2022年1月6日木曜日

今年の2月頃に新しい本を出版します

 

予定の表紙


現在、今年の2月頃に出版予定の「弘前歴史街歩き」の校正に入っている。出来るだけ間違いのないようにと思うが、こればかりはかなり難しい。例えば「青森市のねぶた祭りは、大型のねぶたと男女が派手な衣装で飛び跳ねて踊るハネトが有名だが、あれだけ多数の、主として若者が飛び跳ねた踊り、自由に参加できるハネトは、昭和43年(1968)から始まった最近のもので、従来の盆踊りがねぶたに融合されたのかもしれない。」という記述がある。

 

下線部がかなり引っかかる。確かに観光客なども含めた自由参加して踊れるようになったのは昭和43年頃であるが、ハネトが登場するのはもっと以前のことで、こうした記述では青森市民に怒られる。そこでもう少し、検証してみる。

 

まず青森ねぶたの比較的古い記録としては今純三の昭和3年のスケッチ、「ねぶた運行の光景」がある。この絵では、ねぶたの前には子供連、そしておどり連、ねぶた本体、囃子と続く。このおどり連をよく見ると、今の青森ねぶたのハネトと変わらず、派手な衣装と花笠をかぶり、手をあげて踊っているが、決して跳ねてはいないし、踊り手の中に女性が混ざっていない。そこで「青森ねぶたミュージアム」というHPを見えると、明治末期大正初期の青森ねぶたの写真が載っている。それを見ると仮装行列のようなおかしな格好をしている男性の写真があり、大正6年頃の写真には花笠を被った男性が少し出てくる。さらに大正15年の写真ではもはや派手な衣装、花笠、そして化粧をした男性がねぶたの正装となる。ただこの時点でも集合写真の中には子供はいても女の人はいない。おそらくねぶたの運行は男性が中心で、仮装行列の一環として男性が女装して面白がったのだろう。昭和前期の写真も同じような傾向であり、男性はマスクのように手ぬぐいをほっかぶりしている。確かの戦前の男女の仲がオープンでない時代に、男女が派手な格好をして暑い季節に踊ることは風紀上も好ましくなかったであろう。

 

これらの記録から、青森ねぶたの派手な衣装の踊り手は大正頃に出現したもので、ある記述では、昭和24年頃に荒川村のねぶたは男性が女装し、鼻筋に白く白粉を塗って、ラッセラーの掛け声と一緒に、跳ねて踊り、昭和26年頃から、こうした跳ねる踊りが一気に広まったという。明治、大正の頃の盆踊りでも、男性がふざけて女装して踊ることがあり、その後、次第にこうした派手な衣装に人気が出て、ねぶたにも使われるようになったと思われる。そして昭和26年頃から跳ねるという踊りになり、これがおそらくハネトの始まりだろう。さらに女性がハネトとして男性と一緒に踊るようになったのは昭和40年以降と思われ、その後、今のような形態となったのであろう。

 

それゆえ、最初の私の記述は、おおよそは間違ってはいないが、誤解を招くため、一部を変えて「あれだけ多数の、主として若者が飛び跳ねて踊るハネトは、昭和26年(1951)頃から始まったもので、昔の盆踊りがねぶたに融合されていったのかもしれない。」と訂正した。昔から続いていると思われているものでも、歴史は少しずつ変化していて、その姿を変えている。青森ねぷた、弘前ねぷたとも江戸時代から続くものであるが、その内容は随分と変化しており、伝統文化を守れと言っても、どの時点での伝統というのか難しいところである。今の青森ねぶたのスタイル、大型の横長のねぶた、派手な衣装と男女が集団で飛び跳ねて踊るハネトなどは、昭和30年から40年頃から始まったものであり、観光化に伴う一種の変遷とみなすことができ、そうした意味では、祭りそのものにあまり伝統という枠組みをする必要はないように思える。祭りのスタイルはせいぜい50-60年ほどのものであり、これからもどんどん伝統にとらわれず変化していってもいいのかもしれない。

0 件のコメント: