2017年10月26日木曜日

歯科医院のホームページ



 最近では、自分の歯科医院をホームページで紹介しているところも多くなった。私も、最初はホームページなど一部のコンピューターオタクだけが見るもので、作ってもあまり意味はないと考えていたが、ここ十年ほどは当院のホームページを見てくる患者さんが多くなっている。例えば、矯正治療費などはホームページに詳細に説明しているので、費用についてはある程度、了承済みで来院されるので、医院の雰囲気、先生、医院のシステムに納得されれば、すぐに検査に入る患者さんが多い。逆にホームページを見ないで来られる患者さんの中には、今でも“矯正治療は保険がきかないのですか”と驚かれる患者もいる。自費治療の話をすると、高額の治療費を想定していなかったので諦められ、本人が矯正治療をしたいという場合は、こちらとしても辛い。

 こうしたホームページの中には、いわゆる“かなり盛った”内容のものも散見される。例えば、矯正治療の経験がほとんどない歯科医がマウスピース矯正治療やクイック矯正などをうたい、極めて短期間で治療できると宣伝しているものがある。さらにいうと、外からは見えない舌側矯正治療、リンガル矯正は、治療は難しく、少なくとも日本矯正歯科学会の認定医以上の経験がなければ、良好な治療結果を得ることはない。一般歯科医(認定医でない)でリンガル矯正をホームページ上でうたっているのも、“盛った”と言ってもよい。

 こうした“盛った”ホームページを素人がチェックするには非常に難しい。通常、ホームページに載せているくらいなら、治療自体に自信があると思いがちだが、講習会を何度か受講しただけで、実際に治療したことがないという先生も多い。知識は講習会で仕入れているので、患者さんが来たときは、自信をもって説明する。ところがいざ、治療を始めてみると、十分に治療はできず、文句を言うと、これ以上の治療はリンガルでは無理と言われてお終いである。ブログに自分の矯正治療体験を載せている人がいるが、こうした患者さんは上記のようなホームページをだす歯科医院に引き寄せられるようで、最初の1年程は治療経過を毎月、載せているが、いつのまにか終わっている場合が多い。多分、きちんとした治療結果が得られていないので、ブログの更新をやめたのだろう。


 先日のテレビで歯並びの悪い芸能人の矯正治療費が250万円と言っていた。私の所属する日本臨床矯正歯科医会は、日本を代表するほとんどの矯正歯科医が所属しているが、昔、この会で、各院の治療費を調査したことがあった。通常の表側の唇側矯正治療で、確か上限でも150万円くらいで、ほとんどは70-100万円であった。一症例が200万円あるいは400万円という高額な治療費をとる歯科医院をうわさに聞くことがあるが、こうしたところはほぼ矯正専門医でない。通常の感覚で言えば、治療費が高ければよい治療を受けられると思いがちだが、これは大きな誤解であり、先に述べたように、私の尊敬する優れた矯正医の多くは、適正な、平均的な治療費である。逆に言えば、こうした法外な治療費をとるところはかなり問題のある医院と言わざるを得ない。


 実は、優れた臨床医、矯正歯科医は、その評判を聞きつけ、患者が多いため、それ以上に患者が来てもらっては困るという。そのため、ホームページはおろか、医院の看板も掲げていないところがある。つまり患者の多いところは、宣伝する必要がない。逆に言えば、患者が少ない、あるいは経営が苦しいから宣伝で盛って、集客を図るのである。となるといい歯科医院、矯正歯科医院をどのように選ぶかと言えば、これはそこで実際に治療を受けた人の口コミ(インターネット上の口コミは当てにならない)が一番確実で、それも複数の人から聞いた方がよい。さらに患者が多い、予約が取りにくいというのも参考になろう。行列ができるラーメン屋の方が、誰もいないラーメン屋よりはうまい。ただラーメン屋の例ではないが、専門家から見ればすごくいい治療をしていても、先生、スタッフの愛想がない、設備が古い、汚いといった理由で患者の少ない歯科医院もある。ホームページは沢山の情報が載っていて、医院を探すには便利なようではあるが、いい医院はホームページに載せないし、また情報自体が当てにならないことも多く、昔のように知人の口コミと実際の経験から歯科医院を決めるのがよいのだろう。

2017年10月25日水曜日

三橋美智也












 三橋美智也は、僕たちの世代にとっても、現役の頃に聞いたことはない歌手で、おそらく70歳以上の方でないとわからないと思う。ただ三橋美智也の声色、特にその高音は独特であり、フランク永井の低音と対照的に、僕たちの世代にも記憶に残る。その後も多くの新しい歌手が出て来たが、歌声が今風でないという理由でなく、こうした独特な高音を出す歌手がいないのである。それ故、美空ひばりのモノマネはいても、三橋美智也のモノマネはいない。真似ができないのである。

