2010年6月30日水曜日

ワールドカップ



 連日ワールドカップが続き、寝不足気味です。日本らしいパスをつなぐサッカーが見られず、終わってしまったのは残念ですが、日本サッカーも少しずつ進歩しています。アジアというサッカー後進国からの出場では、アジア予選では守備的な相手に点をとるスタイルが要求され、本戦では強い相手に対して守備的に戦うスタイルに変更せざるを得ないのは、同じスタイルで戦えないジレンマがあったと思います。コパアメリカなどの海外での試合経験や欧米クラブへの選手の移籍がもっと増えればさらに強くなると思います。

 私が最初にワールドカップをみたのは、1970年のメキシコワールドカップで、NHKで何試合かが放送されていましいた。確かブラジルが優勝したと思いますが、ペレの活躍が光る大会でした。中でも一次リーグ、イングランド:ブラジルのペレとイングランドGKゴードンバンクスの攻防は今でもはっきり覚えています。ペレの放ったヘディングシュートをバンクスが右手一本ではじくのですが、まさに神懸かり的なファインセーブに驚きました。またドイツ主将のベッケンバウアーは、試合中に肩を脱臼しながらテープで固定しながらイタリアと戦い、その精神力には感銘を受けました。名勝負です。当時、ベッケンバーウアーのチップキックというちょこんと浮かすパスは、サッカー少年にはあこがれの的で、みんなよく練習していました。

 その後、どういう訳が六甲学院で1958年スウェーデン大会の16mmフィルムを見た記憶があります。どこからかフィルムを借りたのでしょう、教室に中学1年生から高校3年生までのサッカー部全部員が集められ、ブラジル:スウェーデンの決勝の試合を見ました。この時のブラジルチームは17歳のペレを含み、ほとんど魔法というようなプレーの連続で、ホームであり、開催国のスウェーデンの観客も最後には感嘆したくらいです。個人的には史上最強のチームと思います。当時サッカー少年だった私らから見れば、ほとんど人間技とは思われず、そのプレーにひたすらため息をつくばかりで、おそらく当時の全日本のメンバーも同じだったと思います。ペレに至っては、それこそ神そのもので、存在そのものが奇跡で、まして会う、プレーを見るといったことは考えられないようなプレーヤーでした。それで親友の大谷君の家でペレのサインを見せてもらった時は、驚くというより、なぜここにペレのサインがあるのかの方が不思議な気になりました。おそらく当時の日本で、ペレのサインなんか見たことのあるひとはいなかったでしょう。今、とんねるずの木梨憲武が壁などに勝手に落書きしているあれです。今考えると、大谷くんのお父さんは新聞記者をしており、当時の日本人で唯一ペレーに会い、サインしてもらえる立場だったのでしょう(昨年、大谷四郎氏は日本サッカー殿堂入りしました。大谷くん、おめでとうございます)。

 今大会は、あの新型のサッカーボールがすべての試合は台無しにしています。ゴール遥か上をいく、シュートばかりが目立って、フリーキック、ロングシュートによるゴールがほとんどありません。ワールドカップの度に変なボールを使うのはもうやめてほしいものです。一方、日本、韓国、ニュージランドといったサッカー二流国の健闘が光ります。ニュージランドチームは国内のセミプロチームに所属しているものがほとんどで、中には銀行員というプレーヤーもいるようです。こういったチームがイタリアと引き分けたことは奇跡に近いと思いますし、アマチュアチームでも、がんばれば強豪チームにも勝てる方法を教えてくれたと思います。日本チームもそうですが、点を取るサッカーは人気がありますが、守り抜くサッカーも見応えがあります。高校生のチームも参考にできる戦術です。

 フランスもひどい状況で、あの華麗なるシャンパンサッカーは一体どうしたのでしょうか。チーム自体がちぐはぐで、代表選手も黒人ばかりで、あれではほとんどアフリカチームといってもよいでしょう。フランスの人種政策の混乱を目の当たりに見るおもいです。愛国主義、移民政策にまで問題がまだまだ発展しそうです。また今回の大会で腕に入れ墨を入れた選手を多数見かけます。ヨーロッパの選手に多いようです。サッカーは庶民のスポーツで、子どもたちにも人気があります。サッカー選手は子どもたちの憧れの的であり、代表選手に選ばれるような選手は、とくに自覚をもってほしいと思います。入れ墨を入れるのが、子どもたちにかっこいいと思われるかもしれませんから。

