2010年8月25日水曜日

平田平三、山鹿旗之進



 先のブログで明治期のキリスト教を指導した弘前出身本多庸一と中田重治について書いた。本多、中田とも、当時日本に入ったばかりのキリスト教の熱心な伝道者として活躍したが、藩主、天皇への尊敬や先祖崇拝のような武士社会の伝統を決して捨てることはなかった。先祖の墓参りには違和感はないし、天皇との謁見があれば、一家の名誉とした。武士としての規範、生活様式とキリスト教徒としての生き方が併存したのである。このような例は、他の弘前出身の信徒にも見られることで、ここでは二人の人物を紹介したい。

 平田平三(1860-1933)は、熱心な浄土真宗の信徒であった文助の子として、弘前市茂森新町で生まれた。東奥義塾を卒業後は、東京英和学校に進学し、牧師となり、アメリカに留学、その後は横浜など各地で伝道活動を行った。弟の幸次郎(妻は儒学者工藤他山の次女)の子供にはプロレタリア文学の小説家の平田小六がいる。父文助は毎日仏前で読経していたというほど、熱心な代々の浄土真宗信徒であったから、さぞや息子がキリスト僑に入信するのには驚いたことだろう。平田平三は早い時期から、本多庸一の後継者として期待されており、実際に青山学院の理事長なども務めた。青山学院歴代院長のうち、本多庸一、阿部義宗、笹森順造、古坂嵓城(両親が弘前出身)の4人が弘前出身であることはすでに述べたが、理事長にも弘前出身者がいたことになる。青山学院と弘前市、東奥義塾との関連は深い。平田平三は、メソジスト会派の牧師にはめずらしく、仏教への造詣が深かったのは、子供のころから体に染み付いた浄土真宗の生活規範を忘れられなかったせいであろうか。

山鹿旗之進(1860-1954)の場合は、もっとすごい。山鹿旗之進は、有名な江戸初期の漢学者、兵学者、山鹿素行の直系の子孫であり、東奥義塾在校時に入信し、伝道師を志し、東京英和学校に進学し、牧師となった。入信にあたり、母は「父親が亡くなった間もないのに、事もあろうに異人の学校に入ってヤソ教の勉強をするとはとんでもない」、祖母は「大事な家督相続の跡取り息子が、生まれもつかぬ片輪者になってしまう」と泣きつかれたいう。何とか、親を説得して、明治12年に日本駐在のメソジスト教会総理のマクレーのもとに行き、試験を受け、入学を許可された。後の青山学院の前身、東京英和学校の出来る直前のことで、ペンキ塗りの真っ最中であった当時の神学校は「トレーニングスクール」と言われ、その最初の入学者は山鹿旗之進と前述した平田平三の二人だけだった。青山学院の最初の入学者が、山鹿と平田の二人と言えるのかもしれない。なにしろ開学前に入学したのだから。山鹿素行直系の子孫がキリスト教の牧師になったと当時はずいぶんと話題になったようだ。東京英和学校神学科に入学した5人の中には、平田と山鹿以外に弘前出身の山田虎之助がおり、後に青山学院神学部の教授となった。函館遺愛女学校の1、2回生がほとんど弘前出身の子女で占められていたように、青山学院の前身の英和学校の神学科も弘前出身で占められていたのであろう。プロテスタントキリスト教において、弘前というところは日本でも有数の先進地であった。実際、津軽出身の伝道師は200名以上いたという。なおアメリカ留学から帰国した後の外務次官珍田捨巳は、一時期この英和学校で英語を教えていた。

 弘前藩の藩学は、幕府公認の朱子学ではなく、山鹿素行の学であった。素行の学は必ずしも、陽明学ではなかったが、幕末に出現した私塾では、時代の風潮もあり、その要素が多分にあったのであろう。長州では同じ、山鹿流師範の家を継いだ吉田松陰が数多くの幕末の志士に影響を与えたが、北方の辺境の小藩では、当然討幕運動などを起こす力もなく、明治維新への参加も出遅れた。明治新政府への出遅れ感が弘前の若者のあせりを生み出し、それがキリスト教への傾倒に変質していったかもしれない。そこには私塾で薫陶を受けた知行合一を唱える陽明学的な心理作用が、忽然と家族、親族の反対を押切り、キリスト教徒になった背景としてある。それ故、明治のキリスト信徒は、武士的な面持ちをふんだんに残している。

 ちなみに山鹿旗之進の子孫には、渡辺プロダクション、マナセプロダクションの方がいるようで、ブログに祖父の写真が載っている(http://yaplog.jp/michan0504/archive/474)。また山鹿旗之進の妹、もと子は平田平三に嫁いだ。山鹿旗之進の弘前市富田新町の家は前のブログで示した(2010.5.4)。

 写真は貞昌寺にある山鹿家の墓、下は上記ブログから勝手に持って来た山鹿旗之進の写真である(申し訳ございません)。真ん中の小柄な老人が旗之進である。全く武士の顔である。

2010年8月24日火曜日

長井充ピアノコンサート


 先週の日曜日に家内と一緒に長井充さんのピアノコンサートに行ってきました。いつもよく行くレストランの入口にたまたま長井さんのピアノコンサートのパンフレットがあり、入場も無料ということでしたので、早速、近くの日弘楽器で整理券をもらってきました。

 クラッシックのコンサートに行くのは本当に久しぶりでした。会場は弘前学院大学の礼拝堂で、こじんまりした建物でしたが、100人を越えるひとでいっぱいでした。

 長井さんは1934年生まれの76歳、大阪音楽大学の創始者の孫として、3、4歳ころから英才教育を施され、東京音楽大学に進まれました。大学3年生の時に指が全く動かないというピアニストとしては致命的な病気になられましたが、奇跡的に神の聖霊の力により回復されたとのことです。長い間、武蔵野音楽大学で教職につかれ、コンサートデビューは70歳を越えてからだそうです。

 会場には赤ちゃんや小さな子供もいて、子供のことですから、演奏中も騒ぐこともあり、危惧しましたが、長井さんは一向に構わない様子でした。むしろそういった雰囲気を楽しむように自分の音楽を淡々と演奏していました。

