2020年12月23日水曜日

戦争世代の退場

 

角野栄子さん 戦争世代とは言えない


 私は昭和31年生まれで、今年で64歳、自分ではそれほど自覚はなくとも、もはや老人世代であり、年金もすでにもらっており、いいこずかいになっている。僕らの世代は、生まれた時から、それほど大きな苦労はなく、もちろん戦争の記憶などはなく、もはや戦後ではないと言われた時代に育っている。

 

 学生時代、特に青春時代は、長髪、ジーンズ、ロックの時代であり、今の若者と文化的にはあまり変わらないという自負がある。こうした感覚は、私の5歳上の姉の世代でも同様であり、ミニスカート、フォーク、グループ・サウンズの時代であり、これも今にも続いている。それほど現役世代とは大きな壁となっていない。

 

 戦争世代、昭和20年の終戦までに戦争に参加した世代、大正からせいぜい昭和5年までの世代、90歳以上の世代とは大きな格差があるが、それより若い老人とは個人的には全く年齢差を感じない。昔は、何かといえば、年配の方からお前らは戦争を経験していないからそんなことを言える、できると散々言われてきた。戦争中の苦労を言われれば一言も言えない。長崎で原爆にあい、母と妹を自分で焼骨したという経験談を言われれば、これには何とも言えない。

 

 こうした世代がほぼ退場した現在、個人による経験の差、例えば昔は貧乏であったという経験の差はあるが、時代による差はほとんどない。若くして死ぬ、食うのに困る、自分の好きなことができない時代を経験していない。もちろん同世代でも貧乏で食うにも困る、学校に行けない、病気になっても病院にも行けない人はいる。ただこれは時代のせいではない。あくまで個別の話であり、現在の若者にもそうした人はいる。

 

  私自身はスマホを持っているが、ほとんど使っていないが、逆にコンピューターの使用は若い人より多いかもしれない。こうしたITにしても、アニメオタクやスポーツ好きでも、もはや世代間の差より世代内の差の方が大きいと思う。音楽にしてももちろん、僕たちに世代はハードロック、ブリティシュロックを聴いたが、若い世代でもこうした音楽が好きな人も多い。自分の子供より孫の方と趣味があうという老人もいるかもしれない。テレビゲームをする老人などごまんとおり、それほど珍しくもない。そうしたわけで、戦争を経験した上の世代がいなくなったおかげで、もはや誰も頭を下げる必要がなくなったことは嬉しいし、逆に若い世代に威張ることもできない。バカな老人が、コンビニの店員やレストランのウエイトレスに、クレームをつけて威張るニュースがあるが、今の私にはこうした老人はまったく怖くなく、普通に注意をするだろう。戦争も経験していないのに“今の若者は”というセリフを吐けないからである。たとえ、80歳で、終戦時5歳、満州から命がけで脱出してきたとしても記憶にはなく、経験したとはいえない。記憶しているのは全て親から聞いた後付け記憶であろう。老人にクレームをつけられても、若者に対するのと同じような対応をすればいいだけであり、敬老の日というものがあっても、それほど老人を敬う必要もない。

 

 もちろん老人になれば、体を弱り、他人の親切に頼りたいこともあるが、それを押し付ける必要もない。ITの発達によるのか、自分自身ではここ十年くらい、年齢差もあまり気にならなくなったし、言葉の問題を除けば人種差も全く感じないし、まだ男女差には多少敏感であるが、LGBTにも全く気にならない。戦争経験者の退場に伴い、本当に身軽になった。これからは世代差より個人差を中心としたグループ活動がもっと活発になっていくだろうが、そうした場合も決して年齢差をグループの上下に関連させてはいけない。

 

2020年12月21日月曜日

歯が喪失する理由

 


 私の歯には中学生頃に親父に治してもらった金歯が4本ある。3本はインレー、1本はクラウン、すでに50年以上前のもので、何度か外れたが、その度に付け直して今に至る。おそらく私が歯科医でなければ、その度に歯科医院で歯をさらに削り、新しい補綴物を入れていただろう。50年以上、もたなかっただろう。

 

 歯の寿命、歯が喪失する理由には、歯周疾患のような加齢に伴い、骨がなくなり自然に脱落する場合と、歯科治療による医原性の場合がある。50歳以上で歯を抜く理由の一つに歯根破折がある。これは歯の根っこの部分が骨の中で折れた状態を指し、強い痛みがあり、治らない、結局は歯を抜くしかない。こうした歯根破折は通常、交通事故などの外傷以外おこることではないが、根っこの治療そして、ポストと呼ばれる土台を入れた場合、起こりやすい。昔の教科書には、土台となるポストが外れないように根っこの半分以上の長くて太いポスト(メタルコア)を入れるが、その際に根っこの歯質が薄くなる。後年、加齢により歯が脆くなるとその部分が破折する。また根っこの治療そのものに問題があり、そこから膿がたまり痛みが続き、さらには抜歯しなくてはいけない場合がある。これも医原性のものがあり、同じ歯科医で、同じ頃治療された数本の歯が一斉に歯根嚢胞になる症例を何度も見てきた(矯正科では一年後ごとにレントゲン写真を撮るので、長期の経過を知ることができる)。一見すると根尖の先まできっちりと充填剤が入って、きれいな治療をしていると思われる症例で、こうしたことが多い。私の場合は、親父が根っこの治療をしている歯が1本あり、半分くらいしか充填されていないし、ポストも入っていないが、すでにこの歯も50年以上持っている。

 

  こうした歯の喪失理由を知るためには、多くの知識と経験が必要で、ここが一般歯科で最も難しい点である。クインテッセンスという歯科雑誌に載るようなすごい治療より、私の親父のようなしがない歯科医のやった治療の方が長持ちすることもあり、それは私の歯を見てもわかる。逆にほとんど全ての歯の神経を抜いて、太いポストコアを入れ、審美的な補綴処置をしている症例などを見ると、いつかひどいことになると思うのは私だけだろうか。一方、こうした派手な治療をする歯科医とは別に、私の尊敬する森克栄先生のように一本の歯を二十年以上経過観察する地道な治療をしている先生もいて、どこの歯科医院で治療するかは、歯の寿命を考える上で、決定的な要因になるように思える。友人の年配の歯科医を見ていると、経験を積むと歯科医も大掛かりな治療は避ける傾向がある。悪い歯のみ取り敢えず治し、あとは様子を見ながら、治療をする。人間の体を人工物に置き換えることは難しいという当たり前のことを謙虚に考えるなら、むやみに治療介入はできない。たとえ小さな虫歯があっても、あまり進行せずに、数十年間そのままの場合もある(私の歯も溝が少し黒くなった、いわゆるC0の歯が2本あるが、この歯も50年以上、虫歯が進んでいない)。こうした歯に対して治療して介入することは、歯の寿命を縮める。このあたりのさじ加減は経験が必要であり、若手の先生は教科書的に治療を行なってしまう。

 

 一方、ここ50年くらいの歯科医療の進歩を見ると、虫歯は減ったし、80歳で20本以上歯のある人も増えた。ただこれは、患者さん側の予防歯科への啓蒙によるものであり、何か革命的な治療装置、器材ができた訳でない。たとえば、治療が最も難しい、根っこの治療に関しても、いろいろな治療法が開発されたが、結局は50 年前とほとんど変わらないし、予後も変わらない。また最近のマイクロスコープを用いた歯根の治療も予後はいいというが、それでは森先生のスコープを使わない治療より予後はいいとは言えない。材料にしても、CADCAMによるセラミックのものができてきたが、やはり金が材質としても優れているのは私の歯を診てもそう思う。結局、虫歯がなく、歯髄処置もなく、歯周疾患にもきちんとケアし、いつも診てもらえる信頼の置ける歯科医がいれば、一生歯で困ることはないであろう。


2020年12月17日木曜日

クリスマス ペーパーハウス

 










 毎週木曜日の10時半から放送されるNHKの「世界はほしいモノであふれている」は、大変好きな番組で毎週欠かさず見ている。12/3の放送では世界各国の紙についての特集があり、その中で、ドイツ、ザイフェンのクリスマスハウスを紹介していた。クリスマスといえば、クリスマスツリーを真っ先に思い浮かべるが、ドイツのこの地方では、紙で作った可愛いクリスマスハウスを毎年、飾るという。番組では伝統的な装飾紙を各部に用いた凝ったクリスマスハウスが紹介されていたが、簡単なものならダンボールで作れるのではないかと思った。

 

 You-tubeで調べると、いろんなクリスマスハウスの作り方があるので、その中の一つを参考にして作ってみることにした。まず製作には最近、よく聞くグルーガンが必須のようなので、1000円くらいのものを購入した。アマゾンに注文したしたところ、例によって誇大包装で送られてきたが、そのダンボールを使ってそのまま作れた。カッターでダンボールを切り、グルーガンでつけていくだけなので、非常に簡単である。窓は薄いセルロイドを使い、屋根の瓦はダンボーより少し薄い、ボール紙を使った。どんどんグルーガンでつけていく。

