2007年12月30日日曜日

花の回廊 続き



 宮本さんと私は9歳違います。伸仁少年6年生のころは3歳だったため、ほとんど当時の記憶はありません。5,6歳ころからの記憶は鮮明ですので、その頃の尼崎を話したいと思います。

 尼崎は今でもそうですが、工場の街です。海沿いにある旭硝子の大きな煙突からはもくもくと煙が出て、それが街の誇りでもありました。難波小学校から伸仁くんの住んでたアパートまでの界隈は、中小の工場が建ち並び、朝からクレーンで機械を運んだり、何かを作っている音がしていました(今ではラブホテルなどになっています)。さらに住宅地やアパートの合間に数坪程度の小さな下請けの工場がいっぱいあり、すごい音を出して、旋盤加工などがおこなわれていました。当時は今と違い、騒音もそれほどやかましくなかったようです。機械油の臭いのする工場内には、いつも金属の削りかすがうずたかく積まれていました。工場の煙で洗濯物にすすがつき、こどもたちにも喘息が多かったようです。うちの姉はそのため実家の徳島県に1年ほど療養にいっていました。

 朝の通勤時には、上下灰色の作業服を着た若者が、それこそざっくざっくと足音がするほど、毎日たくさん通っていました。まるで兵隊の行進のような情景です。鉄工所や旋盤工場に行くところなのでしょう。夕方になると、酒屋の奥のスタンドで、工員たちががするめやおでんなどを肴に安い日本酒を飲んでいる光景があちこちにありました。その頃の酒屋は今と違い、酒を売るだけでなく、奥の方に立ち飲みのカウンターがあり、安い居酒屋になっていました。昭和43年頃の三和商店街の写真はここに載っています(http://www.geocities.jp/yahho_ama/y_196809deya.html)。伸仁くんや友人の月村くんが新聞を売りにいったのはこんな所です。昭和40年ころには百万ドルといった有名なキャバレーもでき、ネオンに飾られた飲屋街は目がくらくらするほど眩しかった記憶があります。また映画館、芝居小屋、ヌード劇場などもありました。

 当時は下水道も完備されておらず、道の横には小さなどぶや幅1.5mmくらいの排水路もありました。蘭月ビルの裏にもこんな排水路があったようです。子供たちはおしっこの飛ばしっこをしていたものです。伸仁くんのアパートの東のある庄下川はこういった生活排水や工業排水が流れ込み、どろどろしてメタンガスが発生し、すごい臭いがしていました。

 伸仁くんが通っていた難波小学校は、マンモス校で、一学年6-7組ありました。卒業生の多くは昭和中学校(現 中央中学校)にいき、私立中学校にいくひとはほとんどいなかったと思います。美少女咲子も昭和中学校に、優秀な兄は多分県立尼崎高校に行っていたのでしょう。難波小学校卒業の有名人としては確か漫才のダイマルラケットのどちらかが卒業生だったと聞いたことがあります。まだ始まっていない第6部では、伸仁くんも卒業後私立の中学校に行きますが、このような環境で育つと私立の学校の生徒にかなり違和感を感じると思います。私の場合も、周囲の生徒が芦屋や神戸の子が多く、小学校時代はどちらかというとおぼっちゃんだったのに、入学当初は変にがらが悪そうに見られようとしていました。尼の子はおまえらとは違うといった変なプライド?のようなものがあったのかもしれません。それも1年ほどですぐに慣れてしまい、遊ぶのも神戸の方に行くようになりました。

 宮本さんの作品は美しい物語が多いのですが、その意味でも流転の海シリーズ、花の回廊は宮本さんの原体験が色濃く反映された作品で、やや異質な感じがします。作家としての視点と原体験からの視点との折り合いが難しかったのでしょう。在日のひとの扱いがやや後付けな感じがして違和感があります。同様なことは映画「パッチギ」でも1では違和感なく楽しめたのですが、2では戦争問題が出てきて変な映画になってしまっています。過去の話の中に、今の考えが語られると、当時そんなことを当事者でもないのに考えていたのかとちゃちゃも言いたくなります。

