2010年6月10日木曜日

0戦はやと




 0戦はやとを知っているひとは多分50歳以上男性の方でしょう。昭和39年頃テレビで放送していましたから、その頃小学生だった方はそれこそテレビに釘付けで見ていたと思います。私が最初に買ったレコードがこれで、といってもソノラマというぺらぺらの薄いレコードで、主題歌と絵本のような漫画がセットになったものでした。「狼少年ケン」とこの「0戦はやと」を当時買った記憶があります。確か朝日ソノラマだったと思います。当時の子供は忙しく、学校から帰ると、親から10円もらいランドセルを玄関に捨て、そのまま駄菓子屋に直行です。ここで近所の友人と会い、今日の遊びを検討します。必要な人数が決まれば、他の子供のところに誘いに行き、「さざえさん」、べったん、ベーゴマ、ボール当てや、三角野球などを近所の空き地や、路地裏で遊んでいました。帰ってすぐに夕飯を食べ、その後7時ころから子供向けの番組、ナショナルキッド、隠密剣士、少年ジェットなどを見ていましたから、結構いそがし毎日でした。

 当時でもお金持ちの家では、訪ねるとケーキとジュースが出たりするので、時折は二、三名でそういった所にも遊びには行きますが、なにか堅苦しく、早々に退散します。雨の日は、漫画を見に、違う友達の所に行きます。少年マガジンとサンデー、その後キングも発売されていましたが、3冊買っている家はなく、各自自分のマンガを持って行き、そのかわりに違う雑誌を見せてもらいました。よく行ったのは細見くんのところで、彼のところには古い週刊マンガ雑誌から貸本で貸していたハードカバーのまんが本ももっており、ちょっとした貸本屋でした。確か、お父さんは元軍人で、それも将軍だったそうで、内緒で勲章なども見せてもらいました。一、二度見ましたがかなり年齢がいっており、年取ってからできた子なのでいろんなものを買ってくれたのでしょう。

 昭和30年代は、どういうわけか、戦記ブームで、少年マガジンでもしょっちゅう、これが戦艦大和とか零戦の構造など、折り込みのページで解説されていました。そのため当時の少年は例外なく、正月には模型屋でそういったプラモデルを買い、接着剤だらけになり、泣きながら模型を作っていたものです。小学校の前の文房具屋でも模型を売っており、ショーウィンドーに並んだ完成模型を食い入るように見ていました。0戦はやとは、そういった時代に誕生した漫画で、月刊誌ではゼロ戦レッドなどもありました。今でも飛行機が好きなのは、この頃の影響で、おそらく航空ファンなどの購買層の多くも私と同じ年代と思います。本気で将来は戦艦の設計士になろうと思ったくらいで、小学校2年生の頃には戦艦という漢字は書けたし、ひまをみてノートに架空の戦艦を定規を使って書いていました。今と違い、反戦といった雰囲気は一切なく、お隣の中国や韓国からの抗議もなかったようです。

 少年マガジンやサンデーなどの週刊誌にはページの端によく、作者の何々先生にお便りをだそうとかいって、作者の住所が平気で載っていました。また作品の漫画を描いて送るコーナもあり、優秀者の名前がここに載ることもあり、「チャンピオン太」では一度載ったことがあります。人気野球選手の住所もそのまま載っていましたので、一度長島茂雄さんにオバQのハンカチを入れて、サインしてくださいと送ったところ、後日、サインされたハンカチが長島さんから送られ、あんなにうれしかったことがありません。味をしめ、王選手にも送りましたが、サインはもらえませんでした。それ以来、大の長島ファンです。

 急に思いついて、朝日ソノラマの0戦はやとの絵を描いてみました。0戦の絵は暗記していると思い、資料もなく描いてみた後、改めて世界の傑作機で確認すると、全くでたらめな22型か52型かわからないものになってしまいました。また絵の具はペリカンの固形タイプを使っており、こういったアニメを描くには全く適していません。

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