 曲名は、素人を対象にしているため、よく知られた曲を演奏していましたが、非常にリラックスした演奏で、派手さはないが、本当に感動しました。本人曰く、若い時より手が動くようになったと冗談でもなく語っていましたが、本当でしょうか。最近のピアニストは譜面を正確に機械のように引くため、演奏自体はすごいと思ってもそれほど感動もありません。長井さんのピアノは、ショー的な要素が少なく、それだけこういった小規模な会場の雰囲気もあり、心にしみ込む感じがします。観客からのリクエストにも答えてくれ、それを演奏していただきました。最後まで大変家庭的な雰囲気で演奏会は終わりました。とくにベートベンの月光は、ドラマティックな演奏ではありませんが、何だか涙がでました。

 受付で長井さんのCDを買って、家でも聞きましたが、それほど感動はなく、やはりライブ、それも小さな会場で聞くのがいい演奏家なのでしょう。同じようなことは他のひとも言っていました。たまにはライブの演奏も聞きにいくべきだと感じた次第です。

 こういった演奏会を企画し、実行するのは大変だったと思います。関係者の方々にいい演奏が聞けて大変感謝します。

 YoutubeにElly Neyというドイツのベートベンピアニストの月光の3番がありました(http://www.youtube.com/watch?v=5z-NlloM7TE)。82歳の時の演奏です。ほとんどスコアーがあってないような演奏ですが、妙に心に残ります。画家もそうですが、若い時のようには華麗な演奏はできなくとも、芸術家は年齢に沿った演奏ができるのでしょう。当たり前のことですが、細密な絵がよくて、大雑把な絵はよくないというのは芸術とは全く関係ないことです。あるブログに長井充さんはピアノをもっていない日本で唯一のピアニストで、アパートで古いキーボードで練習していると紹介していましたが、まさかそれはないでしょう。

2010年8月23日月曜日

北欧陶器 4




 インターネットオークションを初めて5、6年になりますが、最近のオークションは管理がしっかりしているせいか、これまでとんでもないものをつかませられたことはありません。どの出品者も連絡はきちんとしており、梱包も厳重にして送付されてきます。よくインターネットオークションでだまされたという声も聞きますが、私の場合はこれまでそういった経験はありません。

 よくチェックするのは北欧陶器ですが、ここ1、2年は北欧陶器も人気がでて、おそろしい位高くなっています。最近ではあまり掘り出し物には当たりません。つい最近、同一出品者からStig LindbergのGustavsberg のstudio ものが4点出品されていました。ファイアンス焼き の2つの変形皿とポット、もう一つは”Falling leaves”(枯葉)シリーズの花瓶でした。どれも1000円スタートで、手書きのスタジオものは人気があるため、かなり高値の落札と予想しました。この中で花瓶があまり見たことがなかったので興味を持ちました。

 以前は終了時間ぎりぎりまでねばり、秒単位で落札したりしていましたが、競い合いになると意外に張り合うもので、当初の予算より高く、買うこともありました。そこで最近では、自分の決めた価格を早い時間から入札して、終了までに高値更新されたら、運がなかったとあきらめます。

 気にいったものを見つけると、それをインターネットで検索して大体の値段とコンデションを調べます。コンデションにより値段がかなり違うものとそうでないものがあります。日本のショップは随分高い値段をつけているので、大体その1/4の値段を入札価格と決めています。

 この花瓶については、スウェーデンのCOOPで110周年を記念して、このデザインのマグカップとキッチンタオルが昨年発売され、人気が出ています。オリジナルのものはもっと人気があるだろうと思い、同じ花瓶を画像検索するとスウェーデンでのつい最近2010.7のオークションで、3300KRの値段がついていました。日本円で33000円、おそらく日本のショップではその倍の価格ですので、その1/4で大体今回の入札価格となります。

 たまたま4点一緒に出品されたせいか、落札できました。他の3点も大体市価の1/4くらいで落札されたようで、今回のオークションの落札者はみんなラッキーでした。

 届いた品物は想像以上に大きく、重いもので、多少のかけやクラックもありましたが、1940-50年ころのものと思えばしょうがないと思います。ファイアンス焼きの大きなものではこの程度の欠けやクラックはあるようです。何より手書きでこれだけの模様を書くのはずいぶん骨の折れる作業でしょう。底には手書きの証拠であるサインが入っており、絵付けの人のマーク、チュリップ印もかわいいです。ただでかいので棚にも飾れず、床に直接置くと、家内にしかられるので、仕方なく、床の間に飾っていますが、全く似合いません。隣に鎮座するのは五代目の清風与平の染め付けの花瓶で、Stig Lindbergより後の作品と思いますが、画面一杯に描かれた絵はくらくらします。リンドベリ(1916-1982)と五代清風与平(1921-1990)は、はほぼ同時代のアーチストですが、2つの壷を並べると、これほど合わないコンビはないように思えます。底のマークも日本のものは、よくよく見て“清風”と読める程度です。

2010年8月19日木曜日

明治2年弘前地図(星野、今関係)



 こういうブログをしていると、時折読者からの問い合わせがあり、楽しい。

 この前にいただいたのは、日本にのみ存在する論語の注釈本『論語義疏』を研究されている先生からのもので、渋江抽斎らの『経籍訪古志』にこの『論語義疏』が記載されおり、それには「弘前星野某所蔵本」となっている。森鴎外の「渋江抽斎」から、この星野某とは星野伝六郎あるいはその子供金蔵のことと推測し、もしそのご子孫が弘前にいれば写本を持っているのではという問い合わせだった。

 星野の姓は弘前では少なく、電話帳でみても3軒しかない。早速、弘前明治2年地図を調べていく。大まかなところは、すべて写真に収めているので、画像を拡大、回転しながら、すべての画像を調べる。そうすると塩分町のところに「星野伝三郎」の名前を発見する。星野姓は一軒だけであり、星野某は星野伝三郎しかいない。すると3軒右隣に戸沢八十吉の名前も発見する。「渋江抽斎 その89」にある「戸沢がかう云つて勧めた時、五百は容易にこれに耳を傾けた。五百は戸沢の人と為りを喜んでゐたからである。戸沢惟清、通称は八十吉、信順在世の日の側役であつた。才幹あり気概ある人で、恭謙にして抑損し、些の学問さへあつた」の戸沢で、星野とは兄弟で近所に住んでいたわけである。

