2007年12月30日日曜日

花の回廊 続き



 宮本さんと私は9歳違います。伸仁少年6年生のころは3歳だったため、ほとんど当時の記憶はありません。5,6歳ころからの記憶は鮮明ですので、その頃の尼崎を話したいと思います。

 尼崎は今でもそうですが、工場の街です。海沿いにある旭硝子の大きな煙突からはもくもくと煙が出て、それが街の誇りでもありました。難波小学校から伸仁くんの住んでたアパートまでの界隈は、中小の工場が建ち並び、朝からクレーンで機械を運んだり、何かを作っている音がしていました(今ではラブホテルなどになっています)。さらに住宅地やアパートの合間に数坪程度の小さな下請けの工場がいっぱいあり、すごい音を出して、旋盤加工などがおこなわれていました。当時は今と違い、騒音もそれほどやかましくなかったようです。機械油の臭いのする工場内には、いつも金属の削りかすがうずたかく積まれていました。工場の煙で洗濯物にすすがつき、こどもたちにも喘息が多かったようです。うちの姉はそのため実家の徳島県に1年ほど療養にいっていました。

 朝の通勤時には、上下灰色の作業服を着た若者が、それこそざっくざっくと足音がするほど、毎日たくさん通っていました。まるで兵隊の行進のような情景です。鉄工所や旋盤工場に行くところなのでしょう。夕方になると、酒屋の奥のスタンドで、工員たちががするめやおでんなどを肴に安い日本酒を飲んでいる光景があちこちにありました。その頃の酒屋は今と違い、酒を売るだけでなく、奥の方に立ち飲みのカウンターがあり、安い居酒屋になっていました。昭和43年頃の三和商店街の写真はここに載っています(http://www.geocities.jp/yahho_ama/y_196809deya.html)。伸仁くんや友人の月村くんが新聞を売りにいったのはこんな所です。昭和40年ころには百万ドルといった有名なキャバレーもでき、ネオンに飾られた飲屋街は目がくらくらするほど眩しかった記憶があります。また映画館、芝居小屋、ヌード劇場などもありました。

 当時は下水道も完備されておらず、道の横には小さなどぶや幅1.5mmくらいの排水路もありました。蘭月ビルの裏にもこんな排水路があったようです。子供たちはおしっこの飛ばしっこをしていたものです。伸仁くんのアパートの東のある庄下川はこういった生活排水や工業排水が流れ込み、どろどろしてメタンガスが発生し、すごい臭いがしていました。

 伸仁くんが通っていた難波小学校は、マンモス校で、一学年6-7組ありました。卒業生の多くは昭和中学校(現 中央中学校)にいき、私立中学校にいくひとはほとんどいなかったと思います。美少女咲子も昭和中学校に、優秀な兄は多分県立尼崎高校に行っていたのでしょう。難波小学校卒業の有名人としては確か漫才のダイマルラケットのどちらかが卒業生だったと聞いたことがあります。まだ始まっていない第6部では、伸仁くんも卒業後私立の中学校に行きますが、このような環境で育つと私立の学校の生徒にかなり違和感を感じると思います。私の場合も、周囲の生徒が芦屋や神戸の子が多く、小学校時代はどちらかというとおぼっちゃんだったのに、入学当初は変にがらが悪そうに見られようとしていました。尼の子はおまえらとは違うといった変なプライド?のようなものがあったのかもしれません。それも1年ほどですぐに慣れてしまい、遊ぶのも神戸の方に行くようになりました。

 宮本さんの作品は美しい物語が多いのですが、その意味でも流転の海シリーズ、花の回廊は宮本さんの原体験が色濃く反映された作品で、やや異質な感じがします。作家としての視点と原体験からの視点との折り合いが難しかったのでしょう。在日のひとの扱いがやや後付けな感じがして違和感があります。同様なことは映画「パッチギ」でも1では違和感なく楽しめたのですが、2では戦争問題が出てきて変な映画になってしまっています。過去の話の中に、今の考えが語られると、当時そんなことを当事者でもないのに考えていたのかとちゃちゃも言いたくなります。

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