2022年2月15日火曜日

唱歌史における歴史の改竄

 

NHK 1978年、2018発掘プロジェクト「唱歌ふるさとのルーツを探る
東邦音楽大学教授、小出浩平 岡野貞一との会話から断定

父親、高野辰之の証言から「ふるさと」の作詞者として断定

著作権委員として作曲者の解明?高野の教え子

この番組の効果は大きく、放送後、ふるさと、春が来た、春の小川、朧月夜、紅葉などの名曲唱歌が、ほとんど証拠のないまま、すべて岡野ー高野コンビ作と定着した。実際、岡野、高野当人は、生前、自分が作曲者、作詞者とは一言も言っていない。小出は音楽教育指導、長谷川は作曲学が専門で、大学の音楽史の先生から異論はなかったのか。


先日、オンラインで「音楽探偵・安田寛の楽しいニッポンの音楽論3 第一回」を見た。1時間半の講義であったが、大変面白い内容と構成であっという間に終わった。専門の矯正歯科の講義よりよほど面白い。タイトルは“音楽探偵、楽しい”と、茶化して書いているが、内容はかなり深刻で、ドロドロしている。

 

ここからの内容な、すべて今回のオンラインの講義内容であることをまず明記する。

 

「ふるさと 故郷」、「春が来た」、「春の小川」などの誰もが口ずさむ唱歌、文部省唱歌は、戦前までは作曲者、作詞者不明となっていたのが、戦後、それも昭和40年頃から作詞、高野辰之、作曲、岡野貞一となっている。もともと文部省唱歌は、日本人の子供のために歌を作ろうと、文部省で音頭をとり、全体委員長を湯原元一、歌詞部門の委員主任は吉丸一昌、委員は富尾木知佳、乙骨三郎、高野辰之、武笠三、作曲部門の委員主任は島崎赤太郎、委員は楠美恩三郎、岡野貞一、南能衛、小山作之助、上真行が協議して作った。例えば、「春が来た」などは作曲班の一の組、小山、楠美、南がそれぞれ曲を作ってきて、みんなで聞いて、さらに作り直して確定してという経緯がある。

 

高野、岡野はこれらの委員の中では長生きして、死後、その追悼文の中に、「ふるさと」、「春が来た」、「春の小川」の作詞、作曲者とされた。もちろん作詞グループ6人の一人として高野、作曲グループ6名の一人として岡野が、作曲したとは言えるのだが、あくまでグループ作業であり、誰が作曲、作詞者とはならず、理科系科学論文で言えば、代表者の作詞者は吉丸一昌、作曲者は島崎赤太郎と言ってもいいのかもしれない。

 

その後、戦後になって日本音楽著作権協会ができると、著作権料を領収するために、作詞、作曲者の同定が始まり、これまで文部省唱歌、作詞、作曲者不明の多くの唱歌の作曲者、作詞者が必要となった。そこに高野と岡野の子孫が生前、親、祖父から聞いた伝言から、著作権協会にうちの父、祖父は作詞、作曲者と言い出し、協会および文部省もほとんど調査しなかったため、有名な多くの唱歌が高野—岡野コンビの作とされた、今や長野県中野市に高野辰之助記念館が、島根市には岡野貞一歌碑が作られている。

 

その後、唱歌誕生の制作過程を示す日記など新資料が見つかり、唱歌は作詞、作曲委員による合議で決められたもので、たとえ原作曲、原作詞があったとしても議論の中で、かなり変更された。こうした経緯がはっきりした証拠が見つかったが、それでも「ふるさと」、「春の小川」、「春が来た」などの名曲が高野—岡野コンビのよるものではないと否定はされず、そのままになっている。現行の教科書にもそう記載され、さらに町おこしの一環として記念館や石碑が作られるようになると、これをあえて否定するのは難しくなり、その後の論文でもオブラートに包んだ表現となり今に至る。

 

実際、確実に作曲者、岡野貞一とされる唱歌はほとんどなく、作曲した多くの校歌もそれほどレベルの高くなく、さらに委員の中でも年齢的にも若く、作曲の才能も少ないため、岡野に「ふるさと」のような名曲は作れないという意見もあるほどだ。作曲6名、作詞6名の委員が生きている間は、こうした作曲者、作詞者の同定は一切なく、死後、ほとんど資料のない状態で、作詞者は高野、作曲者は岡野と固定されたことは彼らも“自分は仕事の一部をしただけだ”と戸惑うだろう。