 今年もサッカー部同窓の集まりを東京で開催しましたが、そのひとりが岡田監督と早稲田大学政経の同窓で、しばらく同じサッカー同好会に入っていたと話していました。岡田監督は大阪の出身で、友人とも同級、同じクラブでよく話しあったようです。大学に入ったからもうサッカーは趣味でやると言っていたようです。そのため早稲田大学の本部のサッカーには入らず、最初は同好会に入っていたようです。今でもそうですが、当時も早稲田大学政経は私立の最難関で、東京大学文一との併願のパターンが多かったと思います。岡田監督は1年間浪人して、サッカー推薦でなく、自力で入試を突破したようです。大阪の名門、天王寺高校とはいえ、日本ユースまで選ばれた逸材で、サッカー推薦でいくらでも他学部、他大学行けたのに、あえて入試を受け、難関の政経に入るあたり、岡田監督ぽいところです。六甲高校でも、サッカー部が強かった頃は、関西の私立大学からサッカー推薦がありましたが(私でも龍谷大学からさそわれたくらいです)、誰もそんなところにはいきませんでした。ユース代表の岡田監督くらいであれば早稲田大のスポーツ枠でも入れたのでしょうが、大学に入ってまでサッカーにしばられるのがいやだったのでしょう。当時はプロサッカーもなく、社会人リーグでプレーしても、結局は会社での昇進が遅れるという時代でしたから、大阪トップの進学校天王寺高校にいた岡田監督からすれば、入試で早稲田に入るのが現実的な選択だったかもしれません。今でもそうでしょうが、サッカー部の部長(大体は教授)は入学予定者のリストを眺め、サッカー経験者をチェックし、個別に入部を勧誘していました。岡田監督も結局はサッカー協会の関係者から怒られ、本部のサッカー部に入ったようです。

2010年6月27日日曜日

大往生なんかせんでもええやん


 高校の同窓会の掲示板で、同級生の桜井隆くんが今度、講談社から「大往生なんかせんでもええやろ」という本を出しましたと載っていました。彼とは同じ尼崎出身でしたが、中学、高校ともグループが違ったせいか、それほどいつも一緒という仲ではありませんでした。どちらかというと優等生ではなく、やや反体制的な点では近かったと思います。といっても学校の規則づくしのやり方にやや反抗的であったというくらいのものですが。前から桜井くんが在宅診療では有名だということは知っていましたが、へえあの桜井がというのが正直な感想です。

 本書を読むと、ひとはいつかは死ぬ、家で最後を迎えたいひとは、できるだけ本人、家族の意思をかなえるよう医師としてサポートしたいという彼の熱い、きわめて当然な想いがよく理解できました。以前ある教授に、日本人の平均年齢はだんだん高くなってきているが、医師としての最終的な目的は何かと聞くと、「永遠さ」と自嘲気味答えてくれました。科学者、医師としてはすべての患者の病気を直し、永遠の命をもたらすことが、確かに医学の究極な目的かもしれないが、そんなことは不可能であるとわかっていての答えでした。新しい治療薬、手術を研究、開発してガンをなおす、仮に治すことができても、今度は認知症の症状がでてくる。そこで認知症を治す薬ができても、違った問題がでてくる。こういった発想は確かに永遠の命を目的にしたものですが、桜井くんの発想は違う。ひとはいつかは確実に死ぬ であれば本人、家族にとっていい死を迎えさせることができるか、ここが出発点となる。私自身も最後はやはり住み慣れた家で死にたいし、最後まで家族、友人と話したいし、酒は飲みたいし、旅行もしたい。したいと思っていても、それをサポートするシステムがなければ、無理な話で、桜井くんは紆余曲折しながら何とか実践してきているし、制度の整備にも力を尽くしている。本書では医師の仕事の大変さについてはさらりと書かれていますが、経営的にも、精神的にも、在宅看取りするのは、医師としてはかなり大変であろう。モンスターペシェントと呼ばれる患者あるいはその家族もいて、やりがいがあると思うのが4割、残り6割はかなり精神的にはつらい場面もあるでしょう。時にはやってられないと思うかもしれないし、医師も人間であるから、休養やストレスの発散も必要です。患者にとって医師は一対一の関係ですが、医師にとっての患者は多くの患者の一人なのです。まして看取りの段階になると、患者や家族はある意味自分勝手で、24時間、いつでも、みてほしい、世話してほしいというある意味非常識な要求もでよう。何かあれば携帯に連絡するようにと桜井くんは淡々と患者に話すが、これは医師にとり自分の安息を犠牲にすることであり、また患者といくら世話話をしても診療報酬には結びつかない。

