2011年9月29日木曜日

山田兄弟39



 「新聞記事に見る青森県日記百年史」(東奥日報)に大正8年10月15日に行われた山田良政碑除幕式のことが書かれていたので、引用する。

 「30年前、第一次支那革命の際、殉死せる故山田良政氏の偉大な功績を永く後世に伝えんがため、孫文、犬養毅、頭山満、宮崎虎蔵(滔天)の諸子発起し、山田家の菩提寺なる弘前市新寺町貞昌寺境内に建碑工事中のところ、今日、竣工したるをもって、昨15日午前11時より除幕式を挙行したが、碑前には孫文の花輪はじめ造花、生花、数対供えられ、孫、唐の両氏の代理陳中孚、日本人発起人代表宮崎氏来臨し、山田家よりは母堂をはじめ故人の令弟清彦、純三郎の両氏、親族側は義弟の佐藤要一、菊地良一両代議士等臨席し、石郷岡市長、伊東、鳴海の両代議士、武田東奥日報社長、丸瀬市会議員、長尾前市長、藤田県会議員、その他地方有志者約百人参列するや、山田純三郎、佐藤要一の両氏碑前に進み、佐藤氏の愛嬢によって除幕さる。
碑は重さ約九尺の自然石にて、台石を合して丈余、孫文氏の筆刻左のごとく現る。 山田良政先生墓碑  略(碑文) 宮崎滔天氏直ちに碑前に進めて一揖(ゆう)したる後、発起人を代表してあいさつをなし、次いて僧侶の読経終わるや陳中孚氏は孫文、唐紹儀両氏の祭文を代読し、次いて佐藤要一氏は犬養氏の祭文を代読、それより棟方悌二、中村良之進両氏の祭文朗読、共鳴会代表藤田重太郎氏の祭文朗読、福島藤助氏の祭歌あり、次いて犬養、頭山両氏の電報報告ありて、遺族より順次焼香し、正午式を終われり」

 これを読むと、山田良政の弟(二男)清彦は、まだ日本にいた。一方、末の弟四男の山田四郎は、すでに渡米していたようだ。青森縣総覧(昭和3年発行)には明治33年以降のアメリカへの留学生を載せており、最初の方に山田四郎の名前が見られることから明治30年代には渡米した可能性がある。後に清彦も渡米するが、大正8年以降であろう。(よく見ると青森縣総覧には四郎の後の清彦の名も見え、四郎渡米後の早い時期に清彦も渡米したようだ。何かの事情で大正8年に帰国していた。)

 また孫文の片腕で、純三郎の友人である戴天仇が孫文に代理として大正5年7月19日に山田兄弟の父浩蔵の病気見舞に来た折の記事を引用する。

 「在上海の山田純三郎氏厳父浩蔵翁の病気見舞いのため、菊地良一氏は孫文の股肱たる戴伝賢氏を同伴し、18日午後3時半着列車して来青し、鍵屋旅館に休憩、即日午後4時10分発にて弘前に赴けり。戴氏は19日、弘前教育会、20日、青森教育会主催の諸講演、また弘前市長および有志は19日晩、酔月楼で青森市長および有志は20日赤十字支部でそれぞれ歓迎会を開いた。赤十字支部の招待会終了後、戴氏はかって上海で民権報を経営したることあることから東奥日報社を見学した。」

 酔月楼は、天明6年(1786)創業の弘前で最も古い料亭で、大正5年当時は元大工町の通りと親方町がぶつかるあたりにあった。大正9年に弘前中央病院横に移転し、名前も「なかさん」と変えた。うなぎのうまいところで何度か利用したが、今は富田に移転している。戴天仇(季陶)は日本大学にも留学した知日家で、日本のことをじつによく知っていた人物で、日本の軍国主義による中国と日本の関係を最後まで憂いた。日中の近代史においてもっと評価されてよい人物であろう。「孫文を支えた日本人 山田良政・純三郎兄弟」(武井義和著 愛知大学東亜同文書院ブックレット 2011)に、京都嵐山で遊ぶ、山田純三郎、戴季陶、陳其美の写真がある。戴が目隠しをし、山田が両手を広げて、その後ろに陳基美と5人の芸子さんが鬼ごっこをしている。山田、陳、戴は、気の許した仲のよい同士であったのであろう。