 たまたま、この星野の家のあったすぐ隣に友人が現在住んでいるので、すぐに連絡したところ、塩分町で古くから住むひとに連絡いただき、現在調査中である。判明できればうれしいが、塩分町では明治2年からずっと住んでいる人はいないようで、仮にいたとしても記憶はないであろう。

 もうひとつは、今東光を研究している方からの問い合わせで、今東光の父方の祖父の住所を探されていた。山下町2番地の今文之助の家ということで調べたが、同所には今宗蔵の名前が見られる。文之助の嫡男の名前である。弘前の町並みは、戦災に会っていないので、基本的には明治2年とほぼ同じであり、住所までわかっていれば探すのは簡単である。今東光の母親のあやは、弘前藩典医の伊東家久の娘であり、兄は弘前市長で医師の伊東重である。伊東の家は教育熱心で娘あやにも当時としては最高の教育を受けさせ、出来たばかりの函館遺愛女学校に行かせ、その後は東京の明治女学校に学んだという。かなり英語は得意であったろうと思われ、キリスト信徒ではなかったかもしれないが、その影響は受けていたと考えられる。当時の女子としては相当なインテリであった。元長町の伊東小児科のところで生まれたとすると、学区は朝陽小学校である。佐藤紅緑と小学校同級生とするが、あやは明治元年生まれ、佐藤紅緑は明治7年生まれで、少し時代は違うようだ。ただ伊東家はかなり奥まで敷地があり、あやさんの思い出に隣にわんぱくな子供がいて、それが紅緑だったという話は、敷地の奥に家があれば元大工町の紅緑の家とは隣というのは十分うなずける。

 地図上で、家を探す際に、難しいのは昔のひとは名前をいくつも持っていて、号も含めて知っておかないといけない点である。また戸主の名前も、早くに子供に家督を譲ることもあり、家系も知っておかないといけない。問い合わせに、こうした情報も伝えてくれると、探しやすいし、こちらも勉強になる。例えば、「渋江抽斎 その41」に登場する平井東堂についても、名は俊章、字は伯民、小字は清太郎、通称は修理、号は東堂となる。塩分町で死去となっているが、地図では平井永二郎となっている。東堂の子供に違いないが、家系がわからないと断定できない。それでも塩分町だけで、星野、戸沢、平井の3名の名前が、森鴎外「渋江抽斎」に登場する。富田町と並んで関係の深い地区である。

 地図には2、3mmくらいの小さな文字でみっしりと名前が書いているので、随分小さな家に住んでいるように錯覚するが、当時の武士の住まいは標準的な敷地で200坪くらいあり、今の感覚からすれば結構大きな家である。先に述べた星野、戸沢、平井、今の家もこのくらいはある。間口は狭いが奥が長く、玄関、平屋の家、その裏が畑あるいは庭になっていたようである。

 明治2年弘前地図は、江戸末期、明治初期の弘前藩の研究、森鴎外の「渋江抽斎」の研究に役立つと思われ、できれば全面公開したいと考えていた。ところが調べると、こういった古い地図では穢多、非人など公開上、微妙な問題が含まれており、他の都市の古地図でも、研究者以外には公開は難しく、また博物館でも展示していない。そのため一旦大学、博物館、図書館に寄付すると、一般人にはとても見ることができないものとなる。地図を見ようにも、閲覧許可書に自分の研究歴や目的を記入して、許可されなければ見ることもできない。実際には大学の研究者以外では、許可されず、アマチュアの研究者は見ようと思っても推薦状なども必要で面倒である。こういった問題があるため、保管については心配だが、しばらく家で預かり、問い合わせがあれば、自己判断で公開したいと考えている。何か公開で不都合があれば、すぐに連絡いただきたい。なお、問い合わせは直接、歯科医院HPの患者用アドレスでメールしてほしい。

 弘前在住の方で星野家についての情報お持ちの方は、是非ともご連絡いただきたい。

2010年8月15日日曜日

中田久吉、重治兄弟





 本多庸一と並び、明治、大正の日本キリスト教史に大きな足跡を残した中田久吉、重治兄弟について触れたい。

 私自身、カトリックのイエズス会系の学校を出ているが、キリスト教関係の知識はほとんどなく、ましては複雑な分派をもつプロテスタン系については、その教義の違いについては全くわからない。その前提の上で、中田兄弟について述べる。

 中田久吉(1859—1904 安政6年—明治37年)、重治(1870—1939 明治3年—昭和14年)は、弘前市北新寺町2番地で生まれた。最勝院より日暮橋を越えたところをすぐに右折して曲がったところである。明治2年弘前地図では、白狐寺門前となっており、寺町の裏にひっそりと12,3軒の家があった。この白狐寺は今では稲荷神社になっており、新寺町から赤い鳥居が続く。比較的下級の武士であったのだろう。

 中田久吉は、できたばかりの東奥義塾で学ぶも、父を早くに失い、自活の道を探るため学校を中退し、明治7年に上京して、下士官の養成を目指した陸軍教導学校に入学した。同時期、一戸兵衛も同じ目的で陸軍兵学寮に入学した。中田久吉は、その後西南戦争に出兵し、重傷を負うも、何とか回復し、金沢の部隊に勤務することになった。ここで金沢教会に通うようになり、信仰に目覚めた。母親の面倒を見ていた次弟が急死したのをきっかけに軍隊をやめ、弘前に帰郷し、そこで小学校の先生をするも、信仰への想いが膨れ、ついに明治17年にメソジスト派の伝道師の資格を得て、本格的な伝道活動を行う。武士、軍人上がりのこの人物の伝道活動は情熱的であり、明治30年ころから弘前教会を中心に、中郡、南群の農村部を手風琴をもって廻り、説教、印刷物の配布を行い、夜遅くまで伝道活動を行った。

 弟の重治はわんぱくな子供であったが、兄の伝道活動について廻るうちに、信仰に興味を持ち、東奥義塾を卒業後に本多庸一を頼り、上京して東京英和学校(青山学院)に入学した。そこでは勉強より、柔道に熱を入れ、学業不振のため退学させられそうになったが、本多庸一のお情けで仮卒業させてもらえることになった。もともと激情的な性格がそうしたのか、あるいは郷土の先輩笹森儀助にあこがれたのか、人の行きたがらないところで伝道したいと、北海道に渡り、千島エトロフ島まで伝道活動を行った。この間、1889年には小館かつ子と結婚する。小館かつ子は弘前藩上級武士の小館仙之助の次女として生まれ、青森女子師範を卒業後、弘前学院などで教えるうちに信仰をもち、熱心な信者となる。後に婦人伝道士となったが、その頃に重治と結婚した。明治2年地図でみると若党町の奥の方に小館の名前が見られる。信仰の篤い二人であったが、千島エトロフ島での生活は困窮を極め、長男を風土病で亡くし、かつ子も病を得て、秋田大館に移る。信仰上の危機であったが、それを乗り越え、1896年に渡米して、そこで後にホーリネス活動に邁進する契機となる精霊体験を得て、1898年に帰国する。その後の活動は、Wikepediaを参考にされたい。英文でもかなりくわしく紹介されている。

