2023年11月23日木曜日

矯正歯科医の引退

 



この11月から新規の患者さんはお断りしている。というのは2年後、70歳になる頃には引退したいと考えているからだ。弘前市内の歯科医も最近では、70歳くらいで引退する先生が多くなっている。私の父親は85歳くらいまで現役で歯科医をしていたが、次第に患者が少なくなり、歯科医院を開けているだけで赤字になってきたので、閉院し、引退した。その後、3年ほどで亡くなった。こうした姿を見ていると、死ぬまで仕事をするのはどうかなあと思い、また多くの知人の海外の矯正歯科医も早く引退して、リタイヤライフを堪能しているため、70歳くらいでの引退を考えていた。

 

アメリカの矯正歯科医の多くは、60歳くらいになると、もう一踏ん張り頑張り、患者数を増やして、若い矯正歯科医にできるだけ高額で売ろうとする。若い矯正歯科医も、早く収入を得たいので、全く新規に開業するよりは、古い矯正歯科医院を継承した方が、経費がかからないので、医院を買い取って開業する。患者数が増えれば、近くに新しい医院を開業する。日本の場合は、こうした継承制度もないので、子弟が継承しない場合は、そのまま閉院になる場合が多い。ただ東京、神奈川、名古屋、大阪、福岡などの都市部では、若い矯正歯科医が継承することがあるが、青森県のようなところに来る先生はいない。

 

閉院する場合、一般歯科医院であれば2ヶ月の準備期間があれば十分だが、矯正歯科医院では一人の患者の治療に平均して2年間はかかるので、少なくとも閉院するためには2年前から準備期間を要する。この期間は、新規の患者を取らずに、治療中の患者をなんとか終了させる。本来なら2年間の保定も含めると4年間の準備期間がいるが、実際、私の知る事例では2年間の場合がほとんどである。すでに4年前から治療期間がかかる子供の矯正治療は原則的に断っていて、ほとんどの患者は中学生以上で、特にここ2年間は高校生以上の患者、すなわちすぐにマルチブラケット装置での治療を開始する患者しか受け入れていない。

 

開業して28年間になるが、この24年ほどは子供の患者が多く、70%くらいを占めていて、成人の患者は少なかった。そのため、子供の患者を断れば、かなり患者数の減少が見込まれたが、コロナバルブでマスクをしているうちに矯正治療をしようと思う成人患者が増え、かえってここ2年間は患者が多かったが、今年になるとようやく例年並みになった。今いる患者にできるだけの治療をして何とか全ての症例を終了したいと考えている。保定に関してはできれば2年間は見ていきたいが、無理な場合は、知人の矯正歯科医にお願いすることになろう。これは継承がない矯正歯科医院の宿命で、子供が矯正科に残っても、閉院する場合もある。知人の矯正医は子供二人を矯正歯科医に育てがが、後は継がないようだし、もう一人の矯正歯科医の子供さんも矯正歯科医になったが、他県で開業した。アメリカのような継承制度があればいいのだが、どうも日本人は中古住宅よりは新築住宅を好むように、開業についても、そこそこ新しい歯科医院をただであげると言っても断る先生が多い。私の場合も近所で勤務している矯正歯科の先生にタダであげると言ったが、軽く断られた。あまり前医の手あかのついた医院は嫌がられるのであろう。

 

こうしたこともあり、当院での矯正治療を希望している患者さんにはご迷惑をお掛けすることになるが、弘前市内はまだ恵まれていて、日本矯正歯科学会の認定医が3名いるので、一般矯正患者さんについては特に問題はなかろう。ただ年間15-20名くらいいる顎変形症患者、弘前大学医学部病院形成外科より紹介される数名の唇顎口蓋裂患者さんについては、他院ではあまり治療していないので、青森市、盛岡市、仙台市に行くことになり、大変恐縮している。28年前に開業した時は、患者は一週間で数名であったが、今度閉院するためには、逆にこの状態に戻すことを意味し、診療日や診療時間も徐々に減らして行くのだろう。患者さんが減って行くというのは収入も減るわけで、といって従業員の給与などの固定費は変わらず、確実に赤字状態となるのは覚悟しているが、その期間や赤字額については皆目分からないので不安である。

 

11月からは医院のホームページも閉鎖した。すると“弘前 矯正歯科”で検索しても、グーグルはじめ全ての検索エンジンで表示がなくなった。そうすると、それまで月に20件くらいの新規患者の予約電話があったが、すぐに電話が掛からなくなった。そのあまりに早い反応に驚き、今時の患者はネットで医院を検索することがよくわかった。


2023年11月19日日曜日

お勧めしない矯正歯科医院

 