2011年9月17日土曜日

明治の和徳小学校



 千葉寿夫の「明治の小学校」を読みました。千葉先生は、朝陽橋たもとの今の鎌田屋煉瓦倉庫にあった千葉金商店の出で、弘前の学校史および郷土史の生き字引のような人でした。何度が講演を聞いた機会がありましたが、それこそ誰それの子が今はここに住んでいて、何をしているということまで何でも知っており、こういう人がいると図書館で何週間の探すようなことも聞くだけで一瞬でわかったと思います。

 明治7年に創立した弘前市立和徳小学校は、内の家内の出身校だけでなく、長女、次女もここに通っていましたので馴染み深い小学校です。この学校には開校以来の成績表など学校関係の資料がきれいに残っているため、明治、大正、昭和の小学校史を研究する先生方には有名な学校です。「明治の小学校」は主としてこの和徳小学校の資料を用いて研究したものですが、内容は千葉先生の教育論も随所におり込められ、おもしろい本となっています。例えば、明治初期、小学校に行く学生は主として士族と裕福な商人の子供に限られ、その中でも士族の子供が威張っていたので「お学校」と呼ばれていました。また学校運営は多少の政府の補助があったものの(10%以下)、基本的には生徒の授業料でまかなわれており、そのため、なかなか生徒が集まらなかったようです。そこで地区の有力者を学校掛という役職にさせ、脅しまがいのことをして、無理矢理小学校にいかせたようです。体育祭はそれこそ地区あげての大きな行事で、先生も気合いが入っていたようで、他校との対抗戦では、走っている子供の妨害をしたり、そのことが原因で先生同士の喧嘩さわぎがあったようです。熱い先生が多かったようです。

 この和徳小学校が最初どこにあったかというと、明治4年弘前絵図の和徳、御収納倉のところのようです。今の弘前第一中学の入口近くでしょう。「明治の小学校」では、「校舎 旧藩時代の弘前内には、津軽藩が所有する米倉が方々に建てられていたが、和徳小学はその米倉を無償に払い下げてもらい、玄関その他教員室、小使室を増築して校舎とした。このような旧藩時代の倉庫を校舎にした例は全国的にも多いと思う。建物の大きさは東西の長さが24間(約42m)巾4間(約8m)であった。改築のとき、倉庫両側の壁を切り取って、一間間隔に三尺(約1m)四方の紙障子を入れた。また倉庫内部を七つに区切って、それを教室とした。」となっています。明治四年弘前絵図では、和徳地区には和徳御収納倉と朝陽橋ふもとにも御収納倉二ヶ所、白米倉一ヶ所と二つの収納倉がありますが、おそらく前者のところに小学校ができたのでしょう。和徳小学校は明治31年に南横町の遊郭設置に伴い現在地に移転しましたが、旧小学校跡は地元では長い間、魚市場と言われていました。小学校移転に伴い、魚市場ができたとばかり思っていましたが、同書によれば、明治18年に校庭の内3191平方メートルを学校経費捻出のため25銭の賃料をもって弘前魚会社に貸し付けたようです。当時の規則では、魚市場ある地は健康に害する所として学校を建ててはいけないとされていたため、やむを得ず魚市場とせず、魚会社にしたようです。

 明治21年には学区民および教師の寄付により二階建て長さ二十四間、巾四間の西洋造の立派な校舎もできました。中でも学区民の自慢は玄関上が四層楼となっており、当時弘前では四階立ての建物がなかっただけに大評判になったようです。現在の和徳小学校も玄関上に同じような構造物があります。

 大正7年のイラスト図(下図)の魚市場のところをみると、旧米倉を利用した校舎や新校舎らしきものが描かれています。移転した後も、そのまま使われていた可能性があります。魚市場前には千葉寿夫先生の実家、千葉金商店が見えますし、明治四年弘前絵図ではこのあたりに水車があったようですし、和徳通りに面した空地は広小路と呼ばれていたようです。

2011年9月15日木曜日

八幡神社のおんぶお化け



 八幡神社の天狗の話を養生会の講演会でしたところ、出席者から八幡様には「おぼさりてぇ」の昔話があると聞いた。先日、弘前市立図書館で探していると「青森の昔話」という本に、この話が載っていたので少し省略して紹介する。

