2023年5月25日木曜日

久しぶりにキリムについて


 
今は、こんなに良品を置いているお店はトルコにもイランにもないでしょう


今から25年前、一時、平織りのラグ、キリムに凝ったことがある。「モダンリビング」という雑誌があり、そこにキリムの特集があり、西宮の“アートコア”という店が紹介されていた。家を建てたので、そのインテリアアクセントということで、尼崎に帰省した折に、阪急夙川駅から歩いて、「アートコア」に行った。広いフローリングの部屋に、数多くのキリムが積まれ、それを一つずつ広げて、店主から作られた年代、場所などの説明を受けた。その中から、気に入ったイラン、ルリ族のキリムを買った。その後数年間、二枚のセネ、アフシャールなどのキリムを買ったが、次第に良いキリムがなくなり、値段も高くなってきたので、キリムをやめて絨毯、主としてコーカサスのものに変更した。

 

それ以来、ルリ族のキリムはリビングに、アフシャールのキリムは玄関に、セネの新しいのは娘にやり、古いのは壁に掛けている。20年間で、リビングのキリムはコーヒやジュースをこぼし、専門店でクリーニングしてもらったが、数箇所の破損が出てきた。玄関のキリムは本体の破損はないものの、フリンジが何本か取れている。壁にかけたセネのキリムはコンデションが一番良い。それに比べて絨毯については、ここ10年以上敷きっぱなしであるが、あまりダメージはなく、やはりキリムより絨毯の方がはるかに堅固である。平織りの敷布は、床に敷いて使うとどうしてもダメージがかかり、破れてくるのであろう。そうした点で、絨毯よりキリムの方が状態の良い古いものは残っていないことを意味する。

 

最近、業者がトルコやイランに直接出向いてキリムを購入するYoutubeが放送されていて、そこで何百枚のキリムが紹介されているが、新しいものが多く、キリムの教科書、「Kilim the complete guide」に載るような良いキリムはほとんどない。日本にある絨毯屋のYoutubeを見ても、とにかく古くて良いキリムはほとんどない。唯一、キリムズジャパや青山キリムハウスなど、昔からお店がある店にはコレクションピースとして優れたものがある。ただ値段は高い。おそらく昔収集したものを売っているだけで、今ではイラン、トルコ中を探してもこうした名品はない。アートコアの店長が、いいラグは欧米、イギリス、ドイツ、スイス、アメリカなどで購入すると言っていたが、おそらく1970年代から欧米の絨毯業者が、トルコ、イラン、コーカサスなどを訪れ、片っ端から優品を買い漁り、2000年くらいまでには、あらゆる良品はトルコ、イランからは姿を消したのであろう。もちろん2020年頃に行っても、自然染色の1950年以前のダメージの少ないものは全くないと思う。

 

キリムは靴のまま暮らす家で使われると、すぐに破れてしまうため、欧米に渡ったキリムもかなり消失しているのだろう。さらに残っているわずかな、優れたキリムを、欧米の業者からに日本の業者が仕入れても、それに利益を乗せると、かなり高くなり、売れないというジレンマとなる。2002年の発行された「キリムのある素敵な暮らし」に紹介されている、トルコ、イランの商品を見ても、すでにこうした良品は、現地にもないし、日本で売られていたとしても、これほどの品数を用意できないし、高い。

 


一方、Youtubeに登場するイラン、トルコの業者だけかも知れないが、ラグに関する知識があまりに少なく、せいぜい2030年前のキリムを平気でアンティーク(100年以上前)と紹介するし、産地についても知らない。ことに最近は、織り手の若い人の好みを反映して、人工染料で染めた原色の派手なキリムが多く、元々、欧米で古いキリムがインテリアグッズとなった理由、素朴、経年、色落ち、グラディエーションとは逆の方向にいっている。2000年頃から、もはやまともなキリムはトルコ、イラン現地にはないと言われていたが、2023年現在、それこそ現地に仕入れに言っても、オールドと呼ばれる1960年代のものは少ないし、確実の自然染料で染められた1930-1940年代以前のコンディションの良いものは多分、ほとんどないと思われる。

 

こうしたことから、2000年頃から、古くで良質なキリムの仕入れは難しくなり、時代に合った新作のキリムを企画して、販売するところが増えてきた。また昔のデザインをそのまま真似るコピー商品も多く出回るようになり、全く評価がつけにくくなっている。おそらく家にある1940年代のセネのキリムを近くのリサイクルショップに出しても1000円くらいの引き取りで、5000円くらいの売値になるか、そもそもラグの引き取りはなく、ゴミとして処分されるかもしれない。1998年頃からコーカサス、カラバフ地方で戦争が起こり、多くの避難民がトルコ、イランに逃げてきた。その際に金目のものとして持ってきたのが、古いラグで、この時は世界中の絨毯バイヤーが、これらの商品を狙ってイラン、トルコに集まった。欧米のコレクターにとって優れたキリム、絨毯を得る千載一遇のチャンスと感じたのだろう。案外、1950年ごろに中東に勤務あるいは、生活していた日本の家に古いラグがあり、靴を脱いで生活するため、コンディションのいいラグあるいはキリムが残っているかも知れない。トルコ、イランのお店で探すより、東京のリサイクルショップで探す方は良いラグが見つかるかも知れない。