 

 Youtubeの参考例では、最終的にダンボールに着色して仕上げているが、ダンボールに着色すると色が汚くなるので、画用紙を貼ってみた。すると、モノトーンもいい感じで、別に着色する必要はないと思い、空き箱を色々と探して、黒とアクセントに赤で、着色なしで作ってみることにした。本日の午前中で完成したが、家内がクリスマスケーキ用飾りを安く買ってきたので、簡単な台も作った。これでひとまず完成であるが、アマゾンで電飾用、HOゲージ用のLED電球を買い、内部を照明すれば、さらにかっこよくなりそうである。

 

 日本ではこうしたダンボールを使ったクリスマス用のペーパーハウスはあまりないようだが、実際作ってみれば、なかなか楽しいし、飾れば、それなりに美しい。流石に今シーズンはもはや遅いが、1年くらい、数十くらいペーパーハウスを作れば、NHK文化教室で「クリスマスペーパーハウスの作り方」の講師くらいにはなれそうである。昔に比べてネットによる注文が増え、どこの家でも多くのダンボールがあり、その処分には困る。お荷物のそうしたダンボールを利用して、ペーパーハウスが作れるなら、材料費がほぼタダでいろんな家を作ることができる。グール−ガンは本当に便利で、使い方にはコツがいるが、かなり接着力が強く、あっという間にくっつき、便利である。

 

 今回は初めての作品で、大まかなものになったが、ダンボールを使ったペーパーハウスの可能性は、グルーガンを使うことで非常に広がり、今まで無理と思われていた製作法ができる。例えば、入り口の壁面に小さな屋根を引っ付けたが、通常のノリではこうしたことはできないが、グルーガンを小屋根と片面につけ、2、3秒固定すれば綺麗にくっつき、大変楽で一度つければなかなか取れない

 

 製作は先週の日曜日と今日の2日間、実質は3時間くらいでできた。モノトーンでこれはこれで美しいが、飽きたら絵の具で派手な色を塗ってみようと思う。


設計図も提示するので、暇であれば、一度製作されたらどうでしょう。厚いダンボールを切るのは難しいが、製作自体は小学校の低学年でも可能であるので、お父さん、お母さんがカッティングのみ手伝えば、親子で楽しい経験ができよう。またシルベニアンの小道具があれば、中に入れて楽しむこともできる。屋内の照明をして、シルベニアンの家具を入れれば、窓から内部の状態が見えて楽しい。










 



2020年12月13日日曜日

江戸時代の美人画

 

現実にこんな顔の人はいない(江戸後期)。写実性は後退している


            
こういう顔の人はいる。婦女遊楽屏風図(江戸初期)



清朝 皇后 郎世寧

 江戸時代の絵画における不思議の点は、男性画についてはかなり写実的な作品が残っているのに対して、女性画については、浮世絵に代表するような面長で一重な特徴的な絵が中心で、ある意味、画一的な作品しかない。喜多川歌麿の「ビードロを吹く娘」の女性、似たような女性は今でもいるだろうが、個別のパーツを見ると、顔が長く、目が小さく、鼻が長く、口は極めて小さく、客観的に見れば、アニメのような極めてデフォルメされた女性像であり、とても写実的な表現とは言えない。

 

 西洋では、ギリシャ、ローマ時代から人を神になぞらえ、いかに写実的に表現するのかが、美の目標であった。さらにルネッサンス期になると、実際の女性の肖像画も増え、あたかも生きているかのような写実的な作品が数多く作られ、その頂点がダビンチのモナリザである。彼女と全く同じ人物が当時のイタリアにいたのだろう。これを見る限り、化粧法や服は現在とは違っていても、美人の基準はそれほど変化しないし、顔自体も変わっていない。

 

 日本について見ても、江戸時代は結婚をすると眉を剃り、お歯黒を塗っているものの、幕末、明治初期の女性の写真を見ても、今の女性と顔の作りはほぼ同じである。500年前のルネサンス期と今のイタリア女性がそれほど違わなければ、江戸時代の日本女性も今とそれほど違わないという仮説は成り立つだろう。もちろん化粧法や髪型、服装が違うが、現代の女性がタイムトラベルして400年前に行ったとしても、化粧法、髪型、服装を同じにすれば、それほど違和感はないと思われる。

 

 それでは、なぜ明治になって西洋画が入るまで、日本では女性の写実的な絵画はなかったのであろうか。一つは、中国、朝鮮、日本などの儒教国家では、男尊女卑が底辺にあり、女性は隠れた存在で、表立って出ることは少なかったし、社会的に活躍する女性もいなかった。それにより女性肖像画という分野が発達しなかったのも一つの理由であろう。それでも葛飾北斎の娘、応為のような女性画家も活躍していたので(極めて珍しい正面画がある)、自画像のようなものがあっても良さそうであるし、浮世絵が今のブロマイドのようなものであれば、より写実的、リアルなものの方が売れように思う。中国の写実肖像画といえば、イタリア人画家、カスティリオーネ(郎世寧)の作品があげられ、女性像としては乾隆帝の皇后、皇妃の絵があり、実に写実的である。あれだけ皇帝の寵愛を受けた郎世寧であったが、その後の清王朝ではその画風が継承されなかった。李朝朝鮮では、風俗画家の申潤福や金弘道らの女性像は単純な線に表現であるが、写実的な絵となっている。

 

 中国や朝鮮などにおいても、少数例ではあるが、かなり写実的な女性像が残され、日本でも渡辺崋山の「鷹見泉石像」のような実に写実的な男性像は多くあるが、このレベルの女性像は見当たらない。日本ではもともと鎌倉時代から南北朝時代にかけて人物をできるだけ写実的に描く似絵という文化があり、安土桃山時代でも例えば豊臣秀吉の妻、寧々の肖像画などは、日本画の手法でありながら、同時代の戦国大名と同じく写実的な肖像画となっている。

 

 江戸時代になると、浮世絵に代表される面長、一重の類型化された絵が一般化され、それ以外のものはない。東洲斎写楽を写実的な作家として評価し、世界三大肖像画の一人としてレンブラント、ルーベンスと並べる向きもあるが、写楽の絵はあくまで役者の特徴を大げさに表現しだけであり、決して写実的ではない。江戸時代最高の画家、葛飾北斎の肉筆画、肉筆春画を見ても、ついに写実的な女性像を見出せないことは大きな謎とも言える。ただ江戸初期に限れば、国宝「婦女遊楽図屏風(松浦屏風)」のように、一人一人の女性の顔が違う写実的な作品もあり、寧々の肖像画なども含めて、まだ似絵の文化は残っていたが、その後は明治になって西洋画が入るまで、画一的な浮世絵的な女性表現が一般的になった。浮世絵の女性像は、当時の男性に好かれた理想の女性が描かれており、例えば、写真そっくりなリアルな女性像は彼らにとってはグロテスクに思え、むしろアニメに出てくる女性、例えば、ルパン三世の峰不二子の方が美人に思えるような感覚が江戸の男性にあったのかもしれない。


2020年12月10日木曜日

大谷亮介

 



 テレビで、その顔を見れば多くの人が知っているのが俳優の大谷亮介さんで、テレビ朝日、相棒の三浦信輔警部補役で出ていた記憶のある人も多い。これといって代表作はないものの、名脇役の一人であろう。高校の親友の兄で、六甲学院サッカー部では3年先輩に当たる。サッカー部では、非常に巧みな技術を持つフォワードの選手で、進学校でありながら、この学年は兵庫県代表としてインターハイに出場した。

 

 実は、以前、是非ともNHKのファミリーヒストリーで大谷亮介を取り上げてくれと投書したことがある。というのは大谷さんの両親の歴史は、一つの小説になるほどユニークで、色んな分野の歴史に絡んでくるからだ。ところが

投書した当時、ちょうど俳優の高畑裕太の事件があり、その父親とだったことや、超有名でなかったことも採用されなかった一因かもしれない。ただその両親の歴史をこのまま埋めておくのはもったいないと思った。

 

 まず大谷亮介の父、大谷四郎は学生時代、サッカー選手として有名で、神戸一中から第一高等学校、東京帝国大学と進んだ。活躍時が昭和10年代という厳しい時期でなければ、日本代表として活躍したことは間違いない。戦後、朝日新聞に入社し、スポーツ記者として活躍した。当時の日本では、今では考えられないが、世界のサッカーについての知識は全くなかった。それを広めたのが大谷四郎記者で、このころ友人の家に行き、ペレのサインを始めて見せてもらった記憶がある。さらには兵庫県サッカー連盟など関西のサッカー界で尽力し、その功績により2009年には日本サッカー殿堂入りを果たした。兄の大谷一二も戦前の神戸サッカー界で活躍し、のちには東洋紡の社長、会長としてビジネス界でも活躍した。関西系の多くの日本代表監督(二宮洋一、加茂周、長沼健、岡田武史)がいるが、この大谷一二、四郎兄弟にルーツを持つ。そうした意味では、大谷兄弟の歴史は日本サッカー界の歴史にも繋がる。