 

かって神護寺にあった武士の肖像画が源頼朝像とされ、国宝となったが、その後の調査で、足利直義像ではないかとされ、少なくとも源頼朝像ではないことがはっきりし、教科書に載らなくなった。こうした伝で言えば、今でも小中学校の音楽の教科書に載る「ふるさと」は、岡野、高野といった個人が作曲、作詞したものではなく、文科省小学校唱歌教科書編纂委員会あるいは作詞、作者不明とすべきである。また残念なことではあるが、記念館や石碑についても修正すべきであろう。これは他の委員に対しても失礼であるし、何より高野、岡野にとっても不本意なことであろう。歴史の改竄が行われている。

 

私事ながら、私が見つけた「明治二年弘前絵図」はあまり注目されず、令和二年に発行された「絵図で見る弘前城のうつりかわり」(郷土歴史シリーズ)でも明治四年の「士族在籍引越之際地図並官社学商現在図」が取り上げられ、平成30年にできた高岡の森弘前藩歴史館でも「士族在籍引越之際地図」が展示されている。普通に考えれば明治四年の地図は明治二年の地図のあくまでコピーであり、コピーよりはオリジナルが重視されるべきであるが、発見者が素人で、その後も歴史学者の調査が入っていないということで、弘前図書館の奥にしまわれたままとなっている。幸い私が自費で本を出版したからいいものの、何もせずに寄贈すれば、コピーである「士族在籍引越之際地図」が弘前市の文化財に選ばれかねない。実際、文化庁が主催する文化遺産オンラインでは廃藩置県当時の弘前城下の様子がわかる貴重な地図として、「士族在籍引越之際地図」が登録されている。美術で言えば、オリジナルがあるコピーを堂々と美術館に展示しているようなもので、これほど恥ずかしいことはない。

 

逆のことでいうなら、弘前市森町の忍者屋敷も、そもそも忍者屋敷の定義すらはっきりしないし、そこが忍者屋敷と言えるだけの証拠がほとんどないにも関わらず、東奥日報などのマスコミあるいは弘前観光コンベンション協会などが悪ノリして、次第に大ごとになっているが、プロである歴史学者からの一切の声はない、否定する論がないと、唱歌における作曲者、作詞者と同じく、そのまま嘘の歴史が事実化していく。少なくとも大学の歴史の先生が、東奥日報などに投稿し、「忍者屋敷などナンセンス」と、これまでの証拠を全て潰すだけでも、収束できる。間違った歴史に異議を立てることも専門家の社会的な使命であると考える。長慶天皇伝説、東日流外三郡誌、義経伝説、キリストの墓など、青森はホラの多い場所であり、よほど注意しなくてはいけない。

 


2022年2月12日土曜日

大橋歩さんのイラスト

 



フランスのthe model cyclistのフィギュア



私たちの世代にとって大橋歩さんとは、平凡パンチの表紙を担当したイラストレーターとして知られる。創刊号から7年間、390号まで、その独特なイラストは、若者に支持された。当時、若者の雑誌といえば、週刊プレイボーイと平凡パンチが二大双璧であったが、プレイボーイは雑誌内容そのもの、人気ある女性アイドルを表紙にしていたのに対して、平凡パンチはあくまでイラスト表紙に固執した。ただ若者にとっては、直接好きなタレントの裸が載る週刊プレイボーイの方が売れ、次第に平凡パンチもそうした方向に変化していった。

 

今回、大橋歩のイラストが数点、ヤフオクに出品されていたので、その中でも大橋さんの特徴的なタッチが出ているものを購入した。届いた作品は、オークションの解説にはパステル画と書いていたが、表面をなぞるように観察しても、パステル絵具の厚みが見当たらず、ひょっとしたら印刷画かと思った。額縁も古いため、額縁の裏のテープをすべて剥がし、絵を直接見てみると、自筆のパステル+水彩画ということがわかり安心した。解説ではピンクハウスのイラストに使われたものではないかとしているが、はっきりしない。大橋さんは1980年代に人気のあったファッションブランド、ピンクハウスのためのイラストを10年ほど担当したいたので、構図からもその中の一枚と思われる。いつものように額縁のタカハシに生成りの立体額を注文したが、横長のものを注文したため、上下の幅が狭く、バランス的に変になってしまった。正方形のものにすべきであったと悔やまれる。