       2002年の雑誌に載っていたオールドキリムだが、本場にもすでにないでしょう

2023年5月23日火曜日

橋本関雪と土屋嶺雪

 









橋本関雪の名を知る人は少ないと思うが、明治、大正、昭和を代表する日本画家である。早熟の天才、明治16年生まれで、12歳ですでに第4回内国勧業展覧会に出品し、25歳で文部省美術展覧会(文展)に入賞し、その後も3回の特選となってから無鑑査となり、日本画壇の第一人者となった。画風も広く、南画から大津絵、歴史画、花鳥まで、基本は四条派であったが、貪欲であらゆるジャンルの絵に挑戦していった。その画業についてはまとまった本がなかったが、今回、始めて「橋本関雪 ―入神の技・非凡の画」という本が出版され(求龍社、2023)、その全貌を見ることができた。.

 

この本を読むと、橋本関雪は天才だと思う。画家の才能というのは、まず技巧的な技術面での天才性を挙げたい。例えば、浦島太郎を絵にしろと、言われても、我々のようの素人にはまず、絵として描けない。さらに普通の才能のある画家にすれば、なんとか絵にはなると思うがリアルさには欠けるだろう。その点、橋本関雪は完璧な浦島太郎を描けるだろうし、それも短期間で描くであろう。こうした才能は、この本を読むと確信的となる。本当にうまい。

 

私は集めている土屋嶺雪もうまい画家で、この橋本関雪の弟子あるいは友人として知られる。土屋嶺雪は明治14年(1881)に埼玉県川越生まれとされる。橋本関雪より2歳早生まれである。その後、橋本関雪の実家である兵庫県明石市に大正から死ぬまで(1965)まで住んだ。橋本関雪の父親は、明石藩の儒者であったことから、活躍時期も同時代であったことから、橋本と土屋とは面識があったと思う。ただ両者の生き方は全く違う。橋本関雪が多くの賞を得て、最後は昭和9年に帝室技芸員に選ばれ、日本画壇の最高位となったが、土屋嶺雪は一切の展覧会に出展しなかった。

 

おそらく想像であるが、橋本と土屋はどこかで接点があり、橋本関雪の才能に圧倒され、それが土屋嶺雪の進路に影響を与えたのだろうと思う。今でこそ、絵画は技術より表現内容が優先されるようになったが、戦前まで、特に日本画においては、絵の上手さが重要であった。たとえば野球の世界で、ほぼ同級生に大谷翔平がいたらどう思うであろうか。ピッチャーでも打者でも、明らかな違いがわかり、どう頑張って練習しても、追い越せないと悟る。流石に野球をやめないとしても、大リーグどころか、地元の草野球レベルの選手で満足することもあろう。おそらく土屋嶺雪にとって橋本関雪は大谷選手のような存在であったのだろう。こうした場合は、絵画手法を変えたり、主題も橋本関雪も被らないものを選んでも良さそうだが、土屋嶺雪は橋本関雪と同じような山水、花鳥、そして歴史画をメインにしている。意図的に同じような主題を選んでいるようであるが、嶺雪が関雪を超えることはない。写真の橋本関雪の竹、鳥(ハッカ鳥)、雪を描いた絵は、「銀雪呈瑞」は題されている。突然の雪景色は中国では瑞祥の表れと言われ、ハッカ鳥は南国に住む鳥であることから、南国に降った珍しい雪という意図もある。それに比べて土屋嶺雪の絵も上手いことは上手いのだが、ハッカ鳥と木蓮、そしてバラが描かれ、画自体に深みはない。生活のため、売るための絵である。

 

ただ画家がどのように生活しているかといえば、展覧会などで大型な絵を発表する一方、生活のためには、もっと小型、床の間の掛け軸のような小品を売って、生活費としている。展覧会によって名前が有名になれば、大型の作品、4曲、6曲の大型作品にも大金持ちから注文がきて、橋本関雪も裕福になっていったのだろう。一方、通常の画家の場合は、大きな作品はあくまで展覧会用で、売る商品ではない。というのは屏風となると、普通の家では飾れないし、大きな家、美術館、寺などが主な購入先となるからである。

 