 メソジストは、日本ではほとんど廃れているが、アメリカではプロテスタン系のキリスト教では2番目に信者が多い宗派で、メソジストを信仰していた大統領も多い(ちなみにヒラリー クリントンも)。メソジストでは、日課を区切った規則正しい生活方法を推奨し、禁酒、禁煙などかなり厳格な生活を求めた。武士あるいは軍人の気風にあった教義で、弘前では、武士、あるいは知識人を中心に多くの信者を獲得し、弘前は一時、質、量とも日本のメソジスト活動の中心であった。そのため、お膝元の津軽では、多くの教会が今でも存在し、学校活動、保育活動、同和問題や凶作救済活動などを東北でも早い時期から積極的に行われた。一方、昔からの祖先礼拝や天皇に対する尊王の気持ちは、そのまま残され、仏教などの他派のよる攻撃は一部にあったにせよ、それほどひどくなく、また日露戦争においても反戦を唱える風潮はほとんどない。本多庸一の場合、妻みよ子の葬儀に際しては、葬儀こそキリスト教式で行われたが、本多家の菩提寺で先祖代々の墓がある本行寺では、葬列が寺に到着しても開門されず、脇の通用門から通れということになった。交渉の結果、無事に寺門から埋葬できたが、本多は当時の弘前仏教界の高僧であった本行寺の住職ともこれを機に親しくなったようだ(同志社の新島襄の場合は菩提寺の京都南禅寺が許可せず、墓地には入れなかった)。また明治32年にカナダ出身の宣教師アレクサンダーの妻が不慮の事故で亡くなったが、その際も最勝院の理解ある取り扱いで、彼女の墓をここに作ることができた。

 弘前ほどキリスト教と武家社会がこれほど共存している町は少ない。函館や神戸、横浜のような新しく開港された都市でも、キリスト教の普及や学校建設は難しかった。数百年の歴史をもつ城下町弘前が明治の早い時期にキリスト教が発展していったのは、本多庸一、中田兄弟のような武士出身のキリスト教徒の情熱によるところが大きい。同時に上記最勝院のように仏教界、神道などの他宗教も割合寛容な精神で遇したのも影響している。ちなみにメソジスト系の大学というと青山学院大学、関西学院大学が挙げられる。

 写真上は、中田兄弟の生まれた北新寺町界隈である。奥の高いアンテナの立った家の隣あたりになる。昔は裏が池となっていた。写真下は最勝院の墓所にあるアレクサンダー夫人の墓である。付近には高谷夫婦の墓はじめ、多くのキリスト教徒の墓が並ぶ。違った宗派でも墓がないではかわいそうという住職の徳の深さを感じる。一方、この墓も心ないものにより倒され、墓碑の上部が欠けていたが、近年弘前学院100周年事業として整復されたようだ。

2010年8月11日水曜日

弘前ねぷた




 8/1から始まった弘前ねぷた祭りもようやく終わり、例年なら秋の気配も感じる時期だが、今年の夏は暑い。

 2,3年前までは衣装に着替え、祭り運行にも実際参加していたが、だんだん歩くのがきつくなり、最近はもっぱら見学だけになっている。この祭りの特色は、町内、市民が総出で参加している点で、企業も数社参加しているが、基本は町内でねぷたを作り、老若男女が年に一度のこの祭りを楽しみに生きている。ある日は、祭りに参加し、次の日は見物、こういったパターンで、市民ほとんどすべてが何らかの形で参加している。全くショー化していないのがいいところで、観光客には媚びていない。あくまで住民自身が祭りを楽しんでおり、多少柄の悪い若者がいても、その地区の兄貴分が行動を制御しているため、青森ねぶたの「からすはねと」のように付近の住民に迷惑をかけることはない。

 先日、弘前ロータリークラブの例会の卓話でねぶた研究家の葛西敞さんによる弘前ねぷた物語Part IV「ねぷたの貌(かたち)」の話を聞いた。これまでも毎年この時期になると葛西さんからねぷたの歴史、絵についての話があるが、今回はなぜ弘前のねぷたが扇型をしているかという内容であった。

 もともとねぷたは灯籠祭りが原型であり、扇や鳥籠、金魚などの1人持ち灯籠や,担ぎねぶた、あるいはやや大型の人形ねぷたの形式であったのが、明治15年以降、扇型をしたねぷたが見られるようになり、近年ではほとんどのねぷたがこの扇型になった。

 この理由として、維新後の不景気のため、人形ねぷたよりより安価な扇型に移行したこと、あるいは藩祖為信の幼名の扇丸にあやかったという説もあるが、葛西さんは各地の扇祭りを研究し、扇には悪霊、邪気を扇いで追い払う、禊(みそぎ)の意味が込められており、天災、病気など、人の力ではどうしようもないものを扇で打ち払おうとしたとしている。ねぷた運行では、途中本体を回転したり、蛇行したりするが、これはあたかも扇で邪気をあおぐ行為に他ならず、そういった意味で、ねぷたは町内、会社、さらにはこの地域の邪気を祭りで追い払い、豊かで楽しい収穫の秋を迎えたいという人々の祈りだとしている。

 かなりこじつけかもしれないが、ねぷたが邪気払いであると考えると、ありがたみがでてくる。実際に参加しても、ただ見ているだけでも、人々の邪気を払ってくれ、一年間の幸をもたらしてくれるのである。ちょっとねぷたの見方も変わるであろう。

