2012年2月29日水曜日

福沢諭吉と東奥義塾



 東奥義塾と慶応義塾の関係は、その名前だけでなく、先生、授業システムまで相似していることは、青森中央短期大学教授北原かな子さんの研究に詳しい。

 例えば、文久元年から明治4年にかけての慶応義塾への弘前からの留学者は27名に及ぶ。すべて名前を挙げると

木村滝弥(文久元年11月入学)、工藤浅次郎(文久2年5月)、吉崎豊作(元治2年1月)、神辰太郎(慶應元年5月)、佐藤弥六(慶応元年)、白戸雄司(慶應元年)、笹衞之助(慶応元年8月)、樋口左馬之介(慶應元年10月)、田中小源太(慶應3年7月)、三浦清俊(慶應3年7月)、飯野登助(明治元年9月)、成田五十穂(明治2年2月)、菊池九郎(明治2年8月)、武藤雄五郎(明治2年8月)、間宮求馬(明治2年8月)、寺井純司(明治2年8月)、出町大助(明治2年12月)、鎌田文治郎(明治2年12月)、須藤寛平(明治2年12月)、武田虎彦(明治2年12月)、青沼観之助(明治2年12月)、木村健太郎(明治4年5月)、須藤保次郎(明治4年5月)、竹森徳馬(明治4年5月)、小山田敬三(明治4年5月)、小野武衞(明治4年7月)、篠崎左一(明治4年7月)
(幕末平田塾と地方国学の展開:弘前国学を例に 中川和明:書物・出版と社会変容、7:69-96,2009)

 文久2年(1862)9月28日の弘前藩記事では、海軍を興さんが為に壮年の藩士8名を抜擢し、江戸に派遣して海軍術を学びしめるとある。このうち佐藤弥六(佐藤紅緑父)は船具軍用学、樋口左馬之助は蒸気機関学の習得を、まず目指し、その後慶應義塾に移ったのか。さらにそれ以外の者で江戸に留学した者として、蘭学に工藤浅次郎、兵学では田中兵源太、測量学では成田五十穂の名がみえる。さらに英学の習得と目指したものは福沢塾に入塾し、吉崎豊作、神辰太郎、佐藤弥六、白戸雄司、三浦才助、田中小源太、木村繁四郎の名が見える。

 ちなみに蒸気機関学を学ぶために江戸に派遣された人物として永野邦助(後に改名工藤菊之助)は、勝海舟の神戸海軍操練所に入学し、坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐亨とは同級生である。本来、海軍の訓練所は江戸にも築地にあったので、この神戸海軍操練所のメンバーはほとんど土佐藩、薩摩藩など西日本の藩出身者が多く、東日本は長岡藩の1名のみである。ただ明治後、工藤菊之助の名前はほとんど歴史上には残っていない。一方、神戸海軍操練所の前にできた築地の軍艦操練所には弘前藩から石郷岡鼎と工藤勝弥(岩司)、さらには荒井安之助、吉崎源吾が入所した。

 三浦才助は三浦清俊と同一人物であろうか。そうすれば明治二年弘前絵図のデータベースから三浦忠太郎弟で、当時緑町に住んでいた。また木村繁四郎は函館戦争で活躍した藹吉(杢之助)ではなく、その子で後に横浜第一中学校校長であった繁四郎であろう。別名を健太郎といったのであろうか。

 東奥義塾の開学時のメンバーは、幹事が兼松成言、副幹事が菊池九郎、成田五十穂、一等教授が吉川泰次郎、鎌田文治郎、須藤寛平、寺井純司、須郷元雄であった。このうち、菊池九郎、成田五十穂、吉川泰次郎(和歌山、後に日本郵船社長)、鎌田文次郎、須藤寛平、寺井純司はすべて慶應義塾に学んだ。兼松成言は洋学の重鎮であり、須郷元雄はおそらく漢学の教授であろう。ほぼオール慶応義塾の陣営である。当然、東奥義塾の学校運営、教育方針は慶應義塾のそれとほぼ同じであったろう。