同時期の日本画の巨匠としては、菊池契月、西山翠嶂、松林桂月などがいるが、明治12年生まれの契月は人物画、明治9年生まれの桂月は花鳥が得意で、いずれも年上で、同世代となると明治12年生まれの西山翠嶂と少し若いが明治19年生まれの野原櫻州くらいである。力量からすれば翠嶂がライバルであろうが、画力の幅となると西洋絵画の表現力を取り入れた橋本関雪に軍配があがる。

 

いずれに時代も画家として生きていけるのは、才能のある中でもさらに一握りであり、そして後世に名を残すのはさらに少数となる過酷な職業である。大変である。橋本関雪も戦前は、日本代表する画家であったが、今はそれほど認知度が高くない。



2023年5月18日木曜日

もし日本が戦前の軍事国家だったら

 



北朝鮮からのミサイル発射に対して、何ら有効的な対策をしていない政府に不満な人も多い。朝っぱらから、緊急警報、ミサイルが落ちてくるかもしれません、避難してください、これはもはや戦時的な状況で、もしアメリカで同じようなことが頻回にあれば、軍が何らかの対策をするのは間違いない。逆に言えば、日本政府は舐められ、好き勝手にされているのだろう。もし仮定の話であるが、日本が、戦前の日本軍、あるいは現在のアメリカ軍並みの交戦的な国であったら、現状に対してどんな行動をするであろうか。

 

まず前提としては、日本がアメリカの友好国、中国、ロシアに敵対していて、核兵器、戦略ミサイル、原子力潜水艦、空母を保有している。まずウクライナ戦争に関しては、もちろん武器輸出については全く抵抗がないので、戦車や武器の供給は早くからしただろう。さらに手薄になったロシア極東軍を牽制するために、サハリン、国後など北海道北方方面で、大規模な陸海空軍の演習を行い、場合によっては北方領土奪還の素振りを見せるだろう。そうなるとロシア軍もウクライナ戦線に極東軍の兵員を割くことができず、結果的にウクライナの利となる。同様に、ロシア、中国の領海付近に頻回に爆撃機、戦闘機を進出させ、空軍の通弊を狙うだろう。特に中国は沿海部が長いため、空中給油機を使い、あちこちに進出するのも良い。今の自衛隊がロシア、中国からやられていることをそのままお返しするだけである。相手がすれば、こちらも同様なことをするというのは戦前の日本のやり方である。

 

北朝鮮については、まず発射されたミサイルはすべて迎撃して破壊する。その上、これ以上、発射すれば、発射場を破壊すると警告し、無視したなら巡航ミサイルで叩く。日本を核攻撃すると脅すなら、即座に一発でも攻撃するなら100発攻撃して北朝鮮を殲滅すると脅し、実際にそうする。さらには中国を牽制しながら、韓国と共同して、北朝鮮への武力侵攻を図るであろう。

 

中国についても、空母が出航すれば、原潜を張り付かせ、いつでも撃沈するという脅しを加えるとともに、爆撃機、戦闘機を周辺に飛ばし、脅かす。もちろん尖閣諸島については、レーザーサイト、ミサイルで要塞化し、領海を超える中国漁船については武器を使用し、追い出す。南沙諸島についてもフィリッピン、台湾とともに、戦闘機、艦船、原潜にて中国本土と南沙諸島の中国基地との繋がりを分断する。実際に、日本が10隻の正規空母と10隻の攻撃型原潜、10隻の戦略原潜を持っていれば、こうしたことも可能であろう。

 

昭和初期から終戦までの軍費は、国家予算の7から9割で、それを現在に換算すると、110兆円の7から9割で90兆円となる。アメリカの軍事予算が100兆円くらいなので、ほぼ同額となる。ものすごい額であるし、2023年度の日本の国防費が68000億円、アメリカの1/15なので、その凄さがわかる。日本も年間90兆円も使えば、上記のような戦前並みの軍事国家ができるだろう。

 

とまあ過激な妄想を述べたが、逆に言えば、日本の周囲、ロシア、北朝鮮、中国、アメリカはこのやり方であり、彼らの論理に従うなら、こうしたやり方も正当化できる。日本が戦争、あるいはそこまで行かなくても騒乱を体験したのは昭和20年、1945年以来、78年間ない。これは西暦1000年以降の日本の歴史においても、大塩平八郎の乱を騒乱と見做すなら、二つのアイヌ騒乱、シャクシャインの戦い(1669)からクナシリ・メナシの戦い(1789)の120年間に、続く長い平和であることは以前のブログで述べた。敗戦国、ドイツでも1992年のカンボジアを皮切りに、1999年のコソボ紛争では空爆に参加、2001年にはアフガニスタンに1200名の兵を派遣、さらにコンゴ、レバノン、ソマリア、シリアの紛争などに参加している。イタリアも、1982年のレバノン内戦に介入したのを皮切りに、欧州連合の一員として多くの軍事作戦に参加している。ドイツ、イタリア、日本は第二次世界大戦敗戦国であっても、もはや戦争作戦の参加を拒否できず、80年近く続く日本の奇跡的な平和の時代もこれまでなのかもしれない。