 とりわけ、好きな曲は“星屑の街”という曲であるが、歌詞の内容がどうもよくわからない。歌詞、冒頭の “両手を廻して帰ろう”とは蒸気機関車のことを指すというが、わけもなくうれしくて両手を廻して家路に急ぐ場面を想像する。この曲を聞くと、不思議なことにフィンランドの名監督、アキカリウマスキーに映画で是非使ってほしいと思ってしまう。彼の作品は独特のテンポとシニカルなユーモアで面白く、また映画に使われる音楽もユニークである。彼が三橋美智也を知れば、絶対に挿入歌で使ってくれる。“過去のない男”で電車の乗るシーンでは“星屑の町”はぴったりである。彼は小津安二郎のフアンであり、当然、原節子のファンであるので、私の持っている原節子のサイン入り写真と、三橋美智也のベストアルバムをアキカウリマスキで本気に送ろうとしたことがある。ただ宛先が全くわからず断念した。

 三橋美智也の曲で、僕たちの世代が最も親しんだのは、“怪傑ハリマオ”の主題歌である。当時は、ハリマオのバックグランドを知らないで、どこかの国のお話と見ていたが、よく考えれば、大英帝国の圧政から東南アジアの人民を解放する大東亜思想に準拠した作品であり、確か1960年ころの作品であるが、当時は中国、韓国ともこうしたある意味危険な思想には無頓着であった。今なら当然、反対されるであろうし、それ以上に左翼に染まったマスコミから叩かれたのは間違いない。当時は、そうしたムードは全くなく、白人の圧政から原住民を助ける日本人の英雄としてハリマオが子供達に知られていた。特に番組初めの三橋美智也の声には子供心にしびれた。

 さらに東京オリンピック。有名な東京五輪音頭はもともと、作曲家の古賀政男が三橋美智也のために書いた曲であったが、紅白で三波春夫は横取りして歌ったため、今では三波春夫の曲のように思われているが、実際、三橋美智也の五輪音頭の方が明るく、美しい。晩年は、あの高い声をキープするのに、随分悩み、あまり活躍できなかったが、それでも明治製菓、カールのCMソング“いいもんだな故郷”で、かろうじて若者にも名前が知られたのが何よりであった。

2017年10月23日月曜日

ペンクラブ三市交流会 講演




 昨日、弘前パークホテルで、青森市、八戸市、弘前市のペンクラブ三市交流会があった。「須藤かく 日系日本人最初の女医」というタイトルの講演を行った。半年ほど前から弘前ペンクラブの齋藤会長から依頼を受け、それなりに準備をして臨んだ講演会だったが、一人空廻りして、あまり面白くない内容となり、反省している。いつも思うのだが、人前ではなかなかうまくしゃべることができない。もう少し、笑いを交えた講演会にしたいと思うが、どうも苦手でうまくいかない。

 その中で津軽人の特徴をまとめてみた。講演時間が少なくて、講演会では飛ばして説明したので、もう少し解説を加えたい。

  進取の気風 新しいもの好き(飽きやすい、えふりこき)
  飛躍 東京に行くより海外(計画性がない、行き当たりばったり)
  連まない (自分勝手、歩調を合わさない)  
  立身出世に無頓着、へた(経済感覚がない、商売が下手)
  我慢強い(あきらめも早い、頑固、じょっぱり)
  言い出したらきかない(人の言うことを聞かない、謝らない)

 例えば、“言い出したら聞かない”というのは、利点としてみることも出来るが、一方では“人の言うことを聞かない、誤らない”となる。津軽人の場合は、どちらかというと、後者の欠点となる場合が多い。津軽の会議、あるいは集まりでは、必ず、反対意見をする人が一人いる。こうした人の意見を聞くと確かに一理はあるものの、他の人が賛成しているのであれば、別に反対意見に固守する必要はない。無難に流そうする気配はなく、あくまで反対する。こうした人が一人でもいると、それを無視して採決する訳にもいかず、結局、玉虫色の結論となってしまう。

 同様に昔、診療所近くにコンビニが一軒もなく、不便であったが、ある日、近くにコンビニができた。付近の勤める人にも便利とみえ、小さなコンビニであったが、繁盛していた。ところがその1、2年後にはその繁盛をみて同時に三件のコンビニが近くにできた。お客さんは分散され、結局、その2年後にはすべてのコンビニが潰れた。一軒であれば、繁盛していたが、それが四軒になると分散され、経営的に無理だったのだろう。普通考えれば、近所に三軒もコンビニが同時にできれば、前もって情報が漏れるし、その時点で三軒も同時に開業したら無理なことはわかりそうだが、そこは津軽人、自分のところだけは成功すると変な自信を持つ。これなど“連んでいる”ように思えるが、各自が勝手に考えて行動した結果であり、決して色んな人に相談して決めたものではない。


