2019年6月24日月曜日

イスラエルの矛盾


 イスラエルは、人口880万人、国土面積は22000km2で、それぞれ世界で98位と153位の小国である。またGDP3570億ドルで54位、日本の1/10以下である。人口およびGDPともヨーロッパでいうとスイスに匹敵するが、軍事費で言えばスイスが3700億円程度に対して、イスラエルは12000億円と4倍近い。軍事国家と言えよう。

 日本人には全く理解できないが、アメリカのこの小国、イスラエルに対する肩入れが半端でない。アメリカは北朝鮮、イランの核開発に関しては、戦争も辞さない強い態度に出ているが、イスラエルが確実に核兵器を持っても、全く文句も言わない。核保有国、アメリカ、中国、ロシア、フランス、イギリス、インドは世界的な大国であり、パキスタンにしろ、経済的には劣るものの人口は2億人近くおり、そうした核保有国に比べるとイスラエルの異常さは際立っている。本来なら、中東という危険なエリアにおいて核保有は時限爆弾を抱えるようなもので、疑惑でなく、確実に核兵器を保有するイスラエルこそが経済制裁を行うべきである。またユダヤ人の国、イスラエルは、自分たちがナチスから受けたホロコーストを過剰に宣伝するが、一方、パレスチナ人に対する迫害は何ら認めない。これも核兵器同様に、アメリカからの批判は全くといってない。

 本来なら、周囲がイスラム教の国に囲まれた、唯一の白人国、イスラエルは、かなり浮いた存在であり、戦争も含めた中東の多くの問題点は、イスラエルの存在自体に起因する。地政学的、政治上でできた人工国家であり、戦前、中国の満州にユダヤ人国家を作る計画があったが、今のイスラエルが、中国の東北部にあったと想像しても良い。その異様さが理解できる。ちなみにイスラエルはW杯予選はヨーロッパ枠となっている。

 このイスラエルに対するアメリカの支援は、すごいもので、10年間の軍事支援として約4兆円をすでに表明しており、常に最新の武器を支給している。実際、イスラエルという国がある日、突然に消失したところで、中東にはサウジアラビアなどの親米国家があるため、アメリカの存在を脅かすような問題がなく、どう考えても、アメリカがここまでイスラエルに肩入れする国際政治上の利点がない。

 一方、アメリカにおけるユダヤ人は人口の約2%で、メキシコ、キューバなどのヒスパニックの人口、17%近くに比べても少数派であり、数だけでいえば中国系アメリカ人と変わらない。隣国のメキシコが反米国家になることはアメリカにとって大きな脅威となるが、イスラエルほどメキシコに肩入れしていない。

 アメリカからすれば、イスラエルが核兵器を持っても、イランと違い、その使用は決してないと考えているかもしれないが、私にすればイラン以上に恐ろしい国で、かってイラクの原子炉ができれば平気で空爆、奇襲した。おそらくイランから攻撃があれば、核攻撃も多分躊躇わないであろう。エルサレムというユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地を人質にとっており、そこへの核攻撃はないとたかをくくっている。

 アメリカ人の知人に聞くと、高校、大学の知人にもユダヤ人はいるが、ほぼアメリカ人であり、日常的にイスラエルという国が話題になることもなく、アメリカそのものの利益にもなっていない。もしイランとアメリカが戦争することになれば、これはアメリカがイスラエルの代理戦争をしているようなもので、莫大なイスラエルへの軍事支援と合わせて、税金の支出者であるアメリカ国民の理解を得られるだろうか。

 昔、ハリウッドと言えば、ユダヤ系資本が牛耳っており、「ベンハー」や「十戒」などの映画や、極め付けは「栄光への脱出」というイスラエル建国の映画まであった。こうした流れは今でも止まらず、「シンドラーのリスト」や「戦場のピアニスト」まで続く。イスラエル、ユダヤ人=善、正義といった世論形成に長けているが、日本人を含めたアジア人には通用しない。これは絶対に無理とは思うが、日本政府はイラン、北朝鮮の核開発を批判するなら、同様にイスラエルの核保有をもっと追求すべきであり、それこそが中東の核開発を中止できる決め手となる。不思議なことに、こうした正論は共産党も含めて出てこない。

