2020年10月22日木曜日

名士かくし芸大会

 

ちょっと恥ずかしい大会である




 弘前に来て驚いたことの一つに、“職場対抗 名士かくし芸大会”という催しがある。弘前の経済、文化の著名人が集まって、年の暮れ12月に行う。今年で37回というので、それほど古い大会でもないが、会社の社長さんやお偉いさんが、普段威張っているが、この大会でおどけた姿を見せて皆で楽しもうという趣旨であろう。もちろん歳末チャリティーという名目があり、収益はどこかに寄付するのであろうが、自分たちを名士と呼んでいる段階で、すでにかなり古臭いもので、戦前くらい、少なくとも1970年代くらいまでであれば、何とかこうした趣旨の大会も成立したと思うが、1980年代になって、誰が考えたのか、大会を行い、それが37回も続くとは驚く。弘前市民会館大ホールという定員1300名くらいの会場で、1500円の入場料をとり、審査員がいて、大賞、弘前市長賞などもあり、青森県知事や弘前市長も仮装して参加することもある。流石に最近は、職場対抗と銘打って、会社の従業員の参加も増えたが、そもそもは会社のお偉いさんが出る大会である。今時、日本でも名士という言葉は死語となっているし、会社の忘年会で隠し芸をすることもなくなった。

 

 こうした大会が行われる背景として、一つに弘前市のスノビズムがあるようだ。もともと士族の町として港町の県庁所在地、青森市をバカにするような気風があり、さらに維新後も、士族を中心とした社会が築かれていたので、士族階級を中心としたスノビズムがあった。例えば、昔の弘前図書館長は代々、士族出身者で、利用者が生意気な口をきけば追い出したという。またサムライ言葉というものが存在し、津軽弁でも独特の言い回しが有ったという。流石に今はこうしたことはないが、一方、今、これを継承しているのが、弘前商工会議所とその弟分の青年会議所であり、ここの上層部のメンバーを中心としたスノビズムとヒエラルキーが今でもある。先輩—後輩関係、関連企業の上下などである。県庁所在地の青森市と違い、弘前市では地場の店が多く、店の歴史も長い。こうした会社の人が商工会議所を牛耳り、さらには弘前市の観光コンベンション協会でも役員のほとんどが、またロータリークラブ、ライオンズクラブ、倫理法人会、異業種交流グループなども商工会議所の人が多い。弘前市役所との関連も強く、ある意味、こうした集団の同じメンバーが結婚式、葬式、忘年会、新年会、飲み屋などでしょっちゅう交流している。同じメンバーが週に23回会うのも珍しくない。


 個人的には立派で尊敬すべき人も多いのだが、なにしろいつも同じメンバーで動いているので、どうしても独善的になりやすい。私も以前、弘前ロータリークラブに20年ほどいたので、そのころはそこそこの付き合いがあったが、辞めると商工会議所に入っていない私にはほとんど接点がなくなり、会うこともなくなった。ある意味、特殊な集団で市長選や市会議員選挙で大きな力を持つので、市に対する影響力も強い。もちろん商工会議所のお偉いさんは、各職業別の組合のトップであることも多く、その集団のヒエラルキーの頂上にいる。弘前市のこれ以外の影響力を持つ集団は、弘前大学と医、歯、薬の三師会があり、商工会議所のメンバーからすれば、前者は全く無視、後者とも仲は良くない。さらに弘前大学で言えば、普通の学部の教授はただの研究者で、弘前市、弘前市民との接点もほとんどないが、医学部の教授が医師会と関係して影響力を持つ。また商工会議所の上下関係が縦糸とすると、横糸には学校閥、弘前では弘前高校と東奥義塾閥があり、両者の同窓会は対立している。こうした商工会議所—市役所を中心とする縦糸と高校閥が横糸となって、弘前のいわゆる名士と呼ばれる集団が形成されており、こうした傾向は多かれ少なかれ、日本中の中小都市で見られる現象であるが、弘前市ではもともと県外者に対する警戒、言葉の違いから受け入れにくい体質があること、さらに県庁所在地であれば、全国規模の会社の支社、支店があり、県外者の流入も多いが、ここでは弘前大学関係の職員、学生以外の県外者の流入は少なく、勢い弘前で生まれて、育って人が大多数となり、それがまた県外者の阻害につながる。


 明治のジャーナリスト、陸羯南の有名な詩に“名山出名士 此語久相伝試問厳城下 誰人天下賢”がある。岩木山という名山があるが、ここには本当の名士がいるのかという反問である。陸さん、心配いりません、弘前では名士かくし芸大会が毎年開催できるほど、名士がたくさんいるところです。


弘前市長も出ています

2020年10月21日水曜日

一般歯科医からの転医の問題点

 