 ちなみに成田五十穂は、成田源三郎の三男で(弘前藩記事三 賞典調より)、データベース上では御徒町川端町にその家があった。また鎌田文治郎は若党町に、須藤寛平は須藤雄二の息子で代官町に、寺井純司は寺井雄平の二男で上瓦ケ町に、須郷元雄は須郷甚八郎の子で小人町に住んでいた。須郷元雄の息子瀧太郎は後にキリスト教に入信し、青山学院で学び、牧師となった。

 幕末から明治初期にかけては、優秀な人材は二男、三男であっても、藩は積極的に遊学させ、新しい知識の習得に務めた。当時、日本で最も先進的な学校は慶應義塾であり、さしずめ、今で言えば、優秀な高校生をハーバート大学やマサチューセッツ工科大学に市が負担して留学させるようなものかもしれない。

2012年2月26日日曜日

弘前の偉人





































 このブログでは、主として弘前出身の偉人を紹介してきた。ただ多くの人物は幕末から明治期に集中していて、戦後の偉人は少ないように思える。要因ははっきりしないが、明治期ほどの変動期がその後なかったこと、教育制度の中央集権化によるところが大きい。東京大学を頂点とする教育システム、ピラミッドができ、いわゆる学歴偏重、学閥がこの国の主流となってきた。東京大学に何人学生をいれたことが、学校の業績となり、かっての東奥義塾のような地方独自の教育システムが通用しなかったことが挙げられる。それにより画一的な人材しか生まれなかったし、津軽という独自の地域色が消滅したことによる。さらにこれは日本全体にも当てはまることであるが、漢文文化の衰退により、人間としての深さ、哲学がなくなったことにもよる。中国古典を読むことは、江戸時代、明治時代の人々にとっては生活に根ざしたものであり、生き方に深く影響した。

 それでは現役で、こういった人物はいないかとなるとそうでもない。例えば、その人の話しを聞きたいと東京で千名の観客を集められる人物となると、4人の弘前の人物を思いつく。ひとりは岩木山山麓で「森のイスキア」を主催して、おにぎりを通じて心の傷を背負った人々の、痛みを分かち合う癒しの活動をしている佐藤初女(さとうはつめ)さんである。一度、弘前歯科医師会で講演会をジョッッパルで行ったことがある。午前10時開場であったが、9時半には何十名のファンが開場待ちという状態で、ダイエーに頼んで早めに開けてもらった記憶がある。弘前でもこういったことがおこるくらいであるから、雑誌や本などでも有名なため、おそらくは東京で講演するとなると全国から多くのファンが来ることであろう。

 もうひとりは、あの小惑星探査機「はやぶさ」で有名な川口淳一郎教授で、実際に映画、アニメにもなり各地での講演会は盛況である。川口教授は、時敏小学校、弘前第一中学、弘前高校を卒業した生粋の弘前の人で、まわりにも同級生だったという人も多い。

 三人目は奇跡のリンゴで有名な木村秋則さんで、この前のロータリークラブのインターシティーミーティングでも講演され、大変面白かった。全国の無農薬栽培をおこなっている農家では教祖に近い存在で、家庭菜園をおこなっているアマチュアからも信奉者は多い。実際、講演には全国各地からひとが集まる。

 四人目は、現代絵画の奈良美智さんで、弘前のレンガ倉庫で3年ほど、三つの展覧会を行ったが、若者に人気は高く、展覧会の度にわざわざ県外からこの展覧会目当てで数千人の若者が弘前を訪れた。人気は高い。