2007年12月27日木曜日

FM放送



 午前中にFM青森のドクターズ・コンサルティングという番組の収録を受けました。月曜日から金曜日の10:45からの10分くらいの番組です。夏、秋とこれまでも2回ほど収録しましたが、子供の矯正治療という同じテーマでは飽きられますので、今回は大人の矯正治療というテーマでしゃべらせていただきました。

 4回分の収録をいっきにしますが、途中電話が入り中断したり、休診日なのに患者さんが来たりして、なかなか収録も大変です。以前は歯の衛生週間でFMアップルウエーブで3度ほど話させてもらいましたが、こういった収録も随分慣れてきました。

 テレビに最初に出たのは、サッカーの神戸市中学選抜の一員として広島選抜と試合したときです。御影中学の先生に引率され、広島市の国泰寺高校で試合を行いました。メキシコオリンピックの主将である八重樫茂生が解説で、広島の地元放送局で放映しました。録画でしたので、宿舎でみんなと見た記憶がありますが、ゴールキーパとして絶好調の試合で、完封に押さえることができ、0対0のドロー試合でした。

 次にでた?のは、鹿児島大学にいた当時、離島診療で3か月ごとに十島村という、鹿児島と奄美大島の間にある吐噶喇列島を歯科巡回診療に行ってたときです。NHKの全国放送の収録で、30分ほど離島歯科診療の話をしました。当然、放映されると思い、家族にも話していたのですが、放映では一切カットされ、大恥をかいた記憶があります。NHKというのは随分たくさん撮って編集するのだなあと思いました。その後、矯正の話は、鹿児島放送や青森放送でもしましたが、放送時間の関係で誰も見ていません。

 今回の話も知人の歯科医から、頼まれてたものです。当初は一回のみということだったのですが、こう何回も話すとなると、ネタも切れてしまいますし、宣伝と思われるのもいやですので、次回からは誰かに振ってみたいと思います。

 写真は日本テレビの夏名アナウンサーです。ばっちり矯正装置が入っています。おそらくは治療期間の短縮を図ったのでしょう、セルフライゲーションブラケットのデーモンブラケットのようです。

2007年12月26日水曜日

陸羯南賞



 今年は陸羯南没後100年にあたり、各種の催しが弘前で行われました。弘前文化センターで行われた記念展も多くの市民が来場され、関心の深さがうかがわれました。弘前市民への認知度は多少高まったと思われるます。しかしながら数年前、弘前商工会議所が提唱した「陸羯南賞」については、あまり進展していないようです。日本新聞協会では日本のピュリツアー賞としてボーン・上田記念国際記者賞がありますが、あまり知られていませんし、国民みんなから認知されたものでもないようです。

 「陸羯南賞」を作ったとしても、それが名誉ある賞として認められるためには、審査が厳正であることが条件となります。弘前市、あるいは弘前市商工会議所で主催しても、なかなか審査員を集めることは難しいと思いますし、費用もないでしょう。むしろ日本新聞協会と協力して、現在の新聞協会賞あるいはそれに準じる賞として「陸羯南賞」を作ったらどうでしょうか。今までの選考方法を変え、各新聞社の社長と有識者が自社以外の新聞記者あるいはジャーナリストを選ぶというやり方もあると思います。反骨のジャーナリストという基準で選択するのもよいのかもしれません。鎌田彗著「反骨のジャナリスト」の中で描かれている秋田の むのたけじさん などはまさにふさわしいでしょう。新聞社を退職して秋田の横手で一人で週刊「たいまつ」を発行し続けたジャーナリストです。毎日新聞社の社長北村正任氏も青森県の出身ですので、いいチャンスだと思います。

