2014年8月31日日曜日

矯正歯科における歯科用CTの議論



 先日、ドイツのA社から歯科用CTDMがきていた。矯正歯科の分野でも多くの先生が使っているようで、知った先生も多い。コメントを見ていると、被ばく線量が少なくて安全という声が多かった。

 歯科用CTは近年、非常に脚光を浴び、1000万円以上と高価だが、導入する歯科医院も多い。多くは歯科インプラントをしている先生で、今ではCT撮影なしでのインプラント手術は問題ありという感じである。その流れで、歯科用CT導入の流れが矯正の分野でも始まっている。これはアメリカでも同様で、診療所の目玉のひとつとして歯科用CTが挙げられ、色々な活用がなされ、学術雑誌でもCTを使った研究が多い。

 ここでCTの安易な臨床利用に待ったをかけるのが、ヨーロッパ歯科放射線学会のガイドラインである。このガイドラインはアメリカ歯科医学会のガイドラインや英国矯正歯科学会のガイドラインにも準拠され、歯科レントゲン使用のベースとなっている。そのため、CTを用いた研究では、最小限の線量での研究でないと受理されない。

 通常の研究あるいは臨床では、その機器の最高性能を求める。解像度の低い像より、解像度の最も高い像の方が、はっきり見えるからだ。パノラマ撮影での研究では、デジタル撮影ではフィルム撮影より少なくとも1/2線量でいいはずだが、実際の開業医での調査では、デジタルの方がフィルムより高いことがある。解像度の高い像を求めるあまり、必要以上の線量を使っているのであろう。

 2012年度のヨーロッパの「Cone beam CT for dental and maxillofacial radiology evidence-based guideline」を見ると、歯科用CTの実効線量は小さなFOVを使った歯槽骨部分の撮影で11-674(61)マイクロSv、大きなFOVを使った頭蓋撮影では30-1073(87)、さらに10歳相当のファントムを使った実験では歯槽骨部では16-214(43)、頭蓋部で114-282(186)、成人相当のファントムでは歯槽骨部では18-7032)、頭蓋部で81-216(135)となっていて、機種による差が大きい。さらに通常のパントモ撮影は2.7-24.3 、セファロ撮影は6以下となっている。ついでに言うと医科でよく用いられているMSCTでは280-1410とかなり高い。

 このように歯科用CTの実効線量は機種や撮影条件でかなり差がある。上記の数字をうまく用いると、歯槽部CT撮影の最小実効線量は11、tハントモ通常撮影の最大実効線量が24.3なので、歯槽部CT撮影はパントモ通常撮影の半分といってもウソではない。逆にCT撮影の最大実効線量は674なので、パントモ撮影の最小線量2.7に比べると250枚分とも言える。

 患者に説明する場合、「CT撮影はパノラマ撮影の半分の線量です」というのか、「CT撮影はパノラマ撮影250枚分に相当する線量です」では、随分違う。また同じ放射線量でも30歳を1とすると10歳以下では感受性が3倍となる。それ故、上記ガイドラインでも矯正分野でのCT撮影は、大きなFOVをつかったルーチンの撮影はすべきでなく(とくに小児)、唇顎口蓋裂、埋伏歯、外科的矯正が適用される骨格的異常の大きな症例のみCT撮影が正当化される。開業医の場合、最小線量よりより鮮明な画像を求め、必然的に高い線量となることを考え、CT撮影についてはより安全域を課したのであろう。

 一方、アメリカの口腔顎顔面放射線学会の研究(Clinical recommendations regarding use of cone beam computed tomography in orthodontics. Position statement by the American Academy of Oral and Maxillofacial Radiology
American Academy of Oral and Maxillofacial Radiology
は、ヨーロッパよりはより歯科用CTには許容的である。低線量によるガンの発生には根拠がはっきりしておらず、術者の選択に任せている。最初に述べたA社のCTについても実効線量は74-134と他機種に比べて低く、初診、治療途中、終了の3回、通常のパントモとセファロを撮った場合の総計が47.2マイクロSvに対して、3回のCTを撮った場合の総計は249マイクロSvで約5倍程度の差となっている。CTの場合、パントモとセファロの画像が一度に得られるため、情報量の差を考えると、この差をよしとするかは術者の考えによる。

 A社の英文のカタログでは被ばく線量は少ないといった表現はあるものの、日本語のカタログにあるパントモ2、3枚分、飛行機内で受ける線量より少ないといった表現は一切ない。チェルノブイリ原発事故後、ヨーロッパでは放射線の健康被害についての意識は高く、CT撮影の被爆量の少なさをうたう広告は到底受け入れられない。確かに実際の値はこれに近いかもしれないが、こういった健康被害に関する表現については訴訟など企業防衛のためにもメーカー側により慎重な対応を求めたい。同時に、それを使う歯科医師側もメーカーの言う事を鵜呑みにしないで、少なくとも、CTガイドラインあるいはそれに引用している論文には目を通すべきだと思う。


