2022年1月23日日曜日

平和になった尼崎

昭和30年代の家の前、奥が阪神尼崎駅方向、旭硝子の向かう労働者でいっぱいだった。

昭和30年代の難波幼稚園、田中花子園長

先週、2年ぶりに母親の99歳を記念する百寿の集まりのために尼崎に行った。新型コロナウイルスが猛威をふるう中、N-95マスクをつけ、伊丹空港からタクシーで、誰一人喋らないように注意しながら、尼崎にそっと行った。

 

昔、尼崎の実家に行くときは、「十間道路の産業高校を過ぎて、中央保健所のところの次の信号を右に折れて100メートル」と説明したが、産業高校も中央保健所も今はない。そこで2年前に行った時は、「県立尼崎病院を超えて、尼崎信用銀行東難波支店を右に折れて」と説明したところ、運転手さんから「なんや古川組のところやありませんか」というので、今回は「東難波の古川組の前の家まで」と告げてタクシーは乗った。

 

すると家の前にあった古川組はあとかたもなく、壊され、新たな分譲住宅が建設中であった。5棟ほどの20坪くらいの家が建てられる予定である。そういえば、10年ほど前から近所に新しい分譲住宅が次々とたち、古い年寄りの家は次第に少なくなっていた気がした。古川組も先代の組長は山口組でも上の方にいた貫禄のあつた人であったが、息子は求心力があまりなく、一昨年だったか、機関銃で射殺され、とうとう事務所も解体、売られてしまった。

 

もともと古川組のあったところはクリーニング店の住宅あったところで、その前には幅1mくらいのドブがあり、友達としょっちゅう、おしっこの飛ばしっこをした。クリーニング店はそこから20m離れた、親父の歯科医院の隣で、いつも忙しそうにしていた。隣の尼崎市立総合老人福祉センターが建っているところは旭硝子の社宅があったところで、玄関があり、小さな庭と二階建ての家が5、6軒建っていた。この社宅の前の幅3mくらいの道が遊び場であった。もちろん舗装されていない土の道であった。また現在、東難波住宅となっているところは、昔は広い空き地で、ここでは草野球をして遊んだ記憶がある。ここを西に行ったところにあったのが尼崎センター市場で、2030軒の主として食料店が並ぶ市場で、近隣の住民で混雑していたが、次第にスーパーに押され、挙句に火事となり、更地となり、今は多くの住宅が建っている。

 

古川組以外にも、昔は東難波町に3つの暴力団があったが、今は全て消滅し、物騒な雰囲気は全くなくなった。さらに実家より南に50m行くとホープという理髪店があり、ここを右に折れて難波小学校に行く道は、昔から危険なところで、私も滅多に歩かなかった。たまに歩くと怪しげな酒店が何軒もあり、汚い格好をした人がいっぱい集まり、騒いでいた。また薬をしてラリっていたのか、大声で叫び、暴れていた人もいたし、“青線”と呼ばれる素人の売春もこの界隈で行われていた。夏場になるとランニングシャツにステテコというのが普通であったが、その下には刺青がちらほら見える。この道の両脇には幅1mくらいのそれは小さな道があり、その奥には小さなアパートがあり、そこの6畳くらいの部屋に56人住んでいた。台所、トイレは共同で、外に七輪で炊事をしていた家も多かった。下水道もなく、道横のドブに汚物が流れていて、いつも嫌な匂いがしていた。

 

理容ホープから東に少し歩いたところに昔は銭湯があり、いつ行っても刺青を入れた人が必ず数人いるようなところで、あまりの多さに子供心にそれほど怖くなくなったが、それでもホープの前で、包丁で刺された殺人事件が起こった時は怖かった。喧嘩くらいは日常的にあったが、さすがに殺人は滅多になく、家から北に50m行った三角公園(中通公園)のバス停では、食い逃げした客を追っかけた食堂店長が、客から包丁で刺された事件があった。次に日にバス停で行くとあたり一面に黒い血痕が大量に残っていて、怖いところに住んでいると思った。

 

私は、私立の六甲中学という上品な学校に行ったが、当時の難波小学校の同級生のほとんどは昭和中学校に進学した。当時は不良が学校を牛耳っていた時代で、中学校にも番長がいて、数十人単位のワルが他の中学校との喧嘩に明け暮れていた。ヤクザの抗争を真似たもので、決闘の日にちが決まると、部下を刈り集め、さすがにナイフを持つことはなかったが、自転車のチェンなどを持って喧嘩をしたようだ。殴りあいの喧嘩が主で、傷害事件にはならない程度で終了した。そのため尼崎の中学でも喧嘩のランキングができ、高校入学後も、例えば、尼崎工業高校、大阪福島商業高校(エテ商)、浪商などやんちゃな高校に入っても尼崎の中学、喧嘩ランキングが効き、今度は高校に尼崎派閥ができる。どうも当時の尼崎の中学生、高校生は、他の市の人から“アマでっか”と言われると、“アマでなんか文句があるんか”と逆ギレし、自分の町を自虐も含めて、不良の町と自慢するようなところがある。

 

ただ今回、尼崎を歩いていると、小ぎれいな一戸建て住宅が並ぶ、普通の街となり、もはや治安の悪い尼崎という汚名は返上した方がいいかもしれない。


 

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

広瀬先生様

お母さまの白寿おめでとうございます。

先生のブログを読んで、懐かしい地名が一杯出ていました。
残念ながら、ねこ吉は神田中通5丁目からの越境で、学校と家の周りしか知りませんでした。
難波小学校から、昭和中学にいきました。中学3年生では、お兄様と同じクラスでしたが喋ったこともありませんでした。

昭和中学校にも凄い不良がいたのですね。
3年生の担任森本先生は、同窓会で(お兄様に連絡していただいた)「昭和中学校は、尼崎の学習院だと母が言ったので、昭和中学校の先生になることに決めた。」とおっしゃいました。

2月3日の節分には大覚寺に行く予定です。
久しぶりに難波小学校辺りに行ってきます。すっかり変わったでしょうね。

コロナ、寒い日が続きます。
どうぞ、お身体にお気をつけてお過ごしくださいませ。

                   ねこ吉

広瀬寿秀 さんのコメント...

もう昔の面影はほとんどなく、難波小学校横の公園のみがほとんど変わっていません。尼崎の明倫中学校も悪かったと聞きます。
まああの時期は、そんな時代でした。それでも年配の方の中には、いまだに隠れワルの人がいるのが尼崎で、少し怖いところです。
ブログで述べたような20坪くらいの建売住宅(車庫付き)が3000万円前後で、西宮や芦屋の半分から2/3の価格の割には、通勤など便利がいいので、最近は人気があります。慣れれば住みよいところかもしれません。