 

 大谷亮介の母については、神戸サッカーの重鎮、賀川浩さんの「記者として、サッカー人として 大谷四郎」で“大谷さんの奥さんは、お父さんが朝比奈先生という東大の薬学の大先生で、かの有名なサッカーの神様`竹腰重丸が、東大の薬学部に入ったときの先生でした”としている。竹腰が東大に入ったのが1925年で、その時の薬学部の教授は朝比奈泰彦である。朝比奈泰彦は日本薬学界の重鎮で、文化勲章、文化功労者にも選ばれ、さらに1951年と1952年にはノーベル化学賞の候補となっている。もしこの時にノーベル賞を取っていれば、湯川秀樹に次ぐ二番目の受賞者になっていただろう。大谷亮介の伯父になる朝比奈正二郎は昆虫学者として有名で、またその弟の朝比奈菊雄は東京薬科大学の教授となり南極観測隊にも参加した。ただ朝比奈泰彦の長男は正二郎、三男英三、四男菊雄、長女かほる、次女千代とあるが、大谷亮介の母、福子の名はない(人事興信録、大正14年)。朝比奈泰彦の父は東京府士族、朝比奈和四郎といい、おそらく鎌倉幕府から続く朝比奈家の末裔であろう。

 

 こうした大谷亮介のルーツを見ることで、一方は草創期の日本サッカーの歴史を、もう一方はあまりテレビで取り上げられない日本の薬学の歴史を見ることができ、その意味は大きいし、さらにいうならスポーツライターの草分けの賀川浩さんも既に96歳、戦前のサッカーを知る他の関係者もかなり高齢となっている。ファミリーヒストリーは、全く無名の人物に焦点を合わせるのも良いが、こうした歴史の陰に隠れた人物にスポットライトを合わせてもいいと思うが。

2020年12月6日日曜日

Orientation Magazineに名前が載りました

 


以前ヤフーオークションで落札した香川芳園の作品です

謝辞に私の名前を載せてくれました


 毎週火曜日の7時半から9時まで、弘前市内のレストランでワインを飲みながら、歯科医の友人4名と英語の先生を交えて、英語のレッスンを受けている。かれこれ10年近く続いているが、予習、復習というものを一切せず、その夜に集まって、時事問題について語り合う。こうして書くと、さぞレベルの高いレッスンのように思えるが、使っている英語はほぼ中学生レベルで、わからない場合は、辞書を引きながら喋っている。もう少し真面目に勉強すれば、十年も毎週レッスンを受けているのだから相当上達して良さそうだは、実感としては全く進歩していない。

 

 それでもこの歳になっても毎週英語に接することで、外国人と話す、英語の雑誌、書類を見る、あるいは英語でメールを送るのに、抵抗が少なくなった。もちろん喋ると言っても聞いてもわからないことが多いし、きちんと喋れるわけではないし、メールを送るにしても、ほぼ全文、ネットで検索しながら書いている。それでもそれほど抵抗がなくなったというのが、自分でも大きな成長だと思う。

 

 先日、アメリカ、シンシナティーに住む友人のホウメイさんから郵便が届いた。彼女はシンシナティー美術館の東洋美術部門の主任で、同館にある“芳園平吉輝”の署名のある二つの作品について、一緒に調査した。その結果をまとめて論文が、東洋美術の老舗雑誌“Orientations Magazine”に掲載されたので、その雑誌を送ってくれた。私が調査に協力した資料についても取り上げられ、丁寧な謝辞にも感激した。矯正歯科医として、これまで何度か矯正歯科分野の論文を書いてきたし、最近では、弘前の郷土史についても本も何冊か書いたが、これとは全く分野の異なる美術雑誌に自分の名が出て、非常に嬉しい。

 

 よくよく考えれば、これも英語のレッスンをしていたおかげで、以前であれば、英語のメールや手紙がきたらかなり尻込みしたであろうが、数年前にホウメイさんから初めてのメールがきて以来、数十のメールのやり取りをし、かなり長文のメールも送った。もちろん、文法的におかしな英語であろうが、内容が伝わればと割り切っている。“芳園平吉輝”の件でも、途中から中国のコレクターのチェンチェンという方も論争に加わり、三人で意見交換した。ホウメイさんは、二年ほど前に来日し、それについても実際に会って議論した。こうしたことも全て英語のレッスンによるものであり、もしレッスンを受けていなければ、こうしたチャンスがあっても、美術雑誌に載るまで話が発展することはなかったと思う。

 

 “芳園平吉輝”についてはこのブログでも何度も取り上げたが、他にも最近発表されたベネチア大学の東洋美術をしている先生が書いた論文(イタリア語)にも私のブログが引用されていて嬉しく思っている。一方、日本では私のようなアマチュア研究者の研究など見向きもされない傾向があり、論文などで引用されることはない。郷土史において、個人的に一番大きな功績は“明治二年弘前絵図”に発見であると思っており、すでに図書館に寄贈しているし、デジタルデーターの使用許可も出している。ただ専門家の鑑定を受けていないという理由で、未だ非公開で、知人が監修していた弘前コンベンション協会の“弘前検定”の副本以外に活用されたことはなく、ほぼ無視されている。どうしても弘前大学教授などの専門的な肩書きが必要なのであろう。

 

つい愚痴をこぼしたが、それでも一介の歯科医の名が英文の美術雑誌に載せてもらったことは個人的に大きな名誉であり、素直に嬉しい。私が35年前に書いた不正咬合者の咀嚼能力は、この分野の研究をする人が少ないせいか、いまだに多くの論文で引用され、歯科学生の標準的な教科書“歯科矯正学”でも取り上げられている。教科書を持って実習に来る研修医に、いつもこのことを自慢しているが、もう一つ自慢できるものが増えた。

 

青森に来てすでに26年になるが、自慢ずきの大阪人の癖はなかなか治らない。


PS;  その後、友人のシンシナティー美術館のホウメイさんからのメールで、大英博物館所蔵の西山芳園作とされていた3つの作品は、芳園平吉輝の作と表記変更されました。

2020年12月3日木曜日

明鏡欄 ”西が上の弘前観光マップ” 補足説明

 

この方向の地図が一番見やすい

本日の東奥日報の明鏡欄に“西が上の弘前観光マップ”と題した文を載せた。弘前の町で、これまで何度か、地図を片手の道に迷っている観光客に遭遇し、道を教えることがあったが、どうも従来の北が上となる地図では説明しにくかった。例えば、弘前駅西口から降りて駅前の広場に到着したとしよう。晴れた日ならまず目に付く岩木山が前方にあり、駅前からの道もその方向に向かっている。ここで観光マップを開くと、岩木山はマップの左にあり、両者を一致させるには、マップを右に90度回転させる必要がある。もちろん文字も全て90度回転する。この状態で、目的地に探すのは非常に難しく、同じことは土手町でも弘前城周辺でもこうした問題が起こる。というのは、弘前市に住んでいる市民も、外から来る観光客も岩木山、弘前城方向を上にみるのが自然な感覚であるからだ。

 

これはどういうことかと言えば、推測であるが、もともと岩木山と十和田湖を軸として、弘前城の建設場所を設定し、そこに縦横の道を作ったと思われる。完全な碁盤の目ではないが、基本的には弘前城を中心に東西の道を決め、それに対して南北の道を作った。それゆえ、今のようにビルがない江戸時代では、この東西の道からは必ず岩木山を眺めることができ、その方向に歩いて行くことになる。ちなみに弘前駅と岩木山山頂を結んだ直線上に弘前城の旧天守があり、弘前駅を作るときにはそうした方位も検討されたのかもしれない。さらに言うならその先には十和田湖があり、さらに弘前藩主、津軽家の本貫のある岩手県の久慈までつながる。

 

こうした方位を中心として城下町を解析する手法は「近世城下町の設計技法 視軸と神秘的な三角形の秘密」(高見敞志著)などにも書かれているが、城下町を作る際には適当に作ったわけではなく、かなり方位を研究して作ったものと思われる。そうした事情を考えると、弘前市においても北を上とする地図よりは西を上とする地図の方が皮膚感覚としてはしっくり行く。

 

