「水曜日のダウンタウン」という番組で尼崎のことをちゃかした番組があった。尼崎生まれの私としては異議を申し上げたい。
関西圏、とくに阪神間では、「どちらにお住まいですか」と尋ねられると、「芦屋」、「神戸」、「西宮です」と得意げに答えるが、尼崎の人は「武庫之荘」、「阪急塚口ですと」と町名で答える。私のような阪神尼崎近くに生まれた者は、最もディープな尼崎なため、言い逃れができず、小さな声で「尼崎です」と答えるか、全く県外のひとには「神戸です」と答えてしまう。「尼崎」と答えると、多くの場合、「尼でっか」とばかにされたように言われるのがおちなのである。ロスと並び、略してわかる市名が尼崎なのである。ここで尼崎の良い点を挙げたい。
1.
物価が安い
実家に帰ったところ、新聞のチラシに一戸建ての家の広告がたくさん入っていた。近所でも新築の家が売り出され、新築2階建てで2500万円くらい、中古で1600万円、マンションでは700万円というところもあった。大阪まで20分くらいで行けるから交通は便利であるし、三和商店街では何でも買えるし、安い。
ついでに西宮をみると、同じ建坪で1.5倍くらいはするし、マンションであれば1000万円くらいは高い。尼崎より西宮の方がややこしいところも多いが、近年、西宮にだいぶ差をつけられてきた。先月、帰省した折、実家から20mのところに万国旗に飾られ、新築の家が販売されていた。気になって見に行くと家の前に、高い壁に囲まれたYサンの駐車場があり、そこの壁に「勝手に道の前に車をおくな」との張り紙があった。近所では後、3か月もすれば500万円は安くなるともっぱらのうわさであった。さらに安くなる。
2.
気取らなくて住める
ステテコ一丁で近所を散歩するのはなかなか抵抗があるが、尼崎では別にへっちゃらである。さすがに今ではあまり見ないが、子供のころは、背中に立派な入れ墨をいれたおじさんが床机に座って夕涼みをしていた。飲み屋で勤めている女の人が日中シミーズだけで玄関先にいたりして、妙にけだる雰囲気があった。さすがに今はこういったことはないが、ネクタイをしている人を見かけることがほとんどないのが尼崎である。会社員が少ないのかもしれない。中国の食肉問題で、床に落ちた肉を拾って使うシーンがあったが、別にあれくらいかまへんと考えるのが尼崎のひとである。腐ったものを食べさせられるのは勘弁してほしいが、床に落ちたくらいで捨てるのはもったいないと思ってしまう。昔、三和商店街の中で、夏になると冷やしあめという、ショウガ風味の砂糖水が売っていた。そのガラス容器に死んだハエが落ちていたが、店員はポイと捨て、それでお終いであった。まあ昔はこんなもんであった。
3.
人生経験が豊かになる
本当にあらゆる階層のひとが住んでいるため、人生経験が豊富になる。難波小学校では灘中学や神戸女学院にいく生徒もいれば、昭和中学の番長になる生徒もいて、あれだけ色んな人と会ったことはない。小学校の遊び仲間には、キャバレーの経営者の息子もいたし、ホステスさんの息子もいたし、Yサンの娘もいた。大工、八百屋、医者、牛乳屋、元陸軍少将、無職、工員、あらゆる階層のひとがいて、家に遊びにいくと、6畳一間に家族6人が生活していた。ご飯は外で七輪で作っていた。西宮や芦屋とは違う点である。
4.
何でもある
三和商店街には、Nakagawaという高級服店があり、イタリアの有名な20万円はするBelvestのスーツが売っているかと思うと、すぐ隣の店では5000円のスーツが売っている。どちらも普段着で買い物袋を持って入ることもできる。葬儀屋の隣に古いトルコ風呂(ソープ、相当前からあった)があるかとおもうと、うちの近所はラブホテル街となっていて5軒ほどのホテルが密集している。昔はその横にバッティングセンターがあったり、巨大なガスタンクの横には巨大な教会があった。もう何でもありの状態だが、それでも不思議に調和がとれている。おやじの歯科医院の隣はクリーニング店、その隣は外科医院、味噌・醤油屋、薬局に新聞配達店、裏は酒屋兼スタンド酒場、牛乳屋、前はお菓子屋、お好み焼き屋、書店に散髪屋と何でもある。
子供のころ、西宮の仁川あたりに家を作ろうかという計画があったが、飛田新地で育った親父は頑固として尼崎、それも診療所に近いところに住むことに固守した。歓楽街で育った親父にすれば、尼崎の雰囲気が好きだったのだろう。結果、10mしか離れていないところに小さな家を作った。新しい家の洋式便所に慣れないわたしは10年以上も和式便所のある診療所に通ったものだ。
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