2009年7月25日土曜日

藤田謙一3




 弘前商工会議所により昭和63年に発刊された「藤田謙一」を読む。

 伝記なので、当然藤田謙一の生涯を称賛したものであるが、もうひとつ歯切れが悪い。確かに多くの寄付を行い、津軽の発展に貢献したことは間違いないのだが、藤田を知る人々にとってもあまりよくわからない人物であったようである。自分の子どもさえも、父親は忙しく、あまり会うことはなく、晩年になるまでどんな考えをしているか十分にわからなかったようだし、後年、精力を傾けた育英事業による学生も、貧しい環境で高等教育を受けられた恩恵を感謝するものの、藤田そのものとの接触は少なく、追悼文においても藤田の人間性に触れるものは少ない。

 藤田は大正、昭和期の成金との評価もあり、一代で巨万の富を築き、冤罪といってもいい事件で一気に転落した人生は成金の典型的な例であろう。貴族院の選挙では今で言う数億円の金をばらまくなど、会社経営や事業などでもかなり強引な方法をとったものと思われるし、敵も多かったようだ。貴族院選挙中、友人に「胡座で金を使わず一票頂けるのは貴兄位のものだ」開口一番の挨拶でいい、一票今の1000万円で買い回るやり方は褒められたものではない。選挙の競争相手に「この藤田と在ゴのアンサマ達を対手の駆け引きする心算では話しにナランヨ」と平気に言い放つ藤田の無神経さは、金をもらうのはありがたいが、それほど感謝しない人も弘前に多かったと思われる。藤田が寄贈した弘前公会堂も昭和32年には取り壊されることになった。商工会議所から壊さないで保存してほしいとの要望もあったが、それほど大きな声にならなかったのは藤田のこういった性格によるかもしれない。名前が残る藤田記念庭園にしても、藤田が亡くなった後、弘前相銀の唐牛氏に売却され、その後弘前市に売られたもので、藤田が市に寄贈したものではない。

 孫文への援助や内モンゴルの徳王への支援なども、かなり軍部や政府の意向に沿うもので、金銭的、生活的援助など以外はあまり濃厚な関係はなさそうであり、昭和14年に発行された藤田著の「世界平和への道」でも当時の帝国主義的な考えから抜け出していない。さらにモンゴルの徳王の支援やその子トガルソロン王を自宅に居住させ、モンゴルの民族主義に共感したとされるが、近著「ノモンハン戦争 モンゴルと満州国」(田中克彦 岩波新書)で述べられているような外モンゴルと内モンゴル、ソ連との関連などの複雑な民族状況を当時理解しているとは言えない。同じように中国問題にしても汪兆銘政府を支持しており、あくまで政府、軍部の見解を超えるものでない。

 「われわれは他者の人生に意味を与えることはできませんーわれわれが彼に与えることのできるもの、人生の旅の餞として彼に与えることができるもの、それはただひとつ、実例、つまりわれわれのまるごと存在という実例だけであります。というのは、人間の苦悩、人間の人生の究極的意味への問いに対しては、もはや知的な答えはあり得ず、ただ実存的な答えしかあり得ないからです。われわれは言葉で答えるのではなく、われわれの現存在そのものが答えです。」(ヴィクトル・フランケル 「意味への意志」、 宮本輝著「骸骨ビルの庭」から孫引き この本の最後の方で私の好きな弘前の地酒「豊盃ほうはい」がまるやかでうまいとの記述があります。)

藤田は確かに偉大な事業家で、金持ちだったが、その心、精神の師を幼少期、青年期の持たなかったのが不幸であったかもしれないし、藤田自身も師とはなれなかったようだ。どうも藤田謙一という人物は好きになれない。

2009年7月21日火曜日

鹿児島県十島村



 皆既日食がきれいに見える所として、鹿児島県十島村のことが新聞やニュースで取り上げられています。皆既日食を見るツアーが20万円以上するため、ツアー客以外のひとが島にやってきて、住人が困っているとのことです。