 幸いなことに桜井くんの活動に共鳴する医師、スタッフも増えているようですし、モルヒネ投薬の浸透、各種の介護器機の発達もあり、苦しまなくてすむ死の迎え方も定着しつつあるようです。ただ要は医師、スタッフと患者、家族との信頼関係であり、この信頼関係の構築には医師、スタッフの資質や生き方も問われると思います。最近は医学部の入試も難しくなり、学校で一番優秀な学生から医学部へという風潮もあるようですが、必ずしも勉強ができる=いい医師とは限りません。患者から看取ってほしい医師になるには、医師としての臨床能力も必要ですが、それ以上に人間性が大事で、そういった医学教育も必要でしょう。

 医学の究極の目標は不死かもしれませんし、人間の寿命は120歳まで延ばせるという報告もありますが、平均寿命を一歳増加させる努力、費用から、いい最後を迎えられるようなシステムにパラダイムシフトする時期にきているかもしれません。また医学教育もきちんとした看取りのできる医師、家庭医、スタッフ、介護士を確保できるものにしてほしいと思います。まだまだ桜井くんのような医師は日本では少ないと思います。
 
 以前のブログで紹介した鈴木貫太郎の臨終の模様をもう一度「妻と家族のみが知る宰相」(保坂正康著、 毎日新聞社)から引用します。「亡くなるとき、荒く、大きかった呼吸がだんだん静かに、小さくなって行きましたが、このとき室内に、30人ぐらいの家人や親しい方がいて、病床を取り巻いていました。私は背を撫でていましたが、その人々が一人一人手をにぎり、お別れして下さいました。そのとき誰の口からともなく、観音経の偈が唱えられました。 念彼観音力 衆怨悉退散 30何人の人が、一人残らず、念彼観音力と唱和しました。庭にも農事研究会の人たちはじめ、たくさんの方がいらっしゃいましたが、この方たちも、一緒に読経に唱和されて、いいようもない荘厳な死を迎えたのでございます。」

 病院での死より、こういった自宅での看取りを希望する人も増えることであろうし、それを可能にするシステムについても、本書にはくわしく書かれている。一読を勧めます。

2010年6月24日木曜日

弘前博物館「美人画の系譜」


 弘前博物館で開催中の福富太郎コレクション「美人画の系譜」を観てきました。男のひとにとって、美人ほど魅力的な存在はありませんが、生の女のひとをじっと見ることは不躾で、こういった美人画でその欲望を埋めるしかありません。画面の美人はいくら見ても、怒られることはありませんから。福富さんの美人の基準は今風よりは、どちらかというと古風な美人で、そういった美人画に引かれ、集めていったのでしょう。系統的な美人画の収集というよりは、好きな作品を集めたようで、顔立ちも福富さんの好みが出ているように思えました。

 今回の作品の中で、最も興味を引かれたのは、松浦舞雪の「踊り」という作品で、傑作です。戦前の阿波踊りを描いた、二曲一双の屏風で、昭和6年の製作とのことです。作者の松浦舞雪という方は、全く知りませんでしたが、かなり力量をもった作者です。カタログの解説にも、松浦舞雪については画業と足跡は不明となっています。阿波踊りを描いた作品の中では、最も優れた作品ではないかと思います。多くの作品では、編み笠をかぶった踊り子が集団で踊っている姿を描いたものが多く、祭りとしての踊りのダイナミックスを表現しています。

 この作品では二人の踊り子が、腰を落とした踊り方、男踊りをしていますが、母親に聞くと、戦前ではこういった踊り方も多かったようです。また編み笠をかぶり、集団で歩きながら踊るのは戦後のことで、戦前は立ち止まって踊っていたようで、そういった点でも戦前の阿波踊りをよく現していると言っていました。右下の花提灯には富田という名前が入っています。また衣装は長襦袢を重ねて着込み、それを片袖脱ぎにしていますが、実に色っぽい感じがします。これについては徳島のブログではこういった服装はありえないとしていますが、母の昭和初期の脇町の記憶では、桃色の長襦袢をきていたようで、それほど違和感はないようです。

