2009年7月25日土曜日

藤田謙一3




 弘前商工会議所により昭和63年に発刊された「藤田謙一」を読む。

 伝記なので、当然藤田謙一の生涯を称賛したものであるが、もうひとつ歯切れが悪い。確かに多くの寄付を行い、津軽の発展に貢献したことは間違いないのだが、藤田を知る人々にとってもあまりよくわからない人物であったようである。自分の子どもさえも、父親は忙しく、あまり会うことはなく、晩年になるまでどんな考えをしているか十分にわからなかったようだし、後年、精力を傾けた育英事業による学生も、貧しい環境で高等教育を受けられた恩恵を感謝するものの、藤田そのものとの接触は少なく、追悼文においても藤田の人間性に触れるものは少ない。

 藤田は大正、昭和期の成金との評価もあり、一代で巨万の富を築き、冤罪といってもいい事件で一気に転落した人生は成金の典型的な例であろう。貴族院の選挙では今で言う数億円の金をばらまくなど、会社経営や事業などでもかなり強引な方法をとったものと思われるし、敵も多かったようだ。貴族院選挙中、友人に「胡座で金を使わず一票頂けるのは貴兄位のものだ」開口一番の挨拶でいい、一票今の1000万円で買い回るやり方は褒められたものではない。選挙の競争相手に「この藤田と在ゴのアンサマ達を対手の駆け引きする心算では話しにナランヨ」と平気に言い放つ藤田の無神経さは、金をもらうのはありがたいが、それほど感謝しない人も弘前に多かったと思われる。藤田が寄贈した弘前公会堂も昭和32年には取り壊されることになった。商工会議所から壊さないで保存してほしいとの要望もあったが、それほど大きな声にならなかったのは藤田のこういった性格によるかもしれない。名前が残る藤田記念庭園にしても、藤田が亡くなった後、弘前相銀の唐牛氏に売却され、その後弘前市に売られたもので、藤田が市に寄贈したものではない。

 孫文への援助や内モンゴルの徳王への支援なども、かなり軍部や政府の意向に沿うもので、金銭的、生活的援助など以外はあまり濃厚な関係はなさそうであり、昭和14年に発行された藤田著の「世界平和への道」でも当時の帝国主義的な考えから抜け出していない。さらにモンゴルの徳王の支援やその子トガルソロン王を自宅に居住させ、モンゴルの民族主義に共感したとされるが、近著「ノモンハン戦争 モンゴルと満州国」(田中克彦 岩波新書)で述べられているような外モンゴルと内モンゴル、ソ連との関連などの複雑な民族状況を当時理解しているとは言えない。同じように中国問題にしても汪兆銘政府を支持しており、あくまで政府、軍部の見解を超えるものでない。

 「われわれは他者の人生に意味を与えることはできませんーわれわれが彼に与えることのできるもの、人生の旅の餞として彼に与えることができるもの、それはただひとつ、実例、つまりわれわれのまるごと存在という実例だけであります。というのは、人間の苦悩、人間の人生の究極的意味への問いに対しては、もはや知的な答えはあり得ず、ただ実存的な答えしかあり得ないからです。われわれは言葉で答えるのではなく、われわれの現存在そのものが答えです。」(ヴィクトル・フランケル 「意味への意志」、 宮本輝著「骸骨ビルの庭」から孫引き この本の最後の方で私の好きな弘前の地酒「豊盃ほうはい」がまるやかでうまいとの記述があります。)

藤田は確かに偉大な事業家で、金持ちだったが、その心、精神の師を幼少期、青年期の持たなかったのが不幸であったかもしれないし、藤田自身も師とはなれなかったようだ。どうも藤田謙一という人物は好きになれない。

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