 通常、著名人と言えば、作家、実業家、歌手、映画俳優などが思い起こすであろうが、弘前出身の作家は長部日出雄、鎌田慧はじめ、多くの作家はいるものの、実業家、歌手、映画俳優には有名なひとは少ない。上に挙げた4名にしても、佐藤初女さんは肩書きを何と言えばわからないし、川口教授は科学者、木村秋則さんは農家、奈良美智さんは画家とその肩書きは幅広い。ただ芸能界といっても歌手、俳優は少ないが、渡辺プロ会長の渡邊美佐さんの祖父は弘前藩士山鹿旗之進であり、アミューズの会長大里洋吉さんは青森市出身である。

 医学の分野では、全静脈麻酔法を確立した弘前大医学部麻酔科学の松木明知名誉教授と、大腸がんの集団検診法を確立した同じ弘前大学医学部名誉教授の吉田豊先生の業績は世界に誇れるものである。松木名誉教授はさらに文科系の研究、麻酔科学の歴史、森鴎外、医科史の研究の評価は高い。ともに純粋な弘前人である。

 弘前市の人口18万人と同規模の市といえば、大阪和泉市、愛知豊川市、東京立川市、日野市、愛知安城市、富山高岡市、神奈川鎌倉市などが挙げられるが、この中で人物が多く出たところとしては鎌倉市くらいが匹敵する。明治期に比べれば、少なくなったとはいえ、弘前はまだまだ人物を生み出すところである。街のもつ歴史の重みが何らかの影響を及ぼすのかもしれない。

2012年2月22日水曜日

山田兄弟43(一戸直蔵)





 ここに一枚の写真がある。愛知大学の所蔵する山田兄弟に関する資料の一部である(「孫文を支えた日本人—山田良政・純三郎兄弟— 武井義和著 愛知大学東亜同文書院ブックレット」より勝手に借用して申し訳ありません)。東京谷中での山田良政の追悼式(1913年、大正二年)での写真で、向かって左側には山田家の人々が写っている。後列真ん中に山田純三郎、その左に菊池九郎長男良一、前列真ん中左には父親の山田浩蔵、右には母親のきせ、浩蔵の左には兄良政の妻敏子、その隣には純三郎の妻喜代がいるのがわかる。

 向かって右側を見ると、後列真ん中に日本の天文学のパイオニアとして知られる一戸直蔵の姿が見られる。一戸の写真は少ないが、この写真はまちがいないと思う。そうすると、一戸の前にいるのは妻とその子どもと思われる。国立天文台にある一戸直蔵の資料目録をみると、山田良政追悼式での山田家、一戸家記念写真というものがあり、おそらくこの写真のことと思われる。そうすると、この写真は山田家と一戸家の記念写真ということになろう。

 菊池九郎の姉きせは山田浩蔵に嫁ぎ、山田浩蔵の妹久満子は菊池九郎に嫁いだ。菊池九郎と(山田)久満子の子どもが菊池良一といねで、山田浩蔵と(菊池)きせの子が山田良政、純三郎、清彦、四郎と妹のひさである。そして菊池九郎の娘いねと結婚したのが、一戸直蔵である。