 今日も、他県で治療を受け、その継続治療を求められた患者が来院した。継続治療自体は全く問題なく、こちらも毎年多くの患者の治療継続を求めるため、おあいこの義務だと思って快く治療を継続することにしている。

 

 ただ一般歯科医よりの転医、つまり転住による治療の継続には問題がある場合が多く、素直に治療継続することに躊躇う。問題点について列挙する。

 

1.     治療費の返却がない。

 矯正治療を請負制であり、治療が最後まで終了していない場合、その進行度合いにより返金しなくてはいかない。例えば、全行程の半分くらいで転医した場合は、総額60万円であれば、その半分30万円を返却しなくてはいけない。もちろん次の矯正歯科医で、30万円で治療できるかは不明であるが、一般的には少なめに判断し、半分くらい治療が進んでいても2/3の料金を返金することが多い。ところが一般歯科医はこうした矯正歯科のルールを知らないで、全く返金しない場合が多い。この理由として、患者の勝手で治療が中断されるので返金義務がないと考えているのだろう。医療は準委任契約であるので、治療の経過に沿って返金するのが法的にも正しい。転医の可能性がある場合は、治療開始前に返金についても先生に尋ねるべきである。

 

2.     転医の仕方を知らない

 通常、患者が転住し、遠方のために通えなくなった場合、担当医は転住先の矯正歯科医を探し、そこに連絡して、治療継続の可否を尋ねなくてはいけない。ただ多くの一般歯科医は、転住先の歯科医を知らないので患者に探すように指示する。これはひどい話で、知らなくてもインターネットで探せばいくらでも転住先の矯正歯科医院を見つかるはずで、この先生であれば治療を継続できると思う先生を見つけ、連絡すべきである。これを面倒くさがる。もちろん全く知らない先生に電話をして治療継続を頼むのは勇気がいるかもしれないが、それを患者に任せ、先生を探せというのは、丸投げであり、責任回避である。ほとんどの一般歯科医はこれができない。

 また転医する場合、これも書式が決まっており、初回検査時の資料(模型、レントゲン、口腔内写真、顔面写真、治療の経過、装着している矯正器具の種類、これまでかかった治療費、今後の治療の予定など)を持参されなくてはいけないが、この資料がひどく、こうしたルールも知らない。

 

3.     治療内容がひどい

 今日、来た患者も、もともと歯のでこぼこの患者であり、治療自体はそれほどひどい訳ではない。ただ初回検査時の模型を見ると、明らかに抜歯症例で、非抜歯でする場合がかなりの口唇の突出感が出ることが予想され、実際にそうなっている。ところが前医では非抜歯と抜歯との治療結果の違いについての話はなく、非抜歯の説明を受けただけである。こうした先生に口元が出ているので直して欲しいと聞いても、おそらく気にするな、あるいは私は健康な歯は絶対に抜きたくないと主張するだろう。非抜歯治療自体、批判している訳ではなく、最初に非抜歯と抜歯治療の両者の予測結果を十分に説明したか、あるいは治療途中で患者が口元を出ているのが気になる場合、治療計画を変更するかという点が問題となる。

 

4.     来院した患者をすぐに治療する

 例えば、高校2年生で不正咬合のために、来院しても、今からだと1年半くらいしか期間がなく、通常の矯正治療では2年間かかるため、卒業までに終了する可能性は低い。それ故、私のところでは、こうした患者はとらず、大学に入学してから治療するように勧める。ところが一般歯科医の中には、こうした症例に対して、治療をして、何とか卒業までに終わったと自慢する先生がいる。この先生になぜ矯正治療を急ぐのか、大学入学してから治療しないのかと問うてもキョトンとしている。来た患者は取り敢えず、治療をすぐに開始するのが一般歯科医のやり方である。これで治療結果が良ければ問題ないのだが1年半ではうまく治療できないし、治療が途中だからといって、そもそも治療継続を依頼する気もない。

 