今年の1月には、マウスピースモニター商法による矯正歯科治療のトラブルをめぐり集団訴訟が起こり、「デンタルオフィースX」が倒産し、今年の9月には「キレイライン」によるアライナー矯正をしていた東京プラス歯科矯正歯科が倒産し、さらに同じく9月末には「あーすマウスピース矯正Lab新宿本院」が倒産し、歯科医のいないマウスピース医療として関心を集めたアメリカ大手のスマイルダイレクト社も10月には倒産した。今後もマウスピース矯正専門にしている歯科医院にとっては厳しい状況となっている。矯正治療は2年以上の長期の治療期間が必要なために、治療途中で医院が倒産してしまうと、その後の治療ができず、患者さんにとって費用は払ったのに治療できない困った状況となる。一部のアライナー矯正歯科医院ではこうした患者の治療の継続をすると言っているが、患者さんにとっては再度治療費用がかかるので安心することができない

 

こうした行ってはいけない矯正歯科医院を知るいい方法はないのか。ズバリ医院のホームページを見れはわかる。

 

1.インビザラインプロバイザーを書いているところはやめる

インビザライン社は年間の利用患者数の多いドクターをステータスランクで表彰している。症例数により、ブロンズ、シルバー、ゴールド、プラチナ、ダイヤモンドプロバイダーの6つのランクに分けているが、これは全く歯科医の技量を評価するものでなく、注文数の多さ、インビザライン社からすればお得意様を表彰しているだけである。こうした企業によるランクをホームページ上で表記することは医療広告法では固く禁じられており、違法である。こうした違法表記を平気で、それも広告として大きく掲げている歯科医院は、問題である。一つはこうした医療広告法を知らないのであれば、それは知識不足であり、知っているのに出すのはもっとタチが悪い。

 

2.症例数、最高、日本一などの誇大広告、比較優良広告、体験談

何の根拠もなく、症例数を書くことも医療広告法では禁止されている。敢えて書く場合は、客観的に実証できる数値でなくてはいけないし、第三者が情報の開示を求められれば、それに応える必要がある。比較優良の制限としては、最高、日本一、県内唯一、日本有数のなどの言葉は使えない。誇大広告の範囲も広く、マウスピース矯正センターという名称も誇大広告、安全な治療ですという表現も誇大広告となる。またインビザラインは、未承認医薬品であり、薬機法としては医療機器と認められてはおらず、その旨、入手経路などを記載していなくてはいけない。さらに日本の矯正歯科の学術的な中心である日本矯正歯科学会では2度、異例のコメントを出しており、適用症例には軽度の凸凹、空隙など歯の移動量が少ないケースに限られ、精密な移動はできないとしている。もちろん反論もあるであろうが、学会としての正式なコメントであり、もし治療結果について訴訟などで意見を求められれば、学会、大学、専門医としてはアライナー矯正についての否定的な意見を言うだろう。現状の多くのインビザラインをしている歯科医院は、患者に訴えられれば訴訟に負ける。

 

3.品位を損なう内容の広告

これは主として値引き広告である。今ならーー特別価格で、期間限定で00%引などの表現は全て品位を損なう広告として禁止されている。私のところでも兄弟割引、二人目は10%3人目は20%引きとした記載が品位を損なうと削除を求められた。金策に追われ自転車操業をしている歯科医院は、急いで現金確保を狙うため、一括払いの方が安いと勧める。矯正歯科治療は期間がかかるために、途中での転居などもあるために分割での支払いが望ましい。

 

要するに医療広告ガイドラインに違反しているHPを平気で出している歯科医院での矯正治療はやめた方が良いのである。まず日本矯正歯科学会の認定医では、学会の委員会は全てのHPをチェックし、修正されないと認定医をもらえないため、概ね認定医の医院ではガイドラインに違反することはない。歯科、医院が、野放しで宣伝をするようになると、病気、命が商売になってしまう。これを想像してほしい。「あなたのかかっているガンは1日で治る。ただし治療費は一千万円」、「この薬を飲めばコロナには絶対かかりません」、「この機械を使えば近視が治ります」、究極は「この治療を受ければ不老不死です」。こうした広告が常時、テレビ、新聞、雑誌で掲載されれば、どうであろうか。いくら経営とはいえ、これほど社会混乱することはない。そのため欧米では「医療は商業として実施されてはいけない」という原則の元に、厳しい広告規制が取られている。

 

ある歯科医に聞くと、宣伝に金をかければ、実際に患者が来るそうで、患者の方も安易な広告に乗りやすい点があるのだろう。そうした点では、日本でももっと厳しい医療広告規制を行うべきで、違反者には医師、歯科医資格剥奪も含めて厳しい処分を求めたい。特に治療前後の写真などは本体禁止事項であるが、限定解除というザル要件があるので、なし崩しとなっている、早急に限定解除要件は廃止すべきである。

 

なお医療広告違反については、厚生労働省の「医療機関ネットパトロール」という監視体制があり、違反件数は医科に比べて歯科がほぼ2-3倍も占める(2018)。多くは矯正治療も含めた審美歯科関係で、インビザラインのケースもここに含まれる。ただ評価委員会から改善、中止を求められるだけで、一旦中止して、また少し変えて再開するのだろう。