 「一戸直蔵 野におりた志の人」(中田茂 リブロボード シリーズ民間人学者)では、日本天文学のパイオニアである一戸直蔵の生涯が詳しく書かれている。一戸は明治11年に青森県西津軽郡越水村(現つがる市)の農家に生まれた。二男三女の二男で、農家といっても二十二町歩の土地持ちであったが、読み書き以上の学力は必要ないとされた。こういった寒村で育った直蔵は吹原小学校を優秀な成績で卒業したが、それ以上の教育は意味がないとして進学させてもらえなかった。百姓をしながらも本を読むという日常を過ごしながら、4年間、意を決して15歳の時に故郷を脱走し、青森で働きながら私塾に通った。友人のところを転々としながら、東奥義塾を受験し、予備科一年生に編入できた。通常高等小学校卒業の資格が必要だったが、高等小学校を飛ばして中途編入できたことになる。それでも働きながら学ぶことはできず、当時叔父の金子家の養子となる仕送りを受けることになった。東奥義塾の予備科は2年で、仕送りも予備科卒業までと決められていたが、さらに上の学校への進学を目指し、1年半後にはまたもや家出して東京に向かう。本多庸一から紹介状をもらい、労働部で働きながら学問をしようと、東京英和学校(現青山学院)の予科5年生に編入となる。予備科2年、本科3年であったが、これでだいぶ遅れは取り戻せた。青山学院からは当時、高校入学資格がとれなかったため、しかたなく錦城学校に転校し、そこを卒業して、仙台の第二高等学校に入学した。何とか書生などしながら生活していたが、ここでも金銭的に続かず、入ったものの養子先からの援助も打ちきられ、そして退学してしまう。さすがにこの状況になると実父も養子を解消し、最低限の仕送りをすることになり、1年後には復学して二高に入り直す。二高では天文学に興味を持ち、ようやく22歳で東京帝国大学理科大学星学科に入学する。ここまで勉学だけでなく、金銭面でもずいぶん苦労を重ねた。その後は大学院に進学し、26歳の時に菊池九郎の娘いねと結婚するが、ここでも一戸らしいのは突如新婚の妻を残して、アメリカに留学してしまう。27歳の時で、当時世界最大の望遠鏡をもつシカゴ大学のヤーキス天文台に留学する。2年留学し、東京大学の講師として戻ってくるが、ここでもことあるごとに上司の寺尾教授とぶつかり、ついには33歳の時に追い出されてしまい、アカデミズムの世界から完全に放逐されてしまう。誠に津軽人ぽい性格であるが、もう少し強調性があれば、日本の天文学に大きな寄与をしたであろう。その後はネーチャーやサイエンスに匹敵する日本の科学雑誌を作ろうと奔走するが、結核のため42歳の若さで亡くなる。
一戸直蔵の台湾新高山での巨大天文台計画は、その後藤崎町唐牛宏博士に受け継がれハワイのすばる望遠鏡に繋がって行く。

 最初の写真に戻ると、一戸直蔵の前の子連れの夫人はおそらく菊池九郎長女いね、そして子供は長男信直か二男英信であろう。さらに前列左の夫人は山田浩蔵の長女なほか、次女ひさの可能性があり、そうするとその後ろに人物はその夫である伊藤要一(佐藤?)か馬渕勇五郎となる。山田家と一戸直蔵の関係は、ただの親類だけではなく、年齢的に四男山田四郎と一戸直蔵は東奥義塾で同級であり、四郎が渡米したのに刺激され、一戸も渡米したのかもしれない。一戸家と山田家は、この写真に示されるように深い関係があったかもしれない。

2012年2月17日金曜日

東海家について




































 東海家については2度ほどこのブログでも取り上げたが、その後さらにわかったことがあるので、報告する。

 東海家は藩祖津軽為信からの古い家臣で、東海吉兵衞は弘前城築造の折には縄張りを任せられたほどの重臣であった。その子孫が、前にブログで紹介した代官町にある東海吉兵衞で、代々子孫がこの名前を使ったのであろう。正式には東海吉兵衞某、例えば幸義などの名を名乗ったのであろうが。