 こうした中、世界でも優秀と言われる自衛隊であっても、その主力兵器、国産兵器のほとんどは、一度も戦闘に使われておらず、またトップから末端まで誰一人、それも80年近く戦争経験をしたことがない。組織として、いざ戦争となると、これは大きな問題になる。できれば極秘でもいいのでウクライナ軍の作戦中枢に正式な自衛官を潜り込ませてほしい。近代戦を習う絶好の機会であり、おそらく欧米各国は武器供与の引き換えに、多くの将兵を実践経験させていると思う。備えあれば憂いなし。これは実際の近代戦を習う絶好のチャンスである。余っている74式戦車数十両をウクライナに送れるだろう。それを口実に指導自衛官を送り込む手はある。

2023年5月17日水曜日

古いものが高い


 



23世紀にはこんなことになるようには思えないが


昔と違ってヤフーオークションも、あまりお宝はなくなり、こんなに安く売っているといった掘り出し物はほとんどない。特に陶器や家具、衣服などはどれも高い。これはおそらくメルカリの影響が大きく、ヤフーオークションの出展者はメリカリにも出店することが多く、メルカリでは過去に落札された値段を元にヤフーオークションの売値をつけるため、あまり安値で売ることはなくなった。ただ美術品などは、メルカリよりヤーオークションで買う人が多いので、まだ1円スタートで入札者が少ないときはかなり安く落札できるが、それ以外のものは、ほぼメルカリと同じ値段となる。つまりメルカリである程度の値段で売れるなら、ヤフーオークションで安い値段をつける必要がないからである。

 

そういうこともあり、実際に買うことはないが、物、特に中古品の値段を調べるためにメリカリを見ることは多い。メリカリの特徴としては、比較的高い値段で買う人がいるということだ。たとえば、有名な名作椅子、「Yチェア」について見ると、メルカリでは中古のそれほどコンデションがよくない物でも5から8万円で落札されている。送料込みによる違いがあっても、ヤフーオークションの価格とほぼ同じである。以前であれば、1円スタートで、1万円くらいで落札されていたこともあった。家にある1998年のカタログを見ると、Yチェアの定価は当時63000円であった。20年ほど前に青森ロイヤルホテルが潰れた時にレストランで使っていたYチェアが20脚ほど中古に流れたが、15000円以下で売られていたと思う。10年以上使った中古の家具であれば、定価の1/10くらいであり、他の家具も同じように、中古は新品にくらべて圧倒的に安いのが20年前までの状況であった。ところがここ10年、メルカリが登場すると、中古品の価格は高騰した。今のYチェアの価格は9万円くらいなので、25年前に比べて50%くらい値上がりしているが、それ以上に中古品の値上がりが大きい。

 

これは今の人々は、中古品をそれほど嫌っておらず、値段が安ければ中古でもOK という人が増えたのであろう。こうなると大変なのは、20年ほど前から全国にできたリサイクルショップで、こうした店では、できるだけ安く買って、それを高く売って収益をあげていたが、持ち込み品にあまり安い値段をつけると、お客さんはメリカリに持ち込む。100円で買って、5000円で売り、4900円儲けていたシステムが崩れることになる。そうかといってメルカリで売れる価格4000円で買ったのでは利益が出ないし、逆にそれを6000円で売ろうとしてもメルカリで買うというかもしれない。それでもリサイク関連企業のトレジャーファクトリーの株価を見ると2018年のほぼ5倍になっており、順調な経営状態である。逆にメルカリの株価は昨年に比べて今年は1/3と低迷している。ただこれについては莫大な広告費などで赤字が出ているからで、売上だけ見るとここ5年で5倍ほどになっていて、リサイクル関連企業が大幅な伸びを示している。

 

こうした中古品の高騰は、とりわけロレックスの時計では極端な形で進行している。まず20年ほど前からロレックスのダイバーズウオッチなどスポーツモデルの価格が急上昇し、その後、古いモデルも上がってきた。その後、ここ5年くらいはスポーツモデル以外のものも価格が高騰し、さらに古いモデルも含むあらゆるロレックスが高騰している。こうなるとほぼ投資対象である。こうした流れもあって、時計以外も中古になっても値段が下がらないものを買う傾向があり、高い家具が売れている。

 