江戸時代の古絵図の上下を決定することは難しく、特に上下を決めていないと思われる絵図の多いが、一応、説明文、題が書かれていれば、その方向で上下左右を決定することにすると、正保元年(1644)の津軽弘前城之図では南が上となっている。慶安二年(1650)の弘前古御絵図および貞享二年(1685)の弘前并近郷之御絵図で地図の上下は不明であるが、年代不明の弘前御城下町割屋敷割では西が上、寛文13年(1673)の弘前中惣屋敷絵図では西が上、延宝5年(1677)の弘前惣御絵図では西が上、時代は下がるが明治二年弘前絵図(1868)も西が上となっている。北極星を北とする近代地図が一般化される明治まで、明らかに北を上にした弘前の地図はない。明治以降も、例えば明治26年(1893)の弘前市実地明細絵図では、中心部の建物を紹介する際に分かりやすさを求めたのか、西を上にした地図となっている。吉田初三郎が昭和10年に製作した弘前鳥瞰図は変わった方位となっており、東南方向を上にデフォルメしたものとなっている。これ以外にも多くの絵図があるが、個人的には西を上にした絵図が一番しっくりくるように思える。とりわけ古絵図を片手の町探索の絵図としては、詳細な絵図である弘前中惣屋敷絵図、弘前惣御絵図、明治二年弘前絵図などが参考になり、これらの絵図では解説文や題から西が上となっており、その方向に沿った観光マップを作って欲しい。

 

弘前は戦災がなかったところのため、江戸時代の街並み、特に道路は保存されている。そのため、古地図をアプリでスマホに入れられるなら、それを見ながら現在の弘前の街歩きができる。すでに弘前中惣屋敷絵図、弘前惣御絵図、明治二年弘前絵図はデジタル化されており、それをスマホにあげるアプリを製作すれば良い。もちろん古い地図のため著作権はなく、デジタル化も青森県がしたので、デジタルデータの著作権も問題ない(明治二年絵図のデジタル著作権はすでに放棄している)。新たな観光ツールとしてこうした古絵図を用いる方法も検討して欲しい。

2020年12月2日水曜日

マウスピース矯正の問題点

 


 一般歯科で、矯正治療をする際の大きな障壁は、まずセファロレントゲンを用いた検査、分析である。セファロレントゲンとは横顔を規格した大きさで撮影したレントゲン写真で、上下の顎の関係、歯の傾きなど、これを分析して調べる。ここが、最初の大きな躓きとなる。通常の歯科矯正のコースでは、このセファロのトレースに最低2日間、大学矯正歯科での新入医局員の研修では1ヶ月くらいかかる。さらに正しい分析、そして診断をするためには少なくとも五年以上かかる。またセファロレントゲンを撮影できる機器は特殊な機器のため、通常のパントモ線写真を撮る機器より高価で、場所もとる。そうしたことから、一般歯科でセファロレントゲンを設置しているところは少ない。特にレントゲンフィルムが全盛だった30年前までは、パントモX線写真撮影機と価格差が少なかったので、青森でもセファロレントゲン撮影機器を持つ開業医は多い。ただ最近、開業する先生はCT撮影機を持っていてもセファロレントゲン撮影機器を持つところはかなり少ない。CTでも広い範囲で撮れるものは、セファロレントゲンの代わりができるが、撮影範囲の狭いCTでは矯正治療のための分析はできない。


 次の大きな障壁は、マルチブラケット装置である。歯一本ごとにブラケットと呼ばれる矯正装置をつけてワイヤーの力を利用して歯を動かす装置で、矯正治療におけるメインの装置である。種々のテクニックがあるが、少なくとも習得には3年間、抵抗なくできるようになるには10年間、フルタイムでの治療が必要である。具体的な数値で言えば、治療終了ケースが200症例以上は必要であろう。矯正専門医のレベルで言えば、1000 症例以上が必要となる。一般開業医では、小児矯正も含めて年間で矯正患者は20-30名くらいであり、そのうちマルチブラケット装置を入れて終了する症例はせいぜい数例であろう。200症例以上、あるいは1000症例以上の終了するのはかなり難しい。結局、マルチブラケット装置はできないということとなり、最近では、こうした訳で一般歯科医向けのマルチブラケット装置の講習会も少なくなった。


 セファロ機器、その分析、診断、およびマルチブラケット装置のために、長い間、矯正治療は一般歯科ではできないものとされ、特に成人患者の矯正治療をする歯科医院は非常に少なかった。ところがここ数年、デジタル機器で口の印象をとる光学スキャナーが開発され、かなり値段も安くなった。さらにこれを用いてのCADCAMシステムによるハイブリットレジン冠が保険適用となり、急速に普及してきた。特にTRIOSという機器は、従来のスキャナーに比べて高い性能を持ち、口の型をとるためにあの嫌な思いをなくすことができる。ただ実際は、ハイブリットレジン冠の適用はそれほど多くなく、他の活用として上がったのがマウスピースタイプの矯正治療である。インビザラインを始め、多くの会社ができているが、基本的にはこのデジタル光学スキャナーで口の型をとるだけで、自動的に理想の歯並びまで少しずつ(0.2mm)変化させた40くらいのマウスピースを作られ、それを患者に渡すだけである。2、3ヶ月に一度、歯科医院で適合が治療の進み方をチェックするだけで、歯科医側の負担がほとんどなく、230万円の技工料に儲けを上乗せすれば、稼げるので楽である。中には100万円以上、上乗せしている歯科医院もある。マウスピースタイプの矯正治療では、セファロレントゲンによる検査をしない場合が多く、上下の顎の関係や、歯の傾きを一切無視して、機械的に理想の噛み合わせまで計画して装置を作る。とりわけ抜歯の治療では、マウスピースタイプの矯正治療では、失敗も多く、かなり細かなテクニックが必要なため、非抜歯での治療をすることが多い。

 

 こうしたマウスピースタイプの矯正装置は、アメリカのインビザライン社で始められ、当初は矯正専門医のみが講習会に参加できたが、数年前から一般歯科医の参加も認められ、いまでは受講者の80%以上が一般歯科医で、さらに多くのより安価なマウスピースタイプの矯正装置も現れている。マウスピース矯正のみを行う一般歯科医は、歯科矯正を特段に勉強をした訳ではなく、セフォロ分析など一般的な矯正検査をしていない、さらにマルチブラケット装置による治療テクニックも知らないためマウスピースタイプの矯正治療でうまくいかない場合はお手上げとなる。非常にリスクが高い。さらに言えば、セファロ分析なしで矯正治療を始め、治療を失敗すれば、仮に訴訟された場合はかなり不利となる。特にインビザラインは薬機法対象外のものだけに、その使用にはより慎重な配慮と説明を必要とする。

 

 マウスピース矯正に関しては、急速に広まったのはここ数年で、患者によるクレームは、1。面倒で使わなくなった、2。頑張って使っているのに治らない、3。治療結果に満足できない となる。1でも患者のせいにすることはできず、本人の協力を必要としない他の治療法、マルチブラケット装置による治療を勧めるべきである。2。についても治療法の工夫や同じくマルチブラケット装置への転換を必要とすることもあろう。問題は3であり、多くは口元が思ったより入っていないというクレームが多い。個人的な感想で言えば、特にでこぼこの患者では口元の突出感を併合しているケースが多く、小臼歯を抜歯してでこぼこの解消と同時に歯を中に入れて口元を入れるケースが非常に多い。おそらく70%以上だと思われる。こうしたケースに、多少、歯を削って小さくしたとしても非抜歯では口元を入れることができず、多くのケースで、その治療結果に不満が出る。もちろんこうしたことはマルチブラケット装置でも非抜歯で治療して、同じ不満が出ることがあるが、そうした場合は抜歯して治療を継続すればよい。もちろんマウスピース矯正でも抜歯による可能であるが、大概の場合は拒否され、そのままになっているようである。

 

 さらに問題となるのは、マウスピース矯正では、歯科医は患者を直接治療しなくても良いために、多くの患者を取り扱える。知人のM先生は、優秀な矯正歯科医で、日本でも最初にインビザラインを導入した先生である。最初は自分で装置を入れて試していたが、その内、自院でも治療の開始し、さらに患者が増えると、他院での治療を監修するようになり、今ではマウスピース治療のオーガナイザーとなっている。例えば、マウスピース矯正と直接対決する、見えない矯正、舌側矯正では、テクニックが表側に装置をつける方法より複雑で、一人の治療時間も最低30分、先生によっては1時間とる先生もいる。当然、年間で見られる患者数は決まってしまい、医院を拡張するためには、多くの矯正歯科医を雇う必要がある。一方、インビザラインでは、医院でのドクターのチェックはものの5分もあればいけるので、一人のドクターで年間に1000名以上の患者を見ることが可能で、能率が良い。手っ取り早く稼げるにはいい方法であるが、2、3年後には多くのクレームを抱えることになる。


 以上、マウスピース矯正をする場合でも、少なくともセファロ分析がなされていること、治らない場合でもマルチブラケット法でカバーできる医院での治療をお勧めする。


2020年11月23日月曜日

城西尋常小学校、時敏尋常小学校 卒業写真(明治および大正)

明治36年 時敏尋常小学校
 
大正8年 城西尋常小学校


 以前、ヤフオクで安価で購入した、明治から大正時代の卒業写真のうち、徳島県那賀郡立那賀実科高等女学校の卒業写真については、このブログで紹介した。それ以外の弘前市の城西尋常小学校と時敏尋常小学校の写真については、まだ説明していなかった。

 

