2011年6月30日木曜日

明治二年絵図、寄贈しました。


 本日、弘前市立図書館に「明治二年弘前絵図」と「弘前藩領絵図」の2点を寄贈してきました。ようやく肩の荷がおりました。あいにくの曇り空でしたが、車がないため、雨が降らない前にと思い、急いで図書館を訪れたところ、ちょうど図書館長もいましたので、地図についての説明をし、寄贈いたしました。大変喜ばれ、こちらもうれしく思います。今後、研究者に活用いただければ幸いです。

 実は、今回の訪問の前に、弘前大学のある先生にも連絡し、もしよろしければ、一度みていただき、そのまま研究室に運び、研究が終了してから、図書館に寄贈する旨のメールを差し上げました。図書館に寄贈すると、なかなか借出して、研究するのが難しいことと、きちんとした専門家の研究も必要と思ったからです。ところが、返事はこれらの地図は他にもあり、それほどめずらしいものではなく、特に研究に値するものではないという冷たい返事でした。明治四年士族引越之際地図あるいは津軽国絵図を指したものですが、例えそうであろうと、研究者なら一度は見てみて、それで判断するものだと思います。ましては、明治二年弘前絵図は明治四年士族引越之際地図の原本であると思いますので、コピーを見たからその原本は見る必要がないということで、これは研究者としてはあるまじき行為と思われます。弘前大学医学部の松木名誉教授は、渋江抽斎はじめ、弘前の幅広い人物を研究、著書にしていますが、本職の医学部の教授という忙しい身でありながら、ある人物を調査しようと例えば沼津の子孫のもとを訪れたりしています。弘前大学から私の自宅まで車で10分もかからないでしょうが、それも時間がないようです。

 医学部も含めた理科系の学問は、ほとんど追試と言ってもよいでしょう。ある仮説を証明するためには、多くの追試を行い、ようやくそれが事実として認知されていきます。特に医学の臨床系の研究では、人間を相手にするため、多くの研究は統計的な処理を行い、結論を出していきます。その傾向が1%の有意の相関をもつ、二群間には0.1%の有意差があるという具合に。当然、そういた傾向がある、そういった差がある可能性があるというだけで、被験者の数を増やしたり、別の集団で行って、初めて少しずつ事実として認められていきます。一方、文科系、とくに歴史においては、もともと事実というものが、あってないようなもので、新しい知見、新しい解釈などが研究となります。そのため新資料の発見といったことが脚光を浴び、この地図も私が本にする前では興味があったかもしれませんが、本として公開された後は興味がなくなったのかもしれません。あくまで私が以前から興味をもっていた弘前の偉人の生誕地を調べただけの話ですので、地図そのものの専門的な研究はまだまだあると思います。幸い、弘前大学の他の研究者から違った観点からこの地図に興味があるとのメールもありましたので、いくらでも資料を使い研究してほしいものです。

 それにしてもようやく責任を果たした気がします。今のところ、友人、知人、各地図書館への寄贈が約100冊、HPでの注文が10冊、紀伊国屋での販売が約20冊くらいです。皆様より色々なお便りいただき、本当にこの1年間は楽しませてもらいました。今後は本業に戻り、矯正歯科の研究にもまた着手したい気持ちでいます。

2011年6月26日日曜日

武士の顔





 「幕末維新の暗号」(加治将一著、祥伝社文庫)を読んだ。内容は有名なフルベッキ写真の謎を迫ったもので、西郷隆盛、勝海舟はじめ明治の有名人の多くが写されているという代物である。

 内容は、ややこじつけめいており、実在の人物とフルベッキ写真を比較し、その多くの写真が本物だとしていているが、骨格、特に下あごの形が違っており、私には納得しにくい。

 ただ上下のあごの形態を常日頃観察している矯正歯科医の立場からすれば、専門用語で言うと、Skeletal Class II, high angle case, Dolico Facialというタイプが非常に多いのにびっくりした。このタイプは下あごが上あごより小さく、後ろに回転しているもので、かみ合せとしては多くは上顎前突(出っ歯)を示すが、その他には叢生(でこぼこ)や反対咬合(受け口)の形を示すこともある。