 十島村は、口之島、中之島、諏訪之瀬島、悪石島、平島、宝島、小宝島の7つの有人の島と臥蛇島などの無人島から成っています。村の役場は、鹿児島市にあり、週一便の村営の「十島丸」が鹿児島市から各島を結び、奄美大島にいくようになっています。

 もう20年以上前になりますが、鹿児島大学歯学部附属病院の巡回診療で、この十島村に2年ほど行く機会に恵まれました。年4回ほどだったと思いますが、一週間ほどかけて、村営のモータボートのような小さな船に器材を積んで、各島を廻っていきます。南シナ海は外洋で、こんな小さな船では揺れて、揺れて、船酔いには難儀しました。大きな波に突っ込むたびに、運転室のプロペラのように羽が回転する円形の窓からしか外が見えなくなります。それでも、そのうち慣れ、大型の客船の十島丸に乗ると、全く酔わなくなりました。

 携帯用の歯科用のユニット、コンプレッサー、といっても合わせて30kg以上ありますが、その他の診療器材を船からおろし、島の診療室まで運び、そこで臨時の歯科診療所を開設します。何時間も船で揺られているため、陸に降りても、なんだか足がふわふわします。まず小中学校の生徒が検診にきます。本土の学校検診と違い、虫歯があればその場で治療です。生徒たちにとっては恐怖の時間だったでしょう。検診終了後に、残された虫歯のある子どもたちの治療が始まります。根っこの治療は一日ではできませんので、初期の虫歯の治療か抜歯です。その後は一般住民の診察ですが、多くは抜歯か、入れ歯の調整です。たまには痛みをこらえて何週間もたち、膿みでパンパンになった患者さんが来ますが、切開して拝膿すると痛みがあっという間になくなり、神様扱いされます。お腹が痛い、鉈で手を切った、ヤギが死にかけている、といった歯科の範疇でない患者さんも来ますが、島の看護士で処置が無理なら鹿屋基地からヘリコプターを呼びます。

 島での生活は、本土からの船便が生命線で、台風などで船が欠航すると、とたんに生活品が不足していきます。一度ある島で1週間かんづめになったことがあります。私と看護士さん、村役場のひとが一緒に民宿に泊まるのですが、この時は、3,4日でこれが島でかき集めた最後のビール、5,6日で最後の焼酎といって役場のひとが島中から酒をかき集めてくれました。食料は各家で大型の冷凍庫があるため、これくらいでは無くなりませんが、嗜好品から無くなっていきます。やぎは野生のもいて、一度ヤギ狩りにもつれて行ってもらいましたが、岩山に村民で追いつめて、捕まえます。やぎやぶたは村で屠殺されますが、血が内蔵に入ると食べられないため、首の後ろの動脈をナイフで刺し、血抜きをして殺します。その晩のおかずにとれたての豚汁、トンカツとしてでてきますが、さすがに食欲はわきません。

 日本の義務教育のすごいところは、こういった島でも教育の機会均等が徹底しています。当時、小宝島に就学を控える子どもが1名いました。隣島の宝島で下宿する方法もあるのですが、小学1年生から親元を離れるのが、かわいそうだということで、廃校になっていた小学校をきれいにして新たな小学校ができました。先生一人とその子ども2人が鹿児島市からやってきて、都合3名の小学校ができました。そのころは人口20名くらいでしたが、今は2倍くらいになっているようです。島の子どもたちは、人数が少ないため、教師と生徒がほぼマンツーマン教育で、落ちこぼれはいません。そのため、高校は鹿児島市の進学校に行く生徒を多いのですが、競争心がないため、苦労するようです。

 今回の皆既日食騒ぎで十島村も全国的に脚光を浴びていますが、騒ぎも過ぎると再び平和な状況に戻ることでしょう。何しろ、交通の便が船便、それも週一回しかないため、1,2週間予定が狂っても大丈夫なひとしか、ここには観光にもいけず、そういった意味でも秘境と言えるでしょう。鹿児島市の人たちもほとんど行ったことのない所です。