 6月ころに母の知人から是非とも、弘前ねぷたを見たい、宿泊の紹介をしてくれとの連絡があった。インターネットでほうぼうのホテル、旅館を当たったが、周辺も含めて、すべて満室、泊まるところがない。新幹線開業前でこうだから、来年以降はもっと予約しにくいことであろう。また来年は高校総体もあるようだが、宿泊はだいじょうぶだろうか。せっかく新幹線が開業して、来県者も増えるが、肝心の宿泊がこれでは、だめであろう。どうしても夜間の祭りなので、日帰りもできず、宿泊が必要となる。青森学院大学に勤務している台湾の方が、台湾の大学生を青森の農家に泊まらせ、農業経験をしてもらおうと毎年数十名の学生を青森に来てもらっている。農家は家が大きいので、一つの家に数名の学生が泊まることができるようだ。郡部の農家で、例えば一泊2食付きで、ホームスティーしてもらい、田舎の生活を楽しんでもらうような試みがあってもよさそうだ。一人8000円くらいなら、泊めてもよいというところもあるし、また泊まりたいという人もいよう。ねぷたの期間、5日間で5名ずつ泊めたとしても20万円の臨時収入となる。観光を町おこしの目玉にするなら、こういった企画も市、あるは旅行代理店でも検討したらどうであろうか。

2010年8月8日日曜日

床矯正治療



 床矯正装置で治療したが、治らなかったという患者さんが立て続けに来た。これまでも、他の歯科医院で床矯正により治療していたという患者さんが年に1,2名いたが、最近は頻度が高い。床矯正装置は、かなり普及しているからであろう。

 代表的な装置として、Schwarz(シュワルツ)の拡大装置がある。これはプラスティックの入れ歯のような装置の真ん中の部分にネジが入っており、基本的には週に1回ネジをまわし、0.2mmずつ歯列を拡大する装置である。原型は非常に古く、1877年のKingsleyの論文の中にも見られ、130年経っていることになる。現在使われている装置も約70年前のものとほぼ同じである。そういった意味では床矯正装置による治療は最新でも何でもなく、日本でいうと明治10年,あるいは昭和初期ころの治療法といってもよい。

 それではなぜこれほど古い治療法が未だに使われるのか。逆になぜほとんどの矯正専門医で、使わないのであろうか。

 床矯正がもてはやされる背景にはマルチブラケット装置に対する毛嫌いがある。ひとつには、マルチブラケット装置に習得にはフルタイムに研修で3年以上はかかること、また種々のタイプの器材を用意する必要があり、費用がかかること、慣れないうちはチェアータイムがかかることなどが、挙げられる。一方、患者さんにとっても、マルチブラケット装置は目立つこと、痛そうなこと、装置が複雑で虫歯になりそうなことなどが、嫌がられる。歯科医側からすれば床矯正装置は衛生士が口の型をとり、技工士が装置を作り、それを入れるだけであるので、手軽であり、また患者側からも床矯正装置の方がマルチブラケット装置に比べるとずっと子どもにはやさしそうに見える。また費用も一装置につき2,3万円と安いので、取りあえずお願いするということになる。歯科医も親に「早いうちに治療した方が簡単に治せる」と言うので、親もこの装置だけで子どもの不正咬合はなおると思う。患者さんから、みて一番いい方法は「できるだけ痛くなく、簡単で、費用の安い」治療法であり、床矯正治療はこの条件に当てはまる。

 矯正専門医からみれば、数ミリの空隙不足からくるでこぼこを治すために、装置を何度も変え、数年以上にわたり使用するくらいなら、永久歯列が完成してからマルチブラケット装置を使った方が簡単だと答えるだろう。今のワイヤーは進歩しており、並べるだけならわずか2,3ヶ月の治療で治すことができる。またドクターにとっても床矯正を作り、調整するくらいなら、マルチブラケット装置の方が楽だと考えるだろう。

 さらに言うと、床矯正治療の適用は2,3mmの空隙不足であり、この程度のでこぼこで、下の前歯に限局する場合、必ずしも矯正の適用ではなく、また仮に是正してもそれを維持するのは難しい。成人で時折、良好な咬合であるが、下の前歯にのみ少しでこぼこのある患者さんが来院する。治療は非常に簡単であるが、後戻りを防ぐには、数年間以上、下の歯の裏側にワイヤーで固定しないといけないこと、後戻りがあった場合、再治療をする必要があることをくわしく説明し、よく検討してもらっている。上の前歯に限局するでこぼこについては、床矯正装置で上あごを横に拡大して一旦並べるのは悪くないが、多くの場合、下のでこぼこもあるし、上の犬歯などが八重歯になる可能性も高く、結局は全部の歯を並べる必要がでてくる。

 こういった見方をすると、床矯正治療のみでなおるケースは非常に少ないように思える。おそらく矯正専門医にくる患者さんのうち、10パーセントもないのではないか。そのため矯正専門医で床矯正装置を使うところは少ない。私も小児歯科にしばらくいたため、床矯正装置を使う先生の気持ちはよくわかる。歯科治療は早期発見、早期治療を原則とするため、何か問題があれば、それを見過ごすことなく、すぐに対処する。不正咬合でいうと、前歯にでこぼこが見られたなら、すぐに拡大して整列する、その後、また問題があれば、その都度対処していく、こういったやり方が基本である。一方、矯正歯科のやり方は、まずすべての歯が萌出し、成長が終了する20歳ころまでの長期的な治療計画を立て、その中で今の時点で何をするのが将来の治療にとりメリットがあるか、検討する。前歯に多少のでこぼこがあっても、将来まとめて治療した方がよいと判断すれば、何もしない。そのため、矯正専門医では費用は請負制をとり、一般歯科医は装置代をとる。

 床矯正治療は、歯を抜かない治療であるが、早い時期で非抜歯の治療方針を立てた場合、途中から抜歯治療に戻すことは、先生にとっても患者にとっても心理的に難しい。抜歯、非抜歯を判断する要素としては、歯とあごの大きさのずれの大きさだけでなく、前歯の傾斜度も関係する。前歯が出ている場合、非抜歯で治療するとさらに口元が出るため、ゴリラのようなもっこりした口元になる。日本人の場合、もともと口元が出ているケースが多く、そういった意味でも、非抜歯治療では無理が多い。