 また三味線をひいている女の人は下半身をややせり出していますが、三味線を立ち姿でひくためにはこういった格好をしなくてはいけません。今にも踊りだすような踊り子、三味線線の音が聞こえるような奏者など実に巧みな表現で、画面の中央にはかんざしを一本置き、激しい踊りの余韻を示しています。徳島市のような都会では違うかもしれませんが、脇町のような小さな町の戦前の阿波踊りは盆踊りの風情を残し、太鼓や鐘などの鳴りものもなく、三味線と笛といった楽器を町内の名人が演奏しながら、町内を回っていたようで、いかにも情緒があったようです。この絵のコピーを母に送ったところ昔の阿波踊りを思い出したと大変喜んでくれました。

 松浦舞雪という無名の画家の作品をコレクションに加えた福富さんの審美眼には敬服します。他には福富さんが最初に買った鏑木清方の「薄雪」も切ない。併設のショップで絵はがきを買い、カラーコピーでA3に4倍くらいにして見ると安い費用で楽しめますのでお勧めします。

2010年6月17日木曜日

医療とアートの関係



 Artというと、通常絵画のような芸術作品を思い起こすひとも多いと思うが、医療のことをMedical Artと呼ばれるようにその意味は広い。ヒポクラテスの箴言「"Life is short, the Art long"」は「芸術は長く、人生は短い」と誤訳されることも多いが、実際は「人生は短く,術のみち(医術の道を極める)は長い」の意味であり、診断、処置などの医術の技を極めようとするには、人生はあまりに短すぎるといった意味であろうか。

 人間の体は、工業製品と違い、100%予想通りの結果になることはなく、大きな変異がある。薬を投与してもあるひとは、すぐに治り、ある人は治らず、ある人はもっと悪くなる。こういったことは科学の常識では考えられない。こうした変異に富む人体を治療する場合、個々の患者に合わせた対応、経験、手技が必要で、これをアートと呼ぶ。

 そのため他の学問と異なり、医学の分野では治療の良否を100%証明するのは難しく、「有意な傾向がある」といった表現しかできない事が多い。例えば、口唇口蓋裂の上あごへの初回手術がその後の患児の上あごの成長にどのような影響を及ぼすかといった研究をする場合、種々の手術法による違いを検証するには、同一の術者によってなされたというのが大前提で、同じ手術法をするからといって、術者を混在させて処理することはできない。この研究でも、ある手術法があごの成長にはわずかによいといった傾向がでたものの、むしろ同一手術法でも施設間の差が大きく、結論としては手術法より術者の技能が関係しているとなった。

 そうかといって、科学的手法による研究が必要でないということではなく、ARTとSCIENCEの両輪が現代医療には必要であり、アメリカで最も有名な医師William Osler は「Medicine is an art based on Science 」と端的に表現している。最新の論文をよく読み、経験と併せて治療する必要があるが、ただこの論文というのも、くせ者で、結果が研究者によりころころ変わるため始末に負えない。

 矯正歯科の分野でいうと、親知らずの萌出が下の歯列のでこぼこに影響するかといった議論に対しては1970年ころまでは影響するといった研究が多く、親知らずは抜かれていたが、その後1980年になると関係ないといった研究が多くなり、それで一応の結論が出たとなったが、再び2000年になると関係するといった研究が出てくる。こういった例は多く、定説が確立されそうになると再び、それに反対する説もでてくる。お互い、一応科学的根拠に基づくため、やっかいで、どちらが正しいかは、最初言ったようにあくまで傾向があるといった結論しかでないため、証明は難しい。結局はドクターの経験により判断されるしかない。

 研究者の多くは、研究を始める前にある仮説を立てる。それに基づき、研究計画を立て、実験を行い、結論を出す。ただ常に仮説が頭にあるため、どうしてもバイアスがかかってしまい、それが結論に影響することはある。Aグループが大きいと思えば、どうしてもAグループを測るときには大きく測るし、実験結果に有意差がでないと、差がでるまで被験者数を増やしたり、測定法を変えたりすることもある。また差が出ないと研究をやめるため、どうしても差があった研究しか世に出ない。研究者によっては20年前に出した自分の研究と全く違う結果を出してしゃあしゃあとしているひともいて、そういうひとに皮肉を込めて質問すると「科学は進歩するんだよ」とのたまう。読み手も、実験方法や考察をよく吟味し、常に否定的に考えないといけない。