 「昔、八幡様の奥の院のかげの大杉の梢に「おぼさりてぇ」という化け物が住んでいた。夕方から夜中にかけて「おぼさりてぇ おぼさりてぇ」と叫んでいくので、町の人々はおそろしがっていた。ある意気地のない男が碁に負けて、その罰として「おぼさりてぇ」の正体を見に行くはめになった。 夜遅く子供を負う帯を一本もって、八幡様に出かけた。一の鳥居までくると、社殿の方で「おぼさりてぇ」とうなるような声がした。二の鳥居までくると前よりも高く聞こえた。男はおっかなくてぶるぶる震えた。三の鳥居までくるといよいよ高く聞こえる。男は魂もきえる思いで、八幡様を拝んで、「おぼさりてぇ」と叫ぶ声のする奥の院まで、足もしどろにやってきて、「それ程おぼさりてぇんだら おぼさらなが」と、ふるえ声で叫んで背中を向けた。すると杉の梢のあたりから、ガサガサと物音がして、のきりと背中におぼさったものがある。男は、持って行った帯でしかとおぼって、やっとの思いで家の庭先まで帰ってきて、「ここさおりろ」といったが庭におりない。茶の間にきて、「もうこごさおりろ」といったがおりない。奥の座敷へきてもおりない。床前さつれて行ったが、「こごさおりろ」と言ったらやっとおりた。男はあんまりおっかなくて、ふとんをかぶって寝てしまった。翌朝、男の妻が起きて床前を見ると、何か光るものがあるので「おどさま、おどさま、床前ネなんだが光物アえさね」というので男は刀をとって行ってみると、そこには大判小判が一杯だった。」
全く同じ話が、島根、岐阜、福島、山形など全国各地にある。

 この中に出てくる、三の鳥居は、熊野奥照神社手前のもので、また二の鳥居は八幡神社の入口にある鳥居であるが、一の鳥居は現在見当たらない。拝殿横の今は唐門に続く、横開きの扉のところに小さな三の鳥居があったのであろうか。さらに地主(じしゅ)堂というのが、唐門横にあったが、文字通りここ一帯の氏神様を祀ったものか、京都の地主神社の末社か不明である。御吉兆場というは、縁起のよいとされる鶉(うずら)をここで飼っていた。

 神楽殿横当たりには「高林 昔、天狗住みし」となっているが、上記昔話の「おぼさりてぇ」妖怪とは別物の天狗がいたようだ。ばくち打ちと天狗にまつわる昔話は大円寺に見られるが、未だ八幡神社の天狗についての話は知らない。一の鳥居から八幡神社までは200、300mあるが、江戸時代は比較的広い参道で、左右には最勝院はじめ大きな塔頭が並んでいたが、夜ともなると、長い塀が続き、話の通り寂しい通りであったろう。今でこそ夜でも明るいが、随分昔宮崎医科大学に勤務していた時、官舎のアパートから外に出ると、月が出ている時はまだしも、月が出ていない夜など、自分の足元も見えない暗さで、近所のビデオ屋に行くのも怖い思いをした。

*明治二年弘前絵図は、紀伊国屋書店のみで売っていますが、3か月でようやく60冊売れただけです。インターネット、医院での販売が30冊、計90冊が全販売数で、この前、紀伊国屋に納入した20冊と手元にある15冊で、販売終了となります。もう少しです。再販はしませんので、ご購入希望者は早めにご連絡ください。

2011年9月11日日曜日

和徳小学校の藤岡紫朗、忠仁


 こうしたブログや本を出していると、さまざまな方からメールやお手紙を頂戴する。その多くは自分の先祖についての情報を教えてほしいとものだが、残念ながらあまりお役に立っていない。先だっても、北海道に住む方から、メールをいただき自分の先祖が和徳に住んでいたということで、色々と調べたが、これといった情報も見いだせず、申し訳なかった。

 その折、たまたま私の長女、次女が和徳小学校に行っていた関係で、「和徳小学校百二十年記念誌」(弘前市立和徳小学校創立120周年記念事業協賛会 平成6年)という小冊が家にあった。この本には創立以来の全卒業生の氏名が載っており、上記の方の先祖の名前もそこに見いだすことができた。それ以外にも誰かいないかとざっと見ていると、明治21年度卒業のところに「藤岡紫郎」の名前が見つかった。以前のブログでも紹介した戦前アメリカで活躍したジャーナリスト「藤岡紫朗」に間違いない。

 ところが藤岡は明治12年生まれで、和徳小学校卒業当時の年齢は、何と9歳ということになる。当時の尋常小学校(4年)は数えの6歳、満で5歳からも入学できたようなので、早ければ9歳に卒業して、高等小学校2年間、その後、弘前中学校に進学したのであろう。弘前中学は最初青森市にでき、明治22年に弘前に移るが、藤岡はその次の年の明治23年に入学したのであろう。