 このことをある記者に話していたところ陸鞨南と言っても全国的には知名度が低いからなあと言われました。このことで思い出すのは、知の巨人南方熊楠のことです。私が最初に南方熊楠を知ったのは高校生ころで、平野威馬雄著「くまくす外伝」(昭和47年)を読んでからです。多少誇張して熊楠の驚くべき人物像を描いています。それまでも平凡社で南方熊楠全集なども出され、一部のひとからは評価をされていたのですが、この本が熊楠ブームの原点と信じています。その後は鶴見和子はじめ、多くの作家による熊楠の本が出され、今の評価につながっていったと思います。ちなみにこの本を読み、熊楠に感化された私は神戸の古本屋に行き、熊楠全集を買って読もうとしましたが、あまりの難解のため中断しました(確か十二支考を含めた3巻です)。その後鹿児島から青森にくる時に近所の古本屋に売りにいくとこんな重い本はただでもいらないといわれショックをうけました。結局は捨ててきました。

 陸羯南も今のところ、くまくす外伝の出版前の状況かもしれません、何らかのきっかけでブレイクする可能性があると思います。平成21年からNHKスペシャルドラマとして「坂の上の雲」が始まります。羯南がどのように扱われるか期待しています。反骨のジャナリストとしての知名度が上がることを祈っています。そして陸羯南の生誕の地、弘前で「陸羯南賞」が表彰されればと思います。

2007年12月23日日曜日

編集のお仕事


 どの学会でもそうですが、学会誌を発行することが、学会の大きな仕事のひとつです。大学勤務時代は九州のある地方会雑誌の編集委員を長らくしていました。その後、開業してからはずっと東北の地方会雑誌の編集委員をしています。さらに以前編集理事をしていた日本臨床矯正歯科医会雑誌と別の全国的な学会誌の査読も行っています。

 日本臨床矯正歯科医会雑誌では、編集理事でしたので、編集のすべてを経験しました。通常、まず原稿集めから仕事が始まります。開業医の多い学会では、先生方も仕事が忙しく、なかなか原稿を書いていただけません。そこで学会などでこれはと思った研究をピックアップして発表者に論文作成をお願いするのです。何回も催促してようやく、原稿をいただくと、編集委員会を開催して、次は査読者を探します。2ないし3名のその分野に詳しい先生を選び、無記名にして原稿を送り、査読してもらいます。結構きびしい意見を書いてくる先生も多く、無理いって書いてもらった著者にきびしい査読結果を送るのは、なかなか難しいもので、中には怒られたりします。締め切りにも追われながら、ようやく訂正原稿がくると再び編集委員会で討議して印刷所に送ります。場合によってはページ数が多くて、大幅に減らしてもらうこともあり、一度な著者のところまで行って、半分にしてもらったこともあります。印刷所では活字を組み、著者に校正をしてもらい、OKとなって印刷に入ります。材料屋の広告集めも大変ですが、1冊の雑誌になると本当にうれしく思います。

印刷所の仕事も何度か見学に行きましたが、今やほとんどコンピューターでなされます。原稿の入力や編集はすべてパソコンで行い、アルミの版に出力され、それを印刷機にセットして、すっていきます。あっという間に印刷されてきます。まるで大型のプリンターのような感覚です。

 最近の学会誌では英文号もありますが、どういう訳がここ数編、英文論文の査読をまかされます。特に英語が得意でもないのに、どうしてわたしのところに英文論文が送られてくるか不思議です。さらに最近では、すべて所定のメールでやり取りされる上、査読結果も英文で書かなくてはいけません。どうみても日本人の書いた論文なのになぜ英文で査読しないといけないかわかりません。通常の論文の倍以上の手間がかかります。ネーティブから見れば、とんでもない英語です。著者には大変申し訳ないと思っています。

 他人の論文を読み、批判することは簡単ですが、実際論文を書くのは大変なことです。まして開業しながら論文を書くのは時間的にも非常に難しいと思います。大学時代は年に2編以上は書こうと志していましたが、開業してからは2、3年にひとつくらいになってしまいました。来年こそは是非1編は書いてみたいと思います。

