2020年12月3日木曜日

明鏡欄 ”西が上の弘前観光マップ” 補足説明

 

この方向の地図が一番見やすい

本日の東奥日報の明鏡欄に“西が上の弘前観光マップ”と題した文を載せた。弘前の町で、これまで何度か、地図を片手の道に迷っている観光客に遭遇し、道を教えることがあったが、どうも従来の北が上となる地図では説明しにくかった。例えば、弘前駅西口から降りて駅前の広場に到着したとしよう。晴れた日ならまず目に付く岩木山が前方にあり、駅前からの道もその方向に向かっている。ここで観光マップを開くと、岩木山はマップの左にあり、両者を一致させるには、マップを右に90度回転させる必要がある。もちろん文字も全て90度回転する。この状態で、目的地に探すのは非常に難しく、同じことは土手町でも弘前城周辺でもこうした問題が起こる。というのは、弘前市に住んでいる市民も、外から来る観光客も岩木山、弘前城方向を上にみるのが自然な感覚であるからだ。

 

これはどういうことかと言えば、推測であるが、もともと岩木山と十和田湖を軸として、弘前城の建設場所を設定し、そこに縦横の道を作ったと思われる。完全な碁盤の目ではないが、基本的には弘前城を中心に東西の道を決め、それに対して南北の道を作った。それゆえ、今のようにビルがない江戸時代では、この東西の道からは必ず岩木山を眺めることができ、その方向に歩いて行くことになる。ちなみに弘前駅と岩木山山頂を結んだ直線上に弘前城の旧天守があり、弘前駅を作るときにはそうした方位も検討されたのかもしれない。さらに言うならその先には十和田湖があり、さらに弘前藩主、津軽家の本貫のある岩手県の久慈までつながる。

 

こうした方位を中心として城下町を解析する手法は「近世城下町の設計技法 視軸と神秘的な三角形の秘密」(高見敞志著)などにも書かれているが、城下町を作る際には適当に作ったわけではなく、かなり方位を研究して作ったものと思われる。そうした事情を考えると、弘前市においても北を上とする地図よりは西を上とする地図の方が皮膚感覚としてはしっくり行く。

 

江戸時代の古絵図の上下を決定することは難しく、特に上下を決めていないと思われる絵図の多いが、一応、説明文、題が書かれていれば、その方向で上下左右を決定することにすると、正保元年(1644)の津軽弘前城之図では南が上となっている。慶安二年(1650)の弘前古御絵図および貞享二年(1685)の弘前并近郷之御絵図で地図の上下は不明であるが、年代不明の弘前御城下町割屋敷割では西が上、寛文13年(1673)の弘前中惣屋敷絵図では西が上、延宝5年(1677)の弘前惣御絵図では西が上、時代は下がるが明治二年弘前絵図(1868)も西が上となっている。北極星を北とする近代地図が一般化される明治まで、明らかに北を上にした弘前の地図はない。明治以降も、例えば明治26年(1893)の弘前市実地明細絵図では、中心部の建物を紹介する際に分かりやすさを求めたのか、西を上にした地図となっている。吉田初三郎が昭和10年に製作した弘前鳥瞰図は変わった方位となっており、東南方向を上にデフォルメしたものとなっている。これ以外にも多くの絵図があるが、個人的には西を上にした絵図が一番しっくりくるように思える。とりわけ古絵図を片手の町探索の絵図としては、詳細な絵図である弘前中惣屋敷絵図、弘前惣御絵図、明治二年弘前絵図などが参考になり、これらの絵図では解説文や題から西が上となっており、その方向に沿った観光マップを作って欲しい。

 

弘前は戦災がなかったところのため、江戸時代の街並み、特に道路は保存されている。そのため、古地図をアプリでスマホに入れられるなら、それを見ながら現在の弘前の街歩きができる。すでに弘前中惣屋敷絵図、弘前惣御絵図、明治二年弘前絵図はデジタル化されており、それをスマホにあげるアプリを製作すれば良い。もちろん古い地図のため著作権はなく、デジタル化も青森県がしたので、デジタルデータの著作権も問題ない(明治二年絵図のデジタル著作権はすでに放棄している)。新たな観光ツールとしてこうした古絵図を用いる方法も検討して欲しい。

5 件のコメント:

シラトアキラ さんのコメント...