 

大橋さんの最近描いた原画あるいは版画は、京都のイオプラスというお店や、ほぼ日TOBICHIのオンラインショップで販売することもあるが、あまりオークションで作品は出てこないので、今回は少し奮発して購入した。

 

大橋さんは1940年生まれなので、今年で82歳だが、おしゃれで、その絵や洋服は若者に人気があり、最近では村上春樹の「村上ラヂオ」のイラストで知られ、また洋服ではhobonichi +A.というブランドでエージレスの服を作っている。

絵本作家の角野栄子さんもおしゃれで、明るい赤の洋服が似合う方だが、大橋歩さんも、自分のデザインした洋服を着て、本当に素敵である。こうした年配の女性の方が多くなれば、老人人口の多くなった日本もおしゃれな国になるだろうと思うが、まだまだで、もっとテレビや雑誌、他のメディアでも、こうした明るい洋服や髪型もおしゃれというムードを作れば、真似る年配の方も増えるかもしれない。

 

ここ十年くらい、診療所のインテリアや絵もクラッシックなものからモダンのものに変えてきてきた。院長室には、いまだに鹿児島大学の後輩から送別会でもらった桜島の絵と弘前の版画家、下澤木鉢郎の版画を掛けているが、それ以外のクラッシックな絵は、母親の絵の師匠、武井泰道の絵で、診療室に飾っている。あまり言いたくないが、弟子になると師匠の絵を購入する義務が生じ、仕方なく購入したもので、それほど好きな作品ではないので、この際、撤去して倉庫に移動し、そこに大橋歩さんの作品を飾った。飾った当日、患者さんから「いい絵ですね」と言われ、案外、患者さんは診療室の中を見ているものだと思った。

 

村上隆がプロデユースするZingaroというところで、日本の現代絵画をネット販売しているが、この中でもダントツに人気の高い作家は、KYNEという画家の若い女性を描いた版画で、それこそ数十秒で売れてしまい、すぐに倍くらいの価格となり、そして一年後には4倍くらいとなる。ロッカクアヤコさんの作品もそうだが、まだまだ現代絵画のバブルは続いており、KYNEの例で言えば、2017年に6万円で買った2枚の版画が、20212のヤフーオクションでは256万円で落札された。画廊であれば、このさらに倍の価格であり、50部のシルクスクリーンでこの価格は異常である。完全な投機物件となっている。

 

若い女性の患者さんが多くなったので、もう少し、こうした年齢層に合わせたインテリアを目指したい。


2022年2月11日金曜日

学生運動とは何だったのだろう

 

東北大学でも年配の教授がこんな帽子、看板を被せられ、自己批判されられていた。自己批判をさせていた当時の学生も今は70歳以上、反省するなら、この格好で東京駅で一日中立って、自己批判しろと言いたいが

ベトナム戦争反対というが、中国のチベット侵攻、併合
、文化大革命には一言も反対しない。中国、ソ連の核兵器をきれいな核と称していた。


学生運動といっても今の若い人にはピンとこないと思うが、1970年前後、全国の学生が学校、社会に不満を持ち、大学封鎖、ベトナム戦争反対などの行動を起こした運動である。私が東北大学に入ったのは、昭和50年、1975年頃で、当時、ようやく学生運動も下火になってきたが、それでも、教養部では一部の学生が教授に三角帽を被せて自己批判させたり、教室前にバリケードを築いて授業できないようにしたりした。そのため、一部の先生の授業はなく、レポート提出だけで単位をもらえて助かった。図書館前では、角棒にヘルメット姿で、機動隊に突入訓練している一団もいるし、しょっちゅうアジビラもまいていた。

 

高校時代、朝日新聞や本多勝一の本に影響され、文化大革命を熱中していた私も、次第に文化大革命の実態を知るようになり、共産党、社会主義の欺瞞に気づくようになった。大学に入る頃には、全く共産主義、社会主義に失望しており、学生運動をしている学生から渡されるビラも何を書いているか全く理解できず、こいつらは自己満足で、こうしたビラを作り手渡しているだけだと感じていた。若者が社会に抵抗するのがかっこいいと思っていたのかもしれない。

 

