2019年6月23日日曜日

相良清兵衞について

弘前、 西福寺

「弘前の墓(昭和58年)」より


 ブログの読者の方から、相良清兵衞のことで問い合わせがあった。相良清兵衞については、弘前藩の初期の頃、九州の人吉から流刑人とした津軽家預かりとなった人物で、南溜池近くに住まいがあったことから、その一帯を相良町と呼ぶようになったことは朧げに知っていたが、それだけであった。

 ところが、出身地の人吉では平成九年に清兵衞屋敷跡の発掘調査から、水のでる謎の大きな地下室が発見された。他の類型がなく、その不思議さから、様々な説が唱えられ、その中でも隠れキリシタンの秘密の礼拝施設という説が広まっている。その後、2012年に「驚愕の九州相良隠れキリスタン:前代未聞の歴史的真実(原田正史著)という本が出て、人吉球磨地方全体が藩主も含めて隠れキリスタンだったという新説が登場した。本の内容については、未読のためわからないが、歴史の専門家からは証拠が少ないと認められていない。

「続弘前今昔」(荒井清明著、北方新社、1987)によれば
 
“清兵衞は、寛永十七年(1640)、十月九日上下六人で弘前に到着した。時に七十三歳の高齢であった。九州から陸奥の果てへの流謫は、さぞ身にしみたものであったと想像される。津軽三代藩主信義は、合力米三百俵三十人扶持を与えて鄭重に扱った。清兵衞は風雅の道に親しみ、藩士の子弟に文筆を教えたと伝えられる。また清兵衞の家来印藤三甫は連歌と茶道にすぐれ、書でも知られ、田浦主水の子孫は、四百石で津軽の家中となった。剃髪して翻然とした清兵衞は、明暦元年(1655)十月十二日八十八歳で病死し、最勝院に葬られた。”

となっている。

また津軽編覧日記(明暦元年七月二日条、青森県史より)には

“七月二日、御預人相良清兵衞死去、行年八十八才、最勝院に葬る、此人高屋村の配所に被居候処、火難に逢候て弘前に引越、南溜池堤の側に住居致し、家来田浦主水・印藤九郎右衞門両人有之、主水は追善の為高野へ罷登り、男子壱人有之候を九郎右衞門に預け参候処、九郎右衞門入道致し名を印藤三甫と改、手跡能筆にて歌学の師範なと致し暮し、主水子を養育し後、屋形様へ御小姓奉公に出し候処、御意に応し田浦四郎右衞門と名改被仰付、侍に御取立被遊候”

とあり、田浦主水の子を印藤九郎右衞門が養父として育てたようである。相良清兵衞の旧姓は犬童頼兄(いんどう よりもり)で、いんどうの音は印藤とも通じるので、おそらく相良清兵衞と印藤九郎右衞門は親戚だろう。印藤は著名な連歌師であり、延宝元年(1673)に76歳で亡くなったことから、生まれは1597年、弘前に来たのが58歳であった。一方、田浦は息子が寛文四年(1664)に御児小姓になったことから、印藤よりはかなり若かったと思える。高野山に行った後、弘前に帰ってきたのだろうか。

子供の名前は、「津軽史 解説目次抄五」では

田浦四郎右衞門長矩
寛文四年 四郎右衞門御児小性(姓の間違い?)被召出姓名を星出雲八と称す
延宝四年 御近習小性となり姓名再び田浦四郎右衞門と改む

とある。印藤九郎右衞門(三甫)は寛文三年には徳川家光十三回忌の恩赦で帰国を許された。相良清兵衞の実子とも言われている。

 相良清兵衞の墓は、当初、旧最勝院にあったが、その後、昭和57年に田浦家の子孫により、貞昌寺の塔頭、西福寺に移った。最勝院はもともと、今の田町、熊野宮と八幡宮の間にあった大きな地所を持つ寺であった。その墓所の一部は今でも熊野宮の前にあるが、そこからの移転であろうか。

 早速、西福寺に寄ってみると、寺の裏側の田浦家の墓所に相良清兵衞の暮石があった。古くて字が読めないが、「弘前の墓」(昭和58年度墓確認調査報告書)によれば、

“俗名 相良清兵衞尉墓処 盛徳院殿天金本然大居士霊 明暦元年乙未歳七月十二日寂”側面には“宝暦四年甲戊年七月十二日当百忌年”、“田浦吉右衞門源長英建之”とある。宝暦四年は1755年に当たるので、清兵衞が亡くなった100年後に作られた墓でオリジナルのものではない。

 “天”がつく戒名は非常に珍しく、これが隠れキリスタンの証拠だという意見があるが、むしろ人吉地方、相良家特有の戒名とも考えられる。清兵衞がキリシタンだったかどうかは不明であるが、弘前に流刑された寛永17年(1640)は、まだまだキリシタン弾圧の真っ最中で、弘前藩でも寛永14年には73名のキリシタンが処刑され、20年にも最後の処刑が行われた。流石にこうした時代にいくら高位のものとはいえ、キリシタンをお城近くに住まわせることはなく、これまで調べた弘前の資料では、相良清兵衞とキリシタンの関係は見出せない。人吉最初のキリスト教関係施設は明治39年にできた人吉修道院で、藩主以下、民衆の中にも多くのキリシタンがいたわりにはあまりに明治後のキリスト教の普及が遅い、隠れキリシタンなどほとんどいない弘前でも最初のプロテスタン教会ができたのは明治8年で、それより30年も遅いのは、人吉を隠れキリシタンの里と呼ぶにはあまりにつじつまが合わない。

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