2007年12月19日水曜日

珍田捨巳 6


 私の好きな論客のひとりである松本健一の近著「畏るべき昭和天皇」を読んだ。大変面白く一気に読めた。この本の中で、松本氏は昭和天皇を、明治人が作った絶対主義的な専制君主システムが破綻した昭和の時代に、たった一人で戦った「畏るべき」ひとであるという評価を下している。そして摂政時代のヨーロッパ外遊がその人格形成に決定的な影響を及ぼしたとしている。外遊による「カゴの鳥」からの脱却が、昭和期の無責任の軍人、政治家の中で唯一国際感覚をもつ常識人であり続けた。それまで無口で弱々しいとみられた昭和天皇がこの外遊を契機に驚くべき成長を遂げたことが記されている。この本の中で、珍田に関連することがあるので、ピックアップしたい。

 大正10年のイギリスにおける歓迎晩餐会での、昭和天皇の「堂々たる御態度」、「玉音朗々、正に四筵を圧するの概」に駐英大使の吉田茂は感嘆している。ただ公式晩餐会での通訳をつとめた珍田の声は小さく、「英語巧みなるも声量不足」され、それ以降は東宮御用掛の山本信次郎(海軍大佐)に変えられている。デポー大学で弁論を行い、パリ講和会議でもファイターと知られる珍田は、日本語はともかく、英語での演説は朗々としているが、この時期はむしろ外交官僚としての態度が備わっており、通訳としては向いてなかったのかもしれない。随行員のひとり「竹下勇海軍中将の述懐」で「三名(閑院宮、珍田、竹下)殿下の御挙動に就いて、尚未だ御直しにならざる点二三ヶ所あり。珍田伯、涙を流して言上したり、余も軍人が敵陣に向かい突入し、又は敵艦隊と交戦するは決して難事にあらず。唯だ殿下に諌言を言上するは至難中の難事なり。之を敢えてするはよくよくの事と御召され、御嘉納あらせらるることを切望申上げるに、賢明寛大なる殿下は能く御嘉納あらせられたり」。珍田の真摯な態度が垣間見られる。おそらくこの外遊中、珍田は折にふれ、欧米事情、国際平和協調、国際法、立憲君主制度など教えた。外遊中、宮中とは違い、天皇と臣下の距離はより近かったのであろう。珍田はパリ講和会議では人種差別撤廃案などを提出し、非白人国やアメリカ黒人の賛同を得る一方、中国の二十一か条要求の取り消し要求や韓国併合などの件については無視し、自国のためにダブルスタンダードも平気でできる外交のプロでもあった。そんな珍田からすれば若き天皇の成長を喜ぶ一方、欧米白人社会のしたたかさをまだ教えきれなかった悔いがあったのかもしれない。
戦後、昭和天皇が積極的にキリスト教を宮中に取り入れ、わざわざ皇太子の家庭教師にクリスチャンを指名したたことを、松本は占領軍に対する天皇のしたたかさとしており、その後の押し返しをみると実際その通りとは思うが、その脳裏にはキリスト教徒であった珍田や牧野らの姿をなつかしみ、また自分の人格形成によかったと思ったのかもしれない。珍田らの明治期のクリスチャンの思想基盤は、武士道や国家あるいは国体の上に築かれたものであり、外交や天皇の教育に宗教が登場することはなかったと思われる。

2007年12月16日日曜日

インプラント矯正


歯を動かす場合、動かしたい歯だけでなく、動かしたくない歯も動きます。抜歯をして、前歯を中に入れたいと思っても、奥歯も前に動きます。このことを固定といって、奥歯をどれだけ動かさないようにするかで、最大固定、最小固定などと呼ばれます。とくに問題になるのは、いわゆる出っ歯(上顎前突)の症例で、多くの場合、上の奥歯を動かさないようにして前歯を最大限後ろに送るように計画されます。