 一般歯科医での矯正治療、特に転医に関する問題点を少し厳しく指摘したが、矯正専門医でもいい加減なところがあり、今回のケースもいわゆるフリーの矯正医が担当していた。患者紹介は、そのパートの矯正歯科医の責任で、今回のケースは日本矯正歯科学会の倫理規定にも反するので、その矯正医の認定医資格停止を提訴しようと考えたがやめた。月に1回、その診療所にバイトに行っている先生で、そこまで考えていないことだろう。ただ日本臨床矯正歯科医会に所属する矯正専門開業の先生方からの紹介では、これまで25年間、一度も不快の思いをしたことがなく、逆に一般歯科医での転医でまともな紹介を受けたことがない。一般歯科医での矯正について、今回のように厳しいコメントをすると、必ず反発を招くが、最終的には矯正専門開業医でないから“と逃げられることが多い。これは卑怯なやり方で、これを言ってはおしまいである。患者からすれば、なぜ最初から矯正専門医に紹介しないかということになる。こういうエクスキューズを言うくらいなら、せめて料金をうちの料金の半分から1/3くらいにすべきであろう。中には”矯正専門医でないから“と言いながら、うちより料金が高いところもあり、指摘すると”先生のところが安い“と言う。わけがわからない。一般歯科というのは、親父は50年間以上もしていたし、兄もすでに30年間以上している。子供の頃からその大変さは十分に目にしてきた。一般歯科の勉強だけでも忙しく、とても矯正歯科まで勉強できないので、多くの先生は、矯正治療はしないか、あるいは簡単な症例しか手をつけない。ほんの一部の先生が、知識、経験もなく高い費用で矯正治療をし、問題が出ると専門医でないと開き直る。こうした先生のことをここでは非難しているを理解して欲しい。


2020年10月18日日曜日

外国の方との不思議な体験

 




 昨年の日本矯正歯科学会は長崎で行われ、もっぱら観光に費やした。その折、不思議な体験をしたので話してみたい。

 

 折角長崎に行ったのだから、世界遺産となった軍艦島を訪れようと思った。上陸できないが、軍艦島を周遊できる1時間くらいのツアーがあり、前夜にネットで予約し、出航するターミナルに着いたのが朝の9時頃。すでに何人かの観光客が待っていた。その中に、一人の外国の中年女性が一人でニコニコして立っていた。十年前から週に一回、英語を学んでいるため、外国人と見ればすぐに声をかけるクセがあり、この時も家内と一緒に、どこから来たかと聞いてみた。茶髪の笑顔の美しい、50歳くらいの女性で、ドイツのディセルドルフから来たという。仲間はミュージアムに行っているため、ここで同行するという。何でも2週間くらい日本に滞在し、これまで京都、広島、そして長崎に来て、明日、東京を見てから帰国するという。日本の印象など、別に大した話をしたわけではない。10分くらい話していると向こうから仲間五人ほどがやってきて、そのまま船に乗り、そしてツアーが終わって、バイバイして別れた。それだけの話である。

 

 不思議な体験というのは、この10分くらいの会話はもちろん英語であったが、全く外国語で話している感じがしなかったことである。ドイツ女性であるが、そうしたことは全く意識せず、多分30年前に彼女に会っていれば、好きになってそのまま結婚したかもしれないとまで思った。決して美人ではないが、何となく気持ちが通じる感じがしたのである。“新婚さんいらっしゃ”などの番組で、旦那さんが外国人、奥さんが日本人、奥さんがあまり英語を喋れないというカップルが登場する。普通に考えれば、言葉はコミュニケーションの最も重要なツールで夫婦の間で十分な会話をできないなんてありえないと思っていた。ただ今回の体験から、言葉が違っても何とかなる場合もあると思った。

 

 もちろんこのドイツの女性に恋心を抱いたわけではなく、何となく男女にかかわらず、気の合う人がいるが、これが日本人だけではなく、外国人にもいるという当たり前のことに気づかされたのである。まあ外国に暮らした人であれば、現地で多くの友人ができたであろうし、中には日本人より仲良くなった人もいて、それほど不思議なことではないだろう。


 まだまだ英語能力は中学生並みであるが、それでも少し英語が喋れて、いろんな外国人の方と喋るのは楽しい。昨年も家の近所を散歩していると、前方に外国人旅行者の中年のカップルがいた。雨が降っていたので、せめて奥さんにでもと思い、傘を貸してあげ、どこまで行くのかというと親方町の小堀旅館という。少しわかりにくい場所なので、そこまで傘を貸しながら案内した。イタリアのトリノから来て、明後日北海道に行くという。弘前のおすすめ観光地や食べ物を紹介して旅館までの20分の楽しい会話となった。大変喜ばれた。またある時は、弘前の繁華街、土手町のメガネ屋で、道を尋ねている40歳代の外国人女性がいた。あまりいい返事がなく、困っているようなので、声をかけてみた。何でもイタリアのベローナから旅行に来ていて、日本のグッズが好きだという。弘前のインテリア、小物グッズの店を調べてきて、それを探しているという。探している店が幸い自宅近くの店だったので、そこまで案内して、いろんなことを喋った。さすがに若い女性に声をかける勇気はないが、それでも弘前に来ている観光客がいれば、写真を撮ってあげたり、おすすめのところを紹介したりしている。旅行が好きで、全国あちこちを巡っているが、逆にこうした地元民とのおしゃべりが風景以上に記憶に残ることがあるからだ。

2020年10月15日木曜日

笹森儀助と石光真清

説明を追加




 私の好きな明治の変人、笹森儀助のことが「曠野の花 新編・石光真清の手記(二)」(中公文庫、石光真清著、石光真人編)に出ていたので、儀助の人柄が出ているので紹介したい。時代は明治33817日で、ロシア語取得のためにロシアに語学留学したいた時のことで、義和団事件の情報を得るために中露国境付近を動いていた頃のウラジオストック駅の出来事である。

 

三等客車の中には露支韓人の下層階級のものばかりがそれぞれ自国語で語り合っていたが、私はただ窓ぎわに座って前途をぼんやりと考えていた。そのうちうとうと眠ってしまった。汽車が停まってふと眼を覚ますと、六十歳を少し超えたと思われる日本人が乗り込んで来た。私はその風体を見て思わず微笑した。ところどころ破れて色のさめたフロックコートに、凸凹の崩れかかった山高帽をかぶり、腰にはズタ袋をぶらさげ、今一つ大きな袋を肩から斜めに下げていた。しかも縞のズボンにはカーキ色のゲートルを巻き、袋の重みを杖にささえて入って来たのである。私は自分自身の哀れむべき風体も忘れて、老人の頭から足元までしげしげと楽しんだ。

老人は私を眼ざとく見付けて、貴下は日本の方のようだが、と口を切った。「わしは青森の者でナ、笹森儀助と申しますじゃ。老人の冷水と笑われながら、笑う奴等には笑わせておいてナ、飛び出して来ましたじゃ。これもお国へのご奉公ですよ」と大きな袋を座席へゆっくりと縛りつけながら、「最初はわし一人で朝鮮に行き、元山の奥で韓国人の教化運動をやっとりましたがナ、そのうちこの義和団事件が起こったから色々と調査して見ると、わしにはロシアの行動が腑に落ちん。どうもやることが大袈裟すぎる。日本軍が北京や天津で鎮圧の手助けをしたが馬鹿らしいことになるんじゃないかと思われてナ。これあ黙って見ておられん。とにかく現地でロシアの真意を探る必要があるわいと考えてナ、誰に頼まれたわけでもないが、元山から徒歩でここまで来ましたよ」

私は元山からこの騒ぎの中をはるばる歩いて来たという奇跡のような話に、驚いて老人を見直した。ご本人は至極朗らかであった。「なあに、この歳でもまだまだどうして若い奴等に負けませんナ。丁度この駅に着いたらハバロフスク行の記者が出ると聞いた。しかし、わしはウラジオストックへ行くつもりだ。これは反対の方向へゆく汽車だが、折角だからと思って乗り込んだわけですよ。まあ取敢えずニコリスクで降りて情勢を見てから、ウラジオストックへ行って各方面の御意見を訊ねようと思っておりますさ」 「朝鮮では今度の事件をどう見ていますか」 「左様、判断に迷っている状態でしょうナ。力がないんですナ。力がないものは日和見主義になります。そうなったら貴方、日本は一体どうなると思う。ロシアを叩く力があるか、身を護る自信があるか。老人だから黙っていられますかナ。若い奴等が腰抜けなら、わしが曲がった腰を叩いて行く、とまあこんなわけですよ」 私は老人の一徹な赤心に感じて、私もまた同じ気持ちでうろついているのだと言うと、「ほう、貴下が?それはお若いに似ず感心なことじゃ。わしはこの通り老人じゃ。一生懸命やって下さい。お国のためですぞ。」と私の顔を見すえた。聞けばこの老人は、青森県出身の地理学の先駆者であり、県会議員も市長も務めたこともある。日清戦争講和後の三国干渉に憤慨して必ずこれに報いて見せるぞ、と家族親戚知己の反対を押し切って飛び出し来たものであった。

正午ニコリスク着。笹森老人と一緒に下車して駅前に出た。「わしはここでお別れします。貴下は御予定通り満州へ行かれるのがよいでしょう。満州は危険が多い。無理は失敗のもとです。どうぞ御大切に、十分注意して目的を達して下さい。貴下には初にお目にかかったが、これが最後になるかも知れん」と大声で笑って「いや、そんなことはどうでもよろしい。元気にやりましょう」と大袋をヤッコロサと肩にかけ、凸凹の山高帽をかぶり直して、私を駅前の雑踏の中に残してままサッサと人ごみの中へ姿を消してしまった。同老は幕末から明治にかけてオランダ派の地理研究家であり、千島、沿海州、朝鮮、満州等に関する著述が多い。私は、この時以後ついに再び会うことがなかった。

 