この流れは、ある意味、時代の保守性、後退性を示すものかもしれない。かって1970年代、セイコーのクオーツが出たきたとき、その精度に従来の機械式時計はかないっこなく、一時はロレックスも潰れかけた。割引して売っていたこともあるし、永久メインテナンス制度ももうけたりした。人々はより最新で正確なクオーツを選んだ。同様に電化製品など、古いものは性能も遅れているとみなして、誰も買わなかったし、誰が着たかわからない服など買う人はいなかった。より新しく、性能がよく、綺麗で、科学的なものに価値を見出し、古いものは簡単に捨て去った。そしてこれが資本主義的な考えであった。ロレックスのような100年前に技術が完成したものが、年差+10秒のセイコーのクオーツに負けてはいけないのだ。これが負けるようであれば、誰も年差+0.1秒の時計を作ろうと思わない。

 

何となく、そろそろ人間社会も成熟期を迎え、あまり発展のない、遅い社会に突入しているのかもしれない。アポロ11号が月面着陸して54年、当時の未来図であれば、2023年には月面基地どころか、火星にも基地を作っていたはずである。ところが有人の月旅行すらままならず、おそらくあと100年してもカシオの時計に高値がつくのかもしれない。子供の頃は、週刊マガジンなどでよく未来図の特集があったが、そういえば最近は、未来はどうなるといった夢も語られることは少なり、逆に地球温暖化など今より暗い未来図が描かれることが多くなった。

 

2023年5月11日木曜日

北欧陶器 7









相変わらず北欧陶器が好きで、また注文してしまった。家内にはいつも怒られ、二人しか生活していないのに、こんなに食器が多くてどうするのと言われる。最近は、ヤフーオークションもあまり安いものはなく、ショップより少し安いくらいの値段で売っていて魅力はない。大阪人の気質としては、できるだけ安く買って、人に自慢したいというところがあり、どうも定価でものを買う気がしない。

 

スウェーデンのMother Sweedenというサイトがある。ここの商品は安く、何度か利用した。今回、買ったのはスティグ・リンドベルのEvaシリーズの28cmの皿とRed Salixシリーズの17cmボウル4枚セットで、それぞれ1万円、合計で2万円であった。国際書留郵便が3600円で、トータルで23600円であった。かなり大きな箱に厳重に包装され、416日に注文し、ほぼ1ヶ月たった510日に到着した。早速開けてみると、裏面のスタンプも綺麗な状態、ほぼミントのもので大変満足している。これまでこのサイトから3回ほど注文しているが、輸送時間はかかるものの、商品自体は満足いくものであった。

 

ちなみに日本の北欧陶器を扱うサイトを見てみると、Evaシリーズは最安値で7150円、最高値で19800円くらいしており、今回の注文は四枚で1万円だったので、一枚当たり2500円、ほぼ1/4くらいであった。またRed Salixシリーズも最安値は5500円、最高値は16500円で、これもほぼ1/4くらいの値段であった。今回は通常2万円のものが割引でそれぞれ1万円になったので買ったので、かなり安かった。このサイトでは、通常、日本の1/2くらいの値段売っているが、海外からの購入、輸送リスクを考えると、価格差が1/2くらいなら実際に見てから買う方が良いと思う人も多いだろうが、1/4になるとつい買ってしまう。

 

それでも四枚も皿やボウルは我が家には、お客さんが来る時以外は必要ない物である。家内にも怒られるので、いずれ処分しようと思っているが、その際にどれくらいの値段をつけるか空想してしまう。おそらくこうした動きの悪い商品を店舗で売るとなると、原価比は30%以下でなくてはいけないので、今回の場合、輸送費込みで皿、ボウルはそれぞれ一つ2900円くらいとなり、その場合9700円以上の値段をつけたいところである。日本での最安値は7150円と5500円とすると、この場合はそれぞれ2145円、1650円以下で商品を仕入れなくてはいけない。さらにいうとMother Sweedenはそれぞれ1000円以下で仕入れたことになる。

 

このコンデションの良い皿やボウルを、地元スウェーデンとはいえ、1000円程度で仕入れるのは相当難しいと思うのだが、日本の業者も現地で争奪戦をしているのだろう。ということはもし私が皿とボウルを日本の北欧陶器を扱うお店に持ち込めば、1000から1500円くらいの査定になることを意味する。これは大手のリサイクル店でも同様であろう。基本的には、古書店、古着店、中古レコード店も全てできるだけ安く仕入れて高く売る商売なので、売値の少なくとも30%以下(5-30%)の値段であることが前提となるが、こうした現地の北欧陶器を扱う店が直接参入してくると、価格面だけでは日本のお店はかなり厳しい。このmother sweedenは日本人向けにもサイトを作っており、全て日本語で注文できるので、最初見た時は、これで日本のお店はかなりダメになると思ったものだが、実際はそうでもなく、mother sweedenの商品の動きを見てもそれほど利用はされていないようである。東京、大阪などの都会に住む人はそれぞれお気に入りのお店をもち、多少高くてもそうしたお店で購入するのだろう。私のような地方に住んでいると、そうしたお店は周りにほとんどなく、勢いネット購入に頼る。ヤフーオークション、メルカリなどもあるし、E-bayamazon USAからも簡単に購入できるようになり、ある意味、こと値段だけみるとほぼ世界共通価格に向かっており、関税も撤廃傾向で、価格差は輸送費のみとなっている。