 弘前のコロナ問題もようやく収束してきたので、本当に久しぶりに弘前図書館に行ってきた。四人がけの椅子に一人、1時間以内という厳しい条件で入場規制を行っていたが、普段から二階の資料室はそれほど人が多くないので、あまり変わらない。今回の目的は、ヤフオクで入手した写真の年代確認である。時敏尋常小学校の写真裏には、「時敏尋常小学校 第 回卒業生一同 及び職員一同写影 明治三十六年四月二十三日釜萢清蔵 謹写」の記載がある。西洋風の校舎の正面で撮影された写真の上段の真ん中には初代校長の中川寛蔵の姿がある。少し斜めを向きタキシードを着た人物である。明治194月に初代校長となり、明治443月まで校長を務めた。この西洋風の校舎は明治21年に下白銀町にできたもので、柱も西洋風の白いモダンな建物であった。明治36年当時の生徒数は455名で、学級数は8組であった。この卒業写真には男子42名、女子51名の計93名の生徒が写っている。他には男性教師、職員5名と女性教師2名がいる。時敏尋常小学校の卒業写真はこれ一枚である。

 

 城西尋常小学校の卒業写真は6枚ある。4枚については裏に撮影年月日が記入されている。一番古いのは「大正八年三月二十一日 卒業式 葛原岳一 卒業生一同 男 受持 健部武郎 女 受持 土谷先生 校長 白取千代次郎」の記載がある。白取千代次郎は7代目の校長で、明治36年から大正8年まで、在職したので、この写真は在任最後の年である。校舎は明治からの古い校舎である。残りの撮影年月日の記載されている写真は3枚で、いずれも真新しい校舎の前で撮影され、「大正十三年三月十七日 卒業記念撮影」、「大正十四年三月二十九日 卒業生一同」、「大正十四年三月 正夫城西小学校卒業記念撮影」の記載があり、写真の真ん中には当時の校長、外崎日出城の姿が見られる。外崎は大正10年から14年まで城西尋常小学校の校長であったので、この記載は正しい。残り二枚の写真には記載がないので、ここからは推測である。


 一枚の写真には古い校舎前の卒業写真で真ん中には外崎校長の姿が見られる。城西尋常小学校は大正1212月に新校舎を建てたので、この写真はそれ以前のものである。となると外崎校長の在職期間は大正104月から143月なので、この卒業写真は大正11年か12年の3月となる。もう一つの記載のない写真には、上段真ん中に少しいかついヒゲの男性がいる。“城西小学校百年史”を見ると、この人物は6代校長の長尾克己である。在職期間は明治33年から35年なので、この卒業写真は明治34年か353月の卒業写真であると推測される。男子は51名、女子は32名で、時敏尋常小学校より男子の割合が高い。また教師、職員7名は全て男性である。入り口、右には“外靴で入るべからず”の木板が掲げられている。多分、下駄を脱いで学校に入ったのだろう。同時期の時敏尋常小学校と城西尋常小学校の卒業写真を見ると、時敏の方が、女の子がおしゃれで可愛い髪飾りをしている女子が多いが、城西は少ない。校区により経済状態が多少違うのだろう。また明治30年代の卒業写真の女子はほとんど稚児髷であるが、大正になるとほとんどそうした髪型の少女はおらず、流行の移り変わりは早い。


できればこの卒業写真は城西小学校、時敏小学校に寄贈したいと考えているが、寄贈を受け入れていただければ、ご連絡をお待ちしている。


大正13年 城西尋常小学校

明治35年頃 城西尋常小学校







2020年11月17日火曜日

成人の矯正患者さんが増えています


 今年は、10歳以下の患者さんは、最後まで面倒を見きれない可能性もあるため、治療をお断りしています。というのは例えば、6歳で反対咬合のために、来院されたとします、前歯部が萌出する7、8歳頃からリンガルアーチ、セクショナルアーチによる前歯部のかみ合わせの改善を行い、最終的には成長を終了した高校生頃にマルチブラケット装置による仕上げの治療を行います。その後の保定も含めて10年以上の矯正管理が必要となります。今から10年、その頃までには引退したいと思っていますので、年少の患者さんについては、一般歯科からの先生の紹介も含めて来院をお断りしています。これには料金体系も関係しており、矯正治療は請負制なので、一度、受け入れれば、最後までの料金をいただいているので、責任を持って治療をしなくてはいけないからです。ただ唇顎口蓋裂の患者さんについては健康保険の対象で、最後は他の矯正歯科医に任せることができますので、引き続き、年少の患者さんも受け付けています。

 

 地方の矯正歯科医院では、成人より子供の患者さんが多く、私のところでも、これまで7割くらいは子供の患者さんですので、10歳以下の患者さんを断るのは、かなりの患者減少になると予想していました。また紹介いただく一般歯科の先生にも返書にそうした理由を書いたため、最近では10歳以下の患者さんの紹介はなくなりました。今年は、新型コロナウイルスの関係と子供患者の減少で、経営的にかなり厳しいと覚悟していました。ところが、成人の患者さんが例年より増え、結構忙しい状態が続いています。

 

 こうした成人患者の最近の増加は、私の診療所だけでなく、知っているだけで、北海道、仙台、福島、新潟、鹿児島の先生もそう言っており、これは全国的な傾向かもしれません。ただ大阪、東京の先生はそれほどではないというので、大都市以外の傾向かもしれません。患者さんに聞くと、今はどこに行くのにも、マスクをつけているので、であれば、矯正治療を今のうちに直し、2、3年後にマスクを外す時期になった時に綺麗な歯並びのなっていたいと言います。確かに、マスク生活下では、目に化粧の重点を移し、口元は口紅もつけないと言います。マスク美人という言葉もあり、マスクをつけていると美人だが、マスクを外すとそうでないとニュアンスを含みます。マスクを外して、目元、口元ともに美人になりたいという人が多いのでしょう。実は、都会では数年前から、成人矯正は大きなブームで、子供の頃できなかった歯列矯正を大人になってしたいと人が一気に増えました。ある雑誌で特集した“人生の中でやりたいことリスト100”の中にも矯正治療が入っているほどです。こうした大都市での流行が、新型コロナウイルス問題で地方にも広がったようです。

 

 ただ心配なのは、成人矯正が増えるのはいいのですが、それが通院、診療のあまりいらないマウスピース矯正(インビザラインなど)に向かうのは危険です。インビザラインについては薬事承認されていない製品であり、その適用にはかなり慎重になるべきで、患者さんからのクレームが多くあります。もちろんインビザラインも日々進歩していて、適用も広くなりましたが、非抜歯から抜歯の変更、ワイヤー矯正との併用、転換などが必要なこともあり、できれば矯正歯科専門医院で治療した方が良いし、あらかじめこうした点についても費用も含めて十分に説明を受けた方が良いと思います。


 

2020年11月8日日曜日

家での巣篭もりのお供 テレビ

 

左下は巣篭もりで作ったレゴのドカッティで、これは楽しめた。おすすめ


 弘前では、クラブ、スナックを起因として大規模なクラスターが起こり、なかなか収束しない。テレビで速報される毎日の感染者数に驚き、外出するのも躊躇してしまう。家と診療所だけの往復で、たまに家内と一緒に、ご飯の買い物に出るのが楽しみである。

 

 4月頃だったが、定額給付金で一人10万円、夫婦で20万円の特別定額給付金をもらえるというニュースがあった。その際、今見ているテレビは、購入してすでに13年以上になるので、思い切って給付金を使ってテレビを買うことにした。テレビ好きな私と家内にとって、テレビほど活用する家電はなく、思い切ってこれまで高くて手が出なかった有機ELテレビを検討した。というのは、映画が好きで、よく見るが、夜のベッドで恋人たちがゴソゴソしている暗い画面が液晶では全く見えないからである。肝心な部分が見えないのは腹立たしいことで、有機ELの方がこうした黒の画像表現に優れているという。

 

 近くのヤマダ電気に行き、最初はパナソニックの55型有機ELテレビを買おうとしたが、この機種は生産が少なく、入荷に日数がかかるとのことであった。そこで価格が高いが65型のGZ2000を勧められた。なんでも数々の家電大賞をとったテレビで、今販売されているテレビの最高峰という。4月頃はコロナ騒ぎで、電気屋もガラガラで、店員さんも何とか実績を上げるために、値引き攻勢で攻められ、かなり値引きした上に、ほぼ2TBのハードディスクをタダにしてもらい、セットで購入した。

 

 さすがにこのテレビは素晴らしく、特に4K画面は本当に綺麗で、たまに放送されるバレエや歌劇の放送には息を飲む。またパナソニックの宣伝通り、音抜けもテレビ設定に合わされているので、オーディオ機器をテレビにくっつけるより、はるかに聴きやすい。夜のシーンもバッチリと見られて、満足している。さらに素晴らしいのは、ネットとの接合で、ネットフリックやYou-tubeと簡単な操作ですぐに接続でき、これまでのチャンネル番組以外の新たなテレビの活用ができるようになった。すぐにネットフリックに登録し、“愛の不時着”、“裸監督”などを楽しんでいる。また65型で見るyou-tubeもコンピューターで見るのと迫力がまったく違い、ふと気づくとチャンネル番組よりこうしたネット配信のものを見る時間が長い。検索機能の入力には時間がかかるが、音声入力も優れていて、テレビに向かった叫ぶことがしばしばあり、滑稽である。