 「一音成佛」という虚無僧研究会機関誌(第40号)におもしろい論文が載せられている。「神如道の覚書からー祈登如月・小梨錦水・加藤西維・勝浦正山などの談話の聞き書きー」(神如正著)という論文に、文政年間(1820年頃)の尺八の名手と言われた蘭庭院の17世住職芳樹和尚(1801-1841)のことが書かれている。そして昭和11年8月23日および25日の東奥日報の記事を引用し、「芳樹和尚は津軽藩士東海正蔵氏の三男に生まれ、健蔵氏(注:当時弘前市会議員の東海健蔵)の厳父東海昌雄氏(注:明治後に改名、栄蔵)の叔父に当たっている、芳樹和尚には四人の男の兄弟があって和尚は其の三人目であるが同和尚の弟甚兵衞という人が、同藩の永井(現在(注:昭和11年当時)弘前市土手町永井薬店の祖先)に養子となり、抱節と号した俳諧師で一日に一千句を物にしてこれを西茂森町大行院に奉納したことがあり、東海家にもその控えがあったが弘前大火の際焼いてしまった。  略  何故芳樹和尚や抱節にしろ津軽藩士である東海家に生まれて藩士にならなかったのかと言うに同家の祖先東海伊兵衞(注:吉兵衞の間違いか)は大浦城に居を構えていた津軽為信公の弘前城築城の際、縄張り役(現今の監督)を務めたので、当時の慣例で城郭築城の文章を焼却し一家は落人して津軽を後に現在の兵庫県に渡り、年を経て(年間不詳)帰国鯵ヶ沢に上陸百姓をし、それより弘前市紺屋町に居住を構え、「兵庫屋」という屋号で酒造業を営んだ、正蔵氏の代になった再び足軽軽輩として士分になったが、其子供達は皆自分の望む道に落ち着いた結果であると言われている、尚東海正蔵氏は語る “芳樹和尚の事に就いては郷土史研究の方々が見えて話し、詳しく調べていましたが何しろ記録も何もなく、私も幼少の頃よく芳樹和尚の事を聞いた記憶と書き残された過去帳に依って知る外ない有様です”」

 ここでは陸羯南の新聞日本を手伝った赤石定蔵、海軍造船少将で山田純三郎とともに中国革命に関わった東海勇蔵とその兄東海健蔵の父、栄蔵は、その父親と思われる正蔵のころに紺屋町の造り酒屋で繁盛し、武士株を買った可能性がある。先のブログで指摘したように東海栄蔵の家は田茂木町の外れに付け足したようにあるには、こういった事情によるものかもしれない。芳樹和尚は東海正蔵の三男で、東海栄蔵の長男健蔵からみれば叔父ということは、東海正蔵の長男か二男が栄蔵、三男が芳樹和尚、四男が抱節ということになる。

 一方、城縄張りがいくら機密であるからといってその担当者を落人にさせることはなさそうで、東海吉兵衞にはその兄弟に伊兵衞というものがいて何かの事情で落人となって兵庫に渡ったのかもしれない。

 拙書「明治二年弘前絵図」を山道町で歯科医院をされていた成田裕先生にお送りしたところ、成田家の祖先は偶然にも在府町の山田兄弟の実家、山田浩蔵の隣の山田弥門であることがわかった。成田家に残された貴重な古文書は現在弘前市立博物館に寄贈され、研究も進んでいる。百石取り、御手廻、御馬廻の番頭などの役回りをしていた中級武士である。その後、在府町から山道町に転居した。明治四年の在府町付近の絵図も知人からいただいたが、△印の転居したものや、名前が変わったもの、屋敷主がかわったものも多く、在府町の住民も明治初期には多く、転居した。概数でいえば、ほぼ半分くらいはこの時期に転居し、郡部あるいは弘前市内の他のところに移った。士族にとって家、屋敷というのは、藩から貸し出されたもののように感じたのか、それほど先祖伝来という強い思いはなかったのかもしれない。

 写真上は赤石定蔵が撮影した有名な正岡子規像である。写真下は芳樹和尚が住職をしていた蘭庭院のさざえ堂で、日本にはこの形式のものは四つしかなく、貴重なものである。天保10年(1839)完成というから、先に述べた芳樹和尚が存命時のものである。内部が気になる存在で、できれば内部写真くらいは外に展示してほしいものである。

2012年2月16日木曜日

歯科用感度400増感紙



 歯科用レントゲンによる被爆線量を下げる方法の一つとして、増感紙の感度を上げる方法がある。通常のパントモ写真やセファロにおいては、大体感度200から250が使われているが、ヨーロッパでは被爆線量への制限が厳しく、ヨーロッパ放射線学会のガイドラインでも感度400の増感紙を使うことが推奨されている。