当時から、東大入試まで中止となった当時の学生運動はいったい何だったのか、ずっと疑問であった。そうした疑問に答えてくれたのが「激動 日本左翼史」(池上彰、佐藤優、講談社現代新書)である。結論からいえば、この二人の著者は学生運動を「哲学・思想の面で新左翼に優れたものがあったのは間違えありません。しかし、政治的には全く無意味な運動だったと言わざるを得ないでしょうね。革命を成就させられなかったというだけでなく、その後、日本社会に何らかのポジティブな影響を及ぼしたわけでもありませんでした。」、「後世に残したものがないんですよね」と手厳しい。私自身、新左翼に哲学、思想的にも学ぶことはなく、運動自体、すべて無意味なものと考えている。

 

当時の学生運動に命をかけた先輩を多く知っており、今や70歳前後になり、好々爺であるが、当時の学生運動をどう思っているか。おそらく同様に無意味なものと思っており、当時の考えを思想的にも継続している人はほとんどいないし、むしろ保守化している人の方が多いくらいである。日本に暴力革命を起こし、粉砕せよとアジっていた面影は全くない。

 

過激化する学生運動の中で、内ゲバで大怪我をしたり、自身も大学をやめ、人生を棒に振った学生もいただろう。それだけの犠牲を払っても、何らかの社会の役に立ったなら、まだ報われようが、全く無意味というのは残酷である。佐藤は、「ロマン主義や社民主要打撃論的な内ゲバへの誘惑に流されることもなく踏みとどまり、現実的に考えるために必要なことの一つは、組織の内部に、「ダラ幹(堕落した幹部)」を作っておき、その現実主義を認めることです」、「新左翼の強さであると同時に最終的な命取りになったのは、彼らが官僚化しないことでした。現代の政治は官僚化しないとできないものであります」は書いているが、さすがに学生にこれを要求するのは無理である。実際、老人になっても日本共産党の看板をいまだに下ろせない連中が、学生時代、「こんなビラ配っても誰も読んでくれませんよ。漫画、アニメにして説明したらどうですか」と言ったダラ学生の意見は通らない。

 

思想にすっぽりはまり込むのは非常に危険であり、先日もマスクをしたくない主義の呉市会議員が騒いで搭乗した飛行機から降ろされるニュースがあったが、彼はおそらく市会議員の地位も含めてすべてを失うであろう。あと数年すれば、こうしたマスクをする、しないもニュースにさえもならないものであるが、主義思想に極端に走るとこうしたことになり、学生運動もまさに同じようなものであろう。こうした意味では、中国共産党を救った大恩人は、市場経済を中国に導入した鄧小平で、社会主義国に資本主義を導入するという反則技を入れることは、ダラ幹どころか、理想主義者からすれば真っ先に抹殺すべき大悪党である。この現実主義により中国民衆の生活レベルが一気に向上し、もし文化大革命のままの社会主義を続けていたなら、早晩崩壊していたのは間違いない。

 

そして総括として佐藤は「左翼というのは始まりの地点では非常に知的でありながらも、ある地点まで行ってしまうと思考が止まる仕組みがどこか内包されていると思います」、「共産主義なる理論がどういう理論であっても、それはどういう回路で自己絶対化を研げるのか、そして自己絶対化を克服する原理は共産主義自身の中にはないのだということは、今のリベラルも絶対に知っておかなければいけないことです」としており、その完璧な例を隣国、北朝鮮にみる。結局、共産主義は、スターリン主義、レーニン主義、トロツキー主義などいろんな理論があっても、最終的には自己絶対化、さらに政権を握ると、権力闘争、権力の独占、驚くべき官僚化などが、ほとんどの集団、国で起こり、佐藤の言うように共産主義にこれを超える理論はない。



2022年2月8日火曜日

浮世絵美人画は、アニメの美人?

 

元時代の肖像画

宋時代の肖像画



浮世絵の美人画から推測して、江戸時代の美人は、切れ長の目、面長の顔だとする考えがあるが、はっきりいって、歌麿の描くような女性はこの世には存在しない。まず、顔のプロポーションがおかしく、全体の中であまりに目が小さく、細すぎるし、同様に唇も小さすぎる。全身に比べて頭の部分が大きすぎたり、小さすぎたり、手足の大きさも変である。要するに何か変なのである。こんな顔の女性が、もし現実にいたとしても、決して美人とは思わず、逆にギョッとするだろう。

 