 同様なことは患者さんにも当てはまり、例えば歯科医が「インプラントの成功率は95%であるので安心してください」といっても、これはあくまである研究結果であって、そう言っているドクターの結果ではない。中にはこれまで10例しかやっていない場合もあろうし、やり始めて3年しかたっていない場合もある。こういった場合、95%の成功率はあくまで参考程度しか意味をなさず、正確には「スウェーデンのA大学のA先生のところでの5年観察した結果は95%の成功率でしたが、私のところではこれまで10例して3年以内に抜けた例は3例でした」というしかない。ここで患者さんにとっては前半の95%成功率のくだりは関係なくなる。

 論文をよく検討し、いいと判断したなら、それを少数の患者に応用し、評価する。必要なら修正および中止を行う。その後は、ルーチン化していき、大勢の患者に適用していくが、その過程で不良な結果が出ることがある。診断の際に、不良結果がでる群を分別できればよいが、そうでなく、不良結果が深刻であれば、やはり中止となる。

 こういったことから、医療はアートであり、そのことは患者も医師もよく理解しておく必要がある。

2010年6月10日木曜日

0戦はやと




 0戦はやとを知っているひとは多分50歳以上男性の方でしょう。昭和39年頃テレビで放送していましたから、その頃小学生だった方はそれこそテレビに釘付けで見ていたと思います。私が最初に買ったレコードがこれで、といってもソノラマというぺらぺらの薄いレコードで、主題歌と絵本のような漫画がセットになったものでした。「狼少年ケン」とこの「0戦はやと」を当時買った記憶があります。確か朝日ソノラマだったと思います。当時の子供は忙しく、学校から帰ると、親から10円もらいランドセルを玄関に捨て、そのまま駄菓子屋に直行です。ここで近所の友人と会い、今日の遊びを検討します。必要な人数が決まれば、他の子供のところに誘いに行き、「さざえさん」、べったん、ベーゴマ、ボール当てや、三角野球などを近所の空き地や、路地裏で遊んでいました。帰ってすぐに夕飯を食べ、その後7時ころから子供向けの番組、ナショナルキッド、隠密剣士、少年ジェットなどを見ていましたから、結構いそがし毎日でした。

 当時でもお金持ちの家では、訪ねるとケーキとジュースが出たりするので、時折は二、三名でそういった所にも遊びには行きますが、なにか堅苦しく、早々に退散します。雨の日は、漫画を見に、違う友達の所に行きます。少年マガジンとサンデー、その後キングも発売されていましたが、3冊買っている家はなく、各自自分のマンガを持って行き、そのかわりに違う雑誌を見せてもらいました。よく行ったのは細見くんのところで、彼のところには古い週刊マンガ雑誌から貸本で貸していたハードカバーのまんが本ももっており、ちょっとした貸本屋でした。確か、お父さんは元軍人で、それも将軍だったそうで、内緒で勲章なども見せてもらいました。一、二度見ましたがかなり年齢がいっており、年取ってからできた子なのでいろんなものを買ってくれたのでしょう。

 昭和30年代は、どういうわけか、戦記ブームで、少年マガジンでもしょっちゅう、これが戦艦大和とか零戦の構造など、折り込みのページで解説されていました。そのため当時の少年は例外なく、正月には模型屋でそういったプラモデルを買い、接着剤だらけになり、泣きながら模型を作っていたものです。小学校の前の文房具屋でも模型を売っており、ショーウィンドーに並んだ完成模型を食い入るように見ていました。0戦はやとは、そういった時代に誕生した漫画で、月刊誌ではゼロ戦レッドなどもありました。今でも飛行機が好きなのは、この頃の影響で、おそらく航空ファンなどの購買層の多くも私と同じ年代と思います。本気で将来は戦艦の設計士になろうと思ったくらいで、小学校2年生の頃には戦艦という漢字は書けたし、ひまをみてノートに架空の戦艦を定規を使って書いていました。今と違い、反戦といった雰囲気は一切なく、お隣の中国や韓国からの抗議もなかったようです。