2009年7月16日木曜日

ローリー族のキリム




 ローリー族は、Lori,Luri,.lurと色々と表記されますが、イラン、西部から南西部に遊牧する民族です。紀元前7から8世紀のルリスタンブロンズと呼ばれる古い青銅製のブロンズ像、主として動物をモチーフにしたものが発掘され、有名ですが、イランの最も古い部族と考えられ、現在、300万人くらいいると思われます。イランでもかなり独立して集団でしたが、1940年以降は次第に国家集団に統合されていきます。

 ここのキリム、絨毯は、地面に杭を打った単純な水平の織り機で編まれます。古い写真を見ると、炎天下の野外で実に素朴な織り機でお母さん、おばあさん、子どもが羊、ヤギの粗い毛で編んでいます。塩を入れるバッグやサドルバックなどはかなり緻密に編まれており、じつにおしゃれですし、また絨毯も動物の独特なモチーフがあっておもしろいデザインです。

 私が12年前に初めて買ったキリムが、このローリー族のキリムです。250cmくらいの大きなもので、2枚を真ん中で合わせられています。ボーダーはチューリップ模様で、グランドは茶色で6つの大きなダイヤモンドが配置されています。

 ローリー族のキリムとカジュガイ族のキリムの鑑別は非常に難しく、このキリムがローリー族のものかは確定できません。この分野の第一人者のアートコアの竹原さんが言うのだからそうでしょう。鑑別点としては縦糸、横糸ともカシュガイに比べてヤギの糸が使われ、フリンジ部で見分けがつくとも言われていますが、このキリムはそうでもありません。色使いが少なく、色もdull(くすんだ)という言葉がよくでます。また糸もカシュガイに比べて粗く、太いため、どっしりしているようです。カシュガイの女の人たちはおしゃれで原色のスカートやスカーフをつけ、キリムも黄色や青などのカラフルな色使いをしますが、このキリムは白のコントラストがモダンですが、黄色もどちらといえば黄土色で、そういった点ではDullな色使いでローリーと言えるのかもしれません。両端のダイモンドを途中でぶっ切れており、グランドにある小さな模様もばらばらです。こういった点もローリーらしい感じがします。おそらく1950年ころのものと思われます。

 このキリムの好きな点は、土のイメージを感じさせ、とくに冬場、外に雪が積もっている時などは、じつに暖かい感じがします。イランの灼熱の暑さが放熱しているようです。イランの奥地で60年も前に遊牧民により作られたキリムがいったいどういった変遷により、日本の最北の青森にたどり着いたのかは、キリムに聞いてみないとわかりません。実にロマンチックな想いがします。

 一時は、キリムも日本でも流行りましたが、最近では元にもどった感じがします。キリムや絨毯を敷くと、生活感がでて居心地がよくなる反面、シンプルな空間を求めるひとの好みには合わないようです。日本の建築家は、どちらかというときれいで、美しい空間を設計する傾向があるようです。何にもない空間にシンプルな家具を配置するような写真がインテリア雑誌や建築雑誌に出ていますが、いったいどこでテレビをみて、スナック菓子を食べ、本を読むのか、見当がつかず、まるでショールームのようで生活感が感じられません。住み心地のいい家というと、白洲正子の家を思い出しますが、古い家具や骨董品が飾られているとともに、床にはキリムが敷かれています。

2009年7月12日日曜日

敷設艦「津軽」





 フジミから1/700の敷設艦「津軽」が販売されたので、早速近くの模型屋で買ってきました。前から津軽と名のつくこの艦船には興味があり、ドイツのNavis-Neptunから出ている1/1250スケール艦船モデルにtsugaruがあることを知り、渋谷のポストホビーに行ってきましたが、あいにく売り切れでした。

 ほとんど素組みで作りました。艦船の模型を作ったのが小学校以来なので、部品は無くすは、合いが悪いはで相当手こずりました。特にエッチングパーツは初めての経験のため、瞬間接着剤の扱いに難儀しました。

