2011年9月9日金曜日
慈雨の音
宮本輝さんの新著「慈雨の音 流転の海 第六部」(新潮社)が発刊されたので、早速購入し、読みました。こういった長編ものは、一気に読まないと前の設定が途中まで思い出せず、困ります。第五部の「花の回廊」が出されて4年ほど経つと思います。
舞台は尼崎市東難波町から大阪の福島区に移ります。時代は昭和34年頃で、ちょうど少年マガジンが創刊された頃で、戦後の混乱期からようやく高度成長期に入ろうとする頃です。皇太子ご成婚もあり、テレビや冷蔵庫、洗濯機が普及し、それこそ毎日、少しずつ豊かになった実感がもてる時代でした。それでもまだまだ戦争を体験した人々が社会の中心の時代でしたから、戦争の記憶は生々しい時代だったと思います。
舞台の大阪福島区というのは、梅田という中心部からは極めて近い距離にありながら、地元でもあまり知られていない所で、尼崎に住んでいた私にとっては、阪神電車の急行で行く場合、野田、梅田と止まるわけですが、その通過点という存在です。神崎川、淀川を超え、梅田までの風景が福島区で、多くの工場が密集しているところですが、一方戦災を免れたところも多く、古い大阪の町並みが残ったところです。
内容は新刊ですので、あまり書けませんが、伸仁くんも思春期をむかえ、親に反発するようになってきます。一方、熊吾も年をとり、さびしいことですが、荒々しさが減ってくると同時に、来るべき死への気配を感じさせます。あたり前ですが、親が死に、子が死に、孫が死ぬのです。熊吾もこういった真実は実感している故に、まして年取ってからできた子供だけに、より一層子供の一刻も早い成長を願っています。いじらしいほどです。
こういった自叙伝的な小説を書く場合、作者は子供のころの気持ちと向き合うと同時に、親の年齢になった今の自分から親の気持ちを汲み取る作業が必要になってきます。かなり難しいでしょうが、一方、あの時、どうして親の気持ちがわからなかったかという悔いもでてくるでしょう。特に独特な愛情表現を示す熊吾のような父親の気持ちを推し量るためには、長い年月が必要でしょう。むしろ母親と接する機会の多い子供は、母親の気持ちは若いうちからわかるものですが、あまり接触の少ない父親の考えは、仕事をし、家庭を持ち、ようやく気づくものでしょう。わたしもよく次女と私の関係が、父と私の年回りと同じなので、小学生のころ、父親は自分のことをこう見ていたんだと今になってわかることが度々あります。廻りの人々、父、母、友人、親類の慈悲に満ちた暖かい眼差しに、ようやく気づくには遅すぎるかもしれませんが、それが亡くなった人々への鎮魂に繋がっていくのでしょう。
この作品でもそうですが、宮本さんは、例えば昭和36年というきわめて限定された時代の雰囲気を非常にうまく表す作家だと言えます。大阪万博以降はそれほど世の中の雰囲気に変わりはありませんが、昭和20年、25年、30年、35年という時代は、それぞれ独特の雰囲気があったと思われますが、それを小説という枠の中でうまく表現するのは非常に難しく、作者の力量が出てきます。
ネタばらしで申し訳ありませんが、伸仁くんは近医の小谷医師から毎日栄養注射を受けるシーンがあります。若い人にはわからないと思いますが、実は今のように誰もが健康保険で治療を受けられるようになったのは昭和36年からで、それまでは基本的には治療を受けるのは自費で高額な費用がかかっていました。またこういった栄養注射のような胡散くさいものをこれ以降は使ってはいけないことになります。うちは歯医者をしていましたが、国民皆保険施行前はそれほど患者さんもおらず、患者さんはどうにも我慢できない状態になって初めて歯科医院に来るのが普通でした。伸仁くんも中学になると歯磨きに目覚めますが、たぶん尼崎の蘭月ビルにいた当時は一番近い歯医者は繁益(はんやく)歯科か私のところ広瀬歯科でしょうが、子供の場合、多分ムシ歯があってももったいなくて治療はしなかったと思いますが、伸仁くんはどうだったでしょうか。うちの父は昭和16年から満州、戦後はモスクワ捕虜収容所と、繁益先生は昭和18年からラバウル航空隊に行った生き残りで、どちらも子供にとっては怖かったでしょう。ましてや医者の多くは軍医上がりで、隣の牧先生など戦地で麻酔なしで手術をしてきたからメスさばきがうまいと言われて、その評判で患者さんがたくさん来たようです。今の医師と違い、戦地で修羅場を経験した先生も多く、それだけ小谷先生のような人情味あふれた先生も多くいたのでしょう。
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