2007年9月30日日曜日

菊池九郎 2



菊池九郎は、弘前市長坂町で生まれた。明治4年の士族在籍引越之際の図からは、現在の31番地あたりに菊池九(郎?)の記載がある。前に紹介した北辰堂の右斜め前あたりである。長坂町は今でも格式ある家並みが続く、静かな町で藩政時は中級武士の住んでいたところである。菊池家は南北朝ころまでさかのぼる名家で、津軽藩初代藩主の為信ころから仕えた。父新太郎は奉行を勤め、知行100石の中級武士であったが、早くに亡くなり、奈良家から嫁いだ幾久子は大変苦労しながら多くの子供たちを育てた。幾久子は、14歳の時に父奈良荘司を亡くした。正義のために重役と争い斬に処せられたためである。そのため家禄も没収され、少女時代から貧苦に悩まされたが、悲憤に沈む母をなぐさめながら、家計を支えた。本当に賢明な婦人だったようだ。ところが幼児期の喜代太郎(九郎)はあまり勉学には興味がなかったようで、今でいうところの登校拒否であったようだ。当時は論語などを幼児期から私塾に行って学ぶことは通例であったが、喜代太郎はだだをこね、行くのをむずかり、隣家の成田茂佐衛門になだめすかされてようやく登校していたという。幼なじみで生涯の友人の本多庸一は、幼児から才能が光り、対照的であった。
幕末期、津軽藩は佐幕につくか薩長につくかで、藩論は二分された。隣藩の秋田藩が幕府に反感をもち、薩長側につくと判断した津軽藩は庄内藩と連携して秋田藩を討とうと決まった。その使者として選ばれたのが菊池、本多、石郷岡らであった。彼らは庄内藩の藩主に会い、津軽藩は徳川側につくと決定した事情を説明し、同盟関係を結んだ。ところが彼らの留守中に藩内は事情はすっかり変わり、官軍側につくことになってしまった。帰藩してこのことを知った菊池らは多いに怒り、脱藩してそのまま庄内に行ってしまった。藩政奉還後、脱藩者であった彼らは処罰を受けなくてはいけない身であったが、信義をつらぬいた彼らを責めることはできず、また若い彼らに期待していた。
明治2年6月には藩主津軽承昭に随行して菊池は上京し、7月には慶応義塾に入学した。翌年3月には鹿児島留学を命じられ、鹿児島藩の英学校に入学し、その後兵学校に移り、砲術、兵制の研究を行った。ここで多くの知己を得るとともに、西郷隆盛に敬慕した。明治4年冬に弘前に帰り、作ったのが、東奥義塾である。
菊池九郎は決して傑出した才能ももつひとではなかったが、母幾久子と西郷隆盛を生涯尊敬し、敬慕し、それがかれの人格を形成したと思う。その純粋でやさしい人柄は教育者として、東奥義塾から優秀な人材を輩出した要因となっている。多感な青春期はひとの影響を受けやすく、教育とは最終的には教師の人格そのものが生徒に影響する。

2007年9月25日火曜日

菊池九郎 1


菊池九郎(1847-1926)は、全国的には知名度は低いものの、青森にとっては非常に重要な人物である。東奥義塾を創設し、数々な人物、珍田捨巳、山田兄弟、今和次郎、一戸兵衛などを育てた教育者としての功績は大きい。傑出した人格者として知られ、後藤新平などにも影響を与えた。これまでにも引用した 中学生のために弘前人物志(弘前市教育委員会)から引用する。明治期の人物を知るいいエピソードである。