 上あごに比べて下あごが小さく、後方に回転しているため、口はいつも開いていて、閉じにくい。そのため無理に口を閉じようとすると、上唇は下にもってこれないので、下唇を上に持ち上げて、閉めることになる。オトガイ部にあるオトガイ筋は緊張するため、うめぼしのようなしわがここによることになる。

 こういった人物をフルベッキ写真上で探すと、半数近い人物にその傾向がある。現代日本人にもこのような骨格の人は比較的多いが、それでもこれだけ高い割合を占めることはない。せいぜい数パーセントの割合であろう。昔、欧米人から見た日本人のイメージといえば、出っ歯にメガネと言われていたが、今ではそういったイメージで捉えられることは少なくなった。下あごが発達し、オトガイが突出している白人から見れば、明治期の日本人は醜いものであったのであろう。

 鹿児島大学にいた時の、教室の主要研究テーマは食物の軟化傾向による下顎骨の発達不全で、柔らかいものばかり食べる現代人は昔の日本人より下あごの成長が悪く、そのためでこぼこが多いというものであった。この考えからすれば、明治期のこの群像写真の例は説明できない。明治初期の日本人の食物は現在よりよほど硬い物を食べていたであろうし、人口乳(哺乳瓶哺乳)がなかった当時で、それが下あごの発育不全を招いたとも言えない。単純に写真の撮られた佐賀にこういったタイプのひとが多くいたとも言えるし、また撮影時間が長かったため緊張のあまり、顔にぐっと力を入れすぎたためかもしれない。

 人類学的な見地からすれば、北九州は縄文顔より弥生顔の多い土地であり、そのため一重まぶた、下あごのきゃしゃなタイプが多かったせいかもしれない。さらに下あごの後方回転をおこす原因として姿勢の問題がある。猫背であごを前に出すタイプ、前方頭位では下あごが後方回転しやすい。それでは昔は今よる姿勢が悪かったというと決してそういうことはなく、畳に長時間座っていることが武士階級では当然であった。ソファーでごろごろ横になっていたわけではない。

 「正座と日本人」(丁 宗鐵著、講談社)や「日本人の座り方」(矢田部英正著、集英社新書)を見ると、今のような背を伸ばす正座は明治以降のもので、それまでは立て膝や胡座など色々な座り方があり、正座においても長時間座るため、背を丸め、足がべたっとなった座り方をしていた。背筋を延ばした状態では長時間座ることは相当な背筋力を必要としたため、少し背を丸め、バランスをとるため顎を上に持ち上げる方が楽であったのであろう。武士では畳に横になることは無作法なためできるだけ楽で長時間座れる姿勢、足をべたっと床にたたみ、背をまげ、あごを前にでる座り方が通常な姿勢であったのであろう。立て膝、胡座でも同様、バランスをとるためあごを少し出す必要がある。武士の座っているところの写真を見ると、多くの場合、時代劇で見るような背を延ばした正座ではなく、少し背を丸め、頭を前に出して、あごを前に出している。同様に歩き方、走り方もいわゆる「ナンパ走り」というやり方、膝、背を少し曲げて歩く。

 こういった江戸時代の武士の姿勢からは、起きている時間の多くは、背をまげ、頭を前に突き出し、下あごを前に出す姿勢、前方頭位が一般的であり、それが下あごの後方回転を招いたとの仮説が考えられる。明治以降の背をのばした正座の普及、さらに戦後の椅子生活が、オトガイが前に出た白人顔を作った可能性もある。もう少し考えてみたい。