 敷設艦「津軽」は、昭和16年に完成した最新艦で、太平洋戦争開戦と同時に南方海域の作戦に参加しました。戦局が悪くなるにつれ、制海、制空権のない状態で、むしろ輸送の任務に当たることが多かったようです。元々、設計段階でも航空燃料や弾薬を運ぶような構造になっており、駆逐艦などに比べて運輸量も多かったと思います。本来の機雷投下以外にも高射砲や後には爆雷投下もできるようになっており、航空機や潜水艦の攻撃にも単艦である程度対処できるようになっていました。そのため非常に重宝され、多くの作戦に参加し、ガダルカナル作戦では食料、兵器の輸送や傷病兵の収容にも活躍しました。何度かの飛行機、潜水艦による被害にも、その都度修理しながら耐え、作戦を継続しました。しかしニューギニアビアク島への兵員、物資の輸送中に米潜水艦ダーターの雷撃に会い、艦首部に被雷し、かろうじて最寄りの港に入るも、本格的な修理のためフィリッピンに回航中に再び米潜水艦ダーターに攻撃され、昭和19年6月29日に沈没しました。敷設艦という裏方の地味な存在でしたが、戦艦などの華やかな艦船以上に十分に活躍したと思います。

 軍艦津軽の墓石と墓碑銘は弘前城の中にある護国神社にあります。護国神社には戊辰戦争、日清戦争などの古い碑がありますが、そのなかで最も新しいもので、神社入ってすぐ左のところにあります。私が行った日にも墓石には新しい献花があり、誰か遺族の方がお参りに来たのでしょう。

 護国神社には春の桜祭り、秋の約1500個のちょうちんを掲げる「献燈みたままつり」には多くの人々が集まります。船員にとって海が見えないのは残念かもしれませんが、艦名の由来の津軽の地で多くの人々がにぎやかに集まる姿を見ることは、陽気な船乗りにとって供養になるのかもしれません。ご冥福をお祈ります。

2009年7月10日金曜日

傷はぜったい消毒するな


 前回に続いて歯科における感染対策について考えてみます。「傷はぜったい消毒するな」(光文社新書 夏井睦)は、非常におもしろい本で、既存の医療に攻撃的な論調ですが、内容は説得力があります。著者は、形成外科医で履歴から私とほぼ同年齢で、歯学部の口蓋裂診療班で接触があったかもしれません。傷は乾燥させない、消毒するとかえって傷の治りを遅らせることを具体的な例を挙げて説明しています。皮膚の細胞は乾燥に弱く、従来のかさぶたを早く作るためにせっせとガーゼを替えることはかえって治癒を遅らせ、また消毒剤は細菌を変性させて殺すだけでなく、修復に必要な細胞も殺し、これも治癒を遅らせる原因となっているとしています。また、皮膚には常在菌があるため、いくら皮膚を消毒しても、毛根内ある細菌を殺すことは熱湯に皮膚をつけるかしないと無理で、そういった試みはナンセンスとしています。注射する際にアルコール綿で皮膚をふいてから注射をしますが、アルコールでふいても一瞬は消毒できても結局は皮膚を消毒することはできず、全く意味がないとしていますし、現に水でふくのと結果はかわらないようです。

 著書やホームページ上で、汚い例として挙げられる場所として肛門と口が出てきます。おしりをふくのに滅菌したトイレットペーパを使う無意味さやインプラント手術のためにクリーンルームを自慢する歯科医を笑っています。
「要するに口腔内の手術は大腸と同じで,どう頑張っても無菌にはできないのだ。クリーンルームにおいてもウンコは細菌だらけであるのと同様,クリーンルームでの患者の口の中は細菌だらけなのである。要するにこれは「クリーンルームを使っていますよ」という見せ掛けのポーズに過ぎないと思う。」

夏井先生の基本的な滅菌の考え方をHPから引用します
従来の以上の2つの条件を組み合わせて,それぞれ,滅菌物が必要かどうかを考えてみる.