 順調にいけば、弘前中学を卒業するのは明治27年か28年、15,6歳の時で、藤岡の履歴によれば、その後犬養毅のところに書生となり、早稲田大学に進むも、17歳のころにアメリカに渡米する。早稲田大学に1、2年ほど行ってから渡米したことになる。

 藤岡と犬養毅との接点は、おそらく郷土の先輩、陸羯南であったであろう。犬養と陸は同じジャーナリストであり、また中国への関心も高く、東亜同門会の創立にも絡んでおり、知己であった。郷土の秀才の上京への願いをかなえるべく、犬養に斡旋したのであろう。

 さらに名簿を調べていくと、明治32年度卒業生に藤岡健治、明治35年度卒業生に藤岡さだ、明治38年卒業生に藤岡忠仁の名前が見られる。いずれも兄弟であろう。藤岡紫朗とは全く関係はなさそうである。このうち、藤岡忠仁は、1896年、明治29年生まれ、1919年に東京帝国大学工学部応用化学科を卒業し、戦前は京城帝国大学理工学部応用化学科主任教授、戦後は慶應義塾大学工学部応用化学科主任教授を務めた。戦後の慶應義塾大学工学部の復興に尽力した人物である。
(http://echem.applc.keio.ac.jp/history/fujioka.html)

 この藤岡忠仁は和徳小学校始まって以来の天才で、特に算数の才能はずば抜けており、その担任教師が自分の生徒がなぜこれほど勉強ができるか、文にして著したほどである。指物師の下級の家に生まれたが、その才をおしみ、教育費を出してくれるものがおり、高等小学校、弘前中学を卒業後は援助を断り、苦労して一高、東大と進んだ。

 弘前市立朝陽小学校、時敏小学校は、弘前の多くの偉人を輩出しているところで、また大成小学校も多くの軍人がここを卒業している。一方、和徳小学校は商家、農家が多かったことから、残念ながらこれといった人物はいなかった。今回、少なくとも藤岡紫朗、藤岡忠仁の二人の人物が卒業したことがわかった。

2011年9月9日金曜日

慈雨の音


 宮本輝さんの新著「慈雨の音 流転の海 第六部」(新潮社)が発刊されたので、早速購入し、読みました。こういった長編ものは、一気に読まないと前の設定が途中まで思い出せず、困ります。第五部の「花の回廊」が出されて4年ほど経つと思います。

 舞台は尼崎市東難波町から大阪の福島区に移ります。時代は昭和34年頃で、ちょうど少年マガジンが創刊された頃で、戦後の混乱期からようやく高度成長期に入ろうとする頃です。皇太子ご成婚もあり、テレビや冷蔵庫、洗濯機が普及し、それこそ毎日、少しずつ豊かになった実感がもてる時代でした。それでもまだまだ戦争を体験した人々が社会の中心の時代でしたから、戦争の記憶は生々しい時代だったと思います。

 舞台の大阪福島区というのは、梅田という中心部からは極めて近い距離にありながら、地元でもあまり知られていない所で、尼崎に住んでいた私にとっては、阪神電車の急行で行く場合、野田、梅田と止まるわけですが、その通過点という存在です。神崎川、淀川を超え、梅田までの風景が福島区で、多くの工場が密集しているところですが、一方戦災を免れたところも多く、古い大阪の町並みが残ったところです。

 内容は新刊ですので、あまり書けませんが、伸仁くんも思春期をむかえ、親に反発するようになってきます。一方、熊吾も年をとり、さびしいことですが、荒々しさが減ってくると同時に、来るべき死への気配を感じさせます。あたり前ですが、親が死に、子が死に、孫が死ぬのです。熊吾もこういった真実は実感している故に、まして年取ってからできた子供だけに、より一層子供の一刻も早い成長を願っています。いじらしいほどです。