 こういった古い治療法が未だに使われるのは、ある程度治る症例もあるからであるが、一方、その分野のスペシャリストである矯正専門医が欧米でも日本でも使わないのは、治療限界があり、適用症例が限られているからであろう。安物買いの銭失いにならないように、矯正治療を勧められても、緊急性のない治療であるから、何軒か違う歯科医院にも来院し、よく検討してほしい。矯正治療は一度、開始すると、費用、治療の責任も含めてその医院にずっと管理することになり、転居などよほどの理由でなければ、転医はない。わたしのところでも他の歯科医院で治療を受けている場合は、安易に患者を受け入れると、患者を奪ったとクレームがつきかねないので、原則的には患者の転医は認めない。今までの医院での治療継続を勧め、担当の先生がギブアップしてこちらに紹介されてから初めて治療する。

2010年8月7日土曜日

笹森儀助 6




 笹森儀助の家系図が「笹森儀助の軌跡 辺界からの告発」(東喜望著 法政大学出版)に載っていたので、引用する。

 笹森儀助(1845-1915 弘化二—大正四)は、弘前藩目付父笹森重吉と石郷岡ひさの長男として生まれ、13歳の時に父と死別し、家督を継ぎ、19歳の時には母ひさも亡くなる。弟栄吉と儀助は早い時期に両親を失うことになる。

 その後、藩学校稽古館にて修学するが、ここで最も影響を受けたのが、梶派一刀流師範山田登(1821-1876)で、彼は過激な思想の尊王攘夷派であり、優秀で大寄合合格御用人手伝という禄150石の知行を得るが、藩に無断で幕府に松前防衛の必要性を説いた建白書を提出し、その廉で知行30石を召し上げられ、蟄居される。その後、再び、出仕するもまたもや不届の儀があり蟄居される。強い信念の持ち主であったようだ。さらに慶応3年(1867)には御手廻役であった儀助と同僚の菊地平太に、国防改革の意見書を藩主に提出させ、藩主の怒りを買い、山田、儀助、菊地は「永禁錮」に処せられる。これにより儀助の家督と知行100石を取り上げられるも、かろうじて弟栄吉を養子にして知行50石を得ることができた。

 儀助は21,2歳ころには、弘前藩士久保田栄作の次女いく(1850-1917 嘉永三—大正六)と結婚し、長女あい(1867)をもうけるがすぐに夭折する。儀助がようやく特赦されるのは明治3年春(1870)で、儀助25歳である。謹慎中の明治2年には長女(実質的にはあいが長女であるが)じゅん(1869-1932 明治2−昭和7)が生まれる。

 明治3年になりようやく儀助も弘前藩民政局の権少属・租税掛に任命され、弘前城の明け渡しの責任者に従事、その後青森県となり14等出仕として弘前支庁に勤務する。税務畑を経て、弘前小区、田名部、下北の第六大区の区長を歴任する。給料は少なく、弘前小区の時の月給はわずか六円(米六俵分)であったという。

 弘前藩の馬牧場であった岩木山麓の常盤野を士族授産のために利用しようと始めたのが、明治12年であるから儀助34歳の壮年期であった。総面積1260町に及ぶこの土地の開墾、開発しようとした農牧社の活動は、結局失敗に終わるが、明治17年、儀助は雪深いこの地に家族とともに入植し開拓をしている。当時の家族は、妻いく、長女じゅん、次女つる(1872-1949 明治5−昭和24)、三女ゆき(1875-1897 明治8−明治30)、長男熊司(1880-1945 明治13-昭和20)、四女はま(1883-1908 明治16-明治41)の6人であった。長女じゅんは間もなく柴田元太郎に嫁いだが、この孤立した僻地で12歳、9歳、4歳、1歳の四人の子供を抱え、さぞ生活するは大変だったであろう。さすがに子供の教育に難儀があったのか、明治20年には弘前市の茂森に引越し、次女つるも東京の鶴見女学校に学んだようだ。二男修一(1886-1944 明治19-昭和19年)、三男修二(1888-1947 明治21-昭和22)はこの頃に生まれた。明治23年には弘前市長坂町10番地に引っ越した。この頃まで苦労の連続であったが、それでも家族と一緒にいれた時代であった。

 明治24年から、儀助の冒険の旅が始まる。実に46歳の時で、故郷には妻いくと6人の子供がいる。「貧旅行」と自ら言うような身ひとつで、四日市を起点に近畿、中国、九州など70日の旅を行い、各地の調査を行っている。半年ほど、弘前に帰るが、明治25年6月には今度は千島探検に加わり、10月には一旦弘前に帰り、報告書を書き上げ、翌明治26年には沖縄、奄美諸島の探検に挑むことになる。明治27年から4年間、今度は奄美諸島の島司として赴任し、その間、明治28年には十島調査、明治29年には台湾調査を行い、島司を辞任した明治32年からは北朝鮮国境付近、シベリアの調査に赴き、明治34年6月にようやく帰国して、郷里弘前で農業に従事するのである。本当に忙しい毎日で、ほぼ明治24年から明治34年の10年間は東京に住むことも多く、ほとんど郷里弘前にも帰らず、家族とも一緒に生活していない。年齢的には46歳から56歳に相当する。ある程度の収入はあったと思われるが、残された家族の生活は決して豊かではなかっただろう。いくら亭主が情熱をもって活動しているとはいえ、家族を放り出して、10年間もあちこちほっつき歩くのは、残された家族にとってはきびしかったと思われる。

 それ以上に、当時の46歳から56歳というと、商家では隠居する年齢であり、今の時代で換算すると60歳から70歳に相当するであろう。この情熱はなんであろうか。郷里弘前にいれば、地方の官吏としてそれなりの生活は得られたであろうが、それも家族も振り切って、辺境の地をかけずりまわった情熱は何に起因していたのであろうか。儀助の二男修一、三男修二は、熱心なキリスト教徒であったが、同時に社会主義活動に入っていく。儀助の弱者の視点に立つパッションを受け継ぐなら、子供のこういった活動は当然の帰結であり、キリスト教という思想的なバックボーンを得た若い世代は、儀助のように単に現状を報告し、喚起するにとどまらず、直接行動により社会を変革しようとするのは当然であろう。1901年にできた日本最初の社会主義政党の社会民主党の創立者は、片岡潜、河上清らの6名で、このうち幸徳秋水を除く5人はキリスト教徒であった。初期の社会主義とキリスト教の関係は近い。