              本質的に無菌の部位・組織 無菌でない部位・組織
使いまわされる器具・材料   滅菌が必要      滅菌が必要
使いまわされない器具・材料  滅菌が必要      滅菌は必ずしも必要でない

 ここでは滅菌は必ずしも必要ではないとしていますが、先生の論調としては必要ないという感じです。特に肛門、口>皮膚の順で滅菌は不必要と考えられます。歯科用手袋に関しては、すでに滅菌したものを使おうと、未滅菌のものを使おうと抜歯後の感染には差がないことがわかっています。同様にガーゼなども同じ結果になると思います。矯正に使われるワイヤーやゴム、結紮線、ブラケットなども滅菌の必要はないということです。麻酔をするときに歯茎を完全に消毒してから注射する歯科医は少ないと思いますが、とくにそこから感染したケースも知りません。使い回される器具のプライヤーやバーなどは患者—患者の交差感染の意味からも滅菌は必要ですので、夏井先生の考え方は十分に納得できます。

 歯科医院ではオートクレーブという高圧高温による滅菌器機が使われています。菌のなかには芽胞を作る細菌(破傷風、炭疽菌、ボツリヌス菌)のような100度の熱湯の中でも死なない細菌がいます。これを殺すためには180度以上あるいは高圧下で殺す必要があります。ここまできて初めてすべての殺菌が死んだ状態、滅菌になるのです。よく考えると炭疽菌、ボツリヌス菌などは細菌テロでなければ見かけない代物ですし、破傷風菌も土の中にはいても通常医院の中には存在しない菌です。強い菌を殺すには、人間も殺しかねないような強い状況(高温、高圧)や薬剤が必要です。グルタラールという劇薬は高い温度をかけられない器材の消毒に使われますが、大変な劇薬で、かなり薄めて排出しても海や川などの汚染につながるでしょうし、すすぎが不完全であれば接触性皮膚炎を起こす可能性もあります。一方、交差感染で問題になるのは肝炎やエイズなどので、これらは弱いウイルスで簡単に死にます。80-90度くらいのお湯でも死にます。飛躍して考えれば、歯科の感染対策としては、むしろ多量のお湯でよく洗う医療用の洗浄機の方が、排出物も含めて適しているかもしれません。

 夏井先生の考えは自身のHPにくわしく書かれていますので、お読みください。

   http://www.wound-treatment.jp/

2009年7月8日水曜日

新型インフルエンザ騒ぎ



 歯科医師会で医療管理を担当しているため、ここ2か月ほどは新型インフルエンザの対応に追われました。今でも終息したわけではありませんが、マスコミの報道も少なくなり、何となく落着いてきた感じがします。

 ずいぶん昔、大学でも医療感染対策班だったのですが、歯科医院で完全な医療感染対策をするのは不可能で、また非常に金のかかるという結論となりました。プライヤーやピンセットのような器具は何とかオートクレーブで滅菌でき、高温にできないゴム製品などもガス滅菌で対応できるのですが、けっこう多くの器材、材料が滅菌できないことが判明しました。また手袋、マスクはもちろん、白衣、帽子までディスポでするとなるとかなりの出費が必要です。歯科治療台(ユニット)の手で触る部分もすべてビニールで覆う必要もありますし、歯を削るタービンやエンジンも患者ごとに交換して、滅菌しなくてはいけません。また屋内の空気中の細菌、ユニット内の水の汚染、こういったこまごまとしてことを検討していくと、ノイローゼ気味になりそうです。

 一方、口の中は肛門と同様、最も汚れたところで、唾液に器材が触れた瞬間、すべて汚染されるので、あまり感染対策に一生懸命しても意味がないという意見もあります。唾液中1ml中の細菌数は1億から10億と言われ、皮膚などに比べれば、それこそ桁違いに汚染された場所です。ところが口腔内は体の中でも最も傷が治りやすいところで、歯を抜いてぽっかり穴が開いても、すぐに治ります。皮膚の傷なら毎日、消毒して、包帯もしますが、口の中の傷は何もしなくても治っていきます。当たり前のことですが、人では乳歯が抜けて、永久歯に交換しますが、その度にその傷が感染したのでは大変ですが、そんなことはありません。