 朝鮮の元山からウラジオストックまで直線距離で600km近くあり、これは普通歩く距離ではないが、弘前から江戸までが700km、江戸の人の感覚からすればそうは思わなかったかもしれない。笹森が青森市長となったのは明治35年であるので、石光との出会いより後のこととなる。笹森は明治325月、東亜同門会の嘱託となり、日本語学校建設のために朝鮮に渡ることになり、翌年、朝鮮北部の城津に城津学堂という学校を作った。さらに上記の文に見られるようにハバロフスク近辺の視察を行い、明治34年に体調を崩し帰国した。


 ただ実際の笹森の足跡を見ると、明治329月に校務を同僚に託して、元山港から汽船相模丸にてウラジオストックに向かった。同乗者には田村大佐や石光らもいたようだが、石光の手記ではここで笹森との接触はない。その後、912日にハバロフスクからニコリスクに向かった。この時の21日間の旅の記録は「西比利亜旅行日記」として後日まとめられた(「負の国際化 明治中期日本女性の海外進出— 笹森儀助のルポルタージュと記録にみるシベリアの状況—」、東喜望、白梅学園短期大学紀要 第25号、1989)。


 上記の石光手記は、明治33年のものであり、明治329月の笹森の21日間のこの時の旅行とは時期が異なる。おそらく笹森は義和団事件後のロシアの動きを知るために、前年に旅行した極東ロシアを再度訪問し、その時に列車の中で石光と会ったのだろう。この時はもしかして海路ではなく陸路、徒歩でハバロフスクまで行ったのかもしれない。義和団事件後、ロシアは懲罰的掃討作戦を行い、満州占領を企画して大量の兵隊を送った。日露戦争の発端となった。東亜同文会の知人である陸羯南や近衛篤麿などの調査依頼があったのだろう。

BS朝日 サウナを愛でたい

 



 BS朝日で毎週火曜日の夜10時から放送されている“サウナを愛でたい”は面白い。ヒャダインと濡れ頭巾ちゃんという二人が全国各地のサウナを訪れ、そこで“ととのう”を体験するだけの番組で、以前は特番扱いであったが、今年の4月頃からレギュラー化して、毎回、だいたい2件のサウナを訪れ、そこのサウナ、水風呂、そして食堂を紹介する流れとなっている。

 

 私自身、銭湯や温泉でサウナがあれば入るが、それほど好きでもなく、ましてやサウナ後の水風呂などとんでもない、“ととのう”と言った経験もない。第一、100度を越すサウナ室から20度以下の水風呂に入れば、血管は急激に収縮して、血圧は上がると考えてしまう。血圧が140以上になり、半年前から降圧剤を飲んでいる私にとっては見るだけの経験となる。ましてサウナ後の水風呂は多分、ヒートショックで死んでしまうだろう。

 

 それでもこの番組が面白いのは、サウナというもはやレトロな文化を新たに紹介している点である。ここ10年ほど新しいタイプのサウナ、フインランドサウナ、組み立て式のテントサウナを屋外に持ち出し、そこでサウナと自然を楽しむ若者が増えている。アウトドア、キャンプと掛け合わせた流れで、みんなで車にキャンプ用設備、食事とともに、小型の持ち運びできるサウナを持ち込み、自然の中で裸でゆったり過ごす、こうした息抜きに人気がある。

 

 サウナで汗をかき、水風呂に入り、ととのい、そしてビールを飲む、至高のくつろぎであろう。もともとサウナは記憶によれば、昭和30年頃には各地にスチームバスとマッサージが流行った。箱型のスチームバスで汗をかき、その後、若い女の子がマッサージをしてくれというシステムである。ただこれは次第に少しHな方向に進み、トルコ風呂と言われるようになり、尼崎のうちの近所にあった“尼崎サウナ”もそんなところであった。その後、銭湯が客呼びのためにサウナを付属するところが増え、また愛好者が増えるにつれて飲んだ後にサウナに入る人が多いことから飲み屋街にもビジネスホテルとサウナが一緒になった施設が1970年代頃から出てきた。さらには1990年代からは大型のスーパ銭湯が出現し、これまでの高温サウナが苦手な人でも大丈夫な低温サウナ、ミストサウナなどが出てきた。さらには最近の流れは女性用のサウナが充実してきて、女性のサウナファンが増えている。