 少年マガジンやサンデーなどの週刊誌にはページの端によく、作者の何々先生にお便りをだそうとかいって、作者の住所が平気で載っていました。また作品の漫画を描いて送るコーナもあり、優秀者の名前がここに載ることもあり、「チャンピオン太」では一度載ったことがあります。人気野球選手の住所もそのまま載っていましたので、一度長島茂雄さんにオバQのハンカチを入れて、サインしてくださいと送ったところ、後日、サインされたハンカチが長島さんから送られ、あんなにうれしかったことがありません。味をしめ、王選手にも送りましたが、サインはもらえませんでした。それ以来、大の長島ファンです。

 急に思いついて、朝日ソノラマの0戦はやとの絵を描いてみました。0戦の絵は暗記していると思い、資料もなく描いてみた後、改めて世界の傑作機で確認すると、全くでたらめな22型か52型かわからないものになってしまいました。また絵の具はペリカンの固形タイプを使っており、こういったアニメを描くには全く適していません。

2010年6月6日日曜日

山田兄弟27



山田家の子孫は、弘前にいないかとのコメントをいただいた。貞昌寺には、山田兄弟の碑の後ろに山田家の墓もあり、その子孫もいるのではあろうが、詳細については全くわからない。私自身は専門家ではなく、このブログの出典も、保坂正康さんと、結束博治さんの2冊と東亜同門書院発行の若干の雑誌によるものがほとんどで、直接愛知大学で調べたり、関係者に合ったこともない。さらに言うと、山田兄弟を描くこの2冊の本の発行日は1992.2と1992.9とほぼ同時となっている。山田純三郎の資料の多くを持っていた三男順造さんが、父の伝記を完成させることをライフワークとしていたが、道半ばにして病に倒れ、何とか完成させようと上記の二人が急いで完成させたことによる。できれば生前中に発行させようとしたのか、順造氏の資料を中心に執筆したのが実情であろう。とくに保坂さんは関係者の証言を丹念に追って執筆する作者だが、この本に限ってはかなり省略されており、不本意であったろう。両者とも将来さらに定本的な山田兄弟伝の完成を望んでいた。

 本来の伝記であれば、こういった兄弟を生んだ山田家の家系や、良政、純三郎の兄弟のことも記載しないといけないであろう。特に次男清彦、四郎はアメリカに渡ったようだが、その後どういう生活をしたのか、あるいは4人の男子のうち2人をアメリカに、2人を中国にやった父浩蔵はどんな人物であったかなど上記の2冊では十分に描かれていない。明治のころ、海外に子供を送るということは、ほぼ帰ってこない、家系の断続を意味し、当時としては浩蔵の決意はみごとである。

 山田浩蔵は弘前藩士族で150石の中級武士で、藩主の行政面の用向きを伝える「お小姓組」に属していた。維新のころには武士の授産事業として漆器会社をおこし、今日の津軽塗の発展の基礎を作った。妻きせは初代弘前市長菊池九郎の姉であり、また浩蔵の妹は菊池九郎に嫁いだ。浩蔵は同士の伊藤正良とともに「漆器樹産合資会社」を設立し、また青森銀行の重役になった。

 浩蔵には4男2女がおり、長男が良政、三男が純三郎で、次男は清彦、四男四郎ら、すべての男子は東奥義塾に学び、清彦、四郎は渡米し、その地で生涯を終えたという。どういった活動をしていたかは不明である。また長女なおは伊藤要一(上記伊藤正良の子か?、県会議員)に嫁ぎ、二男三女をもうける。次女芙蓉は弘前市出身の竹内徳崔に嫁ぐ。徳亥は後に満州国高官(民政庁長官)となる。またその長男竹内伸太郎は元青森県立図書館長である。伊藤要一(山田純三郎書簡では佐藤要一となっており、改名したのか?)の長男が佐藤慎一郎で、中国各地で活躍し、戦後は拓殖大学で教えた。東京在住の寳田氏との会談の模様が残っており、純三郎に関わる秘話を伝える(対談録 荻窪酔譚)。また純三郎の妹ひさは馬渕勇五郎に嫁ぎ、二男誠剛は満州鉄道に勤務する。こうして見ると山田家の親類の多くは、時代を反映するのか、中国で活躍している。

 最近の中国の報告では、1920年ころに広東政府による中国海南島開発調査のため、山田純三郎とおいの菊池良一が海南島を訪れたことが記載されている。新聞社、学校経営以外にも色々なことを中国でやっていたことがわかる。純三郎は日記のような文章をほとんど残さなかったため、実際に中国で何をしていたかは、あまりはっきりしていないが、今後中国国内の資料でも少しずつ解明されていくだろう。一方、関係者の聞き取りとなると、直接純三郎を知るひともすでに高齢か、他界しており、難しい。そういった意味では佐藤慎一郎氏の証言は貴重である。