 津軽の人々のうち、最も津軽らしいのは詩人の福士幸次郎と、小説家の葛西善蔵、それに版画家の棟方志功を加えてもよい。本当に変わって人物で、個性的である。おそらくはまわりに非常に迷惑を掛け、嫌われていたかもしれない。それでもどうも憎めない側面があり、詩、小説、版画などの実際の仕事以上にその生き方は興味深い。こうした人物は、もはや津軽にはいないのかと、弘前ペンクラブの齋藤会長に聞くと、今でもまだまだいますとの答え。これからも津軽は面白い。

2017年10月16日月曜日

英語の吉崎豊作

吉崎豊作の英語の師匠、名村五八郎


 弘前藩で最初に英語を学んだ人物の一人に吉崎豊作がいるが、全く資料がなく、どういった人物かわからない。

 このブログでも度々登場する兼松石居は、弘前藩より蘭学修業を命じられたのは、嘉永三年(1850)のことで、杉田玄白、前野良澤らにより解体新書の翻訳が安永三年(1774)であるから、かなり後発である。兼松は江戸在府のころ、蘭学者、杉田成卿らの知己であり、早くから西洋事情について知識があり、蘭学の必要性は十分に認識していた。その後、兼松の弟子にあたる佐々木元俊が杉田蘭学塾に入り、正式に蘭学を学んだ。佐々木は弘前に帰ると安政六年(1859)に弘前城内にある稽古館に蘭学堂を設けて、正式に藩士に蘭学を教えた。ただこの頃になると、すでにオランダ語より英語の方に関心が移った。一方、北海道の箱館では開港に伴い英語をしゃべれる通訳(通司)を養成するために、派遣米使節の通訳であった名村五八郎が先生となり万延元年に箱館の英語稽古所(通司稽古所)ができた。早速、弘前藩からも、神辰太郎、吉崎豊作、佐山利三郎の三人が派遣され、そこで学び、神は箱館で通訳として働いた。さらに弘前藩は英学修養の目的で、有能な若者を福沢塾に入社することになり、木村滝弥(文久元年1861)、工藤浅次郎(文久二年)、吉崎豊作(元治二年、1865)、佐藤弥六(慶応元年)などを江戸に送った。

 吉崎がいつまで福澤塾にいたかは不明であるが、明治元年には函館にいたようで、弘前に戻ると将来、英学が重要であることを藩に献策し、それが認められ、明治三年に給費制の英学寮を津軽直紀邸に設けて本格的な英語教育が始まった。吉崎はここの監督に任命された。ただこの英学寮も翌年四年一月には青森市の蓮心寺に移り、さらに七月には閉鎖されてしまう。その後、明治六年に東奥義塾が創立され、開設時のメンバーとして、計算掛に吉崎豊作の名が見える。英語を直接教える教師からは外されている。吉崎豊作は明治九年八月の函館に商船学校ができるが(函館商船学校)、ここに招かれ教えた。

 ここで、もう一人の吉崎姓の人がいる。吉崎源蔵といい、住まいは明治二年弘前絵図では大浦小路、須藤新吉郎の前に家にその名が見える。英学寮は廃藩置県とともに明治四年七月に消滅し、それを惜しいと考えた儒学者の葛西音弥が明治四年の九月に青森市に作ったのが青森学校四教塾である。青森市の寺町の正覚寺に塾舎をあて、葛西音弥、佐々木俊蔵、吉崎源蔵が皇漢学、英語を教えたとある。一年後には財政上の理由で廃止されたが、この佐々木俊蔵は、おそらく幕末に紙漉町で製紙業をしていた佐々木新蔵(紙漉座取扱)である可能性が高い。佐々木新蔵は旧名を今井屋俊蔵といい、兄は最初に述べた洋学を学んだ佐々木元俊で、弟は町人の今井家の養子に行き、再び戻ったのであろう。問題は、この吉崎源蔵が吉崎豊作と同一人物かということである。箱館の英語稽古所、慶応義塾で学び、弘前藩の英語寮で英語を教えた吉崎豊作が、青森市の四教塾で英語を教えるには一番適している。明治四年七月には吉崎豊作が英語寮にいて、明治四年九月には英語寮の後を継いだ四教塾に吉崎源蔵がいたというのは、吉崎という弘前ではそれほど多くないことから(明治二年弘前絵図では、吉崎源十郎、奥左衛門、源蔵、勇八の四軒)、どうやら吉崎豊作=源蔵の可能性が高いと考える。その後、吉崎は東奥義塾、函館の水産学校と職を変えた。

 吉崎豊作は、せめて青森県の人名事典に載せてもよい人物と思う。