 今回、歯科用CTに対して否定的な見解を出そうと考えたが、最近のCTの性能向上はすごく、実効線量は以前の1/20くらいになっている(現行機種によっては5倍程度の差がある)。技術の進歩によるさらなる線量の減少を期待するが、一方、これは高額な機器にも関わらず、陳腐化のスパンが早いことを意味する。古いCTを使うこと自体が医療悪となりうるため、常に最新の機器の買い替えを求められる。

PS:A社には同社のHPの問い合わせを通じて、日本語のカタログ内容についてドイツ本社の承諾を得ているか、問い合わせたが、2週間経った現時点で返答はない。こういったクレーム対策に無関心な企業には未来はない。この会社のおかしな点は、その保守契約プランで、未加入の場合、年間20万円の修理費がかかるが、保守プランに入れば年10万円の費用でお得ですよと宣伝していた。どれだけ故障の多いユニットで、修理費も高いかを宣伝しているだけである。400万円の車を買って、毎年修理代が20万円かかりますというメーカーはないだろう。
10/9 その後、A社から連絡があり、問い合わせは来ていないということでした。こちらの送信ミスのようです。よく検討して返答したいとのことでした。
10/30 A社のHPを見ると、上記被ばく線量についての表現が修正されていた。ただ一部、デジタル撮影はフィルム撮影の1/10以下という誤解を招きやすい表現がある。日本のM社もこの表現が好きで、以前1/10と言っていたのが、抗議して修正されたと思うと、また1/5、1/8以下といった表現を使う。さすがに英文のHPではひかえているが。

2014年8月28日木曜日

2回目の弘前旅行には


 このブログでも二回ほど、津軽のチープな旅について書きましたが、今回は二回目の津軽旅行はどこがよいのか、考えてみたいと思います。

 最初の津軽の旅は、おそらく桜祭り、ねぷたや気候のよい春、秋だと思います。そうなると二度目の旅行は是非とも冬にしてください。テレビなどで豪雪の北国として青森が紹介されますが、これだけは映像を見ても実感は全くありません。実際に体験しないと、雪の多さとその威力はわかりません。

 となると雪が多い1月か2月が二度目の旅行にはベストシーズンになります。ちょうどこの時期は観光客も少なく、JTBなどでも格安のツアーがありますし、またJRでも各種の割引チケットが出ています。飛行機は雪のため、欠航となることも多いのですが、大阪以南から来る場合は、飛行機を使わざるをえないでしょう。これも格安のツアーがあります。

 新青森駅につくと、そこはもはや厳寒の雪国、青森です。あまりに寒さに、きちんとダウンジャケットを着ていないと、大変なことになりますので、十分な防寒対策をお願いします。また足下も雪で滑りやすいので、雪用の靴を履いてきてください。冬の津軽の旅行は、気分は演歌の旅、くれぐれもしゃれたホテルなどは泊まらないようにしてください。弘前で言えば、飲み屋街に近い石場旅館がいいでしょう。できたのは明治12年、かの森鴎外も泊まった旅館です。私は修学旅行で泊まった記憶があります。夕食抜き、朝食付きの泊まりがいいでしょう。夜は石場旅館の前の道を大学病院方向にしばらく行くと、「うな新」という鰻屋があります。なかなかいけます。隣の「やきとり 鳥ふじ」も人気店でいつもお客さんが一杯です。6時までですと、「うな新」の手前の道を右に曲がったところにある「高砂」の天ぷらそばが絶品です。

 飲むとなると、センターという飲屋街を利用する方法があります。石場旅館の隣に弘前教会がありますが、そのちょうど前にほとんどわからないと思いますが、山の手と書かれた標識があります。「山の手センター」です。ここ10年ほど行ったことがありませんが、昭和40年代で止まったスナックが何軒かあります。当時でマダムは70歳を越えていましたので、今はどうなのでしょうか。料金は非常に安いところです。もう一つは先ほどの「うな新」をもう少し行ったところに明治屋グランドビルがありますが、その横に迷路のような通路が飲み屋街に続いています。気になる店をのぞいてもいいでしょう。冬場は魚の旨い時期ですので、そういった店がお勧めです。ぼられるところはありません。石場旅館に帰る際は、観光会館あたりがライトアップしてきれいなので少し見てみて下さい。広場はイルミネーションで飾られ、幻想的な雰囲気になっています。