2011年6月21日火曜日

山田兄弟37



本日は、新寺町貞昌寺の山田兄弟の石碑の前で青森放送のロケを行った。北日本で放送される「ナツ得テレビ」のロケで、夏休みの岩手、秋田、青森のお勧めスポットを案内する番組である。その中で、弘前の観光名所として貞昌寺の山田兄弟の碑が取り上げられた。事前の打ち合わせも全くなく、いきなりアシスタントが碑の前で質問をし、それに答える方式であったが、用意していた原稿内容はほとんど頭から消え失せ、何をしゃべったか記憶にない。変なこと、間違いをしゃべってないか非常に気になる。編集して20秒くらいの出番だから、あっという間に終わるだろう。7月2日1時からの放送のようだが、ちょうど仕事中なので見ないことにする。

 山田良政は、明治33年9月(1900)の恵州蜂起にて処刑された。享年33歳であった。辛亥革命後の大正2年(1913年)に、孫文は準国賓として来日し、東京谷中(やなか)の全生庵に「山田良政之碑」を建設し、追悼した。この時、良政の両親、浩蔵ときせ、良政未亡人の敏子は上京して孫文と会見した。この際、敏子の通訳で浩蔵と孫文の会話がなされ、孫文は英語で「良政さんが中国革命のために、外国人として初の犠牲者となって下さったことを中国国民を代表してお礼申し上げます」と述べた。また浩蔵のためには「吾が父の若し」の書を送った。その後、大正5年には戴天仇(さい てんきゅう、戴季陶)が山田良政の父浩蔵の病気見舞いのためにわざわざ弘前に来た。さらに大正7年9月には、山田純三郎が良政の死んだ場所を訪れ、一塊の土を持ち帰り、山田家菩提寺の貞昌寺にて良政の葬儀が行われた。山田一族が会同し、廖 仲愷(りょう ちゅうがい、廖 承志の父 りょう しょうし)が孫文代理で出席し、それを見届けるように11月には父親の山田浩蔵は病死した。

こういった孫文の山田家に対する細やかな気配りは、日本から革命への支援を引き出すねらいもあったが、孫文、中国人の義理深さを感じさせる。同時に山田良政の死を本当に惜しんだと思われる。

さらに大正8年(1919年)10月に、幕僚の陳 中孚(ちん ちゅうふ)と宮崎滔天が代表として派遣され、弘前の山田家の菩提寺の貞昌寺に碑を建てた。題字の「山田良政先生之碑」は犬養毅(いぬかい つよし 昭和7年 5・15事件で暗殺された総理大臣)、撰文は孫文である。孫文自筆の山田良政先生墓碑は、現在、愛知大学東亜同文書院大学記念センターにあり、センターの資料のうちでも最も貴重なもののひとつである。この書と貞昌寺の碑を比べると、まず「山田良政先生」が「山田良政君」に変わっており、さらに書体もよくは似ているが、同じではない。そういうことでこの碑文自体は孫文が書いたが、字そのものは孫文のものではないと言ってもよかろう。ただ孫文自身が自ら追悼文、さらに墓碑まで書いているのは事実であり、この碑自体も孫文在命時のものであるから、孫文が作った碑ということは確実に言える。孫文のこれだけ長文の個人に対する碑は、中国においても少なく、貴重なものである。それにしても、これまで長い間大切に保存していただいた貞昌寺さんには感謝したい。


東京谷中での追悼式では、孫文は山田良政を悼む追悼を行っている。その原稿は残っているが、最後の文章は「更に祝を為して曰く。願わくば斯の人の中国人民の自由平等の為に奮闘せし精神は、なお東(日本)に於て嗣ぐもの有らんことを」となっている。

少なくとの、弟の純三郎は「中国人民の自由平等の為に奮闘せし精神」を引き継いだ。辛亥革命100周年の年に改めて、この言葉の意味を考えたい。

PS: 「明治二年弘前絵図」は弘前土手町の紀伊国屋書店でも販売しています。

2011年6月15日水曜日

「明治2年弘前絵図」発刊



 ようやく「明治2年弘前絵図」の本が印刷されてきました。現物を見るとうれしいものですが、わずか90ページくらいのあまりに薄い小冊で、お恥ずかしい次第です。もう少し時間をかければ、より正確なものに仕上がったかもしれませんが、こういったものは勢いがないと、なかなか出版もできませんので、えいやという雰囲気で出版してしまいました。怖くて読む気もおこりません。多分、読者の多くから訂正のおしかりを受けると思いますが、素人のしたこととしてお許しいただきたいと思います(家内がちょうと読んで、すでに間違いを発見。前川国男を前田国男と間違い。テープを貼って直すと思うと憂鬱です。インターネットでご購入の方は修正なしでお送りしますので、自分で訂正してください。)。