西洋では、ギリシャ、ローマの彫像に見られるような写実主義は、油絵の技術、技法が確立された14世紀後半から人物を立体的に描くことができるようになり、ルネッサンス期にはあたかも生きているかのような人物画が登場する。その後の西洋の絵画は、抽象画の登場する20世紀まで写実的人物画がメインであった。

 

一方、中国を含む、朝鮮、日本などアジアの国々では油絵が広まらなかった。立体構成ができない二次元的表現法では、写実的人物像を描くのは難しく、中国、韓国の君主肖像画あるいは、日本では渡辺崋山の肖像画などを除くと一般的ではなかった。

 

そうした中、江戸時代、庶民の間で人気があったのは、浮世絵、そしてその美人画である。残っている明治初期の美人写真を見ると、当時の美人の基準は現代と似ており、江戸時代の実際の美人像は明治初期の美人像とそれほど違いはないはずである。明治10年の50年前は江戸後期で、令和4年の50年前は昭和47年、男はつらいよのマドンナ、吉永小百合さんはやはり美人であり、江戸後期の美人の写真はないものの、写真がある明治時代の美人と基準はそれほど変わっていないはずである。

 

おそらく江戸時代の人々も浮世絵美人を当時の江戸美人の実際の写実的な姿を現しているとは思っていなかったはずである。何となく特徴をカリカチュアしているもので、今でいうアニメや漫画の中の美人のようなものだろう。我々は、アニメ、漫画に日々接しているが、100年後の人々に令和の美人はアニメ、漫画の出ているような人物と言われると、もちろん否定するであろう。実際に少女漫画に出てくる美少女のような目が大きい人はいないし、宮崎駿のアニメの主人公のような人物はいない。このことから、江戸時代の浮世絵美人は、現在の漫画、アニメ美人と考えると理解しやすい。

 

江戸時代、日本人は本物そっくりな人物画に興味はなかったかというと、人形の分野では、生き人形という本物そっくりな人形を見世物興行に使ったことからも人気はあった。それでは浮世絵や肉筆画でも本物そっくりな美人画を描けば話題になり、人気が出そうであるが、実際、渡辺崋山の「鷹見泉石像」のような優れた写実肖像画があるものの、女性のそうした写実的肖像画はない。不思議なことである。隣国の中国でも、基本的には写実性より形式化された美人像が一般的であるが、唯一、皇后の肖像画については宋時代の宋徽宗后半身像や元時代の元世祖后半身像、あるいは清代の乾隆帝皇后肖像など本物そっくりな肖像画は残っており、油絵でなくても写実的絵画は可能である。

 

こうしてみると、江戸時代の画家もより写実的な美人画を描くことはできたであろうが、敢えてそうしたことをする意味を認めないか、何らかのタブーがあって、日本ではついに女性をリアルに写実的に描くことはなかった。さらにいうと、中国の皇后に匹敵するような、女性で肖像画を後世に残すような人物が日本ではいなかったことも理由の一つかもしれない。


2022年2月5日土曜日

外科的矯正の適用

 



最近も、歯科雑誌を見ていて、本来、外科的矯正の適用であったが、患者がどうしても手術をしたくないと、歯の移動だけでうまくに治したいという症例が載っていた。

 

上下の顎の大きくズレが大きく、歯の移動だけでは治らない外科的矯正の適用症例には、歯の移動だけでも治るし、手術を併用しても治る、いわゆるボーダラインが存在する。下顎が大きい反対咬合の場合、歯の移動で治しても、下顎が出ているのは治らず、口元、特に下唇が少し変化するだけである。逆に上下の顎がズレがあっても、標準値に比べてそれほど大きくなければ、仮に手術をして標準値まで下顎を後退しても顔貌に大きな変化はない。

 

私の場合、ウイッツの評価で外科矯正の適否を決めることが多い。上顎のA点、下顎のB点から咬合平面上に垂線を引いた線の距離をWits appraisalというが、反対咬合では、この距離が-10mmを超えると外科的矯正、—510mmをボーダラインとしている。なぜなら、上下の顎のズレが5mm以下では、手術をしても手術前後で顔貌の大きな変化はないからである。一方、上顎前突の場合では、同様に+10mm以上なら手術の適用、5〜10mmならボーダラインと考えて良いかもしれない。少し厄介なのは、中心位と中心咬合位が一致せず、そのズレが5mm以上ある場合である。多くは下顎骨が後方回転している症例だが、こうした場合、上顎の上方への移動も必要となり、上下顎同時移動術の適用、大掛かりな手術が必要となることだ。患者からすれば、いつも顎を前に出しているので、そんな手術が必要と感じないだろう。