 山田兄弟の子孫の多くは、アメリカ、東京など各地に散らばっており、地元弘前との関連は薄れているかもしれない。しかしながらインターネットという手段がある現在では、こういった距離の遠さを問題はないのだから、お互い交流し、積極的に発言していただきたいものである。

山田家家系は愛知大学資料集から、また下記写真竹内徳亥夫婦の写真はまほろばの泉から拝借した。

2010年6月3日木曜日

山田兄弟26



 先日(5月22日)、NHKハイビジョンで「ハイビジョン特集 孫文を支えた日本人- 梅屋庄吉-」が放送された。

 小坂文乃さんの著書「革命をプロデユースした日本人」で内容は大体わかっているが、こういう形で映像化されると、よりはっきりと理解しやすい。インタビューも適切な人物を使い、全体的には孫文を支える日本人、とりわけ財政的に支えた梅屋庄吉を中心とした構成になっている。当然、山田良政、純三郎も少しだけだが登場する。

 梅屋は総額2兆円以上の革命資金を提供したとされるが、この金額の根拠は不明であり、さすがに今の日活の創始者としても、これだけの金額は捻出できないだろう。といっても莫大な金額を提供したのは間違いない。最後には、孫文の銅像を作るため、金がなく娘に借金するシーンが出てくるが、結果的にこれだけ金を使って形として残ったのは娘の金によるこの像だけというのは皮肉なことである。

 この番組で気になったのは、孫文の革命に参加した日本人のアジア主義者を最後まで孫文を支えた梅屋のような人物と、日本の帝国主義化に伴い孫文から離れていった頭山満、犬養毅などを対比的に捉えた点である。孫文の人物像についてはさまざまな評価があるが、夢想家、場当たり的なところがあったのは否定できず、犬養や頭山のような老獪な政治家からみれば現実を重視せよということになろうか。逆に梅屋や山田純三郎のように最後まで孫文についていった日本人は、孫文そのものの人物にほれたのであり、純三郎にいたっては在上海の日本人からは孫文バカと呼ばれていたくらい死ぬまで強い想いを持っていた。さらに梅屋、山田純三郎ともに、個人として孫文に接しており、特にグループあるいは会といった活動は行っていない。頭山は玄洋社、犬養は憲政党などの政党の長であり、自ずと発言も会の意向とは無関係ではおられない。一方、梅屋にしても事業としては映画があり、その経営をしていたが、こと孫文の支援に関しては完全に一個人として参加している。

 孫文の無節操な態度に梅屋、山田はだまされていたという声もあっただろうし、実際、梅屋は莫大な金額を支払ったし、山田も家族も犠牲にして、日本と孫文、中国のために奔走した。その意味ではだまされたといってもよかろう。この関係は、宗教における教祖と信者の関係に似ているのであろうか。信仰の強い信者にとっては教祖の命令は絶対であり、周囲の人間がいくら教祖の人間性を非難したところで教団内では批判はない。宗教とはある意味思い込みであり、教祖を絶対化することで、周囲の雑音は一切シャットアウトされる。山田、梅屋にとって孫文の存在はこういった存在だったかもしれない。政治家、思想団体のリーダーであった犬養、頭山にとって孫文はあくまで友人、偉大な人物ではあるが、情勢の変化によって何でも受け入れるべき存在ではなく、当時の日本国民、軍部、マスコミの潮流には逆らえなかったのであろう。

 孫文の神戸で行った最後の講演での悲痛な叫び、「今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。」は、現在の鳩山政権の東アジア共同体構想にまっすぐつながるものであり、まさに今日的な課題である。一方の日本の外交戦略の基本である国際協調型外交(欧米重視)は、珍田捨巳、牧野、西園寺から連綿と続くものであり、この両者の考えの出発点に弘前出身の山田純三郎と珍田捨巳が関わっているのはおもしろい。

 今回、NHKで梅屋庄吉を取り上げてくれたが、できれば山田兄弟も特集してもらうとありがたい。梅屋にしても、山田兄弟にしても個人的には金、名誉や地位といったことに一切関わりなく、無私の精神で中国革命に協力した。こういった人物こそ、後世の者がその業績をきちんと評価することが、日中、日台友好の基礎だと思う。