2019年6月23日日曜日

相良清兵衞について

弘前、 西福寺

「弘前の墓(昭和58年)」より


 ブログの読者の方から、相良清兵衞のことで問い合わせがあった。相良清兵衞については、弘前藩の初期の頃、九州の人吉から流刑人とした津軽家預かりとなった人物で、南溜池近くに住まいがあったことから、その一帯を相良町と呼ぶようになったことは朧げに知っていたが、それだけであった。

 ところが、出身地の人吉では平成九年に清兵衞屋敷跡の発掘調査から、水のでる謎の大きな地下室が発見された。他の類型がなく、その不思議さから、様々な説が唱えられ、その中でも隠れキリシタンの秘密の礼拝施設という説が広まっている。その後、2012年に「驚愕の九州相良隠れキリスタン:前代未聞の歴史的真実(原田正史著)という本が出て、人吉球磨地方全体が藩主も含めて隠れキリスタンだったという新説が登場した。本の内容については、未読のためわからないが、歴史の専門家からは証拠が少ないと認められていない。

「続弘前今昔」(荒井清明著、北方新社、1987)によれば
 
“清兵衞は、寛永十七年(1640)、十月九日上下六人で弘前に到着した。時に七十三歳の高齢であった。九州から陸奥の果てへの流謫は、さぞ身にしみたものであったと想像される。津軽三代藩主信義は、合力米三百俵三十人扶持を与えて鄭重に扱った。清兵衞は風雅の道に親しみ、藩士の子弟に文筆を教えたと伝えられる。また清兵衞の家来印藤三甫は連歌と茶道にすぐれ、書でも知られ、田浦主水の子孫は、四百石で津軽の家中となった。剃髪して翻然とした清兵衞は、明暦元年(1655)十月十二日八十八歳で病死し、最勝院に葬られた。”

となっている。

また津軽編覧日記(明暦元年七月二日条、青森県史より)には

“七月二日、御預人相良清兵衞死去、行年八十八才、最勝院に葬る、此人高屋村の配所に被居候処、火難に逢候て弘前に引越、南溜池堤の側に住居致し、家来田浦主水・印藤九郎右衞門両人有之、主水は追善の為高野へ罷登り、男子壱人有之候を九郎右衞門に預け参候処、九郎右衞門入道致し名を印藤三甫と改、手跡能筆にて歌学の師範なと致し暮し、主水子を養育し後、屋形様へ御小姓奉公に出し候処、御意に応し田浦四郎右衞門と名改被仰付、侍に御取立被遊候”

とあり、田浦主水の子を印藤九郎右衞門が養父として育てたようである。相良清兵衞の旧姓は犬童頼兄(いんどう よりもり)で、いんどうの音は印藤とも通じるので、おそらく相良清兵衞と印藤九郎右衞門は親戚だろう。印藤は著名な連歌師であり、延宝元年(1673)に76歳で亡くなったことから、生まれは1597年、弘前に来たのが58歳であった。一方、田浦は息子が寛文四年(1664)に御児小姓になったことから、印藤よりはかなり若かったと思える。高野山に行った後、弘前に帰ってきたのだろうか。

子供の名前は、「津軽史 解説目次抄五」では

田浦四郎右衞門長矩
寛文四年 四郎右衞門御児小性(姓の間違い?)被召出姓名を星出雲八と称す
延宝四年 御近習小性となり姓名再び田浦四郎右衞門と改む

とある。印藤九郎右衞門(三甫)は寛文三年には徳川家光十三回忌の恩赦で帰国を許された。相良清兵衞の実子とも言われている。

 相良清兵衞の墓は、当初、旧最勝院にあったが、その後、昭和57年に田浦家の子孫により、貞昌寺の塔頭、西福寺に移った。最勝院はもともと、今の田町、熊野宮と八幡宮の間にあった大きな地所を持つ寺であった。その墓所の一部は今でも熊野宮の前にあるが、そこからの移転であろうか。