 こういった自叙伝的な小説を書く場合、作者は子供のころの気持ちと向き合うと同時に、親の年齢になった今の自分から親の気持ちを汲み取る作業が必要になってきます。かなり難しいでしょうが、一方、あの時、どうして親の気持ちがわからなかったかという悔いもでてくるでしょう。特に独特な愛情表現を示す熊吾のような父親の気持ちを推し量るためには、長い年月が必要でしょう。むしろ母親と接する機会の多い子供は、母親の気持ちは若いうちからわかるものですが、あまり接触の少ない父親の考えは、仕事をし、家庭を持ち、ようやく気づくものでしょう。わたしもよく次女と私の関係が、父と私の年回りと同じなので、小学生のころ、父親は自分のことをこう見ていたんだと今になってわかることが度々あります。廻りの人々、父、母、友人、親類の慈悲に満ちた暖かい眼差しに、ようやく気づくには遅すぎるかもしれませんが、それが亡くなった人々への鎮魂に繋がっていくのでしょう。

 この作品でもそうですが、宮本さんは、例えば昭和36年というきわめて限定された時代の雰囲気を非常にうまく表す作家だと言えます。大阪万博以降はそれほど世の中の雰囲気に変わりはありませんが、昭和20年、25年、30年、35年という時代は、それぞれ独特の雰囲気があったと思われますが、それを小説という枠の中でうまく表現するのは非常に難しく、作者の力量が出てきます。

 ネタばらしで申し訳ありませんが、伸仁くんは近医の小谷医師から毎日栄養注射を受けるシーンがあります。若い人にはわからないと思いますが、実は今のように誰もが健康保険で治療を受けられるようになったのは昭和36年からで、それまでは基本的には治療を受けるのは自費で高額な費用がかかっていました。またこういった栄養注射のような胡散くさいものをこれ以降は使ってはいけないことになります。うちは歯医者をしていましたが、国民皆保険施行前はそれほど患者さんもおらず、患者さんはどうにも我慢できない状態になって初めて歯科医院に来るのが普通でした。伸仁くんも中学になると歯磨きに目覚めますが、たぶん尼崎の蘭月ビルにいた当時は一番近い歯医者は繁益(はんやく)歯科か私のところ広瀬歯科でしょうが、子供の場合、多分ムシ歯があってももったいなくて治療はしなかったと思いますが、伸仁くんはどうだったでしょうか。うちの父は昭和16年から満州、戦後はモスクワ捕虜収容所と、繁益先生は昭和18年からラバウル航空隊に行った生き残りで、どちらも子供にとっては怖かったでしょう。ましてや医者の多くは軍医上がりで、隣の牧先生など戦地で麻酔なしで手術をしてきたからメスさばきがうまいと言われて、その評判で患者さんがたくさん来たようです。今の医師と違い、戦地で修羅場を経験した先生も多く、それだけ小谷先生のような人情味あふれた先生も多くいたのでしょう。

2011年9月7日水曜日

ワールドカップ ラグビー


 いよいよラグビーのワールドカップがニュージーランドで開催されます。サッカーに比べてラグビーは全く脚光を浴びませんが、今回の日本代表チームは少し期待できます。掟破りと言える多数の外国人選手をチームに入れることで、体力面での海外チームとの開きはだいぶカバーしています。うまくいけば2勝ができるかもしれませんし、番狂わせでフランスに勝てば決勝トーナメントにいけるかもしれません。

 私自身はサッカーを長いことしていましたので、当然サッカーの方が好きですが、いざ観戦となると、サッカーはあまりスピーディで、とくにワールドカップの予選などは具合が悪くなるため、見ません。結果がわかってから見る方です。一方、ラグビーはめまぐるしくなく、それでいて選手の精神力が発揮されるため好きです。ただテレビでの放送が極端に少なく、見る機会が限られるのが残念です。

 私のいとこ、といってもすでに65歳くらいですが、同志社、近鉄でラグビーをしていました。チームの同僚にはニュージランドでも活躍した坂田選手や巨漢小笠原、豊田選手もいて、近鉄の黄金期のメンバーです。日本代表にも確か2、3回か選ばれました。サクラをイメージしたユニフォームが家に飾っていました。伯父さんも大阪府ラグビー協会の副会長でしたので、2度ほど花園ラグビー場に連れて行ってもらいました。そのうちのひとつは確か、ニュージランド学生選抜と近鉄あるいは全日本の試合でした。当時の全日本のメンバーの多数は近鉄の選手でしたから。伯父さんに連れられ、フィールドの中を通って、反対側の観覧席に連れていってもらった記憶があり、いとこのターちゃんはこの試合では絶好調で、3本のゴールキックを決めました。その頃の、ゴールキックは今と違い、ボールにたいしてまっすぐに後ろに下がり、足の先、トーキックで蹴っていました。