正面からのズレも、上下の顎のズレが5mm以上あり、どちらかの大臼歯が交叉咬合となっていれば、手術の適用とする場合が多い。というのは、こうした症例では前後的にも5mm以上のズレがあることが大きく、複合で手術の適用となる。

 

外科的矯正を適用すると、ほぼ全てに不正咬合の治療が可能であるが、最近、初めて治療を勧めなかった症例がある。中心位と中心咬合位が5mm以上ズレ、ウイット評価で+10mmの上顎前突で下顎の後方回転を伴う。上顎の上方への5mmの移動と下顎骨の10mmの前方移動とオトガイ形成術を計画した。ただ左の下顎頭が吸収しており半分くらいしかない。こうした場合、手術した方が下顎頭の吸収を防ぐという意見と、逆に吸収を増加させるという二つの意見があり、迷った。大学病院へ紹介しようかといったが、結局、そこまでして治療したくないということになった。手術の適用となる上顎前突でも、本人はいつも顎を前に出しているケースも多く、外科的矯正を勧めても拒否されることがある。

 

日本人では、反対咬合で手術を希望する人が多いが、一方、上顎前突で手術を希望する人は少ない。矯正歯科医にとって、反対咬合については手術を勧め、受け入れてくれる患者も多く、楽であるが、上顎前突では本来、反対咬合と同数、手術をするケースがいるはずだが、なかなか勧めにくい。ことに中心咬合位と中心位のズレが大きい場合、当初の計画より治療中に下顎が後方に移動することになり、厳しい症例を無理に手術なしで治療開始した場合、さらに難しくなり、結果、満足な結果とならないことが多い。

 

最近では、積極的に上顎前突でも手術を勧めるようにしているが、どうしても下顎骨単独の移動のケースは少なく、上下顎同時移動術+オトガイ形成術の術式を選択することになり、大掛かりな手術となる。

 


2022年2月4日金曜日

輸送船おおすみ


海上自衛隊の輸送船「おおすみ」が、火山の大規模噴火による甚大な被害のあったトンガに向け、飲料水や高圧洗浄機などの救援品を積み、1/20に出発した。現地には2週間後に着くとされ、親日国トンガの支援を行う。

 

この輸送艦おおすみは、戦後の自衛隊艦船の中でも際立った活躍をしている名鑑と行ってもよく、まず、1999年の起こったトルコ地震の支援として、仮設住宅を運び、2002年には東チモールへPKO部隊を、さらに2002年にはイラク復興支援のために車両運送、2011年の東日本大震災では揚陸艇による物資輸送、2013年に台風被害のあった伊豆大島、そしてフィリピンに援助物質を運んだ。また2016年の熊本地震でも災害派遣を行い、特によく知られるのは、災害時における艦内のお風呂提供である。災害のためになかなかお風呂に入れない被災者にとってしばらくぶりに入れるお風呂は格別で、人気がある。

 

輸送船、おおすみは就航以来、ほとんどの災害時に派遣される働き者で、その運搬能力ととともに、港が災害によって使えない場合でも、装備されているエアークッション揚陸艇と大型ヘリコプターで、物資の運搬ができるのが強みである。現在、おおすみ型として「しもきた」、「くにさき」の3艦があり、いずれも災害時の物資輸送の切り札となっている。

 

おおすみが計画された当時、そのフラットな甲板は空母を思わせ、野党から日本が空母を持つのかと批判され。当初は真ん中にデッキがあり、その前後に甲板のある計画図が出回った。さすがに全通飛行甲板でないと使いにくいため、実際の建造はデッキが右にある空母型のものとなった。就航後、すぐにトルコ地震の災害救助に派遣されるなど、その活躍が認められ、次第に野党による批判もへり、のちに、より大型の全通飛行甲板の「ひゅうが」型、「いずも」型の発展につながった意味でも「おおすみ」の功績は大きい。

 