 そこで、当院でも感度400への移行のため、コダックのレイネックス400を注文した。納期がかかると言われたが、今書いている雑誌原稿に一部載せたかったので、納期を急がせた。

 レイネックス250からの移行であるから、単純に照射時間は250/400になると考え、成人の場合、照射時間を1.2秒で撮影しているので、0.8秒で試してみた。何枚か私や、従業員で撮影したが、どうしても全体的に明るく、メリハリもきかない。そこで照射時間を少し上げていくと、大体1.0秒で同質な画像が得られた。一応、朝日レントゲンにも問い合わせたところ、単純な感度比率だけでは決まらないようで、1.0秒くらいとの返答があった。

 この場合の被爆線量は、ほぼ照射時間に比例するので、1.0/1.2であるから約20%の軽減となる。これで画像の鮮鋭度がかなり落ちるようであれば意味ないが、上の写真が感度250、下が感度400で肉眼的には全く変らない。そこで従来の250の照射時間の大体0.8倍を目安に撮影している。ここ3週間ほど定期検査、および小児の撮影すべて感度400で撮影しているが、大きな問題はない。ただ今回は、たまたま私のところのセファロ撮影機は、すべてマニュアルで撮影しているので、こういった変更も容易であった。ただオート撮影の場合は古い機種では対応できないようだ。それ故、オート設定で撮影しているパントモも感度400するか今、迷っている。

 またデンタルフィルムは機械の設定を変えれば容易にD感度からE,F感度に変更できるので、フィルムがなくなり次第、感度の高いものを使用したい。

 今回、歯科用レントゲンについて、ある程度調べたが、結論として、デジタルレントゲンの被爆線量の優位性はそれほど大きくはなく、フィルムと同等あるいは1/2くらいということであった。確かに画像を落としていけば、1/10の線量でも撮影が可能かもしれないが、本来診断のためのレントゲンというのは最高の画像を求めるもので、いくら1/10とは言われても、そういった条件で撮影する歯科医はいない。

 HP上で当院のレントゲンはデジタルのものを使っており、その被爆線量は従来の1/10で安全です とうたっている歯科医院は多い。ただこういった先生に聞くと、メーカーがそういっているのだから、そのまま信じてHPに載せているという。確かに歯科医には責任はなかろう。一部メーカーは英文によるHPでもこういった宣伝文句を掲げているが、特にヨーロッパでは規制が厳しく、シロナ、プランメカなどヨーロッパのメーカーは数年前まで従来の50%、70%の線量の軽減とカタログ上でもうたっていたが、今はデジタルだからといって直接的な線量の軽減については書いていない。むしろ子供ではパントモ、セファロの撮影範囲を小さくする、歯列中心に細長く撮影するなど、照射域を狭めて線量軽減に努めており、これは確実の被爆線量の軽減に繋がっていく。日本のメーカーも是非とも実際、歯科医院での設定を基準にして測定し、結果を報告すべきであろう。そうしないと歯科医は、被爆線量を気にする患者には「この装置での撮影は1/10被爆線量です」と説明することになり、患者から歯科医が訴えられる可能性も全くないとはいえない。

 ただコダックは倒産し(医療用フィルムは今のところ問題ない)、またメーカーのほとんどの機種がデジタルになっている状況で、いつまでフィルムでもつか、さらに現在の機種が使えなくなった場合は、どうするかまだまだ悩みは尽きない。

2012年2月12日日曜日

大阪学会



 ようやく大阪から帰ってきました。この時期、飛行機での移動はスケジュールが立たないので、危惧していましたが、案の定、雪のため場合によっては羽田空港に引っ返しますというアナウンスで飛行、青森空港上で40分旋回して着陸でした。

 大阪に行ったのは、日本臨床矯正歯科医会の大阪大会参加と母親の実家に帰省のためで、水曜日から日曜日まで5日間もいました。この間に雪で家がどうなっているか心配でしたが、幸い親戚が雪かきしてくれたので、それほどでもありませんでした。