 

 私がヤマダ電機に行ったのは4月だったので、人が少なかったが、その後、5月になると特別給付金でテレビを買おうと思ったお客が多く、電気屋に行ったうちの従業員に聞くと、ごった返し、値引きも少なかったという。多分、パナソニックのGZ2000は相当に売れたはずだし、買った方の満足度も高いと思う。以前、3D、立体に見えるテレビが登場して、一部、番組でも3D放送が行われていたが、いつの間にか下火になった。4K放送もまだ一部であり、テレビのリモコンには4Kのボタンがあり、そこを押すと6社くらい放送局の番組をしており、大部分はBS放送で兼ねている。ただ映画などは明らかに4K放送の方が明るく綺麗で、“男はつらいよ”などは、もっぱら4K放送で見ている。

 

 将来的には少しずつ巣篭もり状態も解消されてくると思うが、それでもテレビは娯楽の王様であり、4K、8Kが今後とも主力になっていくのは間違いない。私の家では、ソフトバンクエアーを使っているが、5G普及がさらに進むと、こうしたワイヤレス置き型WiFiも光通信なみの速さになり、4K8Kのネット配信も安く、見られるだろう。また最近のカメラでは4Kの動画撮影もできるため、ネットの配信はますます高精度のものになろう。3Dテレビより高精度の4K8Kの映像の方がよほど立体的に見えるから不思議である。おそらく将来的には、ソフトバンクエアーのようなワイヤレス置き型WiFiが、5Gで月に3000円くらいなら全世帯に普及し、そうした暁にはモニター代わりの大型のテレビが一家の主力となり、仕事、教育、買い物、さらには医療の一部もほとんど、このテレビでできるような日が来るのだろうとコロナ問題の最中に思った。

 


2020年11月6日金曜日

新型コロナウイルス 弘前市の風水の綻び


 

東向きの北斗七星の柄杓の真ん中の二つの神社が消滅した


 弘前では新型コロナウイルスの感染が止まらない。10月のはじめ、繁華街、鍛冶町のクラブから発生したクラスターは、一次、二次、三次感染を発生し、すでに関連を全て入れると200名以上の感染者となっている。人口十万人あたりの感染者数では100名以上と思われ、東京都が300人であることを考えると、全国でも有数の感染地域となっている。10月までは感染者が0だっただけに、住民にとっては悪夢のような災難である。こうした大量のクラスターを起こした原因は、初動の対応、特にクラブ従業員の中に感染兆候が現れた時の保健所の対応が悪いと言われるが、今まで一人の感染者が出なかった油断もあったのだろう。こうした人為的なミスは確かにあったのだが、私自身は運が悪かったとしか言いようがない。いくら注意してもこの新型コロナウイルスは感染する可能性があり、私自身、かなり感染には気をつけているが、それでもいつ感染するかは運次第である。

 

 昔の人は、新型コロナウイルスのような疾患を疫病、厄災と呼び、お祓いをして清めた。ところが今回、弘前市ではこうした疫病、厄災から市民を守るねぷた祭りを結局しなかった。昔から続く祭りには意味があり、京都の祇園祭も同じような意味を持ち、今年は山鉾巡行こそ中止になったものの、“神籬による神幸祭”、“御幣による町内巡り”は例年通り行われ、町内の厄災を清めようとした。密集にならないように、隠れるように運行したが、それでもかなり本格的ものであった。ところが弘前では、ねぶたの本来の意味が失われ、観光エンターメント化して、市長が中止といえば、そのままねぶたを巡行しなかった。本来の意味を知れば、誰かゲリラ的運行もあるかと思ったが、結局、弘前城東(東地区町連合会ねぷた)以外、誰も運行せず、実に素直であった。城東の葛西敞さんはねぷた歴史の第一人者なので、意味を知り、敢えて行ったのだろう。


 弘前を風水で守る鉄壁の防御がここ数年で極めて弱くなっている。まず全国の東照宮でもかなり古く、1617年にできた弘前東照宮が2012年に破産し、さらに2015年には本殿も建物だけ他の場所に移され、完全に更地となった。北斗七星の真ん中を占める重要な拠点神社が完全に消失した。さらに禰宜町の江戸初期からある大杵根神社もいつの間にかなくなって更地になっていた。前から奥に隠れて目立たない神社であったが、何もなくなっているのには驚いた。ここも古い神社で、私の感覚からすれば、古い神社を平気で潰してばちが当たるとは思わないのだろうか。また新しくできた弘前レンガ倉庫美術館近くの稲荷神社、住吉神社の荒廃もひどい。北斗七星を形成する二つの神社がなくなり、一つは荒廃しており、風水の観点では東からの厄災には全く防御できなくなっている。防御は一番弱いところから崩れていき、その崩壊箇所が東であり、東から厄災の悪い気が流れ込んだ。

 

 こうしたオカルトめいたことを医者が書くというのは科学的ではないが、一方、郷土史の研究家としては、先人の築いた弘前の結界を容易に崩した最近の出来事にバチが当たったように思える。神社は日本人の自然信仰を体現する重要な場所であり、その設置には、何らかの風水あるいは意味を持たせた。人々は日照り、害虫、冷害などによる農作物被害を恐れ、神に祈った。こうした天災は人間の力ではどうしようもないからだ。また疫病、飢餓によって多くの人々が亡くなった時も神に祈った。そして村、地区の守護神として神社を作り、氏子を結成して大切に保存してきた。村には氏神様を祀った小さな神社があり、それを氏子の何名かの名義で保存してきたが、そうした村の有力者、氏子が亡くなると、その子供は“俺の名義の土地だから売って金をくれと”と言い出し、結局、神社の土地が人手に渡り、売られる例もある。一部の神主がいる神社は所有権がはっきりしているが、こうした小さい神社は村の共同保有である場合があり、村の共同体制が崩れると崩壊する。

 

 弘前での新型コロナウイルスの蔓延は、もちろんこうしたオカルト的なものによるものではない。ただお寺への墓参りは盛んであるが、さて神社の参拝というと正月くらいしかないのでなかろうか。私は、結構、神社にお参りに行く方で、自宅にも診療所にも小さな神棚があり、毎日、拝んでいる。大阪では、自宅や会社に神棚があるのは、ごく当たり前で、えべっさんの福笹などもここに飾る。今は一刻も早い新型コロナウイルスの終焉を祈っているが、どうも仏壇ではこういう訳には行かず、昔の家の多くは、仏壇と神棚が同時にあった。弘前の神社の衰退を見ると、こうした家庭での日常の祈りも減っているのだろう。残念である。

2020年11月4日水曜日

現代アートの額縁

 

たばたせいいち さんの絵本原画

タカノ綾さんの新作


 家の新築祝いや誕生祝いに絵をプレゼントする人も多いと思います。最近では、部屋も洋風になり、古臭いモチーフの絵よりは、現代絵画を選ぶ傾向があると思います。現代絵画は、従来の額縁に収まる絵からの脱却を図っているため、額縁なしでの展示を基本にしているものがあり、絵によってはキャンパスの側面にも図柄が描かれている作品があります。ただ絵の展示からすれば、額縁に入れておいた方が保管の点では優れており、また人にプレゼントするためには、やはり額縁をつけて贈った方が喜ばれます。

 

 私は、古い掛け軸が好きですが、診療所にはまさか掛け軸は飾れないので、現代絵画もどきのものを中心に飾っています。画廊などで飾っている現代絵画を見ると、白あるいは白木の立体額に浮かして飾っているようです。厚みのある額縁に額装マットを使わず、額縁内部の背面に絵を固定して使います。オークションで買った丸山直文さんのアクリル画の作品もそうした額に入っていましたが、ただ作品自体はそれほど厚い水彩紙に描かれていませんので、湿気を吸ってシワができています。できれば、額装マットを使った飾ったほうが保存には良いと思います。

 

 また額縁の色については、白もいいのですが、私は写真も飾れるため白木のものが好きです。白木の立体額に額装マットを使って展示しています。ほとんどの額縁は、「額縁のタカハシ」から買っています。安くて大きさも指定できるからです。前は立体額の19mmのものを使っていましたが、白木の種類がなくなり、今は7916希という23mmの立体額の白木のものを使っています。大きさにもよりますが額装マットも含めて3000-5000円くらいです。それほど高くはありません。部屋の中の額縁を全て白木の立体額に統一するのも、いいでしょう。

 