 

グスタフスベリの皿、4枚で1万円は私にとってはお買い得だと思っているが、普通の人にすれば、一枚2500円の皿は高いと思うし、まして一枚1万円もすると聞くと、びっくりするだろう。あくまでオタク価格に比べると安いのであって、よく考えればオタクにとっては、物自体に関心があって、価格は二の次であって、お買い得ということはないのかもしれない。今回買ったものも、かなり流通量の多い商品で、オタクからは見向きもされず、一般客からは興味はない中途半端なものなので、半額となったのだろう。いいお店に行って、店主とたわいもないことを話しながら、気に入ったものを買う行為自体が楽しいことであり、幸せなことなのかもしれない。大阪人的な発想で反省。




 


 

2023年5月6日土曜日

日本史における最も平和な時代

 

宮崎にいた頃なので、昭和63年(1987)のことであるが、父の友人二人がフェニックスカントリークラブにゴルフに来て、会食したことがある。その時の一人の先生は、戦争中、ラバウル航空隊にいて、米軍との熾烈な戦いをした経験をもつ。戦後、歯科大学に進学し、親父の歯科医院近くに開業し、年齢も近かったので、酒飲み友だったようである。興味があったので、米軍との空中戦など興味本位で聞いたが、笑ってあまり答えてくれなかった。

 

太平洋戦争が終わったのは昭和20(1945)で、軍隊の主力は将官含めると、当時20歳から50歳くらい、明治28(1895)から昭和元年(1925)生まれの世代となる。昭和63年というと、それぞれ62歳から92歳ということになる。さすがに90歳以降は亡くなっていたとしても、社会にはまだまだ戦争経験者は普通にいた。さらに私が生まれた昭和31(1956)となると、戦争経験者は31歳から61歳と、ほぼ日本社会はこれら戦争経験者で占められていたことになる。うちの親父にしても北支戦線で4年いて、その後も、モスクワ近くの捕虜収容所に2年ほどいた。ラバウル帰りの父の親友だけでなく、多くの日本人は戦争経験者で、悲惨な状況も経験しただろうし、兄弟、友人、知人も多く戦争で亡くなった。

 

戦後、生まれの世代と、戦争経験者との世代間のずれは、こうした経験差であり、戦争、あるいは死を身近に経験した人の覚悟というのは、絶対に我々は真似できない。江戸時代の人と明治時代の人との世代差は、もちろん幕末の混乱、士族社会の解体が横たわっており、明治時代の人と大正時代の人の間には、日露戦争が横たわっている。そして大正時代と昭和時代の人の間には支那事変、太平洋戦争が横たわっている。ところが昭和戦後の人と平成、令和の人の間には、大きな時代的な変化はなく、あまり世代差はない。戦争という人の生き死を問う経験の有無が厳然たる経験差となるが、日本は昭和20年(1945)以来、戦争を経験しておらず、すでに78年経っている。江戸時代は戦争のない平和な時代であったが、大阪の陣が終了したのが、慶長20年(1615)で、次の戦争となると、島原の乱で寛永14年(1637)、武力行使という点では、アイヌの反乱、クナシリ・メナシの戦いが寛政元年(1789)、ここまでほぼ150年、紛争はない。その後、大塩平八郎の乱が天保8年(1837)、長州征討が元治元年(1864)、鳥羽伏見の戦いが慶応4年(1868)となる。アイヌとの戦いから50年、75年となる。令和の日本は、江戸時代前期に次ぐ、長い平和の時代といえよう。400年の日本の歴史でも2番目長い平和な時代であり、島原の乱から80年というと西暦1717年、元禄あたりに相当するが、寛永の大飢饉(1642-43,享保の大飢饉(1773,天明の大飢饉(1782-87,天保の大飢饉(1833-39)などの江戸時代の四大飢饉は全て、この時期であり、さらに1652年の小浜藩領承応元年一揆はじめ29の大規模一揆があり、それほど平和な時期ではなかった。

 