 儀助が辺境を漂白の果てに見いだしたものは、国家の先鋒となって辺境に送り込まれた娼婦であり、農民であり、開拓民であり、そしてそれを金にするあくどい商人、官僚であった。さらに郷里青森に帰り、市長としての仕事は役人による公金横領の始末であった。明治という国家に対する絶望的な気分であったろう。尊王の志の強い儀助にすれば、自分の子供が社会主義の方向に向かうのは、避けたいことであったろうが、儀助自身も心情的には共感していたのかもしれない。晩年の10年、儀助は完全な沈黙を守ったが、明治国家に対する絶望によるか。次女つる、三女ゆき、四女はま、ともに結婚することなく、ゆきは23歳で、はまは26歳の若さで亡くなった。親としてはつらい。儀助は、市長辞任後は銀行の監査役やはまの務めていた大阪の病院の会計監査などを行い、明治40年以降は仕事もせず、大正四年に低所得者の多かった鍛冶町の銭湯で倒れ、そのまま亡くなった。

 なお「笹森儀助の軌跡 辺界からの告発」では、笹森儀助の孫笹森建明氏(熊司の長男)によると長坂町10番地の屋敷は、かっての町奉行本多庸一から購入し、熊司の時代に人手に渡り、現在は三家に分譲されているとしている。手元の明治2年弘前地図では、現在の地名よりやや左側長坂町6番地あたりに、本田軍蔵の名前が見られる。十三湊の歴史で十三町奉行本多軍蔵の名前があることから同一人物で(http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~phase817/MRT/000925.html)、建明氏の記憶違いであろう。ここが儀助の終焉の家であろうか。

2010年8月2日月曜日

三千枚の金貨




 好きな宮本輝の新刊「三千枚の金貨」を読みました。宮本さんの作品は、最近の作品では自伝的で油絵の自画像なような作品、代表作として「流転の海」、さらりとした中に人のやさしさを伝える水彩の静物画、風景画のような作品、「ここに地終わり 海始まる」のタイプに分かれると思います。

 本作は、どちらかというと水彩風景画的な作品で、登場人物は個性があっておもしろいのですが、重さは感じられません。内容のついては、あまりしゃべれませんが、主題である三千枚の金貨を桜の木に下に隠し、そのなぞを追求するという設定自体、現実にはあり得ないものでしょう。一種の妄想でしょう。また脇役のバーテンダーで18年間、ゴルフの練習場しか行かない長谷という人物が登場しますが、こんな人は実際いるでしょうか。登場人物に悪い人がひとりもおらず、全編がさらっとした感じで、リアリティーは少ないような気がします。それでも、いかに作家の世界に読者を引き入れるのが作者の力量で、その点では宮本さんはうまい作家ですし、手慣れています。登場人物の年齢設定もちょっと違和感がありますし、平成22年の現代を舞台にしている割に考えがちょっと古い感じです。パラレルワールドの別の次元の世界のようです。

 この作品のあちこちで、カラコルム山系の思い出が、モンタージュのように挿入されますが、これはすべて作者の旅行先での実体験でしょう。フンザで夜空に輝く星を見ているうちに無重力の中の浮遊感を体験したエピソードが語られますが、私も昔、ネパールのエベレストの麓のナムチェバザール近くで同じような経験をしました。4000m近い土地から見る星は、それこそ星降るという表現しかできないほど、間近に無数の星の存在を感じます。ずっと星を見ていると、自分の体がすーっと宇宙に吸い込まれていき、あたかも浮遊している感じになります。信仰のない私ですが、宇宙のエネルギーとそれに対比する人間のはかなさを痛感しました。こんな経験は未だにしたこともないですし、今後もないでしょう。この小説の中で最も幻想的なシーンであるシルクロードの風景が現実で、東京、京都の日常シーンが虚構であるのが虚実ないまぜにした小説のおもしろさでしょう。

 大学2年生の時、1976年だったと思いますがが、インド、ネパールに1か月くらい旅行したことがあります。日本から団体でインドのデリーまで行き、1か月後に、再びデリーに集合というまことにいいかげんなツアーで、大学生を中心に20名くらいが参加しました。ある女のひとは、「日本からはこの100ドル紙幣のみ持ってきたの。これで1か月こちらで生活するわ」と100ドル札をひらひらかざして見せてくれた剛の者もいました。私たち3名のグループはデリー、アグラ、ウダウプール、ジャイプール、カジュラホ、カシミール地方のスリナガール、チャンデガール、バナナシなど主としてインド北部を周り、途中ネパールにも行きました。インド旅行歴数回という私の高校時代の家庭教師と一緒に、日本では貧乏旅行しかできないので、せめてインドではできるだけぜいたく旅行をするという本来のインド旅行と違った旅を計画しました。おかげで、ウダイプール、レークパレスホテルのエリザベス女王の泊まった特別室の次の日は500円くらいの安宿といった起伏に富んだ旅行もできました。

 ネパールに行ったはいいものの、全く行き当たりばったりで、ネパールのカトマンズに入った我々は、王宮前の日本人の経営する旅行社でエヴェレストのトレッキングを計画しました。飛行機でルクラに行き、そこからナムチェバザール、エベレストビューホテル、シャンポジェにトレッキングに行くというものでした。旅行社にある「世界一高いところにあるホテル」という、当時できたばかりのエベレストビューホテルのパンフレットに誘われてのことでした。

 飛行機は6人乗りの山岳用の小型機で、当然乗務員はパイロット一人で、私は助手席に乗せてもらいましたが、高度が上下する度に一瞬無重力状態になり非常に怖い思いをしました。さらにルクラ空港は山の急斜面を水平に切り取ったような滑走路も短い、小さな空港で着陸時はあたかも航空母艦に着陸するかのようでした。山の斜面にぶつかると思った瞬間、ドントと垂直に着陸して、すぐに止まる。Stol機(短距離離着陸機)特有の着陸方法でした。

 ルクラからはシェルパー一人とポータ一人がつき、トレッキングを開始しました。山の斜面を切り取った小道や谷を歩いていくのですが、ナムチェバザールに行く途中で、日本人が経営するロッジがあり、途中ここで泊まりました。夜になるとこのロッジにカンテンを持った子供たちが各々10名ほど集まり、我々一同も知らぬ間に算数を教えるのを手伝っていました。70歳を超えたと思われる日本人で、いつから、どんな理由で、ネパールの子供達に教えているのかは忘れましたが、こんなところにも日本人がいて、学校を開いているのに随分感動した記憶があります。もう亡くなっているでしょう。この小説を読んでいて、ふとこんなことを思い出しました。写真は35年前のルクラ空港とトレッキング中のものです。ルクラ空港は舗装もされていません。