最新艦の「いずも」は、「おおすみ」に比べて排水量で約2倍、全長は248m178mの二回り大きい船で、速力もいずもは30ノット、おおすみは22ノットとかなり早いが、それでも元々、「いずも」は空母に近い、護衛艦であるのに対して、「おおすみ」は強襲揚陸艇に近い輸送艦となっている。災害派遣においては輸送艦の方が使いやすく、否応なく、「おおすみ」の派遣が多くなる。ただ災害派遣では、一刻も早い初期活動が求められ、22ノットの低速は欠点となり、もう少し早い速度が欲しいところである。そうした意味では、新日本海フェリーのフェリーをチャーター運用している「はくおう」は、大型で、速力も29.4ノットと早く、最近では「ダイヤモンドプリンセス」のコロナウイルスの活動拠点として活用された他、熊本地震災害派遣や自衛隊訓練のために使われた。また元々は長距離フェリーであったため、宿泊設備も完備しているが、基本的には港設備が必要として、ヘリコプター運用にも問題がある。


 こうした点を見ると、今後の災害援助活動、あるいは韓国など近接諸国からの在留邦人の救出などを考えると、新しい輸送船が欲しいところである。実績から「おおすみ」型の全通甲板の大型の空母型のものが望まれるが、アメリカのサンアントニオ級揚陸艦のような半分甲板形式もあるかもしれない。速度は30ノット近くの高速が求められる一方、従来の「いずも」、「ひりゅが」ほどの防御、攻撃能力は必要とせず、強襲揚陸艇に近い輸送船を建造費が安くて、乗組員の少ない船が良い。今後も活用が期待される艦艇で、是非とも充実してほしい。


 

2022年2月3日木曜日

カムカムエブリボディ

 



 NHKの朝の連続テレビ小説「カムカムエブリボディ」がとてつもなく面白い。この番組は昭和から平成への3世代のヒロインを扱ったもので、最初の上白石萌音、安子編は、女優さんがそれほど好きでなかったこともあり、通常の連続テレビ小説を超えるものではなかったが、深津絵里演じる二代目るい編になると抜群に面白くなった。こうした連続テレビ小説は、毎朝、ルーティンに見ている人も多く、それほど次回が待ち遠しいということはなかったが、このるい編になると、毎回、次回はどうなるのだろうかと期待してしまい、実際、視聴率も徐々に上がってきている。

 

深津絵里さんは確か50歳近いと思うが、最初の頃、20歳代は少し違和感があったが抜群の演技で最近はほとんど馴染み、違和感は全くない。るい編の最大の魅力は、オダギリジョーが演じるトランペッター、大月錠一郎のキャラで、ほのぼのとした明るさはたまらない。もともと脚本家の藤本有紀は、オダギリジューを念頭に置いて脚本を書いたようで、おそらく期待以上の演技となっているのだろう。

 

最新回では、るいの娘、ひなたが登場し、面白いキャラを展開している。ひなたは昭和40年生まれで、令和4年では57歳となる。ひなたの小学校のランドセルは、革製のごついものではなく、京都市独自のランリックという軽量のものを使っている。京都市では子供にとってランドセルは高価で、重たいということで昭和43年頃から使われるようになり、昭和40年生まれのひなたももちろんこのラリックを使う。流石に時代劇ファンというのはこの世代でもよほど変わり者であったと思うが、当時、流行っていたヒッピーのような個性的なお父さんの子であれば、さもありなんと思ってしまう。

 

子供達が時代劇に夢中になったのは、昭和37年から昭和40年まで放送されていた「隠密剣士」くらいまでで、当時は忍者が流行り、子供達は手裏剣で遊んだ。その後、子供向けの時代劇はなく、大人向けの「銭形平次」、「三匹の侍」、「水戸黄門」などが人気があったが、学校でもそうした番組が話題になることは一切なく、ましてひなたが登場する昭和50年頃、小学生が時代劇を見ることはよほど珍しく、父親といつも時代劇を見ていたことによる珍しいパターンである。個人的には、昭和48 年から放送されていた萬屋錦之介主演の「子連れ狼」は面白く、憧れたが、当時、私は17歳で、その年齢で見た場合の印象である。決して小学生がハマる番組ではない。

 