 今回もパックでの旅行となりましたが、この時期、最もパック価格が安いため、あのあこがれのリッツカールトン大阪に泊まってきました。それも36階のコーナスカイビュースーペリアルームというところで、すばらしい眺めに感動ものでした。当初、通常の部屋でしたが、受付で後5800円だせば、最上階の部屋にアップグレートできると言われましたが、ひとり5800円は高いと断ったところ、いや二人で5800円ですと言われ、36階の部屋にしました。家内と一緒に行きましたが、感動していました。私は2度目なのですが、サービス、部屋の雰囲気、とりわけベッドは最高でした。ただちょっと気に入らないのは、インターネット使用に金のかかることで、確か一日で1500円くらいかかります。リッツカールトンに泊まるような人ならたいしたことないかしれませんが、あまりホテルのインターネット使用に金がかかることを経験したことがなく、無線ルーターも持っていきましたが、結局使いませんでした。確か、この部屋は二人で6万円くらいかかるのが、青森—大阪往復飛行機代込みで60000円くらいでしたので、飛行機代が30000円になった勘定です。

 ただ今回の旅行でトラブルになったのは、あのリッツカールトンに泊まるんだからと、リーガルの2、3回しか履いたことのない雪道用の靴を履いたことでした。一日目、マメができ、二日目には小指の爪が剥がれ、三日目にはほとんど、びっこを引く有様で、ほとんど歩けない状況です。リッツカールトンに行ったのは金曜日の夜でしたが、さすがに限界のため、学会の帰りに梅田の靴屋にほうぼうの呈で駆け込み、最も楽な靴をくださいと買ったのが安物の5600円の黒のスニーカ。結局、上はイタリア製のスーツ、下は黒のスニーカという格好で宿泊することになりました。


 肝心の学会はというと、保定装置の期間を決めるために、歯の動揺度を調べた広島の植木先生の講演には感動いたしました。今回の報告では1000名くらいの結果を報告していましたが、こういった臨床研究は是非ともアメリカ矯正歯科学会雑誌などにも投稿したいただきたいものです。まず、これだけの数、あるいは期間、きちんとしたデータを出した研究は知りません。開業医ならではの研究です。

 リッツカールトンに泊まった後、尼崎の実家に帰ってきました。中央商店街のnakagawaでセールをしていたので、ここ数年スーツも買っていないので、ちょっとのぞいてみました。Belvestというイタリアの既製服の会社のものがとても着心地がよく、気に入りましたが、さすがにリッツカールトン帰りと気が大きくなった状況でも、高くて手はでません。それにしてもCantarelliといい、このBelvestといい、イタリアの既製服メーカーの袖入れ、肩周りの軽さは他社ではなかなかできないようで、私のようなメーカに無頓着の者にとっては、十数年も着る紳士服ではこういった実用性がとても重要となります。何となれば、靴同様に肩こりや疲れといった体に直接影響します。

2012年2月5日日曜日

尺八の乳井月影と能の喜多権左衞門



 明治二年弘前絵図の人名データベースが出来たため、夢中になって所蔵する文献で生家を検索している。便利なものですぐに検索でき、それを絵図で確認していく。ここまでものの数分で完了できるだけでなく、例えば工藤という姓で検索すると87軒ヒットするが、その中から住所などから調べたい人物を推定することも可能である。

 データベースソフトとしてファイルメーカを利用しているが、診療所のファイルメーカーはver6であるが、自宅のMac Bookでは使えないので、今とところ試用のファイルメーカーver10を利用している。試用期間も迫っている。早くファイルメーカーも更新したいところだが、病院のI-macも新しくしなくてはいけないし、いくらなんでも現行のISDNではきつくて光回線にも変えたいので、機器、無線環境の設定の同時更新を躊躇しているところである。