従来は、ヘッドギアーと呼ばれる、ベルトや帽子のような装置を10時間程度使用してもらい、奥歯が前に寄らないようにしていましたが、なかなか大変で、とくに成人にその装置の使用を勧めるのには抵抗がありました。

10年ほど前から一部矯正医がインプラントを固定源にして歯を動かす試みをするようになりました。歯が無くて、そこにインプラントを入れる症例などに限り、それを利用して歯を動かしていました。その後、矯正用として小さなネジタイプのインプランやチタンのプレートを用いたより強固な固定のできるものが登場しました。この分野での韓国の企業の躍進はすさまじく、ここ数年は数多くの矯正用のインプラントが登場しました。現在では一般の歯科インプラントと区別してTAD(テンポラリーアンカレッジデバイス)と呼ばれています。矯正期間中の1、2年くっついてくれればいいからです。

当院でも2,3年前から利用し、ようやく終了患者も出てきました。固定がきっちりできるため、かなり計画通り治療ができ、助かっています。一方、脱落するケースも多く、特に骨の未成熟な成長期の患者さんへの使用は禁忌となっています。成人、20歳以降の患者さんのみ限り用いています。ヘッドギアーのような装置を使わなくて楽だと思うのですが、患者さんによっては手術が怖いのか、拒否されるひともいます。当院では矯正治療で抜歯する際に、口腔外科の先生に頼んで一緒にインプラントを入れてもらうようにしています。

矯正用インプラントは、上顎前突の多いアメリカでは今最も脚光を浴びており、専門誌でもその特集ばかりの1年でした。ただ矯正用インプラントが登場したからといって矯正自体の基本は変わるものではありませんし、小児の治療には使えません。

2007年12月13日木曜日

キリム 1


 セネのキリムです。もう少し、細かい画像を載せたいのですが、どうもBloggerのアップロードの調子が悪く、かなり容量を落とさなくてはいけないようです。
 このセネのキリムは数年前の兵庫県西宮のアートコアで購入したもので、非常に気に入っています。セネはイランの北西部にある都市で、現在はクルデスタン州の州都サナンダジとなっています。18世紀、ペルシャ中央政府はクルド人の統治を容易にするためこの地にテヘランから役人を派遣し、都市を作りました。その際、クルドの伝統的文化とペルシャのモダンな文化が融合され、キリム、絨毯も独特な発展をしました。
 キリムというのは、あくまで絨毯の脇役たるもので、多くのキリムはだいたい絨毯をやや省略したデザインとなっています。極端な例では、絨毯を包む布代わりにキリムが使われていたようです。絨毯は財産と考えられていましたが、キリムはどちらかというと日常品と考えられていたようです。そのため1970年ころ世界中でキリムがブームになるまで、商品とはあまり考えられていなかったと思います。
 セネのキリムも、絨毯同様、かなり緻密に作れており、真ん中にメダリオンがあり、花を変形させた独特の模様(ヘラティ文様)も絨毯をデザインを変形させたものと思います。めまいがするような模様です。このキルムはおそらくは1930-1940年ころの製作と思われます。もっと古い、19C末あるいは20初のものは赤みがもう少しあせています。ただボーダと呼ばれる周囲を取り巻く模様をよく見ると、全く左右対称になっていません。イスラム文化では対称性が求められ、商品化されたものでは少しの非対称もありません。1950年以降のキリムはかなり対称なものになっており、その点でもそれよりは古いと勝手に考えています。
 たて糸には綿糸、横糸にはウールが使われていて、非常に薄い仕上げになっています。また編み方もSlitweaveと呼ばれる高度の技法が用いられ、曲線が連続的に表現されています。そういった意味でセネのキリムはペルシャの中でも最も優れたキリムと言えると思います(セネの絨毯はもっとすごい)。このキリムもメダリオン部の白の色彩と周囲の赤のコントラストがすばらしいと思います。
 セネのキリムは古いものでも比較的コンデションがよく、おそらくは敷物ではなく、壁掛けとして使われたのではないでしょうか。セネのキリムはハーレムの間仕切りに使われ、他の婦人より目立つように複雑な模様にしたというエピソードがあります。現在もセネでは輸出用のものが生産されていますが、どぎつい色彩が使われていて、このキリムのようなしっとりした感じはないと思います。古いものほど人工染料の使われ方が少なく、その分色調がしっとりしています。