 


2023年11月17日金曜日

ゴジラ -1.0

 




子供の頃、尼崎東宝で、若大将シリーズと抱き合わせで、「ゴジラ対キングコング」、「モスラ」などの怪獣映画を夢中になって観た。流石に小学校も高学年になる頃、ゴジラの息子が出てくる頃には、ふざけるなという気持ちになり、もう見に行くこともなくなった。ゴジラに息子がいて、その息子を可愛がるゴジラ、とんでもない映画である。その後、ハリウッドによるリメイク版もあったが、あえて映画館で見る気持ちもなく、DVDでは見てみたが、それほど面白いとは思えなかった。ところが2016年公開の「シンゴジラ」は面白いと評判で、久しぶりにゴジラ映画を映画館でみたが、これはよかった。最後の新幹線を使ったシーンは馬鹿げたことを大真面目に撮影し、スカッとした。

 

今回の「ゴジラ-1.0」は「シンゴジラ」よりはるかに映画としてはよくできた作品であった。従来のゴジラ映画は、ゴジラの破壊とそれへの攻撃が主眼であったが、今回の「ゴジラ-1.0」は人間ドラマがもう一本の流れとなっていて、映画としてははるかによくできていた。特にミリタリー好きの私にとっては「震電」の登場には痺れた。

 

ネタバレになるが、爆弾を機体前方に詰める機種は、日本には震電しかない。機種前方に250kg爆弾を積むのだが、前方部の片方の機銃を片付ければ、なんとかなりそうで、それほど大きな矛盾はない。最初のシーンで零戦52型が250kg爆弾をつけたまま着陸するが、これも特攻機では爆弾を投下できない構造のためにこうした危険な直陸が行われた。大戸島というのは架空の島であるが、特攻機の不時着機用の基地として喜界島や徳之島があった。一番気になったのは座席射出装置で、これは大戦中の日本機には装着していない。ただ大戦末期のドイツ機には射出装置が装着されていて、アメリカ軍の協力があれば、震電にも簡単な射出装置はつけられたかもしれない。確か、震電は前脚が長く、試験飛行中に折れたようだが、前方部へ250kg爆弾を積むと、帰還時には前脚は確実に折れていたと思われる。一方通行の出撃である。映画には旧日本の艦船として、巡洋艦高砂や、駆逐艦雪風などが出るが、これも戦後に残っていた艦船でこうしたシーンで登場しても違和感はない。駆逐艦隊の指揮官として少し太った人が映画に出るが、おそらく史実で考えれば、駆逐艦雪風の名艦長、寺内正道中佐が似ている。ざっと観たかぎりミリタリーオタクにも納得する内容になっている。最後のゴジラへの震電による攻撃は完全に「永遠の0」の再現であるが、結果は嬉しい、どんでん返しで、これは観客も納得する。

 

監督の山崎貴は、「永遠の0」、「Always3丁目夕日シリーズ」、「海賊と呼ばれた男」、「アルキメデスの大戦」など、昭和をCGで再現するのが得意な監督であるが、このゴジラ映画でも遺憾無く発揮され、ゴジラが銀座を襲う場面はこれまでのゴジラ映画の中でも秀悦である。ただ主人公の名前は敷島というが、すぐに関行男中佐の初めての特攻隊、敷島隊を思い出し、ちょっと安直なネーミングのような気がしたし、神木隆之介も悪くはないが、朝ドラ「らんまん」のイメージが残り、もう少し、影のある俳優の方が良かったかもしない。また厳しい言い方だが、子供役、明子の子供、二歳くらいだが、顔は可愛いのだが、発音が不明瞭で、芦田愛菜であれば、二歳でももっと演技できたのかと思ってしまう。

 

それでも、「ゴジラ マイナスワン」は過去多くのゴジラ映画の中でもベスト3に入る映画で、かなりヒットになるのは間違いない。ただ内容がかなり日本的なので、ハリウッド映画に慣れたアメリカでどこまでヒットするか。例えばいきなり主人公の家に典子が子供を連れて上がり込んでくるが、相当期間が経っても男女の仲にならないのは理解しにくいだろう。12/1よりアメリカ公開するが、観客動員数が注目される。日本ではレーティングはGだが、アメリカではPG-13なのは残念であった。この映画がアメリカで受け入れられれば、今後、アニメ以外の日本映画ももっと海外進出を目指してもいいかもしれない。おそらく続編はあると思うが、次は娘の明子が中心となる物語となろう。大人になる昭和40年から50年頃、バブルの前後が舞台か。掃海艇の話であれば、1950年の朝鮮戦争への出動した特別掃海隊か、その次は1991年の湾岸戦争派遣があるが、これは年齢的には無理であろう。ただ日本周囲の海での掃海活動はずっと行われていたので、監督が得意とする昭和30年頃を舞台にしても構わない。典子の首元にあるゴジラ模様の黒い火傷痕、気になる。


2023年11月16日木曜日

ユーミンは天才!