 早速、西福寺に寄ってみると、寺の裏側の田浦家の墓所に相良清兵衞の暮石があった。古くて字が読めないが、「弘前の墓」(昭和58年度墓確認調査報告書)によれば、

“俗名 相良清兵衞尉墓処 盛徳院殿天金本然大居士霊 明暦元年乙未歳七月十二日寂”側面には“宝暦四年甲戊年七月十二日当百忌年”、“田浦吉右衞門源長英建之”とある。宝暦四年は1755年に当たるので、清兵衞が亡くなった100年後に作られた墓でオリジナルのものではない。

 “天”がつく戒名は非常に珍しく、これが隠れキリスタンの証拠だという意見があるが、むしろ人吉地方、相良家特有の戒名とも考えられる。清兵衞がキリシタンだったかどうかは不明であるが、弘前に流刑された寛永17年(1640)は、まだまだキリシタン弾圧の真っ最中で、弘前藩でも寛永14年には73名のキリシタンが処刑され、20年にも最後の処刑が行われた。流石にこうした時代にいくら高位のものとはいえ、キリシタンをお城近くに住まわせることはなく、これまで調べた弘前の資料では、相良清兵衞とキリシタンの関係は見出せない。人吉最初のキリスト教関係施設は明治39年にできた人吉修道院で、藩主以下、民衆の中にも多くのキリシタンがいたわりにはあまりに明治後のキリスト教の普及が遅い、隠れキリシタンなどほとんどいない弘前でも最初のプロテスタン教会ができたのは明治8年で、それより30年も遅いのは、人吉を隠れキリシタンの里と呼ぶにはあまりにつじつまが合わない。

2019年6月13日木曜日

Sudo Kaku

Left: Abe Hana, Right: Sudo Kaku

 ここ3ヶ月ほど、自著“須藤かく”の英文翻訳を出そうともがいている。須藤かくについては、シンシナティーの女子医科大学に入学し、生活したことから、シンシナティーの新聞でも取り上げられ、また親類もアメリカで生活していることから、一度、英文に翻訳してみようかと思った。本の1/3くらいはアメリカの古い新聞記事からの引用であるので、何とか英文に翻訳できるかと思ったが、これが無謀な試みであることは、すぐに気づいた。

 まず、逆のことを考えればわかる。ある程度日本語のわかるアメリカ人、例えば英語の教師として、日本に数年いて、日常の日本語はある程度、わかるとしよう。その人が、日本に来たペリー提督に興味をもち、その評伝を英語で書き、それを今度は日本語にするようなものである。日本人でも、こうした評伝を書けるだけの人は少なく、歴史学者などトレーニングを受けたものに限られる。簡単な手紙やメール、あるいは短い要旨程度なら何とか英文でも書けようが、日本語でも理解が難しい論文、本を英語に翻訳することはかなり難しい。

 日本では、英語—日本語の翻訳家をたくさんいるが、日本語—英語の翻訳家は少ない。ドナルド・キーンのようなアメリカ人で日本語が堪能な人が、源氏物語など多くの日本人作家の本を英文翻訳しているケースが目立つ。日本人で英文への翻訳をしている人は少ない。なぜなら英文による表現は、ネーティブだけでなく、そうした文章表現の訓練を受けた人に限られるからだ。もちろん、日本人でも海外の学校を出て、小説家などとして活躍している方もいるが、2カ国語で自由に文章表現をできるのは極めて難しい。

 そうした無茶な試みだが、ネットにある“Weblio”などの辞典を駆使して、なんとか最後まで翻訳してみた。こんなに長い英文を書いてのは生まれて初めてである。仕事の合間に少しずつ進めたものの、自分でも相当ひどい翻訳であることはよくわかっている。日本人英語の典型のような表現であり、とても文章と呼べるようなものではない。それでも古い新聞の記事はそのまま転写し、あとは適当に文章をつなげていった。3ヶ月くらいかかったが、今は内容を細かく点検している。どこかの段階で、ネーティブの方に添削してもらわないといけないが、手紙程度の短いものであれば、頼めるが、これだけ分量が多いと知り合いのアメリカ人に頼みにくく、プロの翻訳家に頼むか検討している。相当に金がかかることだろう。