 上の写真は、最近亡くなった絵本作家、田畑晴一さんの“ダンプえんちょうやっつけた”の原画です(一枚は“だんち5階がぼくのうち”の原画です)。もともと字の入る場所は空欄ですが、どうも間が抜けているので、絵本から字の部分をコピーして貼っています。いずれもヤフーオークションで購入したものです。こうして5つの作品をまとめて並べると、白黒の絵ですが、楽しい雰囲気が出ます。気に入っています。

 

 下の写真は、ごく最近買ったタカノ綾さんの新作版画です。Kaikai kikiを扱うZingaroで購入したものです。店舗販売をせずにネット販売だけで、この作品も10分くらいで完売しました。ただその後、メルカリやヤフーオークションで転売事例がたくさんあることから、ファン以外の購入者も多かったのかもしれません。調べるとタカノ綾さんもかってほどの人気はないようで、少し画風が飽きられてきたのかもしれません。それでも日本人作家の中で海外でも知られた作家の一人で、今回の版画も50部という製作数には惹かれます。若い患者さんの多い私の診療所には似合っています。

 

 以前、フィンランドのイラストレータ、マッティ・ピックヤサムさんのイラスト原画が、神戸のMarkkaというお店で、6000-12000円くらいで売っていました。額縁も入れて10000-18000円くらいで、友人に贈ると大変喜ばれましたし、またアメリカの友人には、明治版画の楊州周園の作品をヤフオクで、1万円くらいで購入し、プレゼントしましたが、これも大変、喜ばれました。ヤフオクで“シルクスクリーン”などで検索すれば、比較的手頃な現代絵画の作品が見つかりますので、何かいいプレゼントと考えている人はご参考にしてください。


2020年11月3日火曜日

滅菌・消毒コーナーの改装

 

改装前

改装後


 厚生労働省から新型コロナウイルス感染症の院内の感染拡大を防ぐ取り組みを行う診療所に“感染拡大防止等支援事業補助金”が出ることを知ったため、以前から改装しようと思っていた滅菌・消毒コーナを直した。建具屋さんとなんども打ち合わせをして、狭いコーナをいかに有効に使うかということに頭を絞った。一番の改善点は、滅菌、消毒した器具の保管場所で、これは前回の保健所の調査でも指摘されていた。矯正器具は全てオートクレーブ、乾熱滅菌、薬液などで滅菌、消毒するが、それを保管する場所がなく、引き出しにしまっていた。紫外線殺菌保管庫などに入れておくようにと指摘された。こうした歯科用保管キャビネットは市販されていて、それだけをつけるのも一つの方法だが、いっそ滅菌・消毒コーナ自体が改装したいと考えていた。

 

 もともと歯科の中でも、矯正歯科は感染予防策が一番遅れていた分野である。矯正治療はワイヤーを曲げて口に入れるだけで、歯を抜いたり、根っこの治療をしたり、注射もしないので、あまり感染に対して注意を払っていなかった。昔、40年ほど前だが、ワイヤーを曲げるプライヤーも数本、ラックに入れ、患者さんの治療を終えればアルコール綿で拭いて再度使うのが普通であったし、ブラケットやワイヤーなども一回使ったものを再利用することもあった。1980年頃、鹿児島大学矯正歯科では、使用するプライヤー数を最低限に減らし、患者ごとにキットを組んで使うようにしていた。その当時、こうしたシステムをしていた歯科大学はなく、ほとんどの大学の矯正歯科、矯正歯科診療所では、プライヤーの使い回しをしていた。矯正治療には感染予防策をそれほど必要がないとされていたからである。今でも稀に円形のプラスティックのラックにプライヤーを入れて使い回しで使っている矯正歯科医院があるが、珍しい。以前、転医した医院がそうした使い周りのシステムだったので、他のところに変えて欲しいという患者がいた。

 

 もともと日本の歯科は、欧米に比べて感染予防対策は徹底されていなかった。欧米では今回の新型コロナウイルス以前も、感染防御ガウン、手袋、フェイスシールド(メガネ)、ディスポ機材などが当たり前のように使われていた。日本ではインプラントの手術など特殊な状況以外はここまでしない場合が多かった。欧米では30年ほど前にエイズが増え、特に歯科医院で感染したというキンバリー事件以降、こうした感染予防策が一般的になった。ところが日本では欧米ほどエイズ患者が増加しなかったので、感染予防策の対応が遅れた。ただ今回の新型コロナウイルスにより日本の歯科医も欧米並みになったと思われる。かなり重武装した歯科医の姿を見ても、最近は患者さんも驚かなくなったどころか、安心するようである。

当院でも、入り口での手指のアルコール消毒、体温測定、治療前のうがい、頻回な接触部分の清掃などは当たり前になってきたし、お恥ずかしい話であるが、以前は勝手に患者一人に手袋一枚として、手袋をつけたままカルテの記載などもしていたが、それもいちいち取り替えるようになった。もちろん全てのハンドピースはオートクレーブにかけている。空気清浄機の個数も増やした。

 

 患者さん同士が待合室で被らないように、基本的には同じ時間帯には一人しか予約を入れていないが、それでも家族数人でくる患者さんがいて、狭い待合室でソーシャルディスタンスが取れない場合がある。患者さん以外の付添いの入室を禁じる診療所もあるが、まだまだこの状況が続くなら、こうした対応も取りにくい。出来るだけ少ない人数で来て欲しいし、少なくとも待合室でも会話はご遠慮して欲しい。どうしたことか新型コロナウイルス問題が発生してから、急に患者、特に成人患者が増え、なかなか予約ができない状況が続いている。患者さんが増えているのに、混雑しないようにするのは難しく、予約に当たっては患者さんにご迷惑をおかけしている。



2020年11月2日月曜日

迷宮グルメ異郷の駅前食堂 青森編2

 

笹餅をここで売っている

 先週の金曜日の“迷宮グルメ異郷の駅前食堂”青森編の第二弾は、津軽鉄道の芦野公園駅から金木駅まで約1キロくらいのロケである。芦野公園は、春になると桜が有名で、五所川原市周辺の人々の憩いの場所、弁当などのお花見道具を揃えて家族で行く。公園の野外ステージでは民謡などが演奏され、そこで酒を飲んだりして、待望の春をみんなで楽しむ。

 

 ところが番組では、見た通り、普段はほとんど人はおらず、グーグルマップで確認すると、芦野公園駅から339号線を南下し、スーパーストア金木タウンセンターで寒いので服を買い揃える。この店は、先日、NHKのプロフェッショナルでも放送された桑田ミサオさんの笹餅が売っているところで、1袋2個入り、170円で販売しているが、全国でもこの笹餅を食べるのはここで買うしかない。開店と同時に売り切れなのだろう。

 

 その後、ヒロシさんは金木駅方面に歩いていくが、私は逆に金木公園から芦野公園まで歩いたことがある。さすがに食堂はもう少しあった気がする。どの道を歩いたのかはわからないが、それでも見事なほど町は寂れている。この番組ではイタリアのポンペイの遺跡がある駅に降りた時でも、ポンペイ遺跡に入らなかったくらい見事に名所を外す。ところが金木駅ではさすがに太宰治記念館「斜陽館」に入らないと尺が取れなかったようだ。

 

 こうした見知らぬ駅で降り、周辺を散歩するのは思い出となる。昨年の今頃、青森県鯵ヶ沢町で、養護教員向けの歯科矯正についての講演会があった。鯵ヶ沢にはホテルグランメール山海荘というホテルがあり、二度ほど利用したことがある。いいホテルで温泉も良い。ただこの時は五能線の鯵ヶ沢駅前から送迎バスでホテルに直接行ったので、鯵ヶ沢町そのものは全く知らない。そこでこの講演会では、講演開始の2時間前に着くような電車に乗り、鯵ヶ沢駅から歩いて会場に行くことにした。今回のヒロシさんの旅と同じような寒くて、雨の降る日であったが、駅から少し歩くと、昔の海沿い街道が現れ、そこから講演会場である公民会まで歩いていくと街道沿いには色んな店があり、そういえば鶴瓶の“家族で乾杯”でこの鯵ヶ沢を舞台にした回があったのを思い出し、そこで出会った店も発見した。昼飯はどこにしようか迷い、最終的には鯵ヶ沢町のはずれにある地魚屋食堂 たきた という店を発見し、そこでヒラメのずけ丼を食べたが美味しかった。まだ時間があったので“海の駅 わんど”というところで買い物をして講演会場に向かった。わずか2時間くらいの散歩であったが、観光地でないこうした駅に降り、色んなところに歩くのも面白いと思った。全国に観光地と呼ばれるところが500箇所あるとしよう。それ以外の何万箇所という観光地でない場所が存在し、そこにもそれぞれ面白いところがあると思う。ヒロシさんの迷宮グルメの旅も、コロナウイルスの関係でしばらく海外ロケはできないだろうが、こうした無名の駅は日本にはたくさんあり、そうしたところを訪問するのも、ヒロシさんらしく、楽しいと思う。