 一時、肝炎やエイズの歯科医院での感染が騒がれました。キンバレー事件という有名な事件があり、エイズにかかった歯科医から6人の患者にエイズが感染したという事件ですが、その後の調査では、この歯科医とは関係ないことがわかっています(キンバリーさんは性交経験がなく、歯科治療以外エイズにかかる可能性はないと主張していましたが、その後の調査でセックス経験者のみが持つヒト乳頭種ウイルスが検出された)。またフランス外科医でエイズにかかりながら10年以上、1万人の手術をしたが、患者の中でエイズになったひとはいなかったようです。エイズに関しては医療者側から患者への感染例はないようですが、肝炎については1961—1986年の間に歯科では9名の感染報告があります。ただ1987年以降、ここ20年報告例はなく、知識の普及や手袋の着用などにより、医療者から患者への感染はないと言ってもよいようです。患者から患者への器械、器具を通じてのエイズ、肝炎の感染は報告されていません。タービン内に存在する緑膿菌が感染した2例がありますが、いずれも抗がん治療中で抵抗力の落ちた患者でした。今ではほとんどのタービンは内部の水を排出する仕組みになっており、こういった感染も防止できます。

 一方、患者から医療者への感染は非常に高率です。肝炎、エイズとも血液、体液で感染しますが、例えば唾液で感染するのはバケツ一杯ほど必要とされ、主な感染経路は血液感染です。患者の血液が細かな傷、針刺し事故で医療者側に感染する可能姓は高く、逆に医療者側が出血状態で治療を行い、それが患者に傷に入ることは可能性としては極めて低いと思います。当然、手袋をして治療するからです。また治療器具に血液についた菌が付着して、それが患者の傷に入り感染する可能性もかなり低いと思います。治療に使った治療器具をたらい回しに使うことはなく、水洗され、滅菌されるからです。

 報告されなかった症例もあると思われますが、全世界で日々多くの治療が行われていながら、報告例が皆無ということは、歯科医院での患者への感染は極めて低いと思われます。おそらく薬による重篤な副作用の方がよほど確率は高いと思います。

 実験上ではC型肝炎ウイルスは室温で3週間、B型肝炎ウイルスは8日間生きているといわれており、まだまだ悩みは尽きません。ただ感染の可能性のみを論じていけば、キリがなく、今回の新型インフルエンザでもそうですが、あらゆる場所、機会に感染の可能性があり、外に一歩も出られないことになります。

2009年7月7日火曜日

小林秀雄先生来る



 近所の紀伊国屋書店で新潮社「小林秀雄先生来る」(原田宗典著)を買いました。昨年、壱組印「小林秀雄先生来る」で公演されたものの舞台本ですが、正直に行ってあまりおもしろくありません。舞台で演じてこそおもしろいのですが、本で読むとそれほどおもしろさが伝わらないせいだと思います。青森の寒村に文学界の巨匠評論家の小林秀雄が来る、村人はどんな人かわからず、全く興味ない一方、文学好きの同士は驚喜してその訪問を緊張して迎える、このこっけいな有様がテーマーです。本当の小林先生が来たかどうかはわかりませんが。昔、鹿児島県のトカラ列島にヨットで現東京知事の石原慎太郎が来た時、島民は誰やあのいばった奴はと、水も食料も与えなかった話や、紀子さんのお父さんが宝島に蝶を捕りにきた時も変人が来たと無視した話を思い出します。

 サッカー部の友人の大谷薫平くんがこの壱組印のディレクターをしたりしていることと、舞台が青森の西海岸だったので思わず購入しました。薫平くんのお兄ちゃんの大谷亮介さんが舞台では小林秀雄を演じているようです。

 年に一度、私が日本臨床矯正歯科医会の総会に行く2月に東京在住のサッカー部の同級生に会うことにしています。もう4.5年になるでしょうか。毎年、スペシャルゲストで他のクラブの同級生を呼んでいますが、昨年はバスケットボール部のサントリーの横山くんにゲストで来てもらいプレミアムモルトの飲む方を教えてもらいました。あまりの熱の入れ方に横山くん自身が最後にはダウンしてしまいました。今年は、ボストンコンサルティングの御立くんに来てもらいました。御立くんは陸上部でしたが、お互い尼崎から学校に通っていたこともあり、入学早々メンチを切る間で、不思議な関係です。「御立の本は売れているようなので、薫平に関連した本を買った」。御立くんの経営の本はずいぶん売れています。「薫平、この前読んだ「小林秀雄先生来る」だが、ずいぶん青森の描き方がうまいなあ?」と聞くと、「壱組印のメンバーの中に青森の深浦のひとがいるからだよ」とのことでした。どおりで方言の使い方がうまいのが納得しました。薫平くんは広告会社を経営しているかたわら、兄の劇団の手伝いをしていますが、公演をやるたびに赤字で、できたら公演してほしくないとぼやいていました。弘前は演劇関係者にはよく知られたところのようで弘前劇場は有名なようです。お兄ちゃんの大谷亮介さんはサッカー部の先輩で、現役当時は本当に華麗でかっこいいプレーヤーでした。国体選手にも選ばれ、今だったらプロの選手になっていたかもしれません。ちょくちょくテレビにも出ています。できれば弘前でも一度公演してほしいと思いますが、また赤字になるのでしょうね。