 次の日の観光となると、お城はだめですので、禅林街、仲町の武家屋敷を訪れたらどうでしょうか。人もほとんどおらず、もの音ひとつしない静かな冬の津軽が見られます。雪道を歩くザックザックという音のみが聞こえます。冬の山観こと、普門院の長い参道を登ると、そこには雪山の景色が広がります。

 冬場の昼の観光を考えてみましたが、あまりありません。仲町の武家屋敷などは熱いお茶や市内のお菓子屋さんに協力してもらい茶請けのお菓子などのサービスをしたらどうでしょうか。観光客にとっては寒い冬のなりよりのごちそうです。また弘前城も冬場はみるところがなく、弘前城のレクレーション広場は雪灯篭祭りだけでなく、冬季は簡単な滑り台や、かまくら、雪合戦、雪の川を棒高跳び用のポールで越える、歩くスキー、体験シャベリングなど、何か体験型の冬のレクレーションを考えたらどうでしょうか。南国の人の一番してみたいことは、白い雪の中に飛び込むことです。

 ただ私のように歳をとると、冬場の楽しみは何と言っても温泉で、ここ数年、正月は弘前近郊の温泉地に泊まっていますが、今年は多くの文豪が泊まった、黒石、板留温泉「斉川」を考えています。かなり鄙びた旅館です。もっと鄙びた旅館なら、黒石市内の「中村旅館」が最強でしょう。昭和初めの雰囲気で、さすがに私も泊まるのは勇気がいり、行ったことはありません。温泉ではなさそうですが、冬の黒石の町並みもすばらしい。ふらったその辺の飲み屋に行くのもいいでしょう。

2014年8月23日土曜日

天守閣、白土塀の復元



 弘前城の石垣修復工事が平成26年ころから本格的に開始されます。現在は発掘調査が行われ、これまでの修復経過を調査しています。天守閣下の内堀を埋め立て、天守閣自体も一旦移動して、石垣の修復が行われます。10年がかりの工事です。

 明治二年絵図を見ると、天守閣の横には腰掛屯所と見張所があります。どういったものかはっきりしませんが、腰掛屯所は登城した侍の家来、中間が待機したところだと思います。ある程度以上の格の侍となると登城の折には、家来を引き連れて城内に入り、主人が本丸で執務をしている間、この腰掛屯所で待っていたのでしょう。あるいは、中門の手前にある腰掛屯所と同じく、門番が詰めていたところかもしれません。見張所も同じように、城内警護の役人、与力あるいは門番などがここに詰めていたのでしょう。おそらく、この部屋は板張り、障子、板戸のきちんとした部屋だったのでしょう。どういった大きさ、構造だったかは、図面がないため、全くわかりませんが、長さは長いものの幅はそれほど広くない部屋と想像されます。柱の位置などは発掘調査でわかると思いますので、是非とも今回の調査で解明してほしいところです。

 弘前市役所が発表した明治初期の弘前城の写真があります。今の内堀にそって白い土塀が続きます。これを見ると白土塀の高さが二段になっていることがわかります。さらに言うと、はっきりしませんが、高い方の白土塀はきちんとした屋根があるのに対して、低い方の白土塀は簡単な屋根覆いがあるだけです。屋根は天守閣と同じ銅瓦だったと思われます。見張所は井戸があった手前ですので、ここまでが高い白土塀で、ここから先は低い土塀なのでしょう。ただこの先は陸尺詰所となっており、再びここで白土塀が高くなったかは写真がないのでわかりません。腰掛屯所、見張所が天守閣に続く構成となっているのなら、陸色詰所は形態的には低い白土塀の方が合っています。

 いずれにしても本丸東側を十分に発掘調査することで、大体の建築物の構成はわかるのではないでしょうか。現在、二の丸、東内門の見張所(与力番所)が残っています。小さな建物ですが、絵図上の八寸角塀からは離れて建てられた独立した建物です。天守閣に続く白土塀に腰掛屯所、見張所が一体化したものか、独立したものかは、今回の発掘調査で柱跡などを調べることである程度わかるのではないでしょうか。個人的には一体化した建物のように思えます。

 いずれにしても、弘前城の美観からすれば、天守閣に続く白い土塀は美しいもので、西側は岩木山の眺望から土塀がないほうがいいのですが、東側はむしろ白土塀で囲んだ方が景観的にも優れていると思います。今回の石垣修復に合わせて白土塀の復元もしてほしいところです。