「私は、6歳の時に父に死なれたため、叔父である菊池家に引き取られました。多忙な叔父は、あまり家に居ませんせしたが、それでも家のいるときは、少しものんびりしていません。小包の紐が落ちていれば、丁寧にほどいて束ねて抽き出しに入れたり、裏へ出てりんごの虫をとったりします。衆議院議員や市長という肩書きはそっちのけにして、道路に落ちている馬糞をひろい集めてきては、りんごの樹の肥料にするなど、よく働く方でした。叔父は、誰にでも親切で公平だったので、家に働いていた下男などは「旦那様の為なら、死んでもいい」とまで云ったものです」(菊池知学)
「明治25年頃、私は東京の先生のお宅に、足かけ3年ほど寄宿していました。そして、この家では主人、家族、雇人などが、みな平等に仕事をしているのに驚きました。たとえば、ランプを掃除したり、雨戸を開けたり、使いに出たりというのは、普通は書生がするのにに、ここでは家族の誰でもがやっています。食事のときも、先生、母上、書生、女中までがズラリとならび、主人も女中も、みな同じ物を同じように食べているのです。食事の時は無言で静かに箸をとるのが普通ですが、この家では、家族が談笑しながら食べます。平生家族と語り合う時間の少ない先生が、この食事の時間を利用していたのでしょう。ただ、西郷南州の話になる時は、先生は箸と茶碗をおき、両手を膝の上にのせて話をし、終わると再び箸をとって食事をしました。いかに西郷南州先生を敬慕していたかを、この事でもよくわかると思います。」(船水武五郎)
今の政治家、こんな人物がいるであろうか。

2007年9月8日土曜日

健康保険の適用できる不正咬合 顎変形症


手術をしないと上下のあごのズレを改善できず、かみ合せも作れないような症例では、その術前、術後矯正治療は健康保険が適用できます。一番多いのは下あごが上あごより大きい、下顎前突の症例です。噛み合わせは反対咬合となります。このような症例では、通常上下のあごがずれていても、何とか咬もうと上の前歯は飛び出て、逆に下の前歯は中に入り、上の奥歯が広くなっています。そのためあごのずれが例えば10mmあっても前歯のずれが3mmといこともあります。これは補償作用といいます。検査を行い、あごのずれが10mmと決定すると、今の位置から10mm下げた状態で咬むように手術の前に準備しておくことが術前矯正です。通常、上の小臼歯を2本抜いて、その隙間を利用して上の前歯を中に入れていきます。ブラケットをつけてワイヤーとゴムの力で歯を動かします。大体、術前矯正には1年半くらいかかります。
手術法で一番多いのは上の図にある下顎枝矢状分割術と呼ばれる方法です。もともとは開発者の名前をとってDal Pont-Obwegeser法とされていましたが、日本でも1970年代ころから盛んに使われるようになりました。最初のうちは分離した骨をワイヤーで軽く固定し、骨がくっつくまで大体4-6週間、上下の歯を縛っていました。そのため入院期間は長くて患者さんは大変でした。最近では固定にチタンでできたネジやプレートを使うため1-2週間くらいの入院になりました。大変進歩したものだと思います。
術前矯正は正確なゴールを目指しているため、手術が当初の予定と1mmでも狂うと、かみ合せがくるってしまいます。そのためサージカルガイドプレートと呼ばれるプラスチックの板を用意して、下あごを正しい位置に動かすガイドとして、その位置で固定します。このあたりの手技が大変微妙で口腔外科医の腕によります。
術後の問題として一番多いのは、下唇下部のしびれと触覚の鈍麻です。小さな神経が手術により切られることと、分離した骨を固定する際の圧迫によるものです。多くの場合は自然に解消しますが、鈍麻が続くことがあります。ただごはんつぶがついてもわからないといったくらいのものです。あと矯正医として深刻なのは、固定のズレと術後の後戻りです。ガイドを使ってかみ合せを合わせても、分離した骨を引っ張って固定してしまうと当初の予定とは違ってきます。また移動量の10-20%は後戻りしますので、それによってもかみ合せがくるうことがあります。ガイドを入れて1週間くらいは上下の歯を縛って固定しますが、それを解除する時はいまだに緊張します。
大学時代はすべて自分の患者の手術に立ち会い、一部手術にも手伝わせていただきましたが、大変細かな手術で、口腔外科の先生方も神経を使うと思います。
かみ合せと顔貌が劇的になおる治療法ですが、手術に伴うリスクもありますので、十分に検討して治療を受けられたらいいと思います。