 さらに仮に英文翻訳が完成したとしよう。それをどうするかもまだ決めていない。アマゾンなどにデジタル本として挙げるのか、あるいは地元の印刷屋で紙の本にしてもらうのか、検討している。誠にお恥ずかしい英語で申し訳ないが、典型的な日本人が書いた誤った英文として一部を貼っておく。


Sudo Kaku 
   First Japanese-American woman doctor

Prologue

     In October 2011, I received an email from Mr. Kawai Ryunosuke, who is famous non-fiction writer and published many excellent books. “ I’m studying for the history of Japanese- American in Florida. Recently, I found  a very interesting woman. Her name is Sudo Kaku and she dead in Saint-Cloud, Florida at 102 years of age, 1963. She was born in Hirosaki, Aomomi and her father’s name is “Tsuidi Sudo” and mother’s name is “ Yeuri Fujita” by her death certificate. Do you have some information about her? ”. I am writing a blog about historical persons in Hirosaki for 11yeras. Mr. Kawai found my blog and sent me the email.
     Many questions about ancestor and historical study are sent to me. I am doing to answer as much as possible by my source, books, articles and old maps. Especially, One old map (1868), which shows each home and head name of family (total 2025 families) is very useful for searching person lived in Hirosaki around 1860. But the clues of word “Sudo Kaku”,“Tsuide Sudo” could be found nothing in my any source and I was searching them in a net. Only one website came up. It was Chinese auction site and introduce a old Japanese book, title “Anzai Maru sensho Sudo Katsugoro no shogai: Hirosaki hanshi no shinko no keseki”(A life of captain Sudo Katsugoro of Anzai Maru: the trace of faith of Hirosaki feudal retainer, Sato Koichi, 1992). The word of “Sudo Kaku” could be found in a picture of the book contents on website. This thin book seemed to be mentioned about “Sudo Kaku”.
      Soon I went to Hirosaki Library and asked about this book. Fortunately. It was stored in the library. Author, Sato Koichi was an earnest Christian and took an interest in one person, Sudo Katsugoro, who was a primary member of Fujisaki Church, Aomori and searching his life and made up into a book. The life of Sudo Katsugoro was described in detail and “Sudo Kaku” entered as a daughter of his younger brother Shinkichiro. Sudo Shinkichiro was changed name to “Tsuide” or “Tsuiji” in Meiji era, which corresponds with the Mr. Kawai’s email. Author of this book, Sato Koichi already passed away and could not be confirmed anything. This book lead me to a fact that Sudo Kaku, dead in Florida at 102 years old, was a daughter of Sudo Shinkichiro, a feudal retainer of Hirosaki Domain.
      Hirosaki is an old and historical city located at western Aomori Prefecture, northern Japan.  First lord Tsugaru Tamenobu built this city at 1603 and gradually developed. About half of population was Samurai and their families. Each Samurai lived in several areas by Class. I checked Shinichiro’ s home in my old map (“Meiji 2 nen Hirosaki Ezu”, Hirosaki old map at 1868). His home was found at Ohura syoji(“alley”where was developed at end of Edo era by dividing one large house to 10 house of new residents. His brother, Katsugoro’s home was found Wakado-cho, where middle class Samurai lived in and generally old brother succeed to a house (Sudo family lived here from before 1800). Shinichiro was superior and established a branch family at Ohura syoji.
     Why does Sudo Kaku, a daughter of Samurai, came to USA and dead at Florida? Let’s talk about her interesting and amazing story.

2019年6月10日月曜日

天国(極楽)、地獄のない国


 韓国や中国などの儒教国家では、基本的には来世はなく、地獄、天国(極楽)がありません。死んだ後はと言われれば何もない、魂がどこかに行くというだけです。そのために徹底的に現世思考となり、生きている間にできるだけ楽しいことをしたいと考えます。そのため、嘘をついたり、犯罪をすることは、現世での倫理的、刑法上の問題はありますが、来世で地獄に行くという恐れはありません。

 日本人の場合、人に嘘をつくと、死んだら地獄に行くとか、閻魔様に舌を抜かれるなどと、嗜められました。子供の頃からこうした学校外での教育により、嘘をつくことは悪いことだという思いは多くの人に共有すると思います。ところが中国や韓国では、こうした嘘=悪いことという感覚があまりありません。もちろん、商売上、友人、家族間で嘘が多いと、信頼関係にひびが入り、その後の付き合いにも影響するために、嘘をつくことはあまりないかもしれませんが、逆に言えば、それ以外の人、他人に嘘をついても悪いと思いません。こうしたことから学歴詐称や偽証が多発します。