 ただメインは付録のCDで、これはめずらしいものと思いますし、こういった形でデジタル化することで自由に拡大、回転もでき、検索するには非常に便利です。データは生データをJ-pegで圧縮し、できるだけ容量は小さくしたつもりですが、それでも40Mくらいあり(生データーは1.4G)、古いコンピューターでは重くて時間がかかるようです。私の持っているアップルのMac-bookProではトラックパッドが便利で、片手で自由に拡大、回転、移動ができるため、誰かの家を地図上で探すとなると実際の地図そのもので探すよりはるかに便利です。Windowのvistaでは問題ないと確認しましたが、機種によっては見られない可能性もあり、もしそういった不具合がありましたら、ご勘弁いただくようお願いします。たぶん重いですが、大丈夫だと思います。

 300部印刷しましたが、結構贈呈する人も多く,また手持ちにもある程度置いておく必要もあり、100部くらいが市販できると思います。一冊1500円で販売します。メールあるいはファックス、ハガキで連絡先、お名前をお知らせいただければ、発送いたします。現金書留か全国共通図書券でも結構です。本の到着後にお送りください。なお弘前在住の方であれば、直接診療所にきていただければ、その場でお渡しします。100部なくなり次第、終了としますが、おそらくそれほど売れないと思いますので、弘前市内の紀伊国屋書店でも受託販売できるか、検討してみます。まずはインターネット上での注文を優先いたします。

 これまで専門の歯科関係のものは、雑誌や本に掲載されたことがありますが、こういった門外漢のものについては全く初めての経験で、変な緊張感があります。今時、電子出版という方法もありますが、やはりこういった現物として本にすることに意味があるように思えます。ただ記録媒体として、CDの寿命は約10年、西洋紙の寿命は100年と言われ、この小冊もそういった意味ではあっという間に使い物にならなくなってしまうようです。それに引き換え、和紙の寿命は1000年と言われ、この明治2年弘前絵図も大切に保存できれば1000年の寿命はあるようです。

 一応、ひとまずケリがつきましたので、弘前大学に現物はお貸し、専門家の研究、調査を行っていただき、その後博物館なり図書館に寄贈するつもりです。何の因果が私のところにきた古地図が、こういった形であれ、本となった点については、満足しており、義務を果たした気がします。それでも本の巻末にも書きましたが、日本近代演劇の父、小山内薫の父小山内建(玄洋)、考現学の創始者今和次郎の父今成男の家は最後まで発見できませんでした。また弘前城北の丸の作業所の説明文「苫縄、簾垂、能?尾、網藁諸品入所」の3つ目の字が解読できません。紀伊国屋書店の漢和辞典を立ち読みしたり、中世史の専門家の意見も聞いてみましたが、いわゆる崩し字ではなく、作者特有のくせ字のように思えます。もし読者の中でわかる人がいればお教え願いたい。おそらく植物加工品の一種と思われますが、ついにわからないまま残りました。

 PS:前回、大久保堰について書きましたが、「津軽つがる・おべさま年表」を見ると、すでに寛永、慶安の弘前初期の町割略図でも大久保堰は、田町最勝院裏から今とほぼ同じルートを通って、岩木川に繋がっているようです。寛永、慶安というと1624-1650年ころですから、今から360年以上前からすでに大久保堰があったということです。当時、岩木川は紺屋町付近で二手に分かれ、一方は西堀付近を通っていたようで、その後、一方の岩木川はせき止められ、西堀となっていったようです。田町から紺屋町までの大久保堰は360年以上の歴史をもつ、相当古い堰であったことがわかります。これは驚きです。