 昭和の外交官で戦前、日中和平に奮闘した元外相佐藤尚武は、警部長の田中坤六の二男である。当然、田中坤六で検索してもわからない。さらにインターネットを調べると、田中家は藩祖津軽為信の身代わりになって死んだ名臣田中太郎五郎の子孫であることがわかる。そこでさらに田中太郎五郎で検索するもこれも該当者はいない。続いて、インターネットで田中太郎五郎を検索していくと死んだ太郎五郎の後を嫡男宗右衞門が継ぐとの記載があるので、またデータベースで田中宗右衞門を検索すると長坂町にその名が見られる。菊池九郎の近いところである。これで佐藤尚武の実家がほぼ判明することになる。ただ「ポトマックの櫻 津軽の外交官珍田夫妻物語」の巻末に関連系図が載っているが、田中坤八の父の名は田中太郎五郎正意とある。子には又蔵、五郎がいるが、どちらかが宗右衞門を名乗ったか、あるいは田中坤六の名がそうなのかは、結局わからず、未だに断定はできない。

 菊池九郎の母親、幾久子の実家は奈良家も同様である。父親の奈良荘司は弘前藩のお家騒動である笠原騒動に連座し、処刑されるが、その後、再興される。明治二年当時では、再興された家がどこかにあるはずだが、データベースでは14軒の奈良姓がある。稲葉克夫先生の「青森県における自由民権運動」という論文があるが、ここでは奈良誠之助という人物が取り上げられ、その祖父として奈良佐衞門という名がでるが、どうも事柄からこの佐衞門とは奈良荘司のことであり、奈良誠之助は慶應初年に鷹匠町に生まれたとなっている。そこで14軒の奈良を調べると、鷹匠町に住む奈良姓は奈良庄左衞門がある。この庄左衞門が、奈良荘司の子供、誠之助の父かは不明であるが、かなり高い確度で菊池九郎の母方の実家はここだと特定できよう。

 一方、弘前藩士で新撰組に入った毛内有之助は、毛内有右衞門祐胤の二男であるが、長男の名前は毛内有人、これはもろに元寺町のその名があり、すぐに断定できる。根笹派錦風流尺八の名手、乳井月影は、幼名を永助といい、その名もすぐに在府町西小路に見つかる。ついでにその師匠の伴勇蔵建之の名も近くの在府町にある。多くの弟子の名前も在府町、相良町中心に見つかる。さらに能楽では喜多流シテの粟谷能夫の弘前城築城400年の演能のインタビューの中で「十五世宗家・喜多実氏の実兄である後藤得三氏の芸談によれば、弘前には喜多の分家にあたる喜多権左衛門家があったともいう」と述べているが、この中の喜多権左衞門の家は富田新割町に見つかる。

 昨日、紀伊国屋書店で笹森貞二著「弘前市長伝」を買う。早速調べると、初代市長菊池九郎の生家はすでに同定している。二代長尾義連についてはデータベースでは6軒ヒットするが、本文中の記載からはヒントがなく同定できない。三代目赤石行三は、幼名を礼二郎という。赤石禮二郎で検索すると元大工町に名が見える。同時に本文中の記載から、この赤石家は仇討ちで有名な赤石愛太郎の実家だとわかる。愛太郎は仇討ち直後に自決したが、藩は赤石の家の断絶を惜しみ、親戚筋の土岐渡人の二男礼次郎を養子にし、赤石家を相続させた。維新後に行三と改名し、後に弘前市長となった。六代目の小山内鉄弥は、柳町で1853年に生まれたという。明治二年当時、当然屋敷主は鉄弥の父親になるが、その名は本にはない。データベースでは小山内姓は21軒ヒットするが、このうち柳町の住所は小山内連司となるが、これが父かはわかないが、確度は高い。

 こうして一人一人調べていくと、かなり多くの人物の明治二年当時の実家がわかるが、それがどうしたと言われれば、その通りである。それでもおもしろい。

*ところで下図に載っている清水の記載あるのはどこであろうか。他に清水の記載のあるのは胸肩神社と富田の清水のみだが、今はもうないのだろうか。