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私の好きな明治の変人、笹森儀助のことが「曠野の花 新編・石光真清の手記(二)」(中公文庫、石光真清著、石光真人編)に出ていたので、儀助の人柄が出ているので紹介したい。時代は明治33年8月17日で、ロシア語取得のためにロシアに語学留学したいた時のことで、義和団事件の情報を得るために中露国境付近を動いていた頃のウラジオストック駅の出来事である。
「
三等客車の中には露支韓人の下層階級のものばかりがそれぞれ自国語で語り合っていたが、私はただ窓ぎわに座って前途をぼんやりと考えていた。そのうちうとうと眠ってしまった。汽車が停まってふと眼を覚ますと、六十歳を少し超えたと思われる日本人が乗り込んで来た。私はその風体を見て思わず微笑した。ところどころ破れて色のさめたフロックコートに、凸凹の崩れかかった山高帽をかぶり、腰にはズタ袋をぶらさげ、今一つ大きな袋を肩から斜めに下げていた。しかも縞のズボンにはカーキ色のゲートルを巻き、袋の重みを杖にささえて入って来たのである。私は自分自身の哀れむべき風体も忘れて、老人の頭から足元までしげしげと楽しんだ。
老人は私を眼ざとく見付けて、貴下は日本の方のようだが、と口を切った。「わしは青森の者でナ、笹森儀助と申しますじゃ。老人の冷水と笑われながら、笑う奴等には笑わせておいてナ、飛び出して来ましたじゃ。これもお国へのご奉公ですよ」と大きな袋を座席へゆっくりと縛りつけながら、「最初はわし一人で朝鮮に行き、元山の奥で韓国人の教化運動をやっとりましたがナ、そのうちこの義和団事件が起こったから色々と調査して見ると、わしにはロシアの行動が腑に落ちん。どうもやることが大袈裟すぎる。日本軍が北京や天津で鎮圧の手助けをしたが馬鹿らしいことになるんじゃないかと思われてナ。これあ黙って見ておられん。とにかく現地でロシアの真意を探る必要があるわいと考えてナ、誰に頼まれたわけでもないが、元山から徒歩でここまで来ましたよ」
私は元山からこの騒ぎの中をはるばる歩いて来たという奇跡のような話に、驚いて老人を見直した。ご本人は至極朗らかであった。「なあに、この歳でもまだまだどうして若い奴等に負けませんナ。丁度この駅に着いたらハバロフスク行の記者が出ると聞いた。しかし、わしはウラジオストックへ行くつもりだ。これは反対の方向へゆく汽車だが、折角だからと思って乗り込んだわけですよ。まあ取敢えずニコリスクで降りて情勢を見てから、ウラジオストックへ行って各方面の御意見を訊ねようと思っておりますさ」 「朝鮮では今度の事件をどう見ていますか」 「左様、判断に迷っている状態でしょうナ。力がないんですナ。力がないものは日和見主義になります。そうなったら貴方、日本は一体どうなると思う。ロシアを叩く力があるか、身を護る自信があるか。老人だから黙っていられますかナ。若い奴等が腰抜けなら、わしが曲がった腰を叩いて行く、とまあこんなわけですよ」 私は老人の一徹な赤心に感じて、私もまた同じ気持ちでうろついているのだと言うと、「ほう、貴下が?それはお若いに似ず感心なことじゃ。わしはこの通り老人じゃ。一生懸命やって下さい。お国のためですぞ。」と私の顔を見すえた。聞けばこの老人は、青森県出身の地理学の先駆者であり、県会議員も市長も務めたこともある。日清戦争講和後の三国干渉に憤慨して必ずこれに報いて見せるぞ、と家族親戚知己の反対を押し切って飛び出し来たものであった。
正午ニコリスク着。笹森老人と一緒に下車して駅前に出た。「わしはここでお別れします。貴下は御予定通り満州へ行かれるのがよいでしょう。満州は危険が多い。無理は失敗のもとです。どうぞ御大切に、十分注意して目的を達して下さい。貴下には初にお目にかかったが、これが最後になるかも知れん」と大声で笑って「いや、そんなことはどうでもよろしい。元気にやりましょう」と大袋をヤッコロサと肩にかけ、凸凹の山高帽をかぶり直して、私を駅前の雑踏の中に残してままサッサと人ごみの中へ姿を消してしまった。同老は幕末から明治にかけてオランダ派の地理研究家であり、千島、沿海州、朝鮮、満州等に関する著述が多い。私は、この時以後ついに再び会うことがなかった。
」
朝鮮の元山からウラジオストックまで直線距離で600km近くあり、これは普通歩く距離ではないが、弘前から江戸までが700km、江戸の人の感覚からすればそうは思わなかったかもしれない。笹森が青森市長となったのは明治35年であるので、石光との出会いより後のこととなる。笹森は明治32年5月、東亜同門会の嘱託となり、日本語学校建設のために朝鮮に渡ることになり、翌年、朝鮮北部の城津に城津学堂という学校を作った。さらに上記の文に見られるようにハバロフスク近辺の視察を行い、明治34年に体調を崩し帰国した。
ただ実際の笹森の足跡を見ると、明治32年9月に校務を同僚に託して、元山港から汽船相模丸にてウラジオストックに向かった。同乗者には田村大佐や石光らもいたようだが、石光の手記ではここで笹森との接触はない。その後、9月12日にハバロフスクからニコリスクに向かった。この時の21日間の旅の記録は「西比利亜旅行日記」として後日まとめられた(「負の国際化 明治中期日本女性の海外進出— 笹森儀助のルポルタージュと記録にみるシベリアの状況—」、東喜望、白梅学園短期大学紀要 第25号、1989)。
上記の石光手記は、明治33年のものであり、明治32年9月の笹森の21日間のこの時の旅行とは時期が異なる。おそらく笹森は義和団事件後のロシアの動きを知るために、前年に旅行した極東ロシアを再度訪問し、その時に列車の中で石光と会ったのだろう。この時はもしかして海路ではなく陸路、徒歩でハバロフスクまで行ったのかもしれない。義和団事件後、ロシアは懲罰的掃討作戦を行い、満州占領を企画して大量の兵隊を送った。日露戦争の発端となった。東亜同文会の知人である陸羯南や近衛篤麿などの調査依頼があったのだろう。
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