2007年12月9日日曜日

ブナコ3



 ブナコの特徴は、軽くて成形が自由にできる点だと思います。そのためブラケット(壁につける照明)やペンダント(天井に吊るす照明)などは非常にむいています。ただブラケットやペンダントは電気工事が必要なことや、他のインテリアや部屋の雰囲気に合わせる必要があるため、通常は新築時に買うものです。贈り物には向いていません。むしろ照明としてはテーブルスタンドなどの方が贈答品には向いているようですが、種類が少ないようです。以前、ダストボックスや椅子をプレゼントに選んだことがありますが、こういったものはプレゼントには喜ばれます。またこの前紹介した大きなランドリーボックスに使えるものなども、値段によっては売れそうです(一般住宅にはやや大きいか)。
 洋間やリビングの掛け軸について以前書きましたが、外国のインテリア雑誌などで見かける中国や日本の書画は大体写真上のように額を作り、そこに収めて掛けています。大型の額のため、かなり重量があり、また費用もかかります。一旦、表装をほぞく必要もあり、また季節ごとに絵を変えるといった掛け軸の軽快性もなくなります。それでは、壁にくぎを刺し、それに掛け軸のひもをかけて吊るす方法はどうでしょう。これでは貧相ですし、またかっこ悪いと思います。正式な床の間でも上部は壁で仕切って、ひもが見えないようにしています。そこで写真下のように掛け軸の軸とひもを隠すような屋根(ブラケット)をつけたらどうでしょうか。フォトショップでむちゃくちゃ作ったもので、かえってイメージが壊れるかもしれませんが、かなりスッキリします。洋間やリビングでもこういったブラケットをつけると掛け軸も飾れるのではないでしょうか。ブナコの自由な造型性や軽さが生かせると思います。ただ実際に商品化となると需要がかなり限られることや、掛け軸の幅は種類は限られているとは言え、数種類あることなどから、なかなか難しいと思います。
 器から照明器具、さらには椅子といったブナコのたえまない変遷や、日本や海外のブランドやデザイナーとのコラボも、今後ますますしてほしいと思います。青森県は貧しい県ですので、東京や大阪、あるいは海外に高額で付帯価値のあるものを輸出して、豊かになってくれればと思います。

2007年12月6日木曜日

ブナコ 2



左のブナコのうつわは、2年ほど前に弘前市内のリサイクルショップで購入したものです。確か8000円くらいだったと思います。購入後に店長といろいろと話をしました。値づけがむずかしかったでしょうと聞くと、持ち込みのもので、ほぼ未使用ですが、中古食器の評価としてはこれくらいと言っていました。何の木材がはっきりしませんが、底の木目が非常に美しく、また縁の細工もすばらしいものと思います。ブナのテープ自体を互い違いに色目を変えているため、きれいな模様が出ています。相当手の込んだものと思われます。いつ頃に作られたものかははっきりしませんが、今ではなかなか作られないものではないでしょうか。おそらくは量産品の類いではなく、工芸品として作られたものかもしれません。いずれにしても非常に安い買い物だったと思います。こういうこともあるので、たまにはリサイクルショップものぞいてみるものです。
 当初は、すしでも盛ろうと考えていましたが、あまりに美しすぎてもったいない気がして、未だに未使用です。前の持ち主も同様だったのでしょう。このあたりが、実用品と工芸品の使い方の難しい点で、食器としては下の写真のような現行品の方が優れていると思いますし、この路線でいいと思います。若い人はいいものを日常の生活にどんどん使っていき、生活そのものを楽しむ傾向があります。きれいなものでも高くてもったいないと思うようなものは、売れないのではないでしょうか。また食材を盛る器としても、あまりに凝ったものは使いにくいと思います。
話は変わりますが、9月に大阪の学会に行った折に、ちょうど京都市立美術館で「北欧モダン デザイン&クラフト展」がやっていました。大変混雑していましたが、内容はそこらで買えるようなものが展示していて、こんなものでよく展覧会が開けるものだと感心しました。ロールストランドの食器などは私も持っているものや、オークションなどでよく見られるもの(1-3万円程度のもの)が堂々と展示しており、入場料1000円は返せと言いたいところです。津軽の特産品であるブナコやこぎん刺し、津軽塗などもどこかできちんと収集しておかないと、散逸してしまう可能性も高いと思います。前回紹介したブナコや今回の盆もブナコの会社の方ではすでに保管しておらず、展覧会をする場合でも北欧モダン展と同じようになってしまいます。陶芸のような作家名が残るものについては、例えば津軽の代表的な陶芸家高橋一智の場合でも、遺族あるいはコレクターがその作品を保存していますが、ブナコ、こぎん刺し、津軽塗のような作家名にないものについては作品が散逸してしまう可能性が高く、弘前市立博物館などが積極的に収集してほしいものです。