 



私がユーミンの曲を初めて知ったのは、TBSドラマ「家庭の秘密」の主題歌として使われた「あの日に帰りたい」です。昭和50年(1975)の放送ですので、48年前のことです。この歌を作曲、作詞したユーミンは、この時23歳、最初のアルバム「ひこうき雲」を発売したのが1973年、21歳の時です。このファーストアルバムの中には、今でもよく歌われる「ひこうき雲」、「きっと言える」、「ベルベット・イースター」、「雨の街を」などが収録されており、翌年の1994年の2枚目のアルバム「Misslim」では、「生まれた街で」、「瞳を閉じて」、「やさしあに包まれなたなら」、「海を見ていた午後」、「12月の雨」、「魔法の鏡」、「私のフランソワーズ」、「旅立つ秋」など収録作品のほとんどが素晴らしく、今でも全く古くありません。さらに1975年に発売された3枚目のアルバム「COBALT HOUR」の中も名曲揃いで、「Cobalt Hour」、「卒業写真」、「何もきかないで」、「ルージュの伝言」、「少しだけ片想い」、「雨のステーション」などがあります。普通の歌手のアルバムでは、残る曲はせいぜい2、3曲でしょう。そしてユーミンファンには申し訳ないが、1976年に発売された4枚目のアルバム、「14番目の月」は、素敵な曲が多いものの、いまだによく聞くのは、あの名曲「中央フリーウェイ」くらいで、ようやく普通の歌手並みになりました。そして1978年に販売された5枚目のアルバム、「紅雀」ではついによく知られた曲はなくなり、世間では松任谷由実になって終わったと言われていました。ユーミンファンはその後も、出されるアルバムを買っていったのでしょうが、私的には時折ヒットが出るが、1973年から1975年のこの3年間を上回る作品はないような気がします。

 

このユーミンの3年間は奇跡の期間と言えると思います。昔の歌が、40年近く、いまだに歌われること自体があり得ないことであり、先ほど説明したようにアルバムのほぼ全曲が40年持つ名曲となっています。これはすごいことで、通常、40年持つ、これは若い人にも好かれるという普遍性を持つ曲と解釈していいのですが、立て続けに作詞、作曲できたのは、まさに神がかりです。あり得ないことで、単に天才と呼ぶだけでは足りません。名曲の条件としては、時代が変わっても歌い続かれるという要素がありますが、いくら音楽の才能があっても、それが一般の人々に好かれるとは言えず、一般の人々に好かれ、そして時代が変わっても歌われる曲を、これだけ短期間に作れる才能はすごいものです。

 

 

同時代の今でも活躍している歌手としては、年齢はバラバラですが、サザンオールスターズ、矢沢永吉、小田和正が当てはまると思います。いずれも偉大な歌手で、今でも幅広いファンを持っています。とりわけ、サザンオールスターズの桑田佳祐は、ユーミンに匹敵するヒットメーカーですが、それでも1978年に販売された最初のアルバム「熱い胸さわぎ」の10曲中、今でも歌われているのは「勝手にシンドバット」くらいでしょうし、二番目のアルバム「10ナンバーズ・カラット」は、「思い過ごしも恋のうち」、「気分しだいで責めないで」、そして名作中の名作、「いとしのエリー」が入っていて充実したアルバムですが、それでもユーミンの1973から1975年には匹敵しません。山下達郎もユーミン同様に自分で多くの曲を作詞作曲のする人で、この人の天才と呼んでいい人ですが、もともと音楽には造形の深い人で、天才ではありますが、むしろ職人に近い感じがしますし、音楽的にも万人受けする人ではありません。

 

ユーミンの1973-1975年の曲、20歳から25歳くらいの時に作られた曲は、おそらく月に1曲あるいは2曲のペースで作られたものでしょう。作曲と作詞の両方ですので、次から次へと湧き出すようにできたのでしょう。以前、ユーミンにインタビューしたテレビ番組で、曲を作るのは、ピアノやギターで作るのではなく、ハミングしたメロディーを録音して、だんだんと曲にしていき、それをスコアーに書き起こす。そして完成した曲に歌詞をつけると言っていました。頭に浮かんだメロディーをラジカセに次々と吹き込んでいたのでしょう。実際に曲になるのは、何十、何百のメロディの中から生まれるのでしょうが、1970年当時はそれこそ天上から曲が降ってくるように新しいメロディが出たのでしょう。

 

どんな作曲、作詞家でも、10曲書いて、ほとんどの曲をヒットさせるのは不可能なことです。というには、ヒットというのは、曲の良し悪しより、多くの大衆に支持されるかであり、これは作曲、作詞家は読めないからです。その点、1970年代のユーミンはある意味、奇跡の歌手であり、作詞家、作曲家であったと思います。もう一つのユーミンの功績は、サザンなどにも言えるのですが、70歳近くになっても現役でバリバリ歌っていることで、これは日本の音楽史上でも初めてのことです。海外ではビートルズやローリングストーンズの連中がいまだに活躍していますが、日本では長い間、歌手、それも演歌以外の歌手は、若者と勝手に思われていました。私が20歳の頃に、当時の70歳近い歌手、例えば渡辺はま子、藤山一郎、東海林太郎の歌を聞くことはまずありませんが、今の20歳の若者がユーミンやサザンの曲を聴くのはごく普通のことです。日本音楽界の成熟の表れでしょう。