2011年6月13日月曜日

大久保堰と釜萢堰





 昔の農民にとって何より大事なのものは、水であり、それを運ぶ水路であった。なにせ水がなければ、米も野菜も何もできないため、江戸時代、水を巡る争いが各地で起こったほどである。

 明治2年弘前絵図を見ると、当時弘前には大きな水路として大久保堰と釜萢(かまやち)堰があった。大久保堰は田町の市営住宅下からおそらくは今の八幡町、青山あたりの田畑に水を運んだのであろう。熊野奥照神社の鳥居のところから西に曲がり、禰宜町、小人町を進み、若党町の向こう側から2手に別れ、一方は南に折れ、西堀に注ぎ、もう一方はそのまま直行すると思いきや、岩木河に沿って西南に進み、平岡町の保食神社あたりで岩木川にそそぐ。

 一方、釜萢堰は、土淵川から北横町、植田町、代官町、土手町、品川町を通り、富田の農地を耕したようだ。町の中を縦横に水路が走っている。

 現在では、釜萢堰は大きな道になっていたりしてほとんどが埋められてしまっているが、大久保堰は比較的残っているので、昨日、熊野奥照神社から歩いて観察してきた。堰に沿って歩くことができないため、道(橋)からしか見れないので、道を行ったり、来たりして結構疲れた。

 多くのところは周囲をコンクリートで固められているが、若党町あたりは一部、石積みのきれいな水路が保存され、雨が降ったせいか、水量もあり、美しい風景である。ことに仲町公園の裏は唯一、水路に沿って歩くことができ、往時の堰の様子がわかる。ここで野菜などを洗ったり、夏は子供が水遊びをしたのであろう。大部分の水路は全く道のない家と家の境界部を走っているため、見ることはできない。若党町のむこう明の星幼稚園の手前あたりに、どうも赤い水門があり、ここからほとんどの水は西堀に続いているというか、西堀から大部分の水がこの水路を流れている。紺屋町から先は水がなく、ただのコンクリートの大きなどぶのようなものとなっている。次第に、痕跡らしいものとなり平岡町の保食神社(淡嶋神社)の手前で切れてしまっている。

 こういった水路は、今では地元もひともほとんど知らないものになってきたが、江戸時代は農民にとって欠くことのできないものであり、ほとんどのひとはよく知っていたのであろうが、農地もなくなり、水路自体の価値も次第になくなったため、今のようになったのであろう。それでも未だに一部にしろ、残っているのはありがたい。今後とも周囲をコンクリートにはしないで今の石積みの状態で保存してほしいものである。壊すのは簡単であるが、再現するのは至難の技である。

 写真2枚目は仲町公園裏の部分、3枚目は紺屋町の分岐部をお城側から見たもので、拡大すれば奥に水門のようなものが見える。4枚目は和田町辺りでほとんど風情はない。

2011年6月10日金曜日

弘前観光へのアイデア

 本日、山田兄弟の記事が地元の東奥日報に載りました。思った以上に大きな紙面を割いていただき感謝しています。ただ山田純三郎の写真は別人のものが載っていましたので、担当の記者に連絡し、明日の新聞には訂正が載ると思います。こういった形であれ、辛亥革命100周年の年に記事が載ったことはそれだけでも意義があったと思います。同時に折角のチャンスですから、今後の中国、台湾との友好関係のきっかけになれば、さらにうれしく思います。

 三村県知事、葛西市長と続いて、台湾の大使館にあたる台北駐日経済文化代表処を訪れ、りんごの原発風評の件に関して代表と協議したようですが、早速その成果が実り、青森県が退避勧告地域から解除され、今後の観光客の回復が期待できそうです。その際も山田兄弟に関する話にも触れられたと思います。両国を結ぶ共通の話題があることは、こういった会談をする上でも有効に作用することでしょう。