こうした戦争などを経験したことがない世代がほぼ0歳から88歳(終戦時10歳)まで占める社会は、ある意味、精神的には多少の年齢差はあったとしても、断裂と呼ぶような大きな違いはなく、色でいえばグラディエーションのような様相を示している。特に昭和20年以降の世代、78歳以降の世代は、例えば、吉田拓郎は昭和21年、沢田研二は昭和23年、矢沢永吉は昭和24年、ユーミンは昭和29年、桑田佳祐は昭和31年などの歌手は、若い世代からも支持されており、私が子供のころ親父や爺さんが聞いていた、浪曲や民謡などとは扱いが完全に異なる。子供の頃、大人、40歳の人は大変怖く、老けていた。60歳以上になると完全に老人であり、威厳があった。ところが私も含めて今の大人は、誰一人、威厳のある人はおらず、ある意味、15歳の若者も70歳の老人も精神年齢はそれほど変わらないような気がする。自分自身も15歳くらいの頃は、還暦60歳になるとあんなに威厳のある人物になるのだろうと漠然と思っていたが、いざその歳になると、あまりの進歩のなさに期待薄、裏切られた気がした。この気持ちは戦後生まれのほとんど人が感じるもので、小津安二郎の映画に出てくるような人物は、全て戦争経験者で、そうした経験のない世代には、こうした大人らしさはない。小津の名作、「麦秋」の笠智衆が演じる医師の役年齢は38歳だが、今の38歳といえば、松山ケンイチなどの世代であり、ああした落ち着きはない。

 

戦後も阪神大震災、東日本大震災、新型コロナウイルスなどの大きな災害があったにしろ、今の我々は日本の歴史史上でも、大変平和な時代に暮らしているのを感謝しなくてはいけない。

2023年5月4日木曜日

E-bikeを乗ってみて

 

こうした自転車専用レーンが欲しい








最近は、天気が良い休みの日であれば、1時間くらいは自転車に乗っている。1994年に鹿児島から弘前に来たが、雪道運転が怖かったので、そのまま車に買わずにいた。特に不便も感じなかったが、大学生の頃に夢中であった自転車に乗りたいと思い、近所のタケウチ自転車店に行って買ったのが、イタリアのレニャーノというメーカーのスポルティフと呼ばれる軽量の自転車であった。ロードバイクほどではないが、重量は11kg代で軽く、タイヤ幅も28と狭く、気に入ってしばらくは乗っていた。ところが弘前の場合は、冬になると雪が積もり、自転車に乗るシーズンも4月頃から11月頃に限定され、次第に乗る時間も減っていった。原因の一つに、何となく気軽に乗れない点があった。サドルも高く、ドロップハンドルで、乗る場合は、それなりに気持ちがないといけない、手軽に乗れない感じがあった。さらにいうと軽くてスピードが出るのはいいが、側溝や段差が怖い。また長距離の走行は結構体力が必要である。そこで2000年頃に買ったのがドイツのBD-1という折りたたみ車である。小型で扱いやすく、その割にはスピードが出て気に入っていたが、車輪口径が小さく、坂が苦手である。弘前という街は平坦に見えて、大小の起伏のあるところで、小さな坂でも歳をとると結構きつい。そんなこともあり、10年くらいは、主としてBD-1、時折レニャーノの乗るという生活をしていたが、ここ5年ほどはほとんど自転車には乗らなくなった。一番大きな理由な面倒という点に尽きる。とにかく自転車に乗るのがしんどい。むしろ歩くほうが楽な気がする。

 そうこうしているうちに、欧米でE-bikeの流行しているのを知った。E-bikeといえば、ヤマハに代表される電動アシスト車をイメージし、あまり興味はなかったが、欧米発のe-bikeはどれもかっこよく、これからのエコブームの代表のように思えた。その頃からE-bikeが欲しくなり、毎年、新しく出るE-bikeをチェックしていたが、値段が高いのと、年々新しいE-bikeが出るため、しばらく様子だけを見ていた。そして今年の3月に思い切って購入した。

 とにかくこれまでの自転車とは異次元の感覚で、どこまでも走れる感じがする。年齢はとったが、アシストしてくれるので2030歳くらいに若返った気がする。Giant のエスケープの電動バイクを買ったが、電動アシストモードが、エコ、ツアー、アクティブ、スポーツの4種類で、これとリアの変速機9段を組み合わせて使用している。漕ぎ出しは、急に発進するので慣れるまでは少し怖いがこれ以外は、自然なアシストでそれほど抵抗なく使える。多少の坂であれば、ほとんど何の問題もなく漕げるが、少し勾配はきついとまずギアを軽いのにする、それでもダメな場合はモードを変更する。普段は、ツアーモードで十分であるが、きつい坂の場合は、アクティブあるいはスポーツにする、このモードで登れない坂はなかろうと思い、先日、弘前市の新町坂に挑戦した。城西からここまでの道も少し坂道であったが、全く問題なく、新町坂についても、ほとんど抵抗なく動けたが、最後に3、4mは最高モードのスポーツでも上りきれなかった。すごい坂である。全くペダルを押すことができない。