 番組を見ていると、古いサウナ施設は、ものすごく昭和が残っている空間で、昭和がそのままそこでストップしている。私のような昭和生まれの人には別に珍しくもないが、若い人にとって、これほど昭和が色濃く残っている施設は少なく、番組で紹介されているサウナ施設は隠れた穴場として面白い。流石に若い女子が行くには勇気が言えると思うが、それでも二、三人で、こうした古いサウナ施設を回るのは楽しそうである。コロナ騒ぎで、壊滅的な被害を受けたのはこうした昭和にできた古いサウナ施設であり、2020.10.13に紹介された横須賀の“サウナトーホー”も9月の閉店とのことだし、同じく千葉県木更津の“サウナきさらず つぼや”も経営は厳しそうであった。番組を通じて、宣伝してもらい、何とかお客さん、それも若い人に是非とも行って欲しい。もう少し頑張ってもらえば、サウナのリバイバルは起こるように思う。新型ウイルスは80度の高温で死んでしまうので、サウナで体ごと殺菌し、その後も人と喋らなければ、感染リスクは案外低いようにと思う。


2020年10月11日日曜日

第9回国際矯正歯科会議国際大会 マウスピース型矯正装置による治療

 


 今年の第79回日本矯正歯科学会は、第9回国際矯正歯科学会と第12回アジア太平洋矯正歯科会議との併催である。数年前から準備をしていたが、今回のコロナ騒動で、全てオンラインでの開催となった。初めてのオンライン開催、どんなものか期待半分で、講演を聞いているが、特に問題もなく、逆に退屈なところは早回しにでき便利である。一方、学会のポイントがつく特別講演は、早回しができないような仕組みがあり、画面右上に視聴時間が出ている。要は最後まで視聴しないとポイントはもらえませんよという工夫である。色々と考えるものである。

 

 ざっと見てみたが、個人的に興味があったのはインビザラインなどのマウスピース型カスタムメイド矯正歯科装置で、今回はマウスピース型矯正装置の限界、欠点、それへの対処法がメインであった。今では世界中で多くの患者さんにマウスピース型矯正装置が使われている。この装置自体は開発、販売され20年ほどたち、当初は簡単な、例えば少しのでこぼこなどに使われていて、その範囲で使う分には治療期間がかかる、途中でやめてしまうなどの欠点があるものの、大きな問題はなかった。ところが利用者が増えるにつれ、問題点が色々と出てきた。とりわけ小臼歯などの抜歯症例で、問題が頻発し、訴訟されることも増えてきた。そのため、数年前からは主として抜歯症例で歯のコントロールを良くするために、アタッチメントと呼ばれる個々の歯に白いプラスティックの装置をつけることとなった。最初は簡単な四角、三角の形状であったが、最近は本当に多くにアタッチメントが出てきている。さらに上下の歯列にゴムをかけるようにしたり、一部、ワイヤーをつけたりするようになった。

今回の講演では、さらに矯正用アンカースクリューを併用する症例も発表され、これでは通常のブラケットをつけた治療法とほとんど変わらないと思ったし、これだけ手間をかけるなら、むしろリンガルブラケットによる治療の方がよほどましと思われた。

 

マウスピース型矯正装置の問題点は、

1.     歯肉の退縮

これは某女性ブロガーが私の知っている矯正歯科医のところでインビザラインで矯正治療をしており、下の右の糸切り歯の歯茎が下がり、歯根が露出している。優れた矯正歯科医で、それに対する対処法も問題ないが、おそらくインビザラインによる歯肉退縮と歯根露出は想定外であったろう。通常のブラケットを使った矯正治療では、まずこうしたことは起こらないし、起こる場合はその前兆が早くに出る。ワイヤーと違った力、方向がかかるせいであろう。

2.     奥歯が咬まない

これもマウスピース型矯正装置でよく起こる現象で、基本的には歯体移動ができない治療法のために抜歯空隙に臨在歯が倒れこむ現象が起こり、そこのアンカーロスと臼歯部の開咬が起こる。もともとマウスピース型矯正装置は装置自体厚みがあるために、咬合力がうまく働かないし、また移動させる力も効率的でなく、臼歯をゆっくりと歯体移動させるとなると、かなりの期間を要する。

3.     トルクコントロール、前歯の圧下が難しい

マウスピース型矯正装置では力の作用点、作用機序がワイヤー矯正とは違い、トルクコントロールでは効率が悪く、また前歯の圧下も難しい。これはワイヤー矯正でもこれらの歯の移動は難しいもので、マウスピース型矯正装置ではもっと難しいと言うことであろう。

 

 私のところでは、マウスピース型矯正装置はしていないし、こうしたデミリットを聞くとますますできない。マウスピース矯正を希望する患者のほとんどは成人であり、私にところの成人の患者を見ても90%近くは抜歯ケースであり、マウスピース矯正では難度が高い症例となる。問題は治らなかった場合のことであり、マウスピース型矯正治療を希望する人は目立たないということが一番気にしており、うまくいかない場合、外側にブラケットをつける一般的な治療法を決して望まないであろう。つまりマウスピース型矯正治療でうまくいかない場合、舌側矯正治療しか選択肢がない。臼歯関係など悪くなってからの治療方法の変更なので、よほど難しくなる。私のところでは舌側矯正もしていないので自動的にマウスピース矯正はないことになるし、仮にする場合もマウスピース矯正プラス舌側矯正の費用となり、莫大な料金となる。