 このあと、秋田で2つほど撮影したようだが、どこだろうか。できれば少し大きな街として大館市を勧めたい。ここは昔の鉱山があり、古い料亭が残っているし、昭和の雰囲気もする。是非ともキリタンポも食べて欲しいところである。駅としては大館駅より東大館駅の方が鄙びていて駅前の雰囲気も素晴らしい。さて秋田編はどこを撮るだろうか、楽しみである。


2020年11月1日日曜日

三菱スペースジェット 事業凍結

 


 三菱の国産旅客機“スペースジェット”の事業凍結のニュースがあり、個人的には大変ショックです。YS-11以来の国産旅客機で、期待しただけに今回の報道は、新型コロナウイルス問題の現状では仕方ないと思いますが、同時に95%完成しているだけに、ここで諦めるのかと悔しい思いも強くあります。三菱重工株も買って応援していたのですが、結局、株価は買った値段の半分で推移しています。

 

 三菱のスペースジェット(MRJ)は、本当に運のない機体です。2008年から始まった機体開発は、主翼を炭素繊維複合材から普通のアルミに変えるなどの大きな計画変更があったものの、201511月に初飛行にこぎつけ、順調にいけば、ここから23年でアメリカ連邦航空局の形式証明を得て、販売になるはずでした。ところが、ここでボーイングなど航空業界の妨害なのか、大規模な変更を要求され、もともと形式証明にはこれといった正解がなく、日本人の開発スタッフはアメリカの暗黙の了解を理解していなかったことによります。そのために開発スタッフをボンバルディアなど海外メーカーから引き抜き、一から開発をやり直し、最新の変更が行われた機体ができたのが2020年の3月でした。ここで新型コロナウイルス問題に巻き込まれ、試験試験もストップしました。10号機までの試験飛行時間は3900時間を超え、おそらく後、200-300時間で形式証明は取れたように思えます。


 2017から2019年に続いたボーイング737maxの墜落事故は、その原因が連邦航空局への形式証明でも計器の虚偽報告があったことが判明したため、スペースジェットの審査もより厳しくなった可能性が高いと思います。さらにカナダのボンバルディアからの訴訟、あるいはブラジルのエンブラエル社のボーイング社との企業協定など、幾度もの困難に直面し、もう少しで形式証明が得られ、量産できるとなった時点で、新型コロナウイルス問題が発生し、全てが中止となりました。本当に、数々の試練にありましたが、今回のコロナウイルス問題は、スペースジェットの最大顧客である日本のJALANAもひどい経営状況となり、結局、飛行機購入どころでなくなりました。


 今後、JALANAなどの航空会社が、コロナウイルス前の状況に戻るには、少なくとの23年はかかると思われ、その間は、既存の飛行機を何とか使い支出を減らすしかありません。これは世界中の航空会社も同じです。こうなると航空機需要は相当、厳しく、ボーイング社ですら、経営困難になるかもしれません。

 

 一方、小型飛行機、90席以下の飛行機は、カナダのボンバルディアがすでになくなったことから、生産はブラジルのエンブラエルしかありません。ところがこのエンブラエル社も株価が5年前、40ドル近かったが、今や4.5ドルまで、ほぼ1/10になる程暴落しています。今後も飛行機の需要は少なく、さらに資本提携していたボーイング社も経営危機のためエンブラエル社との資本提携は白紙になりました。今後、エンブラエル社は、さらに経営が厳しくなることも考えられ、倒産の可能性もあります。


 一方、アメリカでは運用協定、席数76席以下、最大離陸重量39トンに、スペースジェトMRJ90は抵触するため、席数を減らしたMRJ70を開発していますが、これに該当する機種は世界中にないため、協定の変更がなければ、売れ筋になる可能性もあります。今の所、数年後の景気回復を待ちながら、まずMRJ90を何とか形式証明まで持っていき、並行してMRJ70の開発をスローダウンしながら待つしかありません。エンブラエルが倒産すれば、100席以下の小型旅客機を生産する会社はなくなることから、その時こそ、再び勝機が訪れます。生産を開始してから中止するよりは、今の時点で開発を減速する方が被害は少ないかもしれません。コロナ問題が収束すれば、必ず小型航空機の需要は出てくるので、今は辛抱の時です。次期戦闘機F3の開発が、三菱重工に決定しましたが、今後、アメリカ企業との協力が不可欠で、その際、スペースジェット開発の経験が生かされると思います。負けるな三菱。


2020年10月22日木曜日

名士かくし芸大会

 

ちょっと恥ずかしい大会である




 弘前に来て驚いたことの一つに、“職場対抗 名士かくし芸大会”という催しがある。弘前の経済、文化の著名人が集まって、年の暮れ12月に行う。今年で37回というので、それほど古い大会でもないが、会社の社長さんやお偉いさんが、普段威張っているが、この大会でおどけた姿を見せて皆で楽しもうという趣旨であろう。もちろん歳末チャリティーという名目があり、収益はどこかに寄付するのであろうが、自分たちを名士と呼んでいる段階で、すでにかなり古臭いもので、戦前くらい、少なくとも1970年代くらいまでであれば、何とかこうした趣旨の大会も成立したと思うが、1980年代になって、誰が考えたのか、大会を行い、それが37回も続くとは驚く。弘前市民会館大ホールという定員1300名くらいの会場で、1500円の入場料をとり、審査員がいて、大賞、弘前市長賞などもあり、青森県知事や弘前市長も仮装して参加することもある。流石に最近は、職場対抗と銘打って、会社の従業員の参加も増えたが、そもそもは会社のお偉いさんが出る大会である。今時、日本でも名士という言葉は死語となっているし、会社の忘年会で隠し芸をすることもなくなった。

 

 こうした大会が行われる背景として、一つに弘前市のスノビズムがあるようだ。もともと士族の町として港町の県庁所在地、青森市をバカにするような気風があり、さらに維新後も、士族を中心とした社会が築かれていたので、士族階級を中心としたスノビズムがあった。例えば、昔の弘前図書館長は代々、士族出身者で、利用者が生意気な口をきけば追い出したという。またサムライ言葉というものが存在し、津軽弁でも独特の言い回しが有ったという。流石に今はこうしたことはないが、一方、今、これを継承しているのが、弘前商工会議所とその弟分の青年会議所であり、ここの上層部のメンバーを中心としたスノビズムとヒエラルキーが今でもある。先輩—後輩関係、関連企業の上下などである。県庁所在地の青森市と違い、弘前市では地場の店が多く、店の歴史も長い。こうした会社の人が商工会議所を牛耳り、さらには弘前市の観光コンベンション協会でも役員のほとんどが、またロータリークラブ、ライオンズクラブ、倫理法人会、異業種交流グループなども商工会議所の人が多い。弘前市役所との関連も強く、ある意味、こうした集団の同じメンバーが結婚式、葬式、忘年会、新年会、飲み屋などでしょっちゅう交流している。同じメンバーが週に23回会うのも珍しくない。


 個人的には立派で尊敬すべき人も多いのだが、なにしろいつも同じメンバーで動いているので、どうしても独善的になりやすい。私も以前、弘前ロータリークラブに20年ほどいたので、そのころはそこそこの付き合いがあったが、辞めると商工会議所に入っていない私にはほとんど接点がなくなり、会うこともなくなった。ある意味、特殊な集団で市長選や市会議員選挙で大きな力を持つので、市に対する影響力も強い。もちろん商工会議所のお偉いさんは、各職業別の組合のトップであることも多く、その集団のヒエラルキーの頂上にいる。弘前市のこれ以外の影響力を持つ集団は、弘前大学と医、歯、薬の三師会があり、商工会議所のメンバーからすれば、前者は全く無視、後者とも仲は良くない。さらに弘前大学で言えば、普通の学部の教授はただの研究者で、弘前市、弘前市民との接点もほとんどないが、医学部の教授が医師会と関係して影響力を持つ。また商工会議所の上下関係が縦糸とすると、横糸には学校閥、弘前では弘前高校と東奥義塾閥があり、両者の同窓会は対立している。こうした商工会議所—市役所を中心とする縦糸と高校閥が横糸となって、弘前のいわゆる名士と呼ばれる集団が形成されており、こうした傾向は多かれ少なかれ、日本中の中小都市で見られる現象であるが、弘前市ではもともと県外者に対する警戒、言葉の違いから受け入れにくい体質があること、さらに県庁所在地であれば、全国規模の会社の支社、支店があり、県外者の流入も多いが、ここでは弘前大学関係の職員、学生以外の県外者の流入は少なく、勢い弘前で生まれて、育って人が大多数となり、それがまた県外者の阻害につながる。


 明治のジャーナリスト、陸羯南の有名な詩に“名山出名士 此語久相伝試問厳城下 誰人天下賢”がある。岩木山という名山があるが、ここには本当の名士がいるのかという反問である。陸さん、心配いりません、弘前では名士かくし芸大会が毎年開催できるほど、名士がたくさんいるところです。


弘前市長も出ています