 こうした嘘=悪いことという観念には、宗教上の影響が強くあります。まず仏教では嘘は悪とされ、地獄に行くと教えられます。同様にキリスト教やイスラム教でも、嘘は悪いことと教えられます。嘘が悪いと思わないと、どうなるかと言えば、そもそも契約自体を守る気がありません。契約自体が嘘なのですから。そのため、キリスト教、イスラム教国家、あるいは仏教国家では少なくとも契約は守るものだとされますが、嘘を悪と思わない国では嘘でも良いからとりあえず契約をとり、はなからその契約を守る気があまりありません。

 こうした見方で見ると、アジアにおいて、儒教国、あるいは無宗教国を調べると、韓国、北朝鮮、中国などが挙げられ、他の国では、仏教、イスラム教、キリスト教などが生活の中に根を下ろし、国民性にも影響を及ぼしています。一方、嘘と表裏一体となる、信頼関係については、中国人の方が明らかに韓国人より重視します。中国人にとって、強い絆で結びつけられた個人同士の信頼関係は何より大事です。嘘をつくことで、こうした関係を潰したくないので、家族、一族の延長として信頼関係のある人には誠実です。同じ儒教国の中国人が韓国人を嫌う理由、主として会社関係ですが、あまり信頼関係が構築できない、誠実ではないと言います。貿易関係をしている娘に聞くと、韓国人は中国人経営の縫製工場に、とんでもない価格を求めたり、急に発注を中止したり、逆に急な発注をしたりするので、中国人には相当、嫌われているようです。逆に日本人は価格交渉がきつくても、困った時には助けてくれたりするし、約束は必ず守るので、信用ができると言います。ただこれはあくまで個人間の信頼関係で、その個人が会社を変わっても、その関係はそのままとなります。

 人間はまことに身勝手な存在であり、その我儘を抑えるものとして宗教があり、道徳があります。道徳のように上から教育されるものはなかなか守らないが、死後の世界を決める来世観が大きな抑制となります。嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれると言う強烈なビジュアルは、子供に大きな影響力を与えるのです。世界的にみて、天国、地獄のない国は少ないですが、そうした稀な国が隣国に3カ国(中国、韓国、北朝鮮)がある日本は、何かと大変だと思います。

2019年6月8日土曜日

ワインが安くなった


 4月からワインの関税がなくなり、大体100円くらい安くなりました。これは高いワインも安いワインも一律で、安いワインほど恩恵が大きいことになります。例えば600円のワインは500円くらいになりますが、10000円のワインでは9900円とあまり変わりません。

 日本で最初のワインは、サントリーの赤玉ポートワインで、これはワインの中でも特殊な部類に入るポルトガルのポートワイン風の甘いお酒で、食前酒に近いものです。決して食事中の飲むお酒ではありません。親父がやっていた歯科医院では患者が気分が悪くなると、気付薬として赤玉ワインを飲ませたりしていました。昔の女の人は、今の女性と違い、こうした赤玉ポートワインを小さな盃一杯で顔を赤らめ酔ったと言っていました。今の女性はこれくらいでは、全く酔わないでしょう。

 その後、40年くらい前でしょうか、発泡ロゼワインのマティウスというポルトガルのお酒をサントリーが輸入して、だいぶ売れました。このお酒は発泡酒で、甘くて美味しかった記憶があります。ただこれも料理中に飲むお酒としては甘すぎます。1500円くらいして、何かの記念日にワインを飲むようになったのもこのころでしょう。その後、日本でもメルシャンワインが本格的なワインを販売するようになり、ようやく食事中にワインを飲むという風習が定着してきました。メルシャンワインの中でも今でもあるシャトーメルシャンというブランドが好きで、よく飲みましたが、30年前で1800円くらいして高かったと思います。それでも本場フランスのワインが3000円くらいしていましたので、国産の方が安い感じがしていました。また白ではドイツのマドンナというワインが売れたのもこの頃です。