 今まで見たラグビーの試合で最も印象に残る試合は、1983年の全日本とウェールズ戦です。当時、ウェールズは世界最強で、そのホームグランドで試合が行われました。最初、ウェールズの猛攻が続き、点差が開いていき、もうこれまでと思いましたが、後半全日本闘志むき出しのがんばりで点差を縮めていきます。私の最も好きなラガーマン林敏之のプレーには涙がでてきます(長谷川のおじちゃんの発明した白のヘッドキャップをいつも被っていました)。特にうれしかったのが、ウェールズのラグビーファンで、最後には日本のがんばりにあたかも自分のチームを応援するようになってきます。残念ながら試合には敗れましたが、伝説の一戦です。当時のラグビーはアマチュアのスポーツでイングランド、ニュージーランド、ウェールズのメンバーの中にも、医者や弁護士、消防士などさまざまな人物がいましたし、ノーサイドの言葉通り、観客も選手もとても紳士的でした。

 さて今年のワールドカップは何とか、いい成績を残し、ラグビー界の活性化になってほしいと思います。

2011年9月4日日曜日

旧岩田家住居




 今日は、台風に伴うフェーン現象で異常に暑かったが、若党町の旧岩田家住宅を訪問した。この旧岩田家住宅は、江戸時代の下級—中級の武士の住まいを現在に残した貴重なもので、江戸時代の若党町、小人町はこれと同じような家が続いていたと思われる。玄関から入ると小さな庭があり、家の裏には畑や柿、梅などの木が植えられていたのであろう。家は8畳の間が3つと6畳の物置、4畳の広間、8畳の台所と土間の計50畳、その他も合わせるとおおよそ30坪の茅葺き屋根の平屋である。

 当時の弘前藩の住宅の大きさは禄高で大体決まっており、200石で50坪、150石で40坪、100石で30坪、50石では25坪、50石以下では25坪以下となっていた。これはあくまで目安であり、建築時の当主の家禄によって変わってくる。岩田家住宅の場合は25坪であるので、100石から150石の家禄であったようだ。

 邸内にあった岩田家の家系図によれば5代、6代では300石の家禄であったが、8代あたりから家禄は不明で、明治2年当時の戸主の岩田平吉は御馬廻番頭格御祐筆、5両1人扶持、西洋砲術師範なっている。この役目の家禄がどの程度なのかは不明であるが、300石の家禄には届かなかったであろう。

 明治二年弘前絵図を見ると、岩田平吉の住まいは、現在の岩田家住宅より小人町寄りにあったようで、今の旧岩田家住宅は、近藤祐斉という人の住宅であった。近くには近藤栄三郎、近藤十之進という名前も見られ、親族であろう。あくまで地図上の間口での比較ではあるが、元々の岩田家よりは今の旧岩田家住宅の方が地所は広い。

 岩田平吉は、江川塾で砲術を学んだ秀才で、明治政府もその才能と知識を新政府で活用したかったのであろう。明治5年に海軍省造船局砲器科に務めた。明治初期の海軍については所有艦船も少なく、ここで平吉がどんな研究を行ったかは不明であるが、この時期に東京に行ったのは間違いない。明治4年士族引越之際地図においては転居印の△がついており、明治の早い時期に岩田家は小人町の家を引き払ったようである。明治5年当時、平吉は53歳で、その後いつまで海軍に務めたかはわからないが、明治20年代には弘前に戻り、明治28年に死去した。弘前に帰って来た折に、以前の家の近くの今の旧岩田家住宅を購入したのであろう。あるいは親類がここに住んでいた可能性もある。

 ちなみに旧岩田家住宅の案内の方と長らくお話させていただいたが、現在の岩田家当主によれば、岩田家の場所はずっとこの場所であったとのことであった。3、4代前となると記憶も曖昧になるが、旧岩田家住宅でいただいたパンフレットには、建物は200年前のものだが、岩田家が入居したのは明治時代と書かれており、明治二年弘前絵図からの所見と一致する。

 小人町の座頭町の前当たりに、岩川茂右衛門の名前が見られる。今東光研究家の矢野隆司さんの研究によれば、小説家の今東光の祖父今文之助の妻也佐は、岩川茂右衛門の姉だったようで、この小人町の岩川家は祖母の実家ということになる。今文之助は明治8年に、也佐は明治19年にコレラで亡くなっているため、今東光自身は祖父、祖母の思い出はない。