最近では、ネットフリックスの普及により各国のドラマを簡単に見ることができるようになった。韓国ドラマ、台湾ドラマ、アメリカドラマ、中国ドラマなど、国によりドラマの質は変わり、韓国ドラマはドロドロしているが、台湾ドラマはほんわかして、アメリカドラマはアクションものが多く、中国ドラマは歴史物がすごい。こうした国によるドラマの違いがあるが、日本を代表するドラマとなると、やはりこのNHKの朝の連続小説ドラマであろう。毎回15分という短い番組ではネット上で流すのは難しく、1時間物に編集しなおして、ネットにあげれば、日本独自のドラマとして世界各国でも人気が出そうに思えるがどうであろうか。NHKも経営手法を検討するなら、そのコンテンツを例えばネットフリックスを通じて世界に発信すべきであろう。

 

この番組の脚本家、藤本有紀さんは、番組のあちこちに伏線を植えて、後の回で、それをバラすという手法をよくする人なので、朝見て、夜の再放送を見て、なおかつ静止画でセット全体を見るようにしている。ネットでも書かれているが、いろいろな仕掛けが番組に盛り込まれ、そうした舞台演出の楽しみを味わえる番組となっている。ここまでくれば、徹底的に伏線を張り巡らし、何度も楽しめる番組にしてほしいものである。

 


2022年2月1日火曜日

土手町の制札場




新土手町から下土手町に行く橋の手前に制札場


















左が中土手町



現在、新しく出版する「弘前歴史街歩き」の最終校正に入っており、2月中頃に出版予定である。

 

その中で、土手町の蓬莱橋にあった制札場について、記述している箇所があり、そこでは中土手からすれば、制札場は橋の左たもとにあるとしている。時代劇によく出てくる高札を掲げたところであり、多くの人が通る繁華街に置かれた。特にこの蓬莱橋にあった制札場は、処刑される罪人の見せしめのための場所でもあり、警護人がいて、ここで罪人を晒した。

 

ただ文献によっては、ここではなく、道を挟んだ反対側、あるいは斜め前、中三の方向にあったとするものもある。明治二年弘前絵図では、中土手側の左手前にあるが、他の文献はどうか、一度詳しく調べてみた。

 

まず、弘前の伊東家に伝わる16世紀頃の絵図では、「シントテマチ」と「シタトテマチ」の間の橋、蓬莱橋あたりに高札のような絵が描かかれている。さらに1790年代に描かれたという「参勤道中記」には「土手町」と「新土手町」の間の橋、蓬莱橋のしたに高札の絵が描かれている。当初、方向は不明であったが、絵の下に「大円寺」の五重の塔があることから、画面下が、南西方向であることがわかり、この高札は新土手町(中土手町、上土手町)からすれば左手前にあることを意味する。

 

決定的なのは、1800年頃に描かれた「弘前大絵図」で、この絵図の土手町、蓬莱橋付近を拡大して見ると、虫食いがあるのかはっきりしない。ところが和徳十文字にある制札場のところを見ると「制札場」とともに幅が五間二尺、奥行きが二間四尺の記載があり、これを虫食い場所に当てはめると少なくとも「制札場」は一致し、幅は五間までは一致するが尺までは不明である。この場所も同じく、中土手町からすれば蓬莱橋の左手前となる。

 

つまり「伊東家の絵図」、「参勤道中記」、「弘前大絵図」、「明治二年弘前絵図」の4つの絵図では、制札場の位置は中土手町からすれば、左手前、南西方向のところにあったところとなる。すなわち、今の弘前スマイルホテルに向かう階段があるところに江戸時代の制札場があったことは確実となった。

 

昔、この階段施設が作られるときに、できれば昔のように高札を作ったらどうかと弘前市に申し出たことがあったが、その時はここは制札場ではないと否定された。斜め前のピザ屋があったところという。「弘前今昔」(荒井清明、1985)の“土手町の高札場”には道を隔てた向こう側にも、陸奥新報「地元の古老が語る民話=特別編」(宮川慎一郎、2016.9.1)には中三方向の斜め前にあったと書かれていて、これを根拠に否定したのであろうが、4つの絵図から、中土手町から橋の左たもとと位置は完全に一致したので、こうした記述は間違いだと言えよう。

 

大きさは「弘前大絵図」から、ほぼ和徳町にあるのと同じとすると、幅は道沿いで5間2尺(9.6m,奥の幅は5間(9m)で奥行きは左右、それぞれ2間4尺(4.8m)と31尺(5.7m)となる。10坪以上の広い場所で、ほぼ「土淵川橋詰広場」の大きさと一致する。できれば高札の復活か、少なくとも説明文くらいはあってもよかろう。