2022年2月1日火曜日

土手町の制札場




新土手町から下土手町に行く橋の手前に制札場


















左が中土手町



現在、新しく出版する「弘前歴史街歩き」の最終校正に入っており、2月中頃に出版予定である。

 

その中で、土手町の蓬莱橋にあった制札場について、記述している箇所があり、そこでは中土手からすれば、制札場は橋の左たもとにあるとしている。時代劇によく出てくる高札を掲げたところであり、多くの人が通る繁華街に置かれた。特にこの蓬莱橋にあった制札場は、処刑される罪人の見せしめのための場所でもあり、警護人がいて、ここで罪人を晒した。

 

ただ文献によっては、ここではなく、道を挟んだ反対側、あるいは斜め前、中三の方向にあったとするものもある。明治二年弘前絵図では、中土手側の左手前にあるが、他の文献はどうか、一度詳しく調べてみた。

 

まず、弘前の伊東家に伝わる16世紀頃の絵図では、「シントテマチ」と「シタトテマチ」の間の橋、蓬莱橋あたりに高札のような絵が描かかれている。さらに1790年代に描かれたという「参勤道中記」には「土手町」と「新土手町」の間の橋、蓬莱橋のしたに高札の絵が描かれている。当初、方向は不明であったが、絵の下に「大円寺」の五重の塔があることから、画面下が、南西方向であることがわかり、この高札は新土手町(中土手町、上土手町)からすれば左手前にあることを意味する。

 

決定的なのは、1800年頃に描かれた「弘前大絵図」で、この絵図の土手町、蓬莱橋付近を拡大して見ると、虫食いがあるのかはっきりしない。ところが和徳十文字にある制札場のところを見ると「制札場」とともに幅が五間二尺、奥行きが二間四尺の記載があり、これを虫食い場所に当てはめると少なくとも「制札場」は一致し、幅は五間までは一致するが尺までは不明である。この場所も同じく、中土手町からすれば蓬莱橋の左手前となる。

 

つまり「伊東家の絵図」、「参勤道中記」、「弘前大絵図」、「明治二年弘前絵図」の4つの絵図では、制札場の位置は中土手町からすれば、左手前、南西方向のところにあったところとなる。すなわち、今の弘前スマイルホテルに向かう階段があるところに江戸時代の制札場があったことは確実となった。

 

昔、この階段施設が作られるときに、できれば昔のように高札を作ったらどうかと弘前市に申し出たことがあったが、その時はここは制札場ではないと否定された。斜め前のピザ屋があったところという。「弘前今昔」(荒井清明、1985)の“土手町の高札場”には道を隔てた向こう側にも、陸奥新報「地元の古老が語る民話=特別編」(宮川慎一郎、2016.9.1)には中三方向の斜め前にあったと書かれていて、これを根拠に否定したのであろうが、4つの絵図から、中土手町から橋の左たもとと位置は完全に一致したので、こうした記述は間違いだと言えよう。

 

大きさは「弘前大絵図」から、ほぼ和徳町にあるのと同じとすると、幅は道沿いで5間2尺(9.6m,奥の幅は5間(9m)で奥行きは左右、それぞれ2間4尺(4.8m)と31尺(5.7m)となる。10坪以上の広い場所で、ほぼ「土淵川橋詰広場」の大きさと一致する。できれば高札の復活か、少なくとも説明文くらいはあってもよかろう。









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