2023年11月9日木曜日

昭和50年代の仙台2


1980年に中国に行った時、万里の長城も空いている

広州市のサッカー場


昭和50年代の男女の恋愛事情というと、これは今とはかなり異なる。好きになった人がいても、今のようにスマホなどの連絡手段がなく、連絡方法は、1。直接話す、2。電話する、3。手紙を送る、しかなかった。直接話すは、大学に入って、例えば、文学部に好きな子がいたとしよう。いきなり「付き合ってください」はないが、まず少しくらい話をしたい。その場合、文学部の男子にそれとなく近づき、彼女の名前と学校を聞き出す。次にその学校出身者が歯学部にいないかを探す。偶然いたとすると、その同級生を介して、近づこうとする。私の場合は、文学部に好きな人がいて、たまたま同級生が同じ女子専用の下宿だったので、すぐに紹介してもらい、少し話した。次は映画にでも一緒に行こうかと思ったが、ある日、文学部の彼女は同級生と男の子とイチャイチャしているのを見て、これはダメと思って、そのまま諦めた。

 

歯学部の女子は10名しかおらす、必然的に他に恋を求めるとなると、外の世界に目を向ける必要がある。当時の一般的な方法としては、合コンというものがあった。だいたい5対5くらいが多かったは、夜の6時頃に集まって飲みに行く。関西の友人に聞くと合ハイというものがあって、これは飲みに行くのではなく、言葉そのものハイキングに行くという。ほとんど「青い山脈」の世界で、神戸でいうと六甲山に行ったりするそうで、面白かったという。仙台では芋煮会というものがあったが、合ハイというものはなかった。人気のあるのは、宮城学院女子大学で、学生課に行って、合コンの受付をして、連絡を待つ。歯学部は東北大学の中でも人気があったので、すぐに連絡がきて、合コンとなる。多い時は6時から一軒、8時から二件目と掛け持ちの合コンもしたし、一対一に合コンもした。おそらく6年間の歯学部生活で30回以上の合コンはしたであろう。あとは友人の彼女からの紹介で、これは今でも多いパターンだと思う。多くの場合は、友人のカップルと私と友人の友達の四人で飲む場合が多い。これは成功率が高く、次は電話をして、デートの約束をするのだが、これが緊張する。自宅に電話をすると、どういう訳か、父親が出る場合は多く、誰それさんをお願いしますと言うのは緊張する。電話は居間に置かれていたので、会話状況に家族皆が固唾を飲んで聞いている。電話の線を延ばすだけ延ばして会話するが、それでも「いつま電話していうのか」と叱られる。

 

当時のデートいうと、仙台では映画をみて、駅前のパルコに行って、食事をして、一番町のモーツアルトに寄ってコーヒーを飲む、こんな感じであった。モーツアルトは、ヒゲの店長がカウンター越しにコーヒーを入れてくれ、お客も少なく、居心地の良いところであった。喫茶店は歯学部前にあった「カンカン」という店とモーツアルト以外はほとんど行ったことはない。ほとんどアベックがこのコースなので、知り合いに会う確率が高いのが欠点であった。勾当台公園、八木山動物園、松島もデートのスポットであった。中高が男子校だったので、女性との付き合い方が全くわからず、もともとモテるタイプでもなかったので、デートと言っても、一、二度会うだけで終わり、結局、今の家内と知り合うまでまともな恋愛をしたことはない。モテない男の典型で、それを拾ってくれた家内には感謝する。

 

同級生同士のカップル以外は、他の同級生も意外に奥手で、彼女ができたのは学部3、4年生で、通常の学年で言うと大学5年、6年生の頃が多かった。年齢で言うと2324歳くらいで、女性からすると少し結婚も考える年齢だったせいかもしれない。多くの友人は、そのまま結婚した。当時は女性の場合、25歳までに結婚しなければ、クリスマス翌日のクリスマスケーキと呼ばれた時代で、逆算すると、2223歳頃から付き合った、25歳前に結婚したいと考えていた。今はこのリミットがかなり上昇し、おそらく3233歳くらいに上がっているのだろう。

 

仙台にも、東京でマハラジャのようなディスコが賑わっていた頃、国分町にグリーンハウスというディスコがあって、数度行ったことがあるが、今以上に東京都地方の格差が大きく、ディスコに来る女性は真面目な人が多かった。その後、マハラジャのような店もできたが、結局、行くことはなかった。大学の軽音楽部にも友人が多かったので、部活費稼ぎのダンスパーティーによく手伝いに行ったが、ダンスも踊れないので、もっぱら見学だけだった。また大学近くの喫茶店「カンカン」のオーナがライブハウスを開いたの、ジャズやフォークなどのライブもよく見に行った。金はなかったが、それでも安くて楽しめるところも多く、楽しかった。

 

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