 本書には「広瀬」という寿司屋さんが登場して、同姓としてはうれしかったです。

2010年8月1日日曜日

工藤忠



 清朝最後の皇帝であり、満州国皇帝傅儀の侍従武官を務めた工藤忠(1882-1965)については、青森県板柳町出身で、「弘前偉人」には当てはまらないことと、大陸浪人というイメージが強いこともあり、どうもブログで取り上げるのを避けてきた。昨年、いずみ涼氏により上下1300ページを超える「皇帝の森―ラストエンペラー溥儀と工藤忠の時代―」(北方新社)が発刊された。小説のせいか、はたまたあまりに冗長すぎ、主題が見えにくくなってしまったせいか、これだけ大部の本を読んでも工藤忠のことがあまり理解できなかった。

 このほど「傅儀の忠臣 工藤忠 忘れられた日本人の満州国」(山田勝芳 朝日新聞出版)が発刊された。この本を読み、初めて工藤忠のアジア主義者としての遍路を見直すことができ、従来の大陸浪人というレッテルを払拭することができた。

 著者は中国史を専門とする研究者で、現在東北大学名誉教授であるが、ふとしたきっかけで布銭という中国古代の貨幣の来歴を調べるうちに工藤忠にいきつく。著者はもともと青森県生まれ(どこかは不明)であったためか、戦後忘れられた郷土の偉人である興味をもち、工藤忠の生涯と当時のアジア主義を丹念に描いている。写真、注、参考文献、年表、人名牽引といい、コンパクトな本にしては、実にまとまっており、今後の工藤忠および満州国関係の定本になろう。

 同じ津軽出身者として、工藤忠と山田純三郎を比べてみたい。山田純三郎が生まれたのは明治9年(1876年)で、年齢的には工藤忠よりわずか6歳年長であるにすぎないが、中国への関わりから見るともっと年齢差があるように思える。山田純三郎が最も活躍したのは兄良政の死の1900年ころから孫文の死の1925年までで、その後は一時日中和平に奔走したりするが、表立っての行動はない。一方、工藤忠が世間に注目されるのは満州国建国後の1932年から終戦の1945年までであり、両者の活躍時期は重複していない。この1900年—1925年と1932年—1945年という時代を、元号でいうと明治32年から昭和元年と、昭和7年から昭和20年であり、両者の時代の相違がよりはっきりする。

 工藤忠の活躍期は、日本が軍部に振り回され、日中戦争、太平洋戦争に突入する時代であり、同じアジア主義の考えを持っていても、両者の行動が自ずから異なる。時代の流れにより工藤は、尊敬する郷土の先輩、笹森儀助、陸羯南、山田兄弟のアジア主義と異なる方向に進んで行った。本書75ページに以下のような記述がある。

 「工藤は郷里の先輩で中国革命最初の外国人犠牲者となった山田良政を慕い、革命派活動に加担していたものの、大統領袁世凱の政治も自己の権益中心だし、各地の混乱も一向に収まらない中国の実情を知れば知るほど、共和制には疑問をもつに至っていた。そういうときに升允に出会い、中国はやはり革命=共和制ではなく帝政でなくてはならないという考えを固めて復辞派=宗社党に転身したというのである」、工藤の手記に「一朝にして革命党変じて宗社党となる。又笑う可きかな。然りといえども余基より志、東亜保全にあり。常に革命党員の為し能わざるを慨ず」と苦しい心中を述べている。

 孫文と長年直接行動して、孫文ばかと言われるほどその思想に強く共感している山田純三郎からすれば、工藤の行為は裏切りであろうし、実際工藤は軍部の要請により上海の革命派の動向を報告していた。郷土が同じ、舞台も中国ということで山田純三郎と工藤の接点は多かったであろうが、両者は思想的にはそれほど親しい間柄ではなかったかもしれない。

 また工藤は山田と違い、体も大きく、体力もあり、また饒舌であり、誤解を招きやすい性格であったのも、戦後大陸浪人のイメージをもたれた原因かもしれない。第三革命で一万人の軍を率いて戦ったことを工藤自身誇らしげに語っているが、何の実績もない工藤がどうして革命軍の指導者になったか疑問であった。本書では第三革命を裏面で支援した日本陸軍青島守備隊の意向を受け、使えそうな青島在住の日本人として工藤が選ばれたと手厳しい。

 それでも満州国皇帝傅儀の侍従武官になってからの工藤は、最後まで傅儀に忠誠をつくし、決して軍部の言いなりにはならなかったし、敗戦後も裏切らなかった。こういった点では山田兄弟が孫文に示した純な気持ちと似通っており、やはり津軽人の気質を見る思いがする。天皇に対する強い忠誠心、尊王の思い、これは東北人がもつ純な気持ちであるが、工藤の場合、傅儀に置き換われていたのであろう。関東軍指導者は、あくまで傅儀は傀儡政権の皇帝であると、軽視していたが、これは同時に昭和天皇自身を軽視することの裏返しであり、独断的に日中戦争へ突入していった。また山田兄弟も工藤忠も、日本にいて、中国革命を手伝うという手段を取らず、中国語を完璧にマスターして、革命そのものに参加していき、あくまで日本人というより中国人あるいはアジア人として活動した。こういった強い情熱は、第二革命で戦死した櫛引武四郎にも共通するものである。

 工藤忠は弘前稽古館、東奥義塾でずいぶん剣道に精を出したようだ。明治、大正、昭和初期の軍人、一般人から今では想像できないほど剣道に対して高い評価があり、剣道の強かった工藤も、後年それが人脈作りに役立ったとの指摘が本書にあった。桂小五郎、坂本龍馬はじめ、山岡鉄舟、東亜同文書院の根津一、政友会代議士の小川平吉、朝日新聞社の緒方竹虎、民政党代議士の中野正剛ら、さらには陽明学者の安岡正篤も剣道にいそしんでいた。笹森順造が昭和14年という難しい時期に青山学院の院長になったが、笹森自身は熱心なキリスト教徒であったが、同時に小野派一刀流の達人であり、その評価が軍人に対して威力を発揮し、青山学院の存続に働いたのかもしれない。