2007年12月2日日曜日

ブナコ 1




ブナコは今脚光を浴びています。ブナコは、ブナ材の薄いテープを巻き締め、鉢や皿などに成形したもので、歴史的にはそれほど古いものではありません。1958年に青森県工業試験場の城倉可成と工芸家石郷岡啓之助によって開発されたものです。リンゴ酢の研究開発に使われていたブナ材単板を筒状に巻いた道具がヒントになったそうです。木材でありながら自由な成形ができること、最近ではエコの点からも評価されているそうです。開発当初からかなり色々な試作がなされていたようで、写真上のようなブラケット(照明)もすでに20-30年前には作られていたようです。現行のもの(写真下)に比べて全体的にボリュームが大きいようですが、実に斬新なデザインです。ただ当時はそれほどデザインに対する関心は薄く、この商品も試作に終わった可能性があります(実はネットオークションで買ったのですが)。おそらく望月好夫さんの製作と思われます。その他にはペンダントなどの照明器具や椅子、鉢などかなりおもしろいデザインのものが当時作られていましたが、市場ニーズが少なく、商品化されなかったようです。ようやく最近になり市場が追いつき、ブナコ人気につながったものと思います。
弘前市内の繁華街、土手町にようやくブナコのショールームが12/1にオープンしました。早速、本日見てきましたが、おしゃれな空間にブナコの作品がたくさん展示されていました。ビームスやカッシーナのオリジナルブナコも展示されていましたが、その中でかなり大振りなダストボックス(高さ50cmくらい)が目につきました。オープン祝いの花を置くため上下逆にして花置きとして飾られていましたが、前にベターホームズにいた店員さんが私のことを知っていて、わざわざ見せてくれました。内面を赤、青、無色に塗った3種類があり、洗濯物や本、ドライフラワーなどを入れるものとして使えそうです。北欧ぽいかんじで本当に部屋のアクセントになります。まだ試作段階のようですが、東京や欧米で人気がでそうな商品です。
またブナコ商品の裏にブナコのマークが入るようになりました(made in aomori)。民芸運動の影響で、これまでは一切マークは入っていませんでした。以前にもベターホームズの店長に海外に売り出すためには是非ブランド名を入れるべきだと進言しましたが、実現されうれしく思っています。さらにいうとブナコのコレクターが現れるようになるためには、一部限定商品には商品番号や作者名も記すのもいいと思います。私の好きな北欧の陶器には裏にSaxboといった会社名、55といった商品名、Staeher-Nielsenといった作者名が入っており、コレクターに愛されています。
世界に発信できる商品は弘前にはまだまだあると思います。ブナコがさらに世界に羽ばたく日を期待しています。