2023年11月9日木曜日

昭和50年代の仙台2


1980年に中国に行った時、万里の長城も空いている

広州市のサッカー場


昭和50年代の男女の恋愛事情というと、これは今とはかなり異なる。好きになった人がいても、今のようにスマホなどの連絡手段がなく、連絡方法は、1。直接話す、2。電話する、3。手紙を送る、しかなかった。直接話すは、大学に入って、例えば、文学部に好きな子がいたとしよう。いきなり「付き合ってください」はないが、まず少しくらい話をしたい。その場合、文学部の男子にそれとなく近づき、彼女の名前と学校を聞き出す。次にその学校出身者が歯学部にいないかを探す。偶然いたとすると、その同級生を介して、近づこうとする。私の場合は、文学部に好きな人がいて、たまたま同級生が同じ女子専用の下宿だったので、すぐに紹介してもらい、少し話した。次は映画にでも一緒に行こうかと思ったが、ある日、文学部の彼女は同級生と男の子とイチャイチャしているのを見て、これはダメと思って、そのまま諦めた。

 

歯学部の女子は10名しかおらす、必然的に他に恋を求めるとなると、外の世界に目を向ける必要がある。当時の一般的な方法としては、合コンというものがあった。だいたい5対5くらいが多かったは、夜の6時頃に集まって飲みに行く。関西の友人に聞くと合ハイというものがあって、これは飲みに行くのではなく、言葉そのものハイキングに行くという。ほとんど「青い山脈」の世界で、神戸でいうと六甲山に行ったりするそうで、面白かったという。仙台では芋煮会というものがあったが、合ハイというものはなかった。人気のあるのは、宮城学院女子大学で、学生課に行って、合コンの受付をして、連絡を待つ。歯学部は東北大学の中でも人気があったので、すぐに連絡がきて、合コンとなる。多い時は6時から一軒、8時から二件目と掛け持ちの合コンもしたし、一対一に合コンもした。おそらく6年間の歯学部生活で30回以上の合コンはしたであろう。あとは友人の彼女からの紹介で、これは今でも多いパターンだと思う。多くの場合は、友人のカップルと私と友人の友達の四人で飲む場合が多い。これは成功率が高く、次は電話をして、デートの約束をするのだが、これが緊張する。自宅に電話をすると、どういう訳か、父親が出る場合は多く、誰それさんをお願いしますと言うのは緊張する。電話は居間に置かれていたので、会話状況に家族皆が固唾を飲んで聞いている。電話の線を延ばすだけ延ばして会話するが、それでも「いつま電話していうのか」と叱られる。

 

当時のデートいうと、仙台では映画をみて、駅前のパルコに行って、食事をして、一番町のモーツアルトに寄ってコーヒーを飲む、こんな感じであった。モーツアルトは、ヒゲの店長がカウンター越しにコーヒーを入れてくれ、お客も少なく、居心地の良いところであった。喫茶店は歯学部前にあった「カンカン」という店とモーツアルト以外はほとんど行ったことはない。ほとんどアベックがこのコースなので、知り合いに会う確率が高いのが欠点であった。勾当台公園、八木山動物園、松島もデートのスポットであった。中高が男子校だったので、女性との付き合い方が全くわからず、もともとモテるタイプでもなかったので、デートと言っても、一、二度会うだけで終わり、結局、今の家内と知り合うまでまともな恋愛をしたことはない。モテない男の典型で、それを拾ってくれた家内には感謝する。

 

同級生同士のカップル以外は、他の同級生も意外に奥手で、彼女ができたのは学部3、4年生で、通常の学年で言うと大学5年、6年生の頃が多かった。年齢で言うと2324歳くらいで、女性からすると少し結婚も考える年齢だったせいかもしれない。多くの友人は、そのまま結婚した。当時は女性の場合、25歳までに結婚しなければ、クリスマス翌日のクリスマスケーキと呼ばれた時代で、逆算すると、2223歳頃から付き合った、25歳前に結婚したいと考えていた。今はこのリミットがかなり上昇し、おそらく3233歳くらいに上がっているのだろう。

 

仙台にも、東京でマハラジャのようなディスコが賑わっていた頃、国分町にグリーンハウスというディスコがあって、数度行ったことがあるが、今以上に東京都地方の格差が大きく、ディスコに来る女性は真面目な人が多かった。その後、マハラジャのような店もできたが、結局、行くことはなかった。大学の軽音楽部にも友人が多かったので、部活費稼ぎのダンスパーティーによく手伝いに行ったが、ダンスも踊れないので、もっぱら見学だけだった。また大学近くの喫茶店「カンカン」のオーナがライブハウスを開いたの、ジャズやフォークなどのライブもよく見に行った。金はなかったが、それでも安くて楽しめるところも多く、楽しかった。