 台湾、中国から莫大な義援金をいただいています。これはいつか恩返ししなければいけませんが、その端緒として青森産りんごをきちんと放射能測定をし、安全を保証し、格安、無料で輸出してはどうであろうか。台湾、中国では青森産りんごはおいしく人気がありますが、値段は非常に高く、庶民にはなかなか買えないものです。それを格安で販売することは、ブランド戦略からはマイナスとなるかもしれないが、恩返しという点からはやってみる価値はあると思います。おいしい青森産リンゴを広めるきっかけにもなりますし、認知度を高めることにも繋がります。

 みなさんは、あまり見たことはないと思いますが、弘前観光コンベンション協会で作っているDVD「弘前感交劇場」はよく出来た観光案内となっています。春から夏、秋から冬へと弘前の魅了をコンパクトにまとめたもので、製作には金を結構かかっていますが、あまり使われていないようです。雪、城、桜、温泉、祭りと台湾、中国からの観光客からも十分に魅力的なものが詰まっています。少なくともyou-tubeくらいに流し、世界中の人々が見れるようにしてほしいと思います。中国語と英語で解説するには、留学生や在住の中国人に協力を頼めばそれほど費用はかかりません。立派なものを作ってもそれをうまく活用しなければ意味はありません。

 弘前観光ボランティアガイドでは、種々のコースを少人数観光客にきめ細かく案内していますが、今度市販されそうな「新弘前人物志」や、さきの「弘前感交劇場」DVDを観光客におみやげで渡したり、私の明治2年弘前絵図などをI-Padに入力しており、それを使って昔の弘前と現在の場所を比較説明することも、いいのではないでしょうか。さらに主立った観光地には案内板を設置してほしいものです。今時はQRコード利用すれば、音声、動画も見ることができます。さらにいつも思うのですが、ホテルや旅行会社はねぷたの観光客参加を積極的に進めているのでしょうか。弘前のねぷたは地区ごとで参加しており、ホテルや旅行会社に勤めている社員も地元のねぷたはあるはずです。県外から来た観光客の参加をいやがる団体はほとんどないと思います。ゆかたと草履を貸し出し、指定の集合場所に案内し、実際にねぷた運行に参加し、小屋での慰労会に参加すれば、本当に感激すると思いますし、そういった機会に地元の人と知り合いになることは思い出になります。見学をいいのですが、是非参加すればまた違った体験になると思います。

 昔、高校生の時に夏休みが終わった9月の始めに奄美大島にひとりで旅行に行きましたが、ちょうど盆踊りをしていました。さすが奄美大島と思ったのは、歌が全く違い、踊りも違います。飛び入り参加し、地元のひとと三沢あけみの「島のブルース」を歌い、踊ったことは今でもくっきりと記憶に残っています。祭りは見るものではなく、参加してこそ、その楽しみが実感できます。

 動画は奄美大島の8月踊りです。私が行った40年前はもっと素朴で、普通の広場でやっていたと思います。

2011年6月9日木曜日

震災後の歯科医院の復興



 今回の大震災で、一番印象的なことは、日米の危機管理能力の違いである。阪神大震災の経験があったとはいえ、これほど大規模な自衛隊の災害派遣は過去になかった。震災から3か月過ぎたが、未だに多くの自衛隊員が現地に滞在して、活動しており、頭が下がる。それでも仙台空港の開通のためのアメリカ軍の作戦は、まず落下傘部隊が器材と人員を投入し、最小限の滑走路の整備を行い、その後輸送機でさらに大量の人員と器材を運び上げ、極めて短期間に空港を使用できるようにした。そしてここを災害の活動拠点にした。これは戦争時の空港制圧に準じる作戦であり、なかなか自衛隊にはできないことであった。また空母や強襲揚陸艦の投入は被災地への物資の補給に非常に役立った。

 こういった非常時での活動は何も米軍だけでなく、歯科医療活動でも同様である。アメリカ歯科医師会や歯科大学でも携帯用歯科ユニットやチェアーを用意し、南米、アフリカなど世界各国でボランティアの歯科診療を行っているし、アメリカ国内でも歯科治療を受けられない貧しい患者さんに大型の歯科診療バスを派遣して治療を行っている。