 

 実際、今回の発表者のケース、もちろん自分ではベストと思う症例を出しているが、大臼歯部の咬合が甘く、?がつく。これは治療法の限界なのかもしれない。結論としてマウスピース矯正は、従来のワイヤーを使った矯正治療に比べて問題点も多く、仕上げも悪い。さらにそれを改善するには、マウスピース単独での治療では難しく、ワイヤーを併用した種々の治療法が必要となる。こうしたケースの割合がかなり少なければいいのだが、もし患者から奥歯の噛み合わせが悪いと指摘された時のことは十分に考えておかないと、のちに大きなトラブルとなる。こうしたことを考えれば、やはりマウスピース矯正の適用はかなり限られており、1、2、3のトラブルに対する対処法については、患者もあらかじめ先生に聞いておいた方が良いと思う。マウスピース治療をしている多くの一般歯科では対処法はないし、そうした技術もない。せいぜいこれ以上は治療できませんと言われるだけである。私の知人の多くの矯正歯科医はマウスピース矯正に関しては懐疑的で、使う場合もかなり症例を選択している。

とりわけインビザライン などは国内の未承認医薬品であるために、重大な副作用はないものの、上記の欠点は、学会でも報告されているものなので、十分に患者にも話しておかないと、後々、大きなトラブルとなるので気をつけたい。


2020年10月4日日曜日

迷宮グルメ異郷の駅前食堂 青森編

 


 大好きな番組、迷宮グルメ、なんと青森県五所川原が舞台となった。新型コロナウイルスのため、海外取材ができないため、ここ2、3ヶ月、過去の番組の再放送で何とか凌いでいたものの、これも限界があり、どうするのか思っていた矢先、日本国内で取材をすることにし、その第一回として青森県が選ばれた。

 

 従来からそうであるが、番組制作者の間では、ネタがなくなれば青森へという不文律があるのか、テレビでの青森県の露出度は高い。青森県弘前市に住んで26年、この私でも五所川原駅付近の落ち込みには驚く、昔は多くの人で賑わう駅前も、車社会となり、今は利用者が限られ、それに伴い駅前もどんどん寂れていく。昭和といっても3040年代の世界がいきなり駅前に登場する。

 

 今回の迷宮グルメでは、こうした五所川原駅の寂れた感じを強調するために、弘前方面から来るのではなく、逆の金木方面から津軽鉄道を使い、津軽五所川原駅に到着するルートをとった。この駅と津軽鉄道は、鉄道マニアには有名なところで、隣接するJR五所川原駅からの五能線とともに休みになると全国から鉄道オタクが集まる。私の場合、車を乗っていないので、五所川原市のショッピングモール、エルムに行くには弘前から鉄道で五所川原駅、ここのバス案内所からエルムに行くので、駅前の光景は見慣れている。10年ほど前に五所川原名物の大型ねぷたを鑑賞するための“ねぷたの館”が完成し、それに合わせて駅前も随分綺麗に整備されてきた。近くには“吉幾三コレクションミュージアム”もあり、観光エリアとして活用されているが、いつも人は少ない。

 

 今回の駅前食堂は、ねぷたの館の隣にある市場中食堂で“のっけ丼”を食べたが、これについてはもう少し工夫がほしかった。のっけ丼はもともと、青森市の駅前にある青森魚菜センターで始められたもので、五所川原のそれはパクリと言えよう。ただネタだけ見れば、青森市より五所川原の方がうまそうである。青森市のものは3度ほど食べたことがあるが、五所川原のものは食べていない。弘前市の虹のマートにもこうしたのっけ丼があるが、個人的には普通の海鮮丼を食べた方がうまいと思うし、それほど安くもない。

 

 従来の迷宮グルメでは、どこで食べるか結構悩み、地元民に聞いたりして決めるが、今回の五所川原の駅前は本当に食堂が少なく、選定は難しくかったと思う。昔は駅前も人が多く、それなりに駅前食堂も多くあったが、今はほとんどなく、駅前といえば、バスターミナル内のラーメン屋と横道に入った一美食堂くらいである。駅として五所川原は面白いが、駅前食堂としてはイマイチである。

 