 この歳になると、先生やさん付けされないちゃんや名で呼び合う仲間も少なくなりました。そういった意味で、高校の仲間と飲むのは本当に楽しい一瞬で、今は会社で偉くなったやつでも嬉々としてみんな焼酎を作っています。小津安二郎の映画にも同窓会のシーンがよくでてきますが、苙智衆がつい飲み過ぎになる気持ちがわかります。

2009年7月4日土曜日

藤田謙一 2




 前章で藤田が東奥義塾に寄付した岩木山麓の枯木平の農場についてふれた。一枚の写真がある。これは藤田農場を撮ったものだが、当時としては最新鋭のトラクターが写っている。かなり大規模に開墾された農場と思われる。

 写真左に小さな山があり、その向こうに岩木山が見渡せる。現在、枯木平という地名はないが、弘南バスで枯木平行きというのが残っている。岩木山西側の鯵ヶ沢町に接するところであろう。

 グーグルマップおよびグーグルアースから写っている小さな山は二ツ森と呼ばれる山だと推測される。画像は悪いが、グーグルアースで立体的にみても、ほぼこの写真と同じ光景が眺められる。周囲は平らな高原が続き、鯵ヶ沢に抜ける道がある。

 藤田が寄付した枯木平の土地は、山林原野が625町歩、水田が56町歩、畑が122町歩の合計803町歩の広大なもので、1町歩がほぼ1ヘクタールに相当し、ほぼ2.9km×2.9kmの大きさとなる。坪でいうと25万坪で、弘前市の旧市街地がすべて入る大きさである。途方もない広さである。

 昭和3年当時の金額見積もりで675.117円となっており、物価を換算すると現在の13.5億円となる(1円が今の2000円として)。

 農業のことは全くわからないが、200-300mの高台であり、開墾も大変で、とれる農作物も限られているであろう。冬の雪の量も半端でなく、また寒さも厳しく、ここで生活するのはきびしい。

 もともとこの枯木平の土地は、弘前藩の馬場であったようで、後に笹森儀助らが士族授産のため、明治14年に払い下げられた。農牧社が西洋式の牧場として開墾した。一時は牛馬などを飼育していたが、経営不振となり大正8年に藤田謙一に41000円で譲渡された。

 山林は戦後の農地解放の適用外だったと思うが、今はどこが所有しているのであろうか。私自身、車がないので現地を調査できないが、今でも牧場、農場として活用されているのであろうか。ここには東奥義塾によって建てられた藤田謙一頒徳碑があるようで、当時の作業小屋や管理用の建物は一部残っているかもしれない。くわしくは白梅学園の東喜望氏の論文がインターネット上で閲覧できるので参考にしてほしい(http://ci.nii.ac.jp/naid/110007045208/ 右プレビュー)。




より大きな地図で 藤田農場 を表示

2009年7月3日金曜日

藤田謙一 1



 先週、菖蒲の咲き頃ということで藤田記念庭園に行って来た。藤田記念庭園は日本商工会議所の初代会頭の藤田謙一の別邸である。ずいぶん立派な別邸と庭である。

 藤田謙一と言えば、弘前の偉人を語る上では欠かせない人物であるが、個人的にはどうも好きになれず、このブログでも紹介するのをためらってきた。富と名声のすべてを得た人物に対するひがみか、あるいは写真でみる冷たい表情か、どうも興味がもてない。世間では太宰治生誕100年で、様々なイベントが開催されているが、個人的には青森一の金持ちの息子の太宰よりは、貧乏なまま生涯をすごした葛西善蔵に引かれるのと同じ理由か。

