残念である。ライ・アン・ユン監督の映画「ノルウェイの森」は昭和42,3年ころを舞台にしており、外国人監督の奇妙な時代感覚の方が「坂道のアポロン」より印象に残った。1966年というと、まさに村上春樹の時代である。多分見ないとは思うが、彼のこの映画の感想を聞きたいところである。

 本当におしい作品で、具体的にはわからないが、主人公が「ローマの休日」のオードリのようであったなら、主題歌が「時をかける少女」のようであったなら、後世に残る名作になったかもしれない。