 

2023年11月8日水曜日

矯正歯科治療の健康保険化

 

 



前のブログで、日本でも各界から子供の不正咬合(18歳以下)に対する矯正歯科治療についての健康保険化を求める声が強く、また政府でもそうした方向で承認されている。あとは厚労省が予算化し、歯科医師会でも承認されれば、実際に矯正歯科治療を健康保険でできることになる。

 

今のところ全ての不正咬合について健康保険の適用にするのではなく、一部の重度の不正咬合について保険適用しようという考えで、これは野党、与党とも賛成している。実際にどのくらいの患者がいるのか、予算は、誰が治療するのかなどの実務的な問題が残っており、日本矯正歯科学会や日本小児歯科学会でもこれから議論されていくであろう。

 

今、叩き台として今回の日本矯正歯科学会でも発表されたのが、すでに保険適用されているイギリスの不正咬合の分類なので、これを提示する。

 

グレード1:問題なし

グレード2:マイナーな問題がある。少し歯並びを悪い、上顎前歯は少し前突しているなど

グレード3:不正咬合ではあるが、必ずしも矯正治療を必要としないもの。4mm以下のオープンバイト、4mm以下の前歯の前突、重なりが2mm以下の反対咬合など。

グレード4:よりシビアな状態、6mm以上の上顎前歯の前突、2mm以上の反対咬合、4mm以上のオープンバイト、機能的な問題を有する過蓋咬合、過剰歯を伴うケース

グレード5:とてもシビアなケース、シビアな叢生、数多くの欠損歯、9mm以上の上顎前突、-3.5mm以上の反対咬合、頭蓋顔面骨の形成異常を伴う症例、唇顎口蓋裂症例

 

このうちイギリスではグレード4と5が健康保険の対象となる。ただ実際の判定となると、重複しているものも多く、どの症例が保険適用となるかの区別が難しい。このためイギリスでは、矯正専門医がこの判定を多なっているが、保険による収入が低いため、多くの矯正歯科医は自費治療を重視している。

 

日本での実際の実施方法は、これまでの健康保険制度との整合性が重視される。まず保険点数については、これまでの口蓋裂、顎変形症のものがそのまま使えるので、問題はないが、おそらく小児に矯正治療の保険導入にあたってはかなりの点数が減点されるのは間違いない。矯正治療において、セファロ検査は必須であるので、セファロ、パントモは必須の検査機器となり、小児の矯正治療をするためには施設基準としてセファロが必要となろう。セファロがなければ、矯正治療ができないことになる。また実際のグレード4あるいは5の判定については、画像を送れば自動的に判定するようなシステムも構築できようが、これまでの厚労省のやり方では、歯科医の判断に任せることになろう。

 

一番の問題は、誰が治療するのかという点である。日本矯正歯科学会では矯正歯科医が治療すべきと考えているようだが、小児歯科医や一般歯科医から多くの反対が来るであろう。現在、口蓋裂の患者さんの矯正治療は、育成・更生医療を受けるためには日本矯正歯科学会の認定医でなくてはいけないが、3割負担であれば、施設基準を満たせばどの歯科医院でも治療を受けることができる。おそらくこれとの整合性からすれば、小児の矯正治療を矯正歯科医の独占にするのは難しく、一般歯科でも治療できる制度になるはずである。一部の矯正歯科医からは、小児の矯正治療が保険に導入され、一般歯科医で治療されるようになると、結果として治療レベルが低下すると危惧する声がある。確かにそうした危惧はわかるが、現実的にすでに多くの一般歯科医で矯正治療が行われており、さらに昔と違って矯正歯科医に患者を紹介するようなことも少なくなっている。保険適用といっても患者は病院を選ぶわけで、そうなると競争原理から結果として矯正専門医での治療を選択することになろう。さらにいうと、不正咬合の分類のグレード4、5のケースはかなり難しい症例で、最終的にはマルチブラケット装置と外科的矯正の知識と技術が必要となり、矯正歯科医でなくては治療できないことになる。

 

重度の不正咬合は、咀嚼機能などの機能障害を伴うだけでなく、社会心理的障害、簡単にいうと、歯並びが悪いために笑えない、積極的になれないなどの問題を有することがある。これまで高額な費用がかかり矯正治療を受けられなかった子供さんが、保険適用で治療が受けられようになれば本当に嬉しい。早期の実現を望んでいる。


2023年11月7日火曜日

昭和50年代の仙台

 