 まさか迷宮グルメの日本版があるとは思わなかったので、青森県のおすすめも、このブログで紹介しなかったが、駅前、そこからの散歩と食堂となると、オススメは、津軽では大鰐駅と黒石駅であろう。弘南電鉄の大鰐駅と黒石駅は古くていい感じだし、大鰐、黒石ともに昭和3040年で止まった街なので、付近に珍しい店もあるし、渋い食堂もある。大鰐には山崎食堂、日影食堂、いこい食堂、まみや煎餅、公衆浴場がある。黒石にはすごう食堂、寺山餅店があるし、3つの火の見櫓(黒石消防団 屯所)も見ものである。この番組では世界の観光地にいっても、そこの取材はほとんどなく、あるいは素通りで、街を彷徨う。そうした意味で、日本でも観光地ではないが、面白い街はたくさんあるので、迷宮グルメもしばらくは日本国内のこうした場所をロケしてほしい。


青森来た時に観に行きました(撮影OKタイム)



2020年10月1日木曜日

津軽のワイン

 


サッシーノのネッビオーロワイン,
国産ネッビオーロ種のワインは珍しい。

 青森県といえば、りんごが有名であるが、最近では地球温暖化の影響で、桃やぶどう、さらにはお茶の栽培も可能になってきた。りんごについては、二次あるいは三次産業として、種々の加工品が出てきており、その中でもりんごを使ったアップルワイン、シードルの生産が近年、脚光を浴びている。もともと、りんごそのものとしては商品価値の低い傷物りんごの加工としてリンゴジュースの生産があり、さらには弘前市栄町にあるキリンシードル工場では、そうしたりんごを使ったシードル、ワイン、ブランディーが作られていた。10年ほど前に、弘前市はハウスワイン・シードル特区を制定し、りんごを使ったワイン、シードル生産の障壁を低くした。結果、多くのシードル工場ができた。その一部は、最近できた弘前レンガ倉庫美術館に隣接するレストランでも楽しめる。さらに一部の農家と生産者は果敢にも本格的なワイン生産に挑んでいる。

 

 もともと明治の初め、士族の殖産のために、ブドウが入り、今の弘前駅前の場所には大きなブドウ農園があった(藤田葡萄農園)。そしてそのブドウを使ってワイン生産を試みたが、どうしてもうまくいかず、結果的には“ぶどう液”と呼ばれる独特な濃い葡萄ジュースが生産され、年配の方には病気の時の滋養品として親しまれている。当時は、寒さに強いぶどう種や生産方法が確立されていなかったのだろう。その後、葡萄の生産量は全国でも9位となる程増大した。

 

 これまで青森県のぶどう生産は、主としてマスカットやスチューベンのような食用果実であったが、ここにきて弘前市はJAつがると協定を結び、本格的なワイン用ぶどうの生産拡大を目指すことになった。日本でのワインをいえば伝統のある山梨県、長野県が中心であるが、弘前のブドウを使ったワイン、“ジャパンプレミアム 津軽産ソーヴィニヨン・ブラン”が欧州系品種白で、日本ワインコンクールで2016年から三年連続で金賞を受賞している。生産は山梨県であるが、ワインはブドウの生産地が決定的で、本場フランスやイタリアでも、ブドウの生産地が大きな評価の一つとなっている。このワインは飲んだことはないが、弘前産の赤ワインで面白いのは、弘前の誇るイタリアンレストラン“サッシーノ”が作っているワインである。オーナーの笹森さんは料理に使う食材は何でも自分で作ると言う変わった人で、その一環として自分でブドウを育てワインを作っている。料理人だけに、日本では珍しい品種のワインを作っている。メルローやシラーなどの有名な品種以外にも、イタリアで多く作られているサンジュヴェーゼや主としてイタリア北部、ピエモンテ州で作られるバルベーラ、ネッビオーロなどを自分の農園で作っている。なかなか雪の多い津軽でも生産には苦労しているようで、生産は数百本の限られているが、今後はもっと生産量は増えそうである。もともとイタリアワイン、それもピエモンテ州のバローロが好きなため、同じ品種を使ったサッシーノの弘前ネッビオーロのワインは本当にうまい。まだ値段が高いが、1本3000円くらいになれば、本場のバローロに負けない売れるワインになるかもしれず、楽しみである。

 

 ネッビオーロ種のブドウは非常に繊細なもので、世界でもイタリアのピエモンテ州の一部しか生産されていない。栽培が土壌や気候に左右され、生産量も低い。笹森さんの農園でも、ほとんど生産できなかった年もあり、その生産量はかなりに増減があるが、それでも青森県で栽培できるのは間違いない。レストラン経営と二足のわらじを履くのは大変で、できれば、他県の方でワイン作りに情熱を持つ方が、弘前産ネッビーロワイン、弘前バローロを目指して欲しい。1000円以下の安いワインは生産量の多い海外製ワインに太刀打ちできず,こうした高級ワインは十分に勝算はある。