 ここまでは一部のワインマニアを除いてまだまだワインが高いものでしたので、それほど日常の食事で飲む酒ではありませんでしたが、ここ10年、ワインは本当に安くなりました。1000円以下でもかなり美味しいワインが飲めるようになっていますし、600円くらいのワインを夫婦二人で飲めば、十分に満足できますし、一人300円、ビールや日本酒より安いくらいです。あまりに安さに何か悪いものが入っていないか心配するくらいです。それが、関税が撤廃されますます安くなり、ジュース並みになるのでしょう。ヨーロッパでは水かわりにワインを飲むと言われていましたが、価格的には日本でも同じようになるのでしょう。

 個人的には、最近はイタリアワインばかり飲んでいます。一番お得なワインはチリ産で、数年前はチリ産ばかり飲んでいましたが、やや種類や地域差が少なく、イタリアワインにはこの点で負けます。フランス同様、イタリアワインも産地によりかなり味が違い、それでいてフランスほどはお高くとまっていない感じがします。気に入っているのは、ピエモンテ州のバルバレスコ、バローロ、トスカーナ州のキャンテイーなどで、これらはブドウの品種も一般的なメルローやカベルネ・ソーヴィニヨンなどの一般種と違い、味が違います。ただワインに関しては、メーカーや種類をノートに記録していても、なかなか同じものが買えないので、むしろ何も考えずに1本、1本の出会いを楽しんでいます。お店で色々と検討し、飲んでみてうまい時やまずい時があってもそれでいいと思っています。

 昔は、ワインというとコルクを開けるのが面倒で、なかなか開かないで、コルクを瓶の中に落としてしまったりしたこともありましたが、オランダのバキュ・バン社のバキュバンコルクスクリューツイスターを数年前に買ってからは、一切こうした苦労は無くなりました。アマゾンで1357円していますが、これまで数百本のワインを開けましたが、全く問題なく、非常にコスパの高い商品と思います。アマゾンの評価でも94%の人が4星以上の点をつけています。AmazonUSAでも92%が4star以上です。是非とも買ってください。

2019年6月6日木曜日

アルヴァ・アアルト展

コッホネン邸
 



アアルト展で買ったピクチャスタンド

 青森県立美術館で開催中のアルヴァ・アアルト展を見に行ってきた。アアルトはフィンランドを代表する偉大な建築家、デザイナーであり、現在でも多くのファンが世界中におり、私もその一人である。彼のデザインした家具の多くは今でもアルティックという会社で販売され、日本では昔から京都の二葉家具で扱っており、何度かこの店に行ったことがある。ただ流石に高くて、アアルトの家具は一つも持っていない。特に曲げ木(積層合板曲げ加工)で作られたイージチェアーは座り心地もよく、かなり買うか迷ったが、結局は、天童木工のブルーノ・マットソンのハイバックチェアーにした。北欧家具でおなじみのイケアは、アアルトのデザインをかなりパクっており、有名な“スツール60”もそっくりを1000円以下の値段で売っている。ただ無印良品はキチンと許可を取って、安全のために3脚を4脚にして販売している。値段はあまり変わらない。イージチェアーの402406については、イケアがその十分の一以下の価格で同じような物を出しており、座り心地もいいので、パーソナルチェアーでは一番よく売れている。一番安いのであれば5000円以下で買える。