私が一浪の末に東北大学の歯学部に進んだのは1975年のことである。当時は1、2年生は川内の教養部のキャンパス、3年生からは学部教育となり歯学部に移った。教養部は、履修必須科目とそれ以外の科目に分かれており、履修必須科目は医学部、薬学部、歯学部が一緒になることが多いが、それ以外の科目はどの学部でも受講できた。その際に役立ったのは、鬼仏帳という、単位を取れやすい科目と取れにくい科目の一覧が載った冊子で、学生必需品で、それを参考に選択科目を選んだ。それでも間違って最も苦手な物理を履修してしまい、周りは理学部と工学部の学生ばかりで、これは厳しかった。一方、中国哲学を受講し、好きだった韓非子について数冊の本と図書館で論文を調べて20ページくらいのレポートを出したら、担当教授から誉られ、A+の評価を受けたのは嬉しかった。それでもまだまだ学園闘争の残火があり、教科によっては教授室が学生たちによりバリケートで固められ、いつも休講のまま単位をくれたりした。

 

当時の歯学部は80名いたが、女子は10名くらいで、今とは違い男子が多く、仙台第一と第二高校が多く、他は日本各地から集まった。それまで40名定員であったのが、入試募集が終了してから80名になる、倍率が半分に下がったクラスで、あまり優秀でない学年であった。この学年からは教授も出ていない。次の学年は、入試の最高得点者は医学部より上で、医学部の合格点数をクラスの1/3が超えていた優秀な学年で、多くの教授を輩出した。中学高校でサッカーをしていたので、歯学部でもサッカー部に入った。部員は1213名くらいでかろうじて試合ができる人数であったが、我々の学年から3名、それも中学高校でサッカー経験者であったので、大歓迎であった。それまで大学に入るまでサッカーをしたことはない部員ばかりで、試合をしても勝ったことがないチームであった。私は元々ゴールキーパであったが、6年生の先輩がすでにゴールキーパーをしているので、念願だったフィールドプレーヤとしてセンターバックをすることにした。同級生が国体代表選手で、次の年からはほぼ学年に一人くらいは国体代表選手が入部するようになり、3年生の頃は創部以来一回も勝てなかった医学部サッカー部の勝利し、5年生の時は全国の歯学部の大会で準優勝となった。その後の歯学部サッカー部の歴史でも最高結果であった。

 

グランドの賃貸の関係で、練習は週に3回ほどで、授業の終了する5時頃からなので、冬場は正味1時間くらいの練習であった。練習終了後は、歯学部の学生棟に戻り、その後は、決まって医学部前にあった山田屋という食堂で夕食をとった。ここのメニューは全て大盛りで、残すとひどく怒られ、量を食べられない女子はそもそも入店を断られた。アパートは上杉5丁目にあった上杉荘というところで、2階の8畳くらいの部屋に住んでいた。風呂なし、トイレは一階の共用で、家賃は2万五千円くらいであった。仕送りが10万円くらいだったので、バイトもしないで余裕で生活できた。テレビ、こたつ、ラジカセ、ベッド、炊飯器、ストーブと小型冷蔵庫くらいしかなく、8畳もあれば十分に広かった。週に三度、近くの銭湯に行き、歯学部に行くのは3万円で買った片倉のロードレーサーで通学した。ノースフェイスの60/40パーカーに、タウチェのデイパック、リーバイス501、アディダスのスタンスミスというのが定番のファッションであった。

 

教養部は比較的自由であったが、学部に進むと、ほぼ9時から16時まで授業がびっしりあり、高校生と同じで、そして厳しい試験がある。5年生、6年生になると授業以外にも実習や臨床も付け加わり、食べて寝る生活となる。それでもサッカーは息抜きもあって卒業するまで続けた。

 

携帯電話もネットもない時代の若者は何をしていたか。これは戦前、テレビもなかった時代の若者は何をしていたのかと同じで、結構忙しくしていたということになる。朝の8時に起きて、大学に行って、部活をして、夕食を食べ、銭湯に行くと、帰りは9時頃になり、テレビを見たり、本やマンガを読んで、12時頃に寝る。日曜日は、名画座に行って2本立ての映画を見て、お昼はナポリタンや吉野家の牛丼を食べ、一番町をぶらぶら、喫茶店モーツアルトでコーヒーを飲みながら買ってきた本を少し読み、帰る。暇な時はコインランドリーで洗濯し、アイロンしたり、自炊をしたりする。スマホやネットがなくても、これっぽっちも退屈ではなかった。

 

子供の頃から家にはテレビがあり、ステレオ、本やマンガもあったから、こうした生活はネットが家庭に入る頃まで続いた。携帯電話の存在はそれほど生活そのものを変える存在ではなく、ズバリIPhonの登場が生活を一変させた、登場したのは2007年、普及したのは2010年以降で、ようやく今の高校生くらいからIPhoneの世代となる。私が大学に入った1975年というと今から48年前、その48年前というと昭和2年。昭和2年と昭和50年のギャップを考えると、今と1975年のギャップは驚くほど小さい。時代の変化は少なくなってきているのか。