本当は、自転車は車道を走るようになっているが、車の通行量の多いところは怖くて、歩道を走ることが多い。タイヤ径も38というマウンテンバイク並みの太いものを履いているので、さすがに軽快とはいけないが、歩道のような凸凹をしたところを走るには安定している。また重量も20kgを超え、降りて車体を持ち上げて方向転換する場合はかなり重いが、それでも通常の走行時には重さは感じない。おそらくリアキャリアにバッグや荷物をつけてもそれほど重さは感じないであろう。ただフラットハンドルの幅が長く、個人的にはドロップハンドルのほうが運行は安定している気がする。手放し走行はできそうにない。

 

弘前の道を走っていると、道幅が広く、十分な自転車用のスペースがあるところと、かなり狭いところがあるし、車の通行の多いところと、少ないところ、歩道についても人通りの多いところと誰もいないところなどがある。安全に走行するために、できれば自動車道の横に幅1mくらいの自転車レーンをつけてほしい。

2023年5月3日水曜日

いいお店とは


 


ここ10年、レストラン、美容院、医院、歯科医院はグーグルや食べログなどの口コミサイトで評価され、その点数に従って選択する人がいるが、一方、こうした評価は、かなり恣意的であり、これを参考に選択すべきでないといった声も高い。

 

私の考える、いいお店の条件として次の三点を挙げる。

 

1.創業が古い

2.お客が多い

3.宣伝が少ない

 

レストランなどの飲食業では、開業して3年以内に半分のお店が潰れるという。逆に言えば少なくとも5年以上、店を続けていることは、それなりの固定客、リピーターがいることを意味する。今時はいくら安くても、まずいお店は淘汰されるため、歴史があるお店はそれだけ、長い期間、お客から支持されていることを意味する。例えば、弘前を代表する老舗の蕎麦屋、「高砂」は創業100年以上経つが、いまだにお客は多い。ただGoogleの口コミを見てみると、まずい、待たされるなど1、2点をつける人がいるが、これは個人の意見であり、仕方ないが、それでもこうした口コミを書く人は県外からの観光客で、東京の蕎麦屋と比較して通ぶったコメントをしている。自分の舌に合わなければ、もう二度と行かなければいいだけなのに、口コミに1点つけて、まずいは、ここのお店を長年、愛している地元の客を馬鹿にしていることになる。

 

「オモウマい店」というテレビ番組が好きでよく見ている。やはり共通しているのは、歴史が長く、店は汚いかもしれないが、お客は多い。流石に私のような年寄りには、どの店も料理の量が多くて、行く気にはならないが、それでも若い人にとっては、安くて、ボリュームもあり、美味しいとなれば、人気店になろう。ただテレビに取り上げられ、お客が多くなりすぎるのも困ったもので、取材拒否をする店も番組の人気とともに多くなるだろう。もちろんこうした店はほとんど自分からは宣伝しない。月に一度は食べないと気がすまない店があるが、こうしたところは美味しいことは美味しいのだが、それほど感動するほどのものでもなく、極めて普通の味である。普通の味だからこそ飽きられずに、多くの常連を抱えることになる。家庭料理が飽きないと同じように、長く続くお店はこうした安心感があるので、リピーターとなる。

 

同様なことは、医院や歯科医院でも当てはまり、長年、多くの患者が来るところは、何らかの魅力がある、いいところなのであろう。もちろん飲食店と医院の評価を同じにするのはおかしいことであるが、医院の口コミサイトでも、患者から最低な歯科医院で、こんなところに来るなといった辛辣なコメントがある。もちろん、本当なら患者は来ないし、空いているはずであるが、実際は全く逆で予約も取れないという医院がある。そんなにひどい医院であれば、誰も行かないと思うが、おかしな話である。こうした歯科医院や医院で、患者が多いところは、宣伝はほとんどしない。宣伝する必要がないし、そもそも医療は宣伝して患者に来てもらうところでないと考えているのだろう。私の知っている多くの矯正歯科医院も、かなり多くの患者が来ているが、ネット上ではほとんど宣伝していないし、医院によってはホームページすら開設していない。逆に言えば、宣伝が派手で、広範囲にしているところは患者が少ない、あるいはより多くの集患を目指したものである。さらにいうと、一般歯科医向けに矯正歯科の講習会などを頻繁に開催している先生がいるが、患者が多くて忙しすぎる先生は、とてもじゃないが、講習会を開く暇はない。

 

最初にいいお店の条件として、1、創業が古い、2。お客が多い、3、宣伝が少ないとしたが、これの逆、1。創業が新しい、2。お客が少ない、3。宣伝が多いとなるが、これは新しく開店すれば、仕方がないことである。「バナナマンのせっかくグルメ」という番組がある。バナナマンの日村さんが全国各地を車で回り、地元の人に美味しいお店を紹介してもらう番組である。こうしたお店は、ほとんどいいお店の条件をパスしていて、おそらくまずいところは一つもなかろう。今の人は観光地に行っても、ついスマホで店を探そうとするが、そんなものを信じるくらいなら、歩いている人に尋ねたほうがよほど美味しいお店に辿りつける。