中尊寺の山頂山王ヶ嶽と小泊岬の尾崎山を結んだライン上に弘前城が位置し、更に岩木山と弘前城と十和田湖御倉山を結んだラインの延長に久慈城が位置します。この様な例は山岳山頂、城郭、古代城柵、寺社、環状列石などのポイントに全国至る所に見られます。自分は100ヶ所以上のラインをGoogleearth上に引きましたが、その理由などが未だ不明で、つまり記録されたものがないので、弘前の古文書などで記載されていればと期待しております。

広瀬寿秀 さんのコメント...

大きな流れでは、岩木山ー弘前城ー十和田湖御倉山などのラインがあり、小さなラインは弘前市内にも多く見られますが、私の知る限り古文書などにこうした記載はありません。意図的にラインを引いて街を作ったと思います。それ故、そうした街づくりに沿った地図としては、西、正確には西西北を上にした地図の方が、町に隠された秘密を知るにはいい方法と思います。実は、明治八年ごろの城西地区の地図には道幅も記載されており、現在の道幅とそれほど変わりませんし、道そのものも江戸時代と変化はなく、今の道から見る景色はビルなどの建物を除くと、江戸時代と同じ景色となります。古地図を片手に街を歩くと、色々と古い町の仕組みがわかり面白いと思います。2013.3.31と2013.3.28の記事でもラインの一部を提示しましたが、さらに色々なラインが引けると思います。

シラトアキラ さんのコメント...

”確かに何もないところに、全く新たな町を作れといわれても、何の根拠なく、勝手につくるというわけにはいかない。弘前城、当初は高岡城を作る時にも、何らかの目印を中心に作られたのは間違いない。”との2013年の文章は全く同意します。ラインを偶然の産物とみるには、余りにもゲシュタルトの法則を根拠に建造物を定礎する動機或いは理念を無視した考えだと思います。但し、もし測量をしたのであれば”点の記”のような野帳とかの古文書があるはずと思い、探してはおりますが、知られざる古代、北緯34度32分の水谷慶一氏の著作のみが、手元にあるだけです。それも後追いの推察です。小生の先祖も昔、弘前の代官町や桶屋町に住み、朝な夕な御山を見上げては手を合わせて拝んでいたかと想像しています。

広瀬寿秀 さんのコメント...

弘前藩の縄張奉行、東海吉兵衞は本来なら築城後に秘密を守るために自害することになっていましたが、優秀なために命拾いしました。築城はそれほど藩にとってのトップシークレットであり、記録には残らなかったのでしょう。
高見敞志先生の「近世城下町の設計技法ー視軸と神秘的な三角形の秘密」(技報堂出版、2008)は各地の城下町をいろんな図形により調査しています。面白い本ですが、絶版です。中古本が手に入ると思います。夏至や冬至の日の入り、日の出の方向も関係があったたように思えます。昔は正確な地図はないと反発する人もいますが、方位に関してはかなり正確、例えば十和田湖の方角などはしっかりわかっていたと思います。

シラトアキラ さんのコメント...

SIGMAカメラのことなど、先生には啓発を頂き有難うございます。御本は探してみます。石工が殺されるということは聴いたことがありますが、縄張を担当した奉行が自害するということは始めて聞きます。視軸の設計は都市計画にとって景観、吉兆などから重要な事だったのは分かります。方位についても縄文時代から環状列石設計にも反映されています。古代城柵しかりと。弘前城の定礎について、まずは久慈城の位置を決定したという観点から、自分のホームページに掲載してみました。訪問者が殆どいないサイトですが、宜しければ御笑覧下さればうれしいです。https://hayabusadandydayon.blogspot.com/2020/12/blog-post_7.html