2023年11月5日日曜日

日本矯正歯科学会大会 新潟

                  月岡まんじゅう







今年の日本矯正歯科学会は、新潟市で行われた。新潟県で学会が行われるには20年ぶりくらいか。以前は、弘前からだと秋田市を介して、日本海側を新潟まで特急が走っていたが、今は秋田までかろうじて快速、特急があるが、弘前―新潟を結ぶ特急はなく、結局、新青森から大宮まで、そこから新潟まで新幹線で行った。かなり遠回りだし、費用も高い。時間は昔とあまり変わらず、6時間かかった。

 

久しぶりの新潟は、天気も良かったせいか、随分垢抜けた街になっていた。1970年代にサッカーの試合で新潟大学に行ったことがあり、そして20数年前に矯正学会があったが、どちらもどんよりした天気だったせいか、どうも新潟は暗い街という印象があった。

 

佐渡島を除くと、新潟市はあまり観光地がないため、今回の学会では一泊目は、市内のビジネスホテルに泊まったが、二泊目は、新潟近郊の月岡温泉に泊まった。あまりよく調べなかったのか、新潟駅から新発田駅までJRで行き、そこからタクシーで月岡温泉に行ったが、豊栄という駅からはシャトルバスも出ているようで、失敗した。旅館は「摩周」という高級旅館で、大変コスパの高い旅館であった。このブログでも以前、相当厳しく評価した軽井沢の星のやのホテルに比べると100倍、良かった。温泉は最高だし、部屋もいいし、従業員のサービスも完璧、料理は普通という塩梅だったが、料金に比べて非常にいい宿であった。周りには何もないところであるが、それでも楽しい。またこの月岡温泉のお土産として「月岡まんじゅう」があるが、これは郡山の薄皮饅頭に似ているが、それより皮はしっとりしていて、アンコもうまい。日持ちがしないためか、新潟市内では売っておらず、ここでしか買えない。

 

学会自体については、個人的には昔、咀嚼能力の研究をしていたので、そういた機能と咬合との関わりに関するテーマに興味を持った。不正咬合者は、咀嚼機能が正常咬合者により劣っており、脳機能や消化、呼吸とも関連することが示されていた。不正咬合で、それも重度であれば、こうした機能的な問題も多くなるようだ。それに関連して、子供の不正咬合に矯正治療については健康保険の適用とすべきだという声がかなり大きくなっていることが報告されていた。各種団体からの要望で、ほぼ国会では適用すべきという採決が行われ、今は実務協議に入っているようだ。子供の不正咬合、それも重度のものについては保険適用すべしという声は以前から強い。ひどくなった重度の骨格性は反対咬合や、逆の上顎前突や開咬では、外科を併用した外科的矯正治療が保険に認められている。一方、将来的に外科矯正になるような患者の一期治療については、保険治療は認められていない。早く治療を開始すれば外科的矯正を回避できたかもしれないが、悪くなってから保険が認められるというのはおかしい。重度の不正咬合については小児についても保険適用にすべきであろう。

 

こうした問題については。30年ほど前にも東京医科歯科大学の三浦名誉教授がリーダーで調査されたことがあり、重度の不正咬合にかぎって保険診療にしても、確か医療費予算は数百億円程度であり、国民一人あたり数百円の出費で、万一、子供が重度の不正咬合であれば、保険適用できるというのはメリットが多い。矯正治療は高額な治療費がかかるため、こうした制度は国民皆保険の趣旨からも必要な制度である。ただ誰が治療するかという点が問題であり。おそらく重度の骨格性の問題にある不正咬合が対象であるなら、その治療は難しいし、また将来的に外科的矯正の対象になる可能性が高い。

 

例えば、下顎骨のかなりの劣成長を伴う上顎前突症例が保険適用になったとしよう。一期治療では機能的矯正装置や顎外固定装置も使われるかもしれないが、いずれにしても下顎骨の前方への成長を期待する治療法がとられる。うまくいって下顎骨の前方成長があり、正常咬合になることもあろう。また凸凹があり、小臼歯抜歯、マルチブラケット装置による二期治療が必要なケースもあろう。ただ重度のケースが保険適用になるなら、下顎骨の前方への成長が少なく、歯の移動による代償的な改善、あるいは外科的矯正を併用する症例では、高度な矯正治療の技術と経験が必要となり、まず一般歯科医では対処できない。

 

こうしたこともあり、重度の小児の不正咬合の治療を保険適用にするなら、治療を従来の顎変形症を扱う矯正歯科医院に限定した方が望ましい。学会ではイギリスの不正咬合の判定基準に沿ったグレードを発表していたが、オーバジェットが6mm以上、−4mm以下といった視診による判定でもよかろう。学校検診の不正咬合の項目で、“要専門医受診”を勧告されるような児童については、学校歯科との整合性もあり、早急に保険適用になってほしい。うまくいけばここ数年以内に一部の小児の不正咬合については健康保険の適用になるかもしれない。