 アアルトの建築、特に個人住宅は、奇抜さをあまり衒わない、非常に住みやすい家となっている。えてすると、有名建築家の建てた家は、あまりに奇抜で、住むのに難儀する場合が多いが、アアルトの作品はどれも見ただけで、住みやそうである。その中でもとりわけ、好きなのは、コッコネン邸で、森の中にある90坪くらいの平屋の家であるが、このまま同じような家を今、作っても満足するだろう。リビング、台所、キッチンが連続しており、リビングの裏に二つのベッドルームと風呂、トイレがある。入口から入ると渦巻き状にリビング、台所と続き、一番奥が夫婦寝室と子供部屋となる。そして回遊型となっている。またリビングの横には天井の高いミュージックルームがあり、書斎とピアノが置かれている。ここでは音楽会を催していたのだろう。また別棟にはフィンランドらしくサウナとその前にプールがある。本宅には他にはキッチン横には召使い部屋があるが、中心部のリビング、台所、キッチン、トイレ・風呂とベッドルームだけであれば、多分50坪程度であり、内外装もそれほど高い素材を使っていないので、現在でも十分に通用する。さらにいうとベッドルーム横にトイレ・風呂があるのは非常に使いやすいし、キッチン、トイレ、風呂を一箇所にまとめたのは水周りの関係からも良い。またそれぞれの部屋は曲線、でこぼこで囲まれているために、連続していながら、独立しており、リビングからはピアノ室や台所が少しだけ見えるようになっている。特にリビングが素晴らしく、前には大きな窓があり、外にも出られるようになっている。

 東京などの都会ではなかなか土地が高くて、平屋の家を建てるのは難しいが、地方では土地も安く、老後のことを考えると、コルビジェが母のために作ったヴィラ・ル・ラクやこのコッコネン邸など平屋の名作などに憧れる。

 アアルト展では、展覧会グッズを販売しており、通常は必ず展覧会カタログを購入するが、今回ばかりはあまり面白くないので、曲木を利用したピクチャースタンドを購入した。どこのものかわからないが、ちょっとしたアアルト気分である。

2019年6月3日月曜日

矯正治療がうまくいく患者さん



 私の診療所は、子供の患者さんが多くいます。それも小学校低学年から高校卒業までの長い期間、見ることがあります。あんなに小さかった子供が、こんなに大人になってと、自分の歳も忘れてびっくりします。だいたい子供の患者さんはマルチブラケット装置による治療後二年で一旦卒業にしますが、その際に初診時の写真を親御さん共々見て、お子様の成長にお互いに驚くこともたくさんあります。

 矯正治療では、様々なところで患者さんに協力してもらうことがあります。まず装置を入れるとかなり歯磨きがしにくくなりますので、丁寧に時間をかけて磨く必要があります。そうしないと虫歯になったり、歯周病になったりします。また治療中にゴムを使ってもらうことがあります。決められた箇所にゴムをつけてもらいますが、基本的には食事中や歯磨きの時間以外は終日使用です。使わなかったり、使用時間が少ないとうまく治療できません。またお子さんによってはヘッドギアーなどの顎外装置を使ってもらうことがあります。さすがに終日使用は無理ですが、それでも10時間以上は使って欲しいところです。お子さんの協力が不十分だと治療がうまくいかないため、治療、特にマルチブラケット装置を入れる前には十分に納得してもらってから治療を始めます。

 個人的にいつも思うことは、勉強のできる子は、元々の頭の良し悪しもあると思いますが、それよりは素直な性格が大事だと思います。勉強には王道はなく、毎日きちんと授業を受け、家でも勉強することが求められますし、試験になれば、一生懸命に勉強しなくては良い点数は取れません。いくら頭がよくても、勉強しなければ、いい成績が取れません。こうした性格は矯正治療でも全く当てはまり、勉強のできる子は性格が素直なので、治療に当たっても非常に協力的で、治療期間も短く、仕上がりもよい傾向があります。一方、非常に頭が良いのですが、後3、4ヶ月ゴムを使ってくれたら治療が終わると言ってもなかなかゴムを使ってくれないお子様がいます。それも10時間くらいは使ってくれるのですが、20時間は使ってくれません。しつこく強く言うと、がんばって使い、よくなりますが、次の月にはまた使ってくれず、元に戻ることもあります。結局、この時点から1年間経過しても全く変化せずに不十分のまま装置を撤去することになります。多分、こうしたお子様は、勉強においてもあと一歩、例えば、試験期間中の数時間、テレビを見たり、ゲームをしたりするのでしょう。こうした後一歩の努力ができるかどうかは大きな意味を持つように思えます。勉強のできる子は、後一歩の意味をよく知っているように思えます。おそらく勉強だけでなく、運動部の試合でも同じなのでしょう。矯正治療をこうした後一歩の努力を知る良い体験ですので、うまくいった時にはできるだけ褒めるようにしていますが、もうひと頑張りの大切さを教えるのは難しいと思います。