 藤田謙一は明治六年(1873年)、弘前藩士明石永吉の次男として、弘前市五十石町23番地で生まれた。今の西堀、さくら並木に面したところで、細長い、小さな家である。明治維新後の士族の例にもれず、かなり困窮した生活を送っていたようだ。子どものいない親類の藤田正三郎に請われ、12歳で藤田の家に養子に入り、藤田姓となった。

 明治13年には自疆小学校(後に城西小学校)に入学、その後弘前高等小学校を卒業すると、東奥義塾中学科年生の編入試験を受けるも、数学で失敗して、1年生として入学した。ただ学費が続かず、結局は2年間でここを退学した。その後、青森県庁の職員になったが、飽き足らず明治24年に上京して明治法律学校(明治大学)に入学した。ここでは優秀な成績であったが、明治27年卒業して受けた判事、弁護士試験には失敗した。明治32年には、大蔵省専売局に勤務した。当時、政府はタバコの専売制を計画しており、外国タバコを輸入して、安い値段で販売し、既存のタバコ業界をつぶす計画をもっていた。大手のタバコ販売会社岩谷商会の「天狗煙草」もたちまち、危機に陥り、高給(200円)をもって専売局の藤田を迎え入れ、会社の立て直しを図った。法律の知識と専売局の経験を生かし、たちまち立て直しに成功し、ここの専務取締役になったのが、藤田の実業家のスタートとなった。現役の役人が天下りし、最終的に国が専売化を行う際には当初より莫大に費用がかかっている訳であるから、現在では相当問題があろう。

 その後、企業の再建のプロとして活躍し、小栗商会、台湾製塩会社、南樺太石油、日活など60社以上の会社の経営を担当した。昭和3年には第5代東京商工会議所会頭、さらには初代日本商工会議所会頭に選ばれ、スイスのジュネーブで開催された第11回国際労働総会に日本代表として出席した。

 ここまでが藤田の絶頂期で、1929年(昭和4年)には、天皇即位礼の叙勲で、実業家から賞勲局総裁が賄賂をもらったとする売勲事件に連座して失脚する。その後、貴族院議員も辞職して表舞台から姿を消した。

 藤田の三男謙友の書いたとされる藤田謙一の「幻のユダヤ満州共和国建国構想」がブログで公開されているが
(http://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_he/a6fhe400.html)、上京したのが16歳だとか、孫文との関係とか、かなり事実とは異なり、あまり信用できない。

 藤田は若い頃学費で苦しんだことから育英事業に精力を傾けるとともに、地元弘前にも私財を惜しげもなく投資し、大正10年には官立弘前高等学校が出来た時には1万円の寄付、また大正13年には義塾の中学校資格基本金のために1万円、昭和3年には岩木山山麓枯木平の土地、通称藤田農場を東奥義塾に寄付、大正12年には11万4000円を寄付して公会堂を建築(弘前市の負担は3万円)するなど、惜しげもなく自分の財産を寄付していった。ただ笹森儀助、山田兄弟、本多庸一、珍田捨巳、笹森順造、一戸兵衛などこのブログでこれまで紹介してきた人物との接点は、私の調査不足のせいかもしれないが、あまり見当たらない。大正9年の珍田伯歓迎会が東京で行われ、青森県出身の著名人がほとんど集まったが、藤田の名前はない。やや疎まれていたのかもしれない。公会堂もすでになく、死の間際まで「枯木平の土地を売却せず保存するように」と気にしていた藤田農園もどうなったであろう。

 藤田が弘前市に寄贈した記念庭園を見ると、お城の隣にあれだけ立派で金のかかった建物を別邸として建てる当時の藤田の財力を見せつけられる思いである。建物の中に黒石の鳴海酒造の庭で後藤新平らとともに写っている写真があった。後藤新平も菊池九郎、山田純三郎、藤田謙一など青森県人との関連は深い。