 ただ文化庁の復元工事は、かなりはっきりした証拠、図面がなければ許可されず、本丸御殿の再現は資料不足のため許可がおりなかったようです。白土塀の復元にしても明治初期の数枚の写真はありますが、不鮮明で、この10年の間に新たな資料が見つからなければ、発掘調査と写真だけでは許可されないかもしれません。資料をお持ちの方は是非、ご協力いただきたいと思います。明治二年弘前絵図も150年ぶりに見つかったことを考えると新たな資料もまた蔵にしまわれたままの可能性もあります。

2014年8月18日月曜日

津軽のキリシタン


 津軽とキリシタンと言ってもぴんとこないかもしれないが、江戸時代初期に大阪、京都、播磨のキリシタン信徒が津軽に流刑されてきた。初代藩主津軽為信は、キリスト教というか西洋文物には興味があったようで、これは戦国時代の一種の流行であった。実際、為信の長男、信建、および弟の信枚(二代藩主)も父の命によりキリシタンとなっている。中央の流行に遅れまいという気持ちもあったかもしれない。ただ熱心な信徒というものではなく、その後、幕府による禁令が出ると、一斉に棄教している。

 慶長年間、正確には慶長19年(1614)に71名のキリシタン信徒が津軽に流され、これを“慶長19年の大追放”という。キリシタン大名の高山右近、内藤如安など148名がマニラ、マカオの国外に追放されたが、同時に徳川家康の発案で国内、津軽にも追放された。仙台の伊達政宗は領内に依然としてキリスタンをかくまっていたが、奥羽一円に禁教の影響を与える意味で、本州の一番端の津軽に追放した。津軽に流されたキリシタンは京都の分が47名、大阪が24名であった。姫路の宇喜田秀家の一族である宇喜田休閑(ヨハネ休閑)とその息子三人、加賀前田藩の1500石取り柴山権兵衛、品川九郎右衛門、奥村外記、京都の医者、マチアス松庵とその妻アンナ、京都慈善会のアントニオ良久、阿波藩、蜂須賀至鎮の孫、ジュアンとその妻マグレナ、長崎殉教者パウロ三木の兄弟、ペドロ庄五郎などの名がわかっている。71名の大部分は士族で、一部医者や僧侶がいた。

 一行は京都を出発し、敦賀から日本海沿いに船で進み、鯵ヶ沢に上陸し、そこから弘前城下に向かったようだが、居住地についてははっきりしない。「誰も語らなかった津軽キリシタン なぜ歴史はこの事実を見落としたのか」(坂元正哉、昭和55、青春出版社)によれば、著者は鬼沢村を流刑地と推測している。郷土史家の松野武雄さんも鬼沢村は昔、備前村と呼ばれ、身分の高かった流刑人、宇喜田休閑が備前出身によるものだとしている。ここで荒れた土地を開墾して農業を行っていたが、キリシタンへの弾圧はさらに厳しくなり、元和三年(1617)の八月四日に六人のキリシタンが岩木川河畔、現在のニッカ工場近くの通称、四ツ堰あたりで処刑されたとされている(松野武雄)。この堰については、岩木川の流れも変わり、今では全くわからなくなっているが、向外瀬方面の農地灌漑に用いられたものであった。現在の明の星幼稚園近くには、処刑者の供養のための稲荷神社があったが、その後、2度にわたり移転し、現在はかなり南にある。この地に修道院があるのは、信仰の象徴として意義深い。処刑された六名は、流人の一人で医者のマチヤス勘蔵とその妻、マリア、レオ・ドーティとその妻マリア、流人のレオ・ジョースシ、弟子のミカエル・ニヒョーエという武士の計六名、あるいはレオ・ドータイ、その妻マリア、ミカエル・ニヒョーエ(仁兵衛)、レオ・シンスケ(新助)などの土地に人、四名と京都から来た流人、マチヤス・ショーアン(松庵あるいは長庵)とのその妻アンナの計六名であった。

 その後も、キリシタンの受刑は続き、1625年には大和のトマス助左衛門とその小姓、1626年には播磨のイグナチオ茂左衛門、1638年には73名が処刑されている。それ以降は切支丹改帳が作られ、1755年の津軽大光寺組切支丹人別改帳では男女3762人の内、切支丹(親族)3163人、その他の宗派595人とある。大光寺組は、大光寺村、木町村、館田村など、現在の平川市(平賀、尾上町)にあたるところである。以前、平賀の方よりメールをいただき、先祖は大阪のトサというところから来たとのことであったが、トサは土佐ではなく、十三と考えられ、キリシタン信徒であった可能性が高い。隠れキリシタンとして後世まで信仰を守ったという記録は一切なく、江戸の早い時期に信仰を捨て、土着化していったのであろう。津軽に流刑されたキリシタンは鬼沢、平川の地で農民として信仰を捨て、生きてきたのであろう。江戸中期以降のキリシタンの記録はほとんどない。