 私自身が感心するのは、まず器材の違いである。今回の大震災では岩手医大、東北大学はじめ、各県の歯科医師会が医療チームを派遣し、被災地での緊急処置を行って来た。その際、持参したものは主として在宅医療用のユニット、器材が中心となる。これらの機械は先生と衛生士が在宅患者の家を訪問し、そこで義歯の修理や抜歯などを行うためのもので、多数の患者を集めて治療するようにはできていない。またチェアも既存のものを使用するため、頭が固定できず、また立位での診療となる。今の先生はほぼ 100%座って治療しているため、こういった状況では治療が非常に難しい。簡単な処置しかできないのが現状であろう。

 それに対してアメリカの出張診療の写真をみると、確かに重い診療ユニットやチェアーはバスなどで診療しない限りは使用できないが、折りたたみ式の歯科ユニットも水平診療ができるようになっているし、診療ユニットも連続的な使用が可能なものになっており、かなりの範囲の治療が可能である。訪問診療用の歯科器材と災害用のものは多少違うように思えるし、そういった点からすれば、システム、器材ともアメリカの方が優れている。今回の震災を契機にアメリカのシステムを勉強した方がよい。

 すでにこのブログで何度も紹介したアメリカ、オレゴンのA-decという会社のポータブル歯科ユニットとチェアーは、すでに30年以上生産され、アメリカ軍野戦病院の主要パーツとして多くの場所で使われてきた(自衛隊にも供給されている)。最も優れている点は、すべての機械が空気圧のみで動く点であり、小型の発電機とコンプレッサーがあれば、どんな場所でもすぐに使える。水の供給はボトルから供給されるし、唾液などの排出物も別のボトルに蓄えられる。構造が簡単で、部品を容易に揃えることができるため、過酷な状況下でも使用が可能である。ただし非常に重い。

 このa-decの会長さんは、オレゴンのNewbergロータリークラブのメンバーでもあり、このロータリークラブでは無償でボランティア活動をしている歯科医師の団体に対して、これらの歯科ユニットとチェアーを採算度外視した価格で販売し、それらの活動を支援している。今では歯科用タービンメーカであるオーストリアのW&Hという歯科医なら誰でも知っている会社もメンバーとなり、Rota-Dentという組織を作り活動している(http://rota-dent.org/)。その価格はPac-1という持ち運び可能なユニットが1850ドル、歯科用チェアーが1200ドル、タービンが130ドル、エアーモータが200ドルと一桁違う価格で提供している。これは会社の社会貢献としてはすばらしい。

 今回の震災では多くの歯科医が診療所を失ったり、修復不可能な状況になった。若い先生は新たな診療所を作る気力もあろうが、私のような50歳、60歳以上の先生はなかなか気力がわかないであろう。さらに町が壊滅的な被害があったところでは、新たな町づくりが動き出すにはまだ何年もかかる。こういった状況で例え仮診療所を作ると言っても、歯科診療ではユニットの設置には配管が必要となり、結構な金がかかり、躊躇してしまう。

 ひとつの提案として、上記a-decのポータブル器材を県歯科医師会や日本歯科医師会で購入し、それを半年あるいは1年単位で希望者に貸し出す制度はどうであろうか、簡単なプレハブやビルの一角で電気さえあれば診療できるのであれば、仮診療所を躊躇している歯科医もやりやすいのではなかろうか。それである程度めどがつけば、もっと本格的な診療所を作ればよい。細かい器材や材料は歯科医師会会員に呼びかければ集まるだろう。とにかく看板を出し、一刻も早く診療を始めることが被災された先生方にとってもっとも大きな励みななるように思える。さらに復興が一段落した時点でも、それらの機器は在宅診療や、今後発生するであろう災害時にも活用できるであろうし、もっと言うなら、歯科学生に診療の経験を積ませるため、発展途上国へのボランティア活動にも使える。

 政府、歯科医師会でも被災した歯科医師の復興の具体策としては融資を中心に考えているようだ。テレビで久慈港に函館から200艇以上の小型漁船が寄贈され、漁民が明日から漁ができると大変喜んでいるニュースがあったが、もっと具体的な復興方針、例えば仮設診療所で診療をしたいニーズがあれば、必要な器材を貸し出したり、会員の寄贈をお願いしたりして、一刻も早い開業のお手伝いをするようなプランを作るべきだと考える。

2011年6月5日日曜日

山田兄弟36


 ふれーふれーファミリーの一條敦子さんのご尽力で、山田兄弟のマップおよび解説のパンフレットが出来上がりました。日本語と中国語の2種類のものがあります。貞昌寺や在府町の生誕地など山田兄弟関係の史跡と簡単な説明を裏表にカラーで印刷した立派なものです。山田兄弟についての、こういった弘前からの発信は初めてで、大変うれしく思っています。

 今年は、辛亥革命100周年の記念の年で、中国では大規模な記念講演や辛亥革命博物館、記念講演など目白押しな行事が予定されていますし、台湾でも同様です。日本でも梅屋庄吉の故郷、長崎県では県が積極的にPR活動をしていますし、宮崎滔天の故郷、熊本の荒尾市でも市を挙げて一生懸命活動をしています。

 山田兄弟の故郷の弘前市は今年弘前城築城400周年のまっただ中で、かつ東日本大震災こともあり、辛亥革命100周年については全く意識にはないようですが、それでもこうしてパンフレットができたことは意義があると考えます。とくに中国語で作られたことは、中国、台湾からの観光客への活用もありますし、広い意味では中国、台湾への弘前の宣伝にも一役立ちそうです(解説が繁体字で、マップは簡体字のため、中国人観光客からすれば解説はやや読みにくいようですし、台湾からの観光客にはマップが読みにくいようです)。

 孫文は年少期をハワイで過ごしたため、書は必ずしも得意ではなく、今見ても孫文の書はそれほど達筆ではありません。請われると揮毫したため比較的多くの書は残されおり、よく「天下爲公」、「博愛」といった字を好んだようです。それでも孫文自ら考え、揮毫した墓碑銘、碑文は中国でも案外少ないように思えます。専門家に聞きたいものです。その珍しい碑文が弘前にあるのです。これには多くの中国人、台湾人はびっくりします。例えば、アメリカの田舎に旅行したところ、西郷隆盛が揮毫したアメリカ人の碑があったようなものです。なぜ、こんなところに孫文の碑があるのかというのが単純な疑問です。さらに台湾の観光客からすれば、隣に蒋介石題字、何応欽大将筆の碑があるからなおさらです。

 こういった碑があるから、観光客が来る訳ではありませんが、中国、台湾のテレビ局からすれば、おもしろい材料で、それを軸とした弘前を取り上げる番組を作る可能性もあります。東京から函館、札幌に直行させずに、ちょっと脇道に来てもらうためには、こういったプラスアルファーが必要です。

 すでにこのパンフレットは、東京の知人T氏のご尽力で、台湾駐日大使館に当たる、台北駐日経済文化代表処に手渡され、観光局などの関係各位にも見てもらったと思います。その際、T氏が弘前観光の宣伝もした方がよいと言われ、弘前市の観光課に行き、弘前観光DVDをもらって来ましたが、これがなかなかよくまとまっていましたが、中国語の解説があればもっとよかったと思います。

 今年は、辛亥革命100周年記念映画として、ジャッキーチェン主演の「1911」という大作ができました。秋頃に公開予定で、孫文の軍事的な片腕黄興が主役で、おもしろそうです。山田純三郎と黄興は仲がよく、黄の子供を膝に載せて撮っている写真があり、その親密性を表しているようです。純三郎も一シーンでも出てくれればよいのですが。

 写真はおそらく神戸での孫文講演前の写真ですが、孫文の前にいるのが山田純三郎で、隣が宮崎滔天だと思います。