2011年9月29日木曜日
山田兄弟39
「新聞記事に見る青森県日記百年史」(東奥日報)に大正8年10月15日に行われた山田良政碑除幕式のことが書かれていたので、引用する。
「30年前、第一次支那革命の際、殉死せる故山田良政氏の偉大な功績を永く後世に伝えんがため、孫文、犬養毅、頭山満、宮崎虎蔵(滔天)の諸子発起し、山田家の菩提寺なる弘前市新寺町貞昌寺境内に建碑工事中のところ、今日、竣工したるをもって、昨15日午前11時より除幕式を挙行したが、碑前には孫文の花輪はじめ造花、生花、数対供えられ、孫、唐の両氏の代理陳中孚、日本人発起人代表宮崎氏来臨し、山田家よりは母堂をはじめ故人の令弟清彦、純三郎の両氏、親族側は義弟の佐藤要一、菊地良一両代議士等臨席し、石郷岡市長、伊東、鳴海の両代議士、武田東奥日報社長、丸瀬市会議員、長尾前市長、藤田県会議員、その他地方有志者約百人参列するや、山田純三郎、佐藤要一の両氏碑前に進み、佐藤氏の愛嬢によって除幕さる。
碑は重さ約九尺の自然石にて、台石を合して丈余、孫文氏の筆刻左のごとく現る。 山田良政先生墓碑 略(碑文) 宮崎滔天氏直ちに碑前に進めて一揖(ゆう)したる後、発起人を代表してあいさつをなし、次いて僧侶の読経終わるや陳中孚氏は孫文、唐紹儀両氏の祭文を代読し、次いて佐藤要一氏は犬養氏の祭文を代読、それより棟方悌二、中村良之進両氏の祭文朗読、共鳴会代表藤田重太郎氏の祭文朗読、福島藤助氏の祭歌あり、次いて犬養、頭山両氏の電報報告ありて、遺族より順次焼香し、正午式を終われり」
これを読むと、山田良政の弟(二男)清彦は、まだ日本にいた。一方、末の弟四男の山田四郎は、すでに渡米していたようだ。青森縣総覧(昭和3年発行)には明治33年以降のアメリカへの留学生を載せており、最初の方に山田四郎の名前が見られることから明治30年代には渡米した可能性がある。後に清彦も渡米するが、大正8年以降であろう。(よく見ると青森縣総覧には四郎の後の清彦の名も見え、四郎渡米後の早い時期に清彦も渡米したようだ。何かの事情で大正8年に帰国していた。)
また孫文の片腕で、純三郎の友人である戴天仇が孫文に代理として大正5年7月19日に山田兄弟の父浩蔵の病気見舞に来た折の記事を引用する。
「在上海の山田純三郎氏厳父浩蔵翁の病気見舞いのため、菊地良一氏は孫文の股肱たる戴伝賢氏を同伴し、18日午後3時半着列車して来青し、鍵屋旅館に休憩、即日午後4時10分発にて弘前に赴けり。戴氏は19日、弘前教育会、20日、青森教育会主催の諸講演、また弘前市長および有志は19日晩、酔月楼で青森市長および有志は20日赤十字支部でそれぞれ歓迎会を開いた。赤十字支部の招待会終了後、戴氏はかって上海で民権報を経営したることあることから東奥日報社を見学した。」
酔月楼は、天明6年(1786)創業の弘前で最も古い料亭で、大正5年当時は元大工町の通りと親方町がぶつかるあたりにあった。大正9年に弘前中央病院横に移転し、名前も「なかさん」と変えた。うなぎのうまいところで何度か利用したが、今は富田に移転している。戴天仇(季陶)は日本大学にも留学した知日家で、日本のことをじつによく知っていた人物で、日本の軍国主義による中国と日本の関係を最後まで憂いた。日中の近代史においてもっと評価されてよい人物であろう。「孫文を支えた日本人 山田良政・純三郎兄弟」(武井義和著 愛知大学東亜同文書院ブックレット 2011)に、京都嵐山で遊ぶ、山田純三郎、戴季陶、陳其美の写真がある。戴が目隠しをし、山田が両手を広げて、その後ろに陳基美と5人の芸子さんが鬼ごっこをしている。山田、陳、戴は、気の許した仲のよい同士であったのであろう。
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