 素直な性格は何かを決断する場合も大事で、大学進学や就職などにおいても、素直に家族や友人知人に喋れるため、いいタイミングで、いい話を聞くことができます。一方あまり素直でないお子様の場合、せっかく周りの大人が将来を思って心配しても、素直に従わず、その時期になって悔やむこともあります。矯正においても、中学生頃に親もこちらも矯正した方が良いよと言っても反発し、高校二年生頃になって急に治療したいというお子様が割合います。素直なお子さんの場合は、治療も始めてとうに終わっていますが、高校二年生からの治療は治療期間が不足し、結局、大学に入ってからしなさいということになります。費用的にも東京での治療は弘前の2倍くらいかからことになります。万事がこうで、素直でないことが、結局いろんな点で損をすることになります。

2019年6月2日日曜日

ロレックス人気がすごい

デイジャスト2と1002  精度は変わらない

 私は20歳になった時に、母が知人に頼んで香港でロレックスの時計を買ってもらった。オイスターパーペチュアルの日付のないタイプのもので、型番を調べると1002というものである。1976年製のロレックス1002となる。娘の旦那にあげようかと思い、写真だけで数社が無料査定するというHPがあったので、写真と一緒に申し込んでみた。

 購入して40年以上経っており、78年前に近くの時計屋にオーバホールし、その後、45年前にベッド横の机から寝ぼけて床に落とし、リューズが故障、風貌もヒビが入った。リューズのみは国産の汎用に変えたが、風防はそのままである。ただ精度は極めてよく、一日で数秒、月でも早くなったり、遅くなったりで、1分以内の精度である。全く時計の機能としては十分である。

 最初の会社の回答は、5万円くらいというもので、40年前の中古、それもダメージがあるにしてはいい値段と思っていたが、その後、次の会社が10万円、残りの会社は15万円くらいという査定であった。おそらく実物を査定すれば、もう少し買取り値段は下がるが、それにしても高い価格である。多分、部品が十分にある大手の中古サイトであれば、自社でリューズと風防を変え、オーバホールして売り出すのであろう。最初の回答があった後も、電話で何度も是非、現物を見たいので送ってくださいという勧誘があった。中古、それもスポーツタイプでないものでも、ロレックスの時計そのものが品薄なのだろう。それほど人気があるのだろう。

 こうした人気は新品でもそうで、今やスポーツタイプの新品は定価で買うことができなくなった。2015年に大阪の高島屋でデイジャスト2を買ったが、その頃でも流石にデイトナやサブマリーナは店頭になかったものの、エクスプローラーやミルガウスはあった。ところが新品価格にプレミアムがつくと、ロレックス社は生産量をそのままで、何と、新品定価を値上げした。定価2000円の有名日本酒がネットでプレミム価格が4000円になると、定価を3000円に変えるようなものである。ところが数が少ないのに人気があるために、さらにプレミアム価格が上がり、もはやスポーツタイプ自体が手の届かない価格となってきた。そのためスポーツタイプ以外の時計、例えばデイジャスト2の後継機種、デイジャスト41も値上がりしている(性能はよくなったが)。

 ロレックス人気のために、もはや新品の時計は迂闊に買える価格ではなくなったし、単純な時計好きが買うという場合だけでなく、これだけ値上がりが期待できるなら、投機で買う人も出よう。もし私が1976年に香港でサブマリーナを購入していたなら(1008より安かった)、今ではコンデションが良ければ200-300万円する。同様にミルガウスも10倍くらいになっている。スポーツタイプのロレックスが新旧を問わず、バカみたいな価格となり、その高騰がすごい。

 ロレックス人気は地方にも波及してきて、弘前のブランド買取店でもロレックス、古いものでも買取りますというパンフレットを張っている。何も知らない客が40年以上前のサブマリーナを売りに来ることもあり、それを買取り、それを200万円で転売することもできるので、これまでの買取り品である金やバッグなどよりよほど美味しい。サブマリーナにしても2030年前なら街の質屋の店頭にかなり安く並べられていたが、今はそんなことは絶対にない。土地や金のバブルははじけてしまったが、今